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| 画像= Emperor Godaigo.jpg
| 画像幅= 250px
| 説明= [[文観]]開眼『[[絹本著色後醍醐天皇]]』([[清浄光寺]]蔵、[[重要文化財]])
| 在位= [[1318年]][[3月29日]] - [[1339年]][[9月18日]]
| 和暦在位期間 = [[文保]]2年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]] - [[延元]]4年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]
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| 父親= [[後宇多天皇]]
| 母親= [[五辻忠子]]
| 中宮皇后= [[西園寺禧子]](後京極院)<br />[[じゅん子内親王中宮]]→[[皇太后|珣子内親王皇太后宮]](新室町、後京極院)
| 中宮= [[珣子内親王]](新室町院)
| 女御= [[二条栄子]]
| 子女=
一宮{{efn|name="princes-birth-order"|後醍醐天皇皇子のうち、上の三人の長幼について、定説では[[尊良親王]]を一宮(第一皇子)とし、その次に[[世良親王]]、[[護良親王]]と続く。しかし、護良親王を一宮とする説もある。詳細は[[尊良親王#誕生]]および[[護良親王]]を参照。}}:[[尊良親王]]([[中務卿]]、[[一品親王]]、[[上将軍]])<br/>
二宮?:[[世良親王]]([[大宰帥]])<br/>
三宮?:[[護良親王]]([[天台座主|座主]]、[[征夷大将軍]])<br/>
四宮:[[宗良親王]](座主、征夷大将軍)<br/>
五宮:[[無文元選恒良親王]](聖鑑国師[[皇太子]])<br/>
六宮:[[良親王]]([[皇太子]]征夷大将軍)<br/>
[[成七宮:'''義良親王'''(皇太子、'''[[後村上天皇]](征夷大将軍''')<br/>
'''義八宮:[[懐良親王''']]皇太子[[征西大将軍]]'''[[後村上天皇明朝]][[日本国王]]''')<br/>
[[懐良親王]]([[征西大将軍]]、[[明朝]][[日本国王]])<br/>
[[満良親王]]<br/>
[[懽子内親王]]([[伊勢神宮]][[斎宮]])<br/>
[[祥子内親王]](最後の伊勢神宮斎宮)
[[#后妃・皇子女|他多数]]
| 皇居= 二条富小路内裏<br/>[[吉野行宮]]
| 親署= Go-Daigo Takaharu.png
| 注釈= [[治天の君|治天]]は[[元亨]]元年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]以降{{sfn|森|2012|loc=第2章第1節}}([[1321年]][[12月28日]])
}}
'''後醍醐天皇'''(ごだいごてんのう、[[1288年]][[11月26日]]〈[[正応]]元年[[11月2日 (旧暦)|11月2日]]〉 - [[1339年]][[9月19日]]〈[[延元]]4年/暦応2年[[8月16日 (旧暦)|8月16日]]〉)は、[[日本]]の第96代[[天皇]]および[[南朝 (日本)|南朝]]初代天皇(在位:[[1318年]][[3月29日]]〈[[文保]]2年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]〉 - [[1339年]][[9月18日]]〈延元4年/暦応2年[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]〉{{efn|ただし、本文で記述するとおり、歴史的事実[[持明院統]]=[[北朝 (日本)|北朝]]側の主張としては在位途中に2度の[[廃位]]と[[譲位]]を経ている。}}、治天:[[1321年]][[12月28日]]〈[[元亨]]元年[[12月9日 (旧暦)|12月9日]]{{sfn|森|2012|loc=第2章第1節}}〉 - 1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉)。[[諱]]は'''尊治'''(たかはる)。
 
[[大覚寺統]]の天皇。[[元弘の乱]]で[[鎌倉幕府]]を倒して[[建武の新政|建武新政]]を実施したものの、間もなく[[足利尊氏]]との戦い[[建武の乱]]に敗れたため、[[大和国|大和]][[吉野]]へ入り、[[南朝 (日本)|南朝]]政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の[[室町幕府]]が擁立した[[北朝 (日本)|北朝]]との間で、[[南北朝の内乱]]が勃発した。
 
日本史上最も偉大な統治者の一人であると、[[室町幕府]]初代[[征夷大将軍]]の[[足利尊氏]]および[[南朝 (日本)|南朝]][[准三宮]]の[[北畠親房]]から見なされた。事実、室町幕府および南朝の政策は、[[建武政権]]の政策を多く基盤としている。特に重大なのは、氏族支配による統治ではなく、土地区分による統治という概念を、日本で初めて創り上げたことである{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。裁判機構に一番一区制を導入したり{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}、形骸化していた国や郡といった地域の下部機構を強化することで統治を円滑にする手法は{{sfn|伊藤|1999|pp=101–103}}、建武政権以降の全国政権の統治制度の基礎となった{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。その他には、土地の給付に[[強制執行]]を導入して弱小な勢力でも安全に土地を受け取ることができるシステムを初めて全国的・本質的なものにしたこと([[高師直]]へ継承){{sfn|亀田|2013}}、[[官位]]を[[恩賞]]として用いたこと{{sfn|花田|2016|pp=199–200}}、武士に初めて全国的な政治権力を与えたこと、[[陸奥将軍府]]や[[鎌倉将軍府]]など地方分権制の先駆けでもあること{{sfn|伊藤|1999|pp=85–100}}などが挙げられる。
主著に『[[建武年中行事]]』がある。[[宸翰様]]を代表する能書帝で、『[[後醍醐天皇宸翰天長印信(ろう牋)|後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)]]』([[文観|文観房弘真]]との合作)等3点の書作品が[[国宝]]に指定されている。親政中の[[勅撰和歌集]]は『[[続後拾遺和歌集]]』(撰者は[[二条為定]])。
 
学問・芸術の天才と評され、[[宋学|儒]]・[[有職故実|礼]]・[[密教|密]]・[[禅宗|禅]]・[[律宗|律]]・[[神道|神]]・[[書道|書]]・[[和歌|歌]]・[[源氏物語#歴史的注釈書|文]]・[[雅楽|楽]]・[[茶道|茶]]の全分野で記念碑的業績を残した。宋学最大の研究者の一人。また、[[有職故実]]の代表的研究書『[[建武年中行事]]』を著した。父の[[後宇多天皇|後宇多上皇]]と同様に[[真言密教]]の庇護者で[[阿闍梨]](師僧)の位を持っていた。[[禅庭]]の完成者である[[夢窓疎石]]を発掘したことは、以降の日本の文化・美意識に根源的な影響を与えた。[[伊勢神道]]を保護し、後世の神道に思想的影響を与えた。[[宸翰様]]を代表する能書帝で、『[[後醍醐天皇宸翰天長印信(ろう牋)|後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)]]』([[文観|文観房弘真]]との合作)等3点の書作品が[[国宝]]に指定されている。[[二条派]]の代表的歌人で、親政中の[[勅撰和歌集]]は『[[続後拾遺和歌集]]』(撰者は[[二条為定]])。『[[源氏物語]]』の優れた研究者。[[琵琶]]の名手で神器「[[玄象]]」の奏者であり、[[笙]]の演奏にも秀でていた。[[茶道]]の前身を始めた大茶人の一人でもある。
 
情愛深く温和な人柄のために広く慕われ、不運が幾つも重なって結果的に敵同士になってしまった尊氏からも生涯敬愛された。多くの局面において対立を好まず、融和路線を志向した。[[真言律宗]]の名僧で、[[ハンセン病]]患者などの救済に生涯を尽くした[[忍性]]を再発見、生ける[[菩薩]]として深く崇敬し、「忍性菩薩」の諡号を贈って称揚した。また、[[文観|文観房弘真]]らを通じて、各地の律宗の民衆救済活動に支援をした。正妃である[[中宮]]の[[西園寺禧子]]は才色兼備の勅撰歌人で、稀に見るおしどり夫婦として当時名高く、『[[増鏡]]』終盤の題材の一つとなっている。
 
崩御から30年後ごろに[[北朝 (日本)|北朝]]で完成した[[軍記物語]]『[[太平記]]』では、好戦的で執念深い独裁的暗君として描かれた。この人物像は1960年代の[[佐藤進一]]の学説や1980年代の[[網野善彦]]の「異形の王権」論を通して、高校教科書等にも定着した。一方、佐藤の研究を契機として、[[森茂暁]]らによって実証的研究が積み重ねられた。こうした中、20世紀末、[[市沢哲]]は、建武政権の政策には、鎌倉時代後期の朝廷政治と連続が見られると指摘した。また、[[伊藤喜良]]は、建武政権は短命に終わったとはいえ、その内部での改革には現実的な発展が見られると指摘した。2000年代には、[[内田啓一]]が[[仏教美術]]・[[仏教学]]的見地から、網野の「異形の王権」論に反駁した。市沢・伊藤・内田らの説を基盤として、2000年代から2010年代にかけて研究が進められた結果、鎌倉時代後期の朝廷および幕府・建武政権・室町幕府の政策には連続性があることが確かめられた。2020年時点での新研究の範囲においては、建武政権の崩壊は偶発的事象の積み重ねによるもので必然ではなく、後醍醐は高い内政的手腕を持ち、また人格的にも優れた人間であったと評されるようになった。
 
== 生涯 ==
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=== 即位 ===
[[ファイル:Gekko Emperor Godaigo.jpg|thumb|250px|『後醍醐天皇図』]]
[[徳治]]3年([[1308年]])に[[持明院統]]の[[花園天皇]]の即位に伴って[[皇太子]]に立てられ、[[文保]]2年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]([[1318年]][[3月29日]])花園天皇の[[譲位]]を受けて31歳で[[践祚]]、[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]([[4月30日]])に[[即位]]。30代での即位は[[1068年]]の[[後三条天皇]]の36歳での即位以来、250年ぶりであった。即位後3年間は父の後宇多法皇が[[院政]]を行った。後宇多法皇の遺言状に基づき、はじめから後醍醐天皇は兄[[後二条天皇]]の遺児である皇太子[[邦良親王]]が成人して皇位つくま次ぐ系統([[河内祥輔]]の表現の中継ぎは「准直系」)して位置けられていた。「中継ぎ」「一代の主」というきわめて脆弱な立場だっという旧説もあるが自己の子孫に皇位を継がせるとを否定さた後醍醐天皇不満を募らせ、後宇多法対立の皇位継承計画を承認し保障してい統である[[鎌倉幕府持明院統]]由来反感文書しか見られず、そこまで弱い立場ではてゆくたようである。[[元亨]]元年([[1321年]])、後宇多法皇は院政を停止して、後醍醐天皇の[[親政]]が開始される。これには、後宇多が傾倒していた[[真言宗]]の修行に専念したかったという説(『増鏡』「秋のみ山」から続く有力説){{sfn|中井|2020|pp=28–29}}や、後醍醐・邦良による大覚寺統体制を確立させて、持明院統への完全勝利を狙ったとする説(河内説){{sfn|河内|2007|pp=332–333}}などがある。いずれにせよ、前年に邦良親王に男子([[康仁親王]])が生まれて邦良親王への皇位継承の時機が熟したこの時期に後醍醐天皇が実質上の[[治天の君]]となったこと大きな謎、後宇多から後醍醐への信任があったからだ考えらてい{{sfn|河内|2007|pp=332–333}}{{sfn|中井|2020|pp=28–29}}
 
=== 倒幕計画正中の変 ===
[[ファイル:Emperor Godaigo02.jpg|thumb|300px|『[[太平記絵巻]]』第2巻(山中をさまよう後醍醐天皇)<br>[[埼玉県立歴史と民俗の博物館]]蔵]]
{{seealso|正中の変}}
[[正中 (元号)|正中]]元年([[1324年]])、後醍醐天皇鎌倉幕府打倒計画が発覚たという嫌疑をかけられ、[[六波羅探題]]が天皇側近[[日野資朝]]を処分する[[正中の変]]が起こる。この変公式判決では、幕府は後醍醐天皇に何の処分も無罪となかって釈放された。天皇軍記物語『太平記』でその実は裏でも密かに醍醐は倒幕を計画、[[醍醐寺]]の[[文観]]や[[法勝寺]]の[[円観]]などの僧を近習に近づけ、[[元徳]]2年(1329年)には[[中宮]]の御産祈祷ていた描かれており通説化して密かに関東調伏の祈祷を行、[[興福寺]]や[[延暦寺]]など南都・叡山の寺社に赴いて寺社勢力と接近する(だし有力権門である[[西園寺家]]所生の[[親王]]2000年代から後醍醐邦良親王系本当対抗する有力な皇位継承者になり得るため、際に御産祈祷が行われていだっ可能性もある)。大覚寺統に仕える[[貴族]]たちはももと邦良親王を支持する者が大多数であり、持明院統や幕府見解基本的徐々彼らを支持したため、後醍醐天皇は次第されるよう窮地に陥ってゆく。そし邦良親王が病で薨去したあと、持明院統の嫡子量仁親王が幕府の指名で皇太子に立てられ、譲位の圧力はっそう強まった
 
その後、[[嘉暦]]元年([[1326年]])6月からおよそ3年半余り、[[中宮]]である[[西園寺禧子]]への御産祈祷が行われた{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。主たる理由としては、仲睦まじい夫婦であるのに、子宝に恵まれないことを夫妻が心情的に不満に思ったことが挙げられる{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。特にこのタイミングで行われたことに関しては、3か月前である同年3月に後醍醐のライバルである邦良が急逝したため、有力権門である[[西園寺家]]所生の[[親王]]が誕生すれば、邦良親王系に対抗する有力な皇位継承者になり得ると考えたためとも推測されている([[河内祥輔]]説){{sfn|河内|2007|p=336}}。なお、『太平記』では安産祈祷は幕府調伏の偽装だったと描かれているが、この説は2010年代後半時点でほぼ否定されている([[西園寺禧子#『太平記』]])。
 
邦良薨去後は、後醍醐一宮(第一皇子)の[[尊良親王]]ら4人が次の皇太子候補者に立ったが、最終的に勝利したのは持明院統の嫡子量仁親王(のちの[[光厳天皇]])だったため、譲位の圧力は強まった。
 
=== 元弘の乱 ===
{{main|元弘の乱}}
[[元弘]]元年([[1331年]])、再度の倒幕計画が側近[[吉田定房]]の密告により発覚し身辺に危険が迫ったため急遽京都脱出を決断、[[三種の神器]]を持って挙兵した。はじめ[[比叡山]]に拠ろうとして失敗し、[[笠置山 (京都府)|笠置山]](現[[京都府]][[相楽郡]][[笠置町]]内)に籠城するが、圧倒的な兵力を擁した幕府軍の前に落城して捕らえられる。これを[[元弘の乱]](元弘の変)と呼ぶ。
 
幕府は後醍醐天皇が京都から逃亡するとただちに廃位し、皇太子量仁親王([[光厳天皇]])を即位させた。捕虜となった後醍醐は、[[承久の乱]]の先例に従って謀反人とされ、翌元弘2年 / [[正慶]]元年([[1332年]])[[隠岐島]]に流された。この時期、後醍醐天皇の皇子[[護良親王]]や[[河内国|河内]]の[[楠木正成]]、[[播磨国|播磨]]の[[赤松則村]](円心)ら反幕勢力([[悪党]])が各地で活動していた。このような情勢の中、後醍醐は元弘3年 / 正慶2年([[1333年]])、[[名和長年]]ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、[[伯耆国|伯耆]][[船上山]](現[[鳥取県]][[東伯郡]][[琴浦町]]内)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された[[足利尊氏|足利高氏]](尊氏)が後醍醐方に味方して六波羅探題を攻略。その直後に東国で挙兵した[[新田義貞]]は鎌倉を陥落させて[[北条氏]]を滅亡させる。
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=== 足利尊氏との対立 ===
{{main|建武の乱}}
[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])、北条氏残党の[[北条時行]]が起こした[[中先代の乱]]の鎮圧のため勅許を得ないまま東国に出向いた足利尊氏が、乱の鎮圧に付き従った将士に[[鎌倉]]で独自に恩賞を与えた。これを新政からの離反と見なした後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じ、義貞は[[箱根・竹ノ下の戦い]]では敗れるものの、[[京都]]で楠木正成や[[北畠顕家]]らと連絡して足利軍を破った。尊氏は[[九州]]へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、光厳上皇の[[院宣]]を得たのちに再び京都へ迫る。楠木正成は後醍醐天皇に尊氏との和睦を進言するが後醍醐天皇はこれを退け、義貞と正成に尊氏追討を命じた。しかし、新田・楠木軍は[[湊川の戦い]]で敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れた。
 
『梅末論』によれば、このとき、楠木正成は勝利した側であるにも関わらず、後醍醐天皇に尊氏との間の早期講和を進言した。しかし、公家たちから退けられた。ただし、この時点では尊氏本人すら敗北必至だと思っており、正成の先見の明を示す逸話であっても、後醍醐や公家たちが足利方に比べて戦略眼がなかったという訳ではないことに注意する必要がある。
 
尊氏は[[九州]]へ落ち延びるが、翌年に九州で態勢を立て直し、光厳上皇の[[院宣]]を得たのちに再び京都へ迫った。しかし、新田・楠木軍は[[湊川の戦い]]で敗北し、正成は討死し義貞は都へ逃れた。
 
=== 南北朝時代 ===
{{main|南北朝の内乱}}
足利軍が入京すると後醍醐天皇は比叡山に逃れて抵抗するが、足利方の和睦の要請に応じて[[三種の神器]]を足利方へ渡し、尊氏は光厳上皇の院政のもとで持明院統から[[光明天皇]]を新天皇に擁立し、[[建武式目]]を制定して幕府を開設する(なお、[[太平記]]の伝えるところでは、後醍醐天皇は比叡山から下山するに際し、先手を打って[[恒良親王]]に譲位したとされる)。廃帝後醍醐は幽閉されていた[[花山院]]を脱出し、尊氏に渡した神器は贋物であるとして、[[吉野]](現[[奈良県]][[吉野郡]][[吉野町]])に自ら主宰する[[朝廷]]を開き、京都朝廷([[北朝 (日本)|北朝]])と吉野朝廷([[南朝 (日本)|南朝]])が並立する[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]が始まる。後醍醐天皇は、[[尊良親王]]や[[恒良親王]]らを新田義貞に奉じさせて北陸へ向かわせ、[[懐良親王]]を[[征西将軍]]に任じて[[九州]]へ、[[宗良親王]]を東国へ、[[後村上天皇|義良親王]]を[[陸奥国|奥州]]へと、各地に自分の皇子を送って北朝方に対抗させようとした。しかし、劣勢を覆すことができないまま病に倒れ、[[延元]]4年 / [[暦応]]2年([[1339年]])[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]、奥州に至らず、吉野へ戻っていた義良親王(後村上天皇)に譲位し、翌日、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言して[[崩御]]した。享年宝算52(満50歳没)。
 
[[摂津国]]の[[住吉行宮]]にあった後村上天皇は、南朝方の[[住吉大社]]の宮司である[[津守氏]]の[[荘厳浄土寺]]において後醍醐天皇の大法要を行う。また、尊氏は後醍醐天皇を弔い、京都に[[天竜寺]]を造営している。
 
== 人物 ==
=== 容姿 ===
後醍醐を直に見たことがあると思われる『[[増鏡]]』作者の貴族([[二条良基]]など諸説あり)は、天皇である後醍醐自身の容姿については余り直接語らない。『増鏡』作者は、後醍醐の逸話を[[光源氏]]になぞらえて叙述する傾向が多いが(『増鏡』「秋のみ山」「久米のさら山」等)、これはどちらかといえば[[王朝物語|王朝文学]]の雰囲気を出すためかともいう{{sfn|井上|1983b|pp=67, 274–277, 280–284}}。
 
血族に関して言えば、後醍醐の長男である[[尊良親王]]は「ふりがたくなまめかし」(以前のまま優美である)と、流浪の身にあっても容姿に衰えのない美男子であると明言されている(『増鏡』「久米のさら山」){{sfn|井上|1983b|p=262}}。次男の[[世良親王]]もまた「いときらきらし」(端正な美形)だったという(『増鏡』「春の別れ」){{sfn|井上|1983b|p=156}}。尊良と世良、および親族の[[恒明親王]]の三人は一緒にいることが多かったが、三人が後醍醐の後ろに並んで歩く姿にさぞや若い女官たちは色めきだったのではないか、と『増鏡』作者は推測している(『増鏡』「春の別れ」){{sfn|井上|1983b|p=163}}。
 
=== 家族思い ===
後醍醐天皇は家族思いの人であり、家族間の交流を常に欠かさず、そのため強く慕われていた。
 
正妃である[[中宮]]・[[西園寺禧子]]とは小説的な逃避行で結ばれた仲であり、二人の熱愛と夫婦仲の睦まじさは『[[増鏡]]』などで名高い{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。
 
かといって、側室も蔑ろにした訳ではなく、禧子に次ぐ寵姫だった[[阿野廉子]]は、後醍醐への追悼を詠んだ和歌が『[[新葉和歌集]]』に3首入集している{{sfn|正宗|1937|p=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755/246 209]}}。
 
第一皇子の[[尊良親王]]には、[[中務卿]]など政界の重職での経験を積ませ、節会に出仕させるなど、自分自身の親王時代と同じキャリアを歩ませている{{sfn|中井|2020|pp=30–31}}。落選こそしてしまったものの、皇太子候補選に推挙したこともある{{sfn|中井|2020|pp=30–31}}。
 
第二皇子の[[世良親王]]は、後醍醐が出御する時の御供として側に置くことが多かった{{sfn|中井|2020|pp=30–31}}。[[嘉暦]]3年([[1328年]])10月9日には、[[関白]]の[[二条道平]]に頼み、世良が[[議奏]]という重要な公務を行うのを支えて欲しいと言い、当日、世良が公務を大過なく果たしたのを見ると、後醍醐は上機嫌になったという(『道平公記』){{sfn|中井|2020|pp=30–31}}。[[日本史]]研究者の[[中井裕子]]は、「息子の成長を喜ぶ父親の顔が目に浮かぶようである」と評している{{sfn|中井|2020|pp=30–31}}。
 
子どもたちとの関係で最も争点となるのは、第三皇子の[[護良親王]]との関係である。結果論で見ると、護良は建武政権から排斥された上に、若くして[[中先代の乱]]の混乱で[[足利直義]]の部下に暗殺されたという悲劇性のために、多く後醍醐が悪玉と描かれ、護良は父から嫌われた悲運の子とされる説もある([[新井孝重]]の著書{{sfn|新井|2016|p=231}}など)。しかし、[[亀田俊和]]の説によれば、実際は父子間の愛情は決して弱くはなかったという{{sfn|亀田|2017|pp=76–77}}。そもそも、護良は征夷大将軍に正式に補任される前から将軍を僭称し、綸旨(天皇の命令文)と矛盾する令旨(皇族の命令文)を乱発し、足利尊氏に公然と敵対し、また私兵を勝手に京都に駐留させたりしている{{sfn|亀田|2017|pp=76–77}}。客観的に見れば、たとえ[[元弘の乱]]最大の殊勲者の一人であったとしても、即刻、粛清されても仕方ない行為である{{sfn|亀田|2017|pp=76–77}}。「護良が失脚したのは、後醍醐が護良を嫌っていたから」と解釈するよりも、むしろ「護良が1年数か月も失脚せずにいられたのは、後醍醐から護良への温情があったから」と解釈する方が妥当であろうという{{sfn|亀田|2017|pp=76–77}}。では何故このように、護良が問題行動を起こしたのかというと、身内でもない上に武士であるのに父からの寵愛を一身に集める尊氏を見て、尊氏への嫉妬心を起こしたのではないか、と亀田は推測している{{sfn|亀田|2017|pp=76–77}}。
 
正妃の禧子との皇女である[[懽子内親王]]については、[[元徳]]3年([[1331年]])[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]、[[元弘の乱]]で幕府に捕縛されてから[[笠置山の戦い]]を起こすまでという緊迫した時期にもかかわらず、娘のためにわざわざ時間をとって[[伊勢神宮]][[斎宮]]の儀式の一つである[[野宮]](ののみや)入りの手続きを行っている(『増鏡』「久米のさら山」){{sfn|井上|1983|pp=198–199}}。この時期に懽子が野宮入りしたことについて、[[井上宗雄]]によれば、挙兵前に娘の大事な儀式を完了しておきたかったのではないかという{{sfn|井上|1983|pp=198–199}}。懽子は[[光厳天皇|光厳上皇]]妃だったにもかかわらず、26歳で出家しているが、[[安西奈保子]]の推測によれば、時期的に父の崩御を悼んでのものだったのではないか、という{{sfn|安西|1987|pp=139–141}}。
 
父の[[後宇多天皇|後宇多上皇]]とは、かつては仲が悪いとする説があった{{sfn|中井|2020|p=12}}。しかし、その後、訴訟政策や宗教政策などに後宇多からの強い影響が指摘され、改めて文献を探ったところ、心情的にも父子は仲が良かったと見られることが判明したという{{sfn|中井|2020|pp=16–31}}。[[正親町三条実躬|三条実躬]]の『実躬卿記』では、徳治2年([[1307年]])1月7日の[[白馬節会]]で同じ御所に泊まったのをはじめ、この頃から父子は一緒に活動することが多くなり、蹴鞠で遊んだ記録などが残っている{{sfn|中井|2020|pp=16–31}}。特に父子の愛情を示すのが、後宇多の寵姫だった[[姈子内親王|遊義門院]]が危篤になった時で、石清水八幡宮への快癒祈願の代参という大任を尊治(後醍醐)が任された{{sfn|中井|2020|pp=19–20}}。尊治は途上で遊義門院崩御の知らせを聞いたが、それにも関わらず父の期待に応えたいと思い、引き返さずに石清水八幡宮に参拝したという{{sfn|中井|2020|pp=19–20}}。後宇多の命で帝王学の書である『[[群書治要]]』を学んだりもしたところを見ると、政治の枢要に尊治(後醍醐)を置きたかったのではないかという{{sfn|中井|2020|pp=18–19}}。
 
母の[[五辻忠子]]には、[[践祚]]わずか2か月後に[[女院]]号の「談天門院」を贈り、自身の出世を支えてくれた母を労っている{{sfn|森|2000|loc=§2.1.3 母談天門院藤原忠子のこと}}。
 
祖父の[[亀山天皇|亀山上皇]]からは、母の忠子が後に亀山のもとに身を寄せたこともあって可愛がられており、亀山の崩御まで庇護を受けていた{{sfn|中井|2020|pp=15–18}}。最晩年の亀山に子の[[恒明親王]]が生まれてそちらに寵が移ったあとも、亀山は後醍醐のことを気にかけており、忠子と後醍醐に邸宅や荘園などの所領を残している{{sfn|中井|2020|pp=15–18}}。
 
同母姉である[[奨子内親王]](達智門院)とは、20歳前後のころから『増鏡』「さしぐし」で和歌を贈り合う姿が描かれるなど、仲良し姉弟として当時から知られていた{{sfn|安西|1987|pp=133–139}}。後醍醐が即位すると、非妻后の[[皇后]]に冊立されている{{sfn|安西|1987|pp=133–139}}。その後もたびたび和歌のやり取りをしたことが、『[[続千載和歌集]]』『[[新千載和歌集]]』などに入集している{{sfn|安西|1987|pp=133–139}}。『[[新葉和歌集]]』では後醍醐を追悼する和歌が2首収録されている{{sfn|安西|1987|pp=133–139}}。
 
家族で唯一、大覚寺統正嫡で甥の[[邦良親王]]およびその系統とは仲が悪かった。中井の推測によれば、天皇として着々と実績を積んでいく後醍醐に、邦良の側が焦ったのではないか、という{{sfn|中井|2020|pp=29–30}}。また、後醍醐の乳父である[[吉田定房]]と邦良派の[[中御門経継]]は犬猿の仲だったため(『花園天皇宸記』[[元応]]元年([[1319年]])10月28日条)、廷臣同士のいがみ合いが争いを加速させてしまった面もあるのではないか、という{{sfn|中井|2020|pp=29–30}}。
 
『増鏡』作者は、[[恒明親王]](後醍醐祖父の[[亀山天皇|亀山上皇]]の最晩年に生まれた子)も後醍醐と交流が深く、特に後醍醐の子である尊良・世良と一緒にいることが多かったと描いている(『増鏡』「春の別れ」){{sfn|井上|1983b|p=163}}。実際、恒明派から世良を通じて後醍醐派に転じた廷臣も多く、[[北畠親房]]はその代表例である{{sfn|亀田|2017|p=22}}。
 
血縁だけではなく、妻方の家族とも交流があった。中宮禧子の父の[[西園寺実兼]]や同母兄の[[今出川兼季]]から琵琶を学び、その名手だった{{sfn|森|2000|loc=§5.2.3 音楽・楽器への関心}}。また、側室の[[二条為子]]の実家である[[二条派]]に学び、その代表的歌人でもある{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。
 
=== 公務時間と訴訟制度への関心 ===
『[[太平記]]』流布本巻1「関所停止の事」では、即位直後・[[元弘の乱]]前の逸話として、下々の訴えが自分の耳に入らなかったら問題であると言って、[[記録所]](即位直後当時は紛争処理機関{{efn|後醍醐天皇即位前後の記録所は、朝廷の問題から土地に関する民事まで幅広い訴訟に対応した。}})に臨席し、民の陳情に直に耳を傾け、訴訟問題の解決に取り組んだという描写がされている<ref name="taiheiki-1-sekisho-choji-no-koto">{{Harvnb|博文館編輯局|1913|pp=[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211/11 3–4]}}.</ref>。しかし、20世紀までには裏付けとなる史料がほとんど発見されなかったため、これはただの物語で、後醍醐天皇の本当の興味は倒幕活動といった策謀にあり、実際は訴訟制度には余り関心を持たなかったのではないかと思われていた{{sfn|中井|2016|pp=40–41}}。
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また、([[建武の乱]]が発生するまでは)[[足利尊氏]]をことのほか寵愛した{{sfn|花田|2016|pp=189–191}}{{efn|一方、[[細川重男]]は、後醍醐天皇が尊氏を寵遇したのは、「駒」の一つとしてであり、心の底からのものではなかったのではないか、としている{{sfn|細川|2016|pp=102–103}}。}}。尊氏の名は初め「高氏」と表記したが([[北条高時]]からの偏諱)、元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日、後醍醐天皇から諱(本名)「尊治」の一字「尊」を授与されたことにより、以降、足利尊氏と名乗るようになった<ref name="dainihon-shiryo-6-1-170">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0170 『大日本史料』6編1冊170–181頁].</ref>。元弘の乱後の軍功認定は、尊氏と[[護良親王]](後醍醐天皇の実子)が担ったが、護良親王が独自の権限で認定したのに対し、尊氏は後醍醐天皇の忠実な代行者として、護良親王以上の勤勉さで軍功認定を行った{{sfn|吉原|2002|pp=41–44}}。後醍醐天皇は尊氏に30ヶ所の土地と{{sfn|花田|2016|pp=187–189}}、[[鎮守府将軍]]・[[左兵衛督]]・[[武蔵守]]・[[参議]]など重要官職を惜しみなく与え{{sfn|花田|2016|pp=189–191}}、さらに鎮守府将軍として建武政権の全軍指揮権を委ねて、政治の中枢に取り入れた{{sfn|吉原|2002|pp=48–51}}。鎮守府将軍はお飾りの地位ではなく、尊氏は九州での北条氏残党討伐などの際に、実際にこれらの権限を行使した{{sfn|吉原|2002|pp=48–51}}。弟の直義もまた、15ヶ所の土地{{sfn|花田|2016|pp=187–189}}と[[鎌倉将軍府]]執権(実質的な関東の指導者)など任じられた。なお、『[[梅松論]]』に記録されている、公家たちが「無高氏(尊氏なし)」と吹聴したという事件は、かつては尊氏が政治中枢から排除されたのだと解釈されていたが、[[吉原弘道]]は、新研究の成果を踏まえ、尊氏が受けた異例の厚遇を、公家たちが嫉妬したという描写なのではないか、と解釈している{{sfn|吉原|2002|p=52}}。
 
とはいえ、後醍醐天皇の好意は、自分に反抗しなかった武士に限られていた{{sfn|森|2016|pp=79–82}}。後醍醐天皇は、自らの最大の敵である鎌倉幕府を「[[四夷|戎夷]]」(じゅうい、獣のような野蛮人)と蔑み、奴らが天下を治めるなどとんでもない、と言ってのけた(『[[花園天皇日記]]』正中元年([[1324年]])11月14日条){{sfn|細川|2016|pp=102–103}}。また、[[摂津氏]]・[[松田氏]]・[[斎藤氏]]らは、鎌倉幕府・六波羅探題で代々実務官僚を務めた氏族であり、能力としては後醍醐天皇の好みに合っていたはずだが、北条氏に最後まで忠誠を尽くしたため、数人の例外を除き、建武政権下ではほぼ登用されることはなかった{{sfn|森|2016|pp=79–82}}。その一方で、既に倒れた[[得宗]][[北条高時]]に対してはその冥福を祈り、[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])3月ごろ、腹心の尊氏に命じて、[[鎌倉]]の高時屋敷跡に[[宝戒寺]]を建立することを企画した<ref name="hokaiji">{{ Citation | 和書 | title=日本歴史地名大系 | publisher=平凡社 | date=2006 | contribution = 神奈川県:鎌倉市 > 小町村 > 宝戒寺 }}</ref>{{efn|足利尊氏寄進状[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])[[3月28日 (旧暦)|3月28日]]付(『神奈川県史』資料編3所収)<ref name="hokaiji"/>}}。その後の戦乱で造営は一時中断されていたが、[[観応の擾乱]](1350–1352)を制して幕府の実権を握った尊氏は、[[円観]]を名義上の開山(二世の[[惟賢]]を実質的な開山)として、[[正平 (日本)|正平]]8年/[[文和]]2年([[1353年]])春ごろから造営を再開、翌年ごろには完成させ、後醍醐の遺志を完遂している<ref name="hokaiji"/>{{efn|「将軍足利尊氏寄進状案」「将軍足利尊氏御教書案」(『神奈川県史』資料編3所収)、「惟賢灌頂授与記」(『鎌倉市史』史料編1所収)<ref name="hokaiji"/>}}。また、高時の遺児の[[北条時行]]は[[中先代の乱]]で一時は後醍醐天皇に反旗を翻したが、のち[[南北朝の内乱]]が始まると尊氏よりは後醍醐に付くことを望み、後醍醐もこれを許して、有力武将として重用した<ref>{{ Citation | 和書 | last=鈴木 | first=由美 | author-link=鈴木由美 | editor=日本史史料研究会 | editor2-last=呉座 | editor2-first=勇一 | editor2-link=呉座勇一 | chapter=【北条氏と南朝】5 鎌倉幕府滅亡後も、戦いつづけた北条一族 | title=南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで | pages=110–128 | publisher=[[洋泉社]] | series=歴史新書y | year=2016 | isbn = 978-4800310071 }}. pp. 119–126.</ref>。
 
建武の乱の発生以降は、かつては寵遇した尊氏を「凶徒」と名指しするなど、対決路線を明確にした(『阿蘇文書』(『[[南北朝遺文]] 九州編一』514号)){{sfn|森|2017|loc=終章 果たして尊氏は「逆賊」か>足利尊氏の死去}}。その一方で、北畠親房や親房を信任した[[後村上天皇]]が偏諱の事実を拒絶し尊氏を「高氏」と呼ぶのに対し、後醍醐天皇は最期まで尊氏のことを一貫して「尊氏」と書き続けた{{sfn|岡野|2009|pp=68-70}}{{sfn|森|2017|loc=終章 果たして尊氏は「逆賊」か>果たして尊氏は「逆賊」}}。このことについて、[[森茂暁]]は「後醍醐のせめてもの配慮なのかもしれない」{{sfn|森|2017|loc=終章 果たして尊氏は「逆賊」か>果たして尊氏は「逆賊」}}とし、[[岡野友彦]]もまた、尊氏を徹底的に嫌う親房とは温度差があり、建武の乱発生後も、後醍醐は親房ほどには尊氏を敵視していなかったのではないかとする{{sfn|岡野|2009|pp=68-70}}。
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=== 禅宗 ===
==== 概要 ====
後醍醐天皇は、[[両統迭立]]期([[1242年]] - [[1392年]])において最も[[禅宗]]を庇護した天皇だった{{sfn|内田|2010|pp=219–221}}。[[後嵯峨天皇]]から[[後亀山天皇]]の治世まで、仏僧に対する[[国師号]]授与は計25回行われ、うち20回が[[臨済宗]]の禅僧に対するものであるが、後醍醐天皇は計12回の国師号授与を行い、そのうちの10回が臨済宗へのものであり{{efn|例外の2回は、[[華厳宗]]の[[俊才 (華厳宗)|俊才]]に対する「俊才国師」と、[[浄土宗]]の[[如一 (浄土宗)|如一]]に対する「如一国師」(なお、内田 2010の本文では如一が臨済宗と誤植されている){{sfn|内田|2010|p=221}}。}}、単独でこの時期の全天皇の興禅事業の半数を占める{{sfn|内田|2010|pp=219–221}}。
 
中世日本では、[[天台宗]]や[[真言宗]]といった旧仏教は学問偏重の傾向にあり、しかも高貴な家柄に生まれた僧侶だけが要職に就くことが出来た{{sfn|大塚|2016|pp=236–238}}。[[禅宗]]や[[律宗]]の僧侶はこれに異を唱え、戒律を重視したため、身分としては低かったが、武家や大衆から広く人気を集めた{{sfn|大塚|2016|pp=236–238}}。後醍醐の属する[[大覚寺統]]もまた禅宗に着目し、[[亀山天皇|亀山上皇]](後醍醐祖父)は[[京都]][[南禅寺]]を開き、[[後宇多天皇|後宇多上皇]](後醍醐父)は[[鎌倉幕府]]からの許可を取った上で南禅寺に[[鎌倉五山]]に准じる寺格を認めた{{sfn|大塚|2016|pp=241–243}}。後醍醐の興禅事業は父祖の延長にあるものである{{sfn|大塚|2016|pp=241–243}}。ただ、これには大衆からの支持を集めるための政治的な意図も大きく、禅宗にもある程度の帰依はしていたとはいえ、基本路線としては密教の方を中心に据えていたと考えられている{{sfn|大塚|2016|pp=241–243}}。[[内田啓一]]によれば、[[空海]]を頂点とする大きな三角形を為す[[真言密教]]に対し、後醍醐天皇の視点では、臨済禅は「小さな三角形」の集合体に見え、その各三角形の頂点に国師号を贈ることで禅宗界の掌握を図ったものではないかという{{sfn|内田|2010|p=222}}。
 
以下が、後醍醐天皇の臨済宗における国師の一覧である。
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* [[無本覚心]]([[元徳]]2年([[1330年]])秋) - 「円明国師」{{sfn|内田|2010|pp=220–221}}
* [[夢窓疎石]]([[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])[[10月 (旧暦)|10月]]) - 「夢窓国師」{{sfn|内田|2010|pp=220–221}}、''→[[#愛石家|愛石家]]''
* [[孤峯覚明]](建武2年(1335年)[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]) - 「国済国師」{{sfn|内田|2010|pp=220–221}}、後醍醐は[[元弘の乱]]で[[隠岐国]]を脱出した直後の閏2月28日に、当時出雲にいた孤峯を呼んで面会した{{sfn|保立|2018|pp=284–285}}
* [[宗峰妙超]]([[延元]]4年/[[暦応]]2年([[1339年]])[[4月17日 (旧暦)|4月17日]]) - 「高照正燈国師」{{sfn|内田|2010|pp=220–221}}、なお「興善大燈国師」の略「大燈国師」の通称の方が著名
* 宗峰妙超(時期不明) - 「正燈国師」{{sfn|内田|2010|pp=220–221}}、前項と合わせ後醍醐から計二回の授与
* [[通翁鏡円]](時期不明) - 「普照大光国師」{{sfn|内田|2010|pp=220–221}}
 
この他、[[五山文学]]の旗手であり[[儒学者]]・[[数学者]]としても知られる[[中巌円月]]を召し出し、『上建武天子表』『原民』『原僧』といった政治論を献呈された<ref> {{ Citation | 和書 | last = 蔭木 | first = 英雄 | author-link = 蔭木英雄 | title = 中世禅者の軌跡:中厳円月 | publisher = [[法蔵館]] | series = 法蔵選書 | date = 1987 | isbn = 978-4831810427 }} pp. 118–121。</ref>。
 
元徳2年(1330年)、[[元 (王朝)|元]]から来訪した[[明極楚俊]](みんきそしゅん)が鎌倉に向かう途上、明極を引き止めて御所に参内させたが、当時の天皇が外国人と直接対面するのは異例の事態である{{sfn|大塚|2016|pp=241–243}}。明極の他、元の臨済僧としては[[清拙正澄]]も重用した{{sfn|大塚|2016|pp=241–243}}。
 
後醍醐天皇の皇子の一人とも伝えられる[[無文元選]]は臨済宗の高僧として大成し、[[遠江国]][[方広寺 (浜松市)|方広寺]]の開山となり、「聖鑑国師」「円明大師」の諡号を追贈された<ref name="mumon-gensen-kokushi">{{Citation | 和書 | last = 竹貫 | first = 元勝 | author-link = 竹貫元勝 | contribution = 無文元選 | title = 国史大辞典 | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。
 
* [[川瀬一馬]]は、夢窓疎石が[[南禅寺]]住職を固辞したとき、後醍醐が「仏法の隆替は人を得るか得ないかによる」と熱意をもって夢窓を説得した故事を取り上げ、禅宗が鎌倉時代に滅びずその後も続くことになったのは、この時の後醍醐天皇の人選のためであると、高く評価している<ref name="kawase-2000">{{Citation | 和書 | author = [[夢窓疎石]] | editor-last = 川瀬 | editor-first = 一馬 | editor-link = 川瀬一馬 | title = 夢中問答集 | publisher = [[講談社]] | series = 講談社学術文庫 | date = 2000 | isbn=978-4061594418 }} 解説。</ref>。また、以降の武家思想や武家文化が禅に根ざしてることを考えれば、これらの分野における後醍醐天皇の影響も小さくはない、としている<ref name="kawase-2000" />。
* [[大塚紀弘]]は、禅宗興行は大衆からの支持を集めるための政治的な意図も大きく、禅宗にもある程度の帰依はしていたとはいえ、基本路線としては密教の方を中心に据えていたのではないかという{{sfn|大塚|2016|pp=241–243}}。
* [[内田啓一]]によれば、[[空海]]を頂点とする大きな三角形を為す[[真言密教]]に対し、後醍醐天皇の視点では、臨済禅は「小さな三角形」の集合体に見え、その各三角形の頂点に国師号を贈ることで禅宗界の掌握を図ったものではないかという{{sfn|内田|2010|p=222}}。
* [[保立道久]]は、宗教界の隆盛や大衆の人気取りといったものより、後醍醐はむしろ国家統合の象徴という、より大きな枠組みで禅を捉えていたのではないかとし、日本史に決定的な影響を与えたとして高く評価している(次節[[#禅律国家構想]]参照)。
 
==== 禅律国家構想 ====
2018年、[[日本史]]研究者の[[保立道久]]が唱えた説によれば、後醍醐天皇の禅宗政策からは、後醍醐が融和路線を志向する政治家であることが見て取れ、皇統が分裂した[[両統迭立]]を友好的に解消するための手段として、禅宗を活用しようとした形跡が見られるという。また、その禅宗政策は、歴史的意義としても、鎌倉時代→建武政権→室町幕府→江戸幕府という連続性を見ることができ、公武を超えた国家統合の枠組みとして後醍醐が具体的に禅宗を提示したからこそ、その後、[[明治維新]]まで500年以上続く武家禅宗国家体制が成立したのではないか、という。
 
もともと禅宗はどちらかといえば後醍醐ら[[大覚寺統]]が支持する新興宗教であったが、[[持明院統]]でも例外的に[[花園天皇]]は禅宗に深く帰依し、特に[[大徳寺]]の[[宗峰妙超]]を崇敬していた{{sfn|保立|2018|pp=266–283}}。後醍醐の側も花園の姿勢に好意を持ち、花園を追って大徳寺と宗峰妙超を篤く敬い、両帝ともに大徳寺を祈願所と設定していた{{sfn|保立|2018|pp=266–283}}。その後、後醍醐天皇は[[鎌倉幕府]]を倒すと、京に帰還して[[建武の新政]]を開始した翌々日の[[元弘]]3年/[[正慶]]2年([[1333年]])[[6月7日 (旧暦)|6月7日]]という早期の段階で、[[大徳寺]]に「大徳寺領事、管領不可有相違者」との[[綸旨]](天皇の命令文)を発した(『大日本古文書 大徳寺文書』67、中御門宣明奉){{sfn|保立|2018|pp=284–285}}。この後もたびたび、大徳寺は所領寄進などをすばやく受けており、その手篤さは[[真言律宗]]の本拠地である[[西大寺 (奈良市)|西大寺]](後醍醐腹心の[[文観|文観房弘真]]の支持母体)と並ぶほどであったという{{sfn|保立|2018|pp=284–285}}。
同年8月24日にはさらに後醍醐自筆の[[置文]]で「大徳禅寺者、宜為本朝無双禅苑」「門弟相承、不許他門住」(『大日本古文書 大徳寺文書』1)と日本最高の禅寺であることが明言され{{sfn|保立|2018|pp=284–285}}、10月1日には正式に綸旨で「[[京都五山|五山]]之其一」(『大日本古文書 大徳寺文書』14)とされた{{sfn|保立|2018|pp=284–285}}。翌年1月26日に後醍醐は[[南禅寺]](祖父の[[亀山天皇]]が開いた禅寺)を京都五山第一と定めると、2日後の28日に改めて大徳寺を南禅寺と並ぶ寺格とし「[[南宗]]単伝の浄場なり」と称した(『大日本古文書 大徳寺文書』15){{sfn|保立|2018|pp=284–285}}。南宗云々とはつまり、大徳寺が国家寺院であると宣言したことと解釈可能である{{sfn|保立|2018|pp=284–285}}。
 
さて、大徳寺への寺領安堵の時期(6月7日)を見てみると、これは実は、[[持明院統]]への王家領安堵の時期と同日である{{sfn|保立|2018|pp=286–287}}。したがって、保立によれば、この二つは連動した政策であったのではないかという{{sfn|保立|2018|pp=286–287}}。最も注目されるのは、かつて[[花園天皇|花園上皇]]が大徳寺の[[宗峰妙超]]に寄進していた[[室町院領]]の「伴野床・葛西御厨」の安堵については、花園からの大徳寺への寄進を[[後伏見天皇|後伏見上皇]]に確認させる、という煩雑な手続きを踏んで行ったことである(『鎌倉遺文』32242・『大日本古文書 大徳寺文書』30){{sfn|保立|2018|pp=286–287}}。この措置によって、大徳寺が改めて大覚寺統と持明院統の双方から崇敬を受けるという形式になったのである{{sfn|保立|2018|pp=286–287}}。室町院領はもともと大覚寺統・持明院統という天皇家内部の紛争の火種になっていた荘園群のため、これらが大徳寺という宗教的・中立的な組織に付けられたことの意味は大きい{{sfn|保立|2018|pp=286–287}}。つまり、後醍醐天皇は持明院統との融和路線を目指し、公家一統の象徴として大徳寺を表に立てたのではないか、という{{sfn|保立|2018|pp=286–287}}。
 
しかも、後醍醐天皇は、「本朝無双禅苑」「五山之其一」といったただの華やかな名目で大徳寺を飾り立てるだけではなく、実際の造営や寺地確保においても、他の仏教宗派との紛争が起こらないように、細やかに腐心した痕跡が見られる{{sfn|保立|2018|pp=287–290}}。たとえば、後醍醐が建武の新政時に大徳寺に与えた寺域は、[[天台宗]]の円融院・[[三千院|梶井門跡]]と接している{{sfn|保立|2018|pp=287–290}}。ここで、当時の梶井門跡を管領していたのは、後醍醐の皇子で[[天台座主]]の尊澄法親王(のちの征夷大将軍・[[宗良親王]])だった{{sfn|保立|2018|pp=287–290}}。尊澄(宗良)は元弘の乱以前、自身と関連がある善持寺という寺院の土地が、開堂したばかりの大徳寺に流入してしまう件を快く了承したことがあるなど(『大日本古文書 大徳寺文書』1-168)、天台宗[[延暦寺]]最高の地位にある僧でありながら、禅宗にも理解のある人物だった{{efn|[[保立道久]]は、さらに[[北畠親子]]([[北畠師親]]の娘)の大徳寺への寄進と、後醍醐・親子の子とされてきた天台座主・尊雲法親王([[護良親王]])との関係について論じている{{sfn|保立|2018|pp=287–290}}。しかし親子は護良の母ではないという説もあり([[護良親王#母の出自]])、詳細は不明。}}{{sfn|保立|2018|pp=287–290}}。このように、首都・京都に新たに大きな禅宗の寺院を造営・拡大するにあたって、自身の人脈によって、最も強い障害と考えられる仏教界の旧勢力・天台宗との軋轢を起こさないように図っている{{sfn|保立|2018|pp=287–290}}。この後醍醐の融和的な姿勢は、建武政権期で一貫したものだったと見られ、建武元年(1334年)10月20日の綸旨で再度敷地の確認を行っている(『大日本古文書 大徳寺文書』50){{sfn|保立|2018|pp=287–290}}。
 
無論、その後の[[建武の乱]]で建武政権が崩壊してしまったため、結果論としては、後醍醐の宥和計画である大徳寺を通じた公家一統そのものは成功しなかった{{sfn|保立|2018|pp=287–290}}。とはいえ、歴史的意義がなかったといえば、そうではなく、むしろ逆で、後醍醐の禅宗政策はその後の日本の歴史に決定的な影響を与えた{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。
 
[[宋学]](新[[儒学]])は、しばしば宋学の中の一つに過ぎない[[朱子学]]と同じものであると誤解されることが多いが、それは事実ではなく、この時代の宋学は禅宗とは不可分一体のものだった{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。[[鎌倉時代]]、日本が[[モンゴル帝国]]の脅威に晒されると、公武の各有識者は、それまでのナショナリズムを捨て、日本の近代化を図るべく、宋学と禅宗が一体になった思想を、[[南宋]]の禅僧である[[無準師範]]の門下や、南宋から日本に渡来した[[蘭渓道隆]]を通じて学んだ{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。この時点では、禅宗・宋学は諸勢力によってばらばらに学ばれるものに過ぎなかったが、後醍醐によって初めて禅律国家というものが具体的に提示され、国家統合の象徴として用いられることで、その後の隆盛が保証されることになった{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。保立によれば、後醍醐の肖像画が、律宗の西大寺出身の文観と、禅宗の大徳寺によって所持されたことがその端的な象徴ではないか、という{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。
 
後醍醐の政策は、建武政権崩壊後も、足利政権によって武家禅宗国家として発展的に受け継がれた{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。[[足利尊氏]]・[[足利直義|直義]]兄弟によって後醍醐の冥福のために[[天龍寺]]が創建されたのはあまりにも有名であり、[[足利義満]]もまた、後醍醐によって才覚を発掘された禅僧[[夢窓疎石]]を名目の開山とし、[[相国寺]]を建立している{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。このように、足利氏政権が禅宗・儒学を国家の理念と位置づけ、しかも禅宗寺院が宗教上だけではなく経済的・社会的にも大きな役割を果たすようになったのは、建武政権からの連続性を否定できない{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。その後、武家禅宗国家は[[江戸幕府]]が崩壊するまで500年以上続くことになるが、「禅宗は武家のもの」という認識は江戸幕府が禅宗を深化させたのを過去遡及的に当てはめた理解に過ぎず、実際は、公武を超えた国家的事業に禅を据えた後醍醐こそが、武家禅宗国家の成立を切り開いた人物であると言えるのではないか、という{{sfn|保立|2018|pp=290–293}}。
 
=== 律宗 ===
後醍醐天皇の祖父の[[亀山天皇]]は、[[真言律宗]]の開祖である[[叡尊]]に深く帰依したが、後醍醐もまた[[律宗]]の振興を図った。
 
律宗とは、特にその代表者である叡尊の活動について言えば、1. 仏教界の堕落に対処するため、[[戒律]](仏教における規律・規範)を重視して復興を図ったこと([[律宗]])、2. [[釈迦]]・[[文殊菩薩]]・[[仏舎利|舎利]](しゃり、釈迦の遺骨)への信仰を重視し、荒廃した寺院を復興し、様々な仏像を作成させたこと、3. 大衆との関わりを重視し、貧民救済などの慈善事業を活発に行ったこと([[忍性]]も参照)、4. 密教僧として、鎌倉時代を代表する密教美術の制作を多く指揮・監修したこと、などが挙げられる{{sfn|内田|2006|pp=4–5}}。
 
後醍醐は、嘉暦3年([[1328年]])5月26日から始まる[[元徳]]2年([[1330年]])までの3年間、真言律宗の[[忍性]]に「忍性菩薩」、[[信空 (真言律宗)|信空]]に「慈真和尚」、[[唐招提寺]]中興の祖の[[覚盛]]に「大悲菩薩」の諡号を贈った(『僧官補任』){{sfn|内田|2006|pp=133–134}}。これらは、[[真言宗]]の高僧でありながら真言律宗が出身母体である腹心の[[文観|文観房弘真]]からの推挙が大きかったと見られる{{sfn|内田|2006|pp=133–134}}。
 
忍性は、貧民や[[ハンセン病]]患者、[[非人]]の救済に生涯を捧げた律僧である<ref>{{Citation | 和書 | last=坂本 | first=正仁 | author-link=坂本正仁 | contribution=忍性 | title=[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]] | publisher=[[吉川弘文館]] | year=1997 }}</ref>。[[後伏見天皇]]から[[叡尊]]への「興正菩薩」が、[[正安]]2年([[1300年]])閏7月3日だから、律僧が諡号を贈られたのは約28年ぶりで、忍性の入滅からも25年が経っている{{sfn|内田|2006|pp=133–134}}。
 
後醍醐はまた、名誉を贈るだけではなく、各地の律宗の民衆救済事業に支援をしたと見られる。たとえば、東[[播磨国|播磨]]([[兵庫県]]東部)では、[[加古川]]水系の[[草谷川#五ヶ井用水|五ヶ井用水]]に対し、中世に何者かによって大規模な治水工事が行われ、その結果、700ヘクタールもの水田を潤す大型用水施設となり、[[加古川大堰]]が[[1989年]]に完成するまで、地域の富を生み出す心臓部になったことが知られている<ref>{{Cite web | author=水土の礎 | url=https://suido-ishizue.jp/kokuei/kinki/hyogo/touban/0101.html | title=日本一のため池地帯、東播磨 | publisher=農業農村整備情報総合センター | website=水土の礎 | year=2005 | accessdate=2020-06-03 | ref = {{harvid|水土の礎|2005}} }}</ref>。[[金子哲 (歴史学者)|金子哲]]は、同時代の記録を突き合わせて、この事業は当時まだ20代後半から30代だった文観によって開始されたのではないか、とした{{sfn|金子|2019|pp=13–15}}。そして、同時期の同地に、文観によって立てられた石塔群が大覚寺統の勢力範囲内にあり、「[[転輪聖王|金輪聖王]]」([[天皇]])云々と掘られていることから、これらの事業には[[後宇多天皇|後宇多上皇]](後醍醐父)や[[皇太子]]尊治親王(のちの後醍醐天皇)からの支援があったのではないか、と推測した{{sfn|金子|2019|pp=13–15}}。
 
=== 神道家 ===
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=== 歌人 ===
後醍醐天皇は和歌にも造詣が深かった{{sfn|永原|1994}}{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。『[[新後撰和歌集]]』から『[[新後拾遺和歌集]]』までの7つの[[勅撰和歌集]]に、多数の歌が入撰している{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。これらの勅撰集の中でも、第16となる『[[続後拾遺和歌集]]』([[嘉暦]]元年([[1326年]])[[6月9日 (旧暦)|6月9日]]返納)は、後醍醐天皇が[[二条為定]]を撰者として勅撰したものである<ref name="higuchi-1997">{{Citation | 和書 | last = 樋口 | first = 芳麻呂 | author-link = 樋口芳麻呂 | contribution = 続後拾遺和歌集 | title = 国史大辞典 | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。実子で南朝[[征夷大将軍]]の[[宗良親王]]が撰者であった南朝の准勅撰集『[[新葉和歌集]]』にも当然ながら入撰しており{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}{{sfn|佐藤|1997}}、また宗良親王の[[家集]]『[[李花集]]』には、内面の心境を吐露した和歌が収録されている{{sfn|佐藤|1997}}。南朝だけではなく、室町幕府初代将軍[[足利尊氏]]の執奏による北朝の勅撰集『[[新千載和歌集]]』でも24首が入撰しており、これは[[二条為世]]・[[二条為定]]・[[伏見天皇|伏見院]]・[[後宇多天皇|後宇多院]]・[[二条為氏]]らに次いで6番目に多い<ref>{{Citation | 和書 | last = 樋口 | first = 芳麻呂 | author-link = 樋口芳麻呂 | contribution = 新千載和歌集 | title = 国史大辞典 | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。自身も優れた武家歌人であった尊氏は、後醍醐天皇を弔う願文の中で、「素盞嗚尊之詠、伝我朝風俗之往策」と、後醍醐の和歌の才能を歌神である[[素盞嗚尊]](すさのおのみこと)になぞらえ、その詠み様は古い日本の歌風を再現するかのような古雅なものであったと評している<ref name="dainihon-shiryo-6-5-816">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0605/0816 『大日本史料』6編5冊816–819頁].</ref>。
 
後醍醐天皇は、当時の上流階級にとっての正統文芸であった和歌を庇護した有力なパトロンと見なされており、『[[増鏡]]』第13「秋のみ山」でも「当代(後醍醐)もまた敷島の道もてなさせ給」と賞賛されている{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。鎌倉時代中期の[[阿仏尼]]『[[十六夜日記]]』に「やまとの歌の道は(中略)世を治め、物を和らぐるなかだち」とあるように、この当時の和歌はただの文芸ではなく、己の意志を表現して統治を円滑するための強力な政治道具とも考えられており、後醍醐天皇は和歌の力をも利用することで倒幕を成し遂げたのである{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>文化・思想的な側面>和歌の好尚}}。
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後醍醐天皇が開始した[[建武政権]](1333–1336年)の下では、闘茶が貴族社会の外にも爆発的に流行した様子が、当時の風刺詩『[[二条河原の落書]]』に「茶香十炷」として記されている<ref name="tocha" />。さらに、武士の間でも広まり、室町幕府の『[[建武式目]]』([[延元]]元年/[[建武 (日本)|建武]]3年[[11月7日 (旧暦)|11月7日]]([[1336年]][[12月10日]]))では茶寄合で賭け事をすることが禁じられ、『[[太平記]]』(1370年ごろ完成)でも、バサラ大名たちが豪華な[[室礼]]で部屋を飾り、大量の景品を積み上げて闘茶をしたという物語が描かれる<ref name="tocha" />。
 
また、[[茶器]]の一種で、[[金輪寺 (茶器)|金輪寺]](きんりんじ/こんりんじ)茶入という[[薄茶器]]([[薄茶]]を入れる容器)を代表する形式を考案した<ref name="kinrinji">{{Citation | 和書 | last = 満岡 | first = 忠成 | author-link = 満岡忠成 | contribution = 金輪寺茶入 | title = [[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]] | publisher = [[吉川弘文館]] | publication-date = 1997 }}</ref>。これは、後醍醐天皇が大和吉野の金輪寺([[修験道]]の総本山[[金峯山寺]])で「一字金輪の法」を修行していた時に、蔦の木株から茶入を作り、天皇自ら修験僧らのために茶を立てて振る舞ったのが起源であるという<ref name="kinrinji" />。また、『[[信長公記]]』『[[太閤記]]』『四度宗論記』『安土問答正伝記』等によれば、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将[[織田信長]]は、後醍醐天皇御製の金輪寺の本歌(原品)であるという伝説の茶器を所持していたことがあり、[[天正]]7年([[1579年]])5月27日に、[[安土宗論]]で勝利した[[浄土宗]]高僧の[[貞安]]に下賜した<ref>{{ Citation | 和書 | last=松浦 | first=静山 | author-link=松浦静山 | editor-last=中村 | editor-first=幸彦 | editor-link=中村幸彦 | editor2-last=中野 | editor2-first=三敏 | editor2=中野三敏 | title=甲子夜話三篇 2 | publisher=[[平凡社]] | series=[[東洋文庫]] 415 | year=1982 | isbn= 978-4582804157 | page=234 }}</ref>{{信頼性要検証|date=2019-11}}。
 
=== 愛石家 ===
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:隠岐国を脱出し、[[船上山]]に籠城した後醍醐天皇は、籠城に功績のあった在地の武士[[巨勢宗国]]に対し、側近の[[千種忠顕]]を「[[綸旨]](命令文)の奉者」(天皇の意を受けて文書を発給する係)として、感状を与えた<ref name="rinji-genko-3-3-4">{{cite web|url=http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/godaigo.htm|last=本郷|first=和人|author-link=本郷和人|title=後醍醐天皇「自筆」綸旨について|access-date=2019-11-03}}</ref>。ところが、このとき忠顕は軍事行動に就いており、船上山にはいないので、彼に綸旨を書いて貰うのは物理的に不可能である<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。実は、この綸旨を書いたのは後醍醐天皇自身で、奉者となる資格を持つ臣下が側にいなかったため、部下の忠顕になりきり、忠顕の[[花押]](サイン)を真似してまで、天皇が自分で自分の綸旨の奉者を装った、という前例の無い事件である{{efn|昭和初期、[[平泉澄]]によってこの綸旨が後醍醐天皇自筆であることは既に指摘されていたが(『建武』8巻1号、昭和18年)、[[第二次世界大戦]]後、[[皇国史観]]への反動から平泉の学説と業績が忘れ去られると共に、この史料も長く埋もれていた<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。}}<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。さて、世間によくある、「破天荒な後醍醐天皇」と言う通俗的な人物像からは、これもその破天荒さの一貫と考えがちである<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。しかし、[[本郷和人]]によれば、この文書はむしろ後醍醐天皇の保守的・形式主義的な一面を表しているのではないか、という<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。もし後醍醐天皇が過激な改革者であったとすれば、[[蔵人]](秘書官)・[[弁官]](庶務官)ではない臣下を奉者とするか、あるいは綸旨に代わる新しい文書形式を作っても良かったはずである<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。そうしなかったのは、創作上ではない歴史的人物としての後醍醐天皇は、従来の手続きを忠実に踏襲する人間であることを示しているのではないか、という<ref name="rinji-genko-3-3-4" />。
 
== 評価(同時代) ==
=== 同時代人足利尊氏からの評価 ===
[[室町幕府]]初代[[征夷大将軍]][[足利尊氏]]は、後醍醐天皇をほぼ全肯定した{{sfn|亀田|2014|p=176}}。よくそれを表す文書として、後醍醐崩御百日目に尊氏が著した「後醍醐院百ヶ日御願文」<ref name="dainihon-shiryo-6-5-816">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0605/0816 『大日本史料』6編5冊816–819頁].</ref>が知られ、以下に大雑把な大意を示す。
==== 北畠親房からの評価 ====
 
{{Quotation|style=font-size:100%;|古来より、大恩に報いることがないのは徳が無いと申します。かの『[[後漢書]]』「[[楊震]]伝」注に言うように、雀のような小鳥でさえ宝石の環をくわえて仁愛に感謝するのに、何も言わず恩を返さず、いったい我ら全ての民草が陛下の黄金のような君徳を忘れることがありましょうか。いいえ、決してありません。
 
伏して考え申し上げるに、後醍醐院は期に応じて運を啓かれ、聖王たる「出震向離」の吉相をお持ちになり、その功は神にも等しく、徳は天にもお達しになられていました。それゆえ、陛下は代々の諸帝のご遺徳をお集めになり、君臨すること太陽のごとく、我らが仰ぎ見ること雲のごとくの王者となられたのです。またそれゆえ、陛下は古の聖王たちの栄える事業をお引き継ぎになり、神武天皇以来このかた90余代の遙かな系図を受け継がれ、[[元応]]以降、18年のご在位をお保ちになったのです。
 
陛下は、外には王道の大化をお成し遂げになりましたが、今の政治の道の本源はまさにここにありました。内には仏法の隆盛をお図らいになりましたが、その聖者のお心をどうして貴ばずにいられましょうか。陛下は神がかった書の才をお持ちになり、「書聖」[[王羲之]]にも迫るという[[唐]][[太宗 (唐)|太宗]]を超えるほどのものでいらっしゃいました。陛下の麗しい[[笙]]の響きさえあれば、いまさら[[漢]][[劉邦|高祖]]の伝説の笛を求める必要がありましょうや。陛下の和歌の才はまるで歌神の[[スサノオ|素盞鳴尊]](すさのおのみこと)のようで、我が国古来の歌風を思い起こさせられました。陛下が琵琶の神器「[[玄象]]」(げんじょう)を取って奏でる秘曲の調べは、その初代の使い手である「聖王」[[村上天皇|村上帝]]の演奏にも等しい。究めるべき道をすべて究め、修めるべき徳をすべて修めた、それが後醍醐院というお方でいらっしゃいました。
 
しかるに、しばらく京の輝かしい宮廷を辞して、はるか[[吉野行宮|吉野の都]]に行幸なさいました。その様は、龍馬が帰らず、聖なる白雲がそびえ立つこと峻厳なごとく。天子の輿は久しく外に留まり、ついに旅の中で崩御なされました。聖天子のような死ではなく、無念のうちに死んだ諸帝のように崩御なさったのは、ああ、なんとお痛ましいことでしょうか。
 
ここに、陛下の弟子であるわたくしは、畏れ多くも亜相([[大納言]])に進み、[[征夷大将軍]]の武職に至りました。この運の巡り合わせは、[[漢]]という国が興った歴史のような幸運を思い起こさせます。弓矢を袋に入れて(武器を収めて)、ただ安らかな平和を乞い願い、国家を護ることで君にお仕えし、民を労ることで仁義を尽くしたいと思っております。
 
わたくしは戦功しか取り柄がない者ではありますが、ただそれのみによって、ここまで幸運な繁栄を為すことができました。わたくしのような弱輩が、ここまで力を得ることができた理由をよくよく考え申し上げてみますと、まさに、先帝陛下が巨大な聖鳥である[[鵬|鴻]](おおとり)のように力強くお羽ばたきになったことに端を発しているに違いありません。
 
陛下の穏やかで優しいお言葉が、今もなおわたくしの耳の奥底に留まっております。陛下を慕い敬うあまりに胸が苦しくなるこの気持ちを、いったいどうしたら書き尽くすことができましょうか。わたくしが授かった恩恵は無窮であり、感謝して報いることを決して疎かにはできません。
 
まず、七度の七日供養をつらつらと行い、追福を申し上げました。今、時の移り変わりを惜しみ、写経もいたしました。かつて、勝力菩薩[[陶弘景]]が入滅して百日後に、残された弟子たちは慕い上げ、唐太宗が崩御して百日後、官吏たちは先帝の余芳に従ったと言われています。しかし、はたしてその程度で済ますことができるでしょうか。
 
すなわちここに、図絵[[胎蔵界曼荼羅]]一鋪・[[金剛界曼荼羅]]一鋪、図絵[[観世音菩薩]]一鋪・摺写[[大日経]]三巻・[[理趣経]]四巻・[[大随求菩薩|随求陀羅尼経]]三巻を奉り、[[妙法蓮華経]]十部を転読させ、さらに五箇の禅室を加え、十人の僧に供養を行わせ、[[非人]]救済も実施しました。[[等持院]]に寄付も行い、密教の儀式の座も造り、前大僧正法印大和尚の主催で読経を行わせました。数多くの都人・僧・公卿・殿上人らが集まり、陛下の菩提を弔いました。全ての景色が荘厳で、陛下の威徳に相応しいものです。
 
陛下の聖霊は、この千五百秋之神州である日本より出でて、すみやかに[[阿彌陀如来]]の宝座へと向かわれるでしょう。三十六天の仙室へは向かわず、直ちに常寂光土、永遠の悟りを得た真理の絶対界へと到達なさるでしょう。そして、仏への敬いが足りない者に至るまで、あらゆる民を[[八正道]]へ、すなわち[[涅槃]]へ至るための正しい道へとお導きになるでしょう。
 
弟子 征夷大将軍正二位権大納言源朝臣尊氏 敬白|足利尊氏|「後醍醐院百ヶ日御願文」}}
 
[[亀田俊和]]によれば、尊氏から後醍醐への敬慕は実体を伴ったものであったという{{sfn|亀田|2014|pp=62–70}}。2010年代以降の研究では、建武政権の諸政策は現実的で優れたものであったと再評価されており、尊氏の室町幕府も多くそれを受け継いでいるからである{{sfn|亀田|2014|pp=62–70}}。たとえば、後醍醐は、土地の給付の命令文書に追加の文書([[雑訴決断所]]施行牒)を付けて、誤りがないか検査をすると共に、強制執行権を導入し、自前の強い武力を持たない弱小な武士・寺社でも安全に土地を拝領できるシステムを作った{{sfn|亀田|2014|pp=62–70}}。これは、[[執事]][[高師直]]を介して足利尊氏にも受け継がれ、のち正式に幕府の基本法の一つになったという{{sfn|亀田|2014|pp=62–70}}。
 
亀田の主張によれば、尊氏は理念も政策も後醍醐を忠実に受け継いでいるため、足利尊氏こそが後醍醐天皇の最大の忠臣だったと言うことも可能なのではないか、という{{sfn|亀田|2014|p=176}}。
 
=== 北畠親房からの評価 ===
[[ファイル:Kitabatake Chikafusa.svg|thumb|『北畠親房』([[菊池容斎]]『[[前賢故実]]』所収)]]
{{seealso|神皇正統記}}
[[北畠親房]]は、[[慈円]]と共に中世の歴史家の双璧とされる顕学であり、後醍醐天皇の側近「[[後の三房]]」の一人に数えられ、後醍醐天皇崩御後には[[南朝 (日本)|南朝]]を主導し、南朝[[准三宮]]として[[皇后]]らに次ぐ地位にまで上り詰めた公卿である。主著『[[神皇正統記]]』で、後醍醐天皇崩御を記した段では「老体から溢れ出る涙をかきぬぐうこともできず、筆の流れさえ止まってしまった」と、実子の[[北畠顕家]]が戦死した段落以上に力を込めて、自身の嘆きを記した{{sfn|森|2000|loc=第六章 怨霊の跳梁と鎮魂>後醍醐天皇の呪縛>「先帝崩御」}}。
 
親房は、『神皇正統記』で、総合評価としては、後醍醐天皇を最も優れた天皇の一人だとした<ref name="jinno-godaigo">『神皇正統記』第九十五代・第四十九世後醍醐天皇</ref>。たとえば、[[真言密教]]への帰依が深いだけではなく、それ以外の宗派、たとえば[[禅宗]]なども手厚く保護し、中国から来た禅僧でも参内させたことを高く評価している<ref name="jinno-godaigo" />。親房が特に賞賛するのは学問的能力で、和漢の道に通じていたという面において、中比(中古)以来、後醍醐に匹敵する天皇はいないという<ref name="jinno-godaigo" />。また、後宇多上皇が治天の君を辞して、後醍醐が初めて親政を開始した時の政治について、優れた訴訟処理を行ったので、天下の民が後醍醐を敬った、と主張している<ref name="jinno-godaigo" />。
とはいえ、親房は、政治思想上は、必ずしも後醍醐天皇の政策を支持してはいなかった。特に、『神皇正統記』では、後醍醐天皇があまりに足利兄弟と武士全体に対し好意的に過ぎ、皇族・貴族の所領までもが武士の恩賞とされてしまったことが批判の的となっている{{sfn|亀田|2016|p=48}}。また、[[上横手雅敬]]が指摘するように、[[奥州合戦]]([[文治]]5年([[1189年]]))以降、[[恩賞]]として官位を配る慣例は絶えていたが、後醍醐天皇はこれを復活させ、足利尊氏を[[鎮守府将軍]]・[[左兵衛督]]・[[武蔵守]]・[[参議]]に叙したのを皮切りに、次々と武士たちへ官位を配り始めた{{efn|鎌倉幕府では、官位が恩賞として与えられることはなく、その代わり、[[成功 (任官)|成功]](じょうごう)といって、寺社に献金し、その見返りに官途奉行が任官を朝廷に推薦する、という手続きが、武士が官位を獲得する上で一般的だった{{sfn|花田|2016|pp=189–190}}。}}{{sfn|花田|2016|pp=189–190}}。このことも、親房から、「公家の世に戻ったと思ったのに、まるで武士の世になったみたいだ、と言う人までいる」と、猛烈な抗議の対象となった{{sfn|花田|2016|pp=189–190}}。
 
とはいえ、親房は、政治思想上は、必ずしも後醍醐天皇の政策を全面的に支持している訳ではなかった。特に、『神皇正統記』では、[[建武政権]]の人事政策について、後醍醐天皇があまりに足利兄弟と武士全体に対し好意的に過ぎ、皇族・貴族の所領までもが武士の恩賞とされてしまったことが批判の的となっている{{sfn|亀田|2016|p=48}}。また、[[上横手雅敬]]が指摘するように、[[奥州合戦]]([[文治]]5年([[1189年]]))以降、[[恩賞]]として官位を配る慣例は絶えていたが、後醍醐天皇はこれを復活させ、足利尊氏を[[鎮守府将軍]]・[[左兵衛督]]・[[武蔵守]]・[[参議]]に叙したのを皮切りに、次々と武士たちへ官位を配り始めた{{efn|鎌倉幕府では、官位が恩賞として与えられることはなく、その代わり、[[成功 (任官)|成功]](じょうごう)といって、寺社に献金し、その見返りに官途奉行が任官を朝廷に推薦する、という手続きが、武士が官位を獲得する上で一般的だった{{sfn|花田|2016|pp=189–190}}。}}{{sfn|花田|2016|pp=189–190}}。このことも、親房から、「公家の世に戻ったと思ったのに、まるで武士の世になったみたいだ、と言う人までいる」と、猛烈な抗議の対象となった{{sfn|花田|2016|pp=189–190}}。
 
ところが、現実主義者・[[マキャベリスト]]である親房{{sfn|亀田|2014|p=98}}は、政治思想上は後醍醐天皇を声高に批判しつつも、その裏で政治実務上は後醍醐天皇の政策を積極的に活用した。南朝の地方指揮官たちは、後醍醐天皇の政策を引き継ぎ、配下の武士に官位を授与する独自の裁量を与えられた{{sfn|花田|2016|pp=197–199}}。その中でもかなり熱心に恩賞としての官位を配ったのが、実はこの政策を批判した他ならぬ親房自身で、東国武士たちへの官位推薦状を乱発した{{sfn|呉座|2014|loc=第五章 指揮官たちの人心掌握術>親房の「失敗の本質」}}。軍事的・領土的に劣勢だった南朝にとって、後醍醐天皇が導入した「恩賞としての官位」政策は、土地がなくとも武士からの求心力を得ることができるため、優れた任官システムであると親房は理解していたのである{{sfn|呉座|2014|loc=第五章 指揮官たちの人心掌握術>親房の「失敗の本質」}}。対する[[室町幕府]]が恩賞としての官位を導入したのは、[[観応の擾乱]]で保守派の[[足利直義]]が滅んでから、と、かなり時期が遅く、[[山田貴司]]によれば、南朝が実際にこの施策で成功しているのを目の当たりにしたため、これに対抗する目的であったという{{sfn|花田|2016|pp=199–200}}。それほどまでに、後醍醐天皇が考案し、北畠親房が口では批判しつつも手では実施した政策は、先進的だったのである{{sfn|花田|2016|pp=199–200}}。
 
==== 北畠顕家からの評価 ====
[[ファイル:北畠顕家.png|thumb|北畠顕家([[霊山神社]]蔵)]]
{{main|北畠顕家上奏文}}
265 ⟶ 375行目:
[[佐藤進一]]は、同時代人からの評価を知る上で『[[二条河原の落書]]』と並ぶ重要史料とし、後醍醐天皇を独裁的君主とする自身の説から、顕家の建武政権批判に原則的に同意した{{sfn|佐藤|2005|pp=109–114}}。しかし、[[亀田俊和]]は、奢侈を戒める条項はともかく、それ以外の条項については必ずしも的を射た批難ではなかったり、短期的には顕家の批判するように混乱を招くものだったかもしれないが、長期的には一定の効果をもたらす施策であり、事実、室町幕府・南朝の法制度の基礎となったことを指摘し、顕家および佐藤進一の建武政権批判に反論した{{sfn|亀田|2014|pp=167–173, 199–201, 208}}。
 
==== 北朝公家からの評価 ====
[[File:Yoshimoto Nijo.jpg|thumb|[[二条良基]]像(二條基敬蔵)]]
[[連歌]]を完成した中世最大の文人であり、[[北朝 (日本)|北朝]]において[[摂政]]・[[関白]]・[[太政大臣]]として位人臣を極めたどころか、[[准三宮]]として[[皇后]]らに准ずる地位にまで上った[[二条良基]]は、敵対派閥でありながら、生涯に渡り後醍醐天皇を尊敬し続けた{{sfn|甲斐|2007|p=30}}。これは、『[[建武年中行事]]』を著した[[有職故実]]研究の大家・朝儀復興者としての後醍醐天皇を評価したものであるという{{sfn|甲斐|2007|p=30}}。
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[[中院通冬]](極官は北朝[[大納言]])は、後醍醐天皇崩御の速報を聞くと、それを信じたくない気持ちから「信用するに足らず」と半信半疑の念を示した(『中院一品記』延元4年8月19日条)<ref name="dainihon-shiryo-6-5-661">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0605/0661 『大日本史料』6編5冊661–662頁].</ref>{{sfn|森|2000|loc=第六章 怨霊の跳梁と鎮魂>後醍醐天皇の呪縛>「先帝崩御」}}。その後、室町幕府・北朝から公式な訃報を伝えられると、「天下の一大事であり、言葉を失う事件である。この後、公家が衰微することはどうしようもない。本当に悲しい。あらゆる物事の再興は、ひとえに後醍醐天皇陛下の御代にあった。陛下の賢才は、過去[の帝たち]よりも遥かに高く抜きん出たものであった。いったい、[陛下の崩御を]嘆き悲しまない者がいるであろうか」{{efn|原文:「天下之重事、言語道断之次第也、公家之衰微不能左右、愁歎之外無他事、諸道再興、偏在彼御代、賢才卓爍于往昔、衆人不可不悲歎者歟」<ref name="dainihon-shiryo-6-5-661"/>}}と評した(『中院一品記』延元4年8月28日条)<ref name="dainihon-shiryo-6-5-661"/>{{sfn|森|2000|loc=第六章 怨霊の跳梁と鎮魂>後醍醐天皇の呪縛>「先帝崩御」}}。
 
また、[[歴史物語]]『[[増鏡]]』(14世紀半ば)の作者も、北朝の有力廷臣であるにも関わらず、後醍醐天皇を賛美した{{sfn|井上|19831983b|p=396}}<ref name="ogawa-2000">{{Cite journal | 和書 | last=小川 | first=剛生 | authorlink=小川剛生 | title=北朝廷臣としての『増鏡』の作者 : 成立年代・作者像の再検討 | journal=三田國文 | issue=32 | pages=1–17 | url=http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00296083-20000900-0001 | year=2000 | ref={{harvid|小川|2000}} }} {{フリーアクセス}} pp. 8, 10</ref>。その正体は、前述した二条良基とする説が比較的有力である他{{sfn|井上|19831983b|p=396}}、[[和田英松]]による[[二条為明]]説{{sfn|井上|19831983b|pp=395–396}}や、[[田中隆裕]]による[[洞院公賢]]説<ref name="ogawa-2000" />など、諸説ある。
 
一方、[[三条公忠]](極官は北朝[[内大臣]])は後醍醐天皇に批判的であり、「後醍醐院のなさった行いは、この一件(家格の低い[[吉田定房]]の[[内大臣]]登用)に限らず、毎事常軌を逸している(毎度物狂(ぶっきょう)の沙汰等なり)、どうして後世が先例として従おうか」と評した(『[[後愚昧記]]』応安3年3([[1370年]])3月16日条){{sfn|森|2000|loc=第一章 後醍醐政権成立の背景>「誡太子書」の世界>聖主・賢王待望論}}。
 
=== 後世の評価(研究史) ===
==== 独裁====
==== 『太平記』史観による愚君像 ====
[[第二次世界大戦]]後、[[1960年]]代には、[[佐藤進一]]を中心として、後醍醐天皇は中国の皇帝を模倣した独裁者・専制君主であったという人物像が提唱され、建武政権についても、その政策は時代の流れや現実の問題を無視したものだったと否定的に評価された{{sfn|亀田|2016|pp=54–58}}。佐藤進一の学説は定説として20世紀後半の南北朝時代研究の大枠を作り{{sfn|亀田|2016|pp=54–56}}、2010年代に入っても高校の歴史教科書([[山川出版社]]『詳説日本史 日本史B』2012年など)で採用されている{{sfn|亀田|2016|pp=43–45}}。こうした人物像や政権への否定的評価は[[2016年]]現在でもまだ定説としての地位は失っていないが{{sfn|亀田|2016|pp=43–45}}、1990年代末からの新研究の潮流では複数の研究者から強い疑義が提出されている{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}。
日本を代表する文学作品であり、最長の[[軍記物語]]である『[[太平記]]』(1370年ごろ完成)の巻1「後醍醐天皇御治世の事<small>附</small>武家繁昌の事」(流布本)では、後醍醐天皇は初め名君として登場し、「天に受けたる聖主、地に報ぜる明君」と賞賛される<ref name="taiheiki-12-kuge-ittou">{{Harvnb|博文館編輯局|1913|pp=[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1885211/160 300–305]}}.</ref>。ところが、巻12から13で、[[元弘の乱]]で[[鎌倉幕府]]を打倒して[[建武の新政]]を開く段になると、今度は一転して完全なる暗君として描写されるようになる{{sfn|亀田|2016|pp=46–47}}。例として、恩賞の配分に偏りがあったり、無思慮に[[大内裏]]造営を計画したり、[[地頭]]・[[御家人]]に重税を課したり、唐突な貨幣・紙幣発行を打ち出したり、武士の特権階級である[[御家人]]身分を取り上げたりと、頓珍漢な政策を繰り返し、さらに側近の公卿[[千種忠顕]]や仏僧[[文観]]が権勢に驕り高ぶり奢侈を極めるなど、人々の反感を買っていく{{sfn|亀田|2016|pp=46–47}}。しかも、賢臣の[[万里小路藤房]]は後醍醐天皇にこうした悪政を諌めたが、全く聞き入れられなかったので、建武政権に失望し、僧侶となって遁世した、という物語が描かれる{{sfn|亀田|2016|pp=46–47}}。
 
[[亀田俊和]]の主張によれば、このような「『太平記』史観」が後世を呪縛し続け、後醍醐天皇と建武政権への評価を固定的なものにしてしまったのだという{{sfn|亀田|2016|pp=46–47}}。
 
その他にも、南北朝時代の作品で後醍醐天皇の愚君像に関与したものとして、『[[梅松論]]』、風刺文『[[二条河原の落書]]』といった文書等々を挙げることができる{{sfn|亀田|2016|pp=46–49}}。
 
==== 南朝正統史観・大義名分論からの批難 ====
[[江戸時代]]になると、『太平記』史観を受け継いだ朱子学者・歴史家から、再び後醍醐天皇は厳しく批難された。[[新井白石]]『[[読史余論]]』([[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]]))、[[三宅観瀾]]『[[中興鑑言]]』(江戸時代中期)、[[頼山陽]]『[[日本外史]]』([[文政]]10年(1827年))など当時の主要政治書・歴史書は、ほとんど『太平記』通りの批判的評価を後醍醐天皇に与えた{{sfn|亀田|2016|pp=49–50}}。観瀾と山陽は[[大義名分論]](臣下はいかなる状況であっても盲目的に主君に服従すべきという江戸時代的儒学思想)の有力な論客であり、「忠臣」[[楠木正成]]を称揚し、[[南北朝正閏論|南朝正統史観]]を広めた立役者であるが、彼らでさえ揃って後醍醐に「不徳の君主」の烙印を押した{{sfn|亀田|2016|pp=49–50}}。
 
なぜ南朝正統史観でも後醍醐が批判されるという事態が起きたのかについて、[[亀田俊和]]は次のように説明する{{sfn|亀田|2016|pp=45–46}}。南朝正統史観は「南朝正統」と名前があることから後醍醐天皇の政治的手腕が賛美されたと誤解されることがあるが、実は「南朝の正統性」「大義名分論」「忠臣論」と「後醍醐天皇の政権評価」は全くの別物として扱われていた{{sfn|亀田|2016|pp=45–46}}。むしろ、後醍醐天皇が「暗愚で不徳の君主」であるからこそ、それでもなお正統であるがゆえに、この暗君に生死を賭し一身を捧げて仕えなければならなかった「忠臣」の「悲劇」が、[[判官贔屓]]の形で人々の共感を呼んだのだという
{{sfn|亀田|2016|pp=45–46}}。こうして、後醍醐天皇が開いた南朝が正統とされ、南朝の忠臣が賛美されればされるほど、その対比として逆に後醍醐自身はさらに暗君として批難されるという、皮肉な状況となってしまった{{sfn|亀田|2016|pp=45–46}}。
 
==== 近代実証主義からの批難 ====
[[明治時代]]に入り、正式に南朝が正統であると政府から認められると、民間では前時代的な大義名分論がはびこったが、逆に研究者の間では実証を重んじる気風が生まれ、日本史の多くの分野では研究に進展が見られた。ところが、建武政権・南北朝時代の政治研究については『太平記』史観からほとんど進展がなく、[[東京帝国大学]]や[[京都帝国大学]]の日本史研究者から、一貫して後醍醐天皇は批難された{{sfn|亀田|2016|pp=50–52}}。[[久米邦武]]が臣下の無理解も指摘し、[[中村直勝]]が貨幣鋳造政策にやや好意的であるといった部分的な変化はあるものの、久米も中村も基本的には後醍醐天皇を酷評している{{sfn|亀田|2016|pp=50–52}}。[[田中義成]]も[[黒板勝美]]も恩賞政策を中心に後醍醐批判を展開し、その内容はほぼ『太平記』と同じである{{sfn|亀田|2016|pp=50–52}}。
 
==== 平泉澄の皇国史観 ====
このように、江戸時代的大義名分論からも、実証主義歴史学からも、後醍醐天皇愚君説が掲げられる中、1930年代、例外的に後醍醐を再評価した異端児が[[皇国史観]]の代表的研究者であった[[平泉澄]]である{{sfn|亀田|2016|pp=52–54}}。
 
平泉は、『[[建武中興の本義]]』(1934年)において、建武政権の良い点については、多くの史料をあげ論証していき、特に『太平記』以来の定説である恩賞不公平説を退けた{{sfn|亀田|2016|pp=52–54}}。[[亀田俊和]]の主張では、恩賞不公平説を反証する際に用いられた実証的手腕は、2016年時点の研究水準から見ても納得できるものであるという{{sfn|亀田|2016|pp=52–54}}。
 
ところが、建武政権の失敗については、「腐敗」した人民と「逆賊」足利尊氏に全ての責任を一方的になすりつけた{{sfn|亀田|2016|pp=52–54}}。その妥当性はともかく、実はそれまでにはなかった視点という意味では、研究の新規性はある{{sfn|亀田|2016|pp=52–54}}。
 
亀田は、平泉の皇国史観では前近代的な大義名分論が復活したことにより、全体的な研究水準はかえって後退してしまった、とする{{sfn|亀田|2016|pp=52–54}}。しかも、「逆賊」足利尊氏を排撃する余り、建武政権と室町幕府の倫理的な断絶性が強調されたため、実証的には弱い面があった{{sfn|亀田|2016|pp=52–54}}。その上、このわずか10年余り後、1945年の[[第二次世界大戦]]の日本敗戦によって、平泉は公職を追放されて存在そのものがタブーとなり、独創的・画期的な部分もあったとはいえ、後世に影響力をほとんど持たなかった{{sfn|亀田|2016|pp=52–54}}。
 
==== マルクス主義歴史学からの批難 ====
戦後すぐの1940年代後半には、[[松本新八郎]]らによって[[マルクス主義]]からの批判が試みられ、建武政権は反革命路線・復古主義を取った失政と否定的に評価された{{sfn|亀田|2016|p=54}}。
 
==== 佐藤進一の宋朝皇帝型独裁君主説 ====
[[第二次世界大戦]]後、[[1960年]]代には、[[佐藤進一]]を中心として、後醍醐天皇は中国の皇帝を模倣した独裁者・専制君主であったという人物像が提唱され、建武政権についても、その政策は時代の流れや現実の問題を無視したものだったと否定的に評価された{{sfn|亀田|2016|pp=54–58}}。佐藤進一の学説は定説として20世紀後半の南北朝時代研究の大枠を作り{{sfn|亀田|2016|pp=54–56}}、こうした人物像や政権への否定的評価は、2010年代に入っても高校の歴史教科書([[山川出版社]]『詳説日本史 日本史B』2012年など)で採用されるなど、高校教科書的な水準では定説としての地位は失っていない{{sfn|亀田|2016|pp=43–45}}。しかし、後述するように、1990年代末からの新研究の潮流では複数の研究者から強い疑義が提出されている{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}。
 
後醍醐天皇独裁君主説では、[[建武の新政]]の解釈と評価は、おおよそ以下のようなものとなる。
 
建武の新政は表面上は復古的であるが、内実は中国的な天皇専制を目指した。性急な改革、恩賞の不公平、[[朝令暮改]]を繰り返す法令や政策、貴族・大寺社から武士にいたる広範な勢力の既得権の侵害、そのために頻発する訴訟への対応の不備、もっぱら増税を財源とする[[大内裏]]建設計画、紙幣発行計画のような非現実的な経済政策など{{efn|ただし宋朝型独裁君主説の主要な論者である佐藤進一自身は、当時[[宋銭]]の普及によって貨幣経済が広まりつつあったことを指摘し、その後押しを図る紙幣発行計画には現実的な面もあったとして、ある程度高く評価している{{sfn|佐藤|2005|pp=65–68}}。}}、その施策の大半が政権批判へとつながっていった。武士勢力の不満が大きかっただけでなく、[[公家]]たちの多くは政権に冷ややかな態度をとり、また有名な[[二条河原の落書]]にみられるようにその無能を批判され、権威をまったく失墜した。
 
==== 網野善彦の「異形の王権」論====
[[佐藤進一]]の進歩的暗君説を極限にまで発展させて、独自の説と言えるまで特異な論を為したのが、[[網野善彦]]による「異形の王権」論である{{sfn|亀田|2016|p=56}}。
 
網野は『異形の王権』(1986年)で、後醍醐天皇を「[[ヒットラー]]の如き」人物と評し{{sfn|網野|1993|p=200}}、「異形」の天皇と呼んだ{{sfn|網野|1993|p=224}}。そして、後醍醐天皇が「邪教」の仏僧[[文観]]や「悪党」楠木正成を従え、「異類異形の輩」や[[非人]]といった、本来は正道から外れた階層を取り込むことで強大な力を得たと主張する{{sfn|網野|1993|pp=200–208}}。また、元徳元年(1329年)に後醍醐が行った祈祷が「聖天供」([[大聖歓喜天]]浴油供)であったことについて、大聖歓喜天は像頭人身の男女が抱き合う像で表されることを指摘し、「極言すれば、後醍醐はここで人間の深奥の自然――[[性行為|セックス]]そのものの力を、自らの王権の力としようとしていた、ということもできるのではないだろうか」{{sfn|網野|1993|p=224}}と述べ、これをもって「異類異形」の中心たる王に相応しい天皇としている{{sfn|網野|1993|pp=218–226}}。そしてまた、当時は下剋上の空気の中、天皇の位が「遷代の職」(世襲ではなく人々の間を移り変わる職)である「天皇職」と化しつつあり、天皇家以外の者が「天皇職」に「補任」される(就任する)可能性もあるような巨大な危機が迫っていた、と主張する{{sfn|網野|1993|pp=230–231}}。そして、[[花園天皇|花園]]と後醍醐の二人はそれをいち早く嗅ぎ取り、花園は道義を身につけることで、後醍醐は異形異類の力や貨幣の力といった「魔力」を身につけることで天皇家の危機に対抗しようとしたが、建武の新政後、後醍醐はたちまち現実の「きびしい復讐」に直面し、その後は[[佐藤進一]]の定説通りの没落をしたのだとする{{sfn|網野|1993|pp=231–236}}。
 
[[森茂暁]]は、網野説について、宗教面での実証的史料を掘り起こしたことや、硬直しつつあった後醍醐天皇観に新風を与えたことについては評価し、その密教修行にも異形と言ってよい面があることは認める{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>王権としての後醍醐}}。しかし、文観を異端僧とするのは政敵の僧侶からのレッテル張りではないかと疑問を示し、また『[[建武記]]』には「異形の輩」の侵入を禁じる文があるのだから、どちらかといえば後醍醐は「異形の輩」なるものとは距離を置いていたのではないか、と指摘している{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>王権としての後醍醐}}。また、[[亀田俊和]]は、網野説は建武政権を失政と捉え、その失敗を後醍醐天皇の個人的性格に求める点では、結局のところ『太平記』史観と変わるものがない、と指摘している{{sfn|亀田|2016|p=56}}。
 
=== 再評価の流れ ===
==== 森茂暁の実証的研究と部分的再評価 ====
戦後、建武政権の実証的研究は大きく進んだ{{sfn|亀田|2016|p=58}}。とりわけ[[森茂暁]]の業績は、建武政権制度史の実証的分析における、一つの到達点と言っても過言ではない{{sfn|亀田|2016|p=58}}。その一方で、建武政権に対する歴史観そのものは、『[[太平記]]』・[[佐藤進一]]・[[網野善彦]]説を基本的に踏襲している{{sfn|亀田|2016|p=56}}。たとえば、森は2019年に至ってもまだ、その著書で後醍醐天皇を「異形」の独裁君主と位置付けている{{sfn|森|2019|p=25}}。
 
とはいえ、著書の一つ『後醍醐天皇 <small>南北朝動乱を彩った覇王</small>』(2000年){{sfn|森|2000}}の中で、『太平記』史観とは違い、森は建武政権について3つの点に大きな歴史的意義を与えている。
 
一つ目には、建武政権の発足によって日本の中心が京都と明示されたことである{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。武士の本拠は鎌倉にすべしという弟の[[足利直義]]からの強い主張をはねのけ、尊氏もまた京都を室町幕府の拠点に定めた{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。この文化・政治・経済・流通の中心に足利将軍家が身を置くことで、足利氏政権がただの武家政権ではなく全国を統治する機構にまで成長することができたのである{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。
 
二つ目は、全国支配を視野に入れて法務機関の[[雑訴決断所]]に一番一区制を導入したことである(二番は[[東海道]]担当、など){{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。これは後醍醐天皇以前の統治者には見られない発想であり、おそらくこの後醍醐の全国支配機構が以降の日本の全国政権の統治制度の基本になったのではないかと指摘し、「日本の国土に名実ともに成熟した全国政権を誕生させるうえで、建武の新政は重要な役割を果たした」と述べる{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。
 
三つ目は、鎌倉幕府では限定的な役割しか持たなかった[[守護]]を、その力を正しく認め、守護・国司併置制を採用することでその権限を増やし、室町幕府の守護制度に繋がる端緒を作ったことである{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。
 
総評として、森は後醍醐天皇に対し、(森自身はこのような性急で強い語を用いないものの)優れた革命家・早すぎた天才というような形の評価を与えた。つまり、森は鎌倉幕府→建武政権→室町幕府の間になめらかな連続性を認めることには消極的なものの、後醍醐天皇が停滞していた鎌倉幕府の政治に対し「突破口」としての役割を果たし、次代の室町的世界が成立する上での歯車を回したことについては評価した{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。またその政治構想もそれまでに言われていたほど悪いものではなく、60年ほど遅れて多くの部分が三代将軍の[[足利義満]]の頃に室町幕府の手で実現されたとした{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。
 
==== 市沢哲・伊藤喜良の建武政権論再考 ====
===== 概要 =====
後醍醐天皇研究に視点の転換をもたらした3本の重要な論文は、[[市沢哲]]の「鎌倉後期公家社会の構造と「治天の君」」(1988年、『日本史研究』314){{sfn|市沢|1988}}・「鎌倉後期の公家政権の構造と展開――建武新政への一展望――」(1992年、『日本史研究』355){{sfn|市沢|1992}}および[[伊藤喜良]]の「建武政権試論―成立過程を中心として―」(1998年、『行政社会論集』第10巻第4号){{sfn|伊藤|1998}}である{{sfn|中井|2016|pp=37–41}}{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}。
 
市沢の論文によって、建武政権の諸政策は、鎌倉時代後期の朝廷の訴訟制度改革と密接な連続性があることが示された{{sfn|中井|2016|pp=37–41}}{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}。また、伊藤の論文によって、それまで消極的にしか扱われてこなかった建武政権の諸機関が、実際には建武政権の中核であると見なされるようになり、建武政権の諸改革は挫折の過程ではなく、発展の過程であると認識されるようになった{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}。
 
===== 市沢:鎌倉後期公家社会の構造と「治天の君」 =====
1988年、市沢は、後醍醐が進めた中央集権政策が、後醍醐個人の性格によるものや時代の流れから浮き出た特殊なものだったとする佐藤・網野説を否定した。つまり、[[鎌倉時代]]後期に朝廷の訴訟制度改革が行われたことで、[[治天の君]](院(上皇)も天皇も含む)の権力に頼る事例が多くなり、後醍醐個人の思想・性格とは関係なく、そうした時代の流れが中央集権的な君主の誕生を促したのだとした。かつて後醍醐の特徴とされた抜擢人事も、別に後醍醐に限ったことではなく、対立する持明院統でも行われていたことも指摘した。
 
市沢が[[鎌倉時代]]後期の朝廷訴訟の事例を検証したところ、13世紀末ごろには貴族の家系が増えたために、家督・所領相続の訴訟が多くなってきた{{sfn|市沢|1988|pp=25–31}}。また家系が増えたために貴族人口に対して割り当てられる官位・官職も少なくなり、この争奪戦も問題になっていた{{sfn|市沢|1988|pp=25–31}}。貴族社会において、分家化の進行の圧力と抑制の圧力が拮抗し、衝突が訴訟問題として顕在化するようになったのである{{sfn|市沢|1988|pp=25–31}}。
 
こうした訴訟の裁許者(判決を下す人物)として力があったのは治天の君である{{sfn|市沢|1988|pp=31–39}}。古くは、「治天の君」という地位そのものに大した権威はなく、治天の君自身がしばしば強大な土地権利所有者であるため、その土地権利に拠る権力に基づいて土地紛争の訴訟を解決したのだと思われていた{{sfn|市沢|1988|pp=31–39}}。しかし、市沢は、実際には土地問題以外の紛争でも治天の君が裁許を主導していることを指摘し、古説に疑問を示した{{sfn|市沢|1988|pp=31–39}}。土地裁判についても、どちらかといえば土地の支配構造(歴史学用語で「[[職の体系]]」)の外からそれを庇護・調整する存在であったという{{sfn|市沢|1988|pp=31–39}}。さらに、[[興福寺]]などの[[権門]](巨大な権勢を有した半独立勢力)は独自の訴訟機構を有したが、その権威が弱まった時に、治天の君の名で権門の判決にテコ入れをして、権門を助けることがあった{{sfn|市沢|1988|pp=31–39}}。また、南北朝時代には、権門から朝廷への起訴経路ができるが、これも鎌倉時代後期に権門ごとに担当奉行が割り当てられたことの発展型なのではないか、という{{sfn|市沢|1988|pp=31–39}}。朝廷での訴訟問題が増えるにつれ、治天の君が果たす役割も大きくなっていった{{sfn|市沢|1988|pp=31–39}}。
 
したがって、13世紀末から14世紀初頭という後醍醐天皇が生まれ育った時代には、天皇・上皇はただの土地所有者だった訳ではなく、その「治天の君」という地位そのものに、訴訟問題解決において、相当に強大な権威と権力があった{{sfn|市沢|1988|pp=31–39}}。
 
さて、皇統が亀山→後醍醐ら[[大覚寺統]]と、それに対立する[[持明院統]]に分裂した[[両統迭立]]というのは、[[後嵯峨天皇|後嵯峨上皇]]が継承者を指定しないまま崩御しないため起こった偶発的事象であり、そこに強制力はなく、本来ならば自然に解消されるはずの事態である{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。これが何故が続いたかというと、当時の公家社会の分裂が、皇統の分裂を維持したからである{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。
 
たとえば、当初、大覚寺統有利で早期に終結しそうだったのに、持明院統が巻き返した背景には、有力公家の[[西園寺家]]内部での分裂が関わっていた{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。分裂が維持されると、[[二条派]]と[[京極派]]に分かれた[[御子左家]]や、その他にも[[山科家]]など、中小規模の公家もどちらの皇統に付くかで分裂するようになり、これが皇統の分裂を後押しさせた{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。[[女院]]領を各統が分割で相続したため、それぞれが荘園領主としても最大の存在となったことも、分裂を加速させた{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。
 
こうなれば、両統間で武力的な争いが起こり、普通はそこで解決するはずである{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。だが、当時最も大きな武力を持っていたのは[[鎌倉幕府]]であり、両統の戦いを抑止していたため戦いは起こらず、かえって両統の分裂が深刻化していくことになった{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。
 
「治天の君」という地位自体に訴訟解決の権能が備わっていたところに、両統の力が拮抗するようになると、皇統間で治天の君が変わるたびに、裁判の当事者のどちらが有利になるかが変わる、といった事態が起こるようになった{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。一度下した裁許に対しても、他統によって覆される事例まで出てくるようになり、後醍醐天皇と花園上皇の間で争った例もある{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。
 
また、両統は抗争に勝利するため、激しい人材獲得競争を繰り広げた{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。家格を越えた抜擢人事というと、後世の人間からは、建武政権の印象から後醍醐ら大覚寺統の特徴と思われがちだが、実際は対立する持明院統もほぼ等しく行っていたという{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。たとえば、[[後伏見天皇|後伏見上皇]]は[[日野俊光]]を、[[光厳天皇]]も[[日野資名]]を抜擢している{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。これは、同時代人の印象でもそうであったと思われ、『増鏡』の作者は、「久米のさら山」で、抜擢登用された人材について両統等しく記している{{sfn|市沢|1988|pp=39–43}}。
 
訴訟問題に関する治天の君の権力は大きくなる一方なのに、皇統の交代によってそれに揺れが生じると、矛盾のひずみが大きくなっていった{{sfn|市沢|1988|pp=44–45}}。これを解決するには、相手の皇統を倒すしかないが、その前にまず両統迭立の維持を支持する幕府を倒す必要がある{{sfn|市沢|1988|pp=44–45}}。このようにして見ると、後醍醐に限らず、誰かがいつかは討幕をしなければ解決しない問題だった{{sfn|市沢|1988|pp=44–45}}。ここに、当時たまたま、[[悪党]]という幕府に抵抗することを厭わない武士([[楠木正成]]など)が発生していた{{sfn|市沢|1988|pp=44–45}}。つまり、後醍醐天皇は討幕が必要であり、かつそれが可能な時代に、在位していた治天の君だっただけで、別に後醍醐個人が時代から外れた存在だった訳ではない{{sfn|市沢|1988|pp=44–45}}。むしろその逆で、時代の流れこそが後醍醐に討幕を促したのである、という{{sfn|市沢|1988|pp=44–45}}。
 
===== 市沢:鎌倉後期の公家政権の構造と展開――建武新政への一展望―― =====
1992年、市沢はまず、[[佐藤進一]]説の問題点として、佐藤は[[平安時代]]後期の朝廷政治と[[建武政権]]の朝廷政治を比較しているが、中間の鎌倉時代の朝廷政治を無視していることを指摘した{{sfn|市沢|1992|pp=30–32}}。直前の鎌倉時代後期の朝廷政治の研究も行わなければ、建武政権が本当に特異な政権だったのかどうかはわからない{{sfn|市沢|1992|pp=30–32}}。
 
鎌倉時代後期は、都市領主、つまり[[京都]]など畿内に住みながら日本各地の[[荘園]](土地)に利権を持つ大貴族・大寺社らが私兵を手駒に使って戦わせる戦争の時代だった{{sfn|市沢|1992|pp=30–32}}。貴族社会の分家化や、武士の守護・地頭による[[押領]]によって、都市領主間の抗争が活発した{{sfn|市沢|1992|pp=30–32}}。これらの抗争は、一つ目には既存の支配体制の強化、二つ目には他領主からの略奪によって起きた{{sfn|市沢|1992|pp=30–32}}。
 
たとえば、[[正応]]3年(1290年)から翌年まで、[[紀伊国]]([[和歌山県]])荒川荘で高野合戦と呼ばれる戦いが起きた{{sfn|市沢|1992|pp=32–37}}。これは[[真言宗]][[高野山]]が、別の荘園の領主である[[三毛心浄]]の軍勢を送って荘園の支配体制を強化しようしたところ、それを察知した土着の豪族の[[源為時]]が先手を打って戦いを始めたものと見られる{{sfn|市沢|1992|pp=32–37}}。為時は高野山の動きを山門([[天台宗]][[比叡山]][[延暦寺]])に訴えたので、宗教間の代理戦争の様相も呈した{{sfn|市沢|1992|pp=32–37}}。他領主からの略奪としては、[[後宇多天皇|後宇多上皇]]が[[四辻宮]]から荘園の接収をしようとし、両者は同地にいわゆる「[[悪党]]」(悪人という意味ではなく、既存の支配体制の枠組みから外れた武士・豪族たち)と呼ばれる軍事力を送って戦いを繰り広げた{{sfn|市沢|1992|pp=32–37}}。
 
とはいえ、軍事力による抗争はあくまで最終手段であり、できれば話し合いで解決したいという考え自体は誰もが持っていたと思われる{{sfn|市沢|1992|pp=32–37}}。このように、武力抗争が活発化することで、かえって訴訟制度の重要性が公家社会で再認識され、抗争を回避・解決するために、制度の整備・改革が進められたと考えられる{{sfn|市沢|1992|pp=32–37}}。
 
また、市沢は、裁判の当事者たちが、自分たちの主張に箔をつけるために、治天の君による勅を求める事例が多くなることを、前の論文に続き改めて指摘した{{sfn|市沢|1992|pp=37–45}}。さらに、訴訟でしばしば「[[徳政]]」という語が用いられていることを論じた{{sfn|市沢|1992|pp=37–45}}。当時の徳政とは、[[天人相関説]]による思想で、為政者が悪いことをすると天変地異が起こり、良いことをすると災害が治まる、という考え方である。つまり、訴訟問題を解決することが、治天の君にとっての徳政であり、朝廷での最重要課題だと考えられていたのである{{sfn|市沢|1992|pp=37–45}}。土地の支配構造の変化に伴い、「治天の君」という超越的な立場を利用して、新たな秩序を創造することこそが、天皇家に求められる役割になった{{sfn|市沢|1992|pp=37–45}}。
 
[[建武政権]]で、後醍醐がまず行った行動に個別安堵法(元弘三年六月十五日口宣案)というものがある{{sfn|佐藤|2005|pp=29–31}}。この通達やそれに続く法令が言う所は、[[綸旨]](天皇の私的命令文)によってそれぞれの領主に土地の権利を保証し、訴訟・申請の裁許も綸旨を必要とすると定めるものである{{sfn|佐藤|2005|pp=29–31}}。かつて、佐藤進一は、これを後醍醐の絶対的権力への執着欲と見なし、建武政権の異常性を示すものと考えた{{sfn|佐藤|2005|pp=29–31}}。ところが、上で見たように、実は鎌倉時代後期、治天の君権力によって土地問題に裁許を下すという発想は、既に後醍醐以前からあり、しかもそれは都市領主の側から求められたものだった{{sfn|市沢|1992|pp=37–45}}。つまり、後醍醐の政策は、領主たちの要望に応えて、時代の流れに沿ったものだったのである{{sfn|市沢|1992|pp=37–45}}。
 
しかし、このような「治天の君」権力の強化が、鎌倉時代後期には、逆に両統の分裂の矛盾を大きくすることになっていった{{sfn|市沢|1992|pp=37–45}}。皇統の分裂は、誰かがいつかは解決しなければならない問題であり、こうした訴訟問題における要請が後醍醐の行動を促したと考えられる{{sfn|市沢|1992|pp=37–45}}。
 
また、佐藤が「平安時代以来の秩序を破壊した」と主張する建武政権の他の政策についても、市沢は、平安時代ではなく、鎌倉時代後期の政治を考えれば、実は順当なものであることを指摘した{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。
 
たとえば佐藤は、[[知行国主]](国司より上位で、特定の国を事実上支配する大貴族・大寺社)がそれまで特定の家に結び付けられていたのを、後醍醐が建武政権で新たな守護・国司制を作ったことで破壊したと主張した{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。しかし、実は鎌倉時代後期、両統迭立以来、天皇の皇統が変わるたびに知行国主が変わることが多く、既に特定の国=特定の家のものという認識は崩れていた{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。その点を考えると、後醍醐の守護・国司制はそこまで急進的な改革だった訳ではない{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。
 
また、佐藤は、後醍醐が「官司請負制の破壊」という政策を行ったと主張した{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。つまり、特定の官職が特定の家に結び付けられていたのを、宋朝型官僚制の影響を受けて破壊し、官司は全て後醍醐の支配下にあるという観念論的独裁政治を行ったのだという{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。しかし、市沢が調べてみたところ、官司請負制の破壊は全面的なものではなく、職務に能力が必要とされないものだけであった{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。つまり、[[官務]]・[[局務]]といった書記官や事務官など、能力が問われる職については、[[小槻氏]]など従来からの官僚的氏族がそのまま担当した{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。逆に、[[馬寮]]など、特に職務がなく、利益を受け取るだけの恩賞的な官職については、後醍醐は恩賞代わりに自由に配分した{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。しかも、これは後醍醐に特有なものではなく、13世紀半ばごろから、恩賞的な官職については特定の家に結びつかないことが徐々に増えていく傾向にあった{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。また、こうした鎌倉時代中期からの恩賞的官職の分配を左右できる力が、鎌倉時代後期の治天の君権力の強化に繋がったとも考えられる{{sfn|市沢|1992|pp=46–50}}。
 
結論として、後醍醐・建武政権の中央集権政策は特異なものではなく、鎌倉時代後期の朝廷の訴訟制度改革の中で、領主たちの求めに応じて生じた「治天の君」権力の強化の流れとその政策を、順当に発展させたものであるという{{sfn|市沢|1992|pp=50–51}}。また、[[鎌倉幕府]]は武士の惣領の選定に原則干渉できなかったのに、[[室町幕府]]には相続法がなく、惣領選定に強い権力を有した{{sfn|市沢|1992|pp=50–51}}。市沢によれば、これは、鎌倉時代後期の治天の君権力(朝廷政策)→建武政権の中央集権政策→室町幕府の中央集権政策というように受け継がれたものであり、したがって、建武政権と室町幕府の間にもその政策に連続性が見られるという{{sfn|市沢|1992|pp=50–51}}。
 
===== 伊藤:建武政権試論―成立過程を中心として― =====
1998年、[[伊藤喜良]]は[[佐藤進一]]の「綸旨万能主義」説を否定した{{sfn|伊藤|1999}}。綸旨万能主義というのは、全てを天皇の私的文書である[[綸旨]](りんじ)で決めるという主義である{{sfn|伊藤|1999}}。佐藤は、後醍醐は綸旨万能主義を奉じる観念論的独裁者で、建武政権は、雑訴決断所など綸旨万能主義に制限を加える機関が設置されていくことで、後醍醐の理想主義が挫折していく過程だと捉えた{{sfn|伊藤|1999}}。伊藤はこれに反対し、後醍醐は綸旨万能主義などは考えておらず、初期の綸旨乱発は機関がないための便宜上の措置に過ぎないとした{{sfn|伊藤|1999}}。そして、雑訴決断所等の非人格機関こそが、政権の中央集権政治を補完するための中核機構であると位置付けた{{sfn|伊藤|1999}}。建武政権はこれらの非人格機関が、現実的に整えられていく発展の過程であるとした{{sfn|伊藤|1999}}。
 
伊藤はまず、「綸旨万能主義」説の最初の論拠とされた、個別安堵法(元弘三年六月十五日口宣案)について検討を加えた{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。佐藤は、この文書を「旧領回復令」と解釈し、[[元弘の乱]]で誰かに奪われた所領は元の持ち主に返し、その後の土地所有権の変更は、綸旨(天皇の私的命令文)による個別の裁許を仰ぐように命令したものだと解釈した{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。
 
しかし、伊藤によれば、この文書はその前の4月から5月にかけて出された軍法と関連付けて考えるべきであるという{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。元弘の乱末期、幕府が劣勢なのが明らかになると、討幕にかこつけて略奪を行う不埒な輩が続出していた{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。後醍醐は、略奪を繰り返す自称討幕軍を「獣心人面」と厳しく非難し、厳罰に処すとした{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。ところが、兵糧米の徴収は現場の判断に任せるとするなど、命令文にも曖昧なところがあり、実際には元弘の乱が終結した後も中々略奪が収まらなかったと考えられる{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。伊藤によれば、6月15日の命令は、戦争が終結したので、軍法のうち「現場の判断」という事項を緊急的に停止し、濫妨狼藉の阻止を狙ったものではないか、という{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。つまり、「旧領回復」や「綸旨万能」とは全く関係がなく、そもそも後醍醐はそのようなことを考えてはいなかった{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。
 
実際、同年10月に、[[陸奥守]][[北畠顕家]]が、六月十五日口宣案ともう一つの文書(後述の7月25日宣旨)に関連付けて発した陸奥国国宣では、濫妨狼藉を厳しく戒めることと、所領安堵の方針は原則として、(旧領ではなく)現在のものを認めることにしている{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。また、その後、顕家は[[当知行]]安堵(現在の実効所領を安堵)の方針で行動している{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。後醍醐の股肱の臣である顕家がこのように解釈するのだから、後醍醐の方針もこれと基本的に同じと考えるべきであるという{{sfn|伊藤|1999|pp=66–73}}。
 
6月からしばらくの間、佐藤の指摘のように、しばらく後醍醐は大量に綸旨を発給するようになる{{sfn|伊藤|1999|pp=73–74}}。しかし、伊藤によれば、これは新しい支配機構がまだ出来ていないのだから、私的文書で暫定的に対応をするのは当たり前のことであり、綸旨を万能と考えた訳ではなく、綸旨に頼るしかなかったというのが正解であろうという{{sfn|伊藤|1999|pp=73–74}}。
 
同年7月25日、後醍醐天皇は、[[宣旨]](天皇の正式文書)を発し、朝敵を北条一族とその与党のみに限定し、当知行安堵(現在の実効支配領域を保証)の方針を明確に定め、また安堵の取り扱いを各国の[[国衙]](県でいう県庁)に委任することにした{{sfn|伊藤|1999|pp=74–78}}。後醍醐が綸旨万能主義を志向したと主張する佐藤は、これを後醍醐の敗北と捉えた{{sfn|伊藤|1999|pp=74–78}}。しかし、伊藤によれば事実は逆で、この宣旨こそが建武政権の基本指針であり、本当の全国政権として活動し始めた端緒と見なされるのではないかという{{sfn|伊藤|1999|pp=74–78}}。これ以降、建武政権の諸政策はこの7月25日の宣旨の方向に沿って、新しい骨格が築き上げられていく{{sfn|伊藤|1999|pp=74–78}}。
 
8月から9月上旬にかけては、各国の国司に「[[後の三房]]」[[吉田定房]]や「[[三木一草]]」[[楠木正成]]など側近中の側近が割り当てられたが、これも7月の宣旨の内容を達成するために地方国衙を充実させようとしたものである{{sfn|伊藤|1999|pp=79–82}}。また、[[鎌倉幕府]]の[[御家人]]制も、一部の武士のみに特権を与えるという前時代的な制度なので廃止した{{sfn|伊藤|1999|pp=79–82}}。
 
最も重要なのが、裁判機関である[[雑訴決断所]]の設置である{{sfn|伊藤|1999|pp=79–82}}。後醍醐天皇が中央集権化を目指したのは明白だが、佐藤説の言うような綸旨万能主義(天皇個人が全てを裁許する主義)では、客観的に言って天皇の仕事量が多すぎて中央集権化を達成できる訳がないし、後醍醐もまたそうは考えなかったであろう{{sfn|伊藤|1999|pp=79–82}}。そうではなくて、統制の取れた非人格機関を設置し、その機関を通じて各国の国衙を効率的に支配することこそが、後醍醐の意図する中央集権化の完成形だったのではないか、とした{{sfn|伊藤|1999|pp=79–82}}。したがって、この雑訴決断所こそが建武政権の実体の出発点と言える{{sfn|伊藤|1999|pp=79–82}}。翌年1月まで次々と新政を補完するための新機関の設置が行われていった{{sfn|伊藤|1999|pp=82–85}}。
 
また、後醍醐は[[地方分権]]制を重視した先駆的な為政者でもあった{{sfn|伊藤|1999|pp=85–94}}。東北の半独立統治機構である[[陸奥将軍府]]について、伊藤は[[護良親王]]・[[北畠親房]]の主導によるものという『[[保暦間記]]』の説を否定し、後醍醐の主導によるものという当事者の親房自身の証言(『[[神皇正統記]]』)を信じるべきであろうとした{{sfn|伊藤|1999|pp=85–94}}。そして、後醍醐は、中央集権化を効率よく達成するためには、陸奥のように特色があり、反乱も続く地域に対しては、独自の裁量を持つ自治機関に任せた方が良いと考えたのではないか、という{{sfn|伊藤|1999|pp=85–94}}。実際、強大な権限を託された[[北畠顕家]]は、東北の乱を瞬く間に鎮めていった{{sfn|伊藤|1999|pp=85–94}}。
 
[[足利氏]]が任された[[鎌倉将軍府]]についても、この時点では後醍醐は足利氏に全面的な信頼を置いており、やはり東国の反乱に備えて、新政府の藩屏としたものではないかという{{sfn|伊藤|1999|pp=94–100}}。いわば中華の皇帝制の[[藩鎮]]のようなものではないかという{{sfn|伊藤|1999|pp=94–100}}。
 
また、後醍醐は、国より更に小さい地域単位である郡を重視して、郡に関する法令を度々発しており、郡政所もまた高い機能を有した{{sfn|伊藤|1999|pp=101–103}}。これによって、地方統治の階層構造が出来上がり、非人格機関を通して、地方の隅々まで掌握できるようになったのである{{sfn|伊藤|1999|pp=101–103}}。
 
伊藤は、物事を結果論から評価するのは危険であると指摘する{{sfn|伊藤|1999|pp=103–106}}。確かに上記の努力にもかかわらず、結果論としては、建武政権は短期間で崩壊した{{sfn|伊藤|1999|pp=103–106}}。しかし、崩壊したからと言って、常に歴史的意義がない訳ではなく、まず考察を深めてから判断する必要がある{{sfn|伊藤|1999|pp=103–106}}。また、建武政権の王権論については、佐藤は建武政権を官僚制・君主独裁制を目指したとしたが、伊藤は封建王制を目指したのではないか、とした{{sfn|伊藤|1999|pp=103–106}}。後醍醐が狙ったのは、君主個人の力による独裁ではなく、整備された官制組織と制度を作ることで、最終的な決裁を行うという形の政策だったと考えられる{{sfn|伊藤|1999|pp=106–109}}。他に、単に朝廷と幕府を統一したのを「公武一統」と言っただけではなく、本気で公家と武家の区別をなくすことを考えており、武家を多数裁判機関に登用したり、逆に北畠顕家のような文官公家層を武門に抜擢したのは、その一環であろうという{{sfn|伊藤|1999|pp=109–111}}。
 
==== 内田啓一の反「異形の王権」論 ====
後醍醐天皇を宗教的・人格的な異常者と見なす[[網野善彦]]の「異形の王権」論に対しては、[[仏教美術]]研究者の[[内田啓一]]から疑問が提出された。内田は、『文観房弘真と美術』(2006年、法藏館){{sfn|内田|2006}}と『後醍醐天皇と密教』(2010年、法藏館){{sfn|内田|2010}}を発表し、網野説は根拠を欠き疑わしいことを指摘した。
 
内田はまず、後醍醐の仏教政策面での最大の腹心である[[文観|文観房弘真]]の美術と経歴を調べた{{sfn|内田|2006}}。文観は、網野によって、性的儀礼を信奉する武闘派の怪僧と定義された人物である{{sfn|網野|1993|pp=200–208}}。しかし、内田によればこのような人物像は敵対派閥による中傷文書と、『太平記』および後世の文書でしか確認できない{{sfn|内田|2006}}。同時代の史料や美術作品に当たれば、文観は高徳の僧侶であり、さらに学僧としても画僧としても中世で最大級の業績をあげた人物であるという{{sfn|内田|2006}}。また、文観は[[真言律宗]]の系譜の上では、後醍醐の祖父の亀山が帰依した[[叡尊]]の孫弟子に当たる{{sfn|内田|2006|pp=214–218}}。そして、[[真言宗]]の系譜の上では、後醍醐の父が帰依した[[道順]]の高弟であるから、文観と後醍醐の結びつきも突飛なものではなく、自然な流れであると考えられる{{sfn|内田|2006|pp=116–117}}。
 
網野らが幕府呪詛の像とした[[般若寺]]本尊の文殊像も、内田によれば、叡尊から続く真言律宗の伝統様式で作られており、銘文も定型句であり、そこに大げさな意味は見いだせない{{sfn|内田|2006|pp=214–218}}。また、『太平記』や網野は、後醍醐が正妃である[[中宮]][[西園寺禧子]]の御産祈祷に偽装して、幕府へ呪詛の祈祷を行ったとする{{sfn|内田|2010|pp=104–109}}。しかし、安産祈祷で用いられた「聖天供」という儀式は仏教的にいえばあくまで息災法(除災や快癒を祈る祈祷)の儀式であり、幕府調伏の祈祷だとか性的儀礼だとかの、いかがわしい意味はとても考えにくいという{{sfn|内田|2010|pp=104–109}}。
 
内田は、後醍醐・文観が異形の人物であるという説を否定するとともに、後醍醐の親子関係にも焦点を当てた。佐藤や網野の説としては、後醍醐は朝廷の異端児であり、まともな父の[[後宇多天皇|後宇多上皇]]とは敵対したとされていた{{sfn|網野|1993|pp=221–222}}。しかし、実際に後醍醐の宗教活動を見てみると、[[灌頂]](密教における授位の儀式)で、父の後宇多もかつて身につけたことがある「[[犍陀穀糸袈裟]]」([[国宝]])を使用するなど、父の足跡を辿っていることが多い{{sfn|内田|2010|pp=101–102}}。つまり、後宇多を敬愛し、その宗教政策を受け継いでいることを指摘した{{sfn|内田|2010|pp=101–102}}。また、異端かどうかについても、父の後宇多は、[[金剛峯寺|高野山]]の奥の院にこもったり、密教僧として弟子を取ったりなど大きな活動をしているが、後醍醐はそこまではしておらず、むしろ密教修行者としては父より穏健派であるという{{sfn|内田|2010|pp=225–226}}。
 
==== その後 ====
市沢・伊藤説ははじめそれほど注目を浴びなかったが、21世紀に入ると、鎌倉時代後期と室町時代初期の研究が進んだ結果、後醍醐天皇の諸政策は前後の時代と連続性が見られることが指摘されるようになった{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}。これらは、市沢・伊藤説の想定と合致するものであったから、後醍醐は内政的手腕に優れた人物であり、その政策は現実的で有効な改革だったと再評価されるようになった{{sfn|亀田|2016|pp=59–61}}。
 
たとえば、2013年、[[亀田俊和]]は、[[室町幕府]]で初代[[執事]][[高師直]]が行った改革の目玉である執事施行状というものが、後醍醐天皇が発案した(あるいは側近が発案して後醍醐が積極的に主導した)[[雑訴決断所]]施行牒というものを改良したものではないか、と主張した{{sfn|亀田|2013|pp=119–121}}。これらは、土地を与える指示に、関連文書を添付することで、大元の指示に誤りがないか検査を行うと共に、不法占拠が行われている土地の引き渡しに、国からの強制執行権をもたせて、弱小な寺社や武家でも安全に土地が得られるようにした制度である{{sfn|亀田|2013}}。無論、これも無から出来た訳ではなく、[[鎌倉幕府]]によって局所的・部分的に用いられていた制度を、後醍醐が全国的・本質的なシステムとして構築し直したものである{{sfn|亀田|2013|pp=119–121}}。
 
その他の研究成果についても、2016年に『南朝研究の最前線 : ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』(日本史史料研究会/呉座勇一編、[[洋泉社]])によって一般向けに書籍の形で紹介されることになった{{sfn|日本史史料研究会|呉座勇一|2016}}。
 
また、政治指針としても、融和路線をまず第一に考える政治家であったことが指摘されるようになった。たとえば、2007年、[[河内祥輔]]は、『[[太平記]]』で「一回目の討幕計画」とされていた、いわゆる[[正中の変]]という事件が、歴史的には本当に冤罪だったという説を示した{{sfn|河内|2007|pp=304–347}}。後醍醐は[[関東申次]](朝廷と幕府の折衝役)の娘の[[西園寺禧子]]を[[中宮]](正妃)としており、幕府とは友好関係にあった{{sfn|河内|2007|pp=304–347}}。相次ぐ御産祈祷なども、禧子との間に皇子さえ誕生すれば、幕府と戦わずとも自身の系統を存続させられるため、融和路線の一環ではないか、という{{sfn|河内|2007|pp=304–347}}。2012年には、[[三浦龍昭]]によって、建武政権成立後も、[[後伏見天皇|後伏見]]皇女[[珣子内親王]]との婚姻や、娘の[[懽子内親王]]と[[光厳天皇|光厳上皇]]との婚姻政策などで[[持明院統]]への懐柔政策を図っていたことが指摘された{{sfn|三浦|2012}}。2018年には、[[保立道久]]が、建武政権成立後3日目という早期の時点から、土地の安堵や禅宗政策などを通じて、持明院統との和解・統合の政策を実施していたことを指摘した([[#禅律国家構想]]){{sfn|保立|2018}}。
 
[[呉座勇一]]もまた、「執念」「不撓不屈の精神」「独裁者」「非妥協的な専制君主」といった人物像は『太平記』以前には見られず、『太平記』とそれ以降に作られた後世のイメージであり、実際は少なくとも当初は鎌倉幕府との融和路線を目指していた協調的な人物であるというのが、後醍醐の歴史的実像であろうとしている{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.2 通説には数々の疑問符がつく}}{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.4 後醍醐の倒幕計画は二回ではなく一回}}。なぜこのような人物像が作られたかというと、その方がわかりやすいからだという{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.4 後醍醐の倒幕計画は二回ではなく一回}}。結果論として、後醍醐は武力で鎌倉幕府を倒し、しかも子孫を含めれば室町幕府と60年近い戦いを繰り広げることになる{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.4 後醍醐の倒幕計画は二回ではなく一回}}。融和路線を敷いていたのに、そこから様々な紆余曲折があって大戦に至った、というのは、結果を知っている後世の人からしてみると、直感的に理解しにくい{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.4 後醍醐の倒幕計画は二回ではなく一回}}。それよりも不撓不屈の好戦的な人間が、即位当初から討幕を計画していたという設定の方が、話としては理解しやすいため、それが広まってしまったのではないかという{{sfn|呉座|2018|loc=§4.1.4 後醍醐の倒幕計画は二回ではなく一回}}。
 
2018年、『[[太平記]]』研究者の[[兵藤裕己]]は、後醍醐天皇を主題にした書籍を岩波新書から著した{{sfn|兵藤|2018}}。兵藤は、政治面については、1960年代の[[佐藤進一]]説をほぼそのまま用い、綸旨万能主義と宋朝型独裁君主制が挫折して云々という説明をする{{sfn|兵藤|2018|pp=147–178}}。その一方で、兵藤は、専門書でしか出されていなかった[[内田啓一]]の業績を一般向けに紹介し、後醍醐天皇や腹心の[[文観|文観房弘真]]が異形の人間であるという中傷の解消に努めた{{sfn|兵藤|2018|pp=79–114}}。また、『太平記』では人格的に下劣に描かれる後醍醐・文観・寵姫[[阿野廉子]]らだが、兵藤によれば、これらの部分は[[玄恵]]らによる後世の改変が入っていると見られ、信用をおけないという{{sfn|兵藤|2018|pp=79–114}}。兵藤はまた、後醍醐という(人物そのものというよりは)人物像が、[[水戸学]]や[[明治政府]]、現代社会においてどのような影響を及ぼしたのかについても議論した{{sfn|兵藤|2018|pp=206–233}}。
 
2020年には、中井裕子が、人格面から後醍醐の再評価を行った{{sfn|中井|2020}}。[[森茂暁]]らの古い説では、傍系である後醍醐は父の後宇多から冷遇されて鬱屈した少年時代を過ごし、それで性格が捻じ曲がって討幕を考えるようになったのだと説明されていた{{sfn|2007|loc=§1.1.7 鬱屈した少年時代}}。しかし、中井が、『[[正親町三条実躬|実躬卿記]]』『[[二条道平|道平公記]]』など当時の日記を当たったところ、実際には、後醍醐は父帝の後宇多を含めて親族からは愛情をかけて育てられており、後宇多とはしばしば私生活でも政治上でも協調して行動していたという{{sfn|中井|2020|pp=16-30}}。こうした環境の中、後醍醐自身もまた情愛の深い人間に育ち、子どもたちに愛情を注いで養育していたという{{sfn|中井|2020|pp=30–31}}。
 
== 側近 ==
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== 諡号・追号・異名 ==
後醍醐天皇は、[[延喜・天暦の治]]と称され天皇親政の時代とされた[[醍醐天皇]]・[[村上天皇]]の治世を理想としていた。天皇の[[諡号]]や[[追号]]は通常死後におくられるものであるが、醍醐天皇にあやかっては、生前自ら後醍醐の号を定めていた{{sfn|2005|p=22}}。たとえば、[[輪王寺]]銅鋺延元元年付には「当今皇帝……後醍醐院自号焉」とあり、崩御3年前の[[延元]]元年/[[建武 (日本)|建武]]3年([[1336年]])時点で既に後醍醐の名が広く知られていた{{sfn|2005|p=22}}。これを'''遺諡'''といい、[[白河天皇]]以後しばしば見られる。また、醍醐天皇は[[宇多天皇]]の皇子であり、後醍醐天皇は自己を父・後宇多天皇の正統な後継者として位置づける意味で命名したとする説もある。なお「後醍醐」は分類としては追号になる(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。
 
20世紀時点での通説としては、後醍醐は[[延喜・天暦の治]]と称され天皇親政の時代とされた[[醍醐天皇]]・[[村上天皇]]の治世を理想としており、そのため醍醐に後を付けて後醍醐にしたのだとされていた{{sfn|2005|p=22}}。一方、21世紀に入り、[[河内祥輔]]は、父の[[後宇多天皇]]も生前から追号を「後宇多」と定めていたことを指摘し、[[宇多天皇]]が子の醍醐天皇のために書き残した遺訓の『[[寛平御遺誡]]』にあやかって、『寛平御遺誡』の名声を通じて自身が後宇多の後継者であることを示したかったのではないか、という説を唱えている{{sfn|河内|2007|pp=292–293}}。
 
崩御後、北朝では[[崇徳天皇|崇徳院]]・[[安徳天皇]]・[[後鳥羽天皇|顕徳院]]・[[順徳天皇|順徳院]]などのように徳の字を入れて[[院号]]を奉る案もあった。平安期に入ってから「徳」の字を入れた漢風諡号を奉るのは、配流先などで崩御した天皇の鎮魂慰霊の場合に限られていたが、結局生前の意志を尊重して南朝と同様「後醍醐」とした。あるいは、その院号は治世中の年号(元徳)からとって「元徳院」だったともいう。
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|7= 7. 平高輔女
|8= 8. [[後嵯峨天皇|第88代 後嵯峨天皇]]
|9= 9. [[西園寺きつ子|西園寺姞子]]
|10= 10. [[洞院実雄]]
|11= 11. 徳大寺栄子
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== 后妃・皇子女 ==
=== 后妃・皇子女の数概要 ===
后妃・皇子女の数は諸説あるが、実在が確実な后妃は8人、皇子は8人、皇女は8人である([[#確実な后妃・皇子女の一覧]])。
後醍醐天皇は、『[[本朝皇胤紹運録]]』([[応永]]33年([[1426年]]))に記録されているだけでも、20人の女性との間に、17人の皇子と15人の皇女、計32人の子を儲けた{{sfn|亀田|2017|p=12}}。
 
とりわけ、正妃である[[中宮]](のち[[皇太后]])の[[西園寺禧子]]が一貫して絶大な寵愛と寵遇を受けた{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。[[元徳]]2年([[1330年]])[[11月23日 (旧暦)|11月23日]]、後醍醐天皇は、腹心の[[文観]]に無理を言って、禧子に当時の[[真言宗]]最高の神聖儀式である「[[瑜祇灌頂]]」を受けさせたため、禧子は聖界においても日本の頂点に立ったが、これほどの地位を与えられた妃は史上先例がない{{sfn|内田|2010|pp=94–97}}。この前月、後醍醐は自分も瑜祇灌頂を受けており、法服をまとった後醍醐天皇の著名な肖像画は、この時の後醍醐側を描いたものである{{sfn|内田|2010|pp=211–217}}。禧子の側でも後醍醐に深い愛情を寄せ、そのおしどり夫婦ぶりは『[[増鏡]]』などに取り上げられた{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。
=== 一覧 ===
 
* [[皇后]]:[[西園寺禧子|藤原(西園寺)禧子]](後京極院、1303-1333) - [[西園寺実兼]]女
なお、[[北朝 (日本)|北朝]]で書かれた[[軍記物語]]『[[太平記]]』1巻では、[[南朝 (日本)|南朝]]の[[後村上天皇]]の生母である[[阿野廉子]]が、禧子から帝の寵を奪った稀代の悪女とされているが、このような記述は『太平記』1巻以外には見られず、他の現存資料と一致しない{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。『太平記』内部でも4巻などでは後醍醐と禧子の仲睦まじさが描かれており、廉子悪女説は物語としても設定が破綻している{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。史実ではないことが描かれた理由として、『太平記』研究者の[[兵藤裕己]]は、一つ目には、編纂者が文学的効果を狙って[[白居易]]の[[漢詩]]「上陽白髪人」を下敷きに創作したことと、二つ目には、現行の『太平記』の1巻・12巻・13巻には、建武政権批判を意図して、室町幕府からの改竄が加えられていると見られることを指摘している{{sfn|兵藤|2018|pp=83–88}}。
** 皇女(1314-?)
 
** 皇女:[[懽子内親王]](宣政門院、1315-1362) - [[光厳天皇]]後宮
=== 確実な后妃・皇子女の一覧 ===
* 皇后:[[じゅん子内親王|珣子内親王]](新室町院、1311-1337) - [[後伏見天皇]]皇女
この一覧では、実在がほぼ確実な后妃・皇子女のみに絞って掲載する。実在が確実な生涯の后妃の数は8人、皇子は8人、皇女は8人である。皇子女の数が計16人というのは、南朝系図としては比較的古く信頼性の高い『帝系図』([[#『帝系図』による一覧]])と一致する。
** 皇女(1335-?) - [[南朝系図]]は幸子内親王とする
 
なお、後醍醐の后妃は早逝した者が多かったため、これらの后妃が全て同時に後宮にいた訳ではない。後宮が最も大きかったのが[[建武の新政]]2年目([[建武 (日本)|建武]]元年([[1334年]]))時点で、中宮の珣子内親王・准三宮の阿野廉子・女御の二条栄子・三位の二条藤子の4人だったと見られる。また、皇子女の出生年を見る限り、皇太子時代(1308年末 - 1318年)には側室を置かず、正妃のみを妻としていた([[二条為子]](1308-1311?(1312?))、[[西園寺禧子]](1313-1318))。
 
* [[皇太后]](初め[[中宮]]):[[西園寺禧子|藤原(西園寺)禧子]](後京極院、?-1333) - [[西園寺実兼]]女
** 第四皇女(1314-?) - 早逝?
** 第五皇女:[[懽子内親王]](宣政門院、1315-1362) - [[光厳天皇]]後宮
* [[中宮]]:[[珣子内親王]](新室町院、1311-1337) - [[後伏見天皇]]皇女
** 第八皇女(1335-?) - 備考:『[[新葉和歌集]]』に[[幸子内親王]]という歌人がおり、近世系図類では幸子を珣子との皇女に当てるものがある
* [[准三宮]]:[[阿野廉子|藤原(阿野)廉子]](三位局、新待賢門院 1301-1359) - [[阿野公廉]]女、[[洞院公賢]]養女
** 第六皇女:[[祥子内親王]](1322?-?) - [[斎宮]]
** 第五皇子:[[恒良親王]](1325-?) - 後醍醐天皇皇太子
** 第六皇子:[[成良親王]](1326-1344) - [[征夷大将軍]]・[[光明天皇]]皇太子
** '''第七皇子:義良親王([[後村上天皇]]、1328-1368)'''
** 第七皇女:[[惟子内親王]](1335以前-?) - 「惟子内親王家令旨」(建武2年5月12日付)等が残る
* [[女御]]:[[二条栄子|藤原(二条)栄子]](安福殿) - [[二条道平]]女
* [[典侍]]皇太子妃:[[五辻親二条為子|藤原(五辻二条子]](権大納言典侍局、贈従三位為子、?-1311?) - [[五辻宗親二条為世]]女
** 第一皇子:[[良親王]](花園宮(1306?-1337) - [[中務卿]]常陸[[一品親王?)]]・[[上将軍]]
** 第三皇女:[[瓊子内親王]](?–?) - 『[[新葉和歌集]]』で尊良との歌があるほか、勅撰集に多数入選
* 典侍:源氏(大納言典侍) - [[北畠師重]]女
** 第四皇子:[[宗良親王]](尊澄法親王、1311-1385?) - [[天台座主]]・[[中務卿]]・[[征夷大将軍]]
* 後宮:藤原氏([[遊義門院一条局]]、?-1307?) - [[橋本実俊|西園寺実俊]](橋本実俊)女
** 第二皇子:[[世良親王]](1307?-1330)
** 第二皇女:[[欣子内親王 (後醍醐天皇皇女)|欣子内親王]](1308?-?)
* 後宮:出自不詳([[民部卿三位]]、? - 1329?)- 元[[亀山天皇|亀山上皇]]後宮、のち[[吉田定房]]室になったとする説もある
** 第一皇女:[[姚子内親王]]?(1307? - ?) - 母を民部卿三位とするのは『本朝皇胤紹運録』によるものだが、第二皇女の欣子と第三皇女の瓊子の上にもう一人皇女がいたはずであるため、便宜上ここに掲載。
** 第三皇子:[[護良親王]](尊雲法親王・大塔宮、1308-1335) - [[梶井門跡]]・[[天台座主]]・[[征夷大将軍]]
* 後宮:[[二条藤子|藤原(二条)藤子]](宣旨三位・権大納言三位局・霊照院、?-1351) - [[二条為道]]女
** 第八皇子:[[懐良親王]](鎮西宮・筑紫宮、1329?-1383) - [[征西大将軍]]・[[明]][[日本国王]]
 
皇子・皇女の順序については、『[[増鏡]]』は、尊良親王を第一皇子、世良親王を第二皇子、二条為子の皇女(瓊子内親王)を第三皇女としている(『[[増鏡]]』「秋のみ山」「春の別れ」){{sfn|井上|1983|pp=69–73, 161–162}}。また、腹心である[[北畠親房]]が著した『[[神皇正統記]]』では、義良親王(後村上天皇)は第七皇子であるとされている{{sfn|森|2007|p=244}}。『帝系図』([[応安]]4年([[1371年]]))では、欣子内親王が第二皇女で、祥子内親王が第七皇女{{sfn|帝系図|1915|pp=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879305/21 25–27]}}。
 
また、後醍醐に[[典侍]](事実上の女官長。側室になる場合も多いが、そうではない場合もある)として仕えた「後醍醐天皇大納言典侍」(「権大納言典侍」「後醍醐院権大納言典侍」とも)という勅撰歌人がおり、『[[続千載和歌集]]』に1首(恋歌五・1601)<ref name="shokusenzai-1601">{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000022189}}</ref>、『[[新千載和歌集]]』に1首(恋歌五・1577)<ref name="shinsenzai-1577">{{URL|https://jpsearch.go.jp/data/nij04-nijl_nijl_nijl_21daisyuu_0000027902}}</ref>、『[[新葉和歌集]]』に2首(釈教・615と哀傷・1328)が載る{{sfn|深津|君嶋|2014|p=353}}。理由不明だが、[[深津睦夫]]と[[君嶋亜紀]]は、大納言典侍を公卿[[洞院公敏]]の娘であるとしている{{sfn|深津|君嶋|2014|p=353}}。大納言典侍はのち出家したが、後村上天皇と特に親しく、後村上はしばしば出家した彼女のもとを尋ねて和歌を贈り合っていたようである{{sfn|深津|君嶋|2014|pp=121–122, 250}}。
 
このほか、『増鏡』「久米のさら山」では、[[隠岐島]]に流される後醍醐に、阿野廉子に加えて「大納言君」と「小宰相」という2人の女房(女官)が付き添ったとされる{{sfn|井上|1983b|pp=251–257}}。
 
=== 『帝系図』による一覧 ===
この節では、『帝系図』([[応安]]4年([[1371年]]))による系図{{sfn|帝系図|1915|pp=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879305/21 25–27]}}を掲載する。京都[[醍醐寺]][[三宝院]]所蔵の文書で、[[長慶天皇]](後醍醐の孫)の在位確定にも用いられた価値の高い史料である{{sfn|帝系図|1915|loc=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879305/5 例言]}}。以下の部分のうち、括弧(「」)で括られた部分は、応安4年(1371年)から[[後小松天皇]]([[1382年]] - [[1412年]])の代までの間に加筆されたと見られる部分{{sfn|帝系図|1915|loc=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879305/5 例言]}}。
 
* {{sup|第九十五}}後醍醐院〔「尊治、御子十六人、/母談天門院、参議忠継卿女」〕
** [[恒良親王]]
** [[後村上天皇|後村上院]]〔義儀/母後建礼門院/応安元三十一崩、/正平廿三年也〕
** [[成良親王]]
** [[懐良親王|懐良]]〔鎮西宮〕
** [[姚子内親王]]
** [[懽子内親王]]〔宣政門院/光厳院―/「母皇太后宮、実兼公女、弘徽殿、文法二八三備后妃位」〕
** [[欣子内親王 (後醍醐天皇皇女)|欣子内親王]]〔第二皇女/母前参議(正三<small>イ</small>)実俊女、橋本也〕
** [[祥子内親王]]〔第七、斎王/母従二位藤原廉子、従三公廉女〕
 
=== 『本朝皇胤紹運録』による一覧 ===
この節では、『[[本朝皇胤紹運録]]』([[応永]]33年([[1426年]]))による系図{{sfn|本朝皇胤紹運録|1930|pp=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879733/249 449–451]}}を掲載する。[[後小松天皇|後小松上皇]]の勅命による系図のため、一般論として、天皇家の系図では最も信頼性の高いものとされている。この系図では、20人の女性との間に、17人の皇子と15人の皇女、計32人の子を儲けたことになっている{{sfn|亀田|2017|p=12}}。
 
しかし、後醍醐とは違う皇統の[[北朝 (日本)|北朝]]の系統で、後醍醐崩御の約90年後に編まれたものであることには注意する必要がある。問題点として、
* より古く信頼性の高い『帝系図』では、後醍醐の子は計16人とされているが([[#『帝系図』による一覧]])、数が急に倍に増えている。
* [[延慶 (日本)|延慶]]元年([[1308年]])生まれがほぼ確実な護良親王{{sfn|森|2007|p=231}}が、[[嘉暦]]3年([[1328年]])生まれがほぼ確実な義良親王(後村上天皇){{sfn|森|2007|p=244}}の弟になっている。
* 後醍醐の腹心の[[北畠親房]]は、『[[神皇正統記]]』で、義良親王(後村上天皇)が第七皇子であると主張している{{sfn|森|2007|p=244}}。しかし、『本朝皇胤紹運録』の皇子を全てを数え上げると(たとえば伝・[[正中 (元号)|正中]]2年([[1325年]])誕生の[[法仁法親王]])、義良が第七皇子にならない。
* [[亀山天皇|亀山上皇]]の皇子である[[尊珍法親王]](静尊法親王)が混ざっている。
* [[公家]]側の権威ある家系図である[[洞院公定]]編『[[尊卑分脈]]』(14世紀末)の方では、存在を確認されない女性もいる(下記で[[四条隆資]]の娘とされる少納言内侍など)。
などがある。
 
* [[尊良親王]]〔(略)母[[二条為子|贈従三位為子]]。[[二条為世|権大納言為世卿]]女〕
* [[世良親王]]〔太宰帥。上野太守。母[[橋本実俊|三木実俊卿]]女。[[遊義門院一条局|遊義門院一条]]〕
* [[恒良親王]]〔(略)母准宮[[阿野廉子|新待賢門院]]〕
* [[成良親王]]〔(略)母同〕
* [[後村上天皇|義良親王]]〔(略)号後村上天皇云々。母同〕
* [[護良親王]]〔(略)尊雲法親王(略)号大塔宮(略)母[[民部卿三位]][[北畠師親|大納言典源師親]]女〕
* <small>寺</small> [[尊珍法親王|静尊法親王]]〔(略)改恵尊又改尊珍。母同世良〕
** 聖護院尊珍法親王(静尊法親王)は、後醍醐の祖父の亀山上皇の皇子である(当該項目参照)。
* <small>山</small> [[宗良親王|尊澄法親王]]〔(略)還俗改宗良(略)母同尊良〕
* 僧[[奠真]]〔(略)母少納言内侍。[[四条隆資|隆資卿]]女〕
** 『尊卑分脈』では、四条隆資の娘として記載されるのは、[[西園寺実俊]]の妻で[[西園寺公永]]の母となった女性のみで、少納言内侍なる女性に相当する娘がいない{{sfn|藤原|1903|loc=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991587/30
vol. 5, p. 56]}}。
** 南朝系図は[[杲尊法親王]]と同一人とする{{要出典|date=2020年6月}}。
* <small>寺</small> [[聖助法親王]]〔(略)母少将内侍。[[菅原在仲|菅在仲卿]]女〕
** 後醍醐の皇子ではなく、叔父の[[恒明親王]]の皇子である可能性がある。[[正平 (日本)|正平]]10年/[[文和]]4年([[1355年]])11月に薨去した恒明の皇子の法親王がおり、史料によって尊珍・聖珍など名前が一致しないが、『[[大日本史料]]』編纂者はこれを聖助法親王のことであるとしている<ref name="dainihon-shiryo-6-20-80">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0620/0080 『大日本史料』6編20冊80–82頁].</ref>。
* <small>仁</small> [[法仁法親王]]〔早世。母[[二条藤子|権大納言三位局]]。[[二条為道|為道朝臣]]女〕
** 法仁法親王という存在自体は、同時代の『[[新千載和歌集]]』哀傷・1270に言及される。だが、法仁の事績については、後醍醐の崩御から150年以上後の[[文亀]]4年([[1501年]])に書かれた『[[仁和寺]]史料寺誌編二』所収「仁和寺御伝」以外にまとまったものがない{{sfn|森|2007|pp=242–243}}。また、『増鏡』「久米のさら山」では、後醍醐の側室の[[二条藤子]]に、[[元弘の乱]]時点で皇子が一人しかいないかのような描写がされている{{sfn|井上|1983b|pp=251–257}}。系図類で藤子の子とされるのは法仁と懐良の二人だが、どちらか一人を選ぶなら、同時代に征西大将軍として記録が多数残る懐良の方とも考えられる。また、伝・[[正中 (元号)|正中]]2年([[1325年]])誕生の法仁{{sfn|森|2007|pp=242–243}}を後醍醐の皇子に入れると、それ以降の皇子の順序が一人ずれるため、義良親王(後村上天皇)が第八皇子となる。一方、義良は『神皇正統記』では第七皇子とされている{{sfn|森|2007|p=244}}。
* <small>興</small> [[玄円法親王]]〔一乗院。早世。母従二位守子。後山本左大臣女〕
** 後山本左大臣は[[洞院実泰]]。『尊卑分脈』では、実泰の娘として女子五人が記載されるが、いずれも記録に乏しく、天皇の室になった娘がいるとは書かれていない{{sfn|藤原|1903|loc=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991588/32
vol. 6, p. 60]}}。
* 皇子〔母中納言典侍親子。[[五辻宗親|宗親]]女〕
** 『尊卑分脈』の側では、五辻宗親には詳細不明の娘が一人いるのみ{{sfn|藤原|1903|loc=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991588/44
vol. 6, p. 84]}}。
** 南朝皇族で詳細の不明な「[[満良親王|花園宮]]」(常陸親王?)という軍事的指導者を、近世以降の所伝では「満良親王」としてこの人物に割り当てる場合が多い。
* 皇子〔[[恒性皇子|恒性]]。[[大覚寺]]。越中宮。延慶三十九配於越中国。当所守護名越於配所奉殺之。母亀山院皇女〕
** 後世の史料では、『大覚寺門跡次第』・『[[続史愚抄]]』([[江戸時代]])などにも登場する。
* 皇子〔母護良同〕
* 皇子〔[[懐良親王|阿蘇宮]]。母同法仁〕
* 皇子〔母昭訓門院近衛〕
** 知良王{{要出典|date=2020年6月}}。『[[南朝紹運図]]』は[[守永親王]]と同一人とする
* [[懽子内親王|宣政門院]]〔一品内親王懽子。母[[西園寺禧子|後京極院]]〕
* 前斎宮〔[[祥子内親王|祥子]]。母同前坊等〕
* [[姚子内親王]]〔今林尼衆。母同護良〕
* [[惟子内親王]]〔今林尼衆。鷲尾。母同前坊等〕
* 皇女〔今林尼衆。母同世良〕
* 皇女〔同尼衆。母遊義門院左衛門督局。[[二条為忠|為忠]]女〕
* 皇女〔母同尊良〕
* 皇女〔母後宇多院権中納言局〕
* 皇女〔母基時朝臣女〕
* 皇女〔関白[[近衛基嗣|基嗣]]公室。離別。母民部卿局〕
* 皇女〔母一品実子。山階左大臣女〕
** 山階左大臣は[[洞院実雄]]。『尊卑分脈』には、実雄の末娘として「後宇多院・後醍醐院官女」という女性が記載される{{sfn|藤原|1903|loc=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991588/29
vol. 6, p. 55]}}。ただし、「室」「妃」とは記されず、また両帝との間に子がいたかどうかも不明{{sfn|藤原|1903|loc=[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991588/29
vol. 6, p. 55]}}。
* 皇女〔母大納言局。実雅公女〕
* 皇女〔母坊門局〕
* 皇女〔母御室町院〕
* 皇女〔母同法仁〕
 
=== 真偽不明の后妃・皇子女 ===
著名な歴史的人物のため、後世になるほど后妃・皇子女の「記録」が増えていく傾向にある。以下では、『[[本朝皇胤紹運録]]』にも現れない真偽不明のものを挙げる。
 
* 准三宮:[[阿野廉子|藤原(阿野)廉子]](再掲)
** 皇女?:[[新宣陽門院]] - 『[[大日本史]]』は[[後村上天皇]]皇女とする。一方、阿野廉子の娘とする説がある。
* 典侍:源氏(大納言典侍) - [[北畠師重]]女
** 『[[増鏡]]』「秋のみ山」の登場人物{{sfn|井上|1983b|pp=63–68}}。後醍醐の寵愛深かったが、側近の[[堀川具親]]が盗み出してしまった{{sfn|井上|1983b|pp=63–68}}。愕然とした後醍醐だが、具親に重罪を与えるのは思い止め、官職をしばらく解いて謹慎させるだけで済ました{{sfn|井上|1983b|pp=63–68}}。事件の後も大納言典侍から後醍醐への想いは戻らなかったので、次は大納言典侍と[[洞院公泰]]が一緒になることを許したという{{sfn|井上|1983b|pp=63–68}}。朝廷の事実上の公式資料である『[[公卿補任]]』に、具親の解官について、「女の事に依る」と書いてあることが、この物語の一つの史証になる{{sfn|井上|1983b|pp=63–68}}。しかしその一方で、不審な点もある。『尊卑分脈』では、師重の娘に大納言典侍に相当する人物がいない{{sfn|井上|1983b|pp=63–68}}。また、劇中で大納言典侍が詠む歌が事件後わずか2年後の勅撰集『[[続千載和歌集]]』に、恋歌五・1601<ref name="shokusenzai-1601" />として載せられており、不自然であることなどが挙げられる{{sfn|井上|1983b|pp=63–68}}。また同じ女房名の別人である可能性もない訳ではないが、和歌に優れた「後醍醐天皇大納言典侍」なる人物は、『増鏡』の物語とは違って[[南朝 (日本)|南朝]]まで後醍醐に随行し、その嫡子の後村上天皇にも仕え、南朝で編まれた『[[新葉和歌集]]』にも歌が入集している([[#確実な后妃・皇子女の一覧]])。
* [[掌侍]]:藤原氏([[勾当内侍]]) - [[世尊寺経尹]]女:『[[太平記]]』の花形の登場人物のひとりで、[[新田義貞]]に下賜されてその愛妾となる。創作上では阿野廉子と並んで最も著名な後醍醐の側室の一人だが、実在不明。
* 典侍:藤原氏(新按察典侍) - [[持明院保藤]]女
* 後宮:[[民部卿三位]](再掲)
* 典侍:某氏(帥典侍讃岐) - 父不詳
** 皇子 - 南朝系図は尊性法親王とする{{要出典|date=2020年6月}}
* [[掌侍]]:藤原氏([[勾当内侍]]) - [[世尊寺経尹]]女
* 後宮:[[洞院守子|藤原(洞院)守子]](1303-1357)
** 皇女
** 皇子?:[[最恵法親王]] - [[妙法院]]{{要出典|date=2020年6月}}
* 掌侍:菅原氏(少将内侍) - [[菅原在仲]]女
** 皇子:[[聖助法親王]] - [[聖護院]]
* 後宮:[[阿野廉子|藤原(阿野)廉子]](三位局、新待賢門院 1301-1359) - [[阿野公廉]]女、[[洞院公賢]]養女
** 皇子:[[恒良親王]](1325-1338) - 後醍醐天皇皇太子
** 皇子:[[成良親王]](1326-1344) - [[征夷大将軍]]、[[光明天皇]]皇太子
** 皇子:義良親王([[後村上天皇]]、1328-1368)
** 皇女:[[祥子内親王]] - [[斎宮]]
** 皇女:[[惟子内親王]] - 今林尼衆
** 皇女?:[[新宣陽門院]] - 『[[大日本史]]』は[[後村上天皇]]皇女とする
* 後宮:[[民部卿三位]]([[北畠師親]]女の親子あるいは別の師親女、また一説に日野経光([[広橋経光]])女の経子とも。[[護良親王#母の出自]]参照)
** 皇子:[[護良親王]](尊雲法親王・大塔宮、1308-1335) - [[梶井門跡]]、[[征夷大将軍]]
** 皇女:[[姚子内親王]] - 今林尼衆
** 皇子 - 南朝系図は尊性法親王とする
** 皇女 - [[近衛基嗣]]室
* 後宮:[[二条為子|藤原(二条)為子]](権大納言局) - [[二条為世]]女
** 皇子:[[尊良親王]](一宮、?-1337)
** 皇子:[[宗良親王]](尊澄法親王、1311-1385?) - [[天台座主]]、[[征夷大将軍]]
** 皇女:[[瓊子内親王]](1316-1339)
** 皇女
* 後宮:[[洞院実子|藤原(洞院)実子]] - [[洞院実雄]]女
** 皇女
* 後宮:[[洞院守子|藤原(洞院)守子]](1303-1357) - [[洞院実泰]]女
** 皇子:[[玄円法親王]](?-1348) - [[一乗院]]
** 皇子?:[[最恵法親王]] - [[妙法院]]
* 後宮:[[憙子内親王]]?(昭慶門院、1270-1324) - [[亀山天皇]]皇女
** 皇子:[[恒性皇子|恒性]](越中宮、1305-1333) - [[大覚寺]]
** 皇子:[[無文元選]](1323-1390) - [[遠江国|遠江]][[方広寺 (浜松市)|方広寺]]開山
* 後宮:藤原氏(権大納言三位局・霊照院、?-1351) - [[二条為道]]女
** 皇子:[[法仁法親王]](躬良親王、1325-1352) - [[大聖院 (京都市)|大聖院]]
** 皇子:[[懐良親王]](鎮西宮・筑紫宮、1329-1383) - [[征西将軍]]
** 皇女
* 後宮:藤原氏(遊義門院一条局) - [[橋本実俊]]女
** 皇子:[[世良親王]](?-1330)
** 皇子:[[静尊法親王]](恵尊法親王) - 聖護院
** 皇女:欣子内親王 - [[准三后]]
* 後宮:藤原氏(少納言内侍) - [[四条隆資]]女
** 皇子:[[尊真]](醍醐宮) - 南朝系図は[[杲尊法親王]]と同一人とする
* 後宮:藤原氏(大納言局) - [[洞院公敏]]女、一説に[[正親町実明]]女
** 皇女 - 南朝系図は瑜子内親王とする{{要出典|date=2020年6月}}
* 後宮:藤原氏(左衛門督局) - [[二条為忠]]女?
** 皇女 - 今林尼衆
* 後宮:藤原氏(権中納言局) - [[洞院公泰]]女?
** 皇女 - 南朝系図は[[貞子内親王 (南朝)|貞子内親王]]とする{{要出典|date=2020年6月}}
* 後宮:藤原氏 - [[吉田定房]]女{{要出典|date=2020年6月}}
** 皇女:(用堂?){{要出典|date=2020年6月}}
* 後宮:藤原氏?(坊門局) - [[坊門清忠]]女?
* 後宮:源康子(飛鳥井局・延政門院播磨) - [[源康持]]女{{要出典|date=2020年6月}}
** 皇女:(用堂?)
* 後宮:源氏(若水局) - [[堀川基時]]源康持、康子妹{{要出典|date=2020年6月}}
* 後宮:源氏 - [[堀口貞義]]([[堀口貞満|貞満]]の父)女?{{要出典|date=2020年6月}}
** 皇女
** 皇女 - [[吉水院宗信]]妻、尊寿丸母{{要出典|date=2020年6月}}
* 後宮:源康子(飛鳥井局・延政門院播磨) - [[源康持]]女
* 後宮:源氏(若水局) - 源康持女、康子妹
* 後宮:源氏 - [[堀口貞義]]([[堀口貞満|貞満]]の父)女?
** 皇女 - [[吉水院宗信]]妻、尊寿丸母
* 後宮:某氏(昭訓門院近衛局) - 父不詳
** 皇子:知良王 - 『[[南朝紹運図]]』は[[守永親王]]と同一人とする
* 生母不詳
** 皇女:[[用堂]](?-1396) - [[東慶寺]]5世住持{{要出典|date=2020年6月}}
** 皇女 - [[六条有房]]室、上記何れの皇女か不明{{要出典|date=2020年6月}}
** 皇子?:[[龍泉令淬]](?-1366) - [[万寿寺]]住持{{要出典|date=2020年6月}}
** 皇子:賢光 光遍寺5代住職{{要出典|date=2020年6月}}
 
=== 皇子の名の読み ===
492 ⟶ 824行目:
 
== 伝説・創作 ==
=== 北闕の天を望まん ===
『[[太平記]]』では、崩御時に「北闕の天を望まん」と徹底抗戦を望み、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言したと描かれている。ただし史実としては、室町幕府に最大の敵意を持っていたのは腹心の[[北畠親房]]であり、後醍醐自身としてはそこまで大きな敵意を持っていた訳ではないようである([[#武士への厚遇]])。
 
=== 武士への冷遇 ===
{{seealso|#武士への厚遇}}
500 ⟶ 835行目:
また、同巻では、後醍醐天皇は身内の公家・皇族を依怙贔屓し、彼らに領地を振る舞ったため、武士に与えられる地がなくなってしまった、という<ref name="taiheiki-12-kuge-ittou" />。ただし、歴史的事実としては、側近の[[北畠親房]]が『[[神皇正統記]]』において「後醍醐天皇は足利兄弟を始めとする武士を依怙贔屓し、彼らに恩賞を配りすぎたため、本来貴族・皇族に与えるべきであった土地さえなくなってしまった」と批判しており、全くあべこべである{{sfn|亀田|2016|p=48}}。
 
また、同巻では、身内の皇族を依怙贔屓した実例として、元弘の乱で失脚した[[北条泰家]]の所領をすべて実子の[[護良親王]]に与えたことが記されている<ref name="taiheiki-12-kuge-ittou" />。ただし、歴史的事実はこれと異なり、[[新田氏]]庶流で[[足利氏]]派閥の武将[[岩松経家]]に対しても、複数の北条泰家旧領が与えられている(『集古文書』)<ref name="dainihon-shiryo-6-1-141">[https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0601/0141 『大日本史料』6編1冊141–142頁].</ref><ref>{{ Citation | 和書 | title=[[日本歴史地名大系]] | publisher=[[平凡社]] | date=2006 | contribution = 静岡県:沼津市 > 旧駿東郡地区 > 大岡庄 }}</ref><ref>{{ Citation | 和書 | title=[[日本歴史地名大系]] | publisher=[[平凡社]] | date=2006 | contribution = 静岡県:浜松市 > 旧長上郡・豊田郡地区 > 蒲御厨 }}</ref>。
 
=== 愛刀 ===
{{main|鵜飼派}}
[[File:Tachi Sword - Unsho.JPG|thumb|[[太刀]]〈銘[[雲生]]/〉([[重要文化財]]、[[東京国立博物館]]蔵)、雲生は後醍醐天皇の[[御番鍛冶]]という説が[[江戸時代]]にあったが、後に否定されている]]
[[江戸時代]]後期、[[山田浅右衛門]]吉睦の『[[古今鍛冶備考]]』([[文政]]13年([[1830年]]))が語る伝説によれば、後醍醐天皇は[[鵜飼派]](うかいは、宇甘派、雲類(うんるい)とも)の名工の[[雲生]](うんしょう)・[[雲次]](うんじ)兄弟が打った[[太刀]]を愛刀としていたという<ref name="fukunaga-ukai">{{ Citation | 和書 | last=福永 | first=酔剣 | author-link=福永酔剣 | title=日本刀大百科事典 | publisher=[[雄山閣]] | year=1993 | isbn = 4-639-01202-0 | volume=1 | pages=126, 160–161 }}</ref>。鵜飼派は、[[備前国]]宇甘郷(うかいごう/うかんごう、[[岡山県]][[岡山市]][[北区 (岡山市)|北区]][[御津]])で、[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけて活躍した[[刀工]]流派である<ref name="fukunaga-ukai" />。雲生と雲次は初め、[[長船派]]の鍛冶で、それぞれ国友と国吉という名前だったが、[[元亨]]年間([[1321年]] - [[1324年]])に入京し、後醍醐天皇の勅命で太刀を鍛刀することになった<ref name="fukunaga-ukai" />。そこで、天に対して、帝の叡慮に叶うような名剣が作れるように祈っていると、ある夜、浮雲を模した刃文を焼いた夢を、兄弟揃って見た<ref name="fukunaga-ukai" />。そこで、夢の通りの刃文を試してみると、比類ない見事さだった<ref name="fukunaga-ukai" />。兄弟が太刀を献上する時に浮雲の夢の話を後醍醐天皇にしてみたところ、帝は感じ入って、国友に「雲生」の名を、国吉に「雲次」に名を下賜した<ref name="fukunaga-ukai" />。そして、兄弟は長船派から独立して、新しく鵜飼派を立てたのだという<ref name="fukunaga-ukai" />。
 
しかし、そもそも後醍醐天皇即位以前から「雲生」銘の刀があるため、この伝説は実証的に否定される<ref name="fukunaga-ukai" />。刀剣研究家の[[福永酔剣]]は、このような伝説は『古今鍛冶備考』以前に見当たらないことを指摘し、山田浅右衛門自身による創作であろうと推測した<ref name="fukunaga-ukai" />。
536 ⟶ 871行目:
=== 古典 ===
* 後醍醐天皇『[[建武年中行事]]』
** {{ Citation | 和書
| author=後醍醐天皇
| last2=和田
549 ⟶ 884行目:
* 『[[増鏡]]』
** {{ Citation | 和書
| last=井上
| first=宗雄
| title=増鏡
| volume=中
| publisher=講談社
| series=講談社学術文庫
| year=1983a
| isbn=978-4061584495
}}
** {{Citation | 和書
| last=井上
| first=宗雄
556 ⟶ 901行目:
| publisher=講談社
| series=講談社学術文庫
| year=19831983b
| isbn=978-4061584501
}}
* 『[[梅松論]]』
** {{ Citation | 和書
| editor=内外書籍株式会社
| title=新校群書類従
575 ⟶ 920行目:
}} {{OA}}
*『[[太平記]]』
** {{ Citation | 和書
| editor=博文館編輯局
| title=校訂 太平記
585 ⟶ 930行目:
| doi=10.11501/1885211
| id={{NDLJP|1885211}}
}} {{OA}}
* 『[[新葉和歌集]]』
** {{Citation | 和書
| editor-last=正宗
| editor-first=敦夫
| editor-link=正宗敦夫
| title=神皇正統記・新葉和歌集
| publisher=日本古典全集刊行会
| series=日本古典全集基本版 17
| year=1937
| url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207755
| doi=10.11501/1207755
| id={{NDLJP|1207755}}
}}
** {{Citation | 和書
| editor-last=深津
| editor-first=睦夫
| editor-link=深津睦夫
| editor2-last=君嶋
| editor2-first=亜紀
| editor2-link=君嶋亜紀
| title=新葉和歌集
| publisher=[[明治書院]]
| series=和歌文学大系
| date=2014
| isbn=978-4625424168
}}
* 『[[尊卑分脈]]』
** {{ Citation | 和書
| editor-last=藤原
| editor-first=公定
| editor-link=洞院公定
| title=新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
| publisher=吉川弘文館
| year=1903
| url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991583
| doi=10.11501/991583
| id={{NDLJP|991583}}
}}
* 『帝系図』
** {{Citation | 和書
| editor=国書刊行会
| title=系図綜覧
| volume=1
| publisher=国書刊行会
| year=1915
| url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879305
| chapter=帝系図
| chapter-url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879305/9
| pages=1–29
| id={{NDLJP|1879305/9}}
| ref = {{harvid|帝系図|1915}}
}} {{OA}}
* 『[[本朝皇胤紹運録]]』
** {{Citation | 和書
| editor=内外書籍株式会社
| title=新校群書類従
| volume=4
| publisher=内外書籍
| year=1930
| url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879733
| chapter=本朝皇胤紹運録
| chapter-url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879733/214
| pages=379–498
| id={{NDLJP|1879733/214}}
| ref = {{harvid|本朝皇胤紹運録|1930}}
}} {{OA}}
 
=== 主要文献 ===
* {{ Citation | 和書
| last=網野
| first=善彦
596 ⟶ 1,007行目:
| series=平凡社ライブラリー 951
| date=1993
| isbn = 978-4582760101
}} - 初出は1986年。
* {{Cite Citationjournal | 和書
| last=市沢
| first=哲
| authorlink=市沢哲
| title=鎌倉後期公家社会の構造と「治天の君」
| journal=日本史研究
| publisher=[[日本史研究会]]
| number=314
| pages=23–45
| year=1988
| ref={{harvid|市沢|1988}}
}}
* {{Cite journal | 和書
| last=市沢
| first=哲
| title=鎌倉後期の公家政権の構造と展開――建武新政への一展望――
| journal=日本史研究
| publisher=日本史研究会
| number=355
| pages=30–54
| year=1992
| ref={{harvid|市沢|1992}}
}}
* {{Cite journal | 和書
| last=伊藤
| first=喜良
| authorlink=伊藤喜良
| title=建武政権試論―成立過程を中心として―
| journal=行政社会論集
| publisher=[[福島大学]]
| volume=10
| number=4
| year=1998
}}
** {{Citation | 和書
| last=伊藤
| first=喜良
| chapter=建武政権試論―成立過程を中心として―
| title=中世国家と東国・奥羽
| publisher=[[校倉書房]]
| year=1999
| pages=53–121
| isbn=978-4751729106
}} - 上記の刊本再録
* {{Citation | 和書
| last=内田
| first=啓一
| author-link=内田啓一
| title=文観房弘真と美術
| publisher=[[法藏館]]
| date=2006
| isbn=978-4831876393
}}
* {{Citation | 和書
| last=内田
| first=啓一
| title=後醍醐天皇と密教
| publisher=[[法藏館]]
| series=権力者と仏教 2
| date=2010
| isbn=978-4831875846
}}
* {{Citation | 和書
| last=亀田
| first=俊和
| author-link=亀田俊和
| title=室町幕府管領施行システムの研究
| publisher=[[思文閣出版]]
| year=2013
| isbn=978-4784216758
}}
* 建武義会編 『後醍醐天皇奉賛論文集』([[至文堂]]、[[1939年]]9月)
619 ⟶ 1,091行目:
}}
* 佐藤和彦・樋口州男編 『後醍醐天皇のすべて』([[新人物往来社]]、[[2004年]]) ISBN 4404032129
* {{Citation | 和書
| last=佐藤
| first=進一
| author-link=佐藤進一
| title=南北朝の動乱
| publisher=[[中央公論社]]
| series=日本の歴史 9
| date=1965
}}
** {{Citation | 和書
| last=佐藤
| first=進一
| title=日本歴史9 南北朝の動乱
| publisher=中央公論社
| series=中公文庫
| edition=改
| year=2005
| isbn=978-4122044814
}} - 1965年版の単行本が1974年に文庫版となったものの改版。
* {{Citation | 和書
| last=中井
| first=裕子
| author-link=中井裕子
| editor-last=久水
| editor-first=俊和
| editor-link=久水俊和
| editor2-last=石原
| editor2-first=比伊呂
| editor2-link=石原比伊呂
| chapter=後醍醐天皇
| title=室町・戦国天皇列伝
| pages=11–32
| publisher=戎光祥出版
| year=2020
| isbn=978-4864033503
}}
* {{Citation | 和書
| last = 永原
628 ⟶ 1,136行目:
| publication-date = 1994
}}
* {{Citation | 和書
* [[兵藤裕己]] 『後醍醐天皇』([[岩波新書]]、2018年) ISBN 4004317150
| last=兵藤
| first=裕己
| author-link=兵藤裕己
| title=後醍醐天皇
| publisher=[[岩波書店]]
| series=岩波新書 1715
| date=2018
| isbn=978-4004317159
}}
* [[平泉澄]] 『建武中興の本義』(至文堂、[[1934年]]9月)/新版・[[日本学協会]]、[[1983年]]5月
* 平泉澄 『明治の源流』([[時事通信社]]、[[1970年]]6月)
* [[村松剛]] 『帝王後醍醐 <small>「中世」の光と影</small>』([[中公文庫]]、[[1981年]]) ISBN 412200828X
* {{ Citation | 和書
| last=森
| first=茂暁
641 ⟶ 1,158行目:
| date=1980
}}
** {{ Citation | 和書
| last=森
| first=茂暁
648 ⟶ 1,165行目:
| series=講談社学術文庫
| date=2012
| isbn = 978-4062921152
}}上記の再版。
* {{ Citation | 和書
| last=森
| first=茂暁
657 ⟶ 1,174行目:
| series=中公新書 1521
| date=2000
| isbn = 978-4121015211
}}
 
=== その他 ===
* {{ Citation | 和書
| last=新井
| first=孝重
| author-link=新井孝重
| title=護良親王 <small>武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ</small>
| publisher=[[ミネルヴァ書房]]
| series=[[ミネルヴァ日本評伝選|日本評伝選]]
| date=2016-09-10
| isbn=978-4623078202
}}
* {{Cite journal | 和書
| last=安西
| first=奈保子
| authorlink=安西奈保子
| title=後醍醐天皇をめぐる三人の斎宮たち : 獎子内親王・懽子内親王・祥子内親王
| journal=日本文学研究
| publisher=梅光女学院大学日本文学会
| url=http://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/bg/metadata/938
| number=23
| pages=133–146
| year=1987
| ref={{harvid|安西|1987}}
}} {{フリーアクセス}}
* {{Citation | 和書
| last=岡野
| first=友彦
698 ⟶ 1,238行目:
| ref={{harvid|加藤|1990}}
}} {{フリーアクセス}}
* {{Cite Citationjournal | 和書
| last=金子
| first=哲
| authorlink=金子哲 (歴史学者)
| title=東播磨における文観の活動――空白の11年間を中心とする石塔造立・耕地開発――
| journal=鎌倉遺文研究
| publisher=吉川弘文館
| number=44
| pages=1–27
| year=2019
| month=10
| ref={{harvid|金子|2019}}
}}
* {{Citation | 和書
| last=亀田
| first=俊和
708 ⟶ 1,261行目:
| isbn=978-4642057783
}}
* {{ Citation | 和書
| last=亀田
| first=俊和
717 ⟶ 1,270行目:
| isbn=978-4642058063
}}
* {{ Citation | 和書
| last=亀田
| first=俊和
726 ⟶ 1,279行目:
| isbn=978-4-86403-239-1
}}
* {{ Citation | 和書
| last=黒板
| first=勝美
741 ⟶ 1,294行目:
| pages=607–632
}}{{OA}} - 昭和4年(1929年)11月『[[歴史地理]]』54巻5号からの再録。
* {{Citation | 和書
* [[河内祥輔]] 『日本中世の朝廷・幕府体制』([[吉川弘文館]]、[[2007年]]) ISBN 978-4-642-02863-9
| last=河内
* {{ Citation | 和書
| first=祥輔
| author-link=河内祥輔
| title=日本中世の朝廷・幕府体制
| publisher=[[吉川弘文館]]
| date=2007
| isbn=978-4642028639
}}
* {{Citation | 和書
| last=呉座
| first=勇一
749 ⟶ 1,310行目:
| publisher=[[新潮社]]
| year=2014
| isbn = 978-4106037399
}}
* {{ Citation | 和書
| last=佐藤呉座
| first=
| title=陰謀の日本中世史
| author-link=佐藤進一
| publisher=[[KADOKAWA]]
| title=南北朝の動乱
| series=角川新書
| publisher=[[中央公論社]]
| year=2018
| series=日本の歴史 9
| isbn=978-4040821221
| date=1965
}}
** {{ Citation | 和書
| last=佐藤
| first=進一
| title=日本歴史9 南北朝の動乱
| publisher=中央公論社
| series=中公文庫
| edition=改
| year=2005
| isbn=978-4122044814
}} - 1965年版の単行本が1974年に文庫版となったものの改版。
* {{Cite journal | 和書
| last=田中
783 ⟶ 1,334行目:
| ref={{harvid|田中|2010}}
}}
* {{ Citation | 和書
| last=豊永
| first=聡美
794 ⟶ 1,345行目:
| isbn=4-642-02860-9
}}
* {{ Citation | 和書
| editor=日本史史料研究会
| editor2-last=呉座
803 ⟶ 1,354行目:
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn = 978-4800310071
}}
** {{ Citation | 和書
| last=中井
| first=裕子
818 ⟶ 1,369行目:
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn = 978-4800310071
}}
** {{ Citation | 和書
| last=亀田
| first=俊和
833 ⟶ 1,384行目:
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn = 978-4800310071
}}
** {{ Citation | 和書
| last=森
| first=幸夫
848 ⟶ 1,399行目:
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn = 978-4800310071
}}
** {{ Citation | 和書
| last=細川
| first=重男
863 ⟶ 1,414行目:
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn = 978-4800310071
}}
** {{ Citation | 和書
| last=大薮
| first=海
878 ⟶ 1,429行目:
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn = 978-4800310071
}}
** {{ Citation | 和書
| last=花田
| first=卓司
893 ⟶ 1,444行目:
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn = 978-4800310071
}}
** {{ Citation | 和書
| last=大塚
| first=紀弘
908 ⟶ 1,459行目:
| series=歴史新書y
| year=2016
| isbn = 978-4800310071
}}
* {{Citation | 和書
* [[森茂暁]] 『皇子たちの南北朝 後醍醐天皇の分身』(中公文庫、2007年)。旧版は中公新書
| last=保立
* {{ Citation | 和書
| first=道久
| author-link=保立道久
| chapter=大徳寺の創建と建武親政
| editor-first=毅
| editor-last=小島
| editor-link=小島毅
| title=中世日本の王権と禅・宋学
| publisher=汲古書院
| series=東アジア海域叢書 15
| pages=263–300
| year=2018
}}
* {{Citation | 和書
| last=三浦
| first=龍昭
| author-link=三浦龍昭
| chapter=新室町院珣子内親王の立后と出産
| editor-first=成順
| editor-last=佐藤
| editor-link=佐藤成順
| title=宇高良哲先生古稀記念論文集歴史と仏教
| publisher=[[文化書院]]
| pages=519–534
| year=2012
}}
* {{Citation | 和書
| last=森
| first=茂暁
| author-link=森茂暁
| title=皇子たちの南北朝――後醍醐天皇の分身
| publisher=[[中央公論社]]
| series=中公新書 886
| year=1988
| isbn=978-4121008862
}}
** {{Citation | 和書
| last=森
| first=茂暁
| title=皇子たちの南北朝――後醍醐天皇の分身
| publisher=中央公論社
| series=中公文庫
| year=2007
| isbn=978-4122049307
}} - 上記の文庫化、改訂新版
* {{Citation | 和書
| last=森
| first=茂暁
| title=太平記の群像 軍記物語の虚構と真実
| publisher=[[角川書店]]
| series=角川選書
| date=1991-10-24
| isbn=978-4047032217
}}
** {{Citation | 和書
| last=森
| first=茂暁
| title=太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々
| publisher=[[KADOKAWA]]
| series=角川ソフィア文庫
| date=2013-12-25
| isbn=978-4044092092
}} - 上記の文庫化。
* {{Citation | 和書
| last=森
| first=茂暁
918 ⟶ 1,532行目:
| series=角川選書 583
| date=2017
| isbn = 978-4047035935
}}
* {{ Citation | 和書
| last=森
| first=茂暁
| title=懐良親王 日にそへてのかれんとのみ思ふ身に
| publisher=ミネルヴァ書房
| series=ミネルヴァ日本評伝選
| year=2019
| isbn=978-4623087419
}}
* {{Citation | 和書
| last=吉田
| first=賢司
931 ⟶ 1,554行目:
| publisher=[[思文閣出版]]
| year=2008
| isbn = 978-4-7842-1432-7
}}
* {{Cite journal | 和書
960 ⟶ 1,583行目:
== 外部リンク ==
{{commonscat|Emperor Go-Daigo}}
* [https://www.naranet.co.jp/yoshinojingu/ 吉野神宮]
* [http://furusato.sanin.jp/p/history/4/ 後醍醐天皇について]
 
{{歴代天皇一覧}}
966 ⟶ 1,589行目:
 
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[[Category:13世紀日本の人物]]
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