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日本の男性[[アイドル]]の「新御三家」として売り出された際、郷ひろみは「可愛い美少年」、野口五郎は「歌が上手い」とされ、西城は大きいだけであまり特長がないと見なされた<ref name="40n-47" /><ref name="postseven1418"/>。そこでスタッフは、彼らと差別化を図り、西城の個性を活かすため、「情熱的でセクシーな、男性的魅力」をコンセプトとして打ち出していこうと決めた。そのコンセプトに沿って、楽曲やダンスの振り付け、衣装が創作されていった<ref name="interview"/><ref name="mainichi201851721"/><ref name="40n-47" /><ref name="nbs"/><ref name="techinsight201102">[http://japan.techinsight.jp/2011/02/saijyouhideki_yangman1102152222.html 【エンタがビタミン♪】「ゲイの応援歌なんか、絶対に歌わせない!」猛反対を押し切った、西城秀樹。]</ref>。プロデューサーも西城の音楽的バックボーンを理解し、海外のサウンドと日本のメロディをドッキングさせる[[ロック (音楽)|ロック]]/[[ポップ・ミュージック|ポップス]]寄りの楽曲作りが行われた<ref name="mainichi201851721"/><ref name="歌謡pc" /><ref name="CD検定" /><ref name="zakzaksakai"/><ref name="nikkan-spa20180519" /><ref>[https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/05/18/kiji/20180517s00041000366000c.html たかたかし氏回想 西城さんと初対面からオーラ まるで米ミュージカルスター]、[http://www.hokkaido-nl.jp/article/6063 「常に全力だった」 元作詞家・宇佐美さん西城秀樹さん語る【帯広】]、[http://miyako-creative.com/blog/young-man-hideki-saijo 若き獅子〜西城秀樹さんへ捧ぐ]、[http://miyako-creative.com/blog/hideki-saijo 若き獅子〜西城秀樹さんへ捧ぐ〜2]</ref>。意図的に激しいロック調の曲を作り、女性ファンがより興奮しやすくなるようなストレートなフレーズを歌詞に散りばめた<ref name="sponichi20110621" /><ref name="crea20171017">[http://crea.bunshun.jp/articles/-/14090 忘年会のカラオケシーズンに備え 西城秀樹の名曲を歌い愛を叫べ!|田中稲の勝手に再ブーム]</ref>。派手でセクシーなアクションと長身かつ、長い脚が映えるビラビラ[[コスチューム]]がそのイメージを決定づけた<ref name="近代映画197312" /><ref name="40n-47" /><ref name="月刊セブンティーン19741" /><ref name="musicbird201807"/><ref name="ken-ken0621" >[https://ameblo.jp/ken-ken0621/entry-12275342484.html 西城秀樹君との思い出 1973年〜]</ref>。初期には[[エルヴィス・プレスリー]]を意識した衣装など、アメリカナイズした雰囲気を衣装に取り入れた<ref name="40n-47" />。
 
オフィシャルサイト「Music」の[[ファッション]]解説の充実でも分かるように<ref name="Official-music1970"/>、西城は男性ファッションの於いても先駆者だった<ref name="goody201805"/><ref name=" jisin14071805" /><ref name="ut-magazineland"/><ref name="jprime20180605" >[http://www.jprime.jp/articles/-/12419 西城秀樹さん側近らが語るプライベート「サウナに入りすぎだったのかも」]</ref><ref name="熱き想い52">「振りも衣装も女・西城秀樹だったピンク・レディー」[[#熱き想い]]、52-54頁。</ref><ref>[https://www.asahi.com/articles/DA3S13503496.html 走っていた時代の象徴だった 西城秀樹さんを悼む 青柳脩さん]、[https://web.archive.org/web/20150119114352/http://r25.yahoo.co.jp/interview/detail/?id=20090129-90006137-r25&page=2&order=52 R25ロングインタビュー 〜つきぬけた瞬間 清春](Internet Archive)</ref><ref name="musicman-net63166" >[https://www.musicman-net.com/relay/63166 第14回 鹿野淳氏 Musicman-NET]</ref><ref>[https://tower.jp/article/feature_item/2020/07/21/3002 西城秀樹|写真集『HIDEKI FOREVER blue』に続く第2弾『HIDEKI FOREVER pop』は、ビジュアルファンブック!|【タワレコ特典】先着:生写真 ]</ref>。西城の母親は[[洋服]]の[[卸売|卸の店]]を経営していて<ref name="週刊平凡1973524" >{{cite journal | 和書 |author =| journal = [[週刊平凡]] | volume = 1973年5月24日号 | title = 《おしゃべりジャーナル》 西城秀樹 『兄の恋人に横恋慕したあのとき...』 ききて・[[木元教子]] | publisher = [[マガジンハウス|平凡出版]] | pages = 64-67 }}</ref>、子どもの頃から手伝いをさせられたため、服の[[素材|生地]]などにも詳しく服が好きだった<ref name="週刊平凡1973524" />。このためステージ衣装にも自身の意見を反映させることが出来た<ref name="近代映画197312" /><ref name="jprime20180605" /><ref name="装苑197502" >{{cite journal | 和書 |author =| journal = [[装苑]] | volume = 1975年2月号 | title = アイドル(第二回)・西城秀樹 | publisher = [[文化服装学院#文化出版局|文化出版局]] | pages = 155 }}</ref>。「自分のことを西城秀樹の一番熱心な[[プロデューサー]]だなって思うときがある」と話していた<ref name="熱き想い52"/>。専属の[[スタイリスト]]と[[ファッションデザイナー|デザイナー]]と西城で衣装を考えるが、西城の注文は難しくデザイナー泣かせだったといわれる<ref name="熱き想い52"/>。[[ファッション雑誌]]から自分の気に入った[[デザイン]]や色合いの服を選んで<ref name="装苑197502" />、それをさらに自分のオリジナル風に作り変えるスタイルで<ref name="熱き想い52"/>、1973年の『情熱の嵐』の衣装は、[[エルメス]]の[[スカーフ]]で[[ブラウス]]を作らせ<ref name="sankei1998212" >{{Cite news2|author=|title=夕刊特集 【イブニングマガジン】 エルメス(上) 西城秀樹さん ステージ衣装が出合い|newspaper=産経新聞夕刊|publisher=産経新聞|date=1998-02-12}}</ref>、間奏で服を破く演出を自ら考案<ref name="sankei2001626" /><ref name="sankei1998212" />、テレビで数回披露しインパクトは強かったものの<ref name="sankei2001626" />、[[経費]]がかかり過ぎると事務所に怒られ、本当に破るのではなく[[スナップ|ホック留め]]にして剥がす男っぽさを強調するアクションに変更した<ref name="sankei2001626" />。当時エルメスは女性ブランドのイメージで男性で愛用する人はほとんどいなかった<ref name="sankei1998212" />。このエルメスのブラウスを作った人は後に[[ピンク・レディー]]の衣装を担当したデザイナーであった<ref name="sankei1998212" />。[[大韓民国|韓国]][[サムスングループ]]創業者・[[李秉チョル|李秉喆]]の孫で[[CJグループ]]の副会長・[[李美敬]](イ・ミギョン)<ref>[http://japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=80689 李美敬CJグループ副会長「世界女性賞」受賞、アジア初めて]</ref> は、1970年代に録画してもらって観た『[[レッツゴーヤング]]』の西城の[[マフラー]]姿<ref name=" jisin14071805" /> に「これがアイドルか」と感動したと話している<ref name="エコノミスト20061128" >{{Cite journal | 和書 |author = 堀山明子(毎日新聞ソウル支局) | title = 大人の悠遊 この街で働く ソウル 忠武路 | journal = [[エコノミスト (日本の雑誌)|エコノミスト]] | volume = 2006年11月28号 | publisher = [[毎日新聞出版]] | pages = 109 }}</ref>。当時の韓国では10代が"同世代"と感じられる[[芸能人]]はいなかったという<ref name="エコノミスト20061128" />。李美敬は2006年のインタビューで「日本の40代女性が[[ペ・ヨンジュン|ヨン様]]にのめり込む理由は、アイドルを追いかけた[[少女|少女期]]の感動体験が残っているから。私も実感したから分かるの」と述べている<ref name="エコノミスト20061128" />。西城は1979年の[[ベストドレッサー賞]]を受賞しており、プライベートでもよく一人で服を買いに行った<ref name="熱き想い52"/>。1970年代半ばによく着用したMEN's BA-TSUは<ref name="Official-music1970"/><ref name="熱き想い52"/>、西城が[[原宿]]を散歩中に店の服を気に入り、自身でステージ衣装を発注したものであった<ref name="熱き想い52"/>。また[[セーラーズ (アパレル)|セーラーズ]]や<ref>[https://urbanlife.tokyo/post/31332/2/ 80年代の伝説ブランド「セーラーズ」が復活 世界的シンガーも夢中になった輝かしい歴史とは]</ref>、[[アルマーニ]]を最初に着用した日本の[[芸能人]]で<ref name="熱き想い52"/>、「ボクがデビューして5、6年は、[[ファッション|ファッション界]]も[[DCブランド|個性派デザイナー]]が出始めたころだったから、刺激があって衣装選びも楽しかった」「[[アルマーニ]]はボクが着てから芸能界に広まった」などと話している<ref name="熱き想い52"/>。『[[BIG GAME'80 HIDEKI]]』の[[ディスクジャケット|ジャケット写真]]<ref name="tbsradio2018519" >[https://www.tbsradio.jp/254244 追悼・西城秀樹さん~いまも色あせないシティポップなヒデキを聴いてみよう(高橋芳朗の洋楽コラム)]</ref> に映る[[銀色|シルバー]]の[[つなぎ|ジャンプスーツ]]は、[[クイーン (バンド)|クイーン]][[御用達]]のショップにオーダーしたもので、勿論[[フレディ・マーキュリー]]を意識したもの<ref name="interview"/><ref>[https://www.barks.jp/news/?id=1000069365 「クイーン&MUSIC LIFE展」、来日時の衣装も展示]</ref>。
 
歌手が楽曲に合わせた[[振り付け]]で歌唱をするようになったのは[[1970年代]]に入ってからで<ref name="40n-52">「振り付けが歌謡曲を変えた"アクション歌謡の登場"」[[#40年男]]、52-55頁([https://www.s40otoko.com/archives/42473 【ついに発売! 昭和40年男 2016年12月号】振り付けのおもしろさ。])</ref>、ステージやテレビの歌番組で歌手や楽曲の印象を強める必須条件となっていくが、そのパイオニアが、女性歌手では[[山本リンダ]]、男性歌手では西城であった<ref name="近代映画197312" /><ref name="AERA20180530"/><ref name="zakzaksakai"/><ref name="金スマ1718" /><ref name="40n-52"/>。山本がティーン歌手から大胆な変身を成功させた「[[どうにもとまらない]]」、西城に激しい振り付けが導入された「[[チャンスは一度]]」は、いずれも[[1972年]]<ref name="natalieijinden"/><ref name="40n-52" />。この年は[[日本放送協会|NHK]]の[[カラーテレビ]]契約数が、[[白黒テレビ]]の契約数を上まわった年で、派手な色彩の衣装で歌い踊るアクション系の歌手が、カラー時代のテレビ番組を盛り上げる要素として必要とされた<ref name="40n-52" />。[[松永伍一]]は1976年に「不動の姿勢でうたっていた"[[東海林太郎]]型"が消えて、アクロバット的におどりまくる"西城秀樹型"までが『[[見世物小屋|見世物]]』ゆえに要求されるサービス過剰の競争時代に入ったのが、今日の歌謡界の現状。これらは大衆が何を求めているかを、歌そのものを判断していくのではなく、歌手のスター的特徴に照らして割り出していくというプロダクションの算盤が、歌謡界を動かすようになってきたことを示す」などと論じている<ref>[[松永伍一]]「流行歌を無視して大衆は語れないー"よくない時代の""よい流行歌"の歴史」[[#昭和流行歌史]]、292-294頁</ref>。[[塩沢実信]]は西城を「ダイナミックなアクションと絶叫型の唱法で、昭和四十年代から五十年代にかけて、著しい活動を見せた歌手」と評している<ref name="塩沢">[[#塩沢]]、262-263頁。</ref>。[[西郷輝彦]]は、西城が間奏でいきなり上着を脱ぎ、ステージから客席に飛び降りた演出にマネージャーから「上着を脱いだらくるくる回して客席投げて、それから飛び降りろ」と怒られているのを見て、西城に専門の振付師がいて演出をしていることに大きなショックを受けた、自身のシングル「情熱」の後、秀樹の新曲が「情熱の嵐」で「ああ時代が変わるんだな」と思った瞬間だった、などと話している<ref>{{Cite news2|author=|title=客席へ飛び降りた姿に衝撃 西郷輝彦さんに聞く西城秀樹さんの思い出|work=withnews|publisher=朝日新聞社|date=2018-08-14|url=https://withnews.jp/article/f0180814001qq000000000000000W05h10801qq000017766A|accessdate=2018-08-16|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180814053052/https://withnews.jp/article/f0180814001qq000000000000000W05h10801qq000017766A|archivedate=2018-08-14}}</ref>。西城は音楽を「聴かせる」から「見せる」にシフトさせた歌手であった<ref name="ns20180518"/>。1972年、3枚目のシングル「[[チャンスは一度]]」で初めて振付けが付き<ref name="週刊セブンティーン19740618"/><ref name="kayopops200502">{{Cite web|author=鈴木宏和|date=2020-05-02|url=https://www.kayopops.jp/column/2020010011|title=2018年、63歳でこの世を去った西城秀樹の在りし日の姿を|work=[[歌謡ポップスチャンネル]]|publisher=[[WOWOWプラス]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200724131219/https://www.kayopops.jp/column/2020010011|archivedate=2020-07-25|accessdate=2020-07-25}}</ref>、[[1973年]]、初のベストテン入りを果たした「[[情熱の嵐]]」ではさらに振付けがエスカレート、ダイレクトに肉体の性の激しさを表現した<ref name="金子" />。また指さすアクションもたちまち大流行した<ref name="週刊セブンティーン19740618"/>。西城の場合はその激しさ故「振付け」ではなく「アクション」「アクション歌謡」などと呼ばれた<ref name="konishi" /><ref name="金子">「バトル・オブ・新御三家の70年代」[[#金子]]、165-176頁</ref>。[[1974年]]、「[[薔薇の鎖]]」で[[マイクロフォン#スタンドマイク|スタンドマイク]]を使ったアクションをいち早く取り入れる<ref name="mainichi201851721"/><ref name="BARKS20155-7" /><ref name="nbs"/><ref name="tokyo16" />。テレビの歌番組で西城のパフォーマンスを観て、子供たちが[[ホウキ]]を使ってこのアクションをよく真似した<ref name="rockinon200515"/><ref name="40n-47" /><ref name="goody201805"/><ref name="nikkan-spa20180519" /><ref>[http://www.nhk.or.jp/suppin-blog/2015/10/28/ 2015年10月28日 | すっぴん!ブログ:NHK - NHKオンライン]</ref><ref name="asahi20180615">{{Cite news2|author=岸善樹|title=全力で走り続けたヤングマン ダイアモンド☆ユカイさん|newspaper=朝日新聞デジタル|publisher=朝日新聞社|date=2018-06-15|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S13535546.html|accessdate=2018-06-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20180618152612/https://www.asahi.com/articles/ASL6D6GJ5L64UPQJ002.html|archivedate=2018-06-18}}[https://ameblo.jp/diamondyukai/entry-12376641219.html 西城秀樹さん]</ref>。小っちゃい子までが振りをまねしたがるので、[[おもちゃ]]のマイク・スタンドが売り出されたほど<ref name="週刊セブンティーン1974514" >{{cite journal | 和書 |author = | journal = 週刊セブンティーン | volume = 1974年5月14日号 | title = 特別取材 ぼくの10代の記念碑(メモリアル)にしたい! はじめてのリズム 新曲『激しい恋』を発表! | publisher = 集英社 | pages = 30-33 }}</ref>。新御三家は女性から圧倒的な人気を得たが、西城だけは小学生の男子のファンも多かった<ref name="rockinon200515"/>。ヒントにしたのは[[ロッド・スチュワート]]と[[ジェームス・ブラウン]]<ref name="ヘドバン3-77" /><ref name="tokyo16"/>。特にロッド・スチュワートがコンサートで[[アルミ]]の[[マイクロフォン#スタンドマイク|マイクスタンド]]を使っていると知り、すぐに10本を特注<ref name="ヘドバン3-77" /><ref name=" jisin14071805" />。この軽量スタンドマイクにより西城型の「スタンドマイク・アクション」が誕生し、以後コンサートでの定番となった。その後すぐに軽量スタンドはブームとなり<ref name="tokyo16"/>、翌年には[[ヤマハ]]が生産するようになった<ref name="ヘドバン3-77" />。軽量なアルミ製スタンドによるマイクパフォーマンスは、その後多くのロックアーティストが取り入れた<ref name="40n-47" /><ref name="tokyo16"/><ref name="artes13" /><ref name="yoshizawa"/>。最初はアルミ製スタンドにテレビ局のマイクをテープでぐるぐる巻いてスタンドに固定した<ref name="月刊セブンティーン19748" />。このため、当時の生放送の歌番組で出番が近づいた歌手が、テープを剥がしているうちに、自分の歌の時間が来たり<ref name="月刊セブンティーン19748" />、西城が生放送でマイク・アクション中、棒を折ったこともあった<ref name="月刊セブンティーン19748" />。