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{{戦車
| 名称= 九七式中戦車 チハ
| 画像= [[ファイル:Type- 97 ShinHoTo Chi-ShinhotoHa -ChiHa-Aberdeen.0003dtwq Patriot Museum, Kubinka (38251002671).jpg|250px300px]]
| 説明= 元・[[クビンカ戦車第26連隊所属の博物館]]に展示されている九七式中戦車(新砲塔チハ)チハ改
| 全長= 5.55 [[メートル|m]]
| 車体長= 5.52 m
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== 開発 ==
[[ファイル:Battle of Khalkhin Gol-Japanese Type 8997 Chi-RoHa midiumin tankmuseums.jpg|thumb|[[ノモンハン事件]]270px|遊就館おけ展示されチハ(中央奥)。左手前は八式中戦車、サイパン島で全滅した戦車第9連隊所属の1輌]]
各国の陸軍が採用する戦車の多くが[[ガソリンエンジン]]だった時代に、[[空冷エンジン|空冷]][[ディーゼルエンジン]]を搭載していることが大きな特徴である。ディーゼルエンジンは[[燃料]]に揮発性の高い[[ガソリン]]でなく[[軽油]]を使用するため、爆発的な火災発生の危険が少なく、また高い[[オクタン価]]のガソリンの入手に制限があるなど燃料事情が悪い当時としては、ガソリンを必要としないことは調達・補給の上で非常に有利であった。さらに空冷方式の採用については、想定戦場である[[満州]]において「水冷する方式は冷却水の補充や凍結による故障の心配があるので、空冷式を採用することができれば理想的である」<ref> 原典:原乙未生、栄森伝治 共著『日本の戦車 下』出版共同社 1961年 28ページ。『日本陸軍の戦車』ストライクアンドタクティカルマガジン2010年11月号別冊 2010年10月13日第7巻第9号(通算48号) 株式会社カマド 36ページ</ref>と見做され、また、冷却よりもエンジン起動時の保温のほうがむしろ課題であったという経緯があった。しかし空冷ディーゼル方式でガソリンエンジンと同等の出力を得るには大型化せざるを得ず、車体全体に対する機関部の占有率がその分大きくなる欠点もあった。
 
車体前方右寄りに[[砲塔]]が設置され、[[戦車砲|主砲]]として'''[[九七式五糎七戦車砲]]'''([[口径]]57mm)を、[[機関銃]]は[[九七式車載重機関銃]](口径7.7mm)を砲塔後部と車体前方に搭載した。本車の出現当時の外国製戦車(初期の[[III号戦車]]や[[BT-5]]など)と比較して[[装甲]]厚や主砲口径などは同程度であるが、もともと対戦車戦闘能力を主眼にした設計ではなく、その想定した敵は37mm級の[[対戦車砲]]や[[歩兵砲]]、機関銃を装備した[[歩兵]]及び[[陣地]]であり、その後の重装甲・重武装化した新型戦車には対応することが難しかった。主砲である九七式五糎七戦車砲は、八九式中戦車の[[九〇式五糎七戦車砲]]の改良型で、同砲と弾薬筒は共通である<ref>佐山二郎『日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他』272-273頁。</ref>。戦訓により不備とされた面の多くが改良されたが、[[榴弾]]威力及び[[装甲]]貫通力の面で威力向上は考慮されなかった<ref>「九七式5糎戦車砲仮制式制定の件」</ref>。通常交戦距離で[[九四式37mm速射砲|九四式三十七粍砲]]による九四式徹甲弾の射撃に耐えられることを基準とした装甲(最大25mm)は計画策定時は十分と看做されたものであった<ref>昭和11年6月27日の第14回陸軍軍需審議会委員会において、25mm厚装甲の対戦車砲に対しての防禦能力について問われた陸軍技術本部第一部長林少将(当時)は、37mm級対戦車砲に対し「200[[メートル|米]]の距離から射ったのは皆跳ね返します」と答弁している。但しその後に「200米以上の距離から軽装薬で射ったものは皆跳ね返します」とも答え直している。「陸軍軍需審議会に於いて審議の件」14頁。</ref>が、[[日中戦争]]([[支那事変]]における[[国民革命軍|中国国民党軍]]が装備した[[3.7 cm PaK 36|PaK 35/36]]や[[赤軍|ソ連軍]]の[[19-K 45mm対戦車砲]]には貫通されている。鹵獲砲を用いた射撃試験では、前者は車体側面下部(25mm厚)に対して命中角90度・射距離300m、後者は砲塔(25mm厚)に対して命中角80度・射距離1,500mの条件で貫徹し得ることが確認された<ref>JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C14010847000、戦車装備に関する綴 昭14(防衛省防衛研究所)</ref>。この結果は開発中だった[[一式中戦車]]以降の戦車に反映されたが、本車に関しては装甲の増厚、変更などの改善はほとんど行われず、現地部隊などで少数が改造されるに留まった(現存車両の項目を参照)。
 
[[ファイル:IJA 3rd tank division, Shin-Hoto tank, Ichi-go.jpg|thumb|left|1944年12月、[[大陸打通作戦]](一号作戦)における[[戦車第3師団 (日本軍)|戦車第3師団]]隷下部隊の新砲塔チハ]]
しかし、[[日中戦争]]における中国国民党軍や[[ゲリラ]]は対戦車砲や戦車、[[野砲]]や[[山砲]]など強力な[[対戦車兵器]]の保有数が部隊規模に比較して少なく、また戦意も高くなく、これらの敵に対して本車など日本軍の戦車・[[装甲車]]は有効な兵器であった。また、太平洋戦争緒戦の各[[南方作戦]]では、[[マレー作戦]]を筆頭に[[自動車化歩兵]]・[[砲兵]]・[[工兵]]・[[陸軍飛行戦隊|航空部隊]]との協同戦である[[電撃戦]]が行われ、[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国軍]]が強力な[[装甲戦闘車両]]を多く保有していなかったこともあり活躍している。但し、本車は歩兵直協が本来の目的であるため対戦車戦での不利は否めず、[[ビルマの戦い|ビルマ攻略戦]]における局地戦で対峙した[[M3軽戦車]]との戦車戦では苦戦を強いられた(戦争初期におけるM3軽戦車との交戦の項目を参照)。
 
本車を含む戦車の対戦車能力不足については陸軍も認識しており、本車の次に計画された[[試製九八式中戦車|チホ車]]からは口径を47mmに減じる代わりに初速を増大した試製四十七粍戦車砲(後の'''[[一式四十七粍戦車砲]]''')を搭載していた。チホ車はまたもや二種類の試作車を比較検討するなど開発が遅延し開発が中止されたが、1940年9月、本車にチホ車の試作砲塔ごと試製四十七粍戦車砲を換装した車両が試験されている。その後改修砲塔の試作・試験が繰り返された結果、(俗称・通称「'''九七式中戦車改'''」「'''新砲塔チハ'''」が開発された。この新砲塔チハは太平洋戦争開戦までに十分な数が揃わず戦力化できなかったが、M3軽戦車の出現に対応すべく[[1942年]](昭和17年)4月、[[フィリピンの戦い (1941-1942年)|フィリピン攻略戦]]における追撃戦に実戦投入された。[[戦車第7連隊]]に編入された同車を装備する臨時中隊(松岡隊)が投入された(戦争初期におけるM3軽戦車との交戦の項目を参照)。以降、九七式五糎七戦車砲搭載型と並行する形で一式四十七粍戦車砲搭載型の量産が進められ、攻撃力ではM3軽戦車には優越するようになったものの、戦争中盤から[[アメリカ軍]]は75mm砲を装備した[[M4中戦車]]を投入したため、その後の対戦車戦では苦戦を強いられた。
 
歩兵戦車としては、登場時は列強の戦車と比べても標準的な性能であったが、後継車両の開発が遅延を重ねたため、旧式化した後も本車を使い続けざるを得なくなり、また前提としていなかった対戦車戦にも用いられたことで苦戦を強いられた戦車である。本車の場合のみならず、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[イギリス]]と比較して資源が不足し技術力に劣り、[[自動車産業]]の発展に出遅れていた当時の日本では、自動車生産力の弱点が後の兵器開発に深く影響を及ぼす事になった。
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対戦車戦闘力を上げるため、貫徹力が不十分だった九七式五糎七戦車砲を、貫徹力を重視した一式四十七粍戦車砲を搭載した新式砲塔に換装した改良型。この改良により重量は14.3tから約500㎏増加し、14.8tとなった<ref>佐山二郎『機甲入門』光人社NF文庫、179頁。</ref>。(全備重量は15.8t、内砲塔重量は950㎏、後坐抗力は2500㎏程度である<ref>佐山二郎『日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他』光人社NF文庫、277頁。原文では一式中戦車のモノであるとしているが、前面装甲の厚さが九七式中戦車と同じ25㎜となっているため誤記の可能性もある。</ref>)。便宜上、本稿では47mm砲搭載型を「新砲塔チハ」と表記する。
 
従来の日本軍戦車は、歩兵支援重視の考え方から榴弾威力が高くかつ軽量な短[[砲身]]の戦車砲を装備していた。戦車の目的は陣地突破、[[トーチカ|火点]]制圧、[[追撃]]といった歩兵支援であり、対戦車戦闘は[[歩兵連隊]]や独立速射砲大隊・中隊などに配備されている[[四一式山砲#歩兵用|連隊砲]]・対戦車砲([[速射砲]]が行うものとされていたためである。しかし、1939年(昭和14年)3月に発足した戦車開発委員会は「(将来の)戦車の搭載砲は当面は短砲身57㎜砲とするも戦車同士の戦闘の増加を考慮して高初速47㎜砲または機関砲を搭載することを考慮する」という認識を出しており<ref>佐山二郎『機甲入門』90頁。</ref><ref name=":0">学習研究社『帝国陸軍戦車と砲戦車』107-108頁。</ref>、その後勃発した、数次に亙る[[日ソ国境紛争]]([[ノモンハン事件]]等)の際、長砲身45mm砲を装備したソ連軍戦車・装甲車との戦闘を経験したことで、戦車開発委員会の認識・方針が正しかったことが証明されることとなり、新戦車砲開発がより促進されることとなる<ref name=":0" />。戦車砲は1941年9月に仮制式を経て、1942年4月に[[一式四十七粍戦車砲]]として制式化された<ref>M3軽戦車に対しては、射距離が800mと1,000mの射撃試験でそれぞれ9発中6発と6発中3発貫通の成績を残した。</ref>。なお、57mm長加農の採用も検討されていたが、[[一式機動四十七粍速射砲|一式機動四十七粍砲]]との弾薬筒共通の便宜のため断念している<ref>原乙未生『機械化兵器開発史』P54</ref><ref>佐山二郎「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他」p347によれば、この57mm砲は砲身長49口径、初速830m/sであった。</ref><ref>『機甲入門』p551、p552。1941年7月に陸軍技術本部が調整した「試作兵器発注現況調書」によれば、試作兵器として、九七式中戦車の砲塔改修及び「57mm砲中」を搭載する改修を行う記述がある。この改修車両の希望完成年月は1941年7月となっている。</ref>。九七式中戦車の車体には設計余裕があり、旧砲塔より大型化した新砲塔も無理なく採用できた。
 
[[ファイル:Chi-Nu depot.jpg|thumb|left|終戦後、連合軍に引き渡すため集積された日本陸軍の各機甲兵器。新砲塔チハ(手前真中等)と[[三式中戦車|三式中戦車 チヌ]](手前左右等)を中心に、大量の車両(極少数の旧砲塔車や自走砲など)が見受けられる]]
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新砲塔チハで換装されたのは砲塔及び主砲だけであり、車体(装甲厚・機関出力等)はそのままであった([[戦車第2師団 (日本軍)|戦車第2師団]]に配備された一部の車両など、現地改造の追加装甲として要部を50mmに強化したものは存在した)。なお、前面装甲厚50mmの一式中戦車の砲塔に酷似した改造砲塔を九七式中戦車の車体に搭載した車両も、数は不明であるが製作された模様である(後述)。
 
新砲塔チハが開発されたきっかけは、1940年9月、試製四十七粍戦車砲を搭載したチホ車の砲塔を本車に搭載して射撃試験を行ったことに端を発する。その後チホ車開発は中止されたが試製四十七粍戦車砲を搭載した試作砲塔の開発および試験は本車の車台を用いて継続的に行われていたとされる(この試作砲塔は、本車やチホ車の後継であるチヘ車に搭載する予定だったという説がある<ref name=":1">潮書房光人社『丸』2012年12月号、82頁。</ref>)
 
新砲塔チハの登場時期については、1941年7月に陸軍技術本部が調整した「試作兵器発注現況調書」によれば、試作兵器として、九七式中戦車の砲塔改修及び47mm砲を搭載する改修を行う記述がある。この改修車両の希望完成年月は1941年8月となっている<ref>『機甲入門』p551、p552。</ref>。そして1941年8月29日の兵秘六一七通牒の改修指示に基づき、同年10月より既存の68輌に対して新砲塔チハへの改修が開始されている<ref>『機甲入門』p179、p182。</ref>。1942年3月には十数輌の新砲塔チハが完成し、臨時中隊(松岡隊)が編成され、ただちにフィリピンに送られている(が、これはM3軽戦車に対抗するための応急処置であった<ref name=":1" />)
 
新砲塔チハの初陣は太平洋戦争緒戦の1942年4月7日、フィリピン攻略戦であった。友軍爆撃機と共同の下、M3軽戦車3両を撃破した。以降、新砲塔チハは旧砲塔車から改編ないし協同運用されることになり、概ね[[1943年]](昭和18年)以降の日本陸軍の主力戦車となった。
 
戦後にアメリカ軍が撮影した写真<ref>グランドパワー1月号別冊『帝国陸海軍の戦闘用車輌 改定版』</ref>には、集積された戦車の中に、[[一式中戦車]](|一式中戦車 チヘ]]の砲塔に酷似した増加装甲を施した新砲塔チハ(車体はチハ前期型)が、斜め後方からの撮影のため不鮮明ながらも確認できる。これらの車両については、日米の新資料が出てこない限り正体を断定することは出来ないものの、陸軍省 「昭和20年度 軍需品整備状況調査表」によれば、1945年4月 ~ 6月の間に相模陸軍造兵廠において32輌のチハ車に対して砲塔改修が行われている(ただし砲塔改修の内容については詳細は記述されておらず、増加装甲を施す改修であったのかは不明である)との既述があることから、戦争末期に相模陸軍造兵廠などにおいて、既存の新砲塔チハ砲塔に増加装甲を施し、一式中戦車の砲塔の外観を模した砲塔改修を行った車両である可能性がある。
 
また、アメリカ、[[インディアナ州]]クローフォーズビル([[:en:Crawfordsville,_Indiana|英語版]])のロプキー装甲博物館(Ropkey Armor Museum([[:en:Ropkey_Armor_Museum|英語版]])には、一式中戦車の砲塔に酷似した増加装甲付きの改造砲塔(言われているような一式中戦車の砲塔その物ではない)の新砲塔チハが展示されている
<ref name="chihashinhoutou_00">Ropkey Armor Museum公式サイトギャラリー http://www.ropkeyarmormuseum.com/gallery052005_1.htm</ref>。この改造砲塔車は、以前は[[ワシントン海軍工廠]]に展示されていた車両で、砲塔外観は一式中戦車チヘ砲塔に酷似しているものの、チヘ砲塔とは細部が異なり、砲基部の周辺形状や防盾が左右に可動することなどから搭載戦車砲は新砲塔チハの物と同一である。
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砲塔内は2名で、砲塔左側に砲手兼装填手が、砲塔右側に車長が位置した。
 
本砲の砲本体重量は107kg、砲架は47kgである。九〇式榴弾の弾薬筒重量は2.91kg、九二式徹甲弾で3.13kg、1942年中頃以降に登場した新型の一式徹甲弾で3.25kgであった。また本砲用の[[タ弾]]([[成形炸薬弾]])として、戦争後半に生産された三式穿甲榴弾(弾頭重量1.8kg、装甲貫徹長55mm。)55mm)があった。砲架に付属されている肩付け用の器具で砲手に担がれる形で指向照準され、俯角・仰角操作、防盾旋回範囲での左右への指向は人力による。砲塔はハンドル操作のギアによって旋回する。この方式は日本では九〇式五糎七戦車砲から採用され、以後各種戦車砲に採用された。
 
肩付け式の砲の長所は目標への追従性が高く、行進射(動きながらの射撃)が可能な点であった。日本陸軍の戦車兵(機甲兵)は低速の行進射、機動・停止・機動の合間に行う躍進射を徹底して訓練し、動目標に対しても非常に高い命中率を発揮した。熟練度の一例をあげるならば、八九式中戦車の搭載した九〇式五十七粍戦車砲の半数必中界は、距離500m、行進射、中程度の技量という条件下で、上下155cm、左右83cmであった。日本軍戦車隊が交戦距離と設定していたのは500m程度の近距離であるにせよ、[[スタビライザー (自動車部品)|スタビライザー]]と火器管制のない戦車で行進射を行い得たのは戦車兵の熟練度を示すものである。
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砲本体、弾薬などを一人で操作できうる程度の軽量の兵装にすることで、砲手が照準操作しつつ片手で砲弾を装填することが可能となり、砲手一人でも速射が可能な点も肩付け式の利点である。なお、M3軽戦車の戦車砲も肩付け式の砲であった。
 
本砲の榴弾威力は、九〇式榴弾の場合で弾頭炸薬量250g、九二式徹甲弾でも弾頭炸薬量103gと多く、徹甲弾(名称は徹甲弾だが、実際は[[徹甲榴弾]](AP-HE))であっても榴弾威力を重視した設計となっていた。これらは同時期採用された[[九一式手榴弾]](炸薬量65g)の2倍弱 - 4倍強程度の炸薬量であった。
 
装甲貫徹能力は九〇式五糎七戦車砲と同程度であり、射距離300mで26mm、500mで23mm、1000mで20mm程度である<ref>佐山二郎「機甲入門」p529</ref>。対戦車戦闘は前提としていない砲であり、あくまでも軟目標やトーチカ銃座破壊のための砲であった。1942年4月、[[ビルマ]]の[[ラングーン]]にて戦車第一連隊が鹵獲したM3軽戦車に対する射撃試験を実施したところ、側面でさえ射距離200mはおろか射距離100mでも貫通はできず、3輌から5輌が集中射撃を加えたところようやく装甲板が裂けた、という程度の威力しかもっていなかった。そのため戦車第一連隊ではM3軽戦車と交戦する際には榴弾による射撃に切り替えられた。M3軽戦車はリベットやボルト止め接合による装甲であったので榴弾射撃は効力があり後の交戦でM3軽戦車の擱座・撃破にも成功している。
 
なお本車の九七式五糎七戦車砲、及び八九式中戦車の九〇式五糎七戦車砲の砲身を互換性のある長砲身37mm戦車砲([[一式三十七粍戦車砲]]を基に開発)へと換装することが検討されており、1942年2月、この試製三十七粍戦車砲を本車に搭載して射撃試験が行われている<ref>「試製1式37粍砲、試製1式37粍戦車砲、試製37粍戦車砲、97式5糎7戦車砲機能抗堪弾道性試験要報」</ref>。これは本車や八九式中戦車の旧式化した短砲身57mm戦車砲を、砲身のみ換装することにより一式三十七粍戦車砲と同等威力の戦車砲へと改修することを企図したものであった。この試製三十七粍戦車砲(初速約804m/s)は、[[九四式37mm速射砲#派生型|一式三十七粍砲]]や一式三十七粍戦車砲と弾薬(弾薬筒)は共通であり互換性があった。
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砲塔内は2名で、砲塔左側に砲手が、砲塔右側に車長兼装填手が位置した。一式中戦車と同様に専属の装填手が小隊長車のみ搭乗していたとする説もあり、その場合の砲塔内は3名(乗員5名)となる。
 
装甲貫徹能力の数値は射撃対象の装甲板や実施した年代など試験条件により異なるが、1942年5月の資料によれば、一式四十七粍戦車砲とほぼ同威力の[[一式機動四十七粍速射砲|一式機動四十七粍砲]]では、一式[[徹甲弾]]([[徹甲榴弾]](AP-HE)相当)を使用した場合は、弾着角90度で以下の装甲板を貫徹出来た。
* 1,500mで45mm(第一種防弾鋼板)/20mm(第二種防弾鋼板)
* 1,000mで50mm(第一種防弾鋼板)/30mm(第二種防弾鋼板)
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== 機動力 ==
[[ファイル:Type 97 Chi-Ha armored recovery variant engine top view.JPG|left|thumb|機関室(1945年撮影)]]
エンジンは社内記号「'''三菱SA一二二〇〇VD'''」(チハ機とも呼ばれる)が採用された。「S」は「ザウラー式」、「A」は「空冷 Air-Cooled」、「一二二〇〇」は「12[[気筒]]200馬力」、「V」は「V型」、「D」は「ディーゼル Diesel」を意味する。繋げると「三菱ザウラー式空冷12気筒200馬力V型ディーゼル」という意味になる。これは、三菱重工業が[[1937年]](昭和12年)に提携した[[スイス]]の[[:en:Saurer|ザウラー(Saurer)社]]<ref>[[スイス]]の[[トゥールガウ州]]アルボンに[[1982年]]まで存在した、トラック、バス、トラクター、軍用車両などの車両製造会社。なお、[[ドイツ]]の銃器メーカーである[[ザウエル&ゾーン|ザウエル(ザウアー、Sauer)社]]とは別会社。</ref>の技術を導入した物で、複渦流式DI(直接噴射式)、ボア X ストローク=120mm X 160mm、[[4ストローク機関|4ストローク]]、最大出力は予定では200[[馬力]]を発揮できるはずが、実際には170[[馬力]]/2,000回転(定格150馬力)程度しか発揮できなかった。(上、耐久性を考慮した場合の出力は、140馬力に制限された<ref>古峰文三・他『MILITARY CLASSICS Vol.66』イカロス出版、25ページ。</ref>。)
 
重量は1.2t、さらに[[変速機]]と操行装置の重量を加えると全部で2.5tにもなった。[[V型エンジン]]にしたことで高さは抑えられたが、大重量大容積の割に出力が低いエンジンであった<ref>これは現在の汎用ディーゼルエンジンでは重量500kg前後・4~6気筒・排気量6~8L程度のものに相当する出力である。九七式及び一式中戦車はいずれも12気筒・排気量21.6Lであった。</ref>。
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== 実戦 ==
=== ノモンハン事件 ===
[[File:Battle of Khalkhin Gol-Japanese Type 89 Chi-Ro midium tank.jpg|thumb|270px|ノモンハンで休憩中の日本軍戦車兵、中央奥にあるのが九七式中戦車、手前は八九式中戦車]]
ノモンハン事件では、日本建軍以来初めてとなる、大規模な戦車戦力が投入された。投入された第1戦車団(団長[[安岡正臣]]中将)は[[戦車第3連隊]](八九式中戦車26輌、九七式中戦車4輌、[[九四式軽装甲車]]11輌、[[九七式軽装甲車]]4輌)と[[戦車第4連隊]](八九式中戦車8輌、九五式軽戦車35輌、九四式軽装甲車4輌)の二個戦車連隊で編成されて、戦力は戦車73輌、装甲車を加えて合計92輌となった{{Sfn|コロミーエツ|p=17}}。ノモンハン事件に投入されたソ連軍の戦車は、速度は速いが装甲が薄い[[BT-7]]や[[BT-5]]といった戦車が主力であり、両軍のなかでもっとも重装甲の戦車は最大装甲厚25&nbsp;mmの九七式中戦車であった{{Sfn|下田|2014|p=111}}{{Sfn|下田|2014|p=133}}。
 
1939年7月2日、ノモンハンに到着した[[吉丸清武]]大佐率いる戦車第3連隊は、歩兵支援のため、連隊長の吉丸が新型の九七式中戦車に自ら搭乗し攻撃の先頭に立ってソ連軍野砲陣地に突入した。降りはじめた雨が目隠しとなり、夜8時ごろに最右翼を進む第1中隊が砲兵陣地に突入成功し、野砲2門撃破、2門を捕獲する戦果を挙げた{{Sfn|古是|2009|p=82}}。また、戦車第4連隊は7月2日から3日の夜間に、戦史上初となる、まとまった戦車部隊での夜襲となったバルシャガル高地攻撃を行った。暗闇と雷雨にまぎれてソ連軍陣地の奥深くまで蹂躙し、ソ連軍戦車2輌・装甲車10輌・トラックを20台・砲多数を撃破という大戦果に対して、戦車第4連隊の損失は九五式軽戦車1輌のみであった{{Sfn|越智|p=250}}。
 
前日、ソ連軍の野砲陣地を襲撃し大戦果を挙げていた戦車第3連隊は、7月3日の日中に、吉丸の九七式中戦車を先頭にして、ソ連軍陣地に正面攻撃をかけた。途中で接触したソ連軍戦車や装甲車計20輌と戦車戦になったが、2輌の戦車と10輌の装甲車を撃破して撃退した{{Sfn|豊田|1986|p=115}}(ソ連側記録ではBT-5を3輌損失){{Sfn|コロミーエツ|p=82}}。しかし、実際に交戦してみると、日本軍側の予想以上にソ連軍の戦車の性能がよくて、ソ連軍の戦車砲の射程が長く、また遠距離から日本軍戦車の砲塔の装甲板を易々と貫通することに衝撃を受けている{{Sfn|豊田|1986|p=115}}。やがてソ連軍防衛線に近づくと、巧みに擬装された対戦車砲の激しい砲撃を浴びて、次々と戦車第3連隊の戦車が撃破された。また陣前に張られた[[ピアノ線]][[鉄条網]]に[[履帯]]を絡めとられた戦車は行動不能となったが、そこを対戦車砲に狙い撃たれて損害が増大した。吉丸の搭乗する九七式中戦車もピアノ線で擱座したところを狙い撃たれて撃破され、吉丸は戦死している。ソ連軍戦車も加わった集中砲火の中で、日本軍戦車は次々と命中弾を浴びたが、日本軍戦車は九七式中戦車を始めとして、多くがディーゼルエンジンであり、命中弾があっても容易に炎上せず、予想外の打たれ強さで{{Sfn|コロミーエツ|p=75}}、窮地の中でも善戦し、ソ連軍戦車32輌と装甲車35輌を撃破したが、日本軍は13輌の戦車と5輌の装甲車を撃破され、撤退を余儀なくされた{{Sfn|豊田|1986|p=115}}。防衛していたソ連の連隊指揮官は初の大規模な日本軍戦車攻撃を撃退し、司令部に喜びのあまり「日本戦車を食い止めました、奴らは次々に燃え上がっています。ウラー(万歳)」と興奮した報告を行っている{{Sfn|越智|p=118}}。
 
その後も戦闘によって日本軍戦車の消耗は続き、7月9日には戦車の完全喪失が29輌に達したことを知った関東軍が、このままでは虎の子の戦車部隊が壊滅すると懸念し「7月10日朝をもって戦車支隊を解散すること」との両連隊に対する引き揚げを命じた{{Sfn|秦|2014|p=Kindle版1697}}。第4戦車連隊連隊長の[[玉田美郎]]大佐らはこの命令を不服としたが、関東軍の決定は覆らず、ノモンハンでの日本軍戦車隊の戦績はここで終局をむかえることとなった{{Sfn|古是|2009|p=182}}。戦車第3連隊は343名の兵員の内、吉丸連隊長を含む47名が戦死し戦車15輌を喪失、戦車第4連隊は561名の内28名戦死し戦車14輌喪失し戦場を後にしたが{{Sfn|秦|2014|p=Kindle版1559}}、九七式中戦車は投入された4輌のなかで撃破されたのは吉丸の連隊長車の1輌のみであった{{Sfn|加登川|1974|p=186}}。
 
日本軍戦車はあまりにも早い時点で戦場から姿を消したため、戦死した吉丸連隊長の遺骨を抱いて帰った戦車兵らに「日本の戦車は何の役にも立たなかった」「日本の戦車はピアノ線にひっかかって全滅した」「一戦に敗れ、引き下がった」「戦場から追い返された」などの辛辣な声がかけられたこともあって{{Sfn|加登川|1974|p=188}}、戦後に作家の[[司馬遼太郎]]に「もつともノモンハンの戦闘は、ソ連の戦車集団と、分隊教練だけがやたらとうまい日本の旧式歩兵との鉄と肉の戦いで、日本戦車は一台も参加せず、ハルハ河をはさむ荒野は、むざんにも日本歩兵の殺戮場のような光景を呈していた。事件のおわりごろになってやっと海を渡って輸送されてきた[[八九式中戦車]]団が、雲霞のようなソ連の[[BT戦車]]団に戦いを挑んだのである{{Sfn|司馬|2004|pp=179-180}}」「(日本軍の戦車砲は)撃てども撃てども小柄なBT戦車の鋼板にカスリ傷もあたえることができなかった、逆に日本の八九式中戦車はBT戦車の小さくて素早い砲弾のために一発で仕止められた。またたくまに戦場に八九式の鉄の死骸がるいるいと横たわった。戦闘というより一方的虐殺であった」などと著作に書かれて{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版523}}、事実と相違した印象が広まることとなった。ノモンハン事件においては日本軍側の戦車の喪失は29輌だったのに対して、ソ連は255輌を失っており、装甲車を合わせると損失は397輌にもなり、日本軍側の損失を大きく上回っている{{Sfn|コロミーエツ|pp=101,125}}。
 
なお、司馬は[[学徒出陣]]で戦車隊士官となり九七式中戦車で訓練をしていたが、九七式中戦車が終生まで強い印象として残っていたようで、著作に「同時代の最優秀の機械であったようで{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版474}}」「チハ車は草むらの獲物を狙う猟犬のようにしなやかで、車高が低く、その点でも当時の陸軍技術家の能力は高く評価できる」「当時の他の列強の戦車はガソリンを燃料としていたのに対し、日本陸軍の戦車は既に(燃費の良い)ディーゼルエンジンで動いていた{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版487}}」と称賛する一方で、その戦闘能力については「この戦車の最大の欠点は戦争ができないことであった。敵の戦車に対する防御力もないに等しかった」と書いており愛憎入り混じった評価をしている{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版487}}。また、戦車に乗っている自分の姿をよく夢に見ているが、その夢の内容を「戦車の内部は、エンジンの煤と、エンジンが作動したために出る微量の鉄粉とそして潤滑油のいりまじった特有の体臭をもっている。その匂いまで夢の中に出てくる。追憶の甘さと懐かしさの入りまじった夢なのだが、しかし悪夢ではないのにたいてい魘されたりしている」と詳細に書き残しており{{Sfn|司馬|1980|p=Kindle版922}}、戦車に対する司馬の愛着を感じることができる{{Sfn|秦|2012|p=Kindle版1409}}。戦車兵であったという軍歴も否定的には捉えておらず、戦友会にも積極的に出席していた{{Sfn|秦|2012|p=Kindle版1384}}。[[戦車第1連隊]]のときの司馬の元上官で、戦後に[[AIG損害保険|AIU保険]]の役員となった宗像正吉は、歴史研究家[[秦郁彦]]からの司馬はなぜ日本軍の戦車の悪口を言い続けたのか?という質問に対して「彼は本当は戦車が大好きだったんだと思います。ほれ、出来の悪い子ほどかわいいという諺があるでしょう」と答えている{{Sfn|秦|2012|p=Kindle版1392}}。
 
=== 太平洋戦争初期 ===
[[ファイル:Battle of Bukit Timah.jpg|thumb|270px|シンガポールの戦い([[ブキッ・ティマ|ブキテマ高地の戦い]])におけるチハ]]
太平洋戦争緒戦の[[マレー作戦]]においては、上陸した[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]の先頭を進軍する[[捜索連隊|捜索第5連隊]]([[連隊|連隊長]][[佐伯静雄]][[中佐|陸軍中佐]]、[[九七式軽装甲車|九七式軽装甲車 テケ]]8輌を主力装備とする機械化部隊。本作戦ではさらに砲兵・工兵隊が付随し「佐伯挺進隊」を構成)および、同連隊長の指揮下に入った[[戦車第1連隊]]第3中隊(九七式中戦車10輌、九五式軽戦車2輌装備)からなる「特別挺進隊」(兵力600人程)が、英印軍2個[[旅団]](兵力約6,400人・[[火砲]]60門・装甲車90両等)が守備し[[鉄条網]]や[[地雷]]が張り巡らされ、「小[[マジノ線]]」とも謳われた[[イギリス軍]]・[[英印軍|イギリス・インド軍]]の強力な国境陣地である[[ジットラ・ライン]]を1日で突破・制圧([[マレー作戦#ジットラ・ライン突破]])した。
 
また、約1ヶ月後の[[1942年]](昭和17年)1月6日の[[:en:Battle of Slim River|スリム・リバーの戦い]]において、[[戦車第6連隊]]第4中隊([[中隊|中隊長]][[島田豊作]][[大尉|陸軍大尉]]、九七式中戦車12輌装備)と随伴歩兵・工兵100人余りがトロラク、スリム・リバー、スリムの各陣地を夜襲し、これら全縦深を1日で突破。さらに戦車の機動力を生かした電撃戦を行い先述の各市街を占領するとともに、イギリス軍司令部を攻撃・スリム市街に進出した事で後方の英印軍1個[[師団]]の退路を絶つ事に成功。またスリムでは[[鉄橋]]を無傷で確保し、島田戦車隊の後を追って進出してきた第5師団と同地にて合流した。これによって、イギリス軍による要衝[[クアラルンプール]](スリム南方に位置)の防衛計画は崩壊、1月11日には同地に日本軍が突入し翌12日に占領。これによって[[マレー半島]]のほぼ全土を日本軍が制圧し、イギリス軍は[[シンガポール]]に撤退した([[シンガポールの戦い]])。
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損失理由は、その大半が日本軍戦車との交戦以外の要因(日本軍側の火砲や歩兵の肉薄攻撃、故障や撤退などによる連合軍側の処分処置または放棄、降伏による鹵獲)によるものであった。フィリピンの米陸軍第192戦車大隊と第194戦車大隊は降伏により全車損失。ビルマの英陸軍第7機甲旅団は戦闘または事故や機械的問題により約45両を損失、また日本軍によりチンドウィン川のカレワ付近に追い詰められた残存の約70両は鹵獲を避けるため自軍によって処分され、インド方面に渡河して撤退できたM3軽戦車は1両のみ(Llewellen Palmer少佐の指揮官車両)であったとされる<ref>The 7th Armoured Brigade Engagements - 1942 http://www.desertrats.org.uk/bde/7thAB1942.htm</ref><ref>「激闘戦車戦」 P.215</ref>。
 
フィリピン攻略戦において本車(新砲塔)チハを10輌装備した臨時松岡中隊がM3軽戦車出現の報を受け出撃したが、戦場に到着した時には既に航空隊と戦車第七連隊三中隊(八九式中戦車装備)との戦闘により撃退されており、直接戦火を交えることは無かった。なお、航空隊と戦車第7連隊の戦果は共同でM3軽戦車3輌の撃破が記録されている。フィリピン攻略戦においては対戦車戦闘が起きなかったこともありM3軽戦車との交戦による本車の損失は無かった。<ref>「ミリタリー・クラシックス VOL66」 P.33</ref>その為、対戦車戦闘の為に編成された臨時松岡中隊の活躍も敵防御陣地や要塞の撃破及び突破に留まる。
 
ビルマ攻略戦において本車(57mm砲搭載型)の本車を装備する戦車第1連隊では、鹵獲したM3軽戦車の研究を事前に行い、本車(57mm砲搭載型)の主砲(九七式五糎七戦車砲)の貫通能力が不足している問題を把握し、交戦前に対策を練っている。1942年4月27~28日の戦闘では、近距離での待ち伏せや600~1000mの距離を保ちつつ小隊~中隊規模の戦車部隊で集中射撃を行う戦術を行い、苦戦しつつもM3軽戦車5両を撃破炎上・擱座させる戦果をあげた<ref>「激闘戦車戦」 p.212~215</ref>。ビルマ攻略戦においてM3軽戦車との交戦による本車の損失は1両(車体下部の貫通弾が操向装置に命中するも自走可能、乗員死傷者なし。)であった<ref>「戦車隊よもやま物語」 p.244</ref>。
日本軍[[第15軍 (日本軍)|第15軍]]の「主要兵器毀損亡失一覧表」によれば、ビルマ攻略戦の作戦期間中における日本側の戦車及び装甲車の損失数は、九七式中戦車1両、九五式軽戦車8両、[[九四式軽装甲車]]1両となっている<ref>「附表第3 第15軍主要兵器毀損亡失一覧表」アジア歴史資料センター C14060456500 </ref>。
 
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=== 太平洋戦争後期 ===
[[ファイル:JapanAmerican typeSherman 97tank 1after destroying a Japanese tank.jpg|thumb|硫黄thumb|270px|ルソン島の戦いにおいてアメリカ軍に[[鹵獲]]され撃破し九七式中戦車第26連隊の新砲塔チハ。再塗装が行われており、当時は第26連隊所属)の近く通過「丸に縦矢印」るアメリカ軍部隊マークが砲塔横に描かれていたM4中戦車]]
[[ファイル:Type 97 ShinHoTo Chi-Ha - Victory Park, Moscow (27042045439).jpg|thumb|270px|[[戦勝記念公園 (モスクワ)|大祖国戦争中央博物館]]に展示されている新砲塔チハ、この車両は[[占守島の戦い]]で戦った[[戦車第11連隊]]のもの]]
大戦後半の防御主体の作戦においても、後継車両の不足と貴重な機甲戦力のため終戦に至るまで各戦線に投入された。[[硫黄島の戦い]]では同島に九七式中戦車(新砲塔チハ)11輌と九五式軽戦車12輌を装備する[[戦車第26連隊]](連隊長[[男爵]][[西竹一]]陸軍中佐)が配備されていたが、西中佐は当初、機動兵力として戦車を運用することを計画したものの、熟慮の結果、移動ないし固定[[トーチカ]]として待伏攻撃に使われることになった。移動トーチカとしては事前に構築した複数の戦車壕に車体をダグインさせ運用し、固定トーチカとしては車体を地面に埋没させるか砲塔のみに分解し、ともに上空や地上からわからないよう巧みに隠蔽・[[カモフラージュ|擬装]]し丸万集落周辺で防御陣地を構築して米軍と激戦を交えた。同陣地はのちにアメリカ海兵隊側から、戦車第26連隊に包囲されて大損害を被り全滅の危機に陥った第9海兵連隊第2大隊の大隊長、ロバート・E・クッシュマンJr.中佐の名前から取り、「クッシュマンズ・ポケット」と呼ばれ忌み嫌われた。しかし実際には至近距離での戦車戦を行っていたという目撃証言が残されており、真相は不明である<ref>秋草鶴次「一七歳の硫黄島」p108</ref>。
大戦後半の防御主体の作戦においても、後継車両の不足と貴重な機甲戦力のため終戦に至るまで各戦線に投入された。[[サイパンの戦い]]では[[サイパン島]]に配置されていた戦車第9連隊(5個中隊のうち2個中隊は[[グアム島]]に配置)が上陸してきた[[アメリカ海兵隊]]を迎え撃った<ref>{{Harvnb|下田四郎|2014|p=56}}</ref>。上陸初日の1944年6月15日には、海岸付近に配置されていた第4中隊(中隊長[[吉村成夫]]大尉、九七式中戦車11輌、九五式軽戦車3輌)が上陸してきたアメリカ軍海兵隊を攻撃。まだ[[M4中戦車]]が揚陸未済で、装甲の薄い[[LVT|アムトラック]]に戦車砲を搭載したアムタンクとの戦車戦となったがこれを撃破して、海兵隊の幕僚が搭乗していたアムトラックも撃破、アメリカ海兵隊の連隊指揮所まで突入する活躍を見せたが、[[艦砲射撃]]も含めたアメリカ軍の反撃で全滅している<ref>{{Harvnb|下田四郎|2014|p=57}}</ref>。
 
6月16日夜には、戦車第9連隊主力の30両(九七式中戦車新砲塔チハ1輌、九七式中戦車22輌、九五式軽戦車7輌)が[[タンクデサント]]で夜襲をかけた<ref>{{Harvnb|下田四郎|2014|p=63}}</ref>。アメリカ軍海兵隊にとっては、開戦以来、初めて受ける大規模な日本軍戦車からの攻撃となったが、この時点では[[M4中戦車]]と大量の[[M3 37mm砲]]と新兵器[[バズーカ]]と対戦車砲を搭載した[[M3 75mm対戦車自走砲]]を揚陸済みであり、十分に態勢を整えていた<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Saipan/USMC-M-Saipan-3.html "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"]</ref>。一方で、攻撃側の戦車第9連隊は不慣れな縦隊突撃を行ったので、たちまち指揮系統が混乱してしまい<ref>{{Harvnb|佐藤和正|2014|p=142}}</ref>、まとまった作戦行動はとれず、4~5輛の戦車が一団としてまとまって突進し、なかには沼地にはまって動けなくなる戦車もあった<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Saipan/USMC-M-Saipan-3.html "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"]</ref>。
 
戦車第9連隊の戦車はアメリカ軍が築いていた陣地に突入したが、そこで待ち受けていたのが海兵隊員が装備していた新兵器のバズーカであった。装甲の薄い日本軍戦車にバズーカが命中すると、ほぼ同時に装甲を貫通して内部で炸裂し擱座する戦車が続出した<ref>{{Harvnb|佐藤和正|2014|p=142}}</ref>。M3 37mm砲も威力を発揮して次々と日本軍戦車は撃破されていった。空には無数の照明弾が打ち上げられ白昼のような明るさの中で、M4中戦車も戦場に到着して、九七式中戦車との戦車戦が行われたが、砲撃の練度は日本軍が勝り次々と命中弾を与えるが、全てM4中戦車の厚い装甲にはね返されるのに対し、M4中戦車の砲弾は易々と九七式中戦車や[[九五式軽戦車]]を撃破していった<ref>{{Harvnb|下田四郎|2014|p=64}}</ref>。それでも突進を続けて、アメリカ軍に砲兵陣地まで達するところまで達した日本軍戦車を足止めしたのは、[[M101 105mm榴弾砲]]の砲撃と艦砲射撃であった。最後の日本軍戦車は午前7:00に海岸近くまで達して、海上の海軍艦艇から目視することができたので、20発の艦砲射撃が浴びせられた<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Saipan/USMC-M-Saipan-3.html "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"]</ref>。夜が明けて戦場でくすぶる日本軍戦車の中には、まだ戦車兵が生存しているのか砲塔を回転させている戦車もあったが、M3 75mm対戦車自走砲の砲撃により止めが刺された。この戦車第9連隊の突撃でアメリカ軍は97名の海兵隊員が死傷した<ref>[http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Saipan/USMC-M-Saipan-3.html "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"]</ref>。
 
[[ビルマの戦い|ビルマ戦線]]では、[[戦車第14連隊]]に所属する第1中隊が、エジョウ集落の周辺で待ち伏せを行い、現れたアメリカ軍戦車部隊に対し約400mの至近距離にて、側面を晒した[[M4中戦車]]を撃破した。この戦闘ではM4中戦車とトラックを8両炎上させ、敵軍を撤退させることに成功しているが、敵の反撃により中隊長車が炎上した<ref>島田豊作・他『戦車と戦車戦』光人社、286ページ~299ページ</ref>(最終的に連隊は壊滅))
 
[[フィリピンの戦い|フィリピン戦]]の[[ルソン島の戦い]]においては、[[戦車第2師団 (日本軍)|戦車第2師団]]の重見支隊(支隊長:[[重見伊三雄]]少将。戦車第3旅団基幹の戦車約60両他)が[[リンガエン湾]]に上陸してきたアメリカ軍を迎撃し、太平洋戦争最大の戦車戦が戦われている。九七式中戦車の[[九七式五糎七戦車砲]]や[[九五式軽戦車]]の[[九八式三十七粍戦車砲]]はM4中戦車に命中しても、まるでボールのように跳ね返され、日本軍の戦車が一方的に撃破されることが多く<ref>{{Harvnb|下田四郎|2014|p=224}}</ref>、日本軍の戦車兵はそのようなM4中戦車を「動く要塞」と称して恐れたが<ref>{{Harvnb|加登川幸太郎|1974|p=224}}</ref>。一式四十七粍戦車砲を搭載した新砲塔チハがしばしばM4を待ち伏せ攻撃で撃破している。1945年1月17日にアメリカ軍第716戦車大隊のA小隊を、[[マンゴー]]の木で隠れていた和田小隊長率いる3輌の新砲塔チハが攻撃、M4A3の側面装甲を貫通してたちまち2輌を撃破した。しかし、生き残ったM4A3が方向転換し正面を向けたので、3輌の新砲塔チハはその後60発の砲撃をM4A3に浴びせたが、厚い正面装甲を貫通することができずに1輌ずつ撃破されて、最後は和田小隊長車がM4A3を至近距離で砲撃するため突進して最後は体当たりしたが、結局M4A3の砲撃で撃破されている<ref>{{Harvnb|Steven Zaloga|2015|loc=電子版, 位置No.880}}</ref>。1月29日には、[[クラーク空軍基地|クラーク基地]]に進攻してきたアメリカ軍戦車隊に[[岩下市平]]大尉率いる6輌の九七式中戦車(新砲塔チハ)が反撃、遭遇した[[M7自走砲]]を撃破、その後[[M18 (駆逐戦車)|M18ヘルキャット]]を装備する駆逐戦車隊と戦闘になり、1輌のM18ヘルキャットを撃破したが、4輌の新砲塔チハが撃破され、岩下も戦死して撃退された。M18ヘルキャットは日本軍の砲撃でさらに1輌撃破されている<ref>{{Harvnb|USAHEC|1950|pp=63-67}}</ref>。
 
[[フィ戦車第2師団は質量ともに勝るアメピンカ軍戦車隊を果敢に攻撃し、戦闘度に車を失な|フィリピ壊滅状態となったが、ルソ島の]]末期の1945年4月12日、わずかに残っていた[[戦車第10連隊]]第5中隊に属するチハ車(57mm57mm砲搭載型)1輌が、同中隊チハ車1輌と九五式軽戦車1輌と共の車体前部に、先端に20kgの爆薬を装着したブーム長さ1mの突出し棒を取付けてM4中戦車に体当たりする[[特別攻撃隊|特攻]]を敢行した<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1991.3|p=21}}</ref>([[特別攻撃隊#陸上特攻|戦車特攻]])。同連隊主力は激しい戦闘の末既に壊滅しており、対戦車能力を持つ戦車は皆無であったことから、窮余の策として行われた攻撃である<ref>戦車連隊の第5中隊(砲戦車中隊)は本来対戦車戦闘の主力となるべき砲戦車が配備されるべきところ、砲戦車類の生産と配備の遅れから対戦車能力が欠如した57mm砲搭載型チハ11輌とハ号1輌に自動貨車若干で編成されていた。</ref>。当該地区[[丹羽治一]]准尉以下11名が出撃志願したが、2輌地形戦車内依拠搭乗きらなかっで、残った4名の戦車兵は、自爆攻撃は成功収めする覚悟で山下兵団司令部の撤退各々爆雷成功させ入れ雑嚢を抱え、手榴弾数発を腰から下げて1輌に2名ずつ[[タンクデサント]]で出撃した<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1991.3|p=17}}</ref>
 
4月17日午前9時、イリサン橋西北200mの曲がり角に差し掛かったアメリカ陸軍のM4中戦車に対して、擬装していた丹羽戦車隊が奇襲。不意の出現に慌てたアメリカ陸軍の先頭のM4中戦車は操縦を誤り50mの崖下に転落。さらに丹羽戦車隊の2両が後続車に体当り攻撃を仕掛けるため突進、M4中戦車の砲撃が丹羽が搭乗する九五式軽戦車の砲塔に命中し砲塔が吹き飛ばされたが、それに構わず2輌の日本軍戦車はそのままM4中戦車に体当たりした<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1991.3|p=20}}</ref>。タンクデサントをしていた戦車兵らも、戦車の体当たり直前に戦車から飛び降り。戦車が突入すると同時にM4中戦車に体当たり攻撃をした。生き残った日本軍戦車兵は、M4中戦車から脱出しようとするアメリカ軍戦車兵に手榴弾を投擲したり、軍刀による斬り込みを行った<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1991.3|p=18}}</ref>。双方の戦車4両が爆発炎上して、その残骸がアメリカ軍戦車隊の侵攻路を妨害することとなったが、イリサン近辺の道路は狭隘であったために、戦車残骸の除去は難航、アメリカ陸軍は約1週間の足止めを受け、その間に[[バギオ]]の[[第14方面軍]]司令部は、大量の傷病兵や軍需物資と共に整然と撤退することができた<ref>{{Harvnb|特攻隊慰霊顕彰会|1991.3|p=16}}</ref>。
[[ビルマの戦い|ビルマ戦線]]では、[[戦車第14連隊]]に所属する第1中隊が、エジョウ集落の周辺で待ち伏せを行い、現れたアメリカ軍戦車部隊に対し約400mの至近距離にて、側面を晒した[[M4中戦車]]を撃破した。この戦闘ではM4中戦車とトラックを8両炎上させ、敵軍を撤退させることに成功しているが、敵の反撃により中隊長車が炎上した<ref>島田豊作・他『戦車と戦車戦』光人社、286ページ~299ページ</ref>。(最終的に連隊は壊滅。)
 
大戦後半の防御主体の作戦においても、後継車両の不足と貴重な機甲戦力のため終戦に至るまで各戦線に投入された。[[硫黄島の戦い]]では同島に九七式中戦車(新砲塔チハ)11輌と九五式軽戦車12輌を装備する[[戦車第26連隊]](連隊長[[男爵]][[西竹一]]陸軍中佐)が配備されていたが、西中佐は当初、機動兵力として戦車を運用することを計画したものの、熟慮の結果、移動ないし固定[[トーチカ]]として待伏攻撃に使われることになった。移動トーチカとしては事前に構築した複数の戦車壕に車体をダグインさせ運用し、固定トーチカとしては車体を地面に埋没させるか砲塔のみに分解し、ともに上空や地上からわからないよう巧みに隠蔽・[[カモフラージュ|擬装]]し丸万集落周辺で防御陣地を構築して米軍と激戦を交えた。同陣地はのちにアメリカ海兵隊側から、戦車第26連隊に包囲されて大損害を被り全滅の危機に陥った第9海兵連隊第2大隊の大隊長、ロバート・E・クッシュマンJr.中佐の名前から取り、「クッシュマンズ・ポケット」と呼ばれ忌み嫌われた。しかし実際には至近距離での戦車戦を行っていたという目撃証言が残されており、真相は不明である<ref>秋草鶴次「一七歳の硫黄島」p108</ref>。
[[フィリピンの戦い|フィリピン戦]]末期の1945年4月12日、[[戦車第10連隊]]第5中隊に属するチハ車(57mm砲搭載型)1輌が、同中隊の九五式軽戦車1輌と共に、爆薬を装着したブームを取り付けてM4中戦車に体当たりする[[特別攻撃隊|特攻]]を敢行した([[特別攻撃隊#陸上特攻|戦車特攻]])。同連隊主力は激しい戦闘の末既に壊滅しており、対戦車能力を持つ戦車は皆無であったことから、窮余の策として行われた攻撃である<ref>戦車連隊の第5中隊(砲戦車中隊)は本来対戦車戦闘の主力となるべき砲戦車が配備されるべきところ、砲戦車類の生産と配備の遅れから対戦車能力が欠如した57mm砲搭載型チハ11輌とハ号1輌に自動貨車若干で編成されていた。</ref>。当該地区の地形に依拠したこの攻撃は成功を収め、山下兵団司令部の撤退を成功させた。
 
[[沖縄戦]]では、[[戦車第27連隊]]に配属された新砲塔チハが14両実戦投入された。1945年5月4日の日本軍総攻撃の際に出撃したが、砲弾幕に前進を阻まれ大損害を受けたのちに後退し、[[首里]]防衛線の石嶺丘陵の西部130高地陣地(アメリカ軍呼称チョコレート・ドロップ山)<ref>その形状から、皿にもったチョコレートドロップに見える事から、アメリカ兵にチョコレート・ドロップ山と名付けられた。</ref>において、残った6輌の戦車の車体を埋め、トーチカとしてアメリカ軍を迎え撃った。戦車第27連隊は機動部隊的反撃戦闘を想定した特殊な編成で、戦車連隊ながら重機関銃や速射砲を装備した歩兵中隊や[[九〇式野砲]]を装備した砲兵中隊も配備されていたため<ref>{{Harvnb|加登川|1974|p=208}}</ref>、進攻してきたM4中戦車を、埋まった新砲塔チハの戦車砲に加え、速射砲や野砲で次々と撃破、擱座させ、その数は10-20輌にも上った。攻撃してきたアメリカ軍を撃退したのち、戦車第27連隊はアメリカ軍の残していった[[バズーカ]]や重機関銃など多数の兵器を鹵獲した。戦車第27連隊は沖縄戦開始よりこの攻防戦までに敵戦車30輌を撃破、敵兵員2,200人を死傷させたと記録しているが、5月26日までにすべての戦車を失ない、27日未明には連隊長[[村上乙]]中佐も戦死して、他の日本軍部隊と撤退した<ref>アジア歴史センター「沖縄作戦 戦車第27連隊資料 昭和20年3月23日~昭和20年6月21日」」</ref>。アメリカ側の記録においても、チョコレート・ドロップ山を巡る戦いで、1輌の[[M12 155mm自走加農砲]]を含む十数輌の戦車が撃破され、第77歩兵師団の第306歩兵連隊は、日本軍の激しい抵抗によって死傷者は471名にも上ったことから、第307歩兵連隊と交代させられることになったが、交代した第307歩兵連隊も大損害を被ったと記述されている<ref>{{Harvnb|アメリカ陸軍省|1997|pp=371-378}}</ref>。
[[沖縄戦]]では、戦車第27連隊に配属された新砲塔チハが14両実戦投入された。昭和20年5月4日の日本軍総攻撃の際に出撃したが、砲弾幕に前進を阻まれ大損害を受けたのちに後退。車体を地中に埋め砲塔射撃で敵を食い止めていたが、逐次撃破されていった。
 
最末期の[[占守島の戦い]]では、同島に展開した九七式中戦車(新砲塔チハ20輌、57mm砲搭載型19輌)39輌、九五式軽戦車25輌を装備する精鋭部隊たる[[戦車第11連隊]](連隊長[[池田末男]][[大佐|陸軍大佐]])が、上陸した[[赤軍|ソ連軍]]と交戦。連隊長車を先頭に突撃を行い四嶺山の敵部隊を撃退し、同山北斜面の敵部隊も後退させている。ソ連軍は対戦車砲4門・[[対戦車ライフル|対戦車銃]]約100挺を結集し反撃を行い、連隊長車以下27輌を撃破ないし擱座させたが、四嶺山南東の日本軍[[高射砲]]の平射を受け、また日本側援軍の独立歩兵第283大隊が参戦したため、上陸地点である竹田浜方面に撤退している。
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ファイル:Japanese mechanized forces marching towards Lo-yang.jpg|大陸打通作戦(一号作戦)における新砲塔チハ
ファイル:USMC-17259.jpg|車体をダグインないし、埋没させ砲塔を固定トーチカとした戦車第26連隊とされる新砲塔チハ(奥)<ref>撮影地は不明ながらも、[[第4海兵師団 (アメリカ軍)|第4海兵師団]]撮影のため硫黄島の戦いの可能性が高い。</ref>。手前は大破し転倒した九四式三十七粍砲。
ファイル:Japan type 97 1.jpg|thumb|硫黄島の戦いにおいてアメリカ軍に[[鹵獲]]された戦車第26連隊の新砲塔チハ。再塗装が行われており、当時は第26連隊所属を表す「丸に縦矢印」の部隊マークが砲塔横に描かれていた
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== 現存車両 ==
[[ファイル:Japanese Type 97 Chi-Ha Tank.jpg|thumb|遊就館に展示される戦車第9連隊所属の九七式中戦車、2006年当時の塗装でその後に塗りなおされている]]
日本国内に現存する九七式中戦車の実車は、戦後[[サイパン島]]から還送された[[戦車第9連隊]]所属の57mm砲搭載型が[[靖国神社]]の[[遊就館]]<ref>この遊就館の車両が日本に還送されるまでの経緯については、下田四郎著『慟哭のキャタピラ』に詳しい。</ref>および、[[静岡県]][[富士宮市]]の[[若獅子神社]]([[陸軍少年戦車兵学校]]跡地)に展示されている。また、2005年に[[神奈川県]][[三浦市]]の雨崎海岸の土中より車台部分の残骸が発見され、その後発掘されて[[栃木県]][[那須郡]][[那須町]]の那須戦争博物館に移送され、展示されている。
 
各戦場跡にも多数の残骸が残っているが、特に激戦となったサイパン島では、上記のように里帰りした車両以外にも数輌の残骸が残って観光資源化されている<ref>戦争遺構は[[北マリアナ諸島|北マリアナ諸島自治連邦区]]の国有財産となっており、移動などは禁じられている</ref>。
 
新砲塔チハの実車は、比較的多くの車両が以下の博物館等でそれぞれ保存・展示されている。
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* [[オーストラリア]]RAAC戦車博物館
* [[ロシア]][[クビンカ軍事博物館]]
* [[ロシア]][[戦勝記念公園 (モスクワ)|大祖国戦争中央博物館]]
 
アメリカ、[[インディアナ州]]クローフォーズビル([[:en:Crawfordsville,_Indiana|英語版]])のロプキー装甲博物館(Ropkey Armor Museum([[:en:Ropkey_Armor_Museum|英語版]])には、一式中戦車の砲塔に酷似した増加装甲付きの改造砲塔の新砲塔チハが展示されている(前述「[[#新砲塔]]」の節参照)。
 
他、57㎜砲塔型と同様に[[占守島]]などいくつかの旧戦場において擱座・廃棄された状態の車両が存在し、[[サイパン島]]には修復されていないもの数輌が展示されている。
 
<gallery>
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ファイル:Wakajishi Jinja 20100821-06.jpg|
ファイル:Wakajishi Jinja 20100821-07.jpg|
ファイル:USMC-05248.jpg|サイパン島のチハ
ファイル:World War II Japanese Tank and Bunker.JPG|
ファイル:Japanese Tanks on Shumshu (5).jpg|占守島のチハ
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{{-}}
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九七式中戦車は実働可能な動態保存車がほぼ存在していない<ref>21世紀に入り、[[占守島]]から回収した遺棄車両を新造に近い状況で再生した実働車両がロシアに存在している。<br />([https://www.nicovideo.jp/watch/sm23939335 世界で唯一走行可能なチハ!ロシアの九七式中戦車(新砲塔チハ)])</ref>ため、実物が映像作品に登場することはまずないが、[[中華人民共和国]]他で製作された映像作品には、既存の装甲車両を改造して製作されたレプリカが登場するものがある。
 
マンガや模型の世界やそのファン層では、他国の戦車に対して小さい本車を親しみを込めて「チハたん」という愛称で呼ぶことがしばしばある<ref>[https://ascii.jp/elem/000/000/863/863448/2/ "チハたん万歳! WoT日本戦車14両の基礎知識その1"]</ref>
 
=== 映画・テレビドラマ ===
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:: シングルプレイにのみ、日本海軍の戦車として旧砲塔型が登場する。『BF1943』と同様、車載機銃として防盾付きのM1919が搭載されている。車列を組んで、隠れている主人公らの目の前を通過するが、直後に[[F4U (航空機)|F4U コルセア]]による[[空襲|空爆]]を受け、M1919による反撃も効果がなく、破壊されてしまう。
:; 『[[バトルフィールドV|BFV]]』
:: 日本軍の中戦車として旧砲塔型が登場する。車載機銃として[[九七式車載重機関銃]]が搭載されている他、同軸機関銃も装備している。専用技能で75mm砲の搭載(外観が[[三式中戦車]]に変化)、120mm榴弾砲の搭載(外観が[[短十二糎自走砲]]に変化)が可能。また、ロケット砲戦車として、GS車が「九七式中戦車GS」の名称で登場するが、外観が史実と異なる
; 『[[パンツァーフロント#PANZER FRONT Ausf.B|パンツァーフロント Ausf.B]]』
: [[西部戦線 (第二次世界大戦)|フランス戦線]]と[[北アフリカ戦線]]が舞台であり、おまけとしての意味合いが強い。[[砲塔]]旋回の仕様を再現したためか、他の車両と照準の操作方法が異なる。
; 『九七式中戦車』
: [[ツクダホビー]]が販売していた[[ウォー・シミュレーションゲーム]]製品で、戦車の戦いを再現したシリーズ「タンクコンバットシリーズ」の第4弾として発売。タイトルの通り、九七式中戦車を始めとする日本軍戦車の戦いが中心となるが、史実と同様に日本軍戦車が他国の戦車と比較すると全体的に性能に劣り、日本軍側のプレイヤーの難易度が高くなっている。
 
===小説===
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; 『[[パラレルワールド大戦争]]』
: [[豊田有恒]]のSF小説。チハを皇族輸送用に改造した「御動座」が登場。主人公らを載せ、[[P-51 (航空機)|P-51]]の機銃掃射を防いで[[愛宕山 (東京都港区)|愛宕山]]から[[成増飛行場]]まで走る。
; 『[[アメリカ本土決戦 戦艦“大和"米艦隊を殲滅す! ]]』
:[[檜山良昭]]の[[架空戦記]]、日本軍が[[ハワイ]]を攻略し、[[アメリカ西海岸]]に進攻するという設定、チハはM4中戦車に歯が立たず、[[大和 (戦艦)|戦艦大和]]の艦砲射撃に支援してもらう。
; 『[[ソ連本土決戦 昭和16年8月、関東軍ソ連領へ突入! ]]』
:檜山良昭の架空戦記、[[関東軍]]が[[関東軍特種演習]]から、ソ連極東領内に進攻するという設定、[[ダリネレチェンスク地区]]付近の草原で日ソ両軍の戦車部隊が激突するが、チハは[[T-34]]を擁するソ連軍に苦戦する。
 
== 脚注・出典 ==
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* 陸戦学会戦史部会 編著 「近代戦争史概説 資料集」 陸戦学会 1984年
* 国本康文『帝国陸軍戦車と砲戦車』歴史群像太平洋戦史シリーズ34、学習研究社、2002年。
*{{Citation|和書|author=加登川幸太郎|title=帝国陸軍機甲部隊 |year=1974|publisher=[[白金書房]]|ref={{SfnRef|加登川幸太郎|1974}}|asin=B000J9FY44}}
 
* {{Cite book |和書 |author=下田四郎 |year=2014 |title=サイパン戦車戦 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769821050 |ref={{SfnRef|下田四郎|2014}}}}
* {{Cite book |洋書 |author=Steven Zaloga |year=2015 |title=M4 Sherman vs Type 97 Chi-Ha: The Pacific 1945 |publisher=Osprey Publishing |isbn=978-1849086387 |ref={{SfnRef|Steven Zaloga|2015}} }}
* {{Cite book |洋書 |author=[[U.S. Army Heritage and Education Center]] |year=1950|title=Armor on Luzon |publisher=U.S. Army Heritage and Education Center |ref={{SfnRef|USAHEC|1950}} }}
*{{Cite book |和書 |author=[[マクシム・コロミーエツ]] |translator=小松徳仁 |editor=鈴木邦宏 |title=独ソ戦車戦シリーズ7 ノモンハン戦車戦 ロシアの発掘資料から検証するソ連軍対関東軍の封印された戦い |date=2005年 |publisher=大日本絵画 |isbn=|ref={{SfnRef|コロミーエツ}} }}
*{{Cite book |和書 |author=[[秦郁彦]] |title=明と暗のノモンハン戦史 |date=2014年 |publisher=PHP研究所 |isbn=978-4-569-81678-4 |ref={{SfnRef|秦|2014}} }}
* {{Cite book |和書 |author=越智春海 |title=ノモンハン事件―日ソ両軍大激突の真相 |date=2012年 |publisher=光人社NF文庫 |isbn=4769827342 |ref={{SfnRef|越智}} }}
* {{Cite book |和書 |author=司馬遼太郎 |title=司馬遼太郎が考えたこと 2 エッセイ1961.10-1964.10 |date=2005年 |publisher=新潮社 |isbn=4101152446|ref={{SfnRef|司馬|2004}} }}
* {{Cite book |和書 |author=司馬遼太郎 |title=[[この国のかたち]]〈1〉 |date=1993年 |publisher=文春文庫 |isbn=978-4163441306|ref={{SfnRef|司馬|1993}} }}
* {{Cite book |和書 |author=司馬遼太郎 |title=「昭和」という国家 |date=1998年 |publisher=NHK出版 |series=NHKブックス |isbn=978-4140803615|ref={{SfnRef|司馬|1998}} }}
* {{Cite book |和書 |author=司馬遼太郎 |title= 歴史と視点―私の雑記帖 |date=1980年 |publisher=新潮文庫 |isbn=978-4101152264|ref={{SfnRef|司馬|1980}} }}
* {{Cite book |和書 |author=司馬遼太郎 |title= 司馬遼太郎全集〈32〉 評論随筆集 |date=1974年 |publisher=文藝春秋 |isbn=978-4165103202|ref={{SfnRef|司馬|1974}} }}
* {{Cite book |和書 |author=司馬遼太郎ほか |title= 司馬遼太郎の世紀 |date=1996年 |publisher=朝日出版社 |isbn=978-4255960289|ref={{SfnRef|司馬|1996}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[豊田穣]] |title=名将[[宮崎繁三郎]]―不敗、最前線指揮官の生涯 |date=1986年 |publisher=光人社 |isbn=978-4769803041 |ref={{SfnRef|豊田|1986}} }}
* {{Cite book |和書 |author=延吉実 |title=司馬遼太郎とその時代 戦中篇 |date=2002年 |publisher=青弓社 |isbn=978-4787291523|ref={{SfnRef|延吉|2002}} }}
* {{Cite book |和書 |author=[[秦郁彦]] |title=昭和史の秘話を追う |date=2012年 |publisher=PHP研究所 |isbn=978-4569803081|ref={{SfnRef|秦|2012}} }}
* {{Cite book|和書|author=佐藤和正|title=玉砕の島|publisher=光人社|date=2004|ref={{SfnRef|佐藤和正|2014}}}}
*{{Cite book |和書 |author=[[古是三春]] |title=ノモンハンの真実 日ソ戦車戦の実相 |date=2009年 |publisher=産経新聞出版 |isbn=4819110675 |ref={{SfnRef|古是|2009}} }}
*{{Cite book |和書 |author=古是三春 |title=ノモンハンの真実 日ソ戦車戦の実相 |date=2018年 |publisher=光人社NF文庫 |isbn=978-4819110679|ref={{SfnRef|古是|2018}} }}(2009年出版の文庫版)
*{{Cite book |和書 |author=[[岩城成幸]] |title=ノモンハン事件の虚像と実像 |date=2013年 |publisher=彩流社 |isbn=4779119359 |ref={{SfnRef|岩城}} }}
* {{Cite book|和書|author1=アメリカ陸軍省|author2=[[外間正四郎]]|title=沖縄:日米最後の戦闘|publisher=光人社|date=1997|series=光人社NF文庫|date=1997|ref={{SfnRef|アメリカ陸軍省|1997}}}}
* {{Cite book |和書 |editor=特攻隊慰霊顕彰会 編 |year=1991 |title=会報特攻 平成3年7月 第13号 |publisher=特攻隊慰霊顕彰会 |ref={{SfnRef|特攻隊慰霊顕彰会|1991.3}} }}
== 関連項目 ==
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