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*5代目桂小文吾 - ([[1872年]] - [[1914年]]10月)本名:坂田 種造。鼻が高く「天狗」と呼ばれた。大阪[[堀江 (大阪市)|北堀江]]の貸座敷「播卯樓」の主人。芸事に熱中し、明治20年代に[[錦影絵]]師の4代目[[富士川都正]]の門下で富士川都若を名乗り独学で稽古を積む。[[奇術]]師の[[帰天斎正一|初代歸天齋正一]]が経営する余興屋に出入りもした。[[1902年]]に桂家都若の名で半玄人で端席や余興屋で活動。[[1903年]]12月に[[桂文三 (3代目)|3代目桂文三]]の門下で5代目小文吾を名乗る。[[桂枝雀|初代桂枝雀]]が[[大正派]]を結成してからは幹部となるも脳を病み、治療の甲斐なく引退した。[[1910年]]に『[[食道楽 (落語)|食道楽]]』『[[絵葉書屋と鰻屋|絵葉書屋・鰻屋]]』の2枚のSPレコードを出している。
 
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== 6代目 ==
{{落語家
| 芸名 = 6代目(7代目) {{ruby|桂|かつら}} {{ruby|小文吾|こぶんご}}
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| 出身地 = {{JPN}}・京都
| 死没地 =
| 生年 = 19371940
| 生月 = 7
| 生日 = 24
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'''6代目 桂小文吾'''([[1940年]][[7月24日]] - )は、本名: 寺田 成行。
[[京都市]]生まれ。
[[京都市]]生まれ。子供の時にラジオから流れてくる落語に興味を持ち、落語の創作も行っていた。12歳の時、[[笑福亭福松#3代目|2代目文の家かしく]]に入門するが、父の反対により挫折。14歳の時、[[桂文吾#5代目|5代目桂文吾]]に再入門。少年落語家として[[宝塚落語会]]、[[三越落語会]]、京都の小屋などの高座に上がっていたが、[[1956年]]、21歳の時、[[宝塚新芸座]]に役者として参加。[[1965年]]に[[鳥取県]][[米子市]]にある[[皆生温泉]]ヘルスランドに就職し、定年まで勤務。
 
== 6代目経歴 ==
[[京都市]]生まれ。子供の時にラジオから流れてくる落語に興味を持ち、落語の創作も行っていた。12歳の時、[[笑福亭福松#3代目|2代目文の家かしく]]に入門するが、父の反対により挫折。14歳の時、[[桂文吾#5代目|5代目桂文吾]]に再入門。少年落語家として[[宝塚落語会]]、[[三越落語会]]、京都の小屋などの高座に上がっていたが、[[1956年]]、21歳の時、[[宝塚新芸座]]に役者として参加。[[1965年]]に[[鳥取県]][[米子市]]にある[[皆生温泉]]ヘルスランドに就職し、定年まで勤務。
 
定年後、[[1995年]]より[[桂米朝 (3代目)|桂米朝]]の励ましを受けて再び落語家に正式に復帰した。戦後間もなくの京都落語界で修業を積んだこともあり、現在の上方ではあまり高座に掛からない貴重なネタを多く引き継いでいる。現在は地元のテレビ局への出演、落語会の開催、米子市児童文化センターにて子供向け落語教室の開講、[[NPO法人]]ひまわり倶楽部の理事など、さまざまな活動をしている。
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入門の経緯などは、[[瀧口雅仁]]の著書『噺家根問』(ISBN 978-4779112973)に詳しく書かれている。
=== 弟子= ==
*[[桂吾空]]([[立川幸平]]改メ、[[立川談幸]]門下から移籍。)