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|国籍 =
|郵便番号 =
|本社所在地 = {{JPN1889}} (租借地)[[大連]](1906-33)<br>{{MCK}}[[奉天市]](1933-43、鉄路総局)<br>{{MCK}}[[新京|新京特別市]](1931年以降)(1943-45)
|本店所在地 = [[関東州]][[大連市]]東公園町30
|設立 = [[1906年]]11月26日
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}}
 
'''南満洲鉄道'''(みなみまんしゅうてつどう)は、[[日露戦争]]終結後、[[1905年]]([[明治]]38年)に締結された[[ポーツマス条約]]によって、[[ロシア帝国]]から[[大日本帝国]]に譲渡された[[東清鉄道]][[哈大線|南満州支線]]([[長春]]・[[旅順]]間鉄道)のこと<ref name="kotobank">[https://kotobank.jp/word/南満州鉄道-639191 コトバンク「南満州鉄道」]</ref>。また、支線を含む[[鉄道事業]]および付属事業を経営する目的で、[[1906年]](明治39年)に設立された[[特殊会社]]、'''南満洲鉄道株式会社'''(みなみまんしゅうてつどうかぶしきがいしゃ、{{旧字体|'''南滿洲鐵{{lang|ko|}}&#xE0101;株式會&#64076;'''}}{{refnest|group="注釈"|旧字体「[[File:Gw u9053.svg|16px]]」の字は、[[異体字セレクタ]]を用いた[[Unicode]]の符号位置はU+9053,U+E0101。}}<ref>[[c:File:The South Manchuria Railway Co.jpg|THE SOUTH MANCHURIA RAILWAY CO.]]</ref>、{{lang-en|The South Manchuria Railway Co., Ltd.}})) を指す<ref name="kotobank" />。南[[満州]]において[[鉄道]][[運輸業]]を営み、日本の満洲経略における重要拠点となった<ref name="kotobank" />。略称は'''満鉄'''(まんてつ、'''滿鐵''')。
 
== 概要 ==
{{See also|野戦鉄道提理部|中国長春鉄路}}
[[ファイル:South Manchuria Railway LOC 03283.jpg|thumb|right|300px|南満洲鉄道を走る列車]]
南満洲鉄道株式会社(満鉄)は、[[日露戦争]]終結後、[[1905年]]([[明治]]38年)9月に締結された[[ポーツマス条約]]によって、[[ロシア帝国]]から[[大日本帝国]]に譲渡された[[東清鉄道]](中東鉄道)[[哈大線|南満州支線]]([[長春]]・[[旅順]]間鉄道)約764キロメートル、および支線とそれを含む[[鉄道事業]](支線合わせて当初の総延長約1,100キロメートル)および付属事業を経営する目的で、[[1906年]](明治39年)11月に設立された半官半民の国策会社である<ref name="kotobank" />。その前身は、日露戦争における[[満州軍 (日本軍)|満州軍]]の'''[[野戦鉄道提理部]]'''であり、当初保有していたのは、占領に成功し、ロシアから譲与を認められた長春以南の南満洲支線の鉄道施設および付属地、そして物資輸送のため日本軍が建設した[[軽便鉄道]]の[[安奉線]]([[丹東駅|安東]]・[[瀋陽駅|奉天]]間鉄道)とその付属地であった<ref name="ajireki-glossary">[https://www.jacar.go.jp/glossary/term3/0010-0080-0090-0010-0010.html アジ歴グロッサリー「南満洲鉄道株式会社」(公文書にみる明治日本のアジア関与—対外インフラと外政ネットワーク—)]([[国立公文書館]]:[[アジア歴史資料センター]])</ref>。満鉄は、[[撫順市|撫順炭鉱]]および[[煙台市|煙台炭鉱]]も併せて経営し、各鉄道駅前などに設定された鉄道附属地([[満鉄附属地]])において都市経営と一般行政(土木・教育・衛生)を担うなど広範囲にわたる事業を展開した<ref name="kotobank" /><ref name="ajireki-glossary" />。本社は[[関東州]][[大連市]](現、[[中華人民共和国]][[遼寧省]]大連市)に置かれた<ref name="harada18">[[#原田1|原田(1991)pp.18-22]]</ref>。
 
[[1931年]]([[昭和]]6年)9月に[[満洲事変]]が勃発し、[[1932年]](昭和7年)3月に[[満洲国]]が成立すると同国内の鉄道全線の運営・新設を委託された<ref name="kotobank" />。[[1933年]]2月、満洲国管轄下の鉄道は、満鉄が満洲国政府に対して供与する[[借款]]の[[担保]]というかたちで、委託経営がなされることとなり、3月より実施された<ref name="harak156">[[#原田2|原田(1981)pp.156-161]]</ref>。[[奉天市]](現、遼寧省[[瀋陽市]])に鉄路総局が設置され、満鉄本社内には鉄道建設局が置かれた<ref name="harak156" />。また、[[1935年]](昭和10年)には日満間で鉄道売却の協定が成立し、形式上は満洲国の所有に帰することとなった<ref name="kotobank" />。それにともない、満洲国首都の[[新京|新京特別市]](現、中華人民共和国[[長春市]])に本部が置かれ、事実上の本社となった
 
最盛期には日本の国家予算の半分規模の資本金、80余りの関連企業をもつ一大[[コンツェルン]]で、鉄道総延長は1万キロ、社員数は40万人を擁した<ref>[[#西澤|西澤(2000)]]</ref>。満鉄は、[[鉱工業]]をはじめとする多くの産業部門に進出し、日本の植民地支配機構の一翼をになったが、[[1945年]](昭和20年)、[[第二次世界大戦]]末期の[[ヤルタ協定]]によって[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]への接収が決まり、戦後は[[中華民国]]・[[ソビエト連邦]]の共同経営となった<ref name="kotobank" />。同時に、南満洲鉄道株式会社は敗戦国日本において[[閉鎖機関]]となった。満鉄が保有していた鉄道は、[[中華人民共和国]]成立後の[[1952年]]、中国に返還され、現在は'''[[中国長春鉄路]]'''と呼ばれている<ref name="kotobank" />。
 
=== 事業内容 ===
{{see also|昭和製鋼所|ヤマトホテル|満鉄調査部|満鉄公所}}
[[ファイル:Mantetsu tokyo sisha.jpeg|thumb|right|麻布虎ノ門にあった満鉄東京支社(1936年撮影)]]
[[ファイル:Dairen Yamato Hotel.JPG|thumb|right|300px|大連[[ヤマトホテル]]]]
1904年5月、日露戦争もまだ序盤の段階で、[[黒木為楨]]率いる[[第1軍 (日本軍)|第1軍]]が[[鴨緑江]]を渡って進撃しているとき、当時[[参謀次長]]であった[[児玉源太郎]]が、陸軍奏任通訳であった上田恭輔に対し、[[イギリス東インド会社]]について調査するよう依頼した<ref name="harada9">[[#原田1|原田(1991)pp.9-14]]</ref>。上田の回想によれば、これは元々[[後藤新平]]が言い出したことを[[台湾総督府]]における彼の上司であった児玉が取り上げたものだったという<ref name="harada9" />。
 
満鉄は単なる鉄道会社にとどまらなかった。日露戦争中に後藤新平の影響を受けて児玉源太郎が献策した「満経営梗概」に、「戦後満洲経営唯一ノ要訣ハ、'''陽ニ鉄道経営ノ仮面ヲ装イ、陰ニ百般ノ施設ヲ実行スルニアリ'''」とあるように、「百般の施設」によって日本の植民地経営を具体化していくための組織であった<ref name="harada9" />。この文書「満洲経営梗概」児玉・後藤ラインの満洲経営方策を示すものとして、また実際に満鉄の基本的性格を規定するに至った文書として重要である<ref name="harada9" />。
 
満鉄は鉄道経営に加えて満洲の[[農産物]]を一手に支配し、[[炭鉱]]開発([[撫順]]炭鉱など)、[[製鉄]]業([[昭和製鋼所|鞍山製鉄所]])、港湾、電力供給、[[牧畜]]、[[ホテル]]業([[大連市|大連]]・[[旅順]]・[[奉天市|奉天]]などの[[ヤマトホテル]])、[[航空会社]]などの多様な事業を行なった<ref name="hiratsuka162">[[#平塚|平塚(2010)pp.162-164]]</ref>。同時に鉄道付属地の一般行政を把握し、この地域の土木・教育・衛生事業を展開し、徴税権をも行使するなど、一企業を超えた権限を手中に収めて南満州地域の一大拠点となった<ref name="hiratsuka162" />。こうして満鉄はその影響力の巨大さから「満鉄王国」「満鉄コンツェルン」と称される[[コングロマリット]]へと成長した<ref name="hiratsuka162" />。ただし、満洲国成立後は、満洲における最大の権力者は関東軍総司令官に移り、関東軍は工業部門の統制を図るため、満鉄から各種会社を切り離したうえで重工業開発がすすめられた<ref name="hiratsuka164">[[#平塚|平塚(2010)pp.164-167]]</ref>。
 
後藤新平の発案により1907年4月に設けられた[[満鉄調査部]]は当時の日本が生み出した最高の[[シンクタンク]]のひとつであった<ref name="kobayashihideo40">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.40-42]]</ref>。これは、満鉄のユニークを表しているともに、後藤の個性とアイディアがこめられていた<ref name="kobayashihideo40" />。調査部は、総務、運輸、鉱業、地方の各部と並ぶ重要部局であり、当時、日本企業で他に調査部を持っていたのは[[三井物産]]だけであった<ref name="kobayashihideo40" />。後藤は台湾総督府[[台湾総督府#台湾総督府総務長官|民政長官]]時代にも旧慣調査などを大々的に展開しており、それを植民地経営に活用していた<ref name="kobayashihideo40" />。また、日露戦後の政情不安の満洲で企業活動を展開するためには調査活動が不可欠でもあった<ref name="kobayashihideo40" />。スタッフは全員で100名前後で経済調査、旧慣調査、ロシア調査に分かれ、他に監査班と統計班があった<ref name="kobayashihideo40" />。また、インフォーマルな情報収集活動も、満鉄が各地に設けた[[満鉄公所]]においてさかんに行われており、ここでは日本人のみならず中国人も多く働いていた<ref name="kobayashihideo42">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.42-44]]</ref> <ref>[https://www.jacar.go.jp/newsletter/newsletter_016j/newsletter_016j.html アジ歴ニューズレター第16号 南満洲鉄道株式会社関係資料の紹介]([[国立公文書館]]:[[アジア歴史資料センター]])</ref>。
 
なお、当初本社が置かれることが勅令で定められていた東京には、1907年の改正勅令で本社が大連に改められたので支社が置かれることになった<ref name="harada18" />。東京支社は、[[東京市]][[麻布区]]麻布狸穴町にかれた{{refnest|group="注釈"|現在の[[港区 (東京都)|港区]]麻布台2丁目1番2号、跡地には[[東京アメリカンクラブ]]が造られた。また、東京支社}}売却益は満鉄会の活動費ち、赤坂区葵町2番地あてられ移転し{{refnest|group="注釈"|2020年現在、[[1979年]]新築の[[商船三井]]本社ビルがある。また、東京支社の売却益は満鉄会の活動費にあてられた}}。
 
=== 鉄道附属地行政 ===
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=== 関東軍 ===
{{see also|関東軍}}
[[関東軍]]は、日露戦争後にロシアから獲得した租借地、[[関東州]]と南満州鉄道属地の守備をしていた[[関東都督府]]陸軍部が前身である<ref name="harak103">[[#原田2|原田(1981)pp.103-104]]</ref>。[[1919年]](大正8年)に関東都督府が[[関東庁]]に改組されると同時に、[[台湾軍 (日本軍)|台湾軍]]・[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]・[[支那駐屯軍]]などと同じ[[軍]]たる関東軍として独立した<ref name="harak103" />。関東軍司令部は同年4月12日、関東州[[旅順口区|旅順市]]初音町に設置され、翌日13日から事務を開始した<ref>『官報』第2014号、大正8年4月23日。</ref>。当初の[[編制]]は[[独立守備隊]]6個[[大隊]]を隷属し、また日本内地から2年交代で派遣される駐剳1個[[師団]](隷下でなくあくまで指揮下)のみの小規模な軍であった<ref name="kobayashimichihiko424">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.424-425]]</ref>。満洲事変の際の総兵力は公称1万400であったが、実際には8,800にすぎなかった<ref name="kobayashimichihiko424" />。
 
関東軍と満鉄社員の接触は[[1920年代]]から始まっており、特に関東軍と[[満鉄調査部]]ロシア班のスタッフとの交流は早かったが、その動きは決して大きなものではなかったという<ref name="kobayashihideo82">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.82-83]]</ref>。満鉄の方が関東軍よりも歴史が古く、老舗意識が濃厚で関東軍を一段下にみる風潮があり、[[第一次世界大戦]]後の反軍的雰囲気のなかでは軍に対して非協力的姿勢が顕著であった<ref name="kobayashihideo82" />。ただし、そのなかでも満鉄調査課長の[[佐田弘治郎]]やロシア班主任の[[宮崎正義]]は関東軍との連携を模索していた<ref name="kobayashihideo82" />。宮崎が関東軍参謀の[[石原莞爾]]と出会うのは、1930年秋の旅順の[[ヤマトホテル]]においてであった<ref name="kobayashihideo82" />。
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== 歴史 ==
{{main|南満洲鉄道の歴史}}
=== 桂・ハリマン協定と満洲問題協議会 ===
=== 設立までの経緯 ===
==== ポーツマス条約と桂・ハリマン協定 ====
{{see also|ポーツマス条約|桂・ハリマン協定}}
[[日露戦争]]の勝利により、日本は[[旅順]] - [[長春]]郊外寛城子間の鉄道([[南満洲鉄道]])と、これに付随する[[炭坑]]の利権を[[ロシア帝国]]より獲得し、そのことは[[1905年]][[9月5日]]調印の[[ポーツマス条約]]にも明文化された<ref name="sumiya382">[[#隅谷|隅谷(1974)pp.382-384]]</ref>。ポーツマス講和会議で[[小村寿太郎]]外相の交渉相手であった[[セルゲイ・ウィッテ]]は、ロシア帝国蔵相として[[シベリア鉄道]]および東清鉄道の建設を強力に推し進めた人物であった<ref name="wada307">[[#和田|和田(1994)pp.307-308]]</ref>。会議において日本側は当初、[[哈大線|南満州支線]]の旅順・[[ハルビン]]間の譲渡を望んだが、ウィッテは日本軍が実効支配する旅順・長春間に限って同意した<ref name="yokote191">[[#横手|横手(2007)pp.191-194]]</ref><ref name="inoue96">[[#井上|井上(1990)pp.96-101]]</ref>。日本はその代償として、ロシアが清国より既に得ていた[[吉林市|吉林]]・長春間鉄道(吉長鉄道)の敷設権の譲渡を受けた<ref name="inoue96" />{{refnest|group="注釈"|ポーツマス条約第6条は長春以南の東清鉄道南支線のロシアから日本に譲渡すること、第7条は両国の満洲における鉄道を商工業目的のために限って使用し、軍略のために用いないこと、第8条は両国間の鉄道の接続業務について早急に別役を設けることを、それぞれ定めた<ref name="inoue96" /> → 条約本文は「[[:s:日露講和條約|日露講和條約(ウィキソース)]]」参照。}}。
 
[[伊藤博文]]、[[井上馨]]らの[[元老]]や[[第1次桂内閣]]の首相[[桂太郎]]には、戦争のために資金を使いつくした当時の日本に、莫大な経費を要する鉄道を経営していく力があるか自信がもてなかった<ref name="sumiya382" />。そのため、講和条約反対で[[東京]]に暴動のきざしがみえるなか、戦争中の[[外債]]募集にも協力したアメリカの企業家[[エドワード・ヘンリー・ハリマン]]が1905年8月に来日した際、これをおおいに歓待した<ref name="sumiya382" />。ハリマンは、[[日本銀行]]の[[高橋是清]]副総裁と[[大蔵次官]]の[[阪谷芳郎]]の意を受けた{{仮リンク|ロイド・カーペンター・グリスカム|en|Lloyd Carpenter Griscom}}[[駐日アメリカ合衆国大使|駐日アメリカ合衆国公使]]の招きによって[[ジェイコブ・シフ]]などとともに来日した<ref name="kobayashihideo37">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.37-39]]</ref><ref name="iizuka146">[[#飯塚|飯塚(2016)pp.146-148]]</ref><ref name="gaikoushi">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/komura-2_08-09.pdf 「小村外交史」第8章第9節」(外務省)]</ref>。
{{multiple image
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| caption1 = 日本国首相、[[桂太郎]]
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}}
[[伊藤博文]]、[[井上馨]]らの[[元老]]や[[第1次桂内閣]]の首相[[桂太郎]]には、戦争のために資金を使いつくした当時の日本に、莫大な経費を要する鉄道を経営していく力があるかについて自信がもてなかった<ref name="sumiya382" />。そのため、講和条約反対で[[東京]]に暴動のきざしがみえるなか、日露戦争中の[[外債]]募集にも協力したアメリカの企業家[[エドワード・ヘンリー・ハリマン]]が1905年8月に来日した際、これをおおいに歓待した<ref name="sumiya382" />。ハリマンは、[[日本銀行]]の[[高橋是清]]副総裁と[[大蔵次官]]の[[阪谷芳郎]]の意を受けた{{仮リンク|ロイド・カーペンター・グリスカム|en|Lloyd Carpenter Griscom}}[[駐日アメリカ合衆国大使|駐日アメリカ合衆国公使]]の招きによって、[[クーン・ローブ|クーン・ローブ商会]]の[[ジェイコブ・シフ]]や自身の娘などとともに来日した<ref name="kobayashihideo37">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.37-39]]</ref><ref name="iizuka146">[[#飯塚|飯塚(2016)pp.146-148]]</ref><ref name="gaikoushi">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/komura-2_08-09.pdf 「小村外交史」第8章第9節」(外務省)]</ref>。
 
ハリマン一行の来日の目的は、世界を一周する鉄道網の完成という遠大な野望のために、南満洲鉄道さらには[[東清鉄道]]を買収することであった<ref name="gaikoushi" /><ref name="furuya238">[[#古屋|古屋(1966)pp.238-240]]</ref>。ハリマンは、日本の財界の大物や元老たち、桂首相らと面会した際、日本は[[ロシア帝国]]から譲渡された南満洲鉄道の権利を、アメリカ資本を導入して経営すべきだと主張し、アメリカが満洲で発言権を持てば、仮にロシアが復讐戦を企ててもこれを制止できると説いた<ref name="gaikoushi" />。[[9月12日]]、彼は日本政府に対し、1億円の資金提供と引きかえに[[大韓帝国|韓国]]の鉄道と南満州鉄道を連結させ、そこでの[[鉄道]]・[[炭坑]]などに対する共同出資・経営参加を提案した<ref name="sumiya382" /><ref name="furuya238" /><ref name="katayama181">[[#片山|片山(2011)pp.181-183]]</ref>。日本は鉄道を供出すれば資金を出す必要はなく、[[所有権]]については日米対等とはするものの、日露ないし日清の間に戦争が起こった場合は日本の軍事利用を認めるというものであり<ref name="iizuka146" />、南満洲鉄道を日米均等の権利をもつ[[シンジケート]]で経営しようという提案であった<ref name="furuya238" />{{refnest|group="注釈"|「日本政府ノ獲得セル満洲鉄道並附属財産ノ買収、該鉄道ノ復旧整備改築及延長並ニ大連ニ於ケル鉄道終端ノ完成及改良ノ為資金ヲ整フルノ目的ヲ以テ一ノシンジケートヲ組織スルコト」「両当事者ハ其取得シタル財産ニ対シ共同且均等ノ所有権を有スベキモノトス」が、その骨子であった<ref name="sumiya382" />。}}。
 
ハリマンらの来日の目的は、世界一周鉄道網の完成という遠大な野望のために、南満洲鉄道さらには[[東清鉄道]]を買収することであった<ref name="gaikoushi" /><ref name="furuya238">[[#古屋|古屋(1966)pp.238-240]]</ref>。ハリマンは、日本の財界の大物や元老たち、桂首相らと面会した際、日本は[[ロシア帝国]]から譲渡された南満洲鉄道の権利を、アメリカ資本を導入して経営すべきだと主張し、アメリカが満洲で発言権を持てば、仮にロシアが復讐戦を企ててもこれを制止できると説いた<ref name="gaikoushi" />。[[9月12日]]、彼は日本政府に対し、1億円の資金提供と引きかえに[[大韓帝国|韓国]]の鉄道と南満州鉄道を連結させ、そこでの[[鉄道]]・[[炭坑]]などに対する共同出資・経営参加を提案した<ref name="sumiya382" /><ref name="furuya238" /><ref name="katayama181">[[#片山|片山(2011)pp.181-183]]</ref>。日本は鉄道を供出すれば資金を出す必要はなく、[[所有権]]については日米対等とはするものの、日露ないし日清の間に戦争が起こった場合は日本の軍事利用を認めるというものであり<ref name="iizuka146" />、満鉄を日米均等の権利をもつ[[シンジケート]]で経営しようという提案であった<ref name="furuya238" />{{refnest|group="注釈"|「日本政府ノ獲得セル満洲鉄道並附属財産ノ買収、該鉄道ノ復旧整備改築及延長並ニ大連ニ於ケル鉄道終端ノ完成及改良ノ為資金ヲ整フルノ目的ヲ以テ一ノシンジケートヲ組織スルコト」「両当事者ハ其取得シタル財産ニ対シ共同且均等ノ所有権を有スベキモノトス」が、その骨子であった<ref name="sumiya382" />。}}。この提案を、日本政府は好意的に受け止め、元老の伊藤、井上、[[山縣有朋]]はこの案を承認、桂太郎首相は南満洲鉄道共同経営案に限って賛成した<ref name="katayama181" /><ref name="inoue101">[[#井上|井上(1990)pp.101-105]]</ref>。ハリマン提案が好意的に受け止められた理由は、ハリマンの売り込みの手腕もさることながら、「満州鉄道の運営によって得られる収益はそれほど大きくなく、むしろ日本経済に悪影響を与える」という意見が大蔵省官僚・日銀幹部の一部に根強大きかったためであり、「ロシアが復讐戦を挑んできた場合、日本が単独で応戦するには荷が重すぎる」という井上馨の危惧もその理由の一であった<ref name="iizuka146" />。桂太郎はハリマン帰米直前の[[10月12日]]、仮契約のかたちで[[桂・ハリマン協定]]の予備協定覚書を結んで、本契約は小村が帰国したのち、外交責任者である小村の了解を得てからのこととした<ref name="gaikoushi" /><ref name="katayama181" />。
 
ポーツマス会議より帰国した小村寿太郎は、ハリマン提案に断固反対し、桂や元老たちがこれを受けたのは軽率であったと反省を求めつつして、その撤回を説得して歩いた<ref name="sumiya382" /><ref name="gaikoushi" /><ref name="furuya238" /><ref name="katayama181" />。形式的には、南満洲鉄道の日本への譲渡は、ポーツマス条約の規定によって[[清国]]の同意を前提とするものであり、その点からしても、桂・ハリマン協定は不適切であるこ主張した<ref name="sumiya382" /><ref name="sasaki316">[[#佐々木|佐々木(2010)pp.316-318]]</ref>。すなわち、清国の承認を得て確実に日本のものとならない以上、その権利を半分譲るなどということはできかねるという論理を小村は持ち出したのである<ref name="gaikoushi" />。小村の見解に桂らも納得し、[[10月23日]]の閣議において破棄が決定した<ref name="sumiya382" /><ref name="katayama181" />。小村の報告によって、ハリマン=[[クーン・ローブ]]連合のライバルである{{仮リンク|モルガン商会|en|J.P. Morgan & Co.}}から、より有利な条件で外資を導入することができ、アメリカ資本を満洲から排除しようと考えていたわけではなかったことも判明し、伊藤・井上らの元老や大蔵省・日銀など財務関係者も破棄を受け容れた<ref name="iizuka146" />。正式な契約書を交わす前であったところから、日本政府はアメリカ合衆国の日本[[領事館]]に打電し、ハリマン一行乗った船が[[サンフランシスコ]]の港に到着するとすぐに覚書破棄のメッセージを手交するよう手配し、同地の総領事の[[上野季三郎]]が到着したサイベリア号に乗り込んで、覚書中止(suspend)のメッセージを伝えた<ref name="sumiya382" /><ref name="gaikoushi" /><ref name="inoue105">[[#井上|井上(1990)pp.105-109]]</ref>。
 
==== 四平街協定と満洲善後条約 ====
{{see also|四平街協定|満洲善後条約}}
1905年[[10月30日]]、日露両軍は[[四平市|四平街]]において、撤兵手続きと鉄道線路引渡順序議定書に調印した([[四平街協定]])<ref name="harada22">[[#原田1|原田(1991)pp.22-25]]</ref>。日本側代表は満洲軍参謀[[福島安正]]陸軍少将、ロシア側代表は参謀次長のオラノフスキー陸軍少将であった<ref name="harada22" />。これにより、長春以南の南満洲支線が日本側に引き渡されることとなっ<ref name="harada22" />。が、四平街以南の線路が実際に日本軍の占領下に入ってから約1年半が経過していたがおり、車両や施設は応急的なものであり、また全線にわたって信号機すらなかった<ref name="harada22" />。ここではロシアの5フィートの広軌を日本国内採用の3フィート6インチの狭軌に改め、軍用に供されており、実際に[[野戦鉄道提理部]]が管理していたのは[[昌図]]までであった<ref name="harada22" />。車両は[[機関車]]211両、[[貨車]]4,064両、[[客車]]88両に達していたが、元来は国内用を厳寒の地で走らせていたものの、防寒施設が不足していたため[[水槽]]・[[給水管]]・[[圧力計]]が氷結し、れによって不足が生じて蒸気不昇騰の事故を起こすことが多かった<ref name="harada22" />{{refnest|group="注釈"|こうした事故の危険性は当然予想されるものであったが、対策は何ら講じられなかった。日本軍が旅順占領を果たしたとき、ロシア軍が所有していた機関車を接収し、そこに装備されていた防寒設備を見習うことを初めて知ったのであった<ref name="harada22" />。}}。このような状態の鉄道を本格的な鉄道として運営するためには、抜本的な改良が必要であった<ref name="harada22" />。日露両国は[[昌図]]以北[[公主嶺]]までを[[1906年]]5月31日、公主嶺から長春の寛城子分界点までは8月31日に引き継ぐこととした(実際に引き継いだのは8月1日)<ref name="inoue105" /><ref name="harada22" />。なお、四平街以北の鉄道ゲージは5フィートのままであり、施設はロシア軍退却時にかなり破損していた<ref name="harada22" />。これについては、いずれは[[標準軌|国際標準軌]](4フィート8.5インチ)に改築する作業が必要であった。
 
[[ファイル:Komura Jutaro.jpg|右|サムネイル|170px|日本国外相、[[小村寿太郎]]]]
小村寿太郎務大臣はアメリカから帰国してわずか2週間後の1905年[[11月6日]]、ポーツマス条約の決定事項を承認させるため清国に向かい、[[11月17日]]からは北京会議に臨んだ<ref name="inoue105" /><ref name="katayama183">[[#片山|片山(2011)pp.183-185]]</ref>。日本側全権は小村と駐清公使[[内田康哉]]、清国側は[[欽差大臣|欽差全権大臣]][[愛新覚羅奕劻|慶親王奕劻]]を首席全権とし、外務部尚書の{{仮リンク|瞿鴻禨|zh|瞿鸿禨}}、直隷総督の[[袁世凱]]が全権となって交渉に臨んだ<ref name="inoue105" />。清国は日露開戦直後、内田駐清公使からの勧告などもあって、[[1896年]]の[[露清密約]](李鴻章・ロバノフ協定)によってロシアとの間に攻守同盟が結ばれていたにもかかわらず、中立を声明していたため、元来、ポーツマスでなされた清の頭越しのロシア利権の日本への譲渡を認める気は全然なかった<ref name="iizuka146" />。したがって交渉はポーツマス会議以上に難航し、[[満洲善後条約]](北京条約)が結ばれたのは[[12月22日]]のことであった<ref name="katayama183" />。
 
小村は、この条約において露清条約から引き継いだ鉄道利権の条項の遵守を盛り込むよう図り、その結果、南満洲鉄道には[[日本人]]と[[中国人|清国人]]以外は関与できないこととなった<ref name="sasaki316" />{{refnest|group="注釈"|ロシアと清国の間では[[旅順・大連租借に関する露清条約]](1898年)・[[満洲に関する露清協定]](1900年)が結ばれ、そこではロシア・清国両国人以外は鉄道に関与できないこととなっていた<ref name="sasaki316" />。}}。租借期間はロシアの東清鉄道租借期間が36年間であったことから、すでにロシアが租借して3年分を差し引き33年とした<ref name="inoue105" />。他に清は長春はハルビンなど、16市の開放を約束し、密約として南満洲鉄道の利益を妨げる併行線を敷設しないことを認めた<ref name="sasaki314">[[#佐々木|佐々木(2010)pp.314-316]]</ref>。さらに、ロシアから譲渡された鉄道沿線に日本が守備隊を置く権利を清国に認めさせた(のちの[[関東軍]])<ref name="iizuka146" />。
 
小村はまた、[[丹東|安東]]・奉天間の[[安奉鉄道]]および奉天・[[新民市|新民屯]]間の新奉鉄道を東清鉄道南支線と同様の条件で経営すること、また、ロシアから権利を譲られた吉長鉄道については日本に敷設優先権を認めるよう要求した<ref name="inoue105" />。安奉鉄道と新奉鉄道は日本が日露戦争中に実際に敷設した路線であっただけに、日本としては容易に譲歩できず、清国側も日本の経営権を認めており、結果として撤兵期間1年、改良工事期間2年、改良工事以後の経営権15年間を認め、計18年間の租借を認めた<ref name="inoue105" />。新奉鉄道については、清国はすでに1898年10月の京奉鉄道借款契約においてイギリスに敷設優先権を与えていたこともあり、って交渉が長引いは難航したが、結局これには応じなかった<ref name="inoue105" />。吉長鉄道についても、ほぼ清国の要求どおり清国が建設することとなった<ref name="inoue105" />。結果としては、新奉鉄道は日本から清国に売却され、清国によって改築・経営されることとなり、[[遼河]]以東の改築資金の半額は日本からの借款となった<ref name="inoue105" />。そして、吉長鉄道は日本が建設費の半分について借款供与することとなったのである<ref name="inoue105" />。
 
==== 英米からの抗議と西園寺の非公式旅行 ====
[[ファイル:Kinmochi Saionji.jpg|thumb|170px|満洲へお忍び旅行をした首相、[[西園寺公望]]]]
1906年3月、日本は満洲で門戸開放を実行していないのではないか、あるいはロシアの支配にあったときよりむしろ閉鎖されているのではないかという正式な抗議がイギリス(3月19日)、アメリカ(3月26日)の両国よりもたらされ、注意を呼びかけられた<ref name="sumiya382" /><ref name="furuya238" /><ref name="inoue109">[[#井上|井上(1990)pp.109-114]]</ref>。特に駐日イギリス公使の[[クロード・マクドナルド]]は直接[[伊藤博文]][[韓国統監]]に厳しい内容の書簡を送っている<ref name="iizuka148">[[#飯塚|飯塚(2016)pp.148-150]]</ref>{{refnest|group="注釈"|マクドナルドの手紙の内容は、以下のようなものであった。「愚見に依レハ現時日本政府ノ取ル政略ハ即チ、露国ト戦争ヲ為シタル際日本ニ同情ヲ寄セ軍費ヲ供給シタル国々ヲ全ク疎隔スル日本ノ自殺的政略ト評スルノ外ナシ」(『日本外交文書』39-1)<ref name="iizuka148" />}}。また、袁世凱からも日本の中国東北における諸施策は満洲善後条約に違反するとの通告が伊藤にもたらされた<ref name="harada14">[[#原田1|原田(1991)pp.14-18]]</ref>。
 
[[4月14日]]、首相[[西園寺公望]]は極秘に東京を離れて自ら中国東北におもむいて満洲の実情を把握するための非公式旅行をおこなった<ref name="harada14" />。これを勧めたのは[[児玉源太郎]]だといわれる<ref name="harada14" />。が、一国の首相が実情調査のために現地視察を行うことは実際は難しく、そのため、[[大蔵次官]]の[[若槻禮次郎]]に満洲派遣の辞令を発し、その随員に外務省の[[山座円次郎]]、農商務省の[[酒匂常明]]、鉄道作業局の[[野村龍太郎]]と、もうひとり西園寺自分自身を加えるという念の入れようであった<ref name="harada14" />{{refnest|group="注釈"|若槻と山座は酒豪としても知られていた<ref name="harada14" />。}}。お忍び旅行の目的は、清国側の考えや態度を確認し、清国官吏の心証をよくし、また彼らとの交友を通じて戦後の満洲経営のための地ならしをしようというものであった<ref name="harada14" />。そこで西園寺は満洲に対する[[列強]]の関心の強さを実感し、清国官吏がロシア軍にかわる日本軍の支配に強い反感を抱いていたことを知るのである<ref name="harada14" />。3週間の旅行を終えた西園寺は、満洲問題について会合を開き、方針を協議することとした<ref name="harada14" />。
 
==== 改修工事 ====
一方、ロシアから南満洲支線を引き継いだ野戦鉄道提理部では、ただちに改修工事に着手した<ref name="inoue105" />。上述のように昌図・四平街間は施設がかなり損壊されており、{{仮リンク|双廟子駅|zh|双庙子站}}に至っては跡かたもなく破壊されていた<ref name="harada22" />。さらに、双廟子 -四平街間は、[[枕木]]もレールも撤去されており、その間の[[橋桁]]、場所によっては[[橋脚]]も破壊されていた<ref name="harada22" />。野戦提理部は、1906年9月6日には双廟子まで、10月1日には公主嶺まで、そして11月11日は孟家屯(現在の[[長春南駅]])までのゲージを狭軌に改築し、大連との間に直通列車の運行を開始した<ref name="inoue105" /><ref name="harada22" />。
 
すでに1905年10月21日には、奉天以南の区間で軍用以外の運輸営業を開始しており、11月25日には昌図までこれが延長されていた<ref name="harada22" />。1906年に入ると引き継ぎを終えて修理が完成した区間から一般の人びとにもこれを利用できるようになった<ref name="harada22" />。戦争終了後1905年いっぱいの年末まで軍隊の[[復員]]輸送が主であり、一般輸送をおこなうほとんど行われなかった<ref name="harada22" />。しかし、復員輸送それが終わるとしだいに中国東北部の縦貫幹線としての性格を強め、多くの人びとが満洲に対して強い関心を示すようになり、日本国では職を求めて満洲に出かける人が多くなっ増加した<ref name="harada22" />。なかにはいわゆる「一旗組」もあった<ref name="harada22" />。り、[[旅館]]、食料品店、理髪店、飲食店、衣料品店、[[遊]]などの個人営業、また[[企業]]も満洲に進出し、その職員が大連、[[大石橋市|大石橋]]、[[遼陽]]、奉天といった都市はもとより、都市と都市の間の小さな町にも入り込んで生活の基盤をつくろうとしていた<ref name="harada22" />。鉄道は、これらのうした人びとの活動をささえる重要な交通手段でもあった<ref name="harada22" />。
 
==== 満洲問題協議会 ====
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これにより英米の警戒心は解かれたが、実際には軍政は目的を達成しており、英米商人の力は衰え、満洲は日本の市場と化していった<ref name="furuya238" />。児玉は当初官設機構を考えていたが、このころには民間会社の方式によるべきだとの考えに変わっていた<ref name="harada14" />。
 
満洲問題協議会では、児玉源太郎と元老の伊藤博文・井上馨とのあいだで大きく見解が相違していた<ref name="kobayashimichihiko271">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.271-272]]</ref>。児玉は満洲経営機関を中央に設置すべきことを主張したが、伊藤はそれに対し、満洲はまぎれもなき清国領土であり、そこに「植民地経営」の展開する余地はないとの反対論を唱えた<ref name="inoue109" /><ref name="kobayashimichihiko271" />。また、伊藤が韓国への日本人の入植にはほとんど関心を払わなかったのに対し、児玉は[[平壌]]以北への日本人の入植事業を検討しており、当時、児玉の幕下にあった[[新渡戸稲造]]は[[ドイツ帝国]]における内国植民政策、すなわち、[[西プロイセン]]や[[ポーゼン]]などドイツ領ポーランド(いわゆる後の「[[ポーランド回廊]]」)へのドイツ系移民の導入を通じたドイツ化政策を参考にしてはどうかという意見を伊藤・児玉双方に建策した<ref name="kobayashimichihiko271" />。伊藤や井上は、日米合弁の「満韓鉄道株式会社」を設立して韓国における鉄道経営をも事実上アメリカ側に譲渡しようとしており、南満洲鉄道会社の設立にあたっても、満鉄は文字通りの鉄道経営に限定すべきとの見解(小満鉄主義)に立脚していた<ref name="kobayashimichihiko271" />。井上に至っては満鉄の清国への返還さえ考えており、それに備えて[[株主]]に対する損失補填のための積立金の計上を検討していた<ref name="kobayashimichihiko271" />。一方、児玉源太郎とその台湾での部下である[[後藤新平]]は、満鉄はたんなる鉄道会社ではなく、満鉄付属地での徴税権や行政権をも担う一大植民会社たるべきだとの見解(満鉄中心主義)を標榜しており、彼らは[[東インド会社]]を範とした満洲経営を進めるべきだとの論に立っていた<ref name="kobayashimichihiko271" />。両者の意見は相互に大きく隔たっているが、出先陸軍権力の統制の必要性は伊藤も熟知するところであり、児玉・後藤のコンビが達成した、[[下関条約]]による領有開始後10年にして本国からの補充金なしで運営可能となった台湾財政独立の実績は、政府内外から高く評価されたこともあって、伊藤らの小満鉄主義は力を失った<ref name="kobayashimichihiko271" />。
 
両者の意見は相互に大きく隔たっているが、出先陸軍権力の統制の必要性は伊藤も熟知するところであり、児玉・後藤のコンビが達成した、[[下関条約]]による領有開始後10年にして本国からの補充金なしで運営可能となった台湾財政独立の実績は、政府内外から高く評価されたこともあって、伊藤らの小満鉄主義は力を失った<ref name="kobayashimichihiko271" />。
 
=== 南満洲鉄道の設立 ===
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1906年6月7日、明治39年勅令第142号で南満洲鉄道株式会社設立の件が公布された<ref name="harada18">[[#原田1|原田(1991)pp.18-22]]</ref>。この勅令は付則をふくめて22か条から成り、業務を鉄道運輸業とし(第1条)、株式は日清両国政府・日清両国人に限って所有を認めることとし(第2条)、日本政府は、炭坑をふくめた満鉄の財産による現物出資ができるものとした(第3条)<ref name="harada18" />。本社を東京市、支社を大連におくこと(第6条、ただし[[1907年]][[3月5日]]の勅令第22号により本社を大連、支社を東京市に改めた)、役員は総裁1名、副総裁1名、理事4名以上を置き(第7条)、総裁・副総裁は勅裁を経て政府が任命すること(第9条)、政府は会社の業務監視のため南満洲鉄道株式会社監理官を置くこと(第12条)が定められた<ref name="harada18" />。同勅令の付則第18条には、設立委員の規定があり、[[定款]]の作成と第1回[[株式]]募集がその任務とされた<ref name="harada18" />。
 
[[7月13日]]、[[第1次西園寺内閣]]は、児玉源太郎を設立委員長とする80名におよぶ満鉄設立委員を任命した<ref name="harada18" /><ref name="inoue109">[[#井上|井上(1990)pp.109-114]]</ref>。この委員のなかには[[京釜鉄道]]会社の設立にもかかわった[[渋沢栄一]]、[[竹内綱]]といった財界人、のちに満鉄総裁となる[[仙石貢]]や野戦鉄道提理だった[[武内徹]]といった技術者、外務省からは山座円次郎政務局長、[[石井菊次郎]]通商局長、関東州民政署事務官の[[関屋貞三郎]]、ほかに大蔵省、逓信省など関係省庁の官僚、貴衆両院の議員、さらに軍部首脳もふくまれていた<ref name="inoue109" />。こうした顔ぶれは、純粋な民間企業というよりは[[国策会社]]としての性格の濃いものであったことを示している<ref name="inoue109" />。
 
上記のように、設立委員が定款の作成にあたることになっており、定款の調査委員は調査委員長が渋沢栄一、以下、山座円次郎、[[岡野敬次郎]]、[[荒井賢太郎]]、[[仲小路廉]]、[[山之内一次]]、[[和田彦次郎]]、[[堀田正養]]、[[大石正巳]]、[[土居通夫]]、[[中野武麿]]、[[大岡育造]]、[[佐々友房]]の計13名であった<ref name="harada18" />。このうち、山座・荒井・仲小路の3名は1月発足の満洲経営委員会(委員長は児玉源太郎)の当初メンバー6名にも名を連ねており、株式会社組織をとりながら同時に政府機関としての性格をもたせる役割をになった<ref name="harada18" />。こうしたなか、設立委員長だった児玉源太郎が7月23日に急逝し、24日には喪が発せられた<ref name="harada18" />。25日、新委員長に就任したのは[[寺内正毅]]陸軍大将であった<ref name="harada18" />。
 
==== 設立命令書と株式募集 ====
1906年[[8月1日]]、外務大臣・大蔵大臣・逓信3大臣連名による「南満洲鉄道株式会社設立命令書」(外務・大蔵・逓信大臣秘鉄14号)が下付された<ref name="ajireki-glossary" /><ref name="harada18" />。命令書は全文26か条で非公開とされた<ref name="harada18" />。公表された勅令よりも具体的な業務の範囲、[[資本金]]総額、政府の保護、会社に対する政府の命令権などが規定されていた<ref name="harada18" />。設立業務は、この命令書をもとに寺内委員長のもとですすめられた<ref name="harada18" />。
 
第1回株式募集は[[9月10日]]に開始された。募集株式10万株(2,000万円)、締め切りの10月5日までに役員持株1,000株を除く9万9,000株に対して、総申込株数は1億664万3418株に達し、申込人数は1万1,467人であった<ref name="harada18" />。少額申込の111人402株については割当てから外したが、それでも所要株数に対して1077倍という株式ブームの状況を呈した<ref name="harada18" /><ref>[http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/ags/4-3-4-010.pdf#search=%27%E5%8D%97%E6%BA%80%E6%B4%B2%E9%89%84%E9%81%93+%E6%A0%AA%E5%BC%8F%E5%8B%9F%E9%9B%86+%E4%BA%BA%E6%B0%97%27 山口県文書館「満鉄の設立」一般郷土史料「南満州鉄道株式会社株券」]</ref>。清国人からの申込みもいくらかはあったが、この高倍率では割当てから排除されても疑義をはさむ余地がなかった<ref name="harada18" />。いずれにしても、この倍率は満鉄が当時植民地経営企業としての経済的機能を一般から広く期待されていたことを物語っていた<ref name="harada18" />。清国政府は結局、締め切りを過ぎても応募してこなかった<ref name="harada18" />。11月10日、清国政府は満鉄設立について厳しい調子の抗議を寄せた<ref name="harada18" />。
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==== 設立と営業開始 ====
[[ファイル:Shimpei Gotō.jpg|170px|right|thumb|初代満鉄総裁、[[後藤新平]]]]
1906年[[11月1日]]、満鉄の設立が[[逓信大臣]]より認可された<ref name="inoue114">[[#井上|井上(1990)pp.114-119]]</ref>。[[11月26日]]、南満洲鉄道株式会社が半官半民によって設立され、同日の創立総会は[[神田区]]の[[東京キリスト教青年会会館]]において開催された<ref name="inoue114" />。初代総裁には[[台湾総督府]][[台湾総督府#総務長官|民政長官]]だった[[後藤新平]]が任じられた<ref name="kobayashihideo37" /><ref name="sasaki316" /><ref name="inoue114"/>。設立は上述の通り、勅令に基づいてなされ、総裁は勅任、資本金は2億円であった<ref name="iizuka188">[[#飯塚|飯塚(2016)pp.188-190]]</ref>。しかし、政府は日露戦争の戦費の処理と軍拡財源の捻出に苦しんでおり、巨額の資金を出すことはできなかった<ref name="iizuka188" />。政府は、1億円をロシアから引き継いだ鉄道とその附属財源および[[撫順市|撫順]]炭田・[[煙台市|煙台]]炭田などの現物出資とした<ref name="kobayashihideo37" /><ref name="iizuka188" />。残りの1億円は、日清両国の出資とされたが、満鉄設立を不当とする清国は参加せず<ref name="sasaki316" />、民間からの投資は日本での[[株式]]募集が2000万円、のこり8000万円は外資による[[社債]]で賄うこととした<ref name="kobayashihideo37" /><ref name="iizuka188" />。当時の日本人が満鉄に寄せた期待は大きく、第1回株式募集で応募が殺到したのは上述のとおりである<ref name="harada18" />。一方、外債募集は、[[1907年]]から[[1908年]]にかけて3回にわたり、もっぱらイギリス市場に求められた<ref name="furuya238" /><ref name="iizuka188" />。イギリスで調達したのは600万ポンド(約6000万円)であり、フランス市場ではフランス政府の支援があったにもかかわらず、条件が合わずに外債募集は不成立に終わった<ref name="furuya238" /><ref name="iizuka188" />。政府による事業資金は[[日本興業銀行]]から[[社債]]などのかたちで投資され、満鉄への投資は同銀行の対外投資総額の約7割を占めていた<ref name="rsuzuki447">[[#鈴木|鈴木(1969)p.447]]</ref>{{refnest|group="注釈"|残りは、[[東洋拓殖会社]]や韓国政府への貸付などに投資された<ref name="rsuzuki447" />。}}。ところが実は、興業銀行関係対外投資の74パーセントが輸入外資に頼っており、その主たる資金調達先は英米両国であった<ref name="rsuzuki447" />。その点では英米金融資本への従属が生じており、一見「資本輸入による資本輸出」というべき逆説的な状況がみられる<ref name="rsuzuki447" />。
[[ファイル:Nakamura Yoshikoto.jpg|170px|サムネイル|右|初代副総裁で第2代総裁の中村是公]]
1906年11月26日、南満洲鉄道株式会社が半官半民によって設立され、初代総裁には[[台湾総督府]][[台湾総督府#総務長官|民政長官]]だった[[後藤新平]]が任じられた<ref name="kobayashihideo37" /><ref name="sasaki316" /><ref name="inoue114">[[#井上|井上(1990)pp.114-119]]</ref>。設立は上述の通り、勅令に基づいてなされ、総裁は勅任、資本金は2億円であった<ref name="iizuka188">[[#飯塚|飯塚(2016)pp.188-190]]</ref>。しかし、政府は日露戦争の戦費の処理と軍拡財源の捻出に苦しんでおり、巨額の資金を出すことはできなかった<ref name="iizuka188" />。政府は、1億円をロシアから引き継いだ鉄道とその附属財源および[[撫順市|撫順]]炭田・[[煙台市|煙台]]炭田などの現物出資とした<ref name="kobayashihideo37" /><ref name="iizuka188" />。残りの1億円は、日清両国の出資とされたが、満鉄設立を不当とする清国は参加せず<ref name="sasaki316" />、民間からの投資は日本での[[株式]]募集が2000万円、のこり8000万円は外資による[[社債]]で賄うこととした<ref name="kobayashihideo37" /><ref name="iizuka188" />。当時の日本人が満鉄に寄せた期待は大きく、第1回株式募集では1000倍を超える応募が殺到したのは上述のとおりである<ref name="harada18" />。一方、外債募集は、[[1907年]]から[[1908年]]にかけて3回にわたり、もっぱらイギリス市場に求められた<ref name="furuya238" /><ref name="iizuka188" />。イギリスで調達したのは600万ポンド(約6000万円)であり、フランス市場ではフランス政府の支援があったにもかかわらず、条件が合わずに外債募集は不成立に終わった<ref name="furuya238" /><ref name="iizuka188" />。
 
政府による事業資金は[[日本興業銀行]]から[[社債]]などのかたちで投資され、南満洲鉄道への投資は同銀行の対外投資総額の約7割を占めていた<ref name="rsuzuki447">[[#鈴木|鈴木(1969)p.447]]</ref>{{refnest|group="注釈"|残りは、[[東洋拓殖会社]]や韓国政府への貸付などに投資された<ref name="rsuzuki447" />。}}。ところが実は、興業銀行関係対外投資の74パーセントが輸入外資に頼っており、その主たる資金調達先は英米両国であった<ref name="rsuzuki447" />。その点では英米金融資本への従属が生じており、一見「資本輸入による資本輸出」というべき逆説的な状況がみられる<ref name="rsuzuki447" />{{refnest|group="注釈"|[[鈴木良]]は、この状況を称して「借金帝国主義」と呼んでいる<ref name="rsuzuki447" />。}}。
 
後藤新平を満鉄総裁に推挙したのは、[[台湾総督]]在任のまま[[満洲軍]][[総参謀長]](1906年4月11日より[[参謀本部 (日本)|陸軍参謀総長]])となった児玉源太郎であった<ref name="kobayashihideo37" /><ref name="hinata317">[[#日向|日向(2018)pp.317-321]]</ref><ref name="inoue114" />。後藤は、当初満鉄総裁就任を固辞していたが、後藤にとっては恩人であった児玉が1906年7月に急逝したので、これを天命と考え、児玉の遺志を引き継ぐ決心をして総裁職を引き受けたといわれる<ref name="kobayashihideo37" /><ref name="hinata317" />。後藤は台湾経営での辣腕ぶりが評価され、低コストでの満洲経営を山縣・伊藤らの元老や立憲政友会([[西園寺公望]]、[[原敬]]ら)といった人びとからも期待された<ref name="iizuka148">[[#飯塚|飯塚(2016)pp.148-150]]</ref><ref name="hinata317" /><ref name="inoue114" />。日露戦争後の満洲は、いわゆる「三頭政治」([[関東都督府]]、奉天総領事館、南満洲鉄道)と称される状況のもとで経営の主導権が争われていたが、日本領土ではない純然たる清国主権のもとで植民地経営をおこなおうとすることにそもそもの混乱の原因があった<ref name="hinata317" />。後藤には「三頭政治」の解消と「自営自立」の実現が期待されたのである<ref name="hinata317" />。後藤は、満鉄の監督官庁である関東都督府の干渉によって満鉄が自由に活動できないことを懸念し、総裁就任の条件として、満鉄総裁が関東都督府の最高顧問を兼任することで首相の[[西園寺公望]]首相と合意した。また、人材確保のため、官僚出身者は在官の地位のまま満鉄の役職員に就任することが認められた。
 
[[ファイル:Fushun Coal Mine.jpg|300px|thumb|right|撫順炭鉱の経営も満鉄が行った]]
開業は1907年4月1日となった<ref name="inoue114" />。南満洲鉄道は、[[都市]]・炭坑・[[製鉄所]]から[[農地]]までを経営し、独占的な商事部門を有し、さらに[[大学]]以下の[[教育機関]]・[[研究所]]も擁していた。日本租借地である[[関東州]]および[[南満州鉄道附属地]]の行政をたずさわるのが関東都督府(のちの[[関東庁]])であり、その陸軍部がのちに関東軍として沿線に配置されるようになった。なお、ポーツマス条約で合意されていた東清鉄道南満洲支線の譲渡範囲は長春の寛城子以南であったが、寛城子の接受地点が明確でなかったこと、日露間の鉄道連絡方法も未定であったことから、さしあたり孟家屯以南が日本に譲渡され、寛城子・孟家屯間の約8キロメートルが日本に譲渡されるのは、満鉄開業後、1907年7月21日に[[日露満洲鉄道接続業務条約]]が調印されてからであった<ref name="inoue114" />
 
総裁となった後藤は、「満鉄十年計画」を策定し、さっそく積極的な経営を展開し、部下の[[中村是公]]とともに、戦争中に[[狭軌]]に直して使用したレールの改築をともなう満鉄全線の国際[[標準軌]]化や大連・奉天間の複線工事、撫順線と安奉線の改築工事を急ピッチで進める一方、あわせて、撫順炭坑の拡張、[[大連港]]の拡張と上海航路の開設、鉄道附属地内各都市の[[社会資本]]整備などを強力に推し進めた<ref name="kobayashihideo37" /><ref name="hinata317" /><ref name="iizuka188" />。1907年10月には[[星野錫]]により「[[満洲日日新聞]]」が大連で創刊され<ref>[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/directory/sinbun/snlist/550l.html 神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ新聞記事文庫「満州日報、満州日日新聞」]</ref>、1907年8月以降、鉄道沿線には[[ヤマトホテル]]が開業した<ref name="iizuka188" />。大連には、[[満鉄中央試験所]]、電気公園もつくられた<ref name="harak61">[[#原田2|原田(1981)pp.61-65]]</ref>。中央試験所は満鉄直営で中国東北における農業生産力の向上と生産品の加工、食品工業の進展のための施設であった<ref name="harak61" />。電気公園は、[[電気]]仕掛けによる[[娯楽施設]]で、当時の内地にもこれに類した施設はなかった<ref name="harak61" />。
 
こうして、満鉄は国策を遂行する株式会社に位置づけられ、その機軸においては「文飾的武備」が唱えられた<ref name="kobayashihideo37" />。すなわち、満鉄は単なる鉄道会社ではなく、満洲の地で教育、衛生、学術など広義の文化的諸施設を駆使して植民地統治をおこない、緊急の事態には武断的行動を援助する便を講じることができるということを方針としたのであり、このようなことから創業当初から満鉄調査部が組織され、調査活動が重視されたのであった<ref name="kobayashihideo37" />。後藤新平は「午前8時の男でやろう」というスローガンを掲げ、台湾総督府時代からの腹心で当時40歳の[[中村是公]]を副総裁に抜擢したほか、30代、40代の優秀な人材を理事はじめ要職に採用した{{refnest|group="注釈"|「午前8時の男でやろう」とは、要するに若手を起用しようということ。後藤新平は、世間を知った働きざかりの「午後3時」ではなく、経験は浅くても新鮮なやる気に満ちた年代の人を用いることを人事の大方針とした。}}。[[三井物産]]門司支店長だった[[犬塚信太郎]]は未だ32歳という若さで理事にスカウトされた。
 
=== 明治末年の様相 ===
==== 標準軌への改軌 ====
{{See also|日本の改軌論争}}
レールの間隔の変更([[改軌]])は、初期満鉄の大きな問題だった。もともとロシアの敷いた[[軌間]]は5フィート(1,524mm)の[[広軌]]であり、日露戦争中、野戦鉄道提理部が日本から持ち込んだ内地用の車両が走行可能なように3フィート6インチ(1,067mm)の[[狭軌]]に改築していた<ref name="iizuka188" /><ref name="harada25">[[#原田1|原田(1991)pp.25-29]]</ref>。しかし、朝鮮半島、中国東北部、長城以南の中国を通じての一貫輸送の体系を整えるという観点からすれば、この鉄道は朝鮮や中国の鉄道と同じ軌間、すなわち、4フィート8.5インチ(1,435mm)の[[標準軌|国際標準軌間]]に改めておかなければならなかった<ref name="iizuka188" /><ref name="harada25" />。
 
南満洲鉄道株式会社が野戦鉄道提理部から以下の鉄道、炭坑、その他の施設を移管されて営業を開始したのは、[[1907年]][[4月1日]]のことであった<ref name="harada25" />。
しかし、朝鮮半島、中国東北部、長城以南の中国を通じての一貫輸送の体系を整えるという観点からすれば、この鉄道は朝鮮や中国の鉄道と同じ軌間、すなわち、4フィート8.5インチ(1,435mm)の[[標準軌|国際標準軌間]]に改めておかなければならなかった<ref name="harada25" />。
 
南満洲鉄道株式会社が野戦鉄道提理部から以下の鉄道・炭坑その他の施設を移管されて営業を開始したのは、[[1907年]][[4月1日]]のことであった<ref name="harada25" />。
: * 大連 - 孟家屯 (現、長春南駅) … のちの[[満鉄連京線]]
: * 南関嶺 - 旅順間
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: * 安東・奉天線
 
満鉄に対する政府命令書には、国際標準軌への改築と大連・[[蘇家屯]]間の[[複線化]]が定められていたが、会社がまず着手したのは各線の軌間改築工事であった<ref name="harada25" /><ref name="inoue119">[[#井上|井上(1990)pp.119-123]]</ref>。ロシア設置の広軌を狭軌に改める工事については、枕木はそのままで片側のレールを移動すればよいだけの工事であったので転轍機以外の部分は比較的容易に進めることができた<ref name="harada25" />。しかし、狭軌を標準軌に改軌する工事は[[枕木]]更新をともなう場所も多く、しかも一般の列車運行をストップしないで行わなければならなかったので決して簡単ではなかった<ref name="harada25" />。[[1908年]]([[明治]]41年)そこで大連 - 長春狭軌[[満鉄連京|路が敷設してある箇所にもう1レールを敷いて三]]式とし、狭軌と標準軌改築両方の列車終わっ運行できるようにし<ref name="harada25" /><ref name="inoue119" />不要にこの技術はきわめて複雑ものであった狭軌が、満鉄が機関車は日本に還送されちのちまでその技術を誇ことになり、周子駅で異例機関車送別会が行なわれであっ<ref name="inoue119" />旅順線では1907年[[12月1日]]から全面的に標準軌列車に移行し<ref name="harada25" />。長春・大連間の本線では[[1908年]]5月に移りかわり[[ダイヤグラム]]をつくり22露戦争中に長春・[[公主嶺]]間、23日公主嶺・[[軽便]]間、24日鉄嶺・遼陽間、25日遼陽・大石橋間、26日大石橋・[[瓦房店]]間、27日瓦房店・大連間で標準軌運転へして敷設された切り替わり、[[安奉線5月30日]]からは旅客・貨物の全列車が標準軌列車に移行した<ref name="harada25" /><ref name="inoue119" />。営口線その他の付属線この間に標準軌に改されている<ref name="inoue119" />
 
不要になった狭軌の機関車は日本に還送されることとなった<ref name="harada25" />。[[安奉線]]を除くと還送車両は機関車217両、貨物車3,659両、客車281両におよんだ<ref name="harada25" /><ref name="inoue119" />。これらを並べると延長30キロメートルを超える長さになる計算であった<ref name="harada25" /><ref name="inoue119" />。1908年5月31日、2,000名以上の人が参加して大連港外の[[周水子駅]]で異例の機関車の「告別式」が行なわれ、国沢理事によって「告別の辞」も読まれた<ref name="harada25" /><ref name="inoue119" />。
 
日露戦争中に2フィート6インチ(762mm)の軍用[[軽便鉄道]]として敷設された[[安奉線]]については、全面的な改築を必要とした<ref name="iizuka188" /><ref name="harada25" />。安奉線は1906年4月1日から狭軌での一般旅客・貨物の輸送を開始していたが、中国側は改築工事を認めなかった<ref name="harada25" />。[[1909年]]1月から交渉が開始され、3月以降は奉天総督衙門で交渉がなされたものの中国側の姿勢は強硬であった<ref name="harada25" />。8月6日、日本政府は清国政府に対し安奉線改築にかかわる最後通牒を発し、8月7日より工事に着手したが、清国側は武装した巡警隊を派遣して工事中止を求めた<ref name="harada25" />。しかし、満鉄側はあくまでも改軌工事を強行して[[1911年]]11月1日、工事は完成した<ref name="harada25" />。工事が遅延したのは、清との交渉が難航したばりではなく、満鉄と外務省の間に主導権争いが生じたことにも原因があった<ref name="iizuka188" />。並行して行われていた[[鴨緑江]]の架設工事も完成し、朝鮮縦貫鉄道との直通連絡が可能となった<ref name="harada25" />。
 
[[ファイル:Mantetsu-Ame.jpg|300px|右|thumb|蒸気機関車「アメ型」]]
鴨緑江の架橋については、[[ジャンク (船)|ジャンク船]]の通航の障害にならないよう英米両国より求められていた<ref name="inoue133">[[#井上|井上(1990)pp.133-138]]</ref>。また、実のところその建設については法的根拠があるわけでもなかった<ref name="inoue133" />。日本は朝鮮側([[新義州]]側)から工事を始めたが、中国側は満洲側(安東側)から工事を進めているのではないかと疑い、抗議する場面もあった<ref name="inoue133" />。鉄橋の一部は橋脚を中心に回転するようになっており、これによりジャンク航行の障害ではなくなった<ref name="inoue133" />。また、日本側は当初、架橋された橋のすべてを[[京義線|京義鉄道]]の所有にしようとしたが、結局、中国側に譲歩して、鴨緑江の中心から二分し、満洲側は安奉鉄道と同様、15年の期限をもって清国側に売却されることとなった<ref name="inoue133" />。
 
安奉線で使用された車両については、1911年11月4日、[[沙河鎮駅]]で機関車81両、客車680余両の告別式が行われた<ref name="harada25" />。こうして多数のB6型機関車も安奉線の軽便機関車も満洲の地から去っていき、かわって各線を走りはじめたのはアメリカ製の堂々たる大形機関車であった<ref name="harada25" />。また、客車・貨車ともに欧米水準を超える高質な車両がそろえられていった<ref name="harada25" />。こののち、満鉄の技術は、狭軌のために内地では実現できないことを具現する場としての意味を有するようになった<ref name="harada25" />。
 
==== 日清間の紛争 ====
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# [[安奉鉄道]]沿線の鉱山採掘について日清両国人の合同事業とする件
などであった<ref name="iizuka183" />。この件は第1次西園寺内閣においては解決をみず、[[第2次桂内閣]]へと持ち越された<ref name="iizuka183" />。
 
1908年11月、[[光緒帝]]と[[西太后]]が相次いで逝去し、1909年1月には軍機大臣[[袁世凱]]が罷免されるなど、北京政界に大変動が続いたためもあって日清交渉は進展しなかった<ref name="iizuka183" />。清国は、清韓国境の[[間島問題]]で日本が争いつづけるのならば、満洲に関する案件をすべて[[デン・ハーグ|ハーグ]]の[[常設仲裁裁判所]]に付託することも辞さないと通告したが、清の背後にはアメリカ合衆国があり、奉天総領事から民間に移ったストレイトは、ロシアの東清鉄道や日本の満鉄の購入までをも計画していた<ref name="iizuka183" />。山縣有朋らはアメリカによる満洲への干渉を怖れ、それが韓国にもおよぶ可能性があるとの判断に立って[[間島]]の問題では清に妥協すべく動いた<ref name="iizuka183" />。桂内閣は、間島領有権を放棄、間島居住の韓国人を対象とする日本の[[領事裁判権]]要求も取り下げた<ref name="iizuka183" />。上述した安奉鉄道改築問題も、こうした譲歩によって解決されたのであり、1909年8月、改築工事に関する覚書が調印され、標準軌への改軌が認められた<ref name="iizuka183" />。また、1909年9月4日には[[日清協約#間島協約|間島に関する日清協約]]と[[日清協約#満州協約(満州五案件に関する日清協約)|満洲五案件に関する日清協約]]が結ばれ、清の主張にそって[[豆満江]]が清韓国境となり、間島に設けられた雑居地区は[[開市]]されて、そこに居住する韓国人の裁判には日本領事が立ち合うこととした<ref name="iizuka183" />。日本は、こうした譲歩の代償として吉林・[[会寧市|会寧]]間鉄道(吉会鉄道)の敷設権を獲得した。<ref name="iizuka183" />
 
==== 後藤新平の入閣と中村是公総裁 ====
{{See also|鉄道院|拓務省|韓満所感|満韓ところどころ|桂園時代}}
[[ファイル:Nakamura Yoshikoto.jpg|170px|サムネイル|右|第2代総裁、[[中村是公]]]]
[[ファイル:Manshu Nichi-Nich Shimbun newspaper clipping (5 November 1909 issue).jpg|300px|右|thumb|[[夏目漱石]]「[[韓満所感]](上)」(1909年11月5日付「[[満洲日日新聞]]」)]]
後藤新平は、満鉄経営のみでは満足せず、満鉄を中心とする一元的な満洲経営を目指していたが、第1次西園寺内閣では大蔵省や逓信省、外務省などの介入によって、なかなか彼の企図するようには事が運べなかった<ref name="iizuka188" />。そこで後藤は桂太郎に接近し、1908年7月、[[第2次桂内閣]]の[[逓信大臣]]として懸案事項の解決を図ろうとした<ref name="iizuka188" />。後藤総裁は満鉄を去るにあたって名文調の告別の辞を寄せている<ref name="harak74">[[#原田2|原田(1981)pp.74-77]]</ref>。後藤が去るにあたっても、首脳部では創業当時の苦心によって一体感を生み出されており、その団結はきわめて固かった<ref name="harak74" />。新しい満鉄総裁には、副総裁だった[[中村是公]]が就任した<ref name="harak61" />。後藤は、入閣して早々満鉄の監督権を[[逓信大臣]]に移し、1908年12月には[[鉄道院]]を開設して満鉄監督権をここへ移管した<ref name="iizuka188" />。
 
[[1909年]]9月、中村新総裁が大学予備門時代以来の友人である文学者、[[夏目漱石]]を満洲に招いた<ref name="harak61" />。漱石は旅行での見聞や感想を[[随筆]]「[[韓満所感]]」および「[[満韓ところどころ]]」として書き記した。当時の満鉄は、その事業内容を内外に広く[[宣伝]]することに努めており、中村総裁が漱石を招いたのも単に友人を招待するのではなく、人気作家である漱石のペンを通して満鉄の事業を宣伝させる目的もあったろうと考えられる<ref name="harak61" />。漱石は大連では中央試験所や電気公園を案内され、同級生だった[[橋本左五郎]]や[[佐藤友熊]]、夏目家で[[書生]]をしていた[[股野義郎]]らと旧交を温めた<ref name="harak61" />。また、旅順、営口、奉天、撫順炭坑、ハルビン、長春などを経て安東、釜山を経て内地に帰った<ref name="harak61" />。「韓満所感」は1909年[[11月5日]]・[[11月6日]]付の「[[満洲日日新聞]]」に、「満韓ところどころ」は「朝日新聞」に1909年[[10月21日]]から[[12月30日]]まで掲載された。中村新総裁は、豪放なべらんめえ口調でありながら情誼に厚い親分肌で、細かい仕事は有能な理事たちにまかせ、みずからはもっぱら中央との折衝に当たるという姿勢を貫いた<ref name="harak61" />。理事の合議制はほぼ完全なものとなり、中央政府の[[官僚]]システムとは異なる植民地会社独特の合理主義的[[官僚制]]と業務運営におけるつよい主体性がここに育まれていた<ref name="harak61" />。
 
一方、後藤は、1909年12月、韓国鉄道をも鉄道院の所管とすることにいったん成功し、国内鉄道も含めた鉄道の一元的管理を実現した<ref name="iizuka188" />。しかし、韓国鉄道は[[韓国併合]]直前に[[朝鮮総督府]]財政の根幹をなすだろうとの寺内正毅らの主張がこののち受け入れられて、総督府管轄に改められた<ref name="iizuka188" />。後藤はなおも植民地統治の一元化のために[[拓殖局]]を設置し、桂首相が総裁、みずからは副総裁となった<ref name="iizuka188" />。そのうえで後藤は、[[1910年]]12月、翌1911年度からの13年間継続事業として総額2億3,000万円の予算で[[新橋駅|新橋]]・[[下関駅|下関]]間の国際標準軌改築案を閣議決定に持ち込み、さらに[[第二十七議会]]への提出にこぎつけた<ref name="iizuka188" />。桂と後藤は、国内鉄道と韓国・清国の鉄道で使用されているゲージを統一することで、戦時における軍事輸送の利便を向上させるのみならず、内地と外地の経済的結びつきを強めて[[輸出]]増進を図ろうとした<ref name="iizuka188" />。そのため[[神戸港]]の港湾修築や下関の陸海連絡設備の両事業も鉄道院の所管としたのであった<ref name="iizuka188" />。しかし、ここで桂太郎と[[立憲政友会]]の「[[情意投合]]」という政治的妥協にはばまれ、鉄道普及を優先する政友会の意向により、標準軌[[改軌]]案は事実上の廃案となってしまった<ref name="iizuka190">[[#飯塚|飯塚(2016)pp.190-191]]</ref>。
 
なお、1911年7月に[[ロンドン]]で開かれた第6回国際連絡運輸会議では、[[イギリス]]―[[カナダ]]―[[日本]]―[[シベリア]]という経路で世界一周をする世界[[周遊券]]、日欧を結ぶ[[東半球]]一周周遊券の設置が決まり、この周遊券は[[1913年]]より販売が開始された<ref name="harak68">[[#原田2|原田(1981)pp.68-69]]</ref>。「新橋から倫敦ゆき」の[[切符]]は、[[ジャパン・ツーリスト・ビューロー]]で購入することができ、ロンドンまでの1等運賃は433円35銭、2等運賃は286円45銭であった<ref name="harak68" />。南満洲鉄道は、この国際連絡運輸網の幹線のひとつとなったのである<ref name="harak68" />。
 
=== 政党政治と満鉄 ===
明治から[[大正]]にかけて、[[藩閥政治]]の時代から[[政党政治]]の時代がおとずれると満鉄内部にも大きな変化がもたらされた<ref name="kobayashihideo74">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.74-75]]</ref>。[[1913年]](大正2年)[[12月]]、第2代総裁中村是公、副総裁[[国沢新兵衛]]が更迭された<ref name="kobayashihideo74" />。後藤新平や中村是公を後援してきた長州閥から[[立憲政友会]]系の政治家へと時代の流れが変化してきたのである<ref name="kobayashihideo74" />。中村・国沢の更迭は[[大正政変]]で[[第3次桂内閣]]が倒れて[[山本権兵衛内閣]]が成立した直後のことであり<ref name="kobayashihideo74" />、これは政友会総裁で山本内閣の[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]、[[原敬]]の差し金であったといわれる
{{See also|対華21カ条要求|シベリア出兵|満鉄疑獄事件}}
明治から[[大正]]にかけて、[[藩閥政治]]の時代から[[政党政治]]の時代がおとずれると満鉄内部にも大きな変化がもたらされた<ref name="kobayashihideo74harak83">[[#小林英夫1原田2|小林英夫(2008)pp原田(1981)pp.7483-7585]]</ref>。そして、総裁に政友会系鉄道官僚で[[1913年鉄道院]](大正2年)の副総裁だった[[12月野村龍太郎]]、第2代総裁中村是公、副総裁には政友会の幹部だった[[国沢新兵衛伊藤大八]]が更迭され就任した<ref name="kobayashihideo74" />。後藤新平や中村是公を後援してきた長州閥から[[立憲政友会]]系の政治家へと時代の流れが変化してきたのである<ref name="kobayashihideo74harak83" />。中村・国沢{{refnest|group="注釈"|満鉄重役更迭も[[大正地位は、このころから変]]で[[第3次桂内閣]]が倒れて[[山本党の利兵衛内閣]]が成立した直後対象なりつつあり、政党が植民地企業を支配しようという動きも表面化してきた<ref name="kobayashihideo74harak83" />。朝鮮の東洋拓殖株式会社副総裁にも、これは政友会出身[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]・[[原敬]]の差し金であったいわれる。そして総裁に政友会系鉄道官僚で[[鉄道院]]の副総裁だったから[[野村龍田卯太郎]]が、副総裁には政友会の幹部だった[[伊藤大八]]が就任した送り込まれている<ref name="kobayashihideo74harak83" />。}}。伊藤大八が中心となって理事の交代が強力に推し進められ、犬塚信太郎を除くすべての理事が政友会系に代えられた<ref name="kobayashihideo74" />。こうした動きは草創期より後藤らと苦楽を共にしてきた社員からは、満鉄幹部のポストが政党の利権の対象になったかのように映り、両者はしばしば激しく対立した<ref name="kobayashihideo74" />。
 
折しも、この時期、鉄道院、朝鮮鉄道、満鉄3社によって設定された「三線連絡特別運賃」は満鉄の衰亡を招きかねないものであったので、事態はいっそう紛糾した<ref name="kobayashihideo74" />。野村、伊藤の動きに危機感をもった満鉄調査課の[[村田懋麿]]や[[大連駅]]駅務助手の[[竹中政一]]らが特別運賃反対運動の先頭に立ち、犬塚を説得して[[世論]]に訴えた<ref name="kobayashihideo74" />。こうしてその結果、特別運賃は事実上撤回された<ref name="kobayashihideo74" />。伊藤副総裁はそれまで行なわれていた理事の合議制を廃止し、総裁の権限強化を提案したが、これに創立以来の理事であった犬塚が強硬に抵抗し、伊藤に対する排斥運動も起こった<ref name="kobayashihideo74" /><ref name="harak104">[[#原田2|原田(1981)pp.104-109]]</ref>。その結果、野村、伊藤、犬塚の3名は、[[1914年]]7月、犬塚が[[株主総会第2次大隈内閣]]で更迭によって罷免された翌日、野村と伊藤の両名も罷免された<ref name="harak104" />
 
==== 対華21か条要求 ====
{{See also|対華21カ条要求}}
[[ファイル:The Illustration of The Siberian War, No. 16. The Japanese Army Occupied Vragaeschensk.jpg|300px|右|thumb|[[シベリア出兵]](1918年、[[ブラゴヴェシチェンスク]]に入城する日本軍と日の丸を振って出迎える市民などを描いた作品。空からは航空隊により布告文が撒かれた)
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『救露討獨遠征軍画報』(1919年)より]]
[[ファイル:South Manchuria RW 1920.jpg|300px|サムネイル|右|[[1920年]]発行の南満洲鉄道株式会社株券(第1次増資期)]]
1914年の7月にはまた、ヨーロッパで[[第一次世界大戦]]が勃発している<ref name="kobayashihideo52">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.52-53]]</ref>。大戦は直接戦場にならなかった[[アメリカ合衆国]]や日本に[[大戦景気]]と呼ばれる[[特需]]をもたらしたが、[[朝鮮]]や[[台湾]]、満洲を含む[[中国大陸]]にも[[好景気]]をもたらした<ref name="kobayashihideo52" />。
 
1914年度には、大連の満鉄沙河口工場でH4形と呼ばれる加熱式機関車6両の独自に製作された<ref name="harak85">[[#原田2|原田(1981)pp.85-89]]</ref>。当初の満鉄は、広漠な満洲の原野を長距離無停車運転する鉄道にはアメリカで開発された技術が好適であるとしてアメリカ製機関車・客車・貨車を大量に導入していたが、これは、アメリカの技術を通じて独自の技術水準を積み重ねた成果であった<ref name="harak85" />。なお、満鉄が機関車自社製造体制を確立させるに至るのは1921年のことである<ref name="harak85" />。
[[大隈重信内閣]]は1914年7月、野村と伊藤に代わり、[[中村雄次郎]]を満鉄総裁に送り込み<ref name="kobayashihideo74" />、中村は[[1917年]]7月まで総裁を務めた。中村は、軍人出身で[[陸軍省]]次官、総務長官、[[八幡製鉄所]]長官を歴任した人物であった<ref name="kobayashihideo74" />。こうして[[内閣]]が交替すると総裁以下の幹部が代わるしくみができていった<ref name="kobayashihideo74" />。アジアが好景気に沸くなか、[[加藤高明]]外相は、[[1915年]]1月に[[中華民国]]の[[袁世凱]]政権に対し「[[対華21カ条要求]]」を突きつけた<ref name="kobayashihideo52" /><ref name="itoh69">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.69-71]]</ref>。その第2号には旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長することがふくまれていた<ref name="kobayashihideo52" /><ref name="itoh69" />。要求事項である第2号自体は問題にならなかったが、希望事項として掲げた第5号が漏洩すると中国[[ナショナリズム]]を引き起こし、日貨排斥運動が起こった<ref name="kobayashihideo52" /><ref name="itoh69" />。アメリカ合衆国もこれには警戒心を強め、同盟国であったイギリスからも第5号要求はあきらめるよう通告があった<ref name="itoh69" />。ナショナリズムの動きは満洲地方にも波及し、排日熱が高まるなかで、「居留民の引上げ」「撫順警戒厳」(『[[満洲日日新聞]]』1915年[[4月6日]]付)、「大連駅の大混雑」(同[[4月7日]]付)といった混乱が生じた<ref name="kobayashihideo52" />。
 
[[大隈重信内閣]]は1914年7月、野村と伊藤に代わり、[[中村雄次郎]]を満鉄総裁に送り込んだ<ref name="kobayashihideo74" />。[[1917年]]7月まで総裁を務める中村は、軍人出身で[[陸軍省]]次官、総務長官、[[八幡製鉄所]]長官を歴任した人物であった<ref name="kobayashihideo74" />。こうして[[内閣]]が交替すると総裁以下の幹部が代わるしくみができていった<ref name="kobayashihideo74" />。アジアが好景気に沸くなか、[[加藤高明]]外相は、[[1915年]]1月に[[中華民国]]の[[袁世凱]]政権に対し「[[対華21カ条要求]]」を突きつけた<ref name="kobayashihideo52" /><ref name="itoh69">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.69-71]]</ref>。その第2号には旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長することがふくまれていた<ref name="kobayashihideo52" /><ref name="itoh69" />。要求事項である第2号自体は問題にならなかったが、希望事項として掲げた第5号が漏洩すると中国[[ナショナリズム]]を引き起こし、日貨排斥運動が起こった<ref name="kobayashihideo52" /><ref name="itoh69" />。アメリカ合衆国もこれには警戒心を強め、同盟国であったイギリスからも第5号要求はあきらめるよう通告があった<ref name="itoh69" />。ナショナリズムの動きは満洲地方にも波及し、排日熱が高まるなかで、「居留民の引上げ」「撫順警戒厳」(『[[満洲日日新聞]]』1915年[[4月6日]]付)、「大連駅の大混雑」(同[[4月7日]]付)といった混乱が生じた<ref name="kobayashihideo52" />。
1917年の[[ロシア革命]]は、それにも増して満洲に大きな衝撃をあたえた<ref name="kobayashihideo53">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.53-54]]</ref>。その後、日米英仏など15か国による革命干渉戦争([[シベリア出兵]])がおこなわれたこともあって、満洲は戦場の一部と化したのである<ref name="kobayashihideo53" />。ロシア革命に対する満鉄の反応は迅速であった<ref name="kobayashihideo53" />。満鉄は1917年6月、理事の[[川上俊彦]]をロシアに派遣し、二月革命以降の状況を視察させた<ref name="kobayashihideo53" />。[[11月15日]]、川上は帰国して[[本野一郎]]外相に[[ボルシェヴィキ]]による[[ロシア十月革命]]も含めた「露国視察報告書」を提出した<ref name="kobayashihideo53" />。この報告書は[[寺内正毅]]や原敬などにも重視され、当該期の日本の外交政策に決定的な役割をあたえた<ref name="kobayashihideo53" />。その後もロシアの動向に大きな関心をいだいていた満鉄は、調査課を中心に調査活動やロシア研究を活発化させた<ref name="kobayashihideo53" />。
 
==== ロシア革命とシベリア出兵 ====
一方、満鉄内部では、1917年に総裁の役職名が理事長に変更されるとともに、国沢新兵衛が理事長に就任した。[[1918年]]([[大正]]7年)[[原内閣|原敬内閣]]が成立すると、原は[[1919年]]([[大正]]8年)4月、国沢理事長を更迭した。同時に理事会を廃止してトップを社長に改め、再び野村龍太郎を起用、副社長に政友会系鉄道官僚の[[中西清一]]を起用した<ref name="kobayashihideo75">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.75-77]]</ref>。[[1920年]]、中西は塔連炭坑と内田汽船の船を相場よりも高い価格で購入したが、塔連炭坑は政友会の幹部である[[森恪]]が経営する炭坑であった<ref name="kobayashihideo75" /><ref name="itoh162">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.162-163]]</ref>。また、内田汽船の経営者も政友会系の[[内田信也]]であった<ref name="itoh162" />。炭坑や汽船を満鉄に売却した代金は政友会の選挙資金に充てられたという疑いがもたれた([[満鉄疑獄事件]])<ref name="itoh162" />。[[1921年]]、野党の[[憲政会]]はこの問題を[[帝国議会]]で追及したが、問責決議案は与党の反対で成立しなかった<ref name="itoh162" />。司法の場でも中西は[[背任罪]]で[[告訴・告発|告訴]]された。また社員の中にも職を賭して抵抗したものがあった。興業部庶務課長であった山田潤二は、野村と中西に直言し、これが容れられないとなると職を辞して、[[検事]]に対し決定的証拠を提出した<ref name="kobayashihideo75" />。中西は逮捕、起訴されたが、[[東京控訴院]]での控訴審では証拠不十分として無罪となった<ref name="itoh162" />。
{{See also|シベリア出兵}}
1917年の[[ロシア革命]]は、それにも増して満洲に大きな衝撃をあたえた<ref name="kobayashihideo53">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.53-54]]</ref>。その後、日米英仏など15か国による革命干渉戦争([[シベリア出兵]])がおこなわれたこともあって、満洲は戦場の一部と化したのである<ref name="kobayashihideo53" />。ロシア革命に対する満鉄の反応は素早く、すでに1917年6月、理事の[[川上俊彦]]をロシアに派遣し、二月革命以降の状況を視察させた<ref name="kobayashihideo53" />。[[11月15日]]、川上は帰国して[[本野一郎]]外相に[[ボルシェヴィキ]]による[[ロシア十月革命]]も含めた「露国視察報告書」を提出した<ref name="kobayashihideo53" />。この報告書は[[寺内正毅]]や原敬などにも重視され、当該期の日本の外交政策に決定的な役割をあたえた<ref name="kobayashihideo53" />。その後もロシアの動向に大きな関心をいだいていた満鉄は、調査課を中心に調査活動やロシア研究を活発化させた<ref name="kobayashihideo53" />。
 
==== 満鉄疑獄事件 ====
1921年の野村社長退任のあと、満鉄の社長は、[[早川千吉郎]]、[[川村竹治]]、[[安広伴一郎]]が務めた。社員は政党の介入に対し団結を考えるようになり、[[1927年]]([[昭和]]2年)には社員会が結成された。
{{See also|満鉄疑獄事件}}
一方、満鉄内部では、1917年に総裁の役職名が理事長に変更されるとともに、国沢新兵衛が理事長に就任した。[[1918年]]([[大正]]7年)[[原内閣|原敬内閣]]が成立すると、原は[[1919年]]([[大正]]8年)4月、国沢理事長を更迭した<ref name="harak104" />。同時に理事会を廃止してトップを社長に改め、再び野村龍太郎を起用、副社長に政友会系鉄道官僚の[[中西清一]]を起用した<ref name="harak104" /><ref name="kobayashihideo75">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.75-77]]</ref>。[[1920年]]、中西は塔連炭坑と内田汽船の船を相場よりも高い価格で購入したが、塔連炭坑は政友会の幹部である[[森恪]]が経営する炭坑であり、内田汽船の経営者も政友会系の[[内田信也]]であった<ref name="harak104" /><ref name="kobayashihideo75" /><ref name="itoh162">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.162-163]]</ref>。炭坑や汽船を満鉄に売却した代金は政友会の選挙資金に充てられたという疑いがもたれた([[満鉄疑獄事件]])<ref name="harak104" /><ref name="itoh162" />。[[1921年]]、野党の[[憲政会]]はこの問題を[[帝国議会]]で追及したが、問責決議案は与党の反対で成立しなかった<ref name="harak104" /><ref name="itoh162" />。司法の場でも中西は[[背任罪]]で[[告訴・告発|告訴]]された<ref name="harak104" />。また社員の中にも職を賭して抵抗したものがあった<ref name="harak104" />。興業部庶務課長であった山田潤二は、野村と中西に直言し、これが容れられないとなると職を辞して、[[検事]]に対し決定的証拠を提出した<ref name="kobayashihideo75" />。中西は逮捕、起訴されたが、[[東京控訴院]]での控訴審では証拠不十分として無罪となった<ref name="harak104" /><ref name="itoh162" />。
 
1921年の野村社長退任のあと、満鉄の社長は、[[早川千吉郎]]、[[川村竹治]]、[[安広伴一郎]]が務めた。社員は政党の介入に対し団結を考えるようになり、[[1927年]]([[昭和]]2年)には社員会が結成された<ref name="harak140">[[#原田2|原田(1981)pp.140-144]]</ref>。社員会は全社員の加入によって構成されており、したがって一般の[[労働組合]]組織とは異っていたが、政党の介入に対抗する意味とともに当時の[[労働運動]]昂揚の風潮もまた影響していたとみることができる<ref name="harak140" />。
=== 山本条太郎と張作霖爆殺事件 ===
{{See also|北伐 (中国国民党)|張作霖爆殺事件}}
[[ファイル:Jyotaro yamamoto.jpg|右|170px|thumb|「満鉄中興の祖といわれた[[山本条太郎]]]]
[[1926年]][[7月1日]]、[[蒋介石]]が[[北京政府]]撲滅を目指すとして[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を宣言して軍事行動を開始した<ref name="itoh272">[[#伊藤|伊藤(2010)p.272]]</ref>。蒋介石率いる[[国民革命軍]]が[[南京]]、[[上海]]を占領して、1927年5月、[[山東省]]にせまると、[[田中義一内閣]]は同省の在留日本人保護を理由に派兵声明を発した([[山東出兵]])<ref name="itoh278">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.278-279]]</ref>。
 
==== 満鉄中興の祖、山本条太郎 ====
[[6月27日]]から[[7月7日]]にかけては東京で[[東方会議 (1927年)|東方会議]]が開かれ、出先の軍人・外交官・行政官によって中国情勢の検討がなされたが、満蒙政策については、奉天派軍閥の領袖、[[張作霖]]を排除して[[傀儡政権]]を満洲に作るべしとする意見と張作霖勢力とは連携して日本の満蒙権益を維持・拡大しようという意見とに大きく分かれていた<ref name="itoh278" />。前者には後に張作霖を爆殺して満洲占領を実行にうつそうという関東軍の一派がふくまれており、後者の意見は[[田中義一]]首相兼外相や[[陸軍省]]首脳部のものであった<ref name="itoh278" />。大陸政策に深くかかわっていた[[実業家]]出身の[[衆議院議員]](当時はまだ当選2回)、[[山本条太郎]]は後者の意見に立っており、田中首相は東方会議ののち、山本を満鉄社長に任じた<ref name="itoh278" />。山本条太郎は大胆な改革を行い「満鉄中興の祖」ともいわれた<ref name="kobayashihideo79">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.79-81]]</ref>。副社長には山本の腹心の[[松岡洋右]]が就任した<ref name="kobayashihideo79"/>。
{{See also|北伐 (中国国民党)|山本条太郎}}
[[ファイル:Jyotaro yamamoto.jpg|右|170px|thumb|「満鉄中興の祖」といわれた[[山本条太郎]]]]
[[1926年]][[7月1日]]、[[蔣介石]]が[[北京政府]]撲滅を目指すとして[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を宣言して軍事行動を開始した<ref name="itoh272">[[#伊藤|伊藤(2010)p.272]]</ref>。蔣介石率いる[[国民革命軍]]が[[南京]]、[[上海]]を占領して、1927年5月、[[山東省]]にせまると、[[田中義一内閣]]は同省の在留日本人保護を理由に派兵声明を発した([[山東出兵]])<ref name="itoh278">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.278-279]]</ref>。
 
[[6月27日]]から[[7月7日]]にかけては東京で[[東方会議 (1927年)|東方会議]]が開かれ、出先の軍人・外交官・行政官によって中国情勢の検討がなされたが、満蒙政策については、奉天派軍閥の領袖、[[張作霖]]を排除して[[傀儡政権]]を満洲に作るべしとする意見と張作霖勢力とは連携して日本の満蒙権益を維持・拡大しようという意見とに大きく分かれていた<ref name="itoh278" />。前者には後に張作霖を爆殺して満洲占領を実行にうつそうという関東軍の一派がふくまれており、後者の意見は[[田中義一]]首相兼外相や[[陸軍省]]首脳部のものであった<ref name="itoh278" />。大陸政策に深くかかわっていた[[実業家]]出身の[[衆議院議員]](当時はまだ当選2回)、[[山本条太郎]]は後者の意見に立っており、田中首相は東方会議ののち、山本を満鉄社長に任じた<ref name="itoh278" />。山本は大胆な改革を行い「満鉄中興の祖」ともいわれ、副社長には山本の腹心の[[松岡洋右]]が就任した<ref name="kobayashihideo79">[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.79-81]]</ref>。
山本は、[[三井物産]]上海支店で貿易の手腕を発揮し、[[1901年]]には上海支店長に就任、帰国後は三井物産理事、常務取締役を歴任したのち、1920年には立憲政友会に入党して衆議院議員選挙に立候補して当選し、1927年には政友会幹事長となった切れ者であった<ref name="kobayashihideo79"/>。山本の持論は「産業立国論」であり、[[人口問題]]、[[食糧問題]]、[[金融恐慌]]、[[失業問題]]の解決のため、「満蒙分離」を条件に、鉄道網の拡充を柱とした満洲開発の推進を唱えた<ref name="kobayashihideo79"/>。そのうえで、満洲を農業、鉱工業、[[移民]]の受け入れ地とすべく、満鉄を活用しようとした<ref name="kobayashihideo79"/>。具体的には、製鉄事業と製油事業の充実、[[マグネシウム]]・[[アルミニウム]]関連工業ならびに[[肥料]]工業の振興、さらに移民拓殖を推し進める一方、「経済化」と「実務化」をスローガンに関連企業の統廃合を図って経営合理化を進めた<ref name="kobayashihideo79"/>。さらに山本は松岡副社長ともに満鉄敷設問題を具体化し、
 
山本は、[[三井物産]]上海支店で貿易の手腕を発揮し、帰国後は三井物産理事、常務取締役を歴任したのち、1920年には立憲政友会に入党して国政選挙に立候補して当選し、1927年には政友会幹事長となった切れ者であった<ref name="kobayashihideo79"/>。山本は「産業立国論」を持論とし、[[人口問題]]、[[食糧問題]]、[[金融恐慌]]、[[失業問題]]の解決のため、「満蒙分離」を前提に鉄道網の拡充を柱とした満洲開発の推進を唱えた<ref name="kobayashihideo79"/>。そのうえで、満洲を農業、鉱工業、[[移民]]の受け入れ地とすべく、満鉄を活用しようとし、具体的には、製鉄事業と製油事業の充実、[[マグネシウム]]・[[アルミニウム]]関連工業ならびに[[肥料]]工業の振興、さらに移民拓殖を推し進める一方、「経済化」と「実務化」をスローガンに関連企業の統廃合を図って経営合理化を進めた<ref name="kobayashihideo79"/>。さらに山本は松岡副社長ともに満鉄敷設問題を具体化し、
: * 吉会線 … [[敦化]]から{{仮リンク|老頭溝|zh|老头沟镇}}を経て図們江([[豆満江]])に至る線
: * 長大線 … 長春から[[大賚県|大賚]](現、[[大安市]])に至る線
: * 吉五線 … 吉林から[[五常市|五常]]に至る線
: * 延海線 … [[延吉]]から[[海林市|海林]]に至る線
: * 洮索線 … [[トウ南市|洮南]]から[[ホルチン右翼前旗|索倫鎮]](ソロン鎮)に至る線
 
の計5線の敷設を張作霖との交渉を通じて基本合意を実現した<ref name="kobayashihideo79"/>。当時、張作霖は北京にあって南方の軍閥や介石と戦闘しており、山本と松岡は北京を訪ねて新線敷設の折衝を行ったが、張作霖はのらりくらりと交渉引き延ばしを図り、ようやく山本らの要求を呑んで鉄道工事の許可を出した<ref name="kobayashihideo82" />。しかし、この件は細目の交渉をこれから進めようという段になって張作霖その人が亡くなってしまうのであるった<ref name="kobayashihideo79"/>。
 
==== 張作霖爆殺事件 ====
{{See also|張作霖爆殺事件}}
[[ファイル:Huanggutun Incident03.PNG|右|400px|thumb|[[張作霖爆殺事件]]の現場]]
[[1928年]]([[昭和]]3年)[[6月4日]]、満鉄の張作霖を乗せた専用列車が[[瀋陽|奉天]]郊外のクロス地点(京奉線と満鉄線の立体交叉点)付近で爆破され、北京から奉天に帰るため乗車していた張作霖が重傷を負い、2日後に死亡した([[張作霖爆殺事件]])<ref name="itoh280">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.280-281]]</ref><ref name="arima87">[[#有馬|有馬(2010)pp.87-89]]</ref><ref name="kobayashimichihiko392">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.392-393]]</ref>。張作霖の爆殺を企てたのは、関東軍の高級参謀[[河本大作]]大佐、実行したのは[[独立守備隊]]の[[東宮鉄男]]らであった<ref name="itoh280" /><ref name="arima87" />。河本らは張作霖を殺害して、父親との不和が噂されていた[[張学良]]を擁立しようとした<ref name="kobayashimichihiko392" />{{refnest|group="注釈"|河本らの計画は満蒙併合論や独立国家論の類ではなく、現地親日政権を操縦して権益を守ろうとする従来の発想にすぎなかったおり<ref name="kobayashimichihiko392" />。また張学良奉天督軍顧問の[[土肥原賢二]]などからは「親日の権化」とみられていた<ref>[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.384-385]]</ref>。}}。東宮は中国人の[[苦力]]2人を殺害し、爆破を北伐軍の犯行とみせかけようとしたのである<ref name="itoh280" />。
 
当時「満洲某重大事件」と呼ばれたこの事件の処理について、田中義一首相は元老の[[西園寺公望]]らの意向を入れて真相を究明し、陸軍軍人の関与が確認されたら厳しく処断するつもりであり、[[昭和天皇]]にも当初そのように上奏した<ref name="itoh12">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.12-16]]</ref>。[[白川義則]]陸相も田中の意を受けて事件の真相を明らかにして処分しようと動いた<ref name="itoh12" />。しかし、[[上原勇作]]や[[閑院宮載仁親王]]の両元帥はじめ陸軍の長老や他の陸軍首脳は田中・白川の方針に反対であり、白川は結局、張作霖の列車が爆破された[[線路]]の守備の責任のみを問う行政処分にとどめることを陸軍の総意とすることとした<ref name="itoh12" />。田中内閣の他の閣僚も、田中の方針に反対したので、田中もその圧力に抗しきれず、最終的には、行政処分のみにとどめる方針に転じた<ref name="itoh12" />。[[昭和天皇]]は、この田中の変化に強い不信をいだき、[[牧野伸顕]]や[[鈴木貫太郎]]にも諮問したうえで田中首相を問責した<ref name="itoh16">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.16-18]]</ref>{{refnest|group="注釈"|最後の元老西園寺公望は、真相を究明し、犯人を厳しく処罰すべきであるという考えに立っていたものの、牧野伸顕や鈴木貫太郎とは異なり、昭和天皇による問責は、過度に政治的な行為であり、立憲君主主義のあり方から大きく逸脱するもので将来に禍根を残すとしてこれに反対した<ref name="itoh16" />。}}
 
満洲の張作霖と中国本土の介石という両反共政権による中国分割を前提に、その双方と交渉しつつ日本の権益を擁護するというのが、田中の「等距離外交」([[服部龍二]]<ref name="hattori">[[#服部|服部(2001)]]</ref>)であった<ref name="arima87" />。しかし、この外交路線は爆殺事件によって崩壊した<ref name="arima87" />。張作霖の後継者子息、[[張学良]]は、蒋介石父親の死国民政府と妥協する路線事実とり隠し通し国民政府側も張学良を東北政務委員会主席委員冷静任命対処して時間を稼ぎながら体制を立て直し張学良政権奉天軍閥満洲におてあ程度自立的存在であ父の後継者に就任すいう離れ業認める方針をとてのけた<ref name="arima87kobayashihideo65" >[[#小林英夫1|小林英夫(2008)pp.65-66]]</ref>。1928年12月、張学良は国民政府の[[青天白日旗]]を掲げて[[易幟]]を行った<ref name="arima87" />。これにより日本側には、いわゆる「満蒙権益」について誰を相手に交渉するのかという問題が生じてくる<ref name="arima87kobayashihideo65" />。実際さらに張学良は、張作霖日本と代から幕僚最大親日派懸案事項とな巨頭だてい鉄道交渉[[楊宇霆]]と[[常蔭槐]]1929年1月に暗殺して親本側の圧力かわすため中央政府交渉に移管させようと一掃ており、蒋介石側もそれに応じた<ref name="arima87kobayashihideo65" />。田中外交は、こうして完全に行き詰まってしまった<ref name="arima87" />。爆殺事件であ後、山本条太郎は臨時経済調査委員会を発足させ、これを既存の満鉄調査部と並存させつつも、より実際の立案にかかわ調査活動を委託せしめた<ref name="arima87kobayashihideo79"/>。1929年6月20日、満鉄には再び理事会が設置され、トップの役職名は総裁に戻された。1929年7月、田中は首相を辞任した<ref name="itoh16" />。山本は田中という後ろ盾を失ったこともあり、[[8月14日]]、満鉄総裁の座をおりた。新しい総裁には[[仙石貢]]が就任した
 
一方、張作霖爆殺事件から4か月後、1928年10月には[[陸軍大学校]]兵学教官であった[[石原莞爾]]中佐が関東軍参謀に着任した<ref name="harak136">[[#原田2|原田(1981)pp.136-139]]</ref>。1929年5月には[[板垣征四郎]]が河本大作後任の高級参謀として着任した<ref name="harak136" />。7月、石原らは「対ソ作戦計画の研究」と題する参謀の「北満旅行」を実施し、約2週間で長春、ハルビンから[[ハイラル区|ハイラル]]、[[満洲里]]、[[洮南市|洮南]]の各地をまわった<ref name="harak136" />。この旅行のなかで、石原は「戦争史大観」の講義をおこない、板垣はこれに強く共鳴したといわれる<ref name="harak136" />。また、石原は旅行中に「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決案」を一行に示したが、これは日本国内不安除去のためにも、多数の中国民衆のためにも満蒙問題の積極的解決が必要で、これは日本の満蒙領有によって実現されるが、そのためには対米戦争も賭さなければならないというものであった<ref name="harak136" />。さらに石原は、満洲里において「関東軍満蒙領有計画」を一同に示したが、それによれば、長春もしくはハルビンに総督府を置き、大・中将を総督とする[[軍政 (行政)|軍政]]を布いて、「日本人は大規模の企業及智能を用うる事業に、朝鮮人は水田の開拓に、支那人は小商業労働に、各々其能力を発揮し共存共栄の実を挙ぐべし」というものであった<ref name="harak136" />。石原が自身の構想を満鉄部内に持ち込んだのは、[[1930年]]3月の[[満鉄調査部]]での講話のレジュメが満洲領有計画構想そのものであったことからも知られる<ref name="harak136" />。石原は関東軍の調査機能が不十分であったところから、満鉄調査部に調査協力を要請していたのである<ref name="harak136" />。
爆殺事件の後、山本条太郎は臨時経済調査委員会を発足させ、これを既存の満鉄調査部と並存させつつも、より実際の立案にかかわる調査活動を委託せしめた<ref name="kobayashihideo79"/>。1929年6月20日、満鉄には再び理事会が設置され、トップの役職名は総裁に戻された。1929年7月、田中は首相を辞任した<ref name="itoh16" />。山本は田中という後ろ盾を失ったこともあり、[[8月14日]]、満鉄総裁の座をおりた。新しい総裁には[[仙石貢]]が就任した。
 
=== 満洲国の成立州事変と満鉄改組 ===
{{multiple image
田中外交が行き詰まりをみせるなか、関東軍においては[[石原莞爾]]を中心に満蒙領有論が具体化されつつあった<ref name="kobayashimichihiko423">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.423-424]]</ref>。もとより、これ以前にも[[対華21か条要求]]の際の[[明石元二郎]]などのように陸軍部内で領有論が唱えられたことはあったが、石原のそれは行政組織のあり方にまで踏み込んだものであり、具体性においても計画性においても従前の比ではなかった<ref name="kobayashimichihiko423" />。石原の満蒙領有論は元来、[[世界最終戦論]]を念頭に置く限りにおいて、満洲プラス中国本土領有論なのであって、それ抜きには長期持久戦を戦い抜くだけの自給自足体制は確立しえないものである<ref name="kobayashimichihiko423" />。一方、関東軍内部には「門戸開放、機会均等主義を尊重」しながら、事を進めるべきだとの論もあり、この論を唱えていた中心人物が[[板垣征四郎]]であった<ref name="kobayashimichihiko423" />。板垣の見解は、事変の長期化によって満蒙領有論の後退し、代わって独立国家樹立論が台頭するにおよんで、次第にその発言力を増していった<ref name="kobayashimichihiko423" />。
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| image1 =Kanji Ishiwara2.JPG
| caption1 = 関東軍参謀、[[石原莞爾]]
| image2 = Col.Seishirō Itagaki.jpg
| caption2 = 関東軍高級参謀、[[板垣征四郎]]
}}
関東軍においては[[石原莞爾]]を中心に満蒙領有論が具体化されつつあった<ref name="kobayashimichihiko423">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.423-424]]</ref>。もとより、これ以前にも21か条要求の際の[[明石元二郎]]などのように陸軍部内で領有論が唱えられたことはあったが、石原のそれは行政組織のあり方にまで踏み込んだものであり、具体性においても計画性においても従前の比ではなかった<ref name="kobayashimichihiko423" />。石原の満蒙領有論は元来、[[世界最終戦論]]を念頭に置く限りにおいて、満洲プラス中国本土領有論であり、そうでなければ長期持久戦を戦い抜くだけの自給自足体制は確立しえないものであった<ref name="kobayashimichihiko423" />。一方、関東軍内部には「門戸開放、機会均等主義を尊重」しながら事を進めるべきだとの論もあり、その中心人物が[[板垣征四郎]]であった<ref name="kobayashimichihiko423" />。板垣の意見は、事変の長期化によって満蒙領有論が後退し、代わって独立国家樹立論が台頭するにおよんで、次第にその発言力を増していった<ref name="kobayashimichihiko423" />。
 
==== 満鉄包囲網と世界恐慌 ====
{{See also|世界恐慌|満蒙問題}}
[[1929年]]秋に始まった[[世界恐慌]]は日本に深刻な影響をもたらしたのみならず、満洲にも多大な影響を及ぼした<ref name="itoh332">[[#伊藤|伊藤(2010)pp.332-334]]</ref>。恐慌により満鉄の営業成績が著しく悪化したことに加え、中国側は満鉄並行鉄道の建設を計画しており、もし、これが実現すると満鉄経由の貨物輸送がさらに減少し、経営は危機的状況に陥ることが懸念された<ref name="itoh332" />。なお、中国では、[[1930年]]5月から、介石と反介石連合との間で[[中原大戦]]が始まっているが、その帰趨を決したのは張作霖の後継者、張学良であった<ref name="kitaoka116">[[#北岡|北岡(1999)pp.116-118]]</ref>。1930年9月、[[閻錫山]]のもとに[[汪兆銘]]・[[馮玉祥]]など反の人々が立場を越えて集まり政権を成立させたが、反の立場から期待されていた満洲の張学良は9月18日、介石支持の立場を鮮明にしたのである<ref name="kitaoka116" />。張学良は、国民政府との協議のなかで、東北政務委員会と東北交通委員会は、中央集権の強化を目指す立場には反しているとはしながらも、その存続を主張して介石から了解を得ていた<ref name="usui10">[[#臼井|臼井(1974)pp.10-12]]</ref>。
 
[[ファイル:Chang Shueliang.jpg|170px|右|thumb|[[張学良]]]]
[[ファイル:Manchukuo Railmap jp.gif|450px|thumb|1945年における満州国の鉄道路線図(赤-社線、緑-北鮮線、青-国線)]]
東北交通委員会は、日本の満洲権益の中核である満鉄を中国鉄道で包囲し、満洲中の貨物を満鉄から奪還し、満鉄の機能を麻痺させる計画を立てていた<ref name="usui10"/>。すなわち、満鉄をはさむ東西の2大幹線を建設し、これを北平([[北京]]) - 奉天間に集中させて、そのルート上に新たに築港して連絡させるならば、満鉄を包囲してその死命を制するのみならず、ソ連の権益鉄道である東支鉄道(東清鉄道)にも重大な脅威を与えることができるという構想である<ref name="usui10"/>。資金調達は官民合弁で、なおも不足する場合には、鉄道が外国支配を招かないよう厳しい条件を付したうえで外国資本(特にアメリカ資本、ドイツ資本)を受け容れることとした<ref name="usui10"/>。すでに7月より[[錦州]]南方の[[葫蘆島]]ではドイツ資本による大規模な海龍地区の港湾建設工事が始まっていた<ref name="usui10"/>。東北交通委員会が計画する2大幹線が完成すれば、満洲南北の要地から中国鉄道を経由して葫蘆島へ至る距離は、満鉄利用で大連に行くのに比べて著しく短縮されるため、満鉄にとって一大脅威となることは充分に予想された<ref name="usui10"/>。すでに完成している中国鉄道は、[[京哈線|北寧(北平‐奉天)]][[瀋吉線|奉海(奉天 - [[錦西市|海龍]])、吉海(吉林 - 海龍)]][[長図線|吉敦(吉林 - 敦化)]]の東4線、北寧、[[平斉線|四洮]]([[四平街]] - 洮南)、[[平斉線|洮昴]](洮南 - [[昴昴渓]])、[[斉北線|斉克]]([[チチハル市|チチハル]] - [[克山県|克山]])の西4線は連絡運転を開始しており、このうち、奉海・吉海の両線については連絡割引を実施するなど、満鉄圧迫策を強めた<ref name="usui10"/>。
 
世界恐慌の影響は満洲においても端的にあらわれ、たとえば1930年(昭和5年)度に[[大連港]]で扱った輸出入貨物は、前年度に比べて[[輸出]]約200万トン、[[輸入]]約50万トン減少した<ref name="usui10"/>。これは、当然満鉄の輸送収入を悪化させ、満鉄の鉄道事業の収益は前年の3分の1に落ち込み、2,000人の従業員の解雇を余儀なくされた。さらに、長期的に低落していた銀相場が1930年に入って暴落したことも、銀建運賃をとっていた中国鉄道には有利である反面、金建運賃をとっていた満鉄には大きな痛手であった<ref name="usui10"/>。すなわち、銀貨国において金建運賃を採用している満鉄にあっては、銀暴落は必然的に運賃高騰を招くのであって、安価なライバル線に貨物輸送が奪われるのは当然のことだったのである<ref name="usui10"/>。
 
世界恐慌、銀安、満鉄包囲網といった悪条件が重なり、1930年以降の満鉄をめぐる情勢は深刻なものとなっていった<ref name="usui10"/>。[[1930年]]の[[国勢調査]]では、関東州と南満洲鉄道付属地帯(満鉄付属地)に居住する日本人は、それぞれ10万人を超えていた<ref name="arima15">[[#有馬|有馬(2010)p.15]]</ref>。在満日本人22万8,000の大部分は満鉄附属地にし、満鉄ならびにその付属会社に直接間接に依存して生計を立てていたのである<ref name="usui10"/>。
 
[[浜口雄幸内閣]]の外相、[[幣原喜重郎]]は、北伐以後の[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]が満鉄包囲網の形成へと向かうことで「満鉄を死地に陥れ」るものとなるという危機感をもち、1930年11月上旬、対満鉄道交渉方針を打ち立て、懸案事項に関する大幅な譲歩方針を決定した<ref name="usui10"/>。つまり、田中内閣のときの山本・張作霖協定5鉄道のうち、正式請負契約の未だ成立していない3鉄道、すなわち吉五線(吉林 - 五常)、延海線(延吉 - 海林)、洮索線(洮南 - 索倫鎮)についてはすべて中国の自弁敷設に任せることとし、正式契約の成立している2路線についても、長大線(長春 - 大賚)は中国が自弁鉄道を敷設するよう努め、吉会線については敦化-老頭溝間のみを日本が敷設し、老頭溝-図們江に関しては当分権利を留保するにとどめることとして、中国側の国権回復熱の沈静化を図ろうとしたのである<ref name="usui10"/>。ただし、中国側が敷設を予定している鉄道のうち満鉄にとって致命的と考えられる、[[鄭家屯]] - 長春、鄭家屯 - [[彰武県|彰武]]、洮南 - ハルビン、洮南 - [[通遼]]については、その敷設を阻止するためにあらゆる手段を講じることとした<ref name="usui10"/>。そして、これまで満鉄平行線として抗議してきた吉海線(上述)と打通線(打虎山 - 通遼)については、永続的な連絡協定が満鉄と中国鉄道とのあいだで結ばれることを条件に抗議を撤回することとした<ref name="usui10"/>。幣原の案は必ずしも全面的な妥協ではなかったが、山本・張協定からみれば甚だしい後退であり、また平行線の吉海・打通への異議を撤回する一方で洮南-通遼などの建設を絶対阻止しうるかについては甚だ疑問であると言わざるを得ず、全面的後退を余儀なくされることも考えられた<ref name="usui10"/>。幣原の方針は、[[11月14日]]付の訓令によって[[重光葵]]駐華代理公使に伝えられた<ref name="usui10"/>。
 
[[ファイル:Yōsuke Matsuoka.jpg|170px|サムネイル|右|「満洲の[[弐キ参スケ]]」のひとり、[[松岡洋右]]{{refnest|group="注釈"|「弐(ニ)キ」とは[[東条英機]]と[[星野直樹]]、「参(三)スケ」とは松岡洋右、[[鮎川義介]]、[[岸信介]]。}}]]
[[浜口雄幸内閣]]の外相、[[幣原喜重郎]]は、北伐以後の[[国権回復運動 (中国)|国権回復運動]]が満鉄包囲網の形成へと向かうことで「満鉄を死地に陥れ」るものとなるという危機感をもち、1930年11月上旬、対満鉄道交渉方針を打ち立て、懸案事項に関する大幅な譲歩方針を決定した<ref name="usui10"/>。つまり、田中内閣のときの山本・張作霖協定5鉄道のうち、正式請負契約の未だ成立していない3鉄道、すなわち吉五線(吉林 - 五常)、延海線(延吉 -海林)、洮索線(洮南 -索倫鎮)についてはすべて中国の自弁敷設に任せることとし、正式契約の成立している2路線についても、長大線(長春 - 大賚)は中国が自弁鉄道を敷設するよう努め、吉会線については敦化-老頭溝間のみを日本が敷設し、老頭溝-図們江に関しては当分権利を留保するにとどめることとして、中国側の国権回復熱の沈静化を図ろうとしたのである<ref name="usui10"/>。ただし、中国側が敷設を予定している鉄道のうち満鉄にとって致命的と考えられる、[[鄭家屯]]-長春、鄭家屯-[[彰武県|彰武]]、洮南-ハルビン、洮南-[[通遼]]については、その敷設を阻止するためにあらゆる手段を講じることとした<ref name="usui10"/>。そして、これまで満鉄平行線として抗議してきた吉海線(上述)と打通線(打虎山-通遼)については、永続的な連絡協定が満鉄と中国鉄道とのあいだで結ばれることを条件に抗議を撤回することとした<ref name="usui10"/>。幣原の案は必ずしも全面的な妥協ではなかったが、山本・張協定からみれば甚だしい後退であり、また平行線の吉海・打通への異議を撤回する一方で洮南-通遼などの建設を絶対阻止しうるかについては甚だ疑問であると言わざるを得ず、全面的後退を余儀なくされることも考えられた<ref name="usui10"/>。幣原の方針は、[[11月14日]]付の訓令によって[[重光葵]]駐華代理公使に伝えられた<ref name="usui10"/>。
[[1931年]](昭和6年)1月、前満鉄副総裁で政友会代議士の松岡洋右は帝国議会で「満蒙はわが国の生命線である」と述べて満蒙の重要性を強調した<ref name="ookado32">[[#大門|大門(2009)pp.32-34]]</ref>。松岡によれば、満蒙に日本が勢力を張るに至ったのは、中国が朝鮮の独立に脅威を与え、ロシアが日本の存立を脅かしたからであり、それを日本は[[日清戦争|日清]]・日露の両戦争を勝ち抜いたことで満蒙権益が認められたのであるとした<ref name="ookado32" />。しかるに、現在の満蒙は国民の経済的自立にとって欠かせない地域となっているにもかかわらず、国防上の危機にさらされているとして幣原外交を「軟弱」と批判して、武力による強硬な解決を主張した<ref name="ookado32" />。
 
==== 満州事変 ====
{{See also|柳条湖事件|満州事変}}
[[ファイル:北大营1931.jpg|300px|right|thumb|1931年9月18日から19日にかけて関東軍(独立守備隊)の攻撃をうけた北大営]]
[[ファイル:Mukden 1931 japan shenyang.jpg|300px|right|thumb|日本陸軍第2師団の奉天入城(1931年9月18日)]]
[[1931年]]([[昭和]]6年)[[9月18日]]、関東軍は、張学良が北平に滞在し、[[奉天軍閥]]の主力が長城以南に結集、さらに残存留守部隊が東三省に分散配置されていた間隙をぬって、奉天郊外柳条湖で満鉄線路爆破事件([[柳条湖事件]])を引き起こした<ref name="kobayashihideo90">[[#小林英夫|小林英夫(2008)pp.90-92]]</ref><ref name="kobayashimichihiko426">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.426-427]]</ref>。そして、それを中国側の仕業と発表して懸案の満洲占領作戦を実行にうつした<ref name="kobayashihideo90" />。関東軍の作戦計画は、各部隊を迅速に奉天に集中させ、戦闘開始の劈頭で東北軍主力を叩き、その権力中枢を麻痺させようというもので、そうすれば四分五裂する張学良軍を攻撃したり、買収したりするのは比較的く、こうした硬軟さまざまな手段を駆使して各個撃破をめざすであるという考えであった<ref name="kobayashimichihiko424" />。いずれにしても、関東軍は[[第2師団 (日本軍)|第2師団]]と独立守備隊から成る公称1万余(実際は8,800)の少数兵力をもって、留守部隊とはいえ[[戦車]]、[[航空機]]、[[重火器]]、若干の[[毒ガス兵器]]を装備した張学良軍20万余と対峙したのである<ref name="kobayashihideo90" />。関東軍は[[野戦]]訓練を重ね、[[四五式二十四糎榴弾砲|24センチ榴弾砲]]を秘密裏に奉天に運び入れて[[夜襲]]と[[威嚇射撃]]により相手の虚を突く軍事行動を展開した<ref name="kobayashihideo90" />。実際、[[榴弾砲]]の轟音と地響きとは、東北軍のみならず奉天市民を恐怖に陥れたのであった<ref name="kobayashihideo90" />。北平にあった張学良は日本軍の挑発に乗らないよう無抵抗を指示し、そのため奉天軍の軍事拠点であった北大営と奉天城は短期間で占領された<ref name="kobayashihideo90" />。攻撃命令を下したのは、[[板垣征四郎]]大佐であった<ref name="usui36">[[#臼井|臼井(1974)pp.36-46]]</ref>。
 
柳条湖事件勃発のときから政府は陸軍の謀略であることを強く疑っており、[[9月19日]]の[[本庄繁]]関東軍総司令官からの増援要求も一蹴されていた(9月19日)<ref name="kobayashimichihiko427">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.427-428]]</ref>。閣議で不拡大方針が確認され、幣原喜重郎外相や[[井上準之助]]蔵相が[[南次郎]]陸相に対し、部隊の原駐地への帰還を強く迫った<ref name="kobayashimichihiko427" />。そこで関東軍は吉長線経由で吉林に第2師団主力を送り込み、わざと奉天の警備を手薄にして[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]に来援を要請したが、9月19日、[[金谷範三]][[参謀本部 (日本)#歴代参謀総長|参謀総長]]は出兵を制止した<ref name="kobayashimichihiko427" />。関東軍は[[金谷範三9月21日]]には吉林を占領し、同日、かねてより来援を要請されていた[[参謀総長林銑十郎]]は当然のこを司令官する朝鮮軍独断で[[鴨緑江]]をわたり、満洲に入った<ref name="kobayashihideo90" /><ref name="kobayashimichihiko427" /><ref name=kawada19>[[#川田|川田(2010)pp.19-20]]</ref>。本来、[[国境]]を越えての出兵は軍の[[統帥権]]制止有する[[天皇]]の許可が必要だったはずだが、林はその規定を無視した(9<ref name="kobayashimichihiko427" /><ref name=mori18>[[#森|森(1993)pp.18-20]]</ref>。そして[[91928]]までには[[袁金鎧]]を奉天地方維持委員会委員長に、[[煕洽]]を吉林省長官に誘い出して彼らを用いて[[奉天省]]・[[吉林省]]の張学良からの独立を宣言させた<ref name="kobayashimichihiko427kobayashihideo90" />。[[黒竜江省]]の占領もねらったが、早期の占領は無理と判断すると黒竜江省首席代表の[[馬占山]]とは妥協し、北部満洲の治安の安定を図った<ref name="kobayashihideo90" />。当時の満鉄総裁であった[[内田康哉]]以下の満鉄首脳は当初、事変の不拡大を望んでいたが、理事の中で唯一、事変拡大派であった[[十河信二]]の周旋で内田が本庄司令官と面談すると、内田は急進的な事変拡大派に転向し、満鉄は上から下まで事変に協力することとなった
 
ところが、満洲情勢は混迷の一途をたどっていた<ref name="kobayashimichihiko430">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.430-431]]</ref>。関東軍の一撃は確かに奉天軍閥を麻痺させることには成功したが、それは満洲土着の「[[馬賊]]」や「[[匪賊]]」の跳梁を促し、これに東北軍の敗残兵が加わることによって内陸部はもとより満鉄沿線の治安も悪化の一途をたどり、ハルビン占領はおろか関東軍はその主力を満鉄沿線にとどめて治安維持にかかりきりになるような有り様だったのである<ref name="kobayashimichihiko430" />。加えて、敗残兵による在満朝鮮人虐殺事件が連日報じられており、鉄道付属地には内陸部から避難した在満朝鮮人が陸続となだれ込んで、深刻な事態となっていた<ref name="kobayashimichihiko430" />。若槻禮次郎内閣はしかし、ここに至っても慎重であり、なおも増派を認めなかった<ref name="kobayashimichihiko430" />。
関東軍は[[9月21日]]には吉林を占領し、同日、かねてより来援を要請されていた[[林銑十郎]]を司令官とする朝鮮軍が独断で[[鴨緑江]]をわたり、満洲に入った<ref name="kobayashihideo90" /><ref name="kobayashimichihiko427" /><ref name=kawada19>[[#川田|川田(2010)pp.19-20]]</ref>。本来、[[国境]]を越えての出兵は軍の[[統帥権]]を有する[[天皇]]の許可が必要だったはずだが、林はその規定を無視した<ref name="kobayashimichihiko427" /><ref name=mori18>[[#森|森(1993)pp.18-20]]</ref>。そして[[9月28日]]までには[[袁金鎧]]を奉天地方維持委員会委員長に、[[煕洽]]を吉林省長官に誘い出して彼らを用いて[[奉天省]]・[[吉林省]]の張学良からの独立を宣言させた<ref name="kobayashihideo90" />。[[黒竜江省]]の占領もねらったが、早期の占領は無理と判断すると黒竜江省首席代表の[[馬占山]]とは妥協し、北部満洲の治安の安定を図った<ref name="kobayashihideo90" />。
 
手詰まり状態に陥った石原がここで考えたのが、張学良の対満反攻拠点であった[[錦州市|錦州]]への[[空爆]]である<ref name="kobayashimichihiko432">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.432-433]]</ref>。10月8日、石原莞爾は本庄に無断で錦州軍政府に爆撃を加えた([[錦州爆撃]])<ref name="kobayashihideo90" /><ref name="kobayashimichihiko432" />。錦州爆撃は規模としては小さいものであったし、また、これによって軍政府が機能しなくなったわけでもなかったが、国際社会はこの事件に大きな衝撃を受けた<ref name="kobayashimichihiko432" />。[[天津市|天津]]の[[支那駐屯軍]]は、今度は自分たちの出番だと色めきだって錦州への南方からの陸路侵攻を図ったが、南と金谷はこれに機敏に動き、厳しい制止と増派の不可を宣して支那駐屯軍の暴走はひとまず食い止められた<ref name="kobayashimichihiko432" />。12月初旬頃の関東軍の作戦行動は南北ともに行き詰まっており、昭和天皇の事変不拡大の意思も固かった<ref name="kobayashimichihiko440">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.440-442]]</ref>。[[第2次若槻内閣]]と参謀本部は連携して関東軍の策動を抑え込んでいた<ref name="kobayashimichihiko440" />。[[国際連盟]]の論調も風向きが変わり、極東における安定勢力は結局日本なのだから、しばらく日本の力により満洲の無政府状態を収拾するほかないとして、[[ジュネーヴ]]では満洲の[[委任統治]]構想が急浮上していた<ref name="kobayashimichihiko440" />。英仏伊の3国は錦州一帯に中立地帯を設定し、そこに国際警察軍のような組織を進駐させるという打開策の提示に動き始めていた<ref name="kobayashimichihiko440" />。こうした状況を受けて若槻内閣は、奉天に内田満鉄総裁を委員長とする「満洲対策協議委員会」を設置して、本国政府の意向を出先に周知徹底させるためのシステムを満鉄を中心に作り上げようとした<ref name="kobayashimichihiko440" />。こうして、事態は政党内閣によって収拾されつつあるようにみえた<ref name="kobayashimichihiko442">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.442-443]]</ref>。
当時の満鉄総裁であった[[内田康哉]]以下の満鉄首脳は当初、事変の不拡大を望んでいたが、理事の中で唯一、事変拡大派であった[[十河信二]]の周旋で内田が本庄司令官と面談すると、内田は急進的な事変拡大派に転向し、満鉄は上から下まで事変に協力することとなった。しかし、満洲情勢は混迷の一途をたどっていた<ref name="kobayashimichihiko430">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.430-431]]</ref>。関東軍の一撃は確かに奉天軍閥を麻痺させることには成功したが、それは満洲土着の「[[馬賊]]」や「[[匪賊]]」の跳梁を促し、これに東北軍の敗残兵が加わることによって内陸部はもとより満鉄沿線の治安も悪化して、ハルビン占領はおろか関東軍はその主力を満鉄沿線にとどめて治安維持にかかりきりになるような有り様であった<ref name="kobayashimichihiko430" />。加えて、敗残兵による在満朝鮮人虐殺事件が連日報じられており、鉄道付属地には内陸部から避難した在満朝鮮人が陸続となだれ込んで、深刻な事態となっていたのである<ref name="kobayashimichihiko430" />。若槻禮次郎内閣はしかし、ここに至っても慎重であり、増派を認めなかった<ref name="kobayashimichihiko430" />。
 
しかし、アメリカ合衆国の[[ヘンリー・スティムソン]]国務長官の記者発表によって事態が急転する<ref name="kobayashimichihiko443">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.443-445]]</ref>。スティムソンは、アメリカ駐日大使を経由した幣原外相談として今後関東軍の錦州攻撃は行われないであろうとの談話を発表するが、これが日本国内の[[メディア]]で報道されるや、幣原は外国の政権担当者に軍事作戦を約束しており、これは[[統帥権干犯]]にあたるとして猛烈な反発を招いたのである<ref name="kobayashimichihiko443" />。[[皇道派]]、[[平沼騏一郎]]らの流れを汲む右派、関東軍の行動を支持していた人びとはこぞって幣原を攻撃し、幣原・南・金谷の求心力は低下した<ref name="kobayashimichihiko443" />。動揺した若槻内閣は結局、12月に退陣した<ref name="kobayashimichihiko443" />。
手詰まり状態に陥った石原がここで考えたのが、張学良の対満反攻拠点であった[[錦州市|錦州]]への[[空爆]]である<ref name="kobayashimichihiko432">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.432-433]]</ref>。10月8日、石原莞爾は本庄に無断で錦州軍政府に爆撃を加えた([[錦州爆撃]])<ref name="kobayashihideo90" /><ref name="kobayashimichihiko432" />。錦州爆撃は規模としては小さいものであったし、また、これによって軍政府が機能しなくなったわけでもなかったが、国際社会はこの事件に大きな衝撃を受けた<ref name="kobayashimichihiko432" />。[[天津市|天津]]の[[支那駐屯軍]]は、今度は自分たちの出番だと色めきだって錦州への南方からの陸路侵攻を図ったが、南と金谷はこれに機敏に動き、厳しい制止と増派の不可を宣して支那駐屯軍の暴走はひとまず食い止められた<ref name="kobayashimichihiko432" />。12月初旬頃の関東軍の作戦行動は南北ともに行き詰まっており、昭和天皇の事変不拡大の意思も固かった<ref name="kobayashimichihiko440">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.440-442]]</ref>。[[第2次若槻内閣]]と参謀本部は連携して関東軍の策動を抑え込んでいた<ref name="kobayashimichihiko440" />。[[国際連盟]]の論調も風向きが変わり、極東における安定勢力は結局日本なのだから、しばらく日本の力で満洲の無政府状態を収拾するほかないとして、[[ジュネーヴ]]では満洲の[[委任統治]]構想が急浮上していた<ref name="kobayashimichihiko440" />。英仏伊の3国は錦州一帯に中立地帯を設定し、そこに国際警察軍のような組織を進駐させるという打開策の提示に動き始めていた<ref name="kobayashimichihiko440" />。こうした状況を受けて若槻内閣は、奉天に内田満鉄総裁を委員長とする「満洲対策協議委員会」を設置して、本国政府の意向を出先に周知徹底させるためのシステムを満鉄を中心に作り上げようとした<ref name="kobayashimichihiko440" />。こうして、事態は政党内閣によって収拾されつつあるようにみえた<ref name="kobayashimichihiko442">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.442-443]]</ref>{{refnest|group="注釈"|この間、満洲領有はおろか、独立国家の樹立も絶望的となった石原は急遽、満洲を国際連盟の委任統治下に置くべきだと主張し始め、関東軍内部でも顰蹙を買った<ref name="kobayashimichihiko440" />。これを機に、関東軍の主導権は板垣征四郎に移り、彼は満洲に門戸開放7・機会均等原則を適用して、アメリカ合衆国を範とする独立国家を建設すれば、アメリカとの協調も十分に可能であるとの論を展開していた<ref name="kobayashimichihiko440" />。}}。
 
==== 満洲国の成立と満鉄 ====
しかし、アメリカ合衆国の[[ヘンリー・スティムソン]]国務長官の記者発表によって事態が急転する<ref name="kobayashimichihiko443">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.443-445]]</ref>。スティムソンは、アメリカ駐日大使を経由した幣原外相談として今後関東軍の錦州攻撃は行われないであろうとの談話を発表するが、これが日本国内の[[メディア]]で報道されるや、幣原は外国の政権担当者に軍事作戦を約束しており、これは[[統帥権干犯]]にあたるとして猛烈な反発を招いたのである
{{See also|満洲国|満州国国有鉄道}}
<ref name="kobayashimichihiko443" />。[[皇道派]]、[[平沼騏一郎]]らの流れを汲む右派、関東軍の行動を支持していた人びとはこぞって幣原を攻撃し、幣原・南・金谷の求心力は低下した<ref name="kobayashimichihiko443" />。動揺した若槻内閣は結局、12月に退陣した<ref name="kobayashimichihiko443" />。
[[ファイル:Puyi-Manchukuo.jpg|170px|右|thumb|満洲国執政となった[[愛新覚羅溥儀]]]]
第2次若槻内閣総辞職によって、立憲政友会の[[犬養毅]]に大命が下される一方、八方ふさがりの状態にあった関東軍が息を吹き返した<ref name="kobayashimichihiko443" /><ref name="arima121">[[#有馬|有馬(2010)pp.121-123]]</ref>。関東軍は1932年2月までに東三省のほとんどを占領し、2月5日のハルビン占領と7日以降の馬占山協力の姿勢をみて満洲独立政権の動きが急激に高まった<ref name="usui202">[[#臼井|臼井(1974)pp.202-207]]</ref>。東三省の要人たちは[[本庄繁]]関東軍総司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめた<ref name="usui202" />。関東軍は、2月16日、奉天に黒竜江省長[[張景恵]]、奉天省長[[臧式毅]]、吉林省長[[煕洽]]、そして[[馬占山]]の「四巨頭」を集めて張景恵を委員長とする東北行政委員会を組織し、そこでは馬占山が黒竜江省長官に任命された<ref name="usui202" />。2月18日、「党国政府と関係を脱離し東北省区は完全に独立せり」という、満洲の中国国民党政府からの分離独立が宣言された<ref name="usui202" />。そして2月24日、元首の称号は執政、国号は満洲国、国旗は新五色旗、年号は大同の基本構想が立てられた<ref name="usui202" />。
 
1932年3月1日、張景恵宅において、上記「四巨頭」に熱河省の[[湯玉麟]]、内モンゴルのジェリム盟長[[チメトセムピル]]、ホロンバイル副都統の[[凌陞]]を加えた東北行政委員会が開かれ、清朝の廃帝[[愛新覚羅溥儀]]を執政とする[[満洲国]]の建国が宣言された<ref name="harak156" /><ref name="usui202" /><ref name="kobayashimichihiko457">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.457-458]]</ref>。満洲国の[[首都]]は長春が選ばれて「[[新京]]」と命名され、国務院総理([[首相]])には[[鄭孝胥]]が就任した<ref name="kitaoka168">[[#北岡|北岡(1999)pp.168-170]]</ref>。人口3,400万人、面積は現在の日本の約3倍の115万平方キロメートル、五族共和のスローガンが掲げられたものの、事実上の支配権は関東軍の手にある[[傀儡国家]]であった<ref name="arima121" />。3月10日、溥儀と鄭孝胥の間で秘密協定が結ばれ、満洲国の国防・治安維持費用は満洲国政府が負担すること、満洲国の鉄道その他[[社会資本]]は日本が管理すること、日本が必要とする各種施設は満洲国が準備すること、官吏に日本人を採用し、選任は関東軍司令官の推薦に委ねることが合意された<ref name="kobayashihideo106">[[#小林英夫|小林英夫(2008)pp.106-110]]</ref>。これは、のちの[[日満議定書]]で確認されることとなった<ref name="kobayashihideo106" />。
==== 満洲国と満鉄改組 ====
{{See also|満洲国|満州重工業開発|満州国の経済|満鉄調査部事件|満鉄刀}}
第2次若槻内閣総辞職によって、立憲政友会の犬養毅に大命が下される一方、死に体だった関東軍は息を吹き返した<ref name="kobayashimichihiko443" /><ref name="arima121">[[#有馬|有馬(2010)pp.121-123]]</ref>。1932年2月までに東三省のほとんどを占領し、3月には清朝の廃帝[[溥儀]]を執政として[[満洲国]]を名目上独立させ、事実上の支配権をにぎった<ref name="arima121" />。戦火は[[上海]]にも拡大して激しい戦いが続いた([[第一次上海事変]])が、列国の強い抗議もあって5月には停戦した<ref name="arima121" />。満鉄の監督官庁は満洲国建国以後、日本の[[満洲国駐箚特命全権大使|在満洲国特命全権大使]]となったが、この職は[[関東軍]][[司令官]]が兼任していた。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入った。1932年4月、軍部に批判的だった[[江口定条]]副総裁は憲政会に近いこともあって解任され、これを知らなかった内田康哉総裁が辞表を提出する事態となったが、内田は軍部の慰留を受けて辞任を撤回した<ref>[https://kotobank.jp/word/江口%20定条-1639996 コトバンク「江口定条」]</ref><ref>[[#中村|中村『昭和史(上)』(2012)]]</ref>。内田はしかし、この年の7月、満鉄総裁を辞し、[[林博太郎]]が新総裁となった。
 
犬養内閣は、積極外交を方針とする政友会中心の内閣であったが、それでも満洲国を即座には承認しなかった<ref name="kobayashimichihiko457" />。3月12日、犬養は「満洲国承認に容易に行わざる件」を天皇に上奏し、天皇もそれを喜んだ<ref name="kobayashimichihiko457" />。犬養首相はしかし、[[五・一五事件]]で暗殺され、これにより戦前の[[政党内閣]]は幕を閉じた<ref name="kobayashimichihiko458">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.458-459]]</ref>。後継首相は[[斎藤実]]であった<ref name="kobayashimichihiko462">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.462-463]]</ref>。[[斎藤内閣]]は政友会・[[民政党]]からの入閣を得て「[[挙国一致内閣]]」として成立したが、世論は満洲事変を熱狂的に支持しており、斎藤も1932年9月には[[日満議定書]]を結んで満洲国の承認に踏み切った<ref name="kobayashimichihiko462" />。
1932年3月に満洲国が成立すると、満鉄は同国内の鉄道全線の運営・新設を委託された。また、[[1935年]](昭和10年)には日満間で鉄道売却の協定が成立し、形式上は満洲国の所有に帰することとなった。それにともない、満洲国の首都、新京(長春)に満鉄本部が置かれ、事実上の本社となった。こうしたなか、1935年より満鉄総裁となった[[松岡洋右]]は大調査部構想を掲げ、調査部門の強化を図った。この頃、満鉄中央研究所の日下和治博士を筆頭とするチームが、大栗子鉄山で産する良質な[[鉄鉱石]]を低温精錬して得られた[[スポンジ鉄]]を製造し、[[アーク炉]]内で再度溶解、成分調整して[[炭素]]量の多い鋼([[特殊鋼]])と炭素量の少ない純[[鉄]](日下純鉄)の製造の開発に成功した<ref name="man227">「満鉄会報」第227号</ref>。
 
1932年4月、軍部に批判的だった[[江口定条]]副総裁は憲政会に近いこともあって解任され、これを知らなかった内田康哉総裁が辞表を提出する事態となったが、内田は軍部の慰留を受けて辞任を撤回した<ref>[https://kotobank.jp/word/江口%20定条-1639996 コトバンク「江口定条」]</ref><ref>[[#中村|中村『昭和史(上)』(2012)]]</ref>。内田は、この年の7月、斎藤内閣の外務大臣に就任するため満鉄総裁を転出し、[[林博太郎]]が新総裁となった<ref name="harak166">[[#原田2|原田(1981)pp.166-171]]</ref>。
満洲国が成立する前から、満鉄は鉱山開発や森林開発を進めてきており、なかでも最も力を注いできたのは鞍山製鉄所を中心とする鉄鋼業と撫順炭坑を中心とする石炭であった<ref name="hiratsuka164" />。満洲国成立後は、満洲の経営の中心は満鉄から関東軍に移り、満洲国政府にも日本から高級官僚が送られてきて力を持つようになった<ref name="hiratsuka164" />。しかし、関東軍にとって満鉄だけが支配できない組織であった<ref name="hiratsuka164" />。満鉄を支配できなければ、満鉄が経営している工業部門を統制できない<ref name="hiratsuka164" />。[[満州国の経済]]における満鉄の独占的地位が問題となったのである。そこで、満鉄が支配している各種会社を満鉄から切り離して特殊会社とし、満鉄を鉄道と調査部門に特化させる方向が示された<ref name="hiratsuka164" />。この満鉄改組によって、満鉄の事業は次々に減らされたのであるが、炭鉱部門については、かなりの部分がなおも満鉄に残された。
 
1932年8月8日、関東軍首脳に人事異動があり、軍司令官に[[武藤信義]]大将、軍参謀長に[[小磯国昭]]中将、参謀副長に[[岡村寧次]]少将が就任し、高級参謀板垣征四郎は関東軍司令部付に、同参謀石原莞爾は参謀本部付に転じた<ref name="harak166" />。満鉄の監督官庁は満洲国建国以後、日本の[[満洲国駐箚特命全権大使|在満洲国特命全権大使]]であったが、この8月8日をもって関東軍司令官が在満全権大使と関東庁長官を兼任することとなり、その権限は飛躍的に拡大した<ref name="harak166" /><ref name="kobayashimichihiko463">[[#小林道彦1|小林道彦(2020)pp.463-464]]</ref>。関東軍はまた、極東ソ連軍の増強に対抗すべく、わずか1個師団であった戦力が急速に拡大された<ref name="kobayashimichihiko463" />。こうして満鉄は事実上、関東軍の支配下に入った<ref name="harak166" />。関東軍のなかには、これを機に満鉄の組織を徹底的に改編しようという構想が培われていった<ref name="harak166" />。
満洲国における本格的な重工業開発は、[[1936年]]に始動した産業開発5か年計画に沿って行われた<ref name="hiratsuka164" />。それは25億円を投じて鉄鋼・石炭・[[兵器]]・[[自動車]]・[[飛行機]]などの重工業を重点的に育成することを目標としていた<ref name="hiratsuka164" />。この5か年計画を指導した中心人物が、戦後内閣総理大臣となった[[岸信介]]であった<ref name="hiratsuka164" />。岸は商工省の高級官僚であったが、日本政府が直接資本を投入することにはさまざまな制約があった<ref name="hiratsuka164" />。そこで、当時新興財閥と呼ばれた[[鮎川義介]]の日本産業株式会社([[日産コンツェルン]])を満洲に引き入れる方策がとられた<ref name="hiratsuka164" />。日産は、傘下に[[日産自動車]]、[[日立製作所]]、[[日本鉱業]]、[[日本化学工業]]など130社、従業員15万人を擁する一大コンツェルンであったが、それがそっくり満洲へと移転したのである<ref name="hiratsuka164" />。すでにシナ事変([[日中戦争]])の始まっていた1937年12月のことであり、社名も[[満州重工業開発]](通称、「満業」)に改めた<ref name="hiratsuka164" />。満業は2億2500万円を出資し、[[1938年]]3月、満鉄は[[昭和製鋼所|鞍山製鉄所]]をはじめとする重工業部門を満業に提供した<ref name="hiratsuka164" />。こうして、満業には昭和製鋼所や満洲炭坑など、重工業のほとんどが集中した<ref name="hiratsuka164" />。
 
[[ファイル:SMR Xinjing Station Bus Time Table.JPG|300px|右|サムネイル|満鉄新京駅時刻表(中国工業博物館蔵)]]
一方、満鉄中央研究所の特殊鋼開発の成果にもとづき、1937年以降は大連鉄道工場が軍刀の大量生産を企画した。[[1938年]]には刀剣製作所が設立され、[[1939年]]以降「[[満鉄刀]]」として量産された。同年3月、松岡総裁により「興亜一心」と命名され、1振り40円で販売され、[[1944年]](昭和19年)まで約5万振りが製造された<ref name="man227" />。満鉄刀は寒冷地で使用しても折れず曲がらず、切れ味も優れているとして高い評価を得た<ref name="man227" />。
1932年中、満鉄は関東軍の作戦範囲の拡大に応じて[[装甲列車]]を走らせるなど、作戦鉄道としての機能が全面的に発揮された<ref name="harak156" />。そして、3月の満洲国成立以降、中国東北にあった国有鉄道は満洲国政府が管轄することとなった<ref name="harak156" />。[[1933年]][[2月9日]]、満洲国管轄下の鉄道([[満州国国有鉄道|満洲国国有鉄道]])は、南満洲鉄道が満洲国政府に対して供与する借款の担保というかたちで、満鉄が経営を委託された<ref name="harak156" />。委託経営することとなった既設の鉄道は2,939.1キロメートルであった<ref name="harak156" />。3月1日から委託経営が実施され、満鉄は奉天に鉄路総局を設置した<ref name="harak156" />。また、満鉄には鉄道新設の権限もあたえられ、同日、鉄道建設局を大連の本社内に置いた<ref name="harak156" />。これにより満鉄が本来所有する路線を「社線」、国鉄線(満洲国国有鉄道の路線)を「国線」と呼ぶようになった。こののち新線建設の計画が実施されたのは、長春 - 大賚 - 洮安間など旧来から懸案となっていた路線や、関東軍が対ソ作戦のために必要と認めた東満や北満の鉄道網であった<ref name="harak156" />。
 
なお、国内では1933年、[[日本共産党]]の最高幹部だった[[佐野学]]と[[鍋山貞親]]は獄中から[[転向]]声明を発したが、これを機に大量転向が現れた<ref name="ookado61">[[#大門|大門(2009)p.61]]</ref>。かれら転向者には、[[統制経済]]や国家官僚を通じた[[計画経済]]に新たな期待を寄せ、[[国家社会主義]]をとなえる者が多かった<ref name="ookado61" />。新国家満洲に新たな理想を求めた転向者も多く、満鉄には数多くの左翼運動からの転向者がいた<ref name="ookado61" />。
松岡洋右によって調査部門の強化であったが,[[1942年]]、[[1943年]]の2度にわたる「[[満鉄調査部事件]]」(満鉄調査部の研究者が左翼的であるとして大量に検挙された)により、調査部門も活力を失った。
 
==== 北満鉄路の接収と「あじあ号」の登場 ====
子会社の東亜勧業は[[満蒙開拓団]]の入植地確保のため、関東軍の指示で用地買収を行なった。
従来の中東鉄道については、満洲国建国後の1933年[[5月30日]]、ソ連と満洲国との[[合弁企業|合弁事業]]となったが、満鉄ではこの鉄道を「北満鉄路」と称した<ref name="harak162">[[#原田2|原田(1981)pp.162-166]]</ref>。北満鉄路は、ソ連から有償で譲り受け、完全に満洲国の国有鉄道に移管する方針が立てられ、同年6月26日より譲受の交渉が始まった<ref name="harak162" />。北満鉄路(中東鉄道)側は、周囲に満洲国国有鉄道の線路網が張りめぐらされて経営困難になっていたのである<ref name="harak162" />。ソ連側から北満鉄路の譲渡が打診され、満ソ両国代表に[[オブザーバー]]として日本政府代表が参加したが、譲渡価格がソ連側2億5000万ルーブル(6億2500万円)に対し、満洲国側が5000万円でまったく折り合わなかった<ref name="harak162" />。結局、1年以上の交渉を経て[[1934年]]9月21日に譲渡価格1億4000万円、ソ連側退職者の資金3000万円の計1億7000万円で妥結し、[[1935年]]1月22日に細目協定が成立、同年3月11日に仮調印、3月23日には譲渡協定のほか債務にかかわる満ソ秘密議定書、最終議定書など5件の正式調印を完了して北満鉄路全線の接収がなされた<ref name="harak162" />。接収した鉄道線路の総延長は1,732.8キロメートルであった<ref name="harak162" />。
 
北満鉄路の軌間は5フィートであったため、標準軌に改軌する工事が必要で、新京・ハルビン間は1935年8月22日に着手し、29日に準備終了、30日の運転が終了後に作業を開始し、終了予定は翌日8時だったが全部の作業を7時50分に終了して試運転もおこない、ただちに平常業務がなされた<ref name="harak162" />。作業参加人員は2,508名、通信設備その他の切り替えもこの時なされ、この工事は満鉄の技術力を示すものとして高く評価された<ref name="harak162" />。
 
[[ファイル:Super Express Asia.jpg|300px|thumb|right|満鉄のシンボル、特急「あじあ」]]
[[ファイル:Dining-Car of SMR.JPG|右|サムネイル|300px|南満洲鉄道旅客列車の食堂車]]
[[1934年]]、大連 - 新京間に満鉄最初の特急「[[あじあ (列車)|あじあ]]」が登場した<ref name="komuta266">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.266-274]]</ref>。最高速度は110km/h、表定速度は82.5km/hで、日本国鉄の特急「[[つばめ (列車)|つばめ]]」の平均速度66.8km/hを上回った<ref name="komuta266" />。大連 - 新京(長春)間701.4キロメートルを8時間半でむすび、従来の急行よりも2時間も所要時間を短縮させた<ref name="komuta266" />。北満鉄路接収後の[[1935年]]9月には運転区間は[[ハルビン|哈爾濱]](ハルビン)まで延長された<ref name="komuta266" />。
 
==== 満鉄改組 ====
{{See also|満州国の経済|満州重工業開発}}
満洲国成立当時の満鉄は、資本金4億4000万円、鉄道・港湾・炭鉱の三大事業に加えて附属地4万9000ヘクタールをかかえており、傍系会社は1936年までに77社に達していた<ref name="harak166" />。鉱山開発や森林開発は満洲国成立以前から進めており、なかでもは鞍山製鉄所を中心とする鉄鋼業と撫順炭坑を中心とする石炭については特に力を入れてきた<ref name="hiratsuka164" />。『満鉄コンツェルン読本』によれば、傍系会社の資本金は7億円を越え、満鉄の持株はその49.3パーセントに達した<ref name="harak166" />。
 
満洲国成立後は、満洲の経営の中心は満鉄から関東軍に移り、満洲国政府にも日本から高級官僚が送られてきて力を持つようになった<ref name="hiratsuka164" />。しかし、関東軍にとって満鉄だけが支配できない組織であった<ref name="hiratsuka164" />。満鉄を支配できなければ、満鉄が経営している工業部門を統制できないと考える人びとは、[[満州国の経済]]における満鉄の独占的地位を問題とした<ref name="hiratsuka164" />。そこで、満鉄が支配している各種会社を満鉄から切り離して特殊会社とし、満鉄を鉄道と調査部門に特化させる方向が示された<ref name="hiratsuka164" />。[[1935年]](昭和10年)には日満間で鉄道売却の協定が成立し、形式上は満洲国の所有に帰することとなった。こうしたなか、1935年より満鉄総裁となった[[松岡洋右]]は大調査部構想を掲げ、調査部門の強化を図った。満洲国の成立後は国策として満洲移民が奨励され「開拓地」が広がったことや対ソ防衛上の見地から北部や東部に向かう路線の建設に力を注がれた<ref name="yamada636">[[#山田|山田(2010)pp.636-637]]</ref>。北黒線や虎林線はその代表例である<ref name="yamada636"/>。満洲・朝鮮・日本の連絡強化も推進された<ref name="yamada636"/>。
 
一方、満洲国における本格的な重工業開発は、[[1936年]]に始動した産業開発5か年計画に沿って行われた<ref name="hiratsuka164" />。それは25億円を投じて鉄鋼・石炭・[[兵器]]・[[自動車]]・[[飛行機]]などの重工業を重点的に育成することを目標としていた<ref name="hiratsuka164" />。この5か年計画を指導した中心人物が、戦後内閣総理大臣となった[[岸信介]]であった<ref name="hiratsuka164" />。岸は商工省の高級官僚であったが、日本政府が直接資本を投入することにはさまざまな制約があった<ref name="hiratsuka164" />。そこで、当時新興財閥と呼ばれた[[鮎川義介]]の日本産業株式会社([[日産コンツェルン]])を満洲に引き入れる方策がとられた<ref name="hiratsuka164" />。日産は、傘下に[[日産自動車]]、[[日立製作所]]、[[日本鉱業]]、[[日本化学工業]]など130社、従業員15万人を擁する一大コンツェルンであったが、それがそっくり満洲へと移転したのである<ref name="hiratsuka164" />。すでにシナ事変([[日中戦争]])の始まっていた1937年12月のことであり、社名も[[満州重工業開発]](通称、「満業」)に改めた<ref name="hiratsuka164" />。満業は2億2500万円を出資し、[[1938年]]3月、満鉄は[[昭和製鋼所|鞍山製鉄所]]をはじめとする重工業部門を満業に提供した<ref name="hiratsuka164" />。こうして、満業には昭和製鋼所や満洲炭坑など、重工業のほとんどが集中した<ref name="hiratsuka164" />。また、[[満蒙開拓団]]の入植地確保のため、関東軍の指示で用地買収を行なったのは満業の子会社の東亜勧業であった。
 
=== 戦時下の満鉄 ===
==== 鉄道総局への改組 ====
満洲国成立後、本来の路線(社線)のほかに、満洲国が1935年にソ連から買収した北満鉄路を含む国線や北部朝鮮の一部の鉄道の運営と新線建設を受託し、[[営業キロ]]数を格段と伸ばしていった<ref name="komuta174">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.174-181]]</ref>。これに対応するため満鉄は、[[1936年]][[10月1日]]、鉄路総局・鉄路建設局、そして満鉄の鉄道部を全て統合し、奉天に「鉄道総局」を設置した。これは実質的な経営統合であり、満洲内の鉄道を統括する大事業者として君臨することを意味していた。満鉄と国鉄の経営統合は、関東軍の意向をくじくものであり、満洲の鉄道事業にさかんに干渉してくる関東軍に一矢報いる行動であった。また、従来は満鉄線と満洲国鉄線を区別していた市販の時刻表も「鉄道総局線」として同一に扱うようになった<ref name="komuta174" />。
 
==== 満蒙開拓団 ====
{{See also|満蒙開拓団|満蒙開拓移民}}
満蒙開拓団の事業は、[[昭和恐慌]]で疲弊する内地農村を[[中国大陸]]への移民により救済すると唱える[[加藤完治]]らと[[屯田兵]]移民による満州国維持と対ソ戦兵站地の形成を目指す[[関東軍]]により発案され、反対が強い中、試験移民として発足したものである<ref name="araragi495">[[#蘭|蘭(2012)p.495]]</ref>。[[1936年]](昭和11年)までの5年間は「試験的移民期」にあたり、年平均3000人の移民が日本より送りだされた<ref name="araragi495" />。
 
1936年の[[二・二六事件]]により政治のヘゲモニーが政党から軍部に移り、[[高橋是清]]蔵相が暗殺されると、移民反対論も弱まり、[[広田弘毅]]内閣は、本事業を[[広田弘毅#内閣総理大臣|七大国策事業]]に位置づけ、「満州開拓移民推進計画」を決議した<ref name="araragi495" />。同年末には、先に関東軍作成の「[[満州農業移民百万戸移住計画]]」をもとに「[[二十カ年百万戸送出計画]]」が策定された<ref name="araragi495" />。これは、1936年から1956年の間に500万人の日本人を移住させるとともに、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画であった。日本政府は、1936年には2万人の家族移住者を送り込んだ。移住責任者は[[加藤完治]]で、業務を担っていたのは[[満州拓殖公社]]であった。
 
==== 日中戦争の勃発 ====
{{See also|日中戦争}}
[[ファイル:Ad of South Manchuria Railway 19370815.jpg|200px|右|サムネイル|1937年の南満洲鉄道の広告パンフレット]]
[[ファイル:Locomotive for Asia Express South Manchuria Railway.jpg|thumb|right|160px|鉄道壱万粁突破紀念切手(1939年10月21日発行)]]
1937年7月の[[日中戦争]]開始後は[[華北]]に広がった日本軍占領地域との一体化を企図しての路線も建設された<ref name="yamada636"/>。1938年に開通した錦古線は、金峯寺 - 古北口を結ぶ路線で、京奉線を経由することなく関内と関外を結ぶ新路線であった<ref name="yamada636"/>。
 
一方開拓移民は、日中戦争の拡大により[[国家総力戦]]体制が拡大し内地の農村労働力が不足するようになると、成人の移民希望者は激減した<ref name="araragi495" />。しかし、国策としての送出計画は何ら変更されることがなかった<ref name="araragi495" />。1937年、[[満蒙開拓青少年義勇軍]](義勇軍)が発足し、[[1938年]](昭和13年)に[[農林省]]と[[拓務省]]による[[分村移民]]の開始、[[1939年]](昭和14年)には日本と満州両政府による「[[満洲開拓政策基本要綱]]」の発表と矢継ぎ早に制度が整えられた<ref name="araragi495" />。日中戦争の始まる1937年から太平洋戦争開戦の1941年までの5年間の年平均送出数は3万5000人にのぼり<ref name="araragi495" />、1942年までに送り込まれた農業青年は総数20万人におよんだといわれる。日本政府は計画にもとづきノルマを府県に割り当て、府県は郡・町村に割り当てを下ろし、町村は各組織を動員してノルマを達成しようとした<ref name="araragi495" />。
 
大規模な鉄道建設のため、1939年に満鉄の鉄道営業キロは1万kmを超えた<ref name="yamada636"/>。この時、満洲国ではパシナ形機関車を図案にした記念切手が発行され、満鉄自身も盛大な記念式典を挙行し、記念映画も制作された。しかし、路線計画の方はこの1万キロ超えの時点で一段落し、後は細々した支線を建設するだけとなっていた。こうして満鉄は、いわば全盛の状態で[[太平洋戦争]]を迎えることとなったのである。[[1940年]]、満鉄の資本金が14億円に増資された<ref name="haradapost4">[[#原田|蘭(1981)巻末「満鉄年表」p.4]]</ref>。
 
==== 戦局の悪化 ====
{{See also|根こそぎ動員|満鉄調査部事件}}
日中戦争が泥沼化するなか、[[1941年]]4月にはソ連と[[日ソ中立条約]]を結び、7月には[[大本営]]が[[関東軍特別演習]]動員の命令を下した<ref name="haradapost4" />。これは、[[独ソ戦]]開始に呼応し、対ソ戦を準備した大きな賭けであったが<ref name="harada200">[[#原田|原田(1981)pp.200-204]]</ref>、結果としては対ソ戦争の断念と[[南進論]]の採択、それによる米英勢力との対立、さらにソ連による対日参戦の口実をまねいた。開戦には至らなかったものの、70万におよぶ大動員によって全満洲が臨戦態勢のもとにおかれ、ここにおいて満鉄の軍事輸送機能は最大限に発揮されることが要求された<ref name="harada200" />。1941年12月、日本はアメリカ・イギリスに対し宣戦を布告し、[[太平洋戦争]]が始まった<ref name="haradapost4" /><ref name="harada200" />。
 
[[1942年]]10月、日本国内の鉄道は時刻表示を満洲・朝鮮のそれに合わせて24時間制とし、11月には[[関門トンネル]]の開通にともなう大幅な時刻改正をおこなった<ref name="harada200" />。このころは、[[下関]]・[[釜山]]をむすぶ[[海底トンネル]]が計画され、一時的にではあるが「[[大東亜共栄圏]]」を鉄路で結ぼうという輸送体制の構築が一定の現実味を帯びて構想されていた<ref name="harada200" />。しかし、同年の[[泰緬鉄道]]の建設、1944年の[[大陸打通作戦]]などにより大東亜共栄圏構想による交通網の形成はしだいに意味を失っていき、また、戦局の悪化がそれを不可能なものにしていった<ref name="harada200" />。
 
[[1943年]]には奉天の鉄道総局そのものが廃止された<ref name="komuta174" />。満鉄本社が新京に移され<ref name="haradapost4" />、鉄道総局の業務は満鉄本社に継承された。満鉄の看板列車であった「あじあ号」も1943年2月、突然運休し、そのまま姿を消した<ref name="komuta266" /><ref name="harada200" />。満蒙開拓団は、[[1941年]]以降は[[統制経済]]政策により失業した都市勤労者からも編成されるようになったが<ref name="araragi495">[[#蘭|蘭(2012)p.495]]</ref>、日本人の満洲移住は、日本軍が日本海及び[[黄海]]の[[制空権]]・[[制海権]]を失った段階で停止した。戦局の悪化にともない、満洲在留の軍民は「[[根こそぎ動員]]」の対象となっていった。
 
かつて松岡洋右らによって強化された調査部門であったが、戦時中の思想取り締まりによって満鉄調査部が左翼的であることが問題視された。1940年7月、[[満洲国協和会]]中央本部の実践科主任であった[[平賀貞夫]]が、日本共産党の再建グループに関与しているという容疑で逮捕された<ref name="harada194">[[#原田|原田(1981)pp.194-199]]</ref>。当時、満洲における農事合作社運動には、日本におけるいわゆる左翼運動からの転向者が多く参画しており、平賀と合作社運動参加者とのあいだに日本共産党再建の芽があるとにらんでいた関東軍憲兵隊は、内部偵察によって一合作社幹部の公金[[横領]]の事実をつかみ、[[1941年]]11月、満洲国警察と協力して合作社運動に参加していた51名(朝鮮人1名、中国人3名をふくむ)を一斉に逮捕した<ref name="harada194" />。これが合作社事件である。
 
憲兵隊は[[ゾルゲ事件]]の直後でもあり、必ずや合作社運動の背後に共産党組織があるものとみて、どうにかしてその証拠をつかもうという焦燥感に支配されていた<ref name="harada194" />。合作社事件は、裁判の結果、5人が無期、11人が有期の懲役刑が下されたが、その取り調べのなかで逮捕されていた[[鈴木小兵衛]]が転向声明を発し、当局への協力を誓って「同志の裏切りを敢て」おこなうとして「一切を供述する」と述べた<ref name="harada194" />。ただし、この供述もどこまで事実を正確に伝えているかは不明であり、供述自体、一種の辻褄合わせであった可能性も指摘されている<ref name="harada194" />。いずれにせよ、憲兵隊はこの供述をもとに[[1942年]]9月と[[1943年]]7月の2度にわたって、満鉄調査部関係者の大量検挙をおこなった(「[[満鉄調査部事件]]」)<ref name="harada194" />。これによって調査部門もまた活力を失ったが、憲兵隊には左翼運動や左翼思想に関する予備知識が不足しており、具体的な容疑は実のところ何も出てこなかった<ref name="harada194" />。結局、多くの人が手記を書かされ、国家への忠誠を誓わせられ、ほんの数名が[[執行猶予]]付きの比較的軽微な徒刑判決でこの事件は幕を閉じた<ref name="harada194" />。
 
[[1945年]][[5月30日]]、[[大本営]]は関東軍の戦闘序列を下命してソ連の対日参戦に備えたが、このとき示された「満鮮方面対ソ作戦計画要領」では、関東軍は京図線・連京線より東の要地を確保しながら持久戦態勢をとる方針が採られた<ref name="harada200" />。結局のところ、満洲国の大部分は戦略的に放棄されることとなったのである<ref name="harada200" />。
 
=== 敗戦と満鉄閉鎖 ===
==== 最後の奮闘と満鉄の解体 ====
南満洲鉄道は、[[1945年]]([[昭和]]20年)の[[日本の降伏]]の直前に満洲に侵攻した[[赤軍|ソ連軍]]に接収された。満鉄保有の諸施設は同年[[8月27日]]に発表された[[中ソ友好同盟条約]]により、[[中華民国]]政府と[[ソビエト連邦]]政府の合弁による[[中国長春鉄路]]に移管された。その後、[[国共内戦]]によって[[1949年]]に[[中華人民共和国]]が成立し、[[1955年]]には中国政府への路線引き渡しが完了した。南満洲鉄道株式会社は、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)より[[ポツダム宣言]]にもとづいた閉鎖機関令が公布され、1945年9月30日にさかのぼって閉鎖された。ただし敗戦後も、満鉄東京支社の財産などが残っていたため、清算は[[1957年]]までかかった。
1945年(昭和20年)[[8月9日]]、[[ソビエト連邦]]は宣戦布告と同時に、満洲・北朝鮮に対する侵入を開始した<ref name="harada200" />。関東軍は7月以降、「根こそぎ動員」によって70万の兵員をそろえていたが、装備も練度も不足していた<ref name="harada200" />。また、関東軍は、開拓農民含めた200万人近い在満の日本人を安全に引き揚げさせる手だてを講じなかった<ref name="harada200" />。のみならず、関東軍は民間人の乗った列車を切り離して置き去りにしたことさえあったという<ref name="harada200" />。満鉄は、社員出身の初めての総裁となった[[山崎元幹]]の指示のもと、軍隊の撤退と民間人の引き揚げ輸送に粉骨砕身の努力を傾けた<ref name="harada200" />。この営みは、[[8月15日]]の[[玉音放送]]後も変わりなくつづけられた<ref name="harada200" />。[[8月17日]]、関東軍総司令官[[山田乙三]]は、最後の満鉄総裁となった山崎に対し「満鉄のことはすべて総裁に任せるほかない」と告げている<ref name="harada200" />。[[8月20日]]、山崎総裁は「在満邦人と満洲の安寧保全に挺身」「輸送及生産機能の確保」とを満鉄全社員40万人(うち日本人約14万人)に向けて訓示した<ref name="harada200" />。関東軍解体ののちも満鉄は在留日本人にとって大きな拠り所であった<ref name="harada200" />。
 
満鉄は、満洲に侵攻した[[赤軍|ソ連軍]]に接収された。満鉄保有の諸施設は1945年[[8月27日]]に発表された[[中ソ友好同盟条約]]により、[[中華民国]]政府と[[ソビエト連邦]]政府の合弁による[[中国長春鉄路]]に移管された<ref name="harada205">[[#原田|原田(1981)pp.205-210]]</ref>。しかし、[[9月22日]]の中国長春鉄路理事会にはソ連側役員は着任したものの、中国側は着任できなかった<ref name="harada205" />。この状況をみた山崎総裁は、満鉄が業務管理から手を引くのをまずいと考え、43名の満鉄社員を主席監察および補佐として早急に各局に派遣している<ref name="harada205" />。ソ連側と満鉄側はその前後から引継ぎ・引き渡しの作業をおこない、[[9月27日]]、ソ連軍は22日付で満鉄が消滅したことを通告した<ref name="harada205" />。[[9月28日]]、山崎は南満洲鉄道新京本部の標札を外させた<ref name="harada200" />。中国側役員が長春に到着したのは10月に入ってからで、何らなすところなかったと伝わっている<ref name="harada205" />。[[1946年]][[1月15日]]、ソ連軍は満洲からの撤退を開始した<ref name="harada205" />。[[1月21日]]、ソ連政府は中華民国政府に対し、満洲より搬出した産業施設は[[戦利品]]であると通告したという<ref name="harada205" />。
 
その後、[[国共内戦]]によって[[1949年]]に[[中華人民共和国]]が成立し、[[1955年]]には中国政府への路線引き渡しが完了した。南満洲鉄道株式会社は、[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)より[[ポツダム宣言]]にもとづいた閉鎖機関令が公布され、1945年[[9月30日]]にさかのぼって閉鎖された。ただし敗戦後も、満鉄東京支社の財産などが残っていたため、清算は[[1957年]]までかかった。
 
==== 天水会と満鉄会 ====
{{see also|大村卓一|山崎元幹|天水会|満鉄会}}
満洲における満鉄社員総裁以下消滅し1945年9月30日付で全員解雇となっものの<ref name="harada205" />。しかし実際には、現地の鉄道輸送の人員や技術者が不足しており、最後の満鉄山崎総裁、[[山崎元幹]]らはじめ旧満鉄社員の多くはソ連や中華民国の依頼によって現地に留められ、鉄道運行などの業務に従事させられた<ref name="harada205" />。これは留用と称され、山崎総裁の留用が終わったのは[[1947年]]8月、日本の地を踏んだのは同年10月のことであった<ref name="harada205" />。ほとんど全ての社員は[[1948年]][[6月4日]]を以て留用を終えた<ref name="harada205" />。しかし、一部は中華人民共和国建国後も続き、現地から他の地域の鉄道建設へと駆り出された<ref>[[#堀井|堀井(2015)]]</ref>。[[天水駅|天水]] - [[蘭州駅|蘭州]]間の[[天蘭線]]開通(現在の[[隴海線]]の一部)その成果の一つである。り、天蘭線建設に従事した人々は、帰国後の[[1953年]]「[[天水会]]」を組織した。なお戦中の満鉄総裁であった[[大村卓一]]は、1945年11月、[[中国共産党]]軍に逮捕され、暴行を受けたのち獄死した。
 
一方、日本国内では[[1946年]](昭和21年)、未払い[[退職手当]]の支払い、旧社員の[[就職]]斡旋などを目的として、「満鉄社友新生会が発足した<ref name=":0">{{Cite journal|author=荒木泰玄|year=|date=2013-02-03|title=戦後68年、さよなら「満鉄会」。|journal=[[東京人 (雑誌)|東京人]]|volume=321|page=|pages=116-123|publisher=[[都市出版]]}}</ref>。具体的その後、[[1954年]](昭和29年)7月「[[満鉄会|財団法人満鉄会]]」に改組し<ref name="ndl">{{Cite web|url=https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/mantetsukaikyuuzousiryou.php|title=満鉄会旧蔵資料(旧「満鉄社員名簿類(MF)」含む)|website=リサーチ・ナビ|publisher=[[国立国会図書館]]|accessdate=2020-04-01}}</ref>、退職手当支払いとあわせ、満鉄社員及び満洲関係引揚者の援護厚生、満鉄の資料保有などを行った<ref name="ndl" />。満鉄会の会員最盛期で約15,000人にのぼったが<ref name=":0" />[[2016年]](平成28年)3月末をもって解散した<ref name="ndl" />。
# 旧社員債権の確保
# 旧社員家族の更生と援護
# 残留社員の引揚げ促進
が目標にすえられた<ref name="ndl">{{Cite web|url=https://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/mantetsukaikyuuzousiryou.php|title=満鉄会旧蔵資料(旧「満鉄社員名簿類(MF)」含む)|website=リサーチ・ナビ|publisher=[[国立国会図書館]]|accessdate=2020-04-01}}</ref>。満鉄東京支社ビルの売却益を原資として、[[1953年]](昭和28年)2月より在外活動関係閉鎖機関特殊清算事務所からの退職手当支払いが始まった<ref name="ndl" />。しかし、全国に散在する旧社員に退職手当を支給することは難しかったため、[[厚生省]]からの指導を受け、[[1954年]](昭和29年)7月、「[[満鉄会|財団法人満鉄会]]」に改組された<ref name="ndl" />。同年11月の認可ののち、退職手当支払いにあたり、あわせて満鉄社員及び満洲関係引揚者の援護厚生などを行った<ref name="ndl" />。満鉄会の会員は多い時で約15,000人にのぼり、都道府県ごとの分会や在籍時の職種等による分会も設立された<ref name=":0" />。しかし、会員の高齢化にともなって減少し、退職手当支払いという当初の目的を達したこともあり<ref name=":0" />、[[2012年]]10月に最後の大会を開催し、[[2013年]]3月末をもって解散した。解散後、満鉄会が保有していた資料は、[[2017年]](平成29年)に[[国立国会図書館]]へ寄贈された<ref name="ndl" />。
 
==== 満鉄の遺産 ====
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2014年に遼寧省文物保護単位に指定され、現在は博物館として利用されている。
]]
満鉄が満洲の地に残した各種インフラは、日本が撤退して中華民国に返還されたのち、中華人民共和国に移り、[[1980年代]]に改革・開放政策が始まるまで、鞍山製鉄所や[[大慶油田]]とともに、不安定な状態が長く続いた中華人民共和国の経済を長く支えた。長春(新京)や大連、瀋陽(奉天)といった沿線主要都市では現在でも日本統治時代の建築物を多数確認することが出来る。

満鉄関連の建物は多くが修復されながら現在も使われており、満鉄大連本社は現在でも大連鉄道有限責任公司の事務所としてその建物を使用しているほか、大連などにある旧ヤマトホテルは現在も[[大連中山広場近代建築群#旧 大連ヤマトホテル|大連賓館]]や遼寧賓館などとして営業を続けている。満鉄各線で運行されていた車両の一部は、ジハ1型など現在も現地で稼働するものもあるが、老朽化などの理由で徐々に廃車が進んでおり、一部は静態保存されている。
 
かつて満鉄に勤務した田中季雄は[[太平洋戦争]]後に次のように語っている<ref>[[#久保田|久保田(2005)p.131]]</ref>。
 
{{Quotation
|戦後になって日本の大陸への進出を侵略としてとかく悪く言われるが、[[清|清国]]の衰退で国家の形をしていなかった現在の[[中国東北部|中国東北地域]]に新しい国をつくった[[満州国]]の場合は、五族([[漢民族|支那]]・[[満州民族|満州]]・[[モンゴル系民族|蒙古]]・[[日本人|日本]]・[[朝鮮民族|朝鮮]])の民族協和による[[王道楽土]]の建設を目指し、満鉄はその新国家の動脈として産業発展と民生向上に大きく貢献していたと思う。満鉄が同地域に残した有形無形のものは極めて大きく、戦後の[[中華人民共和国|新中国]]の発展にも大きく役に立っているはずだ。
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== 鉄道事業 ==
=== 代表的な列車 ===
[[ファイル:SuperRailway Expresscar Asiafactory of SMR.Shahokou.jpg|300px|thumb|right|300px|大連沙河口満鉄のシンボル、特急「あじあ」機関車工場]]
* '''特急'''「'''[[あじあ号|あじあ]]'''」 大連 - 新京 - [[ハルビン駅|哈爾濱]]
* 急行「'''[[つばめ (列車)#南満州鉄道急行「はと」|はと]]'''」 大連 - 新京
* 急行「'''[[朝鮮総督府鉄道#急行「ひかり」|ひかり]]'''<ref name="komuta123">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.123-126]]</ref>」 [[釜山駅|釜山]] - 新京
* 急行「'''[[朝鮮総督府鉄道#急行「のぞみ」|のぞみ]]'''<ref name="komuta126">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.126-128]]</ref>」 釜山 - 新京
* 急行「'''[[華北交通#優等列車|大陸]]'''<ref name="komuta131">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.131-132]]</ref>」 釜山 - 奉天 - [[北京駅|北京]]
* 急行「'''[[華北交通#優等列車|興亜]]'''<ref name="komuta133">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.133-134]]</ref>」 釜山 - 奉天 - 北京
* 急行「'''[[朝日#あさひ咸北線|あさひ]]'''<ref name="komuta135">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.135-136]]</ref>」 [[羅先直轄市|羅津]] - 新京
 
==== 特急「あじあ」 ====
{{main|あじあ号}}
[[1934年]]([[昭和]]9年)11月、大連 - 新京間に満鉄最初の特急'''「[[あじあ (列車)|あじあ]]」'''が設定された。最高速度は130km/h、表定速度は82.5km/hで、日本国鉄の特急「[[つばめ (列車)|つばめ]]」の平均速度66.8km/hを上回った。流線型の外被をつけて空気抵抗を少なくした大出力蒸気機関車「パシ{{Smaller|ナ}}型」がこれを牽引した。[[1935年]]([[昭和]]10年)には運転区間は[[ハルビン|哈爾濱]](ハルビン)まで延長された。
[[1934年]]([[昭和]]9年)11月、大連 - 新京間に満鉄最初の特別急行'''「[[あじあ (列車)|あじあ]]」'''(中国人向け案内には「亜細亜」表記)が登場した<ref name="komuta266">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.266-274]]</ref>。最高速度は110km/h、表定速度は82.5km/hで、日本国鉄の特急「[[つばめ (列車)|つばめ]]」の平均速度66.8km/hを上回った<ref name="komuta266" />。大連 - 新京(長春)間701.4キロメートルを8時間半でむすび、従来の同区間を走る急行「はと」の所要時間約10時間半を2時間も短縮させた<ref name="komuta266" />。6両の客車を表定時速80キロ以上で走る「あじあ」は当時の代表的な超高速列車であり、世界的に注目を浴びた<ref name="komuta266" />。高速運転を可能にした理由の一つが、流線型の外被をつけて空気抵抗を少なくした大出力蒸気機関車「パシ{{Smaller|ナ}}型」と呼ばれる車両によって牽引されたことである<ref name="komuta266" />。客車は全車両空調装置完備であり、このような列車は世界で初めてであった<ref name="komuta266" />。[[1935年]]([[昭和]]10年)9月には運転区間は[[ハルビン|哈爾濱]](ハルビン)まで延長された<ref name="komuta266" />。1943年(昭和18年)2月、戦局の悪化にともない突然運休し、そのまま姿を消した<ref name="komuta266" />。
 
==== 急行「はと」 ====
[[1932年]](昭和7年)10月、大連 - 長春間に走っていた直通急行列車に「はと」の愛称を付けた<ref name="komuta274">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.274-277]]</ref>。満鉄初の愛称付き急行であった<ref name="komuta274" />。1934年の「あじあ」登場後は、大連・新京出発の午前中のダイヤを「あじあ」に譲り、正午始発・深夜終着の運行ダイヤとなった<ref name="komuta274" />。大連発の「あじあ」は、内地からの大連航路に接続していたものの天候不順などを理由とする大連への延着がしばしばあったので、定刻通り出発すると乗り換え客を積み残すことがあった<ref name="komuta274" />。そのため、1935年9月には「はと」の大連出発時刻が改正され、積み残し客救済の役割を担うことになった<ref name="komuta274" />。超高速列車ではなかったが、「あじあ」にくらべて「はと」の方が乗り心地がよいという旅客もあったほどで、食堂車も「あじあ」より割安感があった<ref name="komuta274" />。1934年以降は「パシ{{Smaller|ナ}}型」を「あじあ」と共用することとなって「はと」そのものも高速化が図られた<ref name="komuta274" />。
 
=== 経営路線 ===
[[ファイル:RailwaySouth carManchuria factoryRailway of SMR.Shahokouarmband.jpgJPG|thumb|rightサムネイル|300px|機関車南満洲鉄道株式会社の腕章(中国業博物館蔵)]]
[[ファイル:SMR Xinjing Station Bus Time Table.JPG|300px|右|サムネイル|満鉄新京駅時刻表、中国工業博物館蔵。]]
[[ファイル:South Manchuria Railway armband.JPG|右|サムネイル|300px|南満洲鉄道株式会社の腕章、中国工業博物館蔵。]]
[[ファイル:Dining-Car of SMR.JPG|右|サムネイル|300px|南満洲鉄道旅客列車の食堂車]]
[[ファイル:Dalian Railway Station 01.jpg|300px|thumb|right|大連駅]]
[[ファイル:Manchukuo Railmap jp.gif|550px|thumb|1945年における満洲国の鉄道路線図(赤-社線、緑-北鮮線、青-国線)]]
[[ファイル:ManchuriaRailways stele.jpg|thumb|right|250px|大連市内にある満鉄旧址の石碑]]
[[ファイル:ManchuriaRailways Manhole.jpg|thumb|right|250px|大連市内に現存する満鉄の社紋(「M」とレール断面の意匠)入りのマンホールの蓋。満鉄は上下水道や電力・ガスなど都市インフラに関わる事業も行なっていた。]]
[[ファイル:Ad of South Manchuria Railway 19370815.jpg|200px|右|サムネイル|1937年の南満洲鉄道の広告パンフレット]]
[[File:Old Zhengjiatun Station 01.jpg|thumb|300px|[[双遼駅|鄭家屯駅]]([[吉林省]])]]
[[File:Old Longjiang Station 01.jpg|thumb|300px|[[竜江駅]]([[黒竜江省]])]]
[[File:蘇家屯機関区.jpg|thumb|300px|[[蘇家屯駅|蘇家屯機関区]]([[遼寧省]])]]
 
鉄道は満鉄本来の路線('''社線''')つまり[[新京]](現・長春) - [[大連駅|大連]]・[[旅順]]間の[[満鉄連京線|満鉄本線]]と[[安奉線]]のほかに、満洲国が[[1935年]]([[昭和]]10年)に[[ソビエト連邦]]から買収した新京以北の[[東清鉄道|北満鉄路]](旧称・中東鉄道)をはじめとする[[満州国有鉄道]]('''国線''')や北部朝鮮の一部の鉄道の運営および新線建設を受託し、[[営業キロ]]数は格段と伸びた。これに対応するため、満鉄は[[1936年]]([[昭和]]11年)、奉天に'''鉄道総局'''を設置、さらに[[1942年]]に本社を大連から満洲国の首都[[新京]]に移転した。
鉄道は満鉄本来の路線('''社線''')つまり[[新京]](現・長春) - [[大連駅|大連]]・[[旅順]]間の[[満鉄連京線|満鉄本線]]と[[安奉線]]のほかに、満洲国が[[1935年]]([[昭和]]10年)に[[ソビエト連邦]]から買収した新京以北の[[東清鉄道|北満鉄路]](旧称・中東鉄道)をはじめとする[[満州国有鉄道]]('''国線''')や北部朝鮮の一部の鉄道の運営および新線建設を受託し、[[営業キロ]]数は格段と伸びた<ref name="komuta174">[[#小牟田|小牟田(2015)pp.174-181]]</ref>。これに対応するため、満鉄は[[1936年]]([[昭和]]11年)、奉天に'''鉄道総局'''を設置した<ref name="komuta174" />。それにともない、従来は満鉄線と満洲国鉄線を区別していた市販の時刻表も「鉄道総局線」として同一に扱うようになった<ref name="komuta174" />。[[1943年]]には鉄道総局そのものが廃止され、その業務は満鉄本社に継承された<ref name="komuta174" />。
 
以下は、[[1945年]]([[昭和]]20年)8月時点での満鉄経営路線の一覧(委託経営路線を含む)である<ref>[[#満鉄会|満鉄会『満鉄四十年史』(2007) 高山拡志「満鉄全線全駅一覧」]]</ref>。
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{{See|南満州鉄道の車両}}
 
== 歴代代表者関連会社一覧 ==
{{節スタブ}}
歴代代表者は、以下の表に示す通りである<ref name="ajireki-glossary" />。なお、代表者の肩書は、4代目までは「総裁」、5代目の国沢新兵衛は「理事長」、6代目の野村龍太郎(再任)からは理事会の廃止に伴い「社長」となった。10代目の山本条太郎の任期途中の1929年6月20日から再び「総裁」に戻る<ref name="ajireki-glossary" />。
* [[満鉄衛生研究所]]
{|class="wikitable" style="font-size:small"
* [[満鉄調査部]]
|-
* [[満洲映画協会]]
!代!!colspan="2"|氏名!!在任期間!!出身地!!出身校!!前職・備考など
* [[満洲日日新聞]]
|-
* [[満州航空]]
!1
* [[華北交通]]
|[[ファイル:Shimpei Gotō.jpg|60px]]||[[後藤新平]]||[[1906年]][[11月13日]] - [[1908年]][[7月14日]]||[[陸奥国]]||須賀川医学校||[[台湾総督府]]
* [[華中鉄道]]
|-
* [[大連都市交通]](南満洲電気)
!2
* 大連汽船(現在の[[NSユナイテッド海運]])
|[[ファイル:Nakamura Yoshikoto.jpg|60px]]||[[中村是公]]||[[1908年]][[12月19日]] - [[1913年]][[12月18日]]||[[安芸国]]||[[東京帝国大学]]||台湾総督府
* [[昭和製鋼所]](現在の[[鞍山鋼鉄集団]])
|-
* 日満倉庫(現在の[[東洋埠頭]])
!3
* 日満マグネシウム(現在の[[宇部マテリアルズ]])
|[[ファイル:Ryutaro Nomura.jpg|60px]]||[[野村龍太郎]]||[[1913年]][[12月19日]] - [[1914年]][[7月15日]]||[[美濃国]]||東京帝国大学理学部||[[鉄道院]]副総裁
* [[日本精蠟]]
|-
* [[扶桑レクセル]] - 南満洲鉄道、[[華北交通]]、[[華中鉄道]]従業員の雇用対策のため設立された。
!4
|[[ファイル:Yujiro Nakamura (Baron).jpg|60px]]||[[中村雄次郎]]||[[1914年]][[7月15日]] - [[1917年]][[7月31日]]||[[伊勢国]]||[[陸軍兵学寮]]||[[貴族院勅選議員]]
|-
!5
|[[ファイル:Shinbee Kunisawa.jpg|60px]]||[[国沢新兵衛]]||[[1917年]][[7月31日]] - [[1919年]][[4月12日]]||[[江戸]]||東京帝国大学工科大学||[[鉄道省]]
|-
!6
|[[ファイル:Ryutaro Nomura.jpg|60px]]||野村龍太郎||[[1919年]][[4月12日]] - [[1921年]][[5月31日]](再任)||美濃国||東京帝国大学理学部||再任
|-
!7
|[[ファイル:Hayakawa Senkichiro.jpg|60px]]||[[早川千吉郎]]||[[1921年]][[5月31日]] - [[1922年]][[10月14日]]||[[加賀国]]||東京帝国大学法科大学||[[三井合名会社]]副理事長
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!8
|[[ファイル:Takeji kawamura.jpg|60px]]||[[川村竹治]]||[[1922年]][[10月24日]] - [[1924年]][[6月22日]]||[[羽後国]]||東京帝国大学法科大学||[[貴族院勅選議員]]
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!9
|[[ファイル:Yasuhiro Ban'ichirō.jpg|60px]]||[[安広伴一郎]]||[[1924年]][[6月22日]] - [[1927年]][[7月19日]]||[[豊前国]]||[[慶應義塾]]<br/>香港中央書院||[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]
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!10
|[[ファイル:Jyotaro yamamoto.jpg|60px]]||[[山本条太郎]]||[[1927年]][[7月19日]] - [[1929年]][[8月14日]]||[[越前国]]||[[共立学校]]||[[立憲政友会]]幹事長
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!11
|[[ファイル:Sengoku Mitsugi.jpg|60px]]||[[仙石貢]]||[[1929年]][[8月14日]] - [[1931年]][[6月13日]](不)||[[土佐国]]||東京帝国大学理学部||[[九州鉄道]]社長
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|[[ファイル:Kosai Uchida.jpg|60px]]||[[内田康哉]]||[[1931年]][[6月13日]] - [[1932年]][[7月6日]]||[[肥後国]]||東京帝国大学||[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]
|-
!13
|[[ファイル:Hirotaro Hayashi.jpg|60px]]||[[林博太郎]]||[[1932年]][[7月26日]] - [[1935年]][[8月2日]]||[[東京都]]||東京帝国大学文科大学||貴族院伯爵議員
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!14
|[[ファイル:Yohsuke matsuoka1932.jpg|60px]]||[[松岡洋右]]||[[1935年]][[8月2日]] - [[1939年]][[3月24日]]||[[山口県]]||[[オレゴン大学]]||[[中華民国]][[総領事]]
|-
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|[[ファイル:Omura Takuichi.jpg|60px]]||[[大村卓一]]||[[1939年]][[3月24日]] - [[1943年]][[7月14日]]||福井県||[[札幌農学校]]||関東軍交通監督部長
|-
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|[[ファイル:KobiyamaNaoto.jpg|60px]]||[[小日山直登]]||[[1943年]][[7月14日]] - [[1945年]][[4月11日]]||[[福島県]]||東京帝国大学||南満洲鉄道株式会社
|-
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|[[ファイル:Replace this image JA.svg|60px]]||[[山崎元幹]]||[[1945年]][[5月5日]] - [[1945年]][[9月30日]]||福岡県||東京帝国大学法科大学||満州電業副社長
|-
|}
 
== 主な満鉄出身者 ==
=== 役員 ===
* [[金井章次]](満鉄地方部衛生課長)
* [[安井武雄]](建築家。満鉄で大連税関長官舎を1911年に設計)
* [[村上義一]](理事)
* [[河本大作]](理事)
* [[十河信二]](理事。終戦後しばらくして国鉄総裁に就任、東海道新幹線の整備に尽力。)
* [[久保田政周]](理事)
* [[中西敏憲]](理事)
* [[北條秀一]](理事)
* [[田代由紀男]](吉林局)
* [[野田俊作]](参事)
* [[伊藤顕道]](満鉄安東、奉天第二中学教諭)
* [[筒井省二]](皮膚科学者。満鉄病院で勤務後、[[鶴岡市立荘内病院]]長)
* [[岸一太]](理事、満鉄病院院長)
 
=== 社員 ===
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* [[足立篤郎]](元[[農林水産大臣|農林大臣]]、[[科学技術庁長官]])
* [[出光佐三]]([[出光興産]]創業者、貴族院議員)
* [[出光計助]](元[[出光興産]]社長、元[[石油連盟]]会長)
* [[稲嶺一郎]](元[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[参議院議員]]、琉球石油(現・[[りゅうせき]])設立者)
* [[井上日召]](日蓮宗僧侶、政治活動家、[[血盟団事件]]主犯)
* [[岩永裕吉]](元[[同盟通信社]]社長)
* [[宇田耕一]](元[[経済企画庁長官]]、科学技術庁長官)
* [[大賀一郎]](植物学者)
* [[大宮守人]]([[味の三平]]創業者)
* [[尾崎秀実]](嘱託職員)
* [[小野田一雄]](水泳選手、[[1924年パリオリンピック]]競泳日本代表主将)
* [[岸一郎]](元[[阪神タイガース|大阪タイガース]]監督)
* [[具島兼三郎]](国際政治学者、元[[長崎大学]]学長)
* [[坂本直道]]([[坂本龍馬]]の甥で自由民権家の[[坂本直寛]]の長男)
* [[佐々木義武]](元科学技術庁長官、[[経済産業大臣|通商産業大臣]])
* [[東海林太郎]](歌手)
* [[田中龍夫]](元[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]、通商産業大臣)
* [[坪内寿夫]](元[[新来島どっく|来島どっく]]社長)
* [[鶴田義行]](水泳選手、[[1928年アムステルダムオリンピック|アムステルダム]]・[[1932年ロサンゼルスオリンピック|ロス五輪]]200m平泳ぎ2大会連続金メダリスト)
* [[永末英一]](元[[民社党]]委員長)
* [[中西功]](元[[日本共産党]]参議院議員)
* [[布村一男]]([[民族学]]者、元[[熊本女子大学]]教授)
* [[野々村一雄]](元[[一橋大学]]教授、[[満鉄調査部]]勤務)
* [[野間省一]](元[[講談社]]社長)
* [[浜崎真二]](元[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]・[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]監督)
* [[早川徳次 (東京地下鉄道)|早川徳次]]([[東京地下鉄道]](現・[[東京地下鉄|東京メトロ]])創業者、「地下鉄の父」)
* [[松岡満寿男]](元満鉄会理事長)
* [[松木侠]]([[大同学院]]院長、元[[鶴岡市]][[市長]])
* [[松原治]]([[紀伊國屋書店]]会長兼CEO)
* [[毛利松平]](元[[環境大臣|環境庁長官]])
* [[安井謙]](元[[参議院議長]])
* 義永秀親(元鹿児島県大島郡[[瀬戸内町]]町長)
* [[和田耕作]](元民社党[[衆議院議員]])
 
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; (参考)満鉄出身者の末裔
* [[あまんきみこ]]([[児童文学者]])
* [[衛藤瀋吉]](国際政治学者・元[[亜細亜大学]]学長・元[[東京大学]]名誉教授)
* [[小田島雄志]](英文学者・演劇評論家)
* 三代目[[桂米朝]](落語家)
* [[加藤登紀子]](歌手)
* [[桑田佳祐]](シンガーソングライター・[[サザンオールスターズ]]ボーカル兼リーダー)
* [[斎藤次郎]](元大蔵官僚)
* [[佐野洋子]](絵本作家)
* [[せんぼんよしこ]](テレビディレクター・映画監督)
* [[宝田明]](映画俳優)
* [[高野悦子 (映画運動家)|高野悦子]]([[岩波ホール]]元支配人)
* [[高橋克典]](俳優、母方祖父)
* [[財部誠一]](経済ジャーナリスト)
* [[タモリ]](タレント)
* [[張富士夫]]([[トヨタ自動車]]第4代会長)
* [[三重野康]](第26代[[日本銀行]]総裁)
* [[水野晴郎]](映画評論家・映画監督)
* [[山田洋次]](映画監督)
* [[文仁親王妃紀子]](母方祖父、曽祖父)
{{col-end}}
 
== 営業実績 ==
1,198 ⟶ 1,165行目:
|}
 
== 関連会社一覧歴代代表者 ==
歴代代表者は、以下の表に示す通りである<ref name="ajireki-glossary" />。なお、代表者の肩書は、4代目までは「総裁」、5代目の国沢新兵衛は「理事長」、6代目の野村龍太郎(再任)からは理事会の廃止に伴い「社長」となった。10代目の山本条太郎の任期途中の1929年6月20日から再び「総裁」に戻る<ref name="ajireki-glossary" />。
* 満鉄衛生研究所
{|class="wikitable" style="font-size:small"
* [[満鉄調査部]]
|-
* [[満洲映画協会]]
!代!!colspan="2"|氏名!!在任期間!!出身地!!出身校!!前職・備考など
* 満州日日新聞
|-
* [[満州航空]]
!1
* [[華北交通]]
|[[ファイル:Shimpei Gotō.jpg|60px]]||[[後藤新平]]||[[1906年]][[11月13日]] - [[1908年]][[7月14日]]||[[陸奥国]]||須賀川医学校||[[台湾総督府]]
* [[華中鉄道]]
|-
* [[大連都市交通]]
!2
* 南満州電気
|[[ファイル:Nakamura Yoshikoto.jpg|60px]]||[[中村是公]]||[[1908年]][[12月19日]] - [[1913年]][[12月18日]]||[[安芸国]]||[[東京帝国大学]]||台湾総督府
* 阪神築港(現在の[[東洋建設]])
|-
* 大連汽船(現在の[[NSユナイテッド海運]])
!3
* [[昭和製鋼所]](現在の[[鞍山鋼鉄集団]])
|[[ファイル:Ryutaro Nomura.jpg|60px]]||[[野村龍太郎]]||[[1913年]][[12月19日]] - [[1914年]][[7月15日]]||[[美濃国]]||東京帝国大学理学部||[[鉄道院]]副総裁
* 日満倉庫(現在の[[東洋埠頭]])
|-
* 日満マグネシウム(現在の[[宇部マテリアルズ]])
!4
* [[日本精蝋]]
|[[ファイル:Yujiro Nakamura (Baron).jpg|60px]]||[[中村雄次郎]]||[[1914年]][[7月15日]] - [[1917年]][[7月31日]]||[[伊勢国]]||[[陸軍兵学寮]]||[[貴族院勅選議員]]
* [[扶桑レクセル]] - [[南満州鉄道]]、[[華北交通]]、[[華中鉄道]]従業員の雇用対策のため設立された。
|-
!5
|[[ファイル:Shinbee Kunisawa.jpg|60px]]||[[国沢新兵衛]]||[[1917年]][[7月31日]] - [[1919年]][[4月12日]]||[[江戸]]||東京帝国大学工科大学||[[鉄道省]]
|-
!6
|[[ファイル:Ryutaro Nomura.jpg|60px]]||野村龍太郎||[[1919年]][[4月12日]] - [[1921年]][[5月31日]](再任)||美濃国||東京帝国大学理学部||再任
|-
!7
|[[ファイル:Hayakawa Senkichiro.jpg|60px]]||[[早川千吉郎]]||[[1921年]][[5月31日]] - [[1922年]][[10月14日]]||[[加賀国]]||東京帝国大学法科大学||[[三井合名会社]]副理事長
|-
!8
|[[ファイル:Takeji kawamura.jpg|60px]]||[[川村竹治]]||[[1922年]][[10月24日]] - [[1924年]][[6月22日]]||[[羽後国]]||東京帝国大学法科大学||[[貴族院勅選議員]]
|-
!9
|[[ファイル:Yasuhiro Ban'ichirō.jpg|60px]]||[[安広伴一郎]]||[[1924年]][[6月22日]] - [[1927年]][[7月19日]]||[[豊前国]]||[[慶應義塾]]<br/>香港中央書院||[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]
|-
!10
|[[ファイル:Jyotaro yamamoto.jpg|60px]]||[[山本条太郎]]||[[1927年]][[7月19日]] - [[1929年]][[8月14日]]||[[越前国]]||[[共立学校]]||[[立憲政友会]]幹事長
|-
!11
|[[ファイル:Sengoku Mitsugi.jpg|60px]]||[[仙石貢]]||[[1929年]][[8月14日]] - [[1931年]][[6月13日]](不)||[[土佐国]]||東京帝国大学理学部||[[九州鉄道]]社長
|-
!12
|[[ファイル:Kosai Uchida.jpg|60px]]||[[内田康哉]]||[[1931年]][[6月13日]] - [[1932年]][[7月6日]]||[[肥後国]]||東京帝国大学||[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]
|-
!13
|[[ファイル:Hirotaro Hayashi.jpg|60px]]||[[林博太郎]]||[[1932年]][[7月26日]] - [[1935年]][[8月2日]]||[[東京都]]||東京帝国大学文科大学||貴族院伯爵議員
|-
!14
|[[ファイル:Yohsuke matsuoka1932.jpg|60px]]||[[松岡洋右]]||[[1935年]][[8月2日]] - [[1939年]][[3月24日]]||[[山口県]]||[[オレゴン大学]]||[[中華民国]][[総領事]]
|-
!15
|[[ファイル:Omura Takuichi.jpg|60px]]||[[大村卓一]]||[[1939年]][[3月24日]] - [[1943年]][[7月14日]]||福井県||[[札幌農学校]]||関東軍交通監督部長
|-
!16
|[[ファイル:KobiyamaNaoto.jpg|60px]]||[[小日山直登]]||[[1943年]][[7月14日]] - [[1945年]][[4月11日]]||[[福島県]]||東京帝国大学||南満洲鉄道株式会社
|-
!17
|[[ファイル:Replace this image JA.svg|60px]]||[[山崎元幹]]||[[1945年]][[5月5日]] - [[1945年]][[9月30日]]||福岡県||東京帝国大学法科大学||満州電業副社長
|-
|}
 
== 主な満鉄出身者 ==
=== 役員 ===
* [[金井章次]](満鉄地方部衛生課長)
* [[安井武雄]](建築家。満鉄で大連税関長官舎を1911年に設計)
* [[村上義一]](理事)
* [[河本大作]](理事)
* [[十河信二]](理事。終戦後しばらくして国鉄総裁に就任、東海道新幹線の整備に尽力。)
* [[久保田政周]](理事)
* [[中西敏憲]](理事)
* [[北條秀一]](理事)
* [[田代由紀男]](吉林局)
* [[野田俊作]](参事)
* [[伊藤顕道]](満鉄安東、奉天第二中学教諭)
* [[筒井省二]](皮膚科学者。満鉄病院で勤務後、[[鶴岡市立荘内病院]]長)
* [[岸一太]](理事、満鉄病院院長)
 
=== 社員 ===
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* [[足立篤郎]](元[[農林水産大臣|農林大臣]]、[[科学技術庁長官]])
* [[出光佐三]]([[出光興産]]創業者、貴族院議員)
* [[出光計助]](元[[出光興産]]社長、元[[石油連盟]]会長)
* [[稲嶺一郎]](元[[自由民主党 (日本)|自由民主党]][[参議院議員]]、琉球石油(現・[[りゅうせき]])設立者)
* [[井上日召]](日蓮宗僧侶、政治活動家、[[血盟団事件]]主犯)
* [[岩永裕吉]](元[[同盟通信社]]社長)
* [[宇田耕一]](元[[経済企画庁長官]]、科学技術庁長官)
* [[大賀一郎]](植物学者)
* [[大宮守人]]([[味の三平]]創業者)
* [[尾崎秀実]](嘱託職員)
* [[小野田一雄]](水泳選手、[[1924年パリオリンピック]]競泳日本代表主将)
* [[岸一郎]](元[[阪神タイガース|大阪タイガース]]監督)
* [[具島兼三郎]](国際政治学者、元[[長崎大学]]学長)
* [[坂本直道]]([[坂本龍馬]]の甥で自由民権家の[[坂本直寛]]の長男)
* [[佐々木義武]](元科学技術庁長官、[[経済産業大臣|通商産業大臣]])
* [[東海林太郎]](歌手)
* [[田中龍夫]](元[[文部大臣]]、通商産業大臣)
* [[坪内寿夫]](元[[新来島どっく|来島どっく]]社長)
* [[鶴田義行]](水泳選手、[[1928年アムステルダムオリンピック|アムステルダム]]・[[1932年ロサンゼルスオリンピック|ロス五輪]]200m平泳ぎ2大会連続金メダリスト)
* [[永末英一]](元[[民社党]]委員長)
* [[中西功]](元[[日本共産党]]参議院議員)
* [[布村一男]]([[民族学]]者、元[[熊本女子大学]]教授)
* [[野々村一雄]](元[[一橋大学]]教授、[[満鉄調査部]]勤務)
* [[野間省一]](元[[講談社]]社長)
* [[浜崎真二]](元[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]・[[東京ヤクルトスワローズ|国鉄スワローズ]]監督)
* [[早川徳次 (東京地下鉄道)|早川徳次]]([[東京地下鉄道]](現・[[東京地下鉄|東京メトロ]])創業者、「地下鉄の父」)
* [[松岡満寿男]](元満鉄会理事長)
* [[松木侠]]([[大同学院]]院長、元[[鶴岡市]][[市長]])
* [[松原治]]([[紀伊國屋書店]]会長兼CEO)
* [[毛利松平]](元[[環境大臣|環境庁長官]])
* [[安井謙]](元[[参議院議長]])
* 義永秀親(元鹿児島県大島郡[[瀬戸内町]]町長)
* [[和田耕作]](元民社党[[衆議院議員]])
 
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; (参考)満鉄社員だった人物の子孫
* [[あまんきみこ]]([[児童文学者]])
* [[衛藤瀋吉]](国際政治学者・元[[亜細亜大学]]学長・元[[東京大学]]名誉教授)
* [[小田島雄志]](英文学者・演劇評論家)
* 三代目[[桂米朝]](落語家)
* [[加藤登紀子]](歌手)
* [[桑田佳祐]](シンガーソングライター・[[サザンオールスターズ]]ボーカル兼リーダー)
* [[斎藤次郎]](元大蔵官僚)
* [[佐野洋子]](絵本作家)
* [[せんぼんよしこ]](テレビディレクター・映画監督)
* [[高野悦子 (映画運動家)|高野悦子]]([[岩波ホール]]元支配人)
* [[高橋克典]](俳優、母方祖父)
* [[財部誠一]](経済ジャーナリスト)
* [[タモリ]](タレント)
* [[張富士夫]]([[トヨタ自動車]]第4代会長)
* [[三重野康]](第26代[[日本銀行]]総裁)
* [[水野晴郎]](映画評論家・映画監督)
* [[山田洋次]](映画監督)
* [[文仁親王妃紀子]](母方祖父、曽祖父)
* [[菅義偉]](父が社員、内閣総理大臣)
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== 脚注 ==
1,224 ⟶ 1,308行目:
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=[[蘭信三]]|year=1994|month=2|title=「満州移民」の歴史社会学|publisher=[[行路社]]|asin=B07NPMJSXG|ref=蘭}}
* {{Cite book|和書|author=[[有馬学]]|year=2010|month=4|title=日本の歴史22 帝国の昭和|publisher=[[講談社]]|series=[[講談社学術文庫]]|origyear=2002|isbn=4-06-268923-5|ref=有馬}}
* {{Cite book|和書|author=[[飯塚一幸]]|year=2016|month=12|title=日本近代の歴史3 日清・日露戦争と帝国日本|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=978-4-642-06814-7|ref=飯塚}}
1,229 ⟶ 1,314行目:
* {{Cite book|和書|author=[[井上勇一 (国際関係論)|井上勇一]]|year=1990|month=11|title=鉄道ゲージが変えた現代史|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|isbn=4-12-100992-4|ref=井上}}
* {{Cite book|和書|author=[[臼井勝美]]|year=1974|month=11|title=満州事変|publisher=[[中央公論社]]|series=中公新書|isbn=4-12-100377-2|ref=臼井}}
* {{Cite book|和書|author=[[大門正克]]|year=2009|month=3|title=全集日本の歴史第15巻 戦争と戦後を生きる|publisher=[[小学館]]|isbn=978-4-09-622115-0|ref=大門}}
* {{Cite book|和書|author=[[片山慶隆]]|year=2011|month=11|title=小村寿太郎|publisher=中央公論新社|series=中公新書|isbn=978-4-12-102141-0|ref=片山}}
* {{Cite book|和書|author=[[川田稔]]|title=満州事変と政党政治|year=2010|month=9|publisher=講談社|series=[[講談社選書メチエ]]|isbn=978-4-06-258480-7|ref=川田}}
1,235 ⟶ 1,321行目:
* {{Cite book|和書|author=[[小林英夫 (経済学者)|小林英夫]]|year=2008|month=11|title=〈満洲〉の歴史|publisher=講談社|series=[[講談社現代新書]]|isbn=978-4-06-287966-8|ref=小林英夫1}}
* {{Cite book|和書|author=[[小林道彦]]|year=2020|month=2|title=近代日本と軍部 1868-1945|publisher=講談社|series=講談社現代新書|isbn=978-4-06-518744-9|ref=小林道彦}}
* {{Cite book|和書|author=[[小牟田哲彦]]|year=2015|month=11|title=大日本帝国の海外鉄道|publisher=[[東京堂出版]]|isbn=978-4-490-20911-2|ref=小牟田}}
* {{Cite book|和書|author=[[佐々木隆 (歴史学者)|佐々木隆]]|year=2010|month=3|title=日本の歴史21 明治人の力量|publisher=講談社|series=講談社学術文庫|origyear=2002|isbn=978-4-06-291921-0|ref=佐々木}}
* {{Cite book|和書|author=[[鈴木良]]|year=1969|month=8|chapter=5 東アジアにおける帝国主義 五 日清・日露戦争|title=岩波講座 世界の歴史22 帝国主義時代I|publisher=[[岩波書店]]|ref=鈴木}}
1,242 ⟶ 1,329行目:
* {{Cite book|和書|author=[[西澤泰彦]]|year=2000|month=8|title=図説 満鉄―「満洲」の巨人|publisher=[[河出書房新社]]|series=ふくろうの本|isbn=978-4-309-72645-8|ref=西澤}}
* {{Cite book|和書|author=[[原田勝正]]|year=1991|month=4|chapter=満鉄誕生 -抄-|title=史話日本の歴史32 大東亜の幻|publisher=[[作品社]]|ref=原田1}}
* {{Cite book|和書|author=原田勝正|year=1981|month=12|title=満鉄|publisher=岩波書店|series=[[岩波新書]]|isbn=978-4004201786|ref=原田2}}
* {{Cite book|和書|author=[[日向玲理]]|editor=[[小林和幸]](編)|chapter=植民地経営の開始―統治形態の模索と立憲主義|year=2018|month=3|title=明治史講義【テーマ篇】|publisher=[[筑摩書房]]|series=[[ちくま新書]]|isbn=978-4-480-07131-6|ref=日向}}
* {{Cite book|和書|author=[[平塚柾緒]]|year=2010|month=11|title=図説 写真で見る満州全史|publisher=河出書房新社|series=ふくろうの本|isbn=978-4-309-76152-7|ref=平塚}}
1,248 ⟶ 1,336行目:
* {{Cite book|和書|author=[[森武麿]]|title=日本の歴史20 アジア・太平洋戦争|year=1993|month=1|publisher=[[集英社]]|series=|isbn=4-08-195020-2|ref=森}}
* {{Cite book|和書|author=森山康平|year=2005|month=10|title=写説 満州|publisher=[[ビジネス社]]|isbn=4-8284-1221-2|ref=森山}}
* {{Cite book|和書|editor=[[小池滋]]・[[青木栄一 (地理学者)|青木栄一]]・[[和久田康雄]](編)|author=[[山田俊明]]|year=2010|month=5|chapter=第19章 東アジア|title=鉄道の世界史|publisher=悠書館|isbn=978-4-903487-32-8|ref=山田}}
* {{Cite book|和書|author=[[横手慎二]]|year=2005|month=4|title=日露戦争史|publisher=中央公論新社|series=中公新書|isbn=4-12-101792-7|ref=横手}}
* {{Cite book|和書|editor=[[田中陽児]]・[[倉持俊一]]・和田春樹(編)|author=[[和田春樹]]|year=1994|month=10|chapter=第7章 近代ロシアの国家と社会|title=世界歴史大系 ロシア史2 (18世紀―19世紀)|publisher=[[山川出版社]]|isbn=4-06-207533-4|ref=和田}}
1,260 ⟶ 1,349行目:
* {{Cite book|和書|author=南満洲鉄道株式会社|editor=財団法人 満鉄会(編)|date=1974|title=南満洲鉄道株式会社第二次十年史(下)|publisher=原書房|asin=B000J9QV5K}}(昭和3年版の復刊)
* {{Cite book|和書|author=南満洲鉄道株式会社|editor=財団法人 満鉄会(編)|date=1976|title=南満洲鉄道株式会社第三次十年史|publisher=龍渓書舎|asin=B000J9UPAM}}(昭和13年版の復刊、全4冊)
* {{Cite book|和書|editor=財団法人 満鉄会(編)|dateyear=1986|month=10|title=南満洲鉄道株式会社第四次十年史|publisher=龍渓書舎|isbn=}}
* {{Cite book|和書|author=[[天野博之]]|year=2009|month=3|title=満鉄を知るための十二章―歴史と組織・活動|publisher=吉川弘文館|isbn=978-4642080217}}
* {{Cite book|和書|author=[[加藤聖文]]|year=2019|month=7|title=満鉄全史 「国策会社」の全貌|publisher=講談社|series=講談社学術文庫|origyear=2006|isbn=4-06-516272-6}}
1,272 ⟶ 1,361行目:
* {{Cite book|和書|editor=小林英夫(編)|year=2000|month=4|title=近代日本と満鉄|publisher=吉川弘文館|isbn=978-4642036948}}
* {{Cite book|和書|author=[[服部龍二]]|year=2001|month=12|title=東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931|publisher=有斐閣|isbn=978-4641076471|ref=服部}}
* {{Cite book|和書|author=原田勝正|year=1981|month=12|title=満鉄|publisher=岩波書店|series=[[岩波新書]]|isbn=978-4004201786|ref=原田2}}
* {{Cite book|和書|author=原田勝正|year=2007|month=12|title=増補 満鉄|publisher=[[日本経済評論社]]|isbn=978-4818819474|ref=原田3}}
* {{Cite book|和書|author=[[松岡洋右]]|year=2007|month=12|title=満鉄を語る|publisher=[[慧文社]]|isbn=978-4905849841}}(復刊)
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== 関連項目 ==
 
{{Commonscat|South Manchuria Railway}}
 
 
* [[野戦鉄道提理部]]
* [[中国長春鉄路]]
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* [[イギリス東インド会社]] - 南満洲鉄道株式会社の参考となったモデル
* [[東洋埠頭]]
*[[南満洲鉄道の歴史]]
 
== 外部リンク ==
 
{{Commonscat|South Manchuria Railway}}
{{ウィキポータルリンク|大東亜共栄圏}}
* [https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/pdfs/komura-2_08-09.pdf 外務省編纂『小村外交史』第8章第9節(1953年2月)]
* [https://www.jacar.go.jp/glossary/term3/0010-0080-0090-0010-0010.html アジ歴グロッサリー「南満洲鉄道株式会社」(公文書にみる明治日本のアジア関与—対外インフラと外政ネットワーク—)]([[国立公文書館]]:[[アジア歴史資料センター]])