「新幹線大爆破」の版間の差分

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| 監督 = [[佐藤純彌|佐藤純弥]]
| 脚本 = [[小野竜之助]]・佐藤純弥
| 原案 = [[坂上順|加藤阿礼]]{{#tag:ref |[[カトリーヌ・アルレー]]をもじって付けた[[映画プロデューサー]]・坂上順のペンネームである<ref name="asa10516">[http://asa10.eiga.com/2015/cinema/516.html 新幹線大爆破 - 午前十時の映画祭 - 映画.com]、[https://www.youtube.com/watch?v=8FNr79mJM1A 事務局オフタイム【第149回】「新幹線大爆破」] – [[午前十時の映画祭]]Official YouTube</ref><ref name="シナリオ20152152">{{Cite journal | 和書| author = | year = 2015 | month = 2 | title = | chapter = モルモット吉田シナリオ評『新幹線大爆破』 | journal = 月刊シナリオ | publisher = [[日本シナリオ作家協会]] | pages = 152-153 | issn = }}</ref>。本作以外では2001年の『[[ホタル]]』で脚本協力としてクレジットされている<ref name="論創社">[[ジョゼフ・ランス]]、加藤阿礼『新幹線大爆破』(論創社、2010年)巻末の[[小山正]]による解説「もうひとつの『新幹線大爆破』」より。</ref>。|group = "注釈" |name = "坂上順"}}
| 製作 =
| 製作総指揮 =
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| 製作国 = {{JPN}}
| 言語 = [[日本語]]
| 製作費 = 5億3,0003000万円<ref name="クロニクル">{{Cite book | 和書 | title = クロニクル東映:1947-1991 | volume = 1 | author = 東映 | publisher = 東映 | year = 1992 |pages = 262 - 265 | id = }}</ref><ref name="プレスピア">本作のプレスノートより([http://cinema.pia.co.jp/title/img-2811/cf/2/ 新幹線大爆破@ぴあ映画生活 - チケットぴあ])。</ref>
| 興行収入 =
| 前作 =
| 次作 =
}}
『'''新幹線大爆破'''』(しんかんせんだいばくは、''{{en|The Bullet Train}}'', ''{{en|Super Express 109}}'' )は、[[1975年]]の[[日本映画]]。[[オールスター|オールスターキャスト]]による[[パニック映画]]で、[[日本]]よりも[[海外]]での評価が高い作品である。
 
== 概要 ==
「[[新幹線0系電車|新幹線]]が走行速度80[[キロメートル毎時|km/h]]を下回ると爆発する」という状況下で繰り広げられる、犯人と国家との攻防劇である。新幹線に[[爆弾]]を仕掛けた犯人、危機の回避に全力を尽くす[[日本国有鉄道]](国鉄)サイド、わずかな糸口を頼りにその正体を追いかけ、徐々に犯人グループを追い詰めていく[[警察]]、パニックを起こす乗客の姿で主に構成されている。犯人側の人生背景にも大きくスポットが当てられており、町の[[中小企業#小規模事業者|零細]]工場の経営に失敗した男・[[過激派]]くずれ・[[集団就職]]で都会に来た[[沖縄]]出身の青年がなぜ犯行に至ったのか、日本の[[高度経済成長]]時代への批判を暗示しつつ明らかにされていく<ref name="朝日新聞20131130">{{Cite web|publisher=[[朝日新聞]]|url=http://www.asahi.com/articles/TKY201311260334.html|date=2013-11-30|title=be on Saturday 「(映画の旅人)「新幹線大爆破」〈1975年〉」|accessdate=2015-02-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180109063649/http://www.asahi.com/articles/TKY201311260334.html|archivedate=2018-1-9}}</ref><ref name="okinawatimes20190221">{{Cite web|author=田嶋正雄|date=2019-2-21|url=https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/387488|title=「大弦小弦」映画監督、佐藤純弥さん(86)が亡くなった...|work=沖縄タイムス+プラス|publisher=[[沖縄タイムス|沖縄タイムス社]]|accessdate=2019-3-9|archiveurl=https://web.archive.org/web/20190222190409/https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/387488|archivedate=2019-2-21}}</ref><ref name="chunichi20190220">{{Cite news |title=コラム 中日春秋|date=2019-2-20|url=https://www.chunichi.co.jp/article/column/syunju/CK2019022002000109.html|archiveurl=https://megalodon.jp/2019-0302-2004-23/https://www.chunichi.co.jp:443/article/column/syunju/CK2019022002000109.html|work=[[中日新聞]]|publisher=[[中日新聞社]]|accessdate=2019-3-9|archivedate=2019-3-2}}</ref><ref name="kanaloco20140407">{{Cite news |title=愛国の超特急(中) 新幹線網の「精神」 映画「大爆破」で顕在化 |date=2014-4-7|url=https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-45828.html|work=[[神奈川新聞#ニュース配信|カナコロ]]|publisher=神奈川新聞社|accessdate=2021-1-26|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210119044647/https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-45828.html|archivedate=2021-1-19}}</ref><ref name="キネ旬19758-2">[[松田政男]]「今号の問題作批評」<small>佐藤純弥監督の「新幹線大爆破」 〈堕ちたヒーロー〉が甦る時代</small> 『キネマ旬報』1975年8月下旬号、142 - 143頁。</ref>。犯人側にもドラマを与え感情移入を狙った演出も相まって、単なるパニックムービーとして括れないことが高評価に繋がっている<ref name="asa10516" /><ref name="wowow002887">{{Cite web|title=新幹線大爆破 映画|work=WOWOWオンライン|publisher=[[WOWOW]]|date=|url=https://www.wowow.co.jp/detail/002887|accessdate=2021-01-23|archiveurl=https://megalodon.jp/2020-0901-1055-57/https://www.wowow.co.jp:443/detail/002887|archivedate=2020-09-01}}</ref><ref>[https://www.toeich.jp/keiji/?p=549 パニック映画の傑作。昭和な時代のもどかしさが緊迫感を増幅。 新幹線大爆破]</ref>。
 
== ストーリー ==
<!--=== あらすじ ===-->
ある朝、国鉄に「本日[[東京駅]]を出発した“[[ひかり (列車)|ひかり]]109号”に爆弾を仕掛けた」と、脅迫電話がかかってきた。犯人は3名のグループで、新幹線に爆弾を仕掛け、誰も殺さず殺されずに巨額の身代金を得ようと[[完全犯罪]]を計画したのであった。終盤まで、犯人グループと警察当局・国鉄とのスリリングな駆け引き、そして乗客乗員らのパニックが続く。
<!--内容を端的かつ簡潔に書けないのであれば、「事典」の記述の意味がありません。せめてこの1/4程度にしないと…。
=== 詳細 ===
東京発[[博多駅|博多]]行の「ひかり109号」(16両編成)が[[新横浜駅]]を定刻通りに通過<ref>この時代の新横浜駅は[[こだま (列車)|こだま]]停車駅であり、ひかり号は全便が通過していた。</ref>したころ、国鉄本社に1本の脅迫電話がかかってきた。電話の主から「ひかり109号に爆弾を仕掛けた。その爆弾は時速80キロに達した際スイッチが入りそれ以上の速度で走っていれば問題ないが、再び時速80キロに減速すると爆発する仕掛けである。信じられないだろうから[[夕張駅|夕張]]発[[追分駅 (北海道)|追分]]行きの貨物5790列車にも同様の爆弾を仕掛けた。どこでもいいから好きな所で時速15キロ以下に減速してみろ。爆弾は必ず爆発する。」と聞かされ、電話を受けた幹部の宮下公安本部長は驚愕する。
 
三宅新幹線技師長、高沢新幹線運転車両部長、宮下公安本部長が脅迫電話を録音したテープレコーダーを囲む一室に、早速、倉持運転指令長が呼び出される。事実を知らされた倉持指令長も驚愕する。
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倉持は、「ひかり20号」が浜松駅を通過すると同時に「ひかり109号」を上り線に転線させる決断をし、浜松駅の分岐点に「ひかり20号」が分岐点を通過した瞬間を確認し報告させるための係員を派遣するよう指令を出した。青木運転士には、上り線を逆走させるために列車種別を回送に変更し、「ひかり20号」の通過する時間を稼ぐために90km/hまで速度をダウンさせ、さらに指示があったら120km/hに加速するよう指示を出す。青木運転士は、列車が対向して走行している上り線に転線すること、爆発すると言われた80km/hに近い90km/hで走行すること、さらに分岐点の通過制限速度である70km/hを上回る120km/hで分岐点に進入することに対し、取り乱すほどに倉持に抗議をするが、議論する時間がない今、指示に従わせる以外にない倉持指令長は、強い口調で青木を諭し、指示通りに運転させる。青木は、指示通り120km/hに増速し、分岐点通過ギリギリ手前でATCを切る。その後非常ブレーキにより速度は落ちていき、「ひかり20号」をかわし「ひかり109号」の最後尾の車両が分岐点を通過し上り線に入りきった段階で84km/hまで速度が落ちたが、このとき非常ブレーキが緩解し安全な速度まで増速することができた<ref>実際に逆走した場合には、非常ブレーキは解除されない。</ref>。上り線への転線が成功したことで青木は、倉持に対して取り乱したことを詫び、のちに「ひかり109号」は[[豊橋駅]]で下り線に戻っている。
 
その後、電話で届いた犯人の要求、それは500万米ドル<ref>当時の円換算では約15億円</ref>。車両代16億円と乗客全員の命とに比べればはるかに安い要求だとうそぶく一方で、自分たちの目的は殺人ではない、金だけだ、爆弾の解除方法は、金と引き代えに必ず教えると約束する。犯人は経営していた町工場が[[倒産]]し[[配偶者|妻]]にも逃げられたリーダーの'''沖田哲男'''、元[[過激派]]で[[学生運動家]]崩れの'''古賀勝'''、仕事もなく生活のため過剰な[[売血]]で死に掛けていた所を沖田に拾われた'''大城浩'''の3名であった。
 
「[[名古屋駅]]を都合により通過する<ref>当時名古屋はATCによって全列車停車するようになっていたが、劇中ではATCを解放しているため通過可能としている。</ref>」という放送が流れると、それまでの車内検査をいぶかしんでいた乗客が遂に「なぜ止めないのか?」と騒ぎ出し、[[車掌]]室に詰め掛けた。途方にくれる田代。容疑者藤尾護送のため居合わせた国鉄鉄道公安官<ref>正式には[[鉄道公安職員]]であるが劇中では'''公安官'''と名乗っていた。また鉄道公安職員は[[国鉄分割民営化|国鉄民営化]]後、都道府県警察[[鉄道警察隊]]に引き継がれている。</ref>菊池は名古屋駅を通過後に、事の次第を車内放送で乗客に告げた。
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最後の手段として爆弾近くのゴミ箱に作業ルートを確保する穴を開けるため、「ひかり109号」と救援車(4両編成)を並走させ[[ガスバーナー|酸素溶接機]]一式を持ち込むことにした。上下線間にある障害物が迫る中、双方を100km/hで並走させ、渡り板を渡してボンベとバーナーを「ひかり109号」の車内に持ち込むことに間一髪成功。運転士の青木がゴミ箱に穴を開け、その穴から[[ペンチ]]を差し入れ、ようやく爆弾のケーブルを切断できた(この間の運転は森本副運転士が行っている)。これで速度を落としても爆弾が爆発する危険性はなくなった。
 
安心したのもつかの間、宮下鉄道公安本部長が高速度撮影された写真を持って運転司令室に駆け込んできた。6号車に第2の爆弾らしきものがあるとの報告だ。だが写真は不鮮明であり、爆弾かどうかは判別できなかった。もう一度撮影をすることを三宅新幹線技師長は提案するが「ひかり109号」は、すでに「ゼロ地点」目前まで来ており、もう対処する時間は残されていなかった。国鉄新幹線総局長は覚悟を決め、倉持指令長に停車を指示するよう命令する。
 
倉持指令長は「もし爆弾であったら乗客が危険に晒される」と「ひかり109号」を停車させることに反対するが、国鉄新幹線総局長は「だからこそ停車させるんだ。大の虫(北九州工業地帯や新関門トンネル)を生かすためには小の虫(「ひかり109号」の乗客の命)を犠牲にすることも必要だ。君が指令できないなら私が指令を出す」と指令台に足を向ける。倉持指令長はそれを遮り、「私がやります」と、停車指令を出すべく列車無線のマイクに向かった。一か八かの停車指令に従い、「ひかり109号」はゆっくりと減速を続け、遂に停車する。6号車に爆弾は存在せず、2号車の爆弾の爆発を防ぎつつ停めることができたのだ。喜びに沸き安堵する「ひかり109号」の乗客・乗務員、そして運転司令室。倉持指令長は、新幹線総局長と目を合わすと、そのまま静かに退室した。
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== 製作 ==
=== 企画 ===
[[1974年]][[5月]]、[[岡田茂 (東映)|岡田茂]][[東映]]社長は、[[天尾完次]][[東映東京撮影所]]企画部長<ref name="シナリオ197707">{{Cite journal |和書 |author = |journal = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] | issue = 1977年7月号 |title = 〈東映映画特集〉 東映株式会社製作関係人事一覧 |publisher = [[日本シナリオ作家協会]] |pages = 24-25 }}</ref> との打ち合わせで[[実録シリーズ|実録路線]]に替わる新たな(映画の)素材を探し始めた<ref name="キネ旬19757">「新幹線大爆破にしかけたスリルのサスペンスについて」<small>〈スタッフ座談会〉[[佐藤純弥]]・小野竜之助・[[高倉健]]・天尾完次・飯村雅彦・坂上順</small> 『[[キネマ旬報]]』1975年7月上旬、夏の特別号、88 - 94頁。</ref><ref name="シナリオ201410">{{Cite journal |和書 |author = [[佐伯俊道]](本作[[助監督 (映画スタッフ)#序列と職務|助監督]]) |title = 終生娯楽派の戯言 {{small|第二十九回 東撮は燃えているか}} |journal = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] |issue = 2014年10月号 |publisher = [[日本シナリオ作家協会]] |pages = 66-71 }}</ref><ref name="鉄道ジャーナル197510">{{Cite journal|和書 |author = 東健一朗・金久保茂樹 |title = ■特別企画■ 推薦・非推薦? 話題の映画『新幹線大爆破』を斬る! |journal = [[鉄道ジャーナル]] |issue = 1975年10月号 |publisher = [[キネマ旬報社]] |pages = 95-99 }}</ref><ref name="東映sa26">{{Cite book | 和書 | author = [[杉作J太郎]]・植地毅 | title = 東映スピード・アクション浪漫アルバム | chapter = 伴ジャクソン『新幹線大爆破』を讃えよ! ー1975年夏・東映の大いなる挑戦ー | publisher = [[徳間書店]] | year = 2015 | id = ISBN 978-4-19-864003-3 | pages = 26-29 }}</ref><ref name="週刊ポスト19750711">{{Cite journal |和書 | volume = 1975年7月11日号 |title = 肖像権侵害論まで飛び出す 東映対国鉄"新幹線発車前"のエスカレート |author = | journal = [[週刊ポスト]] |publisher = [[小学館]] |pages = 46 }}</ref>。「[[アメリカ合衆国|アメリカ]]でヒットしているものは日本でもウケるから、常にアメリカの動向を観察していなければならない<ref name="シナリオ20152152"/><ref name="キネ旬19757"/><ref name="関根258">{{Cite book | 和書 | author = 関根忠郎 | title = 関根忠郎の映画惹句術 | chapter = 映画『新幹線大爆破』 社長命令ー パニック映画をやってみろ! | publisher = [[徳間書店]] | year = 2012 | id = ISBN 978-4-19-863465-0 | pages = 258-259 }}</ref>」「洋画で流行っているものは、必ず邦画にもその流れが来るはずだ<ref name="東映sa26"/>」「世間をアッと言わせるような作品を早急に考えろ!<ref name="シナリオ201410"/>」と、[[カンフー映画]]に触発されて製作した[[千葉真一]][[主演]]の格闘映画『[[殺人拳シリーズ]]』が業績好調と裏付けられていたため<ref name="東映sa26"/><ref name="シナリオ201405">{{Cite journal |和書 |author = 佐伯俊道 |title = 終生娯楽派の戯言 {{small|第二十四回 酒とバカの日々}} |journal = シナリオ |issue = 2014年5月号 |publisher = 日本シナリオ作家協会 |pages = 83-85 }}</ref>、岡田は企画部に新たな企画を出すよう指示<ref name="キネ旬19757"/><ref name="東映sa26"/><ref name="関根258"/>。「『[[大地震 (1974年の映画)|大地震]]』や『[[タワーリング・インフェルノ]]』みたいな[[パニック映画]]をやってみろ!」と[[東映東京撮影所]]に社長命令を出した<ref name="asa10516" /><ref name="シナリオ20152152"/><ref name="シナリオ201410"/><ref name="東映sa26"/><ref name="関根258"/><ref name="東映の軌跡">{{Cite book | 和書 | editor = 東映株式会社総務部社史編纂 | year = 2016 | title = 東映の軌跡 | publisher = [[東映|東映株式会社]] | isbn= |pages = 236-237 }}</ref><ref name="東映sa62">坂上順インタビュー『東映スピード・アクション浪漫アルバム』、62頁。</ref><ref name="hochi20190217">{{Cite web|date=2019-2-17|url=https://www.hochi.co.jp/entertainment/20190217-OHT1T50076.html|title=「男たちの大和」「新幹線大爆破」の名匠・佐藤純彌監督9日死去していた 86歳、多臓器不全|work=[[スポーツ報知]]|accessdate=2019-2-19|archiveurl= https://megalodon.jp/2019-0217-1708-23/https://www.hochi.co.jp:443/entertainment/20190217-OHT1T50076.html|archivedate=2019-2-17}}</ref><ref>{{Cite book |和書 |author = 渡邊達人(元京都撮影所所長代理) |title = 私の東映30年 | quote = 『新幹線大爆破』は岡田社長直接の企画 |publisher = |year = 1991 |pages = 160 - 161 }}</ref>。アメリカではパニック映画がピークを迎えていた<ref name="鉄道ジャーナル197510"/><ref name="sankei1412071">[http://www.sankei.com/premium/news/141207/prm1412070029-n1.html 文革中国が輸入した「高倉健映画」「文太」が蹴った『新幹線大爆破』、健さんは乗った…健さん・文太さん秘話(1/4ページ)]</ref>。
 
岡田社長が東京撮影所全体に本作製作の指示を出したのは、岡田社長宅に[[デモ活動|デモ]]をかけ[[逮捕]]者を出すなど<ref name="シナリオ201401">{{Cite journal |和書 |author = 佐伯俊道 |title = 終生娯楽派の戯言 {{small|第二十回 いけいけ!闘争と性春の日々}} |journal = シナリオ |issue = 2014年1月号 |publisher = 日本シナリオ作家協会 |pages = 88-92 }}</ref><ref name="シナリオ201408">{{Cite journal |和書 |author = 佐伯俊道 |title = 終生娯楽派の戯言 {{small|第二十七回 華麗なるクマの手}} |journal = シナリオ |issue = 2014年8月号 |publisher = 日本シナリオ作家協会 |pages = 88-89 }}</ref>、同撮影所が[[労働組合|組合運動]]ばかり熱心で<ref name="シナリオ201405"/><ref name="シナリオ201308">{{Cite journal |和書 |author = 佐伯俊道 |title = 終生娯楽派の戯言 {{small|第十五回 ふんどし芸者の大乱戦}} |journal = シナリオ |issue = 2013年8月号 |publisher = 日本シナリオ作家協会 |pages = 56 }}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author = [[山下賢章]]・岡田裕・満友敬司・[[荒井晴彦]]・[[佐伯俊道]]・[[松原信吾]] |title = 撮影所は戦場だった | journal = [[映画芸術]] |issue = 2014年夏号 No.448 | publisher = 編集プロダクション映芸 | page= 63–63 }}</ref>、当たる映画を一本も作れていなかったからで<ref>{{Cite journal|和書|author=佐伯俊道|title=終生娯楽派の戯言 {{small|第十一回 その名も東映番外地}} |journal=シナリオ|issue=2013年4月号|publisher=日本シナリオ作家協会|pages=70-73}}{{Cite journal|和書|author=佐伯俊道|title=終生娯楽派の戯言 {{small|第三十三回 『男の旅は一人旅 女の道は帰り道』 一番星・トラック野郎私記録}} |journal=シナリオ|issue=2015年3月号|publisher=日本シナリオ作家協会|pages=41}}{{Cite journal|和書|author=佐伯俊道|title=終生娯楽派の戯言 {{small|第十八回 池袋三業地の夜は更けて}} |journal=シナリオ|issue=2013年11月号|publisher=日本シナリオ作家協会|pages=41}}</ref>、天尾完次は<ref name="シナリオ201402">{{Cite journal |和書 |author = 佐伯俊道(本作助監督) |title = 終生娯楽派の戯言 {{small|第二十一回 二人の刺客の喧嘩仁義(ごろめんつう)}} |journal = シナリオ |issue = 2014年2月号 |publisher = 日本シナリオ作家協会 |pages = 60-64 }}</ref>([[鈴木則文]]も<ref name="シナリオ201402"/>)それまで[[東映京都撮影所|東映京都]]にいたプロデューサーだったが<ref name="シナリオ201402"/>、1973年秋、岡田が閉鎖の構想を持っていた<ref name="シナリオ201410"/><ref name="シナリオ201308"/><ref name="東映sa170">佐伯俊道インタビュー『東映スピード・アクション浪漫アルバム』、170頁。</ref><ref>{{Cite journal|和書 |author = | title = 映画・トピック・ジャーナル 東映両撮影所を合理化縮小か | journal = キネマ旬報 |issue = 1977年7月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |page = 206 }}</ref> 東京撮影所の徹底的な[[テコ入れ]]のため<ref name="シナリオ201402"/>、同撮影所に送り込んだ[[刺客]]であった<ref name="シナリオ201402"/>。
 
[[千葉真一]]主演でビル火災の[[消防士]]の活躍を描く『タワーリング・インフェルノ』と後の『[[バックドラフト (映画)|バックドラフト]]』を合わせたような『燃える三十六階』などの企画も新聞報道されたが<ref name="映画時報197410">{{Cite journal|和書 |author = [[登石雋一]](東映取締役・企画製作部長)・鈴木常承(東映営業部長兼洋画部長)・畑種治郎(東映・興行部長)・池田静雄(東映取締役宣伝部長)、聞く人・北浦馨 |title = 正月興行に全力投球 あゝ決戦東映陣 正月は得意の実録路線の大作で勝負 |journal = 映画時報 |issue = 1974年10月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 7-8 }}</ref>、そんな中、6人いた東京撮影所企画部のプロデューサーの一人<ref name="シナリオ197707"/>[[坂上順]]は、[[黒澤明]]の脚本『[[暴走機関車]]』や<ref name="東映sa62"/>、[[ロッド・サーリング]]脚本による1966年のアメリカのTVムービー『{{仮リンク|夜空の大空港|en|The Doomsday Flight}}』をヒントに<ref name="憤怒の河を渉れ187">{{Cite book |和書 |author = [[佐藤純彌]]著 聞き手・野村正昭・増當竜也 |title = 映画監督 佐藤純彌 映画よ憤怒の河を渉れ |publisher = [[ディスクユニオン|DU BOOKS/ディスクユニオン]] |year = 2018 |id = ISBN 978-4-86647-076-4 |pages = 187-191 }}</ref><ref name="サンデー山口">{{Cite news |title=連載【新型コロナに負けない!】 セニョール小林&マニィ大橋が対談 おうちで映画を楽しもう!(3)|date=2020-6-3|url=https://this.kiji.is/640368157620880481|work=[[サンデー山口]]|publisher=|accessdate=2020-8-31|archiveurl=http://web.archive.org/web/20200702101711/https://this.kiji.is/640368157620880481|archivedate=2020-7-7}}</ref>、「何か問題があれば必ず止まる“安全神話”を誇る新幹線が、もし止まらなくなったら?<ref name="東映sa26"/>」という企画を提出した<ref name="kanaloco20140407"/><ref name="東映sa26"/><ref name="東映sa62"/><ref name="東映sa46">佐藤純彌インタビュー『東映スピード・アクション浪漫アルバム』、46-51頁。</ref><ref name="sifftalk">[http://www.siff.jp/talk/2004talk/2002talk_shinkansen.html しんゆり映画祭ゲストトーク2002「新幹線大爆破」]</ref><ref name="asagei31500">[http://www.asagei.com/31500 緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」(19)日本のパニック映画を作れ]</ref>。「『日本にしかない題材の[[新幹線]]を選び、それを乗っ取る・爆発させる』というストーリーは日本だけでしか出来ず、外国に持っていっても遜色ないものが出来る<ref name="シナリオ20152152"/><ref name="キネ旬19757"/>」と製作は進んでいく<ref name="東映sa26"/><ref name="映画撮影58_29">{{Cite journal |和書 |author = 飯村雅彦 |title = 撮影報告『新幹線大爆破』(東映東京) |journal = 映画撮影 |issue = No.58 1975年9月20日発行 |publisher = [[日本映画撮影監督協会]] |pages = 29 - 30 }}</ref>。当時は[[三菱重工爆破事件]]など、大企業の爆破騒ぎ([[連続企業爆破事件]])が相次いでいた時代で<ref name="映画時報19750203">{{Cite journal|和書 |author = | title = 映画界東西南北談議 映画復興の二年目は厳しい年 新しい映画作りを中心に各社を展望 | journal = 映画時報 |issue = 1975年2月号 |publisher = 映画時報社 | pages = 37 }}{{Cite journal|和書 |author = | title = 映画界東西南北談議 企業防衛を運営方針の基本に各社、合理化と収益部門の拡大を意図 | journal = 映画時報 |issue = 1975年3月号 |publisher = 映画時報社 | pages = 37 }}[https://news.nicovideo.jp/watch/nw8805732 『源氏物語』に仕組んだダイナマイトで新幹線を爆破?【衝撃の未成年犯罪事件簿】]</ref><ref name="デイリー19750513">{{Cite news |author = |title =『タワリング・インフェルノ』に挑戦! 『新幹線大爆破』(東映)が撮入 |date = 1975年5月13日 |newspaper = デイリースポーツ |publisher = デイリースポーツ社 |page = 6 }}</ref>、警察関係者は神経をとがらせていた<ref name="デイリー19750513"/>。岡田社長は「企画に柔軟性を持たせ、社会的に話題になった事件はどんどん映画化していく」という方針を打ち出し<ref name="デイリー19750528">{{Cite news |author = |title =『連続爆破』と『三億円』東映の実録路線捜査官陰の苦労描く |date = 1975年5月28日 |newspaper = デイリースポーツ |publisher = デイリースポーツ社 |page = 6 }}</ref>、企業爆破事件を映画にするという情報も流れ<ref name="デイリー19750528"/>、岡田社長が[[三億円事件]]の[[公訴時効|時効]]を想定した映画(『[[実録三億円事件 時効成立]]』)まで製作を始め<ref name="映画時報19750203"/><ref name="デイリー19750528"/><ref name="東映sa66">坂上順インタビュー『東映スピード・アクション浪漫アルバム』、66–67頁。</ref><ref>{{Cite book | 和書 | title = 映画界のドン 岡田茂の活動屋人生 | editor = [[新文化通信社|文化通信社]] | publisher = [[ヤマハミュージックメディア]] | year = 2012 | isbn = 978-4-636-88519-4 | pages = 59 }}</ref><ref>{{Cite news |author = |title = 3億円犯人はこれだ! 警視庁のねらいと一致 東映"別働捜査陣"独自の追求 バクチ好きのタイプ 逮捕されたら企画映画オジャン 強力6人から絞る |date = 1975年9月27日 |newspaper = デイリースポーツ |publisher = デイリースポーツ社 |page = 1 }}{{Cite news |title = 『3億円』で岡田親子がケンカ 裕介と『キワモノ』論争 オヤジがおれて一件落着 |date = 1975年10月7日 |newspaper = サンケイスポーツ |publisher = 産業経済新聞社 |page = 11 }}</ref>、[[警視庁|警察当局]]も「東映は好ましくない映画ばかり企画する」と渋い顔をしていたといわれる<ref name="映画時報19750203"/>。バリバリの[[共産党|共産党員]]で<ref name="シナリオ201410"/> 本作の[[助監督 (映画スタッフ)#序列と職務|チーフ助監督]]<ref name="シナリオ201410"/>[[岡本明久]]は「[[高度経済成長]]の[[シンボル]]とも言える新幹線を爆破するという発想には驚いた」と話し<ref name="映画論叢201407">{{Cite journal | 和書 | author = 岡本明久(本作チーフ助監督) |date = 2014年7月号 | title = <small>東映東京撮影所の血と骨</small> 泣く 笑う 握る | journal = 映画論叢 | volume = 36 | publisher = [[国書刊行会]] | page = 70 }}</ref>「岡田社長は他社にない東映の良さは、時代の流れを見て何でもやる、変幻自在なところだと話していた」と述べている<ref name="映画論叢201407"/>。佐藤は「当時の東映ってのは企画も非日常、バカバカしい大騒ぎするようなことを出していかないといけないムードでね。今でいうなら『[[2020年東京オリンピック|東京オリンピック]]爆破』くらいのことね」などと述べている<ref name="東映sa46" />。[[大川博]]が[[国鉄]][[OB・OG|OB]]だった縁で、[[1960年]]の映画『[[大いなる旅路]]』は、[[機関士]]の半生の話で冒頭で[[貨物列車]]が転覆するというシーンに本物の車両を出し、国鉄から表彰されていた<ref name="sifftalk"/><ref name="asagei31502">[http://www.asagei.com/31502 緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」(20)撮影協力を強く拒んだ国鉄]</ref><ref>[http://news.mynavi.jp/series/railmovie/011/ 読む鉄道、観る鉄道 (11) 『大いなる旅路』 』 - 脚本・新藤兼人、主演・三國連太郎で描く機関士人生]</ref>。このような実績と蜜月で、全面的な協力を期待<ref name="東映の軌跡"/><ref name="sifftalk" /><ref name="asagei31502" /><ref name="関根260">{{Cite book | 和書 | author = 関根忠郎 | title = 関根忠郎の映画惹句術 | chapter = 映画『新幹線大爆破』 坂上順インタビュー | publisher = [[徳間書店]] | year = 2012 | id = ISBN 978-4-19-863465-0 | pages = 260-276 }}</ref>。東映は[[特撮]]があまり得意でなく、「実写をふんだんに使い、迫力のあるパニック物を作ろう」と構想していた<ref name="キネ旬19757"/>。
 
予定していたタイトルは『新幹線爆破魔を追え』であったが<ref>『[[週刊サンケイ]]』1975年2月20日号、p28、『[[週刊朝日]]』1975年2月14日号、p37</ref><ref name="キネ旬19753-2-169">「邦画新作情報」東映がパニック映画を、『キネマ旬報』1975年3月下旬号、169 - 171頁。</ref>、岡田は「新幹線大爆破!」と変更<ref name="asa10516"/><ref name="東映sa26" /><ref>{{Cite web|date=2014-10-19|url=http://www.hochi.co.jp/entertainment/20141019-OHT1T50124.html?from=related|title=【ウチわの話】75年公開「新幹線大爆破」の21世紀版見たい |work=[[スポーツ報知]]|accessdate=2014-11-18}}</ref><ref name="mimiman">{{Cite web |url = https://33man.jp/article/001213.html |title = 【前編】1970年代東映映画の魅力〜オワリカラ・タカハシヒョウリが語る〜|accessdate = 2016-6-27 |author = [[オワリカラ|タカハシヒョウリ]] |authorlink = |date = 2016-6-3 |work = 耳マン |publisher = リットーミュージック |archiveurl = http://web.archive.org/web/20160627024819/https://33man.jp/article/001213.html |archivedate = 2016-6-27 }}</ref>。「半期に一本のスーパーアクション」<ref name="週刊映画19750222">{{Cite news |title = 岡田東映社長新方針発表 四ジャンルで衣替え活劇 |date = 1975年2月22日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>「実録ものの一バリエーションとして、企画の幅を広げる意味でも是非実現し成功させたい」<ref name="キネ旬19753-2-169"/>「従来の東映の客層に[[プラスアルファ]]を狙いたい」などと張り切り<ref name="キネ旬19751001">{{Cite journal|和書 |author = 井沢淳・高橋英一・鳥畑圭作・土橋寿男・嶋地孝麿 |title = 映画・トピック・ジャーナル 『東映・岡田社長が自ら陣頭指揮に』 |journal = キネマ旬報 |issue = 1975年10月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 218 - 219 }}</ref>、東映系の[[映画館]]主や関係者からも「これは当たる」「東映カラーを打ち破る手がかりになる」などと評判が良く、マスメディアからの反響も大きく「本作が成功すれば路線変更」という声も上がった<ref name="キネ旬19757"/>。
 
=== 監督・脚本 ===
天尾完次と坂上順は緻密なコンストラクションという点で「[[東映東京撮影所]]では[[佐藤純弥]]しかいない」「それに粘り強いライターなら[[小野竜之助]]だろう」と二人を組ませた<ref name="キネ旬19757"/><ref name="東映の軌跡"/><ref name="sankei190530">{{Cite web|author=岡本耕治|date=2019-5-30|url=https://www.sankei.com/entertainments/news/190530/ent1905300002-n1.html|title=【悼】映画監督・佐藤純弥さん 現場をまとめた人間力|work=[[産経ニュース#産経ニュース (ウェブ)|産経ニュース]]|publisher=[[産業経済新聞社]]|accessdate=2020-8-31|archiveurl=http://web.archive.org/web/20200606104916/https://www.sankei.com/entertainments/news/190530/ent1905300002-n1.html|archivedate=2019-6-6}}</ref>。佐藤へのオファーが1974年初夏<ref name="クロニクル"/>。小野へのオファーは同年の11月だった<ref name="キネ旬19757"/>。坂上が「[[網走番外地 (東映)|網走番外地シリーズ]]」のロケでお世話になった[[層雲峡温泉]]の「ホテル大雪」にお願いして<ref name="朝日新聞20131130"/><ref name="nikkei121107">{{cite news|title=出会いに導かれた活動屋(6) 映画プロデューサー坂上順氏(仕事人秘録)|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2012-11-07|page=19}}</ref>、佐藤と小野は二人で当地に一ヶ1か月以上籠り<ref name="朝日新聞20131130"/><ref name="憤怒の河を渉れ187"/><ref name="東映sa46" />、ストーリーを練った<ref name="朝日新聞20131130"/><ref name="東映の軌跡"/>。佐藤は本作の2、3年前、国鉄国際部の依頼で<ref name="憤怒の河を渉れ187"/>、海外広報用に新幹線のPR映画を作った経験があった<ref name="クロニクル"/>。有名な“新幹線が一定速度を下回ると爆発する”というアイデアは、坂上順の着想とされ<ref name="クロニクル"/><ref name="kanaloco20140407"/><ref name="シナリオ20152100"/>、「[[飛行機]]は着陸したくても着陸できないというサスペンス映画があるけれど、新幹線の場合、停まりたくても停まれないというサスペンス映画はできないですか」と佐藤に伝えた<ref name="キネ旬19757" /><ref name="東映sa46"/>。佐藤は東京・[[駒込]][[六義園]]近くにある、鉄道関係の専門書を多く発刊している書店の[[交友社]]に出向き「新幹線教則本」を購入<ref name="クロニクル"/><ref name="sifftalk" />。また前記のPR映画を作った際に、国鉄の広報担当者が「新幹線は地上最速の輸送機関でありながら、最も安全である。何故ならば、新幹線の安全対策は多岐に渡るが、その根本思想は、何かあったら直ちに停止するということだからだ」と言っていたのを思い出し、爆発のメカニズムのアイデアを膨らませた<ref name="クロニクル"/><ref name="東映sa46"/><ref name="サンスポ19750511">{{Cite news |author = |title = 新幹線危うし!爆破を計画 健さん犯人に仕立て 国鉄の協力えられず 東映が見切り発車 |date = 1975年5月11日 |newspaper = [[サンケイスポーツ]] |publisher = [[産業経済新聞社]] |page = 131 }}</ref>。走行速度80km/hで爆発する設定を考案したのは佐藤である<ref name="東映sa46" />。元々、子供の頃からラジオ製作などが好きで、一定の周波数を検知するとスイッチが入るというメカニズムは有り得るということは知っていた<ref name="東映sa46" />。国鉄サイドからすれば、本作のアイデアがそうした[[盲点]]を突いていたことが、当初は蜜月関係だったにも関わらず、協力を嫌がった理由といわれる([[#撮影|後述]])<ref name="キネ旬19757" /><ref name="mynavi002">[http://news.mynavi.jp/series/railmovie/002/ 『新幹線大爆破』 - 「ひかり109号」を次々襲うピンチにハラハラドキドキ]</ref>。佐藤は後年のインタビューで「ああいう爆弾を素人が作ることは難しいでしょうけど、あの頃は東京駅の階段の横から新幹線内部に潜入することも出来ましたし、当時は計画を実行することはそれなりに可能だったと思います。だから国鉄は映画が公開されたら、真似されることを恐れたんだと思います」と述べている<ref name="憤怒の河を渉れ187"/>。また演出的なバネとなったのは『[[わらの犬]]』と話していた<ref name="キネ旬19760502">{{Cite journal|和書 |author = 後小路雅弘 | title = 福岡での読者選出ベスト・テン表彰式は今年も盛況だった... | journal = キネマ旬報 |issue = 1976年5月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 120-122 }}</ref>。
 
[[浜松駅]]での上り線への切り替えシーンのアイデアは、黒澤明脚本『暴走機関車』に佐藤がB班として参加した際、実現はしなかったが似た[[シークエンス#映画|シークエンス]]があったという<ref name="朝日新聞20131130"/>。[[関川秀雄]]の兄が新幹線開発に加わっていたために話を聞いたり<ref name="sifftalk"/>{{#tag:ref |関川の兄は、当時国鉄北海道総局長だった関川行雄である<ref>{{cite web|url= http://photodb.hokkaido-np.co.jp/detail/0040004894 |accessdate= 2014-11-24|title= 関川行雄|date= 1975-3-14|work= フォト北海道(道新写真データベース)|publisher= [[北海道新聞|どうしんウェブ]]}}</ref>。|group = "注釈" }}、[[静岡県]][[浜松市]]の[[東海旅客鉄道浜松工場|国鉄浜松工場]]を訪ねたりして資料を集めていた<ref name="クロニクル"/>。
 
=== キャスティング ===
1973年の『[[ゴルゴ13 (1973年の映画)|ゴルゴ13]]』からプロデューサーとなった坂上順は<ref name="東映sa62"/>、製作進行係をしていた時から[[俊藤浩滋]]や[[高倉健]]にいろいろ教えてもらっていた縁から<ref name="東映sa62"/>、主役の沖田哲男役のみ、高倉と決めていた<ref name="東映sa62"/><ref name="関根260"/><ref name="nikkei121107"/>。しかし岡田茂は「もう[[鶴田浩二]]、高倉ばかりに頼るな」と言い、社の方針として「[[菅原文太]]・[[梅宮辰夫]]・千葉真一でやっていく」と東映は決めていた<ref name="東映sa62"/>。
 
坂上は高倉に脚本を見せると「こんな面白い映画なら、どんな役でもいいからぜひ参加したい、もちろん犯人役でも構わない<ref name="asagei31500"/>」と言ったが<ref name="sifftalk"/><ref name="nikkei121107"/><ref name="シナリオ20152100"/><ref name="sankei1412072"/>、社の方針で沖田には菅原がキャスティングされ<ref name="東映sa62"/><ref name="映画時報197508">{{Cite journal|和書 |author = [[登石雋一]](東映取締役・企画製作部長)・鈴木常承(東映営業部長兼洋画部長)・畑種治郎(東映・興行部長)・岡田敬三 (東映・宣伝部長代理)、司会・北浦馨| title = 東映下半期の決戦体制整う製作・配給・宣伝の機動性強化| journal = 映画時報 |issue = 1975年8月号 |publisher = 映画時報社 | pages = 8-12 }}</ref>、{{要出典範囲|date=2018年2月|倉持には高倉がキャスティングされる。}}[[和田誠]]は「これは門外不出のエピソードでしょうけど、高倉さんが『新幹線大爆破』は僕が運転手で宇津井健さんが犯人をやるというキャスティングだったんだけど、僕が犯人をやるから宇津井さんに役を替えてくれって言って役が交替したんです」と聞いたと話している<ref>{{Cite journal|和書|author=|title=【巻頭特集】 高倉健 音楽・時代・想い 《音楽と高倉健》 僕が出会った高倉健さん 文・[[和田誠]]|journal=東映キネマ旬報 2017年冬号 vol.28|issue=2016年12月1日|publisher=[[東映ビデオ]]|pages=9}}</ref>。しかし菅原は「この映画の主役は新幹線で、演技者は付け足しだ<ref name="キネ旬19753-2-169"/><ref name="sankei1412072">[http://www.sankei.com/premium/news/141207/prm1412070029-n2.html 文革中国が輸入した「高倉健映画」 「文太」が蹴った『新幹線大爆破』、健さんは乗った…健さん・文太さん秘話(2/4ページ)]</ref>」「国鉄の協力が無くてできるわけがない<ref name="東映sa63">坂上順インタビュー『東映スピード・アクション浪漫アルバム』、63頁。</ref>( ⇒ [[#撮影]])」と断ってきた<ref name="キネ旬19753-2-169"/><ref name="sankei1412072"/><ref name="東映sa63"/>。坂上は本社で「社長(岡田)が『若いのでやれ』って言ってるんだから梅宮か、[[小林旭]]にしろ」と聞かされ、岡田からも「高倉にこだわっていたら、企画が前に進まない」と念押しされた<ref name="東映sa63"/>。[[高橋英樹 (俳優)|高橋英樹]]も主演候補に挙がったが<ref name="キネ旬19755-2"/>、坂上は当時はまだ下っ端プロデューサーで<ref name="nikkei121107"/>、散々迷った挙句に失礼ながら岡田の家へ夜10時頃に電話して「どうしても健さんでやりたい」とえた<ref name="関根260"/><ref name="nikkei121107"/><ref name="東映sa63"/>。通常の映画作品よりキャスト・特撮の双方で予算が掛かっているため「本来のギャラを出せない」と思っていた岡田は、「高倉でやりたいならば、全体予算を詰めるのがお前の仕事だ」<ref name="nikkei121107"/>「通常のギャラの半分でいいなら、高倉を起用してもいい」と条件をつける<ref name="関根260"/><ref name="東映sa63"/> と条件をつける坂上は実情を正直に高倉に話すと、高倉は岡田からのギャラ半分の提案に憤慨し<ref name="nikkei121107"/>、「坂上いぃ、機関車は石炭がなければ走れないぞ」と言いながらも<ref name="nikkei121107"/>、「この作品は役者として絶対に演りたい」という強い思いがあり<ref name="nikkei121107"/>、ギャラ半分という無茶苦茶な申し出を承諾<ref name="nikkei121107"/>。「ギャラは半分でいいが、その代わり映画が当たったら成功報酬のパーセンテージが欲しい<ref name="nikkei121107"/><ref name="sankei1412072"/>」という契約で坂上のオファーを受けた<ref name="関根260"/><ref name="nikkei121107"/><ref name="東映sa63"/>。高倉は「この映画に関しては俳優の魅力なんかは二の次で、ストーリーの面白さがある」「大変面白い脚本で、久しぶりにのってるんです」と当時のインタビューで述べていた<ref name="キネ旬19757"/>。
 
脚本の[[小野竜之助]]は、フランスで公開された内容のような凶悪犯と設定し、犯罪者側の視点は簡潔なもので<ref name="シナリオ20152100"/>、国鉄・警察側のみから描く予定だった<ref name="onoryu59">小野竜之助インタビュー『東映スピード・アクション浪漫アルバム』、59頁。</ref>。しかし高倉の出演により<ref name="asagei31502"/><ref name="onoryu59"/>、犯人の人間像を膨らまし<ref name="onoryu59"/>、「なぜ、犯行に至ったのか」という犯人側のそれぞれの背景を書き足し、シナリオを“複眼”にした<ref name="asagei31502"/>。ただ、坂上はシナリオ段階から高倉主演でシナリオを書いてもらっていたと証言している<ref name="nikkei121107"/>。やくざ映画のヒーローでならした高倉が、[[ジャンパー]]姿の、倒産した中小企業のオヤジ役を引き受け、時代に取り残され絶望的な反撃を試みる男を演じ、同作は彼がこれ以降に幅広い役柄をこなすきっかけとなった<ref name="朝日新聞20131130"/><ref name="キネ旬19755-2"/>。
 
千葉真一は当初別の役だったが、坂上が何とかお願いして青木運転士を引き受けてもらった<ref name="東映sa64">坂上順インタビュー『東映スピード・アクション浪漫アルバム』、64頁。</ref>。全編ほぼ運転席に座っていた青木だが、ゴーグルを着けて客車の床を焼き切り<ref>佐藤純彌インタビュー『東映スピード・アクション浪漫アルバム』、50頁。</ref>、ヤケドをするシーンは千葉のアイデアによるものだった<ref name="東映sa64"/>。高倉・千葉・[[宇津井健]]は同時アングルで出演していないが、高倉と宇津井が談笑する姿や新幹線の模型を持つ[[スチル写真]]が残されており<ref>伴ジャクソン「『新幹線大爆破』は特撮映画だ!」『東映スピード・アクション浪漫アルバム』、52, 54頁。</ref>、[[新東宝]]出身の宇津井は東映初出演となった。坂上は犯人と対峙する花村警察庁捜査第一課長に[[丹波哲郎]]を配役し、『[[網走番外地]]』で高倉と対峙するイメージを描いていたが、丹波に「4日しか空かない」と言われ、[[鈴木瑞穂]]に変更<ref name="東映sa65">坂上順インタビュー『東映スピード・アクション浪漫アルバム』、65頁。</ref>。脚本では丹波と鈴木の役は1人だったが、分けたことで丹波の役は重要度が下がることとなる<ref name="東映sa65"/>。坂上はポスターを作った時、キャスト並びで丹波を中止めにして宇津井を止めにした<ref name="東映sa65"/>。これに新東宝で宇津井の先輩である丹波がクレームをつけてきたため、本編のクレジットで丹波はエンディングに特別出演とロールされている<ref name="東映sa65"/>。
 
学生運動くずれ・古賀勝には当初、[[原田芳雄]]へオファーしたが、「テロリズム的なものは嫌だ」と断られたため<ref name="東映sa49">佐藤純彌インタビュー『東映スピード・アクション浪漫アルバム』、49頁。</ref>、[[山本圭]]がキャスティングされた。しかし本作を観た原田は「断って申し訳なかった。次は是非ご一緒に」と、『[[君よ憤怒の河を渉れ#映画|君よ憤怒の河を渉れ]]』(1976年)に出演した<ref name="東映sa49"/>。山本の出演で坂上はプロデューサーの[[宮古とく子]]と縁ができ、『新幹線大爆破』を宮古に褒められ「『君よ憤怒の河を渉れ』の監督に起用したいので佐藤を紹介してくれ」と頼まれた<ref name="東映sa64"/>。高倉の『君よ憤怒の河を渉れ』出演も本作と同じ佐藤監督からの縁によるものだった<ref>{{Cite news |title = "高倉刑事"助っ人 2度目の他社出演 永田ラッパ復帰第一作に |date = 1975年6月8日 |newspaper = サンケイスポーツ |publisher = 産業経済新聞社 |page = 11 }}</ref>。制作費の高騰により、俳優へ協力を頼み、通常より低めのギャラで出演してもらった<ref name="キネ旬19757"/>。[[カメオ出演]]のうち、[[北大路欣也]]はノーギャラ<ref name="sifftalk"/>。[[岩城滉一]]は映画デビュー作だったもののアップがないため、役柄を前もって確認しておかないと気付きにくい<ref name="トラック浪漫"/>。
 
この他、『[[小川宏ショー]]』に出演していた[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の人気[[日本のアナウンサー|アナウンサー]]・[[露木茂]]にテレビの[[報道記者]]の役で、1975年5月16日に正式に出演オファーを出した<ref name="サンスポ19750518">{{Cite news |author = |title = 露木アナ、東映出演へ『新幹線大爆破』ニュースキャスター役 |date = 1975年5月18日 |newspaper = サンケイスポーツ |publisher = 産業経済新聞社 |page = 11 }}</ref><ref name="サンスポ19750531">{{Cite news |title = なになにッ! ツユと消えた映画初出演 肩書じゃました露木アナ |date = 1975年5月31日 |newspaper = サンケイスポーツ |publisher = 産業経済新聞社 |page = 15 }}</ref>。露木が[[よど号ハイジャック事件]]や[[あさま山荘事件]]の[[リポート]]で知られていたことから<ref name="サンスポ19750531"/>、テレビで刻々とニュースを伝え、犯人にも呼びかけるうってつけの配役と、露木も「断る理由は何もない」と話し、『小川宏ショー』のスタッフからも「いいお話じゃないですか」などと乗り気だったが<ref name="サンスポ19750518"/><ref name="サンスポ19750531"/>、露木はアナウンス部ではなく、解説委員室というお堅いセクションに所属していて<ref name="サンスポ19750531"/>、同セクションの上司から「映画の内容が内容だけにどうか?」と反対され出演はならなかった<ref name="サンスポ19750531"/>。
 
=== 製作費 ===
制作費は5億3,0003000万円<ref name="クロニクル"/><ref name="プレスピア" /><ref name="週刊ポスト19750711"/><ref name="映画時報197505">{{Cite journal |和書 |author = |title = つッ走る新幹線、追う、特殊カメラ 東映『新幹線大爆破』撮影快調 |journal = 映画時報社 |issue = No.277 1975年5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = グラビア }}</ref>。製作当時の東映東京撮影所所長・幸田清は「ふんだんに岡田社長に金を使わせてもらっているので、これが当たらなかったらオレは[[解雇#俗称|クビ]]だと思う。俳優、スタッフとものりにのっており、東撮始まって以来の熱気だ」などと話していた<ref name="映画時報197505"/>。東映の作品において過去最大の金額と言われ<ref name="キネ旬19757" />、監督の佐藤純弥は2002年のトークショーで「現在の貨幣価値なら20億円くらいでないか」と述べている<ref name="sifftalk" />。プロデューサーの坂上順は2012年のインタビューで「制作費は1億5,0005000万円、今に換算すれば10億円ぐらいになるでしょう」と述べている<ref name="関根260"/>。[[1975年]]の小学校教師初任給は8万1,1041104円、東京都内のもりそば、かけそば料金は230円、4ドア普通乗用車96~140万円の時代である<ref>週刊朝日編『戦後値段史年表』朝日文庫102,106、123頁</ref>。
 
=== 撮影 ===
==== 準備まで ====
国鉄に、実物の[[新幹線0系電車]]の撮影協力を交渉したところ、安全を謳い文句にしていた国鉄は、刺激的な映画のタイトルに難色を示し<ref name="東映の軌跡"/><ref name="sankei190530"/>、「『新幹線大爆破』という映画のタイトルでは新幹線のイメージが悪くなるので、『新幹線危機一髪』というタイトルへ変えるなら撮影に協力しても良い」とタイトル変更を打診するが<ref name="朝日新聞20131130" /><ref name="東映sa26"/>、岡田茂は「題名は絶対に変えんぞ!」と断固拒否<ref name="asa10516"/><ref name="東映sa26"/><ref name="東映sa46" /><ref name="asagei31502"/><ref name="関根260"/><ref name="mimiman"/>。当時国鉄は、[[森繁久彌]]が「安全です国鉄は」と訴えかける[[コマーシャルメッセージ|CM]]を放送していた<ref name="週刊朝日19750418">「国鉄サンの逆燐だもの 新幹線パニック映画の製作中止」週刊朝日1975年4月18日号、37頁。同時期に製作されていた[[東宝]]の新幹線パニック映画『[[動脈列島]]』も「製作中止になりそう」と書かれている。</ref>。1974年12月、国鉄が「現在、新幹線に爆弾を仕掛けたという電話は週に1本の割合でかかって来て、その度にいたずら電話かも知れないが、必ず最寄の駅に停車させて検査するような状態である。このような映画は、更に[[模倣犯|類似の犯罪]]を惹起する恐れがあるから製作を中止されたい」と、本作の企画に断固反対の姿勢を打ち出した<ref name="クロニクル"/><ref name="chunichi20190220"/><ref name="wowow002887"/><ref name="シナリオ201410"/><ref name="nikkei121107"/><ref name="サンスポ19750511"/>。1975年2月初めに国鉄から80%協力は得られないという線が出て<ref name="映画撮影58_29"/>、[[教育映画|児童教育映画]]を作るからと称して申し入れたがこれも拒否され<ref name="週刊文春19750528">{{Cite journal |和書 | volume = 1975年5月28日号 |title = 国鉄に"爆破"された『新幹線大爆破』 |author = | journal = [[週刊文春]] |publisher = [[文藝春秋]] |pages = 24 }}</ref>、同年4月にいっさいの撮影協力を断られた<ref name="キネ旬19757"/><ref name="東映sa26"/><ref name="週刊文春19750528"/><ref>佐藤純彌インタビュー『東映スピード・アクション浪漫アルバム』、46頁。</ref><ref name="ぶらり12">「佐藤純彌 ぶらりシネマ旅」『[[デイリースポーツ]]』2014年12月16日付(12)</ref>。1975年3月~4月の間、表立った製作はストップしたが<ref name="映画撮影58_29"/>、この間に国鉄の協力なしで撮影が可能か検討された<ref name="映画撮影58_29"/>。
 
==== 撮影決行 ====
302行目:
 
==== 製作会見 ====
撮影中の1975年5月12日、[[東京都|東京]][[有楽町]][[東京交通会館|交通会館]]15階スカイラウンジにて製作発表会見が行われ、[[登石雋一]]企画製作部長、佐藤監督、高倉健、宇津井健、山本圭らが出席した<ref name="デイリー19750513"/><ref name="サンスポ19750513"/><ref name="週刊映画19750517">{{Cite news |title = 東映が輸入ソ連映画と『新幹線』着手の発表 |date = 1975年5月17日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>。ここから[[東京駅#新幹線ホーム(20 - 23番線)|東京駅の新幹線ホーム]]がよく見え<ref name="サンスポ19750513"/>、高倉らはそれを背に質問に答えた<ref name="デイリー19750513"/><ref name="サンスポ19750513"/>。高倉は「数年ぶりに見た素晴らしいシナリオだった。犯人役だといってもそんなことに抵抗はない。全部が難しい役柄だが、それだけにやりがいがある」<ref name="デイリー19750513"/>、宇津井は「どんなに[[コンピューター]]がすぐれていようと、最後に頼れるのは人間の力。[[大映]]で『ごんたくれ』を撮ってから8年ぶりの映画で気合が入っています(実際はこの間の映画出演はある)」などと話した<ref name="デイリー19750513"/>。国鉄が非協力だけでなく、クレームを付けているという報道が流れていたため、世間の関心も高く、報道陣からの質問はそれに集中した<ref name="デイリー19750513"/><ref name="週刊映画19750517"/>。東映は「警視庁、国鉄にシナリオを提出し『われわれは[[反社会的勢力|反社会的意図]]でこの映画を作るのではない』と説明したら、関係当局から『類似行為が起こらないよう注文を受けた』と回答された」と説明した<ref name="デイリー19750513"/>。佐藤は「現実に爆弾を仕掛けたという[[脅迫電話]]が[[鉄道管理局#総局・鉄道管理局一覧|新幹線総局]]に月に2三十30件あると聞いている。映画で多少は増えるかも知れないが全く別の問題だと思う。類似犯罪についても絶対に真似でできない仕掛けだから心配ない」などと話した<ref name="サンスポ19750513"/>。マスメディアからはできないのではないかと思われていたため<ref name="映画時報197505_37">{{Cite journal |和書 |author = |title = 映画界東西南北談議 各社早くも夏季大攻勢に大童わ |journal = 映画時報社 |issue = No.277 1975年5月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 37-39 }}</ref>、「本当に作るのか?」という質問まで出た<ref>{{Cite news |title = 東映『三億円事件時効成立』種々難問に挑戦の製作発表 |date = 1975年10月18日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>。他に登石より「作品は二部構成で二部の結末にはアイデアを募集。詳細は何れ新聞で発表する」との説明があった<ref name="週刊映画19750517"/>。 
 
==== 特撮とロケなど ====
[[東京駅]]ホームの階段を、バンド仲間と昇る東郷あきら([[岩城滉一]])のシーンは、東映東京撮影所の[[中庭]]に[[東京駅]]の[[1/1#1/1スケール|原寸大]]の[[プラットホーム]]を建てたが<ref name="東映sa46" /><ref name="週刊現代19750731">{{Cite journal |和書 |volume = 1975年7月31日号 |title = 大作『新幹線大爆破』惨敗の原因 |author = |journal = [[週刊現代]] |publisher = [[講談社]] |pages = 29 }}</ref>、東京駅全景のカットは盗み撮り<ref name="東映sa46" />。新幹線運転司令室は、同撮影所の最大のステージにセットが組まれ<ref name="シナリオ201410"/>、中央部に実際に使われていたものと同じ[[列車集中制御装置|CTC表示板]]が鎮座し<ref name="シナリオ201410"/>、他のステージの多くも本作撮影用に占拠された<ref name="シナリオ201410"/>。「岡田社長が京都か東京のどちらかの撮影所を潰すと言っている」という信頼性の高い情報が駆け巡ったため<ref name="シナリオ201410"/><ref name="シナリオ201308"/><ref name="東映sa170"/>、東京撮影所の存続を賭け、多くのスタッフが本作製作に志願した<ref name="シナリオ201410"/>。裏ルートで取材を行い、実物大の客車セットや模型を作り、撮影を進める<ref name="クロニクル"/><ref name="東映の軌跡"/>。急ピッチで撮影に入るが<ref name="mimiman"/><ref name="キネ旬19756-2">「映画・トピック・ジャーナル」新幹線映画で勝負の東宝、東映 『キネマ旬報』1975年6月下旬号、162 - 163頁。</ref>、実質、撮影に充てられる期間は5週間程度だった<ref name="東映sa46" />。当時のニュース映像や資料写真を参考にしたり、色々な手を使って本物そっくりのセットを作りあげた<ref name="クロニクル"/>。このため、国鉄からは3年間出入り禁止となった<ref name="東映sa46" /><ref name="sifftalk"/>。特撮部分に総額6,0006000万円をかけている<ref name="キネ旬19757"/>。
 
また、[[鉄道橋|鉄橋]]の下での撮影などは『新幹線大爆破』というタイトルでの申請では門前払いを喰らうので、『大捜査網』というタイトルのシナリオを30部ほど印刷して、ロケ交渉ではそちらのシナリオを先方に渡し許可を取った<ref name="東映の軌跡"/>。[[国鉄9600形蒸気機関車|蒸気機関車9600型]]の走行シーンは<ref name="デイリー19750611">{{Cite news |author = |title =燃料倉庫に機関車激突 東映『新幹線大爆破』夕張ロケ 消防団も控えて |date = 1975年6月11日 |newspaper = デイリースポーツ |publisher = デイリースポーツ社 |page = 6 }}</ref>、東映が200万円で[[北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道]]から購入<ref name="デイリー19750611"/>。貨物5790列車の走行シーンは、[[私鉄]]の[[北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道]]で、国鉄ではないために撮影が可能だった<ref name="朝日新聞20131130"/>。爆破シーンは、[[北海道炭礦汽船夕張鉄道線]]の一部を引き継いだ[[夕張市]]若菜の専用線で1975年6月10日に撮影された<ref name="mynavi002"/><ref name="デイリー19750611"/>。事前に陸運局や警察署、消防署など関係当局に許可を取り、大平火薬から専門家を招き、4台のカメラで撮影した<ref name="デイリー19750611"/>。貨物に乗っている人たちのシーンは爆破箇所とは別の北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道で撮影<ref name="デイリー19750611"/>。5790列車は、当時夕張線に実在し、実際に[[蒸気機関車]]が牽引していた。[[北海道]]夕張の貨物駅シーンも[[熊谷市]]の[[秩父鉄道]][[広瀬川原車両基地]]を用いた。線路が見えるところや[[車両基地]]、古賀勝([[山本圭]])が線路を渡って逃げていくシーンは、[[西武鉄道]]の協力によるものだった<ref name="東映sa46" />。古賀が線路を渡って逃げるシーンは、[[都営地下鉄三田線]]の[[志村車両検修場]]構内。犯人グループの[[アジト]]がこの近辺に設定されたのは、1970年代初頭までここは小さな[[町工場]]が密集し<ref name="憤怒の河を渉れ191">{{Cite book |和書 |author = 佐藤純彌著 聞き手・野村正昭・増當竜也 |title = 映画監督 佐藤純彌 映画よ憤怒の河を渉れ |publisher = DU BOOKS/ディスクユニオン |year = 2018 |id = ISBN 978-4-86647-076-4 |pages = 191-201 }}</ref>、[[過激派]]や[[大学闘争|学生運動]]の闘士が多く住んでいたため<ref name="憤怒の河を渉れ191"/>。[[織田あきら]]扮する大城浩が[[売血]]するシーンは、佐藤の学生時代の実体験で<ref name="憤怒の河を渉れ191"/>、1970年代初頭までは、貧乏な者がまだ売血で金を得ていた<ref name="憤怒の河を渉れ191"/>。刑事の前を横切る電車は、[[東京都交通局6000形電車 (鉄道)|都営地下鉄6000形]]である。その後、[[西台駅]]1番ホーム、東口改札口まで刑事が追跡する。
 
==== ひかり109号 ====
車両の[[ミニチュア]]は1台1メートル余りあり<ref name="sankei1412071"/>、12両編成で12メートル。これを2セットで計24両製作<ref name="キネ旬19757"/>。この2台で2000万円かかった<ref name="キネ旬19757"/>。東映の「[[紡錘]]形を作らせたら日本一」といわれる美術担当者が、新幹線特有の紡錘形を再現した<ref name="キネ旬19757"/>。新幹線などのミニチュアの実製作は、長らく映画・テレビの特撮作品で金属模型を手掛けた[[郡司製作所]]が担当した。撮影所正門反対側の中庭260平方メートルに線路を敷いたオープンセットを建設<ref name="サンスポ19750524">{{Cite news |title = 東映新幹線発車 20分の1…ミニ11両編成2列車で800万円 セットだけでポルノ1本分 |date = 1975年5月24日 |newspaper = サンケイスポーツ |publisher = 産業経済新聞社 |page = 13 }}</ref>。線路は全長50メートル<ref name="クロニクル"/>、150メートル<ref name="sifftalk"/>、300メートル<ref name="ぶらり12" /> と文献によって長さの記載が異なる。特撮シーンは特殊技術の[[成田亨]]によるもので、新幹線のミニチュアは自走式では無く、小型の[[スキージャンプ#競技場|スキージャンプ台]]のように30度の傾斜をつけて走らせ撮影した<ref name="クロニクル"/><ref name="sankei1412071"/><ref name="サンスポ19750524"/>。当時、このミニチュアが大変話題になり、宣伝部はここぞとばかり[[パブリシティ]]を展開した<ref name="関根260"/>。この新幹線と線路のミニチュアは、のちに『[[ウルトラマン80]]』でも使用されており<ref>『[[ウルトラマン80]]』DVD-BOX第1巻・コレクターズブックより</ref>、109号が爆破されるイメージカットは東映の特撮ドラマなどにも流用されている。爆破場面以外でも『[[大鉄人17]]』で新幹線ロボットの登場する前後編(第18話・第19話)などで流用された。背景の都市はミニチュアではなく、[[ビル]]のモノクロ写真を引き伸ばしてパネルに貼り付け、着色したものである。これは成田の発案で、限られた予算内で撮るためのアイデアの1つだった。この特撮のため、1日のレンタル料が100万円だった当時最新鋭のシュノーケル・カメラを借りている<ref name="sifftalk"/>。シュノーケル・カメラはそれまで[[コマーシャルメッセージ|CM]]でしか使われたことがなく<ref name="東映sa26" />、同カメラを使用した映画は、本作が初めてといわれている<ref name="キネ旬19757"/><ref name="東映sa26" />。このカメラを約1か月使用した<ref name="sifftalk"/> 2年後、同じカメラが『[[スター・ウォーズ・シリーズ|スター・ウォーズ]]』で使用されたという<ref name="sifftalk"/>。これらミニチュアの新幹線と実際の新幹線を撮った映像を組み合わせ<ref name="sifftalk"/><ref name="ぶらり12" />、迫力のある走行シーンを撮り上げた<ref name="キネ旬19757"/>。
 
『新幹線大爆破』『[[東京湾炎上]]』と邦画のパニック映画大作が世間でも大きな話題呼んだため<ref name="週刊映画19750531">{{Cite news |title = 東映と東宝がパニック映画の現場で記者会見 |date = 1975年5月31日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>、1975年5月23日に東映、5月27日に東宝が[[観光バス|バス]]を[[チャーター便|チャーター]]し、それぞれマスメディアを集めて、本社前集合から[[東映東京撮影所|大泉]]、[[東宝スタジオ|砧]]へ撮影見学会が行われた<ref name="映画時報197505_37"/><ref name="サンスポ19750524"/><ref name="週刊映画19750531"/>。道中、幸田清東映東京撮影所長から丸一年を要した製作苦心談や、ミニ新幹線が近所の子供たちの評判を呼んだため見学希望者が殺到した<ref name="映画時報197505_37"/>。丁寧に断ってはいたが、子供たちが撮影所内に侵入しミニ新幹線に悪戯しようとするため、[[警備員|ガードマン]]を付けているなどの説明があり<ref name="週刊映画19750531"/>、現場では新幹線ミニチュア(新幹線東映号)や特設レール建設の細かい説明の他、爆弾が仕掛けられたひかり号に救援車が近づく実際の撮影シーンや<ref name="サンスポ19750524"/>、ラッシュ試写も見せた<ref name="映画時報197505_37"/><ref name="週刊映画19750531"/>。高倉と宇津井が新幹線の模型を持つスチル写真は<ref name="sankei1412071"/>、この日セット撮影の合間をぬい、二人がここを見学した時に写されたもの<ref name="サンスポ19750524"/>。高倉は「パニック映画というより人間ドラマです。素晴らしい映画に参加できてうれしい」宇津井は「子どもが見に来たがって困ってるんですよ」と話した<ref name="サンスポ19750524"/>。
 
前述のように東京撮影所の近所の子供たちから「ミニ新幹線を見せて欲しい」と要望が殺到したため<ref name="映画時報197505_37"/>、幸田東映東京撮影所長が「子供たちの夢を叶えてあげたい」と1975年6月15日に撮影所を開放し、ミニ新幹線撮影会を催し<ref name="年鑑1976">{{cite journal | 和書 |author = | title = 映画界重要日誌| journal = 映画年鑑 1976 | volume = 1975年12月1日発行 | publisher = 時事映画通信社 | pages = 16 }}</ref><ref name="デイリー19750616">{{Cite news |author = |title =豆カメラマンなどどっと2000人 東映『新幹線大爆破』ミニチュア撮影会 |date = 1975年6月16日 |newspaper = デイリースポーツ |publisher = デイリースポーツ社 |page = 6 }}</ref>、アマ・セミプロのカメラマン2000人が参加した<ref name="年鑑1976"/><ref name="デイリー19750616"/>。
車内は材料の質感が本物そっくりに出ないと作品が全部絵空事になるという判断から、[[ベニヤ板]]でセットを組まず、当時実際に国鉄へ納入していた[[日立製作所]]や[[東芝]]などから実物の[[椅子]]や壁面、[[網棚]]などを発注して[[1/1#1/1スケール|原寸大]]の車内を再現した<ref name="朝日新聞20131130"/><ref name="東映sa46" /><ref name="sifftalk"/>。これに手間と時間がかかり、撮影が遅れる一因になった<ref name="キネ旬19757"/>。後日、各会社は国鉄から怒られたという<ref name="sifftalk"/>。本物そのままのセットは5年間保存され、新幹線の車内が必要なテレビドラマ『[[新幹線公安官]]』などに使われ、そのレンタル料で完全に元を取った<ref name="東映sa46" /><ref name="sifftalk"/>。
 
新幹線の爆破シーンは1975年6月20日、東京撮影所の野外オープンセットで行われ、報道陣にも近距離からの撮影を許可した<ref name="サンデー毎日19750713">{{Cite journal |和書 |volume = 1975年7月13日号 |title = これが国鉄クレームのシーン〔映画のオハナシでありました〕 |author = | journal = [[サンデー毎日]] |publisher = [[毎日新聞社]] |pages = 2-4 }}</ref><ref name="サンスポ19750621">{{Cite news |author = |title = 大爆破 迫力!恐怖!映画でよかった… 東映『新幹線大爆破』クライマックス この一瞬1000万円 |date = 1975年6月21日 |newspaper = サンケイスポーツ |publisher = 産業経済新聞社 |page = 11 }}</ref>。[[リハーサル]]なしのぶっつけ本番とあって慎重に慎重を重ねて準備し、予定を2時間オーバーした<ref name="サンスポ19750621"/>。本番1回目は爆破が遅れ、報道陣が近寄った時、突然爆破しカメラを担いで逃げ出す[[ハプニング]]<ref name="サンデー毎日19750713"/>。2回目は予想外に火力が大きく、周辺に植えられていた木々に燃え移り、撮影所の[[消防車]]が出動する騒ぎになった<ref name="サンデー毎日19750713"/>。爆破シーンは映画では数秒であるが、ドカーン一発で2000万円がすっ飛んだ<ref name="サンデー毎日19750713"/>。
 
新幹線車内は材料の質感が本物そっくりに出ないと作品が全部絵空事になるという判断から、[[ベニヤ板]]でセットを組まず、当時実際に国鉄へ納入していた[[日立製作所]]や[[東芝]]などから実物の[[椅子]]や壁面、[[網棚]]などを発注して[[1/1#1/1スケール|原寸大]]の車内を再現した<ref name="朝日新聞20131130"/><ref name="東映sa46" /><ref name="sifftalk"/>。これに手間と時間がかかり、撮影が遅れる一因になった<ref name="キネ旬19757"/>。後日、各会社は国鉄から怒られたという<ref name="sifftalk"/>。本物そのままのセットは5年間保存され、新幹線の車内が必要なテレビドラマ『[[新幹線公安官]]』などに使われ、そのレンタル料で完全に元を取った<ref name="東映sa46" /><ref name="sifftalk"/>。
 
司令室も内部の写真の提供を拒否されたため、美術監督が見学者を装って司令室に潜り込んだと書かれた文献もあるが<ref name="クロニクル"/>、2002年のトークショー以降は佐藤が「国鉄は外国人に弱いから日本で無名の外国の俳優をドイツの鉄道関係者に仕立てて、全部盗み撮りしてきた」と話している<ref name="東映sa46" /><ref name="sifftalk"/>。映画での司令室の[[列車集中制御装置|CTC表示板]]は起点である東京駅が本来は左側であるところが右側となっているが、これは映画進行上の[[イマジナリーライン]]を右から左としているための意図的な演出である<ref name="東映sa26" />。ただし、本来の表示の左右だけを反転させて上下を反転させていないため、表示と実際の線路配置とでは左右(上り線と下り線)が逆になっており、CTC表示板でのひかり109号が停車している東京駅19番ホームの位置と実際に19番ホームを発車するひかり109号の映像の間に、矛盾が生じている。
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東京(9:48発/17番線発)→名古屋(11:49着/11:51発)→京都(12:41発)→新大阪(12:58着/13:00発)→新神戸(13:17発)→姫路(13:45発)→岡山(14:15着/14:17発)→[[新倉敷駅|新倉敷]](14:31発)→[[福山駅|福山]](14:46発)→[[三原駅|三原]](15:01発)→[[広島駅|広島]](15:27着/15:29発)→[[新岩国駅|新岩国]](15:48発)→[[徳山駅|徳山]](16:08発)→小郡((現:[[新山口駅|新山口]])16:28発)→[[新下関駅|新下関]](16:51発)→[[小倉駅 (福岡県)|小倉]](17:02着/17:04発)→博多(17:36着/11(現:13)番線着)
  
 
==== クライマックスシーン ====
[[東京国際空港|羽田空港]]でのクライマックスシーンは、最終発着の終わる夜の10時から朝の5時前まで、同空港を貸し切り撮影が行われた<ref name="シナリオ201410"/>。[[東京国際空港#施設|搭乗ゲート]]での細かいやりとりのシーンは重要な芝居を要求されるため、後日セットで撮影したが、[[エキストラ]]数百人を使った搭乗ゲート付近や[[東京国際空港#施設|滑走路]]、[[埋立地]]などの撮影は実際に羽田空港で夜間の7時間に全て行った<ref name="シナリオ201410"/>。ワンシーン終えるごとに機材を移動していたのでは間に合わないので、それぞれ4班体制で[[照明|ライティング]]やテストの準備を終え、スタッフ、キャストが移動する方式である<ref name="シナリオ201410"/>。夜間撮影のため用意された機材は膨大な数に上り、機材車や[[電源車]]だけで十数台、エキストラ数百人を乗せたロケバスと合わせ、夕暮れに羽田に向かう道に延々、何十台もの車列が続き、B班[[助監督 (映画スタッフ)#序列と職務|助監督]]だった[[佐伯俊道]]は「ああ、この撮影所も長いことないのかもしれないなァ」とその時は思ったという<ref name="シナリオ201410"/>。正規スタッフによる段取りは手際よく、夜明け前に撮影は完了し、朝8時に撮影所に到着した。東映東京ほぼ総出による共通体験をこなした喜びから、朝にも関わらず、所内のあちこちで[[宴会|酒宴]]が開かれた<ref name="シナリオ201410"/>。当時羽田空港とあったのは、[[成田国際空港|新東京国際空港(現在の成田国際空港)]]がまだ工事中であり、かつ空港反対派による過激派組織の破壊妨害などで開港が大幅に遅延したためであった
 
1975年6月24日[[撮影#動画撮影について|クランクアップ]]<ref name="映画撮影58_29"/>。
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=== 日本 ===
==== 上映中止要請 ====
<!--- 新聞広告はあったため消した。注釈参照。新聞広告などは拒否されたが、 --->前年の『[[あゝ決戦航空隊]]』以来2度目の岡田社長を本部長とする特別動員対策本部が設置され<ref name="映画時報197505"/><ref name="週刊映画19750524"/>、岡田社長が審査委員長になり、全封切劇場で独自の宣伝を考えてもらい、封切劇場の興収ベストテンを決め、豪華賞品と賞状を送った<ref name="映画時報197506_34">{{Cite journal |和書 |author = |title = 映画界東西南北談議 夏季攻勢に満を持す各社の態勢と方針49年度の映画の観客動員は僅かながら増 |journal = 映画時報社 |issue = 1975年6月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 34、37頁 }}</ref>。また「乗客の救出シーンのアイデアを一般から募集します」<ref name="週刊文春19750528"/>、「夢の超大作」などと広告を打ち<ref name="週刊読売19761113">{{Cite journal |和書 | volume = 1976年11月13日号 |title = "舶来の新幹線とは驚きですねぇー |author = | journal = 週刊読売 |publisher = 読売新聞社 |pages = 33 }}</ref>、小中高校生などに標的を合わせた大宣伝キャンペーンがなされた<ref name="映画時報197508"/><ref name="映画時報197505"/><ref name="週刊映画19750524">{{Cite news |title = 東映『新幹線大爆破』で恐怖映画ブームに一翼を |date = 1975年5月24日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref><ref name="週刊読売19761113"/>。宣伝費は東映創立以来の最高額9500万円<ref name="映画時報197507">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界東西南北談議 すべてに大型時代を迎えた映画界 不況風を吹飛ばす邦洋夏の大攻勢 |journal = 映画時報 |issue = 1975年7月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 35 }}</ref>{{#tag:ref |同時期の映画宣伝費、『[[タワーリング・インフェルノ]]』2億円、『[[ローラーボール (1975年の映画)|ローラーボール]]』1億2000万円。1974年の東宝正月映画『[[日本沈没#1973年の映画|日本沈没]]』8000万円、1975年の東宝正月映画『[[エスパイ#映画|エスパイ]]』『[[伊豆の踊子 (1974年の映画)|伊豆の踊子]]』は2本で1億円<ref name="映画時報197507"/>。それまでは邦画各社の半期の合計宣伝費が2億円程度<ref name="映画時報197507"/>。1976年の正月映画『[[ジョーズ]]』3億5000万円<ref name="映画時報197510">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界東西南北談議 早くも展開する正月興行作戦 洋画に話題を浚われた邦画陣 |journal = 映画時報 |issue = 1975年10月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 36 }}</ref>。洋画の大作攻勢に対抗するため邦画も大作が増え<ref name="映画時報197510"/>、宣伝費の拡大も始まった<ref name="映画時報197507"/>。|group = "注釈" |name = "宣伝費"}}。国鉄vs.東映が少し前までお互い[[プロ野球チーム一覧|プロ野球チーム]]を持っていたことにかけて「珍[[オープン戦#日本プロ野球のオープン戦|オープン戦]]」などと当時の週刊誌に盛んに取り上げられ<ref name="週刊読売19750705">{{Cite journal |和書 | volume = 1975年7月5日号 |title = 国鉄対東映の珍オープン戦! |author = | journal = [[週刊読売]] |publisher = [[読売新聞社]] |pages = 31 }}</ref>、宣伝効果はかなりあった相当で<ref name="映画時報197508"/><ref name="週刊読売19750705"/>、僅かに試写を観た映画関係者からの評価は高く<ref name="nikkei121107"/>、東映関係者は「絶対にくるだろう」と信じて疑わず、コケる予想をする者はいなかった<ref name="nikkei121107"/><ref name="映画時報197508"/>。「爆弾を仕掛けられたひかり109号が、浜松駅を通過と同時に平均時速を84キロに落とした。残り919.4キロの博多駅まで何時間かかるか?」というクイズを出したところ二万六千約26,000通の応募があり、数秒出演した[[多岐川裕美]]が銀座の[[丸の内TOEI|東映本社]]で抽選会に臨み、「約11時間」と正解した中から当選者を選び、東京の小学6年生が1等になり、撮影に使ったミニ新幹線が贈られた<ref name="サンスポ19750629">{{Cite news |author = |title = 11時間で221人も… 多岐川『新幹線クイズ』抽選 |date = 1975年6月29日 |newspaper = サンケイスポーツ |publisher = 産業経済新聞社 |page = 11 }}</ref>。国鉄はたぶん映画は出来ないだろうとタカをくくっていたが<ref name="週刊読売19750705"/>、東映が大掛かりなセットを組んで撮影を始め、国鉄自慢の新幹線を爆破するとあって「こりゃいかん」と驚いた<ref name="週刊読売19750705"/>。公開直前の1975年6月23日に国鉄の山崎忠政広報部長から東映に抗議文書が送り付けられた<ref name="週刊ポスト19750711"/>。抗議内容は「十数年前の『[[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]]』を観た者が、映画同様のテクニックで[[略取・誘拐罪|誘拐殺人事件]]を引き起こしたことがある。『新幹線大爆破』については、当初から、この設定が大きな[[社会不安]]をもたらすことを危惧して、口頭で中止を申し入れたが、再度この映画の上映計画を中止することを強く要望する」というもので<ref name="週刊ポスト19750711"/>、国鉄サイドとしては、下手に騒いで宣伝上手の東映に逆手に取られてはと心配して一時沈黙していたが、もう我慢ならないと判断したといわれる<ref name="週刊ポスト19750711"/>。国鉄や[[公安調査庁|公安関係者]]は苦々しく感じていたという<ref name="映画時報197505_37"/>。東映は既に5億3,0003000万円もの制作費を投入しており<ref name="週刊ポスト19750711"/>、「冗談じゃない。中止などできるもんですか。国鉄サンが協力してくれないからミニチュアを作って撮影したんですから。社会不安を惹起するかどうかも充分に検討した上なんだから」などとカンカンに怒った<ref name="週刊ポスト19750711"/>。また本気の抗議書なら[[藤井松太郎]][[日本国有鉄道#歴代の国鉄総裁|国鉄総裁]]発東映岡田社長行きじゃないと意味がないんじゃないかと、形式上のことだろうと推察された<ref name="週刊ポスト19750711"/>。しかし国鉄は「東映さんには、よく考え、反省して頂きたい」と凄み<ref name="週刊ポスト19750711"/>、東映のポスターを全国の駅から締め出し<ref name="週刊ポスト19750711"/>、ミニチュアの新幹線や駅は[[パブリシティ権|肖像権侵害]]で[[告訴]]も辞さぬと脅した<ref name="週刊ポスト19750711"/>。
 
==== 公開とその結果 ====
正規班、B班、特撮班で目一杯カメラを回したため。尺が膨大になり、[[編集]]作業に手間取り<ref name="シナリオ201410"/>、最後の1週間は2班体制でほとんど徹夜<ref name="憤怒の河を渉れ187"/>。完成が封切の2日前までずれ込んだために<ref name="シナリオ201410"/>、[[試写会]]も開催できなかった<ref name="シナリオ201410"/><ref name="東映sa46" />。マスメディアもこの奇妙な新作をどう取り上げていいのか分からずに右往左往していたといわれる<ref name="シナリオ201410"/>。
 
予告編では千葉真一が茶・白の[[ストライプ|縦縞]][[ジャケット]]を羽織り、[[新宿副都心]]にいる姿だった<ref name="東映sa69">伴ジャクソン「本編を通過した『新幹線大爆破』 予告編の世界」『東映スピード・アクション浪漫アルバム』、69頁。</ref>。これは1974年の映画『[[直撃! 地獄拳]]』のワンシーンの流用である<ref name="東映sa69"/>。全く無関係のシーンを予告編に使ったため、千葉が[[新幹線]]・ひかり109号運転士の青木役とはとても予想できるものではなかった<ref name="東映sa69"/>。[[志穂美悦子]]と[[多岐川裕美]]も全く違う役柄でワンシーンのみ登場<ref name="東映sa69"/>。撮影遅延により、予告編は未撮影部分を他の作品から拝借する反則気味の[[コラージュ]]が多用され<ref name="トラック浪漫"/>、実際に観たら「全然違う」とガッカリする客も多かった<ref name="トラック浪漫" /><ref name="東映sa69"/>。予告編のBGMには、本作の一部と、『[[解散式 (映画)|解散式]]』と『[[仁義の墓場]]』の一部が使われている。
 
邦画では珍しいパニック系アクションの製作ということもあり業界からも注目を集め、前評判は高かった<ref name="週刊映画19750531時報197508"/><ref name="週刊映画19750531"/><ref name="週刊映画19750712">{{Cite news |title = 東映『新幹線大爆破』登場 洋画三封切作何れも強力 |date = 1975年7月12日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>。しかし、タイトルを理由として新聞への広告も拒否された」と佐藤純彌は述べているが<ref name="ぶらり13">「佐藤純彌 ぶらりシネマ旅」『[[デイリースポーツ]]』2014年12月23日付(13)</ref>、佐藤は宣伝をあまり知らないようで新聞広告は相当数あった{{#tag:ref |1975年6月2日の『[[サンケイスポーツ]]』11面と1975年6月5日と6月19日の『[[デイリースポーツ]]』6面に「撮影快調!」と書かれた広告が、公開直前の1975年7月1日の『サンケイスポーツ』11面、1975年7月4日の『サンケイスポーツ』15面に大きな宣伝広告が載っている。|group = "注釈" |name = "新聞広告"}}。岡田社長は「一生懸命広告した」と述べている<ref name="映画時報197508"/>。宣伝が十分に行き届くことがなかったというのは、完成が遅れて試写会も無く<ref name="シナリオ201410"/>、[[映画評論家]]は試写会を観て、雑誌メディアに批評を掲載するため、これが無かったという意味かもしれない。本作のみの1本立て興行ではなく、「[[ずうとるび]]」の[[ドキュメンタリー]]風中編映画『ずうとるび 前進!前進!大前進!!』との2本立て興行だった<ref name="東映sa46" /><ref name="asagei31504">「[http://www.asagei.com/31504 緊急追悼連載! 高倉健 「背中の残響」(21)公開後に事態は「意外な方向へ」]</ref>。『ずうとるび-』との併映は10代の映画ファンの興行への影響力が大きくなったのを見た岡田が、この年からメインの併映は「青春路線」で行くと発表していたからである<ref>{{Cite journal | 和書 | author = | title = 藤木TDCのヴィンテージ女優秘画帖(53) | journal = [[映画秘宝]] |year = 2010 | month = 12 | volume = | publisher = [[洋泉社]] | page = 101 }}</ref>{{#tag:ref |<small>1975年2月19日、[[丸の内TOEI|東映本社]]会議室にて上半期の東映ラインナップ発表の後、岡田社長が今後の企画方針を発表した。四ジャンルで節目のある編成で、衣替え活劇を製作すると説明し、具体的には①実録アクション。ムードのあるものに持ってゆきたい。『京阪神暴力ファミリー』(『[[日本暴力列島 京阪神殺しの軍団]]』)『日本暴力列島』(『[[実録外伝 大阪電撃作戦]]』<ref name="週刊映画19750830">{{Cite news |title = 太秦映画村製作方針などで東映岡田社長記者会見獅子吼 |date = 1975年8月30日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref><ref name="週刊映画19750830_19">{{Cite journal|和書 |author = | title = 東映岡田社長、六月以降の制作企画作品発表 |journal = 映画時報 |issue = 1975年2月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 19 }}</ref>)『[[暴動島根刑務所]]』『日本列島トルコ風呂』(『[[札幌・横浜・名古屋・雄琴・博多 トルコ渡り鳥]]』)などである。②徹底的なアクションものを作る。『[[ゴルゴ13 (1973年の映画)|ゴルゴ13]]』の2も考えているが外地ロケは金がかかるので検討中だ。少林寺剣士で人気上昇中の志穂美悦子をフルに活用、アクションの第一人者千葉真一ものを製作する。③はファッション性を帯びたもので、中・高生層を狙う。少年少女雑誌掲載のものを中心に考える。『[[若い貴族たち 13階段のマキ]]』『女剣士』(『[[必殺女拳士]]』)などで、これには歌手や、テレビの若いタレントの起用も考える。④は半期に一本のスーパーアクションで『新幹線』ものなどがこれである」などと述べた<ref name="週刊映画19750830"/><ref name="週刊映画19750830_19"/><ref>{{Cite news |title = 岡田東映社長新方針発表四ジャンルで衣替え活劇 |date = 1975年2月22日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>。また、1975年4月7日に東映本社で『青春讃歌 暴力学園大革命』の製作発表会見があり、この席で岡田が、「この映画は東映の若い観客層拡大を狙い新路線だ。今後は、二本立てのうち一本は19歳以下の若い層むきの映画を作りたい。企画意図としてヤングに読まれている硬派のものとしてシリーズにしたい。[[星正人]]は、東映としては[[渡瀬恒彦]]、[[伊吹吾郎]]以来、久しぶりの新人デビュー作となる」と話した<ref>{{Cite news |title = 邦画短信 |date = 1975年4月12日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 2 }}</ref>。</small>|group = "注釈" |name = "青春路線"}}{{#tag:ref |<small> [[東映まんがまつり#公開日・上映作品|1975年春休みのまんがまつり]]で、岡田が[[丸の内TOEI|丸の内東映]]前で客の様子を見ていたら、子どもが劇場前に座り込み、泣き叫んで大暴れした挙句、母親を劇場に引きずり込んだ。その光景に感激した岡田が[[東映まんがまつり#公開日・上映作品|1975年夏休みのまんがまつり]]を当時テレビで人気抜群だった[[ずうとるび]]の『ずうとるび 前進!前進!大前進!!』を目玉にマンガ4本をくっつけると決めた([[グレートマジンガー対ゲッターロボ#興行]])。1975年4月の時点では『新幹線大爆破』の併映は、これも当時大人気だった[[マッハ文朱]]主演の女子プロレスものと告知されていた([[女必殺拳シリーズ#シリーズ継続経緯]])。この女子プロレスものは製作が先延ばしされた後、製作されず。同時にこの年の[[東映まんがまつり#公開日・上映作品|夏休みのまんがまつり]]は、『ずうとるび 前進!前進!大前進!!』だけが一番組前に出て『新幹線大爆破』の併映になった。</small>|group = "注釈" |name = "ずうとるび"}}。製作費を注ぎ込んで第一級の[[サスペンス]]映画に仕上げながら、任侠路線が色濃く残る東映のイメージもあいまって、国内興行は成功を収められなかった<ref name="asagei31504"/>。内容もミスばかりする警察とは対照的に、国鉄マンの判断力も責任感のある男として描いていたため<ref name="週刊新潮19750717">{{Cite journal |和書 | volume = 1975年7月17日号 |title = 東も西も災害映画の大流行 |author = | journal = [[週刊新潮]] |publisher = [[新潮社]] |pages = 13 }}</ref>、当時全国に40万人いた国鉄職員とその家族が観てくれるのでは、と東映は期待していた<ref name="週刊新潮19750717"/>。同年に企画段階で頓挫した作品の穴埋めとして急遽製作・上映された『[[トラック野郎・御意見無用]]』の配給収入5億3000万円に対し<ref name="週刊映画19751108">{{Cite news |title = 東映が50年上半期決算発表 映画が強く当期利益5億円 |date = 1975年11月8日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>、『新幹線大爆破』3億円と<ref name="週刊映画19751108"/> 及ばなかった<ref name="トラック浪漫">{{Cite book | 和書 | title = トラック野郎 浪漫アルバム | chapter = 70's東映スピード&メカニック路線+1徹底攻略 | author = [[杉作J太郎]]・植地毅 | publisher = [[徳間書店]] | year = 2014 | id = ISBN 9784-19-863792-7 | page = 169 }}</ref><ref name="週刊映画19751108"/>。[[都心]]ではまずまずの入りだったが<ref name="週刊映画19750712"/>、新幹線に縁のない[[北海道]]や[[東北地方]](当時)の客入りは悪く<ref name="朝日197581">「どこまで続くソックリ・ショー(ぬかるみみぞ) 邦画四社の"柳の下"合戦」週刊朝日1975年8月1日号、36頁</ref>、[[大阪府|大阪]]などでは途中打ち切りに遭い<ref name="週刊現代19750731"/>、当時の週刊誌誌上では「1975年3月の[[山陽新幹線]]の[[博多]]開業に合わせて公開しようとした便乗企画」などと書かれたが<ref>『週刊サンケイ』1975年2月20日号、p28、『週刊朝日』1975年2月14日号、p37</ref>、山陽新幹線の通る[[西日本]]地域においても「サッパリだった」という<ref name="朝日197581" />。
 
一方、『キネマ旬報』の読者選出ではベストワンに選ばれるなど<ref name="キネ旬197612-2">リバイバル時の映画チラシ 『キネマ旬報』1976年12月下旬号、38頁。</ref>、観た人は面白さを評価し<ref name="シナリオ201410"/>、作品の評価そのものは非常に高かったために<ref name="キネ旬19758-2-162">「映画・トピック・ジャーナル」東映意欲作「新幹線映大爆破」苦戦す、『キネマ旬報』1975年8月下旬号、162 - 163頁。</ref><ref name="キネ旬197510-2">[[黒井和男]]「指定席<small>96</small>「新幹線映大爆破」と日本映画『キネマ旬報』1975年10月下旬号、189頁。</ref> マスメディアで様々な敗因の考察がなされた<ref name="朝日197581" /><ref name="キネ旬19758-2-162" />。東映営業部では「映画の内容がハイブローすぎてヤクザ映画とポルノが好みの東映ファンにソッポを向かれた」<ref name="朝日197581" /><ref name="キネ旬19758-2-168">「ヒット・Hit」『キネマ旬報』1975年8月下旬号、168頁。</ref>「題材がリアル過ぎた」などと分析<ref name="憤怒の河を渉れ184">{{Cite book | 和書 | author = 佐藤純彌著 聞き手・野村正昭・増當竜也 | title = 映画監督 佐藤純彌 映画よ憤怒の河を渉れ | publisher = DU BOOKS/ディスクユニオン | year = 2018 | id = ISBN 978-4-86647-076-4 | pages = 184-187 }}</ref>。客層はいつもと違い[[ホワイトカラー]]と女性客が圧倒的で、東映本来の客は来ず<ref name="キネ旬19751001"/>、頼みの[[オールナイト]]興行は閑古鳥が鳴いた<ref name="朝日197581" />。監督の佐藤は、公開8月後の1976年3月26日に福岡市で開催された『キネマ旬報読者選出ベスト・テン表彰式』で「題名がどぎつ過ぎたこと、東映のミニチュアに信頼が低かったこと、『[[タワーリング・インフェルノ]]』にぶつかったこと、一般に[[口コミ|クチコミ]]でお客が増えるのは3週目なのに、その3週目に打ち切らざるを得なかったこと、封切り4日前に完成し試写ができなかったこと」を挙げ<ref name="キネ旬19760502"/>、後年のインタビューでは「あの当時の新幹線ってやはり華やかなもので日本人は誇りを持っていたから、それを爆破しようとする映画は見たくないという気持ちになったかもしれない」と述べた<ref name="憤怒の河を渉れ184"/>。脚本の小野竜之助は「ミニチュアを使った特撮を東映が大々的に宣伝し、[[トリック]]だとネタばらししたのがまずかった<ref name="シナリオ20152100">{{Cite journal | 和書| author = | year = 2015 | month = 2 | title = | chapter = 小野竜之助『新幹線大爆破』は一大フィクション | journal = 月刊シナリオ | publisher = [[日本シナリオ作家協会]] | pages = 100-103 | issn = }}</ref>」「アイドル映画とくっつけないで、一本立てにしていたら結果は違った<ref name="asagei31504" />」などと話し、[[黒井和男]]も同様に「ミニチュアを派手に使って宣伝したポイントのズレが足を引っ張ったと思う」とのコメントを残している<ref name="キネ旬197510-2" />。『映画時報』は「正月あたりに出していれば大成功したと思う。しかし見方によれば東映でもこんな特撮を含めて映画が出来るということを天下に証明したわけで、これは東映のイメージアップに大変効果のあった映画だと思う」などと評している<ref name="映画時報196908">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界東西南北談議企画製作にもっと自信をもて下半期の見通しも苦難の道か?|journal = 映画時報 |issue = 1969年8月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 34 }}</ref>。アメリカのパニック映画の国内進出を受けて立つという製作意図であったが<ref name="キネ旬19758-2-162デイリー19750513" /><ref name="キネ旬19758-2-162"/><ref>「映画・トピック・ジャーナル」東映・岡田社長が自ら陣頭指揮に 『キネマ旬報』1975年10月上旬号、218 - 219頁。</ref>、同時期公開された『[[タワーリング・インフェルノ]]』の[[県庁所在地|全国県庁所在地]]では全部2館以上上映、総数180館という前代未聞の拡大方式<ref name="週刊現代19750731"/> による攻勢により<ref name="キネ旬19758-2-168" />、本作も含めて[[東宝]]の『[[動脈列島]]』、[[松竹]]の『おれの行く道』などの日本映画は観客を持っていかれ<ref name="朝日197581" /><ref name="週刊読売19750809">{{Cite journal |和書 | volume = 1975年8月9日号 |title = 洋画は意気揚々!ホウホウの体の邦画 |author = | journal = 週刊読売 |publisher = 読売新聞社 |pages = 31 }}</ref>、『タワーリング・インフェルノ』は、それまでの『[[エクソシスト]]』27億円の2倍以上に当たる<ref name="週刊現代19750731"/> 当時史上最高の[[興行収入]]を記録した(62億円)<ref name="週刊現代19750731"/><ref>{{Cite book | 和書 | title = 日本映画1976:1975年公開日本映画全集 | series = シネアルバム46 | author = [[佐藤忠男]]・[[山根貞男]] | publisher = [[芳賀書店]] | year = 1976 |pages = 190 - 191 | id = }}</ref><ref>[http://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/ 歴代ランキング - CINEMAランキング通信]</ref>。『新幹線大爆破』は興収10億円を目標としていたが<ref name="週刊読売19750809"/>、製作費が高かったため、国内興行では1億円<ref name="週刊読売19761113"/>、約2億円<ref name="週刊映画19751108"/>、2億円の[[黒字と赤字|赤字]]を出し<ref name="週刊現代19751225">{{Cite journal |和書 | volume = 1975年12月25日号 |title = オイルダラーを狙った(?)東映の胸算用 |author = |journal = 週刊現代 |publisher = 講談社 |pages = 37 }}</ref>、「大金を投じて開発した新路線の第一弾が大脱線」などと揶揄され<ref>{{Cite journal |和書 | volume = 1975年9月4日号 |title = ヤクザ路線の消長 |author = | journal = 週刊新潮 |publisher = 新潮社 |pages = 13 }}</ref>。公開初日に[[新宿三丁目イーストビル#新宿東映会館|新宿東映]]で立ち合いをしていた坂上順プロデューサーに全国から届くのは不入り情報ばかりで<ref name="nikkei121107"/>、「私のプロデューサー生命も3年で終わりか」と覚悟した<ref name="nikkei121107"/>。岡田社長は「[[駄菓子屋]]がいい[[洋菓子]]を作って、作った本人が『これは美味しい。素晴らしい』と言って店頭に飾ったら、誰も買わなかった。一生懸命広告したけど、お客の方が駄菓子屋で洋菓子を売ってると思ってなかった」<ref name="映画時報197508"/>「意欲の面、作品的な面でも100点満点で、観客も新しい層を獲得したが、プラス・アルファ―だけの客しか来ず、本来の観客を逃す結果になった」<ref name="映画時報197508"/>「もう大作はこりごり」<ref name="週刊読売19761113"/>「もう東映ファンに嫌われる企画は出さない」<ref name="キネ旬19750901">{{Cite journal|和書 |author = 井沢淳・高橋英一・鳥畑圭作・土橋寿男・嶋地孝麿 |title = 映画・トピック・ジャーナル 『邦画各社のラインナップ揃ったが』 |journal = キネマ旬報 |issue = 1975年9月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 162 - 163 }}</ref>「本来の東映ファンを大事にしないと駄目だ」<ref name="映画時報196909">{{Cite journal|和書 |author = |title = 映画界東西南北談議巻きかえしを計る邦画陣邦・洋逆転に各社奮起の企画|journal = 映画時報 |issue = 1969年9月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 33 }}</ref> などと、敷いたばかりの大作路線からの撤退を表明した<ref name="週刊読売19761113"/><ref name="キネ旬19750901"/><ref>{{Cite news |author = |title = 芸能ファイル |date = 1975年8月14日 |newspaper = サンケイスポーツ |publisher = 産業経済新聞社 |page = 13 }}</ref><ref>{{cite journal|和書|title=新ライバル 『増村保造と佐藤純弥』|journal=[[映画芸術]]|issue=1975年10~11月号 No307|publisher=編集プロダクション映芸|pages=53}}</ref>。本作公開の後、岡田企画だった『[[実録三億円事件 時効成立]]』の打ち合わせで<ref name="東映sa62sa66"/>、岡田宅を訪れた坂上に岡田は「『新幹線大爆破』は俺の売り方が悪かった」と謝ったという<ref name="東映sa62sa66"/>。『映画年鑑』は「東映の『新幹線大爆破』は日本人の新幹線感覚、日本のパニック映画としては物足りないものであった。後に[[エリザベス2世|エリザベス女王]]の来日中のこれに対する関心、さらに海外での受入れ方に注目すべきこととなった。当時パニック映画を東宝と競作は己むを得ないことではあったが歓迎に値するものではなかった。[[広島抗争]]の[[実録シリーズ#実録路線|ドキュメント・アクション]]の[[マンネリ]]化、換言すれば新しい企画の不足で転換を計った『トラック野郎…』は成功した。その一方アクの強いアクションものは後退の気運を醸しだした。"不良性感度"から"善良性感度"への移行と、一大転換を計ったがこれは失敗し、再び"不良性感度"へ逆行となった」と評した<ref>{{cite journal |和書 |title =映画業界動向 |journal = 映画年鑑 1977年版([[映画産業団体連合会]]協賛) |issue = 1976年12月1日発行 |publisher = 時事映画通信社 |pages = 54 }}</ref>。
==== 評価・反響 ====
一方、『キネマ旬報』の読者選出ではベストワンに選ばれるなど<ref name="キネ旬197612-2">リバイバル時の映画チラシ 『キネマ旬報』1976年12月下旬号、38頁。</ref>、観た人は面白さを評価し<ref name="シナリオ201410"/>、作品の評価そのものは非常に高かったために<ref name="キネ旬19758-2-162">「映画・トピック・ジャーナル」東映意欲作「新幹線映大爆破」苦戦す、『キネマ旬報』1975年8月下旬号、162 - 163頁。</ref><ref name="キネ旬197510-2">[[黒井和男]]「指定席<small>96</small>「新幹線映大爆破」と日本映画『キネマ旬報』1975年10月下旬号、189頁。</ref> マスメディアで様々な敗因の考察がなされた<ref name="朝日197581" /><ref name="キネ旬19758-2-162" />。東映営業部では「映画の内容がハイブローすぎてヤクザ映画とポルノが好みの東映ファンにソッポを向かれた」<ref name="朝日197581" /><ref name="キネ旬19758-2-168">「ヒット・Hit」『キネマ旬報』1975年8月下旬号、168頁。</ref>「題材がリアル過ぎた」などと分析<ref name="憤怒の河を渉れ184">{{Cite book | 和書 | author = 佐藤純彌著 聞き手・野村正昭・増當竜也 | title = 映画監督 佐藤純彌 映画よ憤怒の河を渉れ | publisher = DU BOOKS/ディスクユニオン | year = 2018 | id = ISBN 978-4-86647-076-4 | pages = 184-187 }}</ref>。客層はいつもと違い[[ホワイトカラー]]と女性客が圧倒的で、東映本来の客は来ず<ref name="キネ旬19751001"/>、頼みの[[オールナイト]]興行は閑古鳥が鳴いた<ref name="朝日197581" />。監督の佐藤は、公開8ヶ月後の1976年3月26日に福岡市で開催された『キネマ旬報読者選出ベスト・テン表彰式』で「題名がどぎつ過ぎたこと、東映のミニチュアに信頼が低かったこと、『[[タワーリング・インフェルノ]]』にぶつかったこと、一般に[[口コミ|クチコミ]]でお客が増えるのは三週目なのに、その三週目に打ち切らざるを得なかったこと、封切り4日前に完成し試写ができなかったこと」を挙げ<ref name="キネ旬19760502"/>、後年のインタビューでは「あの当時の新幹線ってやはり華やかなもので日本人は誇りを持っていたから、それを爆破しようとする映画は見たくないという気持ちになったかもしれない」と述べた<ref name="憤怒の河を渉れ184"/>。脚本の小野竜之助は「ミニチュアを使った特撮を東映が大々的に宣伝し、[[トリック]]だとネタばらししたのがまずかった<ref name="シナリオ20152100">{{Cite journal | 和書| author = | year = 2015 | month = 2 | title = | chapter = 小野竜之助『新幹線大爆破』は一大フィクション | journal = 月刊シナリオ | publisher = [[日本シナリオ作家協会]] | pages = 100-103 | issn = }}</ref>」「アイドル映画とくっつけないで、一本立てにしていたら結果は違った<ref name="asagei31504" />」などと話し、[[黒井和男]]も同様に「ミニチュアを派手に使って宣伝したポイントのズレが足を引っ張ったと思う」とのコメントを残している<ref name="キネ旬197510-2" />。アメリカのパニック映画の国内進出を受けて立つという製作意図であったが<ref name="キネ旬19758-2-162" /><ref name="キネ旬19758-2-162"/><ref>「映画・トピック・ジャーナル」東映・岡田社長が自ら陣頭指揮に 『キネマ旬報』1975年10月上旬号、218 - 219頁。</ref>、同時期公開された『[[タワーリング・インフェルノ]]』の[[県庁所在地|全国県庁所在地]]では全部二館以上上映、総数180館という前代未聞の拡大方式<ref name="週刊現代19750731"/> による攻勢により<ref name="キネ旬19758-2-168" />、本作も含めて[[東宝]]の『[[動脈列島]]』、[[松竹]]の『おれの行く道』などの日本映画は観客を持っていかれ<ref name="朝日197581" />、『タワーリング・インフェルノ』は、それまでの『[[エクソシスト]]』27億円の二倍以上に当たる<ref name="週刊現代19750731"/> 当時史上最高の[[興行収入]]を記録した(62億円)<ref name="週刊現代19750731"/><ref>{{Cite book | 和書 | title = 日本映画1976:1975年公開日本映画全集 | series = シネアルバム46 | author = [[佐藤忠男]]・[[山根貞男]] | publisher = [[芳賀書店]] | year = 1976 |pages = 190 - 191 | id = }}</ref><ref>[http://www.kogyotsushin.com/archives/alltime/ 歴代ランキング - CINEMAランキング通信]</ref>。『新幹線大爆破』は製作費が高かったため、国内興行では1億円<ref name="週刊読売19761113"/>、約二億円<ref name="週刊映画19751108"/>、二億円の[[黒字と赤字|赤字]]を出し<ref name="週刊現代19751225">{{Cite journal |和書 | volume = 1975年12月25日号 |title = オイルダラーを狙った(?)東映の胸算用 |author = |journal = 週刊現代 |publisher = 講談社 |pages = 37 }}</ref>、「大金を投じて開発した新路線の第一弾が大脱線」などと揶揄され<ref>{{Cite journal |和書 | volume = 1975年9月4日号 |title = ヤクザ路線の消長 |author = | journal = 週刊新潮 |publisher = 新潮社 |pages = 13 }}</ref>、岡田社長は「もう大作はこりごり」<ref name="週刊読売19761113"/>「もう東映ファンに嫌われる企画は出さない」<ref name="キネ旬19750901">{{Cite journal|和書 |author = 井沢淳・高橋英一・鳥畑圭作・土橋寿男・嶋地孝麿 |title = 映画・トピック・ジャーナル 『邦画各社のラインナップ揃ったが』 |journal = キネマ旬報 |issue = 1975年9月上旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 162 - 163 }}</ref> などと、敷いたばかりの大作路線からの撤退を表明した<ref name="週刊読売19761113"/><ref name="キネ旬19750901"/><ref>{{Cite news |author = |title = 芸能ファイル |date = 1975年8月14日 |newspaper = サンケイスポーツ |publisher = 産業経済新聞社 |page = 13 }}</ref><ref>{{cite journal|和書|title=新ライバル 『増村保造と佐藤純弥』|journal=[[映画芸術]]|issue=1975年10~11月号 No307|publisher=編集プロダクション映芸|pages=53}}</ref>。本作公開の後、岡田企画だった『[[実録三億円事件 時効成立]]』の打ち合わせで<ref name="東映sa62"/>、岡田宅を訪れた坂上に岡田は「『新幹線大爆破』は俺の売り方が悪かった」と謝ったという<ref name="東映sa62"/>。
 
[[1975年の日本公開映画|1975年度]][[キネマ旬報ベストテン]]第7位、読者選出第1位<ref>{{cite book|和書 |title=キネマ旬報ベスト・テン全史: 1946-2002|year=2003|publisher=キネマ旬報社|page=200-206 |isbn=4-87376-595-1}}</ref>。1975年は和製パニック映画『新幹線大爆破』『[[東京湾炎上]]』『動脈列島』が封切られ、キネマ旬報は、他2作は惨敗、唯一『新幹線大爆破』が及第点だったと評価している<ref>{{cite book|和書 |title=キネマ旬報ベスト・テン全史: 1946-2002|year=2003|publisher=キネマ旬報社|page=206 |isbn=4-87376-595-1}}</ref>。[[1978年]][[4月24日]]に『[[月曜ロードショー]]』([[Japan News Network|TBS系]])で最初のテレビ放映があり<ref name="東映sa26" />、[[1980年代]]以降、同作品の[[レンタルビデオ|ビデオレンタル]]や[[テレビ]]放送がされるにつれ、劇場公開に間に合わなかった若い世代が本作に熱狂し<ref name="東映sa26" />、日本でも徐々に再評価されるようになった。
 
==== 鉄道ジャーナル1975年10月号による批判 ====
本作は[[ドキュメンタリー]]でも[[教育映画]]でもなく、娯楽映画、[[フィクション]]であるため、自由な発想で作っても何ら問題なく、本来正確性を追求される筋合いのものではないが、『[[鉄道ジャーナル]]』1975年10月号<ref group="注釈">1975年10月号だと発売は8月か9月と見られる。また記事中『製作費5億円と宣伝して強気の商売に出た。さてその審判は…?」「上映半月後の朝日新聞は東映『新幹線大爆破』・東宝『東京湾炎上』の二大パニック映画、ともに不入りで惨々な成績、関係者はこの後の企画を根本から考え直す必要に迫られている」と書かれているため、編集時期は映画公開中と見られる。</ref> が、設定や鉄道の設備関係の扱いに誤りが多すぎると酷評した<ref name="kanaloco20140407"/><ref name="鉄道ジャーナル197510"/>。5ページに渡る批判のうち、1割程度「娯楽映画としてはよく出来ているが」と評して「作品としてはなかなかの力作、製作費5億円余円はちょっとオーバーで、それにしてはチャチだが、国鉄の協力なしに作った鉄道映画としてはよくできている。スジの展開やスリル、画面には満足した人も多かったようだ。取材した人すべてが、鉄道と映画の専門家、レールファンを含めて異口同音に『なかなかよくできた面白い映画だ』と言っている。ただし、最近の日本映画としては、国鉄の協力なしに自力で作ったにしては…の条件付きではあるが。『よくできていますよ。国鉄のPR映画にしてもいいくらいレールファンにもお薦めできます』(嶋地孝麿『蒸気機関車』編集長)」などと褒めている<ref name="鉄道ジャーナル197510"/>。
 
しかし残り大半は同誌編集長・[[竹島紀元]]が「国鉄は協力してないから盗み撮りは法に触れる。道義上許せないこと。マネする人が出るだろうし、困ったこと」などと話し、これが編集方針となったようで、[[神奈川新聞]]が指摘するように新幹線を極端に擁護する批判記事を掲載した<ref name="kanaloco20140407"/><ref name="鉄道ジャーナル197510"/>。主な批判は以下の通り。
 
一方上映直後、鉄道雑誌に設定や鉄道の設備関係の扱いに誤りが多すぎると、酷評された<ref>[[鉄道ジャーナル]]1975年10月号 「新幹線大爆破」を斬る P95~99</ref>。
#総合指令所の列車位置を表示する大型路線図の左右が逆
#先行のひかり号の故障のシーンで、大型路線図内の位置表示の点滅が赤色になる機能はない
#浜松駅で上りひかり20号通過直後の切替えポイントを遠隔操作で切替えるが、列車が転轍機手前9キロ9km以内に入ると「列車接近鎖錠」により遠隔操作できなくなり、通過後も9キロ9km以上離れるまでは「列車通過鎖錠」によって遠隔操作を受け付けないので、あの時点で上り線には入れず先行のひかり号に衝突してしまう
#上り線を逆に走るときは、「伸縮継目を逆に走る場合の速度制限70キロ70km/h」によってブレーキが掛かり、爆発する
#各駅や地点の通過時間を東京-博多間の距離を(運賃・料金計算に使用する)営業キロで計算して算出している。実キロ(実際の距離のこと)は100キロ100km以上短い<ref group="注釈">東海道・山陽新幹線の実際の距離と営業キロの事情については[[新幹線運賃差額返還訴訟]]も参照。</ref> ので、実際におきたら1時間以上前に博多について爆発してしまっている<ref name="kanaloco20140407"/><ref name="鉄道ジャーナル197510"/>
 
=== 世界各国 ===
==== 公開後の反響 ====
岡田社長は1973年頃からカラテ映画の海外輸出を切っ掛けに<ref name="映画時報197702">{{Cite journal|和書 |author = 福中脩東映国際部長|title = 年間二百万ドルを目標の海外輸出『恐竜・怪鳥の伝説』は五〇万ドルの事前セールス|journal = 映画時報 |issue = 1977年2月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 12-13 }}</ref>「輸出映画を作って稼いでいかなければならない」と東映国際部に東映作品の海外セールスを積極的に行うよう指示を出していた<ref name="映画時報197702"/>。自らも諸外国を歩き回り東映作品の海外セールスに励んだ<ref name="映画時報197911">{{Cite journal|和書 |author = 岡田茂(東映代表取締役社長)、聞く人・北浦馨 |title = 岡田茂東映社長大いに語る『日本映画の海外上陸作戦全世界がわれわれの市場・新しい活動屋の出現に期待』|journal = 映画時報 |issue = 1979年11月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 4-12 }}</ref>。岡田が『新幹線大爆破』の海外での売約を成立させたのは、本作日本公開前の1975年6月12~15日に[[インドネシア]]・[[ジャカルタ]]で開かれた第21回[[アジア太平洋映画祭|アジア映画祭]]で<ref name="映画時報197506_34"/><ref name="映画時報197506">{{Cite journal|和書 |author = |title = 東映作品、東南アジア地域でブームに |journal = 映画時報 |issue = 1975年6月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 19 }}</ref><ref>{{cite journal |和書 |author = 美浜勝久 |journal = ロードショー |issue = 1975年9月号 |title = 邦画マンスリー アジア映画祭でモテモテの人気 志穂美悦子 |publisher = 集英社 |pages = 222 }}</ref><ref name="週刊平凡19760122">{{cite journal |和書 |author = |journal = [[週刊平凡]] |issue = 1976年1月22日号 |title =海外で人気急上昇の志穂美悦子『殺人拳への道』はインドネシアと合作で |publisher = [[マガジンハウス|平凡出版]] |pages = 102 }}</ref>、団長として連れて行った志穂美悦子の当地での異様な人気の勢いで<ref name="映画時報197506"/><ref>[https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20161021/enn1610211550006-n2.htm 【今だから明かす あの映画のウラ舞台】女優編(中) 海外でも評価が高かった志穂美悦子のアクション (2/2ページ)]{{cite journal |和書 |author = 美浜勝久 |journal = [[ロードショー (雑誌)|ロードショー]] |issue = 1976年7月号 |title = 邦画マンスリー ニューヨークでも『女必殺拳』公開 志穂美悦子、ソ連の映画祭に招待さる! |publisher = [[集英社]] |pages = 171 }}{{cite journal |和書 |author = |journal = 週刊明星 |issue = 1975年7月6号 |title = 志穂美悦子がカラ手男集団に襲撃され、危機一髪!深夜のジャカルタであわや... |publisher = 集英社 |pages = 52 - 53 }}</ref>『新幹線大爆破』も売れた<ref name="映画時報197506"/>。この滞在中に岡田は『新幹線大爆破』以外に『[[けんか空手 極真拳]]』などを売った{{#tag:ref |他に『[[仮面ライダーシリーズ|仮面ライダー]]』『[[イナズマン]]』『[[人造人間キカイダー|キカイダー]]』『[[バロム・1#特撮テレビドラマ『超人バロム・1』|超人バロム・1]]』の[[テレビ番組|テレビ版]]を輸出契約した<ref name="映画時報197506"/>。|group = "注釈" |name = "海外セールス"}}。
 
国内公開終了後の秋に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[ジャーナリスト]]を集めて[[試写会|試写]]を行うと高い評判を呼び、「通俗娯楽映画として水準を抜いたできばえ」「久しぶりの日本映画」などの評価を受けた<ref name="キネ旬197510-2"/>。特にアメリカの業界誌『[[バラエティ (アメリカ合衆国の雑誌)|バラエティ]]』で高く評価されたこと<ref name="週刊映画19750913">{{Cite news |title = 邦画界 |date = 1975年9月13日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 2 }}</ref>、日本の新幹線が世界的に有名なことから、世界各国から注文が入り、1975年9月初めの時点で15万ドル以上の輸出契約が結ばれた<ref name="週刊映画19750913"/>。
 
1975年10月のミラノ国際見本市(MIFED)「日本映画見本市」に出品すると<ref name="週刊現代19751225"/>、各国から更に買い付けのオーダーが入ってきた<ref name="東映の軌跡"/><ref name="キネ旬197612-2" /><ref name="週刊現代19751225"/><ref name="東映sa70" />。これに気を良くした岡田社長は「新幹線大爆破応援団長」として、世界の映画祭に直接乗り込みアピール<ref name="東映sa70" />。[[香港]]の日本映画[[見本市]]や第4回テヘラン映画祭(1975年11月26日~12月7日)<ref name="シナリオ20152100"/><ref>{{Cite news |title = テヘラン映画祭に『新幹線』 |date = 1975年9月13日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 2 }}</ref><ref name="映画時報197601">{{Cite journal |和書 |author = |title = 盛大だった四回テヘラン国際映画祭全世界からの参加で活気あふれる文・ムービー・TV・マーケッティング・渡辺洪十二|journal = 映画時報 |issue = 1976年1月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 29-31 }}</ref>、第4回タシケント国際映画祭(1976年5月19日~5月29日)<ref>{{Cite journal |和書 |author = |title = タシケント映画祭に岡田茂、徳間康快氏映連、四月定例理事会の報告、承認事項|journal = 映画時報 |issue = 1976年4月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 26 }}{{Cite journal |和書 |author = |title = 映画界東西南北談議夏場攻勢に智恵をしぼる各社工夫をこらした番組でお盆興行展開  |journal = 映画時報 |issue = 1976年6月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 33 }}</ref><ref name="キネ旬19767ss">映画界の動き」ソ連・タシケント映画祭報告、『キネマ旬報』1976年7月夏の特別号、201頁。</ref><ref>[http://hac-komori.seesaa.net/archives/201001-1.html 私的、広島と映画とアニメーション論10]</ref>、第22回[[アジア太平洋映画祭|アジア映画祭]]([[韓国]][[釜山]]、1976年6月1日~17日)<ref>{{Cite news |title = 第二十二回アジア映画祭了る今後の運営に宿題多々あり |date = 1976年6月26日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref> マニラ日本映画見本市(映画祭)([[フィリピン]][[ケソン市|ケソン]]、1977年3月21日~24日)<ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = マニラ『日本映画見本市』大成功岡田茂団長、反日感情皆無と報告|journal = 映画時報 |issue = 1977年3月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 26 }}</ref> など海外市場に積極的に売り込みを図った<ref name="クロニクル"/><ref name="東映sa70" />。日本映画はそれまで海外でいくつも賞を獲ったが、商売上は0だった<ref name="キネ旬19767ss映画時報197911"/>。また東画界の動き」ソ連・タ作品は1960年代まで[[東映アニメー|動画]]は売れていたが<ref name="映画告、『キネマ旬196607">{{Cite journal|和書 |author = |title = 配給海外市場の拡大化に期待|journal = 映画時』1976 |issue = 1966年7月夏の特別、201頁。 |publisher = 映画時報社 |pages = 25 }}</ref>、劇映画はほとんど売れていなかった<ref name="映画時報196607"/>。1975年11月~12月のテヘラン映画祭では、コンベンションとは別に各国[http:[バイヤー]]を集めたフィルム・マーケットがあり、世界各国150本以上の長編の試写に火の出る取り引きが行われ、中でも『新幹線大爆破』は各国バイヤー人気が集中し<ref name="映画時報197601"/>、地元[[イラン]]や[[南アフリカ]]などへの輸出が決まった<ref name="映画時報197601"/hac-komori.seesaa.net>。上映では[[チャードル]]を被ったイランの中年女性たちが「日本の国に本当に時速210キロもスピードが出る電車が走っているのか?」と半信半疑で観ていたという<ref name="映画時報197601"/archives/201001-1.html>。上映で舞台挨拶に立った坂上と小野は「外国部で商売用に30分ぐらい短くしたのが気に入らない。とても観ていられない」と話していたが<ref 私的name="映画時報197601"/>広島[[ドイツ]]のバイヤーは「まだ長い。あ30分短くする」と言っていたという<ref name="映画時報197601"/>。[[モスクワ国際映画祭|モスクワ映画祭]]アニメー論10ト映画祭は当時は一年ごとに交互に行われ、[[東ヨーロッパ|東欧圏]]の国が全て参加する[[カンヌ国際映画祭|カンヌ]]やミラノに匹敵する大きな映画市があり<ref name="映画時報197911"/>、岡田は毎年これに参加し東映作品を売った<ref name="映画時報197911"/>。1976年2月にイタリア・[[ローマ]]で開催された日本映画見本市では、代表団団長特権を利用し、オープニング上映を『[[同胞 (映画)|同胞]]』から『新幹線大爆破』に変更した<ref name="週刊映画19760313">{{Cite news |title = ローマの日本映画見本市の代表団岡田東映社長帰国談 |date = 1976年3月13日 |newspaper = 週刊映画ニュース |publisher = 全国映画館新聞社 |page = 1 }}</ref>。[[アラブ諸国]]では空手映画がヒットした実績があり<ref name="週刊現代19751225"/>、[[オイルマネー|オイルダラー]]を期待した<ref name="週刊現代19751225"/>。東映は既に千葉真一主演の格闘アクション映画やアニメ作品をアメリカやアジア市場に売り込み成功を収めていたが、本作の出品は取引の少なかったヨーロッパ、中東、ソ連やメキシコから注文が入った<ref name="東映sa70" />。派手好きな欧米人に受け入れられ<ref name="東映sa70" />、特撮では[[ミニチュア撮影|ミニチュア]]を使用した撮影と思われない評価をされている<ref name="キネ旬197510-2"/><ref name="東映sa70"/>。
 
[[アラブ諸国]]では空手映画がヒットした実績があり<ref name="週刊現代19751225"/>、[[オイルマネー|オイルダラー]]を期待した<ref name="週刊現代19751225"/>。東映は既に千葉真一主演の格闘アクション映画やアニメ作品をアメリカやアジア市場に売り込み成功を収めていたが、本作の出品は取引の少なかったヨーロッパ、中東、ソ連やメキシコから注文が入った<ref name="東映sa70" />。1974年8月に岡田が訪ソした際、[[ソビエト連邦|ソ連]]国家映画委員会副議長(映画省副大臣)と親交を持ち<ref name="映画時報197412">{{Cite journal|和書 |author = |title = 東映、ソ連映画界との全面提携へ岡田=アレクサンドロフ両氏会談で合意|journal = 映画時報 |issue = 1974年12月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 19 }}</ref>、アレクサンドロフ一行が1974年11月に来日して岡田と交渉を持ったことから、ソ連は東映のカラテ映画を欲しがり<ref name="映画時報197412"/>、東映と密接なコンタクトを持つことで合意していた<ref name="映画時報197412"/>。本作は派手好きな欧米人に受け入れられ<ref name="東映sa70" />、特撮では[[ミニチュア撮影|ミニチュア]]を使用した撮影と思われない評価をされている<ref name="キネ旬197510-2"/><ref name="東映sa70"/>。
 
==== 海外版編集 ====
[[フランス]]に駐在していた東映国際部部長・杉山義彦は、公開直後に岡田社長に突然呼ばれ<ref name="東映の軌跡"/>、海外で売るように指示を受けた<ref name="東映の軌跡"/><!---社史の杉山証言を優先しました フランスに駐在していた東映国際部部長・杉山の「外国のほうが売れる」という具申から<ref name="東映sa46" />--->。岡田社長から「海外版を編集せよ」と指示を受けた杉山は<ref name="東映の軌跡"/>、助監督時代に佐藤監督から若干の指導を受けただけのほぼ素人ながら<ref name="東映の軌跡"/>、佐藤に了承を取り付け「佐藤監督を差し置いて僭越ながら」海外版の編集を行った<ref name="東映の軌跡"/>。佐藤は「海外版に関しては、僕はノータッチ」と述べているが<ref name="憤怒の河を渉れ187"/>、杉山は「倉持指令室長が運転手に指令を出すシーンで、列車制御について、織烈な応酬が繰り返される場面は絶対に残して欲しい。それ以外は好きに編集していいと言われた」と述べている<ref name="東映の軌跡"/>。
 
海外版では主演の表記を[[千葉真一|サニー千葉(千葉真一)]]に変更しており、これは千葉のほうが[[高倉健]]より海外では知名度が高いためである<ref name="東映sa70">植地毅「新幹線、海を越える ~海外版『新幹線大爆破』の世界~」『東映スピード・アクション浪漫アルバム』、70-71頁。</ref>。日本のスターが集結した超大作というよりも、アクションスターである千葉[[主演]]の[[パニック映画]]として封切りされていった<ref name="トラック浪漫" /><ref name="東映sa70" />。英語圏では『''{{en|The Bullet Train}}'' 』にて115分<ref name="シナリオ20152100" />、[[フランス]]で『''Super Express 109'' 』もしくは『''{{en|Crisis Express 109}}'' 』にて100分でそれぞれ公開されている<ref name="クロニクル"/>。海外版では犯人側のドラマをカットしたおかげでテンポがとてもよくなり、次々襲いかかる危機と息をつかせぬ展開となった<ref name="東映sa70" />。フランス語版でも上映時間を2/3の102分に短縮して犯人側のドラマをカットしており<ref name="キネ旬197612-2" />、高倉や[[山本圭]]は単なる[[テロリスト]]として扱われた<ref name="東映sa70" />。鈴木常承東映取締役兼[[東映洋画]]部長は、1976年8月のインタビューで「洋画の最近の大ヒットしている写真を見たって、2時間が限度。『[[ジョーズ]]』だって2時間でその中に濃縮しているわけです。それで金の掛け方は日本映画の何十倍ですから。『新幹線大爆破』なんて、予算も大してかけてないものが2時間何十分になってる。もっと縮めて中身を濃くしないといけないです」と話していた<ref name="映画時報197608">{{Cite journal|和書 |author = 鈴木常承(東映取締役・営業部長兼洋画部長)・畑種治郎(東映・興行部長)・[[登石雋一]](東映取締役・企画製作部長)・池田静雄(東映取締役・宣伝部長)、司会・北浦馨 |title = 百億を目前にした東映の頂上作戦近代的な野師精神の徹底化と『日本の首領』ほか大作づらりと並ぶ|journal = 映画時報 |issue = 1976年8月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 12 }}</ref>。
 
特にフランスではそれまで日本映画をマイナー扱いし<ref name="東映sa70" />、アートシアター形式の小劇場でしか上映されなかったという前例を破り<ref name="キネ旬197612-2" />、1976年6月30日から[[パリ]]および近郊の[[ゴーモン]]系劇場17館で一斉公開され<ref name="東映の軌跡"/><ref>{{Cite journal|和書 |author = |title = 東映「新幹線―」パリで好調続く|journal = 映画時報 |issue = 1976年8月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 18 }}</ref>、8週間のロングランヒットを記録<ref name="クロニクル"/><ref name="キネ旬197612-2" />。この時期、フランスは[[バカンス|バカンスシーズン]]に当たるが<ref name="映画撮影197703">{{Cite journal |和書 |author = 大塚光彦 |title = インサイド・キャメラワーク 『新幹線大爆破』パリでの評判 |journal = 映画撮影 |issue = 1977年3月発行 |publisher = 日本映画撮影監督協会 |pages = 6 }}</ref>、この年夏にパリで公開された84本の映画のうち、第4位の興行成績で<ref name="映画撮影197703"/>、外国映画ではこの年[[第29回カンヌ国際映画祭|カンヌ映画祭]]で[[パルム・ドール]]を受賞した『[[タクシードライバー (1976年の映画)|タクシードライバー]]』に次ぐ2位だった<ref>{{Cite journal | 和書| author = | title = シナリオメモランダム | journal = シナリオ |issue = 1976年10月号 | publisher = 日本シナリオ作家協会 | pages = 83 }}</ref>。ヒットの理由は「フランスにも日本の新幹線に触発されて開発中だった[[高速鉄道]]の[[TGV]]があったから」との声もあり<ref name="クロニクル"/><ref name="映画撮影197703"/>、約44万人の動員を記録し<ref name="フランス興行成績" />、100万ドルの[[外貨]]を稼ぎ<ref name="関根260"/>、会社に3億円の収入をもたらしている<ref name="関根260"/>。フランスでの大ヒットを皮切りに世界各国で公開され、続々大ヒットを記録し、多くの国で日本映画の興行記録を更新<ref name="映画時報197609">{{Cite journal|和書 |title = 『新幹線』海外で好調続く |journal = 映画時報 |issue = 1976年9月号 |publisher = 映画時報社 |pages = 19頁 }}</ref>、[[南アフリカ共和国]]では日本映画初の大ヒットとなり<ref name="映画時報197609"/>、同国では[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]のヒット作2~3週興行に対して3週以上続映された<ref name="映画時報197609"/>。[[オーストラリア]]・[[ニュージーランド]]は、[[20世紀スタジオ|20世紀FOX]]の配給でヒット<ref name="映画時報197609"/>。東南アジアは1976年後半からの逐次公開で、千葉真一と志穂美悦子が国民的人気を誇る[[インドネシア]]([[女必殺拳シリーズ#興行2]])では予想通りの大ヒット<ref name="映画時報197609"/>。[[ブルガリア]]では当時、[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]] - [[ブルガス]]間に時速160km/hで走る自慢の超特急を運行していたが<ref name="映画撮影197703"/>、それを遥かに凌ぐスピードの超特急に感心し、それも[[コンピュータ数値制御|コンピューター制御]]にビックリし<ref name="映画撮影197703"/>、観客はドヨメキと拍手、溜息の連続で、映画が終わると観客はグッタリしていたといわれる<ref name="映画撮影197703"/>。当時のヨーロッパの一般の人たちの日本に対する知識はごく僅かであった<ref name="映画撮影197703"/>。他に[[ドイツ]]『''{{en|Panik im Tokio-Express}}'' 』<ref name="東映sa4">{{Cite book | 和書 | title = 東映スピード・アクション浪漫アルバム | chapter = 海外公開ポスター | author = 杉作J太郎・植地毅 | publisher = 徳間書店 | year = 2015 | id = ISBN 978-4-19-864003-3 | page = 4 }}</ref>、他に[[スペイン]]で『''{{en|Panico en el Tokio-Express}}'' 』<ref name="東映sa4" />、[[イラン]]で『''{{en|BOMBA U SUPEREKSPRESU}}'' 』<ref name="東映sa4" /> など、1976年12月の時点で120国で公開されたとされ<ref name="キネ旬197612-2" />、[[ソ連]]および、[[ソ連型社会主義|東欧圏]]の全ての国で公開され<ref name="キネ旬197612-2" />、ソ連では2500万人以上が観たのではといわれ<ref name="週刊読売19761113"/>、100国の[[ポスター]]が存在するといわれる<ref name="sifftalk" />。犯人側と国鉄側ともに労働者に焦点があたっている内容ゆえか、{{要出典範囲|date=2018年10月|東ドイツなど共産圏でも公開され好評を得た。}}
 
1975年から[[1976年]]にかけて輸出された東映作品の中で抜群の売れ行きを見せ<ref name="クロニクル"/>1976年12月18日からは日本で[[フランス語]]吹き替え版が凱旋公開された<ref name="クロニクル"/><ref name="東映の軌跡"/><ref name="キネ旬197612-2" />。日本において不入り映画が再上映されるのは珍しい事例といわれる<ref name="東映sa26" />。
 
[[佐藤純彌]]は海外版の大ヒットに複雑な思いがあり、フランス語版のテレビ放送を見た知人から「面白かったよ」という電話に対し、「本当はもっと面白かったんだ」と言い返していた<ref>季刊映画宝庫「日本映画が好き」[[芳賀書店]]</ref>。1975年の[[ロンドン映画祭]]のみ、日本版が英語字幕で上映され、「ベスト・アウトスタンディング・フィルム・オブ・ザ・イヤー(特別賞)」を受賞している<ref name="sifftalk" /><ref name="東映sa70" />。
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1975年3月時点での脚本では、乗客に[[甲子園球場|甲子園]]遠征に向かう[[長嶋茂雄|長嶋監督]]ら[[読売ジャイアンツ|巨人ナイン]]、[[本場所#名古屋場所|名古屋場所]]へ向かう[[北の湖敏満|北の湖]]、人気歌手の[[西城秀樹]]も乗り合わせたという設定だった<ref name="キネ旬19753-2-169"/>。
 
当時市販された映画の台本集{{full|date=2020-05}}には、浜松の故障車発生での上り線移動のシーンの次に岐阜羽島付近の変電所のトラブルで送電が停止してしまってひかり0109109号も速度が落ち始めるシーンが入っていたが、公開された映画ではカットされていた(故障が直らないので電気指令長が係員に隣接の変電所から緊急送電させろと指示するが、トラブルの影響でその変電所からも送電は出来ないといわれ、更にその隣から緊急送電させろと指示し、その2つ隣の変電所からの緊急送電に成功したおかげでギリギリで送電が再開されて九死に一生を得るというような内容だった)。
 
== 後日談 ==
前述のように新幹線車内や司令室にたくさん金をかけて製作したため、封切り前から「たった一作きりでバラすのはもったいない」と、これらセットを使った映画の次回作製作がほぼ決定していて、その作品は、[[森村誠一]]原作の『新幹線殺人事件』だった<ref name="キネ旬19761s">{{Cite journal | 和書 | author = | date = 1976年正月特別号 | title = アングル76' 幻の映画を追って | journal = キネマ旬報 | pages = 166-167 }}</ref>。これは当時日本で[[イギリスの映画|イギリス映画]]の『[[オリエント急行殺人事件 (1974年の映画)|オリエント急行殺人事件]]』がヒットしていた影響があった<ref name="キネ旬19761s"/>。『新幹線大爆破』の封切り前日までこの製作を予定していたが『新幹線大爆破』が不振だったため中止となった。結局『新幹線殺人事件』は東映が[[テレビ朝日]]/[[朝日放送テレビ|朝日放送]]と共同製作した『[[土曜ワイド劇場]]』の第3回として1977年7月16日に放送されたが『新幹線大爆破』のセットを使用したかは不明<ref name="キネ旬19761s"/>。
 
2014年の報道では、東映に『新幹線大爆破』の状態のいいフィルムは1本しかないという<ref>{{Cite news|url=https://www.sankei.com/region/news/141206/rgn1412060012-n1.html|title=新幹線大爆破」上映延期 高倉さん死去で東映バタバタ 秋田|newspaper=[[産経新聞]]|date=2014-12-06|accessdate=2020-05-03}}</ref>。
392 ⟶ 403行目:
同チャンネルにて、2019年2月18日に佐藤純彌監督の追悼放送として、'''『新幹線大爆破 4Kレストア版』'''が放送された。
 
同チャンネルにて、2020年2月に一周忌メモリアル【佐藤純彌監督特集】として『新幹線大爆破』『男たちの大和/YAMATO』など超大作を放送された。<ref>[https://www.toei.co.jp/release/satellite/1216358_969.html 東映チャンネル 公式サイト]</ref>。
 
== 小説版 ==
1975年に[[勁文社]]より[[佐藤純彌|佐藤純弥]]・小野竜之助共著『新幹線大爆破』が刊行された。
 
当時、フランスでも[[ノベライズ]]が発売された<ref name="憤怒の河を渉れ191"/>。また、イギリスのミステリー小説家ジョゼフ・ランス(本名:{{仮リンク|トレヴァー・ホイル|en|Trevor Hoyle}})によるノベライズ版『''Bullet Train'' 』が、1980年にイギリスで<ref name="ddnavi140130"/>、1981年にアメリカで出版<ref name="論創社" />、1992年に7国語<ref name="クロニクル"/>、2002年時点では16国で翻訳出版されているという<ref name="sifftalk"/><ref name="憤怒の河を渉れ191"/>。訳書は2010年に、イギリス版を元にアメリカの作家が書いたものが<ref name="憤怒の河を渉れ191"/>、論創社で翻訳刊行([[論創海外ミステリ]]版、加藤阿礼・駒月雅子訳)された<ref name="ddnavi140130"/><ref>[http://ronso.co.jp/book/ 新幹線大爆破 翻訳版 2010年7月23日] - 論創社</ref>。
 
== 映像ソフト ==
ビデオソフト黎明期からソフト化が行われており、1981年には[[東映ビデオ|東映芸能ビデオ]]から2巻組の全長版VHSが8万5000円で、60分に短縮されたバージョンが2万4800円で発売されていた<ref>「ビデオコレクション1982」1981年、東京ニュース通信社、「週刊TVガイド」臨時増刊12月2日号</ref>。1983年8月16日にシネスコ版のビデオが発売され、その後1998年5月21日に再発売された。
 
[[1999年]](平成11年)7月21日に東映ビデオより2枚組[[レーザーディスク]]が発売された<ref>{{Cite book|和書|date = 2000-04-20|title = 宇宙船YEAR BOOK 2000|series = [[宇宙船 (雑誌)|宇宙船]]別冊|publisher = [[朝日ソノラマ]] |page = 63 |chapter = '99TV・映画 特撮DVD・LD・ビデオ&CD |id = 雑誌コード:01844-04}}</ref>。東映プロデューサーの坂上順が、本作と1999年(平成11年)公開の[[鉄道員 (小説)#映画|鉄道員]]のプロデューサーであり、本作を機に東映を退社した高倉の事実上の復帰作でもある事から発売が企画された。佐藤監督と坂上プロデューサーのショートインタビューと公開当時の資料が見開きの内ジャケットに掲載され、インナージャケットには『[[ガメラ3 邪神覚醒]]』を制作していた[[庵野秀明]]と[[樋口真嗣]]による1998年(平成10年)の時点から作品を視聴した対談(現代との相違点・リメイクの話題など)が掲載されている。樋口はジャケットのデザインも行っている。
 
[[2001年]](平成13年)、東映50周年記念を機に[[DVD]]ソフト化希望の映画タイトルを投票により募集したところ、3位にランキングされ、2002年4月12日にレンタル開始、7月21日にセルDVDが発売された<ref>{{Cite journal |和書|date=2002-05-01 |title=DVD & VIDEO Selection COLOR |journal=宇宙船 |volume=Vol.100 |issue=(2002年5月号) |pages=40 |publisher=朝日ソノラマ |id=雑誌コード:01843-05}}</ref><ref となっているname="キネ旬20020802">{{Cite journal|和書 |author = 鶴田浩司 |title = NEW RELEASE キネ旬DVDコレクション No.30 『新幹線大爆破』 |journal = キネマ旬報 |issue = 2002年7月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 168–170頁 }}</ref>
 
2017年10月25日、Blu-ray版発売。
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* 『新幹線大爆破』(THE BULLET TRAIN,SUPER EXPRESS 109)※7インチ、TAVA TAVA RARE(イタリアレーベル)
 
== 本作を題材評価した作品影響 ==
=== 初公開時 ===
[[TBSラジオ]]『[[コサキンDEワァオ!]]』で[[関根勤]]が、青木(千葉真一)と倉持(宇津井健)の一人二役[[ものまね]]を披露した(倉持「青木君、車を停めるんだっ!」青木「何を言ってるんですかぁっ!」)。同じネタがDVD『[[カマキリ伝説]]2』に収録されている。
[[荻昌弘]]は「『新幹線大爆破』は、いまの邦画水準で、よく作られた娯楽作品だと認めていい。乗客が[[故事#烏合の衆|烏合の衆]]にさせられている類型描写とか、衝けば弱点は指摘できるが、国鉄不協力のなか、これだけ周密に一つのメカニズムの機構と機能にアプローチして劇の濃度を高めるとは、作り手の気力と根性の密度以外のものではない。ここにはあの『[[警視庁物語]]』の東映の伝統、以上に一編に賭ける誠意がある。脚本と演出は、管理体制から疎外された犯人像の設定に[[サイレント映画#日本映画|無声時代劇]]以来の暗い日本映画の心性が生きており、これが終盤に大写しにされる政府・国鉄の冷血な[[利己主義|エゴイズム]]と対応して、作品を重く沈ませたのが一家言である。『東京湾炎上』はせっかくの発想を映像に活かしたとはいいかねる...後味いいとはいいかねる力作二本ながら、後味の悪さの質は違う二本であった」などと評している<ref name="サンデー毎日19750727">{{Cite journal |和書 |author = [[荻昌弘]] |title = 今週の映画 "今の現実"を描いたサスペンスもの 『新幹線大爆破』(東映) 『東京湾炎上』(東宝) |journal = [[サンデー毎日]] |issue = 1975年7月27日号 |publisher = [[毎日新聞社]] |pages = 41頁 }}</ref>。
 
『[[週刊明星]]』1975年7月27日号の作品評。
[[大黒東洋士]]は「面白かった。『[[天国と地獄 (映画)|天国と地獄]]』みたいな迫力を感じた」、深沢哲也「話の手口は『[[ジャガーノート]]』に似てるが、最近の日本映画じゃいい方です」、穂積純太郎「ちゃちな感じがなくて、予想以上の出来ばえです。しかし2時間半は長い」、深沢「犯人たちの家庭状況などを同情的に描いたりは余計。高倉を悪役に徹し切らせればよかった」、穂積「高倉の犯人役は成功だが、従来の彼のイメージにこだわったきらいがある」、大黒「総体に役者はいいね。ことに宇津井健は適役」、深沢「彼は日本の[[グレゴリー・ペック]]ですからね。まじめ一点の役をやると実にいい。僕も高倉と宇津井の両"健"を買います。この作品の一番の欠点は、乗客描写が陳腐なこと。『[[駅馬車 (1939年の映画)|駅馬車]]』以来パターン化している妊婦のお産騒ぎがあったり、恐怖で気の狂う男が出て来たり。頭のいいのは『[[ポセイドン・アドベンチャー]]』ですね。ダッーと大勢殺して生き残った何名かだけを描き分ければいいですから」、穂積「この映画がドラマとして面白くなるのは高倉が金を受け取ってからですね」、深沢「喫茶店が火事になるのはやり過ぎ」、大黒「偶然性がお粗末すぎで、あそこは試写室でも失笑を買いました」、穂積「よく出来ているだけに欠点も目立ちますが、日本映画の健闘を祝しましょう」などと高評価を与えた<ref name="週刊明星19750727">{{Cite journal |和書 |author = [[大黒東洋士]]・深沢哲也・穂積純太郎 |title = 映画プロムナード 見どころ総ガイド 今週のロードショー 『新幹線大爆破』(東映) |journal = [[週刊明星]] |issue = 1975年7月27日号 |publisher = [[集英社]] |pages = 72-73頁 }}</ref>。
 
==== 後年の評価・反響 ====
『[[キネマ旬報]]』は2002年7月の本作[[DVD]]発売にあたり、『新幹線大爆破』を「和製パニック映画の最高峰」と紹介し<ref name="キネ旬20020802"/>、「『新幹線大爆破』以降も、何本も和製パニック映画が製作されたが、出演陣の豪華さ、内容の面白さで、この作品以上のものは出ていない」と評している<ref name="キネ旬20020802"/>。
 
[[関根勤]]が本作の大ファンで<ref name="ddnavi140130">{{cite news |author=丹波敏郎 |title=英国で小説化も! 世界が認めた“高倉健史上最異端の名作”とは? |url=https://ddnavi.com/news/216355/a/ |date=2014-01-30 |work=[[ダ・ヴィンチ|ダヴィンチ・ニュース]] |publisher=[[KADOKAWA]] |accessdate=2021-01-26 }}</ref>、[[TBSラジオ]]『[[コサキンDEワァオ!]]』で[[関根勤]]が、青木(千葉真一)と倉持(宇津井健)の一人二役[[ものまね]]を披露した(倉持「青木君、車を停めるんだっ!」青木「何を言ってるんですかぁっ!」)。同じネタがDVD『[[カマキリ伝説]]2』に収録されている<ref name="ddnavi140130"/>
 
『[[星の金貨]]』などの脚本家・[[龍居由佳里]]は1975年、高校在学時に父が東映で美術の仕事をしていた友人と[[新宿三丁目イーストビル#新宿東映会館|新宿東映]]で封切時に観て大興奮し、「私、東映に入って映画作る仕事がしたい!どうすれば入れるかお父さんに聞いて!」とその友人に迫った<ref name="キネ旬20060502">{{Cite journal|和書 |author = [[龍居由佳里]] |title = リレー・エッセイ 『映画と私』(249) |journal = キネマ旬報 |issue = 2006年5月下旬号 |publisher = キネマ旬報社 |pages = 112–113頁 }}</ref>。友人がちゃんと父親に聞いてくれて、その人から「東映は女性の現場スタッフを採らない」などと聞き、東映への就職は諦めた。結局、スタッフを募集していた[[日活撮影所#調布撮影所|にっかつ撮影所]]に就職したが、今も「『新幹線大爆破』を観て感動し、映像の仕事に就きたいと思いました」と言うと、龍居の作風のイメージと合致せず、たいてい驚かれるという<ref name="キネ旬20060502"/>。
 
[[ウルトラシリーズ]]などの脚本家・[[川上英幸]]も「中学の頃、『新幹線大爆破』をテレビで初めて見て、その面白さに吸い込まれ、映画とは恐ろしいものだと寒気すら感じた」と話し、特に運転士・千葉真一と総合指令職員・宇津井健の熱いやりとりに感激し、将来的に新幹線に関わる仕事がしたいと[[昭和鉄道高等学校]]に進学した。しかし在学中に[[国鉄分割民営化|国鉄の民営化]]があり、旧国鉄は新人の入社をストップさせ目の前が真っ暗になった。やる気をなくし、学校が[[池袋]]にあったため、学校をさぼり[[新文芸坐|文芸坐]]に入り浸るようになった。当時は[[ビデオテープレコーダ|家庭用ビデオ]]が普及し始めの頃だったが、文芸坐は[[学割]]600円で二本立てが観られた。高校を卒業し、印刷ショップに就職した後、[[レンタルビデオ|ビデオレンタルショップ]]の店長に転職。23歳の時、[[ぴあ]]の作家募集に応募したことが切っ掛けで脚本家になった。「人生とは実に不思議なものだ。あのとき『新幹線大爆破』を見ていなければ、今の私はいないし、そう思うと罪作りな映画だと思う。金を儲けたいならもっと多くの職業があったが、その選択を人生から外されてしまったからである」などと述べている<ref name="scenario201512">{{Cite journal |和書 |author = [[川上英幸]] |title = リレーエッセイ連載 私のマスターピース~シナリオの宝石箱から~ 第18回 川上英幸 『新幹線大爆破』 |journal = [[シナリオ (雑誌)|シナリオ]] |issue = 2015年12月号 |publisher = [[日本シナリオ作家協会]] |pages = 49–51頁 }}</ref>。
 
2015年の映画『[[天空の蜂#映画|天空の蜂]]』の脚本家・[[楠野一郎]]は、『天空の蜂』脚本化にあたり、エンターテイメントとメッセージ性の両立を目指して、本作を目標の一本として脚色した」と述べている<ref>{{Cite news|author=西森路代|title=インタビュー 40代後半から映画脚本の道へ - 『天空の蜂』脚本家が語る、仕事のエッセンス|date=2015-09-10|url=https://news.mynavi.jp/article/20150910-careerperson10/2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210125133743/https://news.mynavi.jp/article/20150910-careerperson10/2|work=[[マイナビニュース]]|publisher=[[マイナビ]]|accessdate=2021-01-26|archivedate=2021-01-25}}</ref>。
 
[[押井守]]は「日本映画が日本の[[戦後]]にケンカを売った最後の映画」と評している<ref name="animeanime200805">{{Cite news |title=押井守監督、忖度なし「いま見るならこの1本」をピックアップ!“私的映画史”50年を書籍化|date=2020-08-05|url=https://animeanime.jp/article/2020/08/05/55475.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200805113241/https://animeanime.jp/article/2020/08/05/55475.html|work=[[イード (企業)|アニメ!アニメ!]]|publisher=[[イード (企業)|イード]]|accessdate=2019-3-9|archivedate=2020-08-05}}</ref>。
 
== 類似作 ==
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: 1994年公開の[[ヤン・デ・ボン]]監督作品。脚本を書いた[[グレアム・ヨスト]]は、映画『暴走機関車』の原案である黒澤明が書いたオリジナル脚本を読んで思いついたと公表している。[[マイル]]表示の爆発設定速度をキロ表示に変換するとほぼ「時速80キロメートル」であり、『新幹線大爆破』が原典とする説もある。原案権を主張して訴訟を起こすべきという声が上がり<ref name="関根260"/>、坂上順が岡田社長に相談したら、岡田から「やめておけ」と言われた<ref name="関根260"/>。坂上は「40年近くプロデューサーとして生き残れたのは『新幹線大爆破』のおかげ。原案がハリウッド映画にピックアップされたのはひとつの勲章だと思っています」と述べている<ref name="関根260"/>。
;[[ヒート (1995年の映画)|ヒート]]
:1995年にアメリカで製作されたアクション映画。[[マイケル・マン (映画監督)|マイケル・マン]]監督。[[アル・パチーノ]]、[[ロバート・デ・ニーロ]]主演。 ラストシーンの演出が本作に影響を受けたと思われる
; [[動脈列島]]
: 本作と同時期に製作された、新幹線を題材にした[[東宝]]作品で、共に[[大映]]出身の[[増村保造]]監督・[[田宮二郎]]主演。『動脈列島』が新幹線による[[騒音]][[公害]]と絡めた[[社会派]]路線なのに対して、本作は娯楽作品としての面白さを追求した路線を取っていると同時に、乗客や運行に携わる関係者の真剣な対応と、警察や政府の打算的な解決策、そして犯人らの個人的な思いが交錯して描かれている点が対照的である。
435 ⟶ 463行目:
; [[無敵ロボ トライダーG7]]
: [[1980年]](昭和55年)に放送された[[サンライズ (アニメ制作会社)|日本サンライズ]]制作の[[ロボットアニメ]]。第37話「火星で食べた!?サンマの味」で、主役ロボの飛行形態であるトライダーシャトルに速度が落ちると爆発する爆弾を仕掛けられるという場面があり、0系新幹線が出てくるカットがある。
;[[特警ウインスペクター]]
:1990年7月29日放送の26話『薄幸少女の旅立ち』で、30km/h以上でスイッチが作動し、80km/h以下で爆発する爆弾が搭載された自動車が登場する。
; [[特捜エクシードラフト]]
: 1992年7月26日放送の26話『明日への激走』に、時速30km/h以上でスイッチが入り、その後時速30km/h以下に成ると毒ガスを発生させる装置が取り付けられた自動車が登場する。
; [[名探偵コナン 時計じかけの摩天楼]]
: [[1997年]](平成9年)の映画。「東都鉄道東都環状線」の線路上に爆弾が仕掛けられ、速度が60km/h以下になると爆発する<ref group="注釈">この場合は「光が当たらなくなると起爆装置が作動し、一定時間光が当たらずにいると爆発する」パターンの起爆装置であり、起爆装置作動から爆発まで13秒に設定されていた(60km/h=16.7m/s。60km/hで10両編成の列車が通過するには、12秒かかるため)。</ref> というシーンが登場。本作同様、ポイント切り替えシーンや新幹線総合指令所とそっくりなセットやカットがアニメ化された。
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: 2003年の韓国映画。タイマー式爆弾をセットされた[[地下鉄]]車両が走るというストーリーである。この映画にも、走り続けている列車を回避するために待避線へ逃げる他の列車の描写がある。
; [[こちら葛飾区亀有公園前派出所 (アニメ)|こちら葛飾区亀有公園前派出所]]
: 2003年のアニメTVスペシャルで放送された「爆走列車!!網走発東京行き・両津vs拳法バァさん」は、新幹線に仕掛けられた爆弾。時速150キロ150km/h以下で走ると爆発する。仕掛けられたのは秋田新幹線のE3系こまちで、新幹線の前に前哨で公園内に爆弾を仕掛ける手法や、両津が網走から東京まで犯人を護送するシーン。そして、電話をしてきた上条遊佐が0系の模型を手探る手法は本作をベースとした。
; [[交渉人 真下正義]]
: [[2005年]](平成17年)に公開された映画。本作をオマージュした場面がある。
; [[謀略軌道 新幹線最終指令]]
: [[1998年]](平成10年)に出版された小説。盛岡発東京行きの[[東北新幹線]]「[[やまびこ (列車)|やまびこ]]」号の車両に、時速100km/h以下になると爆発する爆弾が仕掛けられる。犯人は多額の身代金を要求し、JRは時間稼ぎのために急遽東京駅構内で東北新幹線と東海道新幹線の線路をつなぎ、「やまびこ」号を博多まで走らせる。<!--「やまびこ」号は周波数切替対応の[[新幹線E2系電車|E2系]]0番台のJ編成。これは、電源周波数が東北は50[[ヘルツ]]、東海道・山陽は60ヘルツと異なり、他の車両では東京駅を通過できないため。-->
; [[烈車戦隊トッキュウジャー]]
: [[2014年]](平成26年)に放送された東映製作の特撮作品。第8話「レインボーライン大爆破」で、倒された敵の分身により烈車のブレーキがかからなくなり、メンバーの1人に爆弾が仕掛けられ、揺らしたりすると爆発するというエピソードがある。車掌役の関根勤が千葉真一(青木運転士)の[[物真似]]をするなど本作品を意識した演出が行われた<ref>{{Cite book |和書 |date=2015-06-20 |edition=第1版 |title=OFFICIAL PERFECT BOOK TOQGER ETERNAL MEMORIES 烈車戦隊トッキュウジャー 公式完全読本 |series = ホビージャパンMOOK |publisher=[[ホビージャパン]] |page=74 |chapter=TOQGER MAIN STAFF INTERVIEW_04 [[加藤弘之 (テレビドラマ監督)|加藤弘之]]|location=東京 |isbn=978-4-7986-1031-3 }}</ref>。{{要出典範囲|関根勤曰く、スタッフのひとりにかつて自らが出演していたラジオ番組『コサキンDEワァオ!』のリスナーがいて、前々から「関根さんが出演するなら『新幹線大爆破』をモチーフにした回を作りたかった」と言って実現したとのこと。|date=2016年3月}}