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青年期の履歴は不明な点が多い。光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族{{Efn|name="遊行"|『遊行三十一祖 京畿御修行記』(遊行同念の天正8年(1580年)7-8月の旅行記、随行者が記述)天正8年正月24日(1580年2月9日{{efn|name="Julius"}})条に、阪本城の光秀へ南都修行のために[[筒井順慶]]への紹介状を[[称念寺 (坂井市)|称念寺]]僧を使者にして依頼し、知人として「<u>惟任方はもと明智十兵衛尉といって、濃州土岐一家の牢人であったが、[[越前国]]の[[朝倉義景]]を頼り、[[称念寺 (坂井市)|長崎称念寺]]門前に十年居住していた。そのため称念寺使者僧とは旧情が深くて坂本にしばらく留め置かれた</u>」と記述{{Sfn|谷口研|2014|pp=34-35}}。}}{{Efn|同時代の朝廷の武士との連絡役の役職者である[[立入宗継]]の『立入左京亮入道隆左記』にも、光秀を「美濃の住人とき(土岐)の随分衆也」と記述{{Sfn|谷口研|2014|p=14}}。}}で、土岐氏に代わって美濃の国主となった[[斎藤道三]]に仕えるも、[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])、道三・[[斎藤義龍|義龍]]の親子の争い([[長良川の戦い]])で道三方であったために義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされる。
 
その後、光秀は[[越前国]]の[[朝倉義景]]を頼り10年間仕えたとも言われる{{Efn|name="遊行"}}。越前国に在住していた傍証は、越前地付きの武士の服部七兵衛尉宛の、天正元年8月22日(1573年9月18日)付け光秀書状{{Efn|「朝倉氏滅亡時の混乱の中で光秀と縁の深い、越前にいた竹という者の面倒を見て命を救った様子の感謝と服部七兵衛を百石加増した」内容}}がある{{Sfn|高柳|1958|pp=14-16}}。『明智軍記』や『細川家記』(正式には『綿考輯録』)には、義景が光秀に五百貫の土地を与えた、とある<ref>{{Cite web|title=明智光秀と朝倉義景 ~信長家臣以前、鉄砲のプロとして朝倉氏に仕えていた!? {{!}} 戦国ヒストリー|url=https://sengoku-his.com/831|website=sengoku-his.com|accessdate=2020-05-24}}</ref>。明智の本流とされている土岐氏は美濃の出自であるが、尾張・越前は斯波氏が守護のため、両方に同姓の武士が住んでおり、縁故者がいた可能性はかなり高い。朝倉側の史料に特に名前がでてこないところをみると、誰か親戚縁者の"預かりの立場"ないし[[食客]]だったと考えられる。いずれにしても、貫高が記録されていないため、朝倉家中では役職などはなかったと考えるのが妥当ということになる<ref>{{Cite web|title=明智光秀は朝倉義景に仕官し、次に足利義昭の臣下になりましたが光秀は朝倉の臣下の時には役職ってあったのでしょうか。|url=https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11220268156?fr=pc_ogp_other|website=Yahoo!知恵袋|accessdate=2020-05-24|language=ja}}</ref>
 
;光秀の躍進