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[[大覚寺統]]の天皇。[[元弘の乱]]で[[鎌倉幕府]]を倒して[[建武の新政|建武新政]]を実施したものの、間もなく[[足利尊氏]]との戦い[[建武の乱]]に敗れたため、[[大和国|大和]][[吉野]]へ入り、[[南朝 (日本)|南朝]]政権(吉野朝廷)を樹立し、尊氏の[[室町幕府]]が擁立した[[北朝 (日本)|北朝]]との間で、[[南北朝の内乱]]が勃発した。
 
日本史上最も偉大な統治者の一人であると、[[室町幕府]]初代[[征夷大将軍]]の[[足利尊氏]]および[[南朝 (日本)|南朝]][[准三宮]]の[[北畠親房]]から見なされた。事実、室町幕府および南朝の政策は、[[建武政権]]の政策を多く基盤としている。特に重大なのは、氏族支配による統治ではなく、土地区分による統治という概念を、日本で初めて創り上げたことである{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。裁判機構に一番一区制を導入したり{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}、形骸化していた国や郡といった地域の下部機構を強化することで統治を円滑にする手法は{{sfn|伊藤|1999|pp=101–103}}、建武政権以降の全国政権の統治制度の基礎となった{{sfn|森|2000|loc=第五章 後醍醐天皇の特質>建武新政の歴史的役割>建武新政の歴史的役割}}。その他には、土地の給付に[[強制執行]]を導入して弱小な勢力でも安全に土地を受け取ることができるシステムを初めて全国的・本質的なものにしたこと([[高師直]]へ継承){{sfn|亀田|2013}}、[[官位]]を[[恩賞]]として用いたこと{{sfn|花田|2016|pp=199–200}}、武士に初めて全国的な政治権力を与えたこと、[[陸奥将軍府]]や[[鎌倉将軍府]]など地方分権制の先駆けでもあること{{sfn|伊藤|1999|pp=85–100}}などが挙げられる。
 
学問・芸術の天才と評され、[[宋学|儒]]・[[有職故実|礼]]・[[密教|密]]・[[禅宗|禅]]・[[律宗|律]]・[[神道|神]]・[[書道|書]]・[[和歌|歌]]・[[源氏物語#歴史的注釈書|文]]・[[雅楽|楽]]・[[茶道|茶]]の全分野で記念碑的業績を残した。宋学最大の研究者の一人。また、[[有職故実]]の代表的研究書『[[建武年中行事]]』を著した。父の[[後宇多天皇|後宇多上皇]]と同様に[[真言密教]]の庇護者で[[阿闍梨]](師僧)の位を持っていた。[[禅庭]]の完成者である[[夢窓疎石]]を発掘したことは、以降の日本の文化・美意識に根源的な影響を与えた。[[伊勢神道]]を保護し、後世の神道に思想的影響を与えた。[[宸翰様]]を代表する能書帝で、『[[後醍醐天皇宸翰天長印信(ろう牋)|後醍醐天皇宸翰天長印信(蠟牋)]]』([[文観|文観房弘真]]との合作)等3点の書作品が[[国宝]]に指定されている。[[二条派]]の代表的歌人で、親政中の[[勅撰和歌集]]は『[[続後拾遺和歌集]]』(撰者は[[二条為定]])。『[[源氏物語]]』の優れた研究者。[[琵琶]]の名手で神器「[[玄象]]」の奏者であり、[[笙]]の演奏にも秀でていた。[[茶道]]の前身を始めた大茶人の一人でもある。
 
情愛深く温和な人柄のために広く慕われ、不運が幾つも重なって結果的に敵同士になってしまった尊氏からも生涯敬愛された。多くの局面において対立を好まず、融和路線を志向した。[[真言律宗]]の名僧で、[[ハンセン病]]患者などの救済に生涯を尽くした[[忍性]]を再発見、生ける[[菩薩]]として深く崇敬し、「忍性菩薩」の諡号を贈って称揚した。また、[[文観|文観房弘真]]らを通じて、各地の律宗の民衆救済活動に支援をした。正妃である[[中宮]]の[[西園寺禧子]]は才色兼備の勅撰歌人で、稀に見るおしどり夫婦として当時名高く、『[[増鏡]]』終盤の題材の一つとなっている。
 
崩御から30年後ごろに[[北朝 (日本)|北朝]]で完成した[[軍記物語]]『[[太平記]]』では、好戦的で執念深い独裁的暗君として描かれた。この人物像は1960年代の[[佐藤進一]]の学説や1980年代の[[網野善彦]]の「異形の王権」論を通して、高校教科書等にも定着した。一方、佐藤の研究を契機として、[[森茂暁]]らによって実証的研究が積み重ねられた。こうした中、20世紀末、[[市沢哲]]は、建武政権の政策には、鎌倉時代後期の朝廷政治と連続が見られると指摘した。また、[[伊藤喜良]]は、建武政権は短命に終わったとはいえ、その内部での改革には現実的な発展が見られると指摘した。2000年代には、[[内田啓一]]が[[仏教美術]]・[[仏教学]]的見地から、網野の「異形の王権」論に反対した。市沢・伊藤・内田らの説を基盤として、2000年代から2010年代にかけて研究が進められた結果、鎌倉時代後期の朝廷および幕府・建武政権・室町幕府の政策には連続性があることが確かめられた。2020年時点での新研究の範囲においては、建武政権の崩壊は偶発的事象の積み重ねによるもので必然ではなく、後醍醐は高い内政的手腕を持ち、また人格的にも優れた人間であったと評されるようになった。
 
== 生涯 ==