「三船殉難事件」の版間の差分
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秦郁彦 の調査によりソ連潜水艦による攻撃であることが確認された。 |
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== 樺太からの引揚げ ==
{{Main|樺太の戦い (1945年)}}
[[1945年]](昭和20年)[[8月15日]]に、[[大日本帝国]]政府は[[ポツダム宣言]]を受諾し、降伏文書への調印意思を連合国へ通達、翌日には各軍への停戦命令の布告及び武装解除を行った。これに対応し[[イギリス軍]]や[[アメリカ軍]]は即座に戦闘行為を停止した
ソ連軍の攻撃から避難させるため、[[大津敏男]][[樺太庁|樺太庁長官]]は長官命令で婦女子や老人を優先的に本土に送還させるため[[大泊町|大泊]]港の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸に分乗させ本土に引き揚げさせようとした<ref name=shugiin19660426>{{cite web| url = http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/051/0388/05104260388030c.html| title = 第051回国会 内閣委員会 第30号| publisher = [[衆議院]]、国立国会図書館| date = 1966-04-26| accessdate = 2010-02-28}}</ref>。
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== 国籍秘匿の潜水艦 ==
上記三船を攻撃した潜水艦について公式には今もって「国籍不明」とされているが、当時樺太にはソ連軍が侵攻していた上、[[アメリカ海軍]]や[[イギリス海軍]]の潜水艦は日本の降伏宣言を受けて国際法に則り軍事活動を停止し、同海域において軍事活動を行っていなかったために、事件直後からソ連の潜水艦であると推測されていた。戦後、当時のソ連海軍の記録から旧ソ連太平洋艦隊第一潜水艦艦隊所属の[[L-19 (潜水艦)|L-19]]とL-12の2隻の潜水艦が留萌沖付近の海上で作戦行動に就いていた事が判明した<ref name="Morozov">[[#Morozov|Morozov(2010年)]]、p. 151-153
[[2007年]](平成19年)、樺太の新聞『ソビエツキー・サハリン』の取材で[[サハリン州]][[公文書館]]から公開された資料によると、ソ連は樺太に続き北海道北部を占領するため狙撃部隊2個[[師団]]による留萌への上陸作戦計画を立てていた<ref>朝日新聞 2005年8月20日付 朝刊、オピニオン面、P.12</ref>。8月18日にアメリカ大統領[[ハリー・S・トルーマン]]は[[ヨシフ・スターリン]]に対して北海道占領を認めない旨の書簡を送った。
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* 事件の犠牲者は1,708名とされているが、疎開の混乱時であり乗船者名簿等はなく正確な乗船人員は不明。遺体が確認されていない行方不明者も相当数いるため、実際の犠牲者は更に多かった可能性がある。
* [[防衛省]]の『[[戦史叢書]]』によれば死者・行方不明者は1658名とされる<ref name="a"/>。
* 同じ[[1945年]](昭和20年)8
== 脚注 ==
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