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'''世界金融危機'''(せかいきんゆうきき、{{lang-en-short|Global Financial Crisis}})とは、[[2007年]]に顕在化した[[サブプライム住宅ローン危機]]を発端とした[[リーマン・ショック]]と、それに連鎖した一連の国際的な[[金融危機]]である。'''世界経済危機'''、'''世界金融崩壊'''、'''世界金融不況'''、'''世界同時不況'''、'''リーマン不況'''、'''第二次世界恐慌'''<ref>
== 概要 ==
[[ファイル:Birmingham Northern Rock bank run 2007.jpg|thumb|right|2007年9月15日、サブプライム住宅ローン危機による[[取り付け騒ぎ]]。[[イギリス]][[バーミンガム]]の[[ノーザン・ロック]]銀行の支店。]]
2007年の時点では不動産バブルの崩壊が問題とされていたが、バブル崩壊の影響で銀行や基金が破綻をしたため金融機関が問題とされ、さらに2008年には金融システム全体の問題に対処しなければならなくなった。中欧・南欧・東欧を中心に世界各地へ連鎖的に広がり、その規模と速度は1930年代の[[世界恐慌]]を上回った{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=188, 190}}{{Sfn|柴田|2016|loc=序章}}。
最悪期の2008年第2四半期から2009年第1四半期には、世界の資本移動の90%が消滅し、富裕国の資本移動は17兆ドルから1.5兆ドルへと減少した。貿易にも影響し、[[世界貿易機関]](WTO)が統計を集めている104カ国の全てで輸出入が減少した。2009年第2四半期は、[[国際通貨基金]](IMF)が統計を集めている60カ国のうち52カ国で[[国内総生産]](GDP)が縮小した。全世界の失業者は2700万人から4000万人に達したといわれる{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=183-187}}。
; 対策
各国は従来の枠組みを越えて協調した。[[G20]]では、それまで[[財務大臣・中央銀行総裁会議|財務相・中央銀行総裁会議]]を開催していたが、さらに首脳陣の会合として2008年11月にG20サミットが始まった。中央銀行ではアメリカの[[連邦準備制度]](FRB)を中心として[[通貨スワップ協定]]が拡充された。[[国際通貨基金]](IMF)は2008年から求めに応じて支援を行い、さらに融資拡充をした。それまでの金融規制に限界があることが明らかになり、[[バーゼル銀行監督委員会]]では銀行の国際業務の規制が進められた{{Sfn|柴田|2011|p=9}}{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=583-584}}<ref>Łukasz Mamica, Pasquale Tridico, ''Economic Policy and the Financial Crisis'', Routledge, 2014, [https://books.google.co.jp/books?id=ITYsAwAAQBAJ&pg=PA6&dq=international+liquidity+crunch+and+having+been+transformed+into+a+crisis+of+the+'shadow+banking'+industry,+has+revealed+the&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjglZbJzf_bAhWGopQKHY6MBLoQ6AEIJzAA#v=onepage&q=international%20liquidity%20crunch%20and%20having%20been%20transformed%20into%20a%20crisis%20of%20the%20'shadow%20banking'%20industry%2C%20has%20revealed%20the&f=false p.6.]</ref><ref name=nesvet>Anastasia Nesvetailova, [http://www.academia.edu/20185290/Liquidity_in_Light_of_the_Shadow_Banking_System_Lessons_from_the_Two_Crises 'Liquidity' in Light of the Shadow Banking System: Lessons from the Two Crises], in ''Economic Policy and the Financial Crisis''</ref>。危機の原因として会計監査制度も批判を受け、会計基準や監査基準も変更された{{Sfn|森|2019|pp=63-68}}{{Sfn|小松|2019|pp=32-34}}。当時は「[[大きすぎて潰せない]]」という言葉が象徴するように大手金融機関の救済が優先されており、住宅ローンの債務者の救済が不十分だった{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=3409-3417/4780}}。
; 影響
[[File:GDP Real Growth in 2009.svg|thumb|upright=1.7|300px|2009年の実質GDP成長率。茶色は景気後退の地域を表す。]]
危機への対策によって2009年にはアメリカでは景気回復が起きたが、経済格差が拡大した。ヨーロッパでは金融危機後に銀行の資本増強が進まなかったため、2010年に国債がもとで[[ユーロ危機]]が起きた。金融危機対策やIMF支援の条件として緊縮財政を進めた各国では、国内で経済的困窮や社会不安を招いた。世界各地で抗議活動が起き、政権交代や国際機関からの離脱、地域紛争の発端にもなった。「[[ウォール街を占拠せよ]]」と呼ばれた抗議デモは、同様の活動が900以上の都市で開催された。イギリスでは国民投票によって[[イギリスの欧州連合離脱|欧州連合離脱]]が決定した。ウクライナとロシアの間では[[クリミア危機・ウクライナ東部紛争]]が起きた{{Sfn|パッカー|2014|pp=564-573, 586-591}}{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=583-584}}。
; 原因・対策の研究
金融危機の原因や、対策の評価についての研究が続いている。危機の発生や拡大には、住宅ローンの[[証券化]]、低金利政策、[[シャドー・バンキング・システム]]などが関わっていた。最大の原因は住宅投資の減少であり、そのもとをたどると住宅ローンに投資した人々の債務増加にいたる。特にサブプライム・ローンでは、返済能力を無視して貸付を行う{{仮リンク|略奪的貸付|en|predatory loan}}が以前から問題となっており、貸し倒れが増えたことで債務損失が増幅し、バブルが崩壊した{{Sfn|福光|2005|pp=58, 70-73}}{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=1112-1134, 2470/4780}}。金融危機の当初は、経済学者や政策立案者は債務者よりも銀行の救済を優先していたが、その後の研究では家計債務(特に住宅ローン債務)を減免した方が金融危機の回避に役立ったというデータが集まっている{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=3409-3417/4780}}。
== 背景 ==
=== 証券化と低金利政策 ===
[[File:Chart of NASDAQ, DJI, FF, USGG10YR, JPY-USD and EUR-USD.png|400px|right|thumb|上段より[[NASDAQ]]<ref name=NASDAQ>{{cite web|url=http://finance.yahoo.com/q/hp?s=%5EIXIC |title=NASDAQ Historical Price |publisher=Yahoo! Finance |accessdate=2010-01-11}}</ref>、[[ダウ平均株価]]<ref name=DJI>{{cite web|url=http://finance.yahoo.com/q/hp?s=%5EDJI |title=Dow Jones Industrial Average Historical Price |publisher=Yahoo! Finance |accessdate=2010-01-11}}</ref> の[[ローソク足]](月足)、[[フェデラル・ファンド金利]]誘導目標<ref name=Fed.of.StLouis>{{cite web|url=http://www.research.stlouisfed.org/ |title=Economic Data |publisher=[[セントルイス連邦準備銀行|セントルイス連銀]] |accessdate=2010-01-11}}</ref><ref name=BOJ>{{cite web|url=http://www.boj.or.jp/theme/research/stat/etc/index.htm#hdis |title=主要国・地域の中央銀行政策金利 |publisher=[[日本銀行]] |accessdate=2010-01-11}}</ref>(赤)、米国債10年物利回り<ref name=Fed.of.StLouis />(青)、[[円 (通貨)|JPY]]/[[アメリカ合衆国ドル|USD]]<ref name=Fed.of.StLouis />(黄緑)、[[ユーロ|EUR]]/USD<ref name=Fed.of.StLouis />(紫)の月末値推移(1999年1月~2003年12月)]]
1970年代のアメリカから、住宅ローンの[[証券化]]が始まった。これは地域金融の弱点である各地域のリスクを補うために考えられ、国策会社である[[政府支援機関]](GSE)によって進められた。地方銀行は地域のリスクから守るために住宅ローンを証券化してGSEに売った。GSEは証券化された住宅ローンを買うために、プールした住宅ローンを担保にして債券を売った。これが[[不動産担保証券]](MBS)であり、GSEに多大な利益をもたらした。GSEの発行ではないプライベート・ラベルのMBSも1990年代に急増し、利益を得るために[[トランチング]]などの方法が考案された{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=2271-2327/4780}}。
2000年に[[ITバブル]]が崩壊し、インターネット・情報技術関連企業の上場が多い[[NASDAQ]]市場は暴落して、2001年第2四半期からアメリカのGDPが3四半期連続のマイナス成長となった<ref name=NASDAQ/>。失業率も増加を続けてアメリカの財政赤字は拡大した。FRBは2000年末から利下げを繰り返し、[[ジョージ・W・ブッシュ]]政権は大規模な所得減税を行った{{efn|既にFRBは年初から7回利下げを実施していたが、事件後の9月17日に緊急利下げをおこない、12月までにさらに4回の利下げを実施した{{efn|2001年FRBの政策金利は誘導目標を年初の6.5%から12月の1.75%まで引き下げを行った<ref>篠原・櫨(2008)</ref>}}。}}。この結果、アメリカ金融史上で最も低金利の時代となったが、当時のFRB議長だった[[アラン・グリーンスパン]]は低金利政策が誤りだったとのちに認めている{{efn|この低金利政策は当初は正当視されていたものの、その後、不動産、住宅、債券などの資産バブルが明らかになると、ITバブル崩壊後の低金利政策が資産バブルの温床となったとして批判された<ref>篠原・櫨(2008)</ref>}}<ref>篠原・櫨(2008)</ref><ref name=Fed.of.StLouis/>。
[[エンロン]]が2001年に粉飾決算で破綻したのちに金融機関への規制強化が検討されたが、実施されなかった{{efn|規制当局は、{{仮リンク|特別目的会社|en|Structured investment vehicle}}(SIV)に含まれる資産が銀行のバランスシートに計上されていると仮定した場合に必要な資本の10%が裏付けられていれば問題ないと判断した{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=80-81}}。}}。規制が強化されなかったため、後述のシャドー・バンキングが急拡大した{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=80-81}}。
=== シャドー・バンキング・システム ===
世界金融危機の大きな要因となった金融ビジネスは、非銀行金融仲介機関である[[シャドー・バンキング・システム]]であった。シャドー・バンクに含まれるのは、[[マネー・マーケット・ファンド]](MMF)、[[特別目的事業体]](SPV)、{{仮リンク|資産担保コマーシャルペーパー|en|Asset-backed commercial paper}}(ABCP)、投資銀行等の[[レポ取引]]、[[ヘッジファンド]]、証券会社、証券化商品発行体、そして個人向けのファイナンス・カンパニーなどである。シャドーバンクの資産額は危機以前の10年間に特に増加したが、銀行よりも高いリスクを抱えていた{{efn|短期資金を調達し、長期の資産に運用するという満期変換は、銀行の場合ロールオーバー・リスクや取り付けの危険をはらんでいる。シャドーバンクも同様であるが、市場性資金を運用するので、銀行よりも高いリスクを抱え、実際に取り付けが起きた{{Sfn|北原|2012|p=}}。}}。シャドーバンクの中でもMMFはMBSの発行や証券化に関わる重要な投資家として[[機関投資家]]が資金を供給した{{efn|満期変換の回数については、投資銀行や証券会社が行うレポ借入のそれが194回という世界記録を残し、MMFも41回というリスキーな数値であった{{Sfn|北原|2012|p=}}。}}。[[レバレッジ]]も危機拡大の一因であり、アメリカの大銀行が倍率を横ばいさせていたのに対して、アメリカの三大投資銀行は2007年に25倍を越え、欧州の大銀行は2008年に35倍を超えた。ABCPの発行残高で、欧州はアメリカを上回っていた{{Sfn|北原|2012|p=}}。
[[BRICS]]を中心とした新興国の経済発展を背景に、エネルギー需要、食料需要などの資源需要が高まり、原油価格が上昇した。産油国の利益は欧米の機関投資家へ流れ、機関投資家の資金運用がアメリカに集中した。このとき、先の低金利政策と、シャドー・バンキング・システムを通じた証券化を促進する規制緩和が相まって、サブプライムローンを中心とした信用拡張が行われた。ABCP市場は6500億ドルから1兆ドル市場に成長した{{Sfn|柴田|2016|loc=序章}}{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=80-81}}。
=== サブプライムローン ===
[[ファイル:Mortgage loan fraud.svg|thumb|250px|米国財務省による{{仮リンク|不審取引報告|en|Suspicious activity report}}(SAR)分析に見る住宅ローン詐欺の増加]]
アメリカでは、[[エンロン]]と類似の事件を防ぐために、GSEの[[連邦住宅金融抵当公庫|フレディマック]]と[[連邦住宅抵当公庫|ファニーメイ]]がバランスシートを縮小した。その影響で住宅ローンに民間業者が参入し、民間業者が導入した[[サブプライムローン]]は住宅価格の上昇に後押しされて2003年以降に急拡大をした{{efn|2006年には、新しい住宅ローンの70パーセントがサブプライムや非従来型ローンで占められ、発行額は2001年の1000億ドルから2005年の1兆ドルまで増加した{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=73-74}}。}}{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=64-67}}。
2004年6月30日の[[連邦公開市場委員会]](FOMC)から政策金利は引き上げに転じた。2004年-2006年にかけてアメリカでは住宅ブームが生じ、低利の2段階変額ローンにより募集された不動産担保ローンが大量に組成された{{efn|最初の3年は低利固定型の返済で、残金は4年目以降に変額型金利ローンとなる契約のものが中心だった。住宅価格が上昇する間は短期で住宅を転売することで有利に住宅を購入でき、あるいは転売益が期待できるというものであった。また値上がりによる担保価値の上昇分を担保にさらにクレジットローンを提供するサービスなども登場した{{Sfn|柴田|2016|loc=序章}}。}}。少なからぬ利用者が住宅価格の上昇の恩恵を受けた。この住宅ローンの個別債権は、欧米の主要銀行がSPVなどを利用してMBSに証券化した{{Sfn|柴田|2016|loc=序章}}。
MBSは高利回りの金融商品として世界各国に販売された。[[格付け機関]]の[[ムーディーズ]]や[[スタンダード&プアーズ]]はMBSにトリプルAの格付けをして信用を与えたが、これらの格付け機関は選出基準が不透明だった{{efn|トリプルAを提供しない評価モデルを使っていた[[フィッチレーティングスリミテッド]]は、サブプライムビジネスにほとんど関与できなかった{{Sfn|トゥーズ|2020|p=75}}。}}。さらに、格付け機関は商品リスクを知りながら高い格付けを与えていたことが、のちに議会の調査で明らかになっている{{efn|ある格付け専門家の2006年のメールには、「砂上の楼閣が崩壊するまでに、私たち皆が金持ちになり、引退していますように」と書かれていた{{Sfn|トゥーズ|2020|p=75}}。}}{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=74-75}}。貸し倒れに対する保証としては[[クレジットデリバティブ]]([[Collateralized Debt Obligation|債務担保証券]]:CDOや[[クレジット・デフォルト・スワップ]]:CDS)などの金融商品が利用された。
この住宅ローンは借り換え期の4年目以降に急激に金利が上昇するため、当初から危険性は指摘されていた。契約内容を理解できていない借手に、返済能力を無視して貸付を行う行為が横行したため、{{仮リンク|略奪的貸付|en|predatory loan}}とも呼ばれて問題となった。しかし、住宅価格が上昇する局面では警鐘はかき消された。ちょうどブーム3年目にかかる2006年1月頃から住宅価格のかげりが見え始め、不動産担保証券の貸し倒れリスクが注目され始めた{{Sfn|福光|2005|pp=58, 70-73}}<ref>[http://www.standardandpoors.com/indices/sp-case-shiller-home-price-indices/en/us/?indexId=spusa-cashpidff--p-us---- S&Pケースシラー住宅価格指数]</ref>。サブプライムローンの債務者の一部は住宅価格の上昇を見込んだ返済計画を建てていたため、住宅価格低下の影響で利払い延滞率が急増した。債務者の延滞が顕著になると、サブプライムローンの直接の貸し手である[[住宅金融専門会社]]に対する金融機関の融資が慎重になり、住宅金融専門会社では資金繰りが悪化して経営破綻が出始めた。サブプライムローンは貸し倒れの危険を分散させるために分割・証券化されて金融商品に組み入れられていたため、金融商品そのものに対する信用リスクが連鎖的に広がった。リスクを警戒し、2006年から住宅ローン売買を減らした投資銀行もあったが問題の解決にはならなかった{{Sfn|トゥーズ|2020|p=74}}。
== 危機の顕在化 ==
[[File:Chart of NASDAQ, DJI, FF, USGG10YR, JPY-USD and EUR-USD 2004-.png|400px|right|thumb|上段よりNASDAQ<ref name=NASDAQ />、ダウ平均株価<ref name=DJI /> のローソク足(月足)、フェデラル・ファンド金利誘導目標<ref name=Fed.of.StLouis /><ref name=BOJ />(赤)、米国債10年物利回り<ref name=Fed.of.StLouis/>(青)、JPY/USD<ref name=Fed.of.StLouis />(黄緑)、EUR/USD<ref name=Fed.of.StLouis />(紫)の月末値推移(2004年1月~2009年12月)。<br />なお、各国の株式相場は2008年11月から2009年3月をおおむねの底値圏として上昇に転じ、2010年の3月時点では各国の株価は[[リーマン・ショック]]以前の水準に回復した。金融危機の発端であるアメリカでは、ダウ平均株価が2010年4月1日に1万0927.07ドルと、2008年9月26日の株価まで回復した。<br />日経平均株価は2010年4月1日に1万1286.09円を記録し、2008年10月1日以来約1年半ぶりの高値水準となった。しかし同年5月には、再び1万円を割り込んだ。]]
===サブプライムローン危機===
景気後退は2008年秋の銀行危機よりも2年以上早く表れており、住宅投資は2006年第2四半期には17%下落を始めていた{{efn|2007年の第4四半期から2008年の第1四半期には前年比で30%の下落となった{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=833-841/4780}}。}}。[[全米経済研究所]]によれば、景気後退はリーマン・ブラザーズ破綻の9ヶ月前に始まっている。耐久消費財や自動車の支出下落、大量解雇も銀行危機より早く起きており、しかも大西洋を越えたヨーロッパで影響が出ていた{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=833-860/4780}}。
2007年1月から不動産担保ローンの破産が顕著になり、5月にスイス最大の銀行[[UBS]]が{{仮リンク|ディロン・リード・キャピタルマネジメント|en|Dillon, Read & Co.}}(DRCM)を閉鎖した。6月は[[ベアー・スターンズ]]のヘッジファンドに対する債権者[[メリルリンチ]]が担保の債務担保証券(CDO)をわずかしか売却できず、この時点でCDOには国際流動性を期待できなくなっていた。7月には、特別目的事業体(SPV)を通じてCDO等に投資していた{{仮リンク|IKB ドイツ産業銀行|en|IKB Deutsche Industriebank}}が公的支援を受けることになった。8月はドイツの[[NRW.BANK]]による支払い停止や、フランスの[[BNPパリバ]]による3つのファンド凍結などが相次いだ。パリバが「アメリカ証券市場の一部で流動性が消滅したため、一部の資産評価が不可能になった」という声明を出すと危機の認識が広まり、2007年10月にはイギリスで住宅価格が急落した<ref>{{cite web|url=http://www.bloomberg.com/apps/news?pid=20601087&refer=home&sid=aNIJ.UO9Pzxw |title= BNP Paribas Freezes Funds as Loan Losses Roil Markets |publisher=Bloomberg |accessdate=2010-02-11}}</ref>{{Sfn|柴田|2016|pp=42-48}}{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=165-167}}。
[[資産担保証券]](ABS)も価格を下げて国際流動性を失い、これを担保とする資産担保コマーシャルペーパー(ABCP)の借換発行もむずかしくなった。ABCPを簿外勘定に出していた銀行は、流動性を失ったABCPを保有することになった。預金債務が膨張したので、銀行とFRBは事後的な信用創造にはげみ、そこでうまれた[[預金通貨]]は機関投資家によってマネー・マーケット・ファンド(MMF)やレポ債権に転換された。ヨーロッパ系銀行は危機発生に先立つ数年間、100以上のSPVのため直接または間接のスポンサーになっていた。これらのABCPは数千億ドル規模のABSをアメリカ市場で販売していた。その流動性が2007年8月に失われると、償還するためにヨーロッパ系銀行は在米支店からドル資金を調達した{{Sfn|柴田|2016|pp=42-48}}。短期金融市場から調達された資金を引き揚げられて、シャドーバンキングは脆弱性を露呈した{{Sfn|北原|2012|p=}}。
アメリカを中心として会計基準には時価評価主義が採用されており、サブプライム危機が短期間で拡大する一因となった。時価評価では、金融資産の減価は自己資本減少と機関投資家が発行する株式の減価に直結するので、その株式を保有する企業が発行する株式も減価となる。こうして負の連鎖が拡大した{{efn|これに対して[[取得原価主義]]であれば、機関投資家は株式などの金融資産で含み益を持つことができる。アメリカは[[世界恐慌]]の影響で資産の再評価を認めない取得原価が採用されたが、のちに時価評価に変わっていた{{Sfn|辻村|2009|pp=91, 96, 102}}。}}{{Sfn|辻村|2009|pp=91, 96, 102}}。
==
2008年3月に[[ベアー・スターンズ]]の経営危機が明らかになると、金融危機が世界的に報道され始めた。9月に入って、政府支援機関(GSE)のフレディマックとファニーメイが実質的破綻に陥り、9月15日には[[リーマン・ブラザーズ]]が[[連邦倒産法第11章]]適用を申請し、負債総額6390億ドル(約64兆円)というアメリカ史上最高額の経営破綻を起こした{{efn|リーマンの抱えていた問題は次のようなものであった。(1) MBSやCDOの不良債権化による自己資本の毀損、(2) 90万を超えるCDS契約によるカウンター・パーティ・リスクの増大、(3) CP債務78億ドルとレポ債務1970億ドル(2008年3月末)。}}。さらに[[バンク・オブ・アメリカ]]による[[メリルリンチ]]の買収、保険会社[[アメリカン・インターナショナル・グループ]](AIG)の国有化など、金融機関の再編が進んだ。
[[ファイル:Lehman Brothers-20080915.jpg|right|thumb|180px|2008年9月15日、連邦倒産法第11章を申請したリーマン・ブラザーズの様子]]
9月のショックで、リーマンの決済銀行である[[JPモルガン・チェース]]、[[シティグループ]]、[[バンク・オブ・アメリカ]]はレポ債権の追加担保を要求したが、貸付が打ち切られ倒産した{{efn|他方、AIGは高格付けCDOのデフォルト率を低く見積もっていたので、CDSのネットでの売りポジションをヘッジしていなかった。AIGの売ったCDSは多くの投資銀行に保有されていたので、リーマンと異なり公的資金が投入された{{Sfn|柴田|2016|pp=52-54, 56}}。}}。リーマン・ショックはリーマン債を保有していたMMFを元本割れさせた。9月19日、MMF保険創設のため連邦政府が為替安定基金から最大で500億ドルを取り崩す方針が公表された{{efn|リーマン保有のCDSは、リーマンの清算価格が8.625%に決まったので、CDSの売り手に91.375%を保証させた{{Sfn|柴田|2016|pp=52-54, 56}}。}}。リーマン以外の清算ケースでもCDSは同様の状態であり、CDSの売り手となっていた金融持株会社、投資銀行、保険会社、ヘッジファンドなどは、短期金融市場からの資金調達を金利の急騰に阻まれた。ヨーロッパ系銀行もドル建て流動性資金について同じ境遇であり、新興国経済から資金を引き揚げた。この資金引き揚げによって、中欧・東欧・南欧にも金融危機が波及した{{Sfn|柴田|2016|pp=52-54, 56}}。
2008年第2四半期から2009年第1四半期には、世界の資本移動の90%が消滅し、富裕国の資本移動は17兆ドルから1.5兆ドルへと減少した。2009年第2四半期は、IMFにGDP統計を提出している60カ国のうち52カ国でGDPが縮小した{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=185-187}}。[[サプライチェーン]]が同期しているためにアメリカやヨーロッパの需要減少は各国に波及し、世界貿易機関(WTO)が統計を取る104カ国の全てで輸出入が減少した。世界の原油価格は76%下がり、産油国で財政赤字が続出した{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=183-185}}。
=== 対策 ===
各国政府が金融機関を支援した主な方法は4通りであり、(1) 銀行への貸付、(2) 銀行の資本増強、(3) 資産買い入れ、(4) 銀行のバランスシートに対する国家の保証、があった{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=194-195}}。2008年10月10日には[[G7]]の[[財務大臣・中央銀行総裁会議|財務相・中央銀行総裁会議]]、10月11日にはG20の財務相・中央銀行総裁会議が開催され、共通の方針が5つにまとめられた。(1) 重要な金融機関の破綻を避ける。(2) 資本増強を支援する。(3) 銀行間取引の流動性を確保する。(4) 預金保険の整備。(5) 証券化資産の流通市場の再構築である{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=223-224}}。
; 国際通貨基金
2008年から[[国際通貨基金]](IMF)の支援を求める国家が相次いだ。2008年10月のハンガリーに続いて、アイスランド、ラトビア、ウクライナ、パキスタンが支援を受けた。2009年にはアルメニア、ベラルーシ、モンゴル、ルーマニアが支援を受け、予防措置の貸付がコスタリカ、エルサルバドル、グアテマラ、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナに行われた。さらにアメリカ発案のフレキシブル・クレジット・ファシリティがメキシコ、ポーランド、コロンビアに提供された。IMFは支援の条件として緊縮経済政策を求めたが、緊縮政策の受け入れが国内に対立を起こす事態も起きた{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=269-270}}。
; FRBの流動性供給・通貨スワップ
2007年にはヨーロッパのホールセール資金調達市場が不振であり、[[欧州中央銀行]](ECB)や[[イングランド銀行]](BOE)は資金を注入した。しかし注入できる通貨は[[ユーロ]]や[[ポンド]]であり、[[USドル|ドル]]が求められていた。金融危機の間はドルの調達が困難であり、ヨーロッパ系銀行は資金調達に苦しんだ。FRB議長の[[ベン・バーナンキ]]はヨーロッパ系銀行がドルの資金調達を求めていることを理解し、FRBはドル建てのポートフォリオを維持するために2008年秋からドルで流動性ファシリティ(信用供与契約)を始めた。FRBによる供与は、レポ取引、ABCP、MBS、通貨スワップなどシャドーバンキングに関わるものに結びついており、内部関係者は契約についての難解な頭字語をまとめて「ホビット族」と呼んだ{{efn|{{仮リンク|ターム・オークション・ファシリティ|en|Term Auction Facility}}(TAF)、{{仮リンク|プライマリー・ディーラー向け貸出ファシリティ|en|Primary Dealer Credit Facility}}(PDCF)などへの支援の他に、FRBみずからがSPVを設立して貸出業務を行うという方策も用いた{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=241-243}}。}}。
2008年9月18日には日米欧の6中央銀行が[[通貨スワップ協定]]による大量のドル供給を開始した{{efn|6中央銀行はFRBのほか日本銀行、ECB、BOE、[[カナダ銀行]]、[[スイス国立銀行]](SNB)。{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/economy/finance/080919/fnc0809190001000-n1.htm|title=日米欧の6中央銀行 大量のドル供給は危機感の表れ|publisher=MSN産経ニュース|date=2008-09-19|accessdate=2008-09-19}}{{リンク切れ|date=2018-04}}<br />}}。その後、個別にドル資金供給を行っていた9中央銀行を含め計15中央銀行がドル供給を10月末まで延長した{{efn|供給を行った中央銀行はFRB、日銀、ECB、BOE、SNB、カナダ銀行、[[デンマーク国立銀行]]、[[ノルウェー中央銀行]]、[[オーストラリア準備銀行]]、[[スウェーデン国立銀行]]、[[ブラジル中央銀行]]、[[韓国銀行]]、[[メキシコ銀行]]、[[ニュージーランド準備銀行]]、[[シンガポール金融管理局]]である{{Sfn|柴田|2011|p=9}}。}}。通貨スワップの協定によって、ドル・ユーロ・ポンドの通貨危機は防がれた{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=237, 246-248}}。FRBは緊急支援に加えて、2009年には[[QE1]]と呼ばれる量的緩和も行った。FRBが受け入れたMBSの52%がヨーロッパをはじめとする国外の銀行のものであり、FRBが[[最後の貸し手]]として機能した{{efn|最後の貸し手とは、通常は中央銀行に求められる役割である。[[市中銀行]]の取り付け騒ぎの防止策として、中央銀行が最後の貸し手となって市中銀行に制限なく貸し出しをしたり、銀行預金に保険をかける{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|p=2949/4780}}。}}。しかし、FRBの2007年から2009年にかけての流動性供給は当時は極秘とされ、2010年にドッド=フランク法や情報公開訴訟をきっかけに公開された{{efn|危機の最中に公開すれば、流動性支援が必要な銀行が明らかになるため、FRBは法的手段も使って秘密を守ろうとした{{Sfn|トゥーズ|2020|p=252}}。}}{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=236-244, 250-252}}。
FRBによる拡充とは別に、他の地域においても金融危機対策として通貨スワップが行われた。ユーロのスワップ協定はECBによってスイス、デンマーク、ハンガリー、ポーランドに拡充された。SNBはスイスフランのスワップ協定を締結した。ブラジル・アルゼンチンや、中国・韓国は自国通貨同士のスワップ協定を締結した。中国は他にも香港、マレーシア、ベラルーシ、インドネシア、アルゼンチンとスワップ協定を結んだ。アジアでは、[[アジア通貨危機]]の時に結ばれた[[チェンマイ・イニシアティブ]]にもとづいて複数国間の契約が実現した{{Sfn|柴田|2011|pp=9-10}}。
; 会計監査
2008年11月14日-15日の[[ワシントン・サミット]]で[[G20]]が金融安定化のための[[国際会計基準]]について声明を行った。対応を求められた[[国際会計基準審議会]](IASB)は会計基準を変更し、IAS39号およびIFRS7号で認められていない金融資産の保有目的区分の変更を条件つきで認めた。これは[[国際財務報告基準]](IFRS)を採用しているEU企業が、アメリカ企業に対して不利にならないようにEUが要請したとされる{{Sfn|森|2019|p=63}}。この変更で適正手続([[デュー・プロセス・オブ・ロー]])を取らなかったためにIASBは批判を受けた{{Sfn|森|2019|pp=63-68}}。
サブプライムローンが証券化されて急拡大した際、会計事務所の中にはそれらの金融商品が投機的であると警告を発するところもあったが、危機の防止にはいたらなかった。世界金融危機の処理にあたっては、経営者や金融機関に加えて監査法人も非難された。世論は監査の適切さを疑い、企業や金融機関は監査法人が資産価値を過小評価したと主張した{{Sfn|ソール|2018|pp=No.4543-4611/5618}}。
==
=== アメリカ合衆国 ===
[[File:President George W. Bush bipartisan economic meeting Congress, McCain, Obama.jpg|thumb|right|250px|2008年9月25日にブッシュ大統領が救済策を話し合った際、次の大統領候補だった[[バラク・オバマ]]と[[ジョン・マケイン]]が出席し、いずれも緊急経済安定化法案に賛成した。]]
; 緊急経済安定化法案
アメリカのジョージ・ブッシュ政権は2008年に最大7000億ドルの公的資金を投入する法案の策定に着手した。{{仮リンク|法律番号 H.R.1424|en|Public Law 110-343}}にあたり、{{仮リンク|不良資産救済プログラム|en|Troubled Asset Relief Program}}(TARP)や[[緊急経済安定化法]]が作成された。事前に議会指導部と政府は合意しており、9月29日の法案成立は確実とみられていた。しかし、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の議員はアメリカの伝統的な自己責任の価値観にもとづいて多数が反対票を選んだ。このため予想に反してブッシュ大統領が属する共和党の反対によって下院で否決された{{efn|共和党からは、この法案が社会主義でアメリカにふさわしくないという批判もあった{{Sfn|トゥーズ|2020|p=211}}。}}。この日の[[ニューヨーク証券取引所]]のダウ平均株価は史上最大となる777ドルの下落を記録し、世界中でも[[信用収縮]]が起こった<ref name="nikkei20080930">{{Cite news|url=http://www.nikkei.co.jp/news/main/20080930AT2M3000E30092008.html|title=NYダウ最大の下げ、終値777ドル安 下院が金融安定化法案否決|newspaper=日本経済新聞|date=2008-09-30|accessdate=2008-09-30|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081003003842/http://www.nikkei.co.jp/news/main/20080930AT2M3000E30092008.html|archivedate=2008-10-03}}</ref>{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=211-216}}。
[[ファイル:Vix Oct08.png|right|thumb|350px|恐怖指数の推移]]
その後、緊急経済安定化法案は修正を加えて10月3日午後1時に成立した。しかし当日の米国株は後場急落し、翌週10月6日から10月10日の1週間は世界の株式市場は大きく下落した{{efn|欧州の金融機関の危機やカリフォルニア州の州財政の危機などが市場で蒸し返されたとされる。[[ニューヨーク]]や[[ロンドン]]などの主要市場は大きく株価が下落し、[[モスクワ証券取引所]]、[[イスタンブール証券取引所]]、[[インドネシア証券取引所]]など新興国の株式市場でも急落や閉鎖が起きた。}}。これに対して10月8日には欧米の中央銀行が協調利下げに踏み切り、[[ヘンリー・ポールソン]][[アメリカ合衆国財務長官|財務長官]]が金融機関への公的資金注入を示唆したが、株価の下落は止まらなかった。10月10日は、株価変動確率の激しさを表すボラティリティインデックス(VIX、通称[[恐怖指数]])と呼ばれる指数が、1997年の[[アジア通貨危機]]の約38、2001年の[[アメリカ同時多発テロ事件]]の約45を上回って75を超えるなど、市場は混乱した。財務省・FRB・[[連邦預金保険公社]](FDIC)は主な9銀行への公的資金注入を検討し、13日の銀行との会合で承認を得た{{efn|銀行は公的資金注入を受け入れる代わりに、企業当座預金と2009年夏までの新規債券に対して、同年の満期となる債券の125%を上限にFDICの保証を得た。配分はニューヨーク連銀の[[ティモシー・ガイトナー]]によって決められた{{Sfn|トゥーズ|2020|p=229}}。}}{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=228-229}}。製造業大手では[[クライスラー]]と[[ゼネラルモーターズ]](GM)が破綻の可能性に陥り、GMは事実上国有化された{{efn|[[2009年]]6月1日にGMは連邦倒産法第11章の適用を申請し、負債総額は1,728億ドル(約16兆4100億円)という製造業としては史上最大であった。GMはアメリカ政府が60%、カナダ政府が12%の株式を保有した<ref name="asahi20090601">{{Cite news|url=http://www.asahi.com/special/08017/TKY200906010065.html|title=GM破綻、米政府が発表 破産法申請「国有化」で再建へ|publisher=[[朝日新聞]]|date=2009年6月1日|accessdate=2019-04-05}}</ref>}}。
=== 中南米 ===
中南米は、アジアやアフリカと同様に金融危機の影響が比較的軽微にとどまった。過去の通貨危機や金融危機の経験を参考にして、外貨準備を維持する対策がとられていた。それが、(1) 対外資産の蓄積、(2) 国内金融資本市場の発展、(3) 短期資本移動規制など政府や中央銀行の政策である。2008年第3四半期には資本流入が減ったものの、それまでの純資本流入と経常黒字によって外貨準備が比較的豊富だった。中央銀行の多くは外国為替市場に介入して外貨の流動性を供給し、チリやブラジルでは先物市場で取引を行い、外貨準備の維持に成功した{{Sfn|柴田|2011|pp=8-9}}。[[北米自由貿易協定]](NAFTA)によってアメリカとの貿易が密接なメキシコは、原油以外の輸出が28%減、輸出加工区の[[マキラドーラ]]は雇用が20%減少した{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=183-185}}。
=== 西ヨーロッパ・南ヨーロッパ ===
サブプライムローンの証券化はアメリカ国外から資本を集めることを目的としており、ヨーロッパの金融機関も深く関わった。2000年代にヨーロッパ系銀行の国際業務は拡大し、ドルで借りてドルで運用する取引が8兆ドルを越えた。この取引でドルの資金調達のリスクを抱えることになり、サブプライムローン危機でリスクが現実となった{{Sfn|柴田|2011|pp=4-5}}。ヨーロッパ系銀行は2006年には新規の不動産担保証券(MBS)の30%を裏づけをしており、アメリカに現地法人を設立をしてサプライチェーンを一体化していた。2007年下半期からドイツ、イギリス、フランス、スイス、ベネルクスの銀行は損失によって貸出を減らし、フランスの[[ソシエテジェネラル]]を早い例として、G7の核をなす[[メガバンク]]の[[自己資本利益率]]が低迷し、イギリスの[[ロイヤルバンク・オブ・スコットランド]](RBS)が大ダメージを受けた。スイスはUBSが破綻の危機に見舞われたが、早い段階でUBSを監督下に置いて対策をした{{Sfn|坂本|2015|pp=}}{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=85-88, 179}}。
2007年には影響が出ていたにも関わらず、ヨーロッパ諸国の政治家は2008年8月頃まで金融危機をアメリカの国内問題と解釈していた{{efn|ドイツの[[ペール・シュタインブリュック]]財務大臣は、アメリカはまもなく金融大国の役割を失うと発言した。フランスの[[ニコラ・サルコジ]]大統領は[[自由放任主義]]が終わったと発言した。イタリアの{{仮リンク|ジュリオ・トレモンティ|en|Giulio Tremonti}}財務大臣は、イタリアの銀行システムは英語を話さないので大丈夫だと語った{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=85-88, 179}}。}}。さらに、ヨーロッパはアメリカよりも損失が軽いので各国の対応で解決できると考えた。これに対してオランダの[[ヤン・ペーター・バルケネンデ]]政権は2008年9月に銀行救済基金を提案し、欧州の全国家がGDPの3%を使った基金の設立を訴えた。オランダ政府の提案はフランスの賛同を得て、[[クリスティーヌ・ラガルド]]財務相は共同対策を主張した。しかしドイツの[[アンゲラ・メルケル]]政権や、ヨーロッパ中央銀行(ECB)の[[ジャン=クロード・トリシェ]]総裁、[[ユーログループ]]の[[ジャン=クロード・ユンケル]]議長らの賛同を得られず実現しなかった{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=217-218}}。
; フランス
フランスでは主な銀行の損失が比較的少なく、回復の仕組み作りが成功した。10月16日に緊急資本注入と再融資案が成立し、BNPパリバをはじめとする主な銀行は[[国家資金保証公団]](SPPE)の資本注入に同意した。再融資においては、{{仮リンク|フランス経済財政公団|fr|Société de financement de l'économie française}}(SFEF)が銀行のために政府保証債を発行して主な6行が引き受けた{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=225-226}}。
; ドイツ
ドイツの[[アンゲラ・メルケル]]政権は金融市場安定化基金の創設を検討したが、連邦議会で否決された。[[ドイツ銀行]]は政府の支援を避けるために、会計操作や湾岸国の政府系ファンドからの資金調達をした。政府は不動産金融大手の{{仮リンク|ハイポ・リアル・エステート|en|Hypo Real Estate}}(HRE)を破綻から救済し、取り付け騒ぎ防ぐために貯蓄預金の全額保護を発表した{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=219-220, 226-227}}。
; イギリス・アイルランド
イギリスは[[ゴードン・ブラウン]]政権が2008年10月8日に銀行の救済を決定し、救済策を3つに分けて行った。(1) RBSや[[HBOS]]など主な8行に資本増強の要求、(2) 新たな債権の保証に2500億ポンドを投入、(3) イングランド銀行の特別流動性スキームの2000億ポンド増額である。不良債権管理のために[[UKフィナンシャル・インベストメンツ]]が設立され、RBSやHBOSはのちに国有化された{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=222-223}}。
アイルランドでは、アメリカの緊急経済安定化法否決の影響で2008年9月に信用収縮が起き、大手3行は破綻寸前となった。アイルランドの銀行のバランスシートが合計でGDPの700%に達したため、[[ブライアン・カウエン]]政権は取り付け騒ぎを防ぐために全ての債務の2年間保証を発表した。アイルランドの銀行はイギリスの金融システムと密接であるため、イギリスはフランス、オランダ、ドイツなどの国と対策を協議した。ヨーロッパで共同基金を設立して銀行を救済するというオランダの案もあったが、EU統合を進める[[リスボン条約]]がアイルランド自体の国民投票で2008年6月に否決されていた経緯も影響し、実現しなかった<ref name="nikkei20080930" />{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=211-219}}。
; スペイン
[[File:Puerta de Europa I (Madrid) 01.jpg|thumb|バンキア本社があった[[マドリード]]の[[プエルタ・デ・エウローパ]]。バンキアは不良債権処理のために設立されたが2012年に破綻した。]]
ヨーロッパで不動産バブルが最も盛んだったのは、アイルランドとスペインだった。ユーロ圏の2007年から2012年の失業者はスペインが最も多く、660万人のうち60%(390万人)を占めた。スペインの不動産融資で中心だったのは、カハ(caja)と呼ばれる中小の貯蓄銀行だった{{efn|カハの多くは、スペインの二大政党のいずれかに関係していた{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=512}}。}}。スペインの[[ホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ]]政権は不良債権処理のために2010年に[[バンキア]]を設立し、カハの整理を進めた{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=512-513}}。
=== 東ヨーロッパ・北ヨーロッパ ===
東欧諸国は危機発生まで成長を続けていたが、資金の調達は西ヨーロッパ系銀行からであった。四半期ごとに500億ドルが東欧や[[NIS諸国]]に流入していたが、危機によって流れが反転し、2008年第4四半期から2009年第1四半期にかけて1500億ドルが流出した。ハンガリー、ブルガリア、ルーマニアは債務の半分が国外からの融資であり、ハンガリーでは円高の影響によって円建ての世帯が最も債務負担が増えた。東欧はFRBの通貨スワップ枠に含まれておらず、ECBはユーロ建ての資金しか送れないので問題の解決にはならなかった。ハンガリーはIMFに支援を要請したが、支援の条件だった緊縮政策は国内の不満を高める結果となった{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=266-270}}。2009年には東欧のEU加盟国をユーロ圏に加盟させてECBが支援するという要請もあったが、ECBの賛成は得られなかった{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=272-275}}。
; バルト三国
[[バルト三国]]はEUと[[北大西洋条約機構]](NATO)加盟に続けてユーロ圏への加盟を進めていたが、危機によって国外の資金調達が止まった。バルト三国の通貨はユーロ圏への統合の途上にあるために為替レートが固定されており、通貨切り下げが困難で苦境に陥った{{efn|[[カレンシーボード制]]や{{仮リンク|アジャスタブル・ペッグ制|en|adjustable peg}}を採用していた{{Sfn|金京|2010|p=69}}。}}。特にラトビアは巨額の経常赤字があり、スカンジナビア系の銀行である[[スウェドバンク]]と[[ノルデア銀行|ノルディア銀行]]が関与しているため問題となった。[[欧州委員会]](EC)は、GDPの35%を支援する条件として、経常収支を調整する緊縮財政をラトビアに求めた。ラトビアは破綻を防いだが、緊縮財政によって大きなダメージを受けた{{efn|住宅価格は50%減、公務員解雇で教師の30%減、公務員給与の35%削減などが行われ、失業率は20%となった{{Sfn|トゥーズ|2020|p=275}}。}}{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=272-275}}。
; アイスランド
[[アイスランド]]は危機発生の時期には最悪とも評されたが、最も対策に成功した国の一つとなった。危機以前には1990年代から[[タックスヘイブン]]としての機能を充実させ、2000年代には商業銀行と投資銀行の融合やヘッジファンドへの投資、不動産バブルが進んだ。所得格差が広がり、2006年以降には金融機関やエコノミストから警告があったが、財界に無視された{{efn|金融危機以前のアイスランドでは、人口1%未満の金融界や実業界に富が集中していた{{Sfn|スタックラー, バス|2014|pp=1575,/4865}}。}}{{Sfn|スタックラー, バス|2014|pp=1518-1554/4865}}。危機発生後の2008年10月には大手銀行が国有化され、株価は10%となり、人気があったネット預金{{仮リンク|アイスセーブ|en|Icesave}}も破綻し、失業率は7.6%となって欧米メディアでは世界最悪と報道された{{Sfn|スタックラー, バス|2014|pp=1466-1479, 1561/4865}}。対外債務が9兆5000億クローナとGDPの900%に達したためIMFの支援を受けたが、[[オラフル・ラグナル・グリムソン]]大統領はIMFが求める緊縮策を拒否し、国民投票を行った。その結果、アイスセーブ破綻の補償も拒否することになった。他方で政府は社会保障を維持して医療・再就職・住宅の支援を行った。歳入増加と所得格差の是正を目的に富裕層へ増税をし、危機の原因となった投機的な銀行への責任追及も行った。一連の政策によって、アイスランドはヨーロッパの中では速やかに回復へと向かった{{Sfn|スタックラー, バス|2014|pp=1812-1893/4865}}。
=== NIS諸国 ===
; ロシア
ロシアは天然資源の利益がGDPの20%を占めており、危機による原油の暴落でロシアの銀行・原材料企業・新興財閥である[[オリガルヒ#ロシアのオリガルヒ|オリガルヒ]]の対外債務は5400億ドルまで増加し、ロシアの公的準備金に匹敵する規模になった。[[南オセチア紛争 (2008年)|南オセチア紛争]](2008年8月)の影響でロシアに対する海外の投資家離れも止まらず、株価下落が続いた。2008年9月から[[ドミートリー・メドヴェージェフ]]大統領と[[ウラジーミル・プーチン]]首相の政府はオリガルヒを支援したが、株式市場の安定化にオリガルヒの資金が使われ、小規模な銀行の救済には国営の{{仮リンク|ロシア開発対外経済銀行|en|VEB.RF}}(VEB)があたった。政府予算の9.7兆[[ルーブル]]の25%が金融危機対策として雇用創出・産業助成・減税などに使われ、国家規模から計算すると世界最大級であった{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=259-263}}。
; ウクライナ
経済発展のために西側からの資金調達を続けており、2008年までの国内企業の資金調達の45%、一般世帯向けローンの65%が国外からであり、オーストリアとフランスの銀行など400億ドルにのぼっていた。危機によって貸付が止まると鉄鋼業を中心とする輸出が減少して雇用問題が起きたため、10月にはIMFの支援164億ドルを受け入れた。IMFは条件として予算資金の確保、通貨[[フリヴニャ]]の切り下げ、金融システムの安定を求めた。国内では、IMFの緊縮策を受け入れた[[ヴィクトル・ユシチェンコ]]大統領や[[ユーリヤ・ティモシェンコ]]首相への不満が高まり、かつて不正選挙で[[オレンジ革命]](2004年)の原因になった[[ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ]]に支持が集まった。2009年には天然ガスをめぐって[[ロシア・ウクライナガス紛争]]が起き、ロシアとの対立が深まっていった{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=276-278}}。
=== アジア ===
アジア諸国は、アメリカ合衆国やヨーロッパと比べて影響が比較的小さかった。原因として、金融機関の資金調達で海外資金への依存が低かった点にある。資本の流入や国内の信用残高は増えておらず、タイ、インド、マレーシアのように対GDP比では減少していた国もあった。しかし、金融危機の影響で起きた貿易の減少と、欧米の金融機関の資金引き揚げによって、2008年後半から2009年には中国、インドネシア、フィリピンなどをのぞくアジア諸国はマイナス成長となった{{Sfn|渡邉|2010|pp=51-52}}{{Sfn|金京|2010|pp=66-68}}。
; 中国
[[中華人民共和国|中国]]の金融機関に影響が少なかったのは、大きく2つ理由がある。(1) 資本取引を規制していたため、金融機関の資金調達は制限されていた{{efn|資産運用に関しては特別許可の案件か、{{仮リンク|合格境内机构投资者|en|Qualified Domestic Institutional Investor}}(QDI)と呼ばれる案件でだけ認められていた{{Sfn|渡邉|2010|p=53}}。}}。(2) それまでの銀行は中央銀行や政府の指示に従って貸付をしており、リスクを取って利益追求をする業務が少なかった{{efn|[[4大国有商業銀行]]と呼ばれる大銀行の中で、[[中国工商銀行]]、[[中国銀行]]、[[中国建設銀行]]は株式公開を終えたばかりだった{{Sfn|渡邉|2010|p=53}}。}}{{Sfn|渡邉|2010|pp=52-53}}。
実体経済への影響は2008年の第3四半期からとなった。中国は危機以前から急成長で輸出大国になっており、輸出先であるヨーロッパの不振の影響を受けた。2008年7月は輸出25%増、輸入30%増、外国直接投資が65%増だったが、6ヶ月後には危機の影響で輸出18%減、輸入40%減、外国直接投資が30%減となった。[[上海証券取引所]]は[[2008年北京オリンピック|北京オリンピック]]を前に下落に転じた。ただし中国は内需を拡大しており、危機進行中の2008年時点でも消費は年間20%の上昇をみせていた。中国は危機にあたってアメリカのGSE保有を2007年水準まで減らし、他方で米国債が望ましい資産となったために財務省証券の購入を増やした{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=281-282}}。
[[胡錦濤]]政権のもとで、2008年11月には[[中国国務院]]が緊急会合を開いた。[[王岐山]][[国務院副総理]]の主導で対策が立案され、財政政策としては4兆元(5860億ドル)の{{仮リンク|内需拡大十項措置|en|Chinese economic stimulus program}}が進められた。この支出は[[中華人民共和国の高速鉄道|高速鉄道]]・道路・飛行場・水利施設などのインフラに使われた{{efn|10大産業支援策として、自動車・鉄鋼・紡績・設備機械・船舶・石油化学・軽工業・有職金属・電子情報・物流に支援が行われた{{Sfn|渡邉|2010|pp=53-55}}。}}。金融政策としては、2008年11月に[[中国人民銀行]]が緩和策として預金準備率・基準金利を引き下げ、2009年5月には「固定資産資本項目資本金比率に関する通知」として、多くの業種で銀行借り入れの債務比率を引き上げることを認めた。これらの大規模な緩和策で銀行貸付が急増して2009年の新規貸付は9兆6000億元となり、政府は貸付を慎重にするよう通知を出した。このため当時はバブルの可能性について懸念も広がった<ref>{{Cite web |date=2019-01-15 |url=https://newsphere.jp/economy/20190215-2/2/ |title=中国の高速鉄道、効率無視で負債86兆円 それでも建設は続く |publisher=newsphere |accessdate=2019-10-19}}</ref><ref>{{cite news |title=王岐山副首相、共産党規律委トップに 経済担当外れる |publisher=日本経済新聞 |date=2012-11-14|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM14037_U2A111C1000000/ |accessdate=2019-10-19}}</ref><ref>{{cite news |title=中国に迫られた2つの難題 財政出動と構造改革に矛盾 |publisher=産経ニュース |date=2016-02-27|url=http://www.sankei.com/world/news/160227/wor1602270046-n1.html |accessdate=2019-03-01}}</ref>{{Sfn|渡邉|2010|pp=53-55}}。
金融緩和と財政支出の組み合わせにより、中国は世界最速で金融危機を脱出した。2009年の中国の経済成長率は9.1%となり、2008年をわずかに下回る程度で、世界で最も高かった。効果の規模は、FRBが行なった流動性供給と並んで世界経済に影響を与えた{{Sfn|トゥーズ|2020|p=292}}。景気対策のために国債増発を必要としたアメリカ政府の要請に応え、[[アメリカ国債]]の大量購入でアメリカ経済を買い支えた<ref>{{cite news |title=中国、米国債を対米外交の武器に |publisher=[[日本経済新聞]] |date=2018-03-24|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO2854865024032018EA2000/|accessdate=2019-03-28}}</ref>、北京オリンピックの経済効果も相まって世界のGDP増加の過半数が中国に関連し、景気刺激策によってオーストラリアやブラジルなど多くの貿易国が利益を得た<ref>{{cite news |title=論評:「10年前に中国に助けられ、今日は恩をあだで返す」 |publisher=[[CRI]] |date=2018-06-25|url=http://japanese.cri.cn/20180625/f5cf45dd-71b6-b897-efc7-b4b611e35070.html|accessdate=2019-01-25|author=}}</ref>。しかし、景気刺激策によって中国でもシャドー・バンキング・システムが拡大することにもなり、2010年代に大きな問題となる{{Sfn|梶谷, 藤井編|2018|pp=152-153}}。
; 東南アジア諸国
タイはGDPの70%を輸出や観光業が占めており、金融危機は国内の政権交代に拡大した。[[サマック・スントラウェート]]首相の辞任要求デモが行われて政権は2008年12月に解散し、次の[[アピシット・ウェーチャチーワ]]政権はただちに景気刺激策を行った。一般消費者への刺激策、高齢者への特別手当、公教育への補助、政府系銀行や小企業への融資などが実施された。輸出は2009年第3四半期に前年比で25%減となり、財政赤字はGDPの5.6%まで増加した{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=300-301}}。
マレーシアは輸出依存度が103%と高かったため実体経済への影響が大きく、2008年から2009年にかけて製造業は17.6%減、特に電子機器関連の工場は前年比44%減となった。[[アブドラ・バダウィ]]政権の景気刺激策は2009年にGDPの9%にあたり、バダウィ政権が解散したのちに[[ナジブ・ラザク]]が刺激策は自らの実績だったと主張し、ラザク政権が成立した{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=300-302}}。
インドネシアでは輸出依存度が20%と小さく、金融危機への景気刺激策は減税を中心としていた。減税額は公的支出の10%、GDPの1.4%にあたり、対象は9700万人の労働者と4800万の企業のうちで納税登録された1000万人と20万の企業となった{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=300-301}}。
; 韓国
韓国はアジア圏において比較的損失が大きく、貿易急減、通貨切り下げ、流動性の減少が重なった。韓国の銀行は海外からUSドルを調達したのちにウォンに転換し、国内の株や債券に投資するという方法をとっていた。そのために金融危機で海外資産が目減りし、海外からの借入も停止した。ドル不足とウォン急落が起き、アジア通貨危機の際と類似の状況となった。2007年第2四半期の187.46億ドルから2008年第1四半期の17.37億ドルまで減少した{{Sfn|渡邉|2010|pp=51-52}}。
; 日本
日本は[[失われた10年]]とも呼ばれた経済低迷や[[日本のデフレーション|デフレーション]]の只中にあったが、金融危機が金融機関に与えた影響はアメリカやヨーロッパと比べて少なかった。日本の銀行ではサブプライムローンの証券化商品の保有が少なく、310億ドルの損失にとどまった{{efn|保有が少なかった原因としては、(1) 円高期待によって、金融機関がUSドル建て金融商品を購入しなかった。(2) 金融当局の金融監督体制が改良されていた。(3) 証券化商品の資金調達がアメリカとは異なっていた。(4) 2000年代に住宅バブルがなかった。(5) 流動性供給の状況がアメリカとは異なっていた、などがある{{Sfn|鯉渕ほか|2014|pp=2, 10}}。}}。比較的損失が少なかったため、[[野村ホールディングス]]は、破綻したリーマン・ブラザーズの2/3(韓国を除くアジア・欧州・中東部門)を買収した。[[三菱UFJフィナンシャル・グループ]](MUFG)は[[モルガン・スタンレー]]の株20%を取得するために9000億円を出資したが、その後の株価は急落した。この出資は政府による支援の確約が条件で可能となった{{Sfn|トゥーズ|2020|p=209}}。
金融機関への影響と比べると、実体経済への影響は大きかった。中国・韓国・台湾向けの輸出減少によって輸出は50%減となった{{efn|[[トヨタ自動車]]は全世界の生産が22%減少し、[[ソニー]]は26億ドル、[[東芝]]は28億ドル、[[パナソニック]]は38億ドルの損失だった{{Sfn|トゥーズ|2020|p=184}}。}}{{Sfn|トゥーズ|2020|p=184}}。株価が急落し、[[日経平均株価]]は2008年10月8日と10月10日には歴代上位の下落率となった{{Sfn|鯉渕ほか|2014|pp=2-6}}<ref>[http://www3.nikkei.co.jp/nkave/about/down.cfm 日経平均プロフィル]</ref>。10月10日の[[日経225先物取引|日経先物]]では、株の売り注文が急増したために取引を強制停止させる[[サーキットブレーカー制度|サーキットブレーカー]]が史上2回目の発動をした。実質GDPは2008年第3四半期に3%、第4四半期に4%減少しており、これは同時期のアメリカを超える下落幅で、[[オイルショック|第一次石油危機]]も超えていた。企業は[[2009年問題]]もあって人員削減を進め、2009年3月末までに19万人の非正規労働者の雇用が失われた<ref>{{Cite news|url=http://www.nikkei.co.jp/news/main/20090331AT3L3006D30032009.html|title=非正規労働の失業、9カ月間で19.2万人 内定取り消し1845人|newspaper=日本経済新聞|date=2009-03-31|accessdate=2009-03-31|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090403014435/http://www.nikkei.co.jp/news/main/20090331AT3L3006D30032009.html|archivedate=2009-04-03}}</ref>。この人員削減が個人消費の落ち込みや内需悪化となり、さらに人員削減を招く悪循環が生じるという指摘もされた<ref>{{Cite news|url=http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2009-02-17/2009021705_01_0.html|title=経済悪化をくいとめ、雇用、社会保障、農業、中小企業を応援し、内需をあたためる予算に|newspaper=しんぶん赤旗|publisher=日本共産党|date=2009-02-17}}</ref>。一時期7000円台に下落した日経平均株価は2009年6月に10000円台に上昇し、先進国の中では素早い回復であった。しかし、2009年7月の失業率は戦後最悪の5.7%、完全失業者数は359万人に達した<ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/select/biz/subprime/news/20090828k0000e020003000c.html?inb=yt|title=失業率:過去最悪5.7% 有効求人倍率も最低更新…7月|newspaper=毎日新聞|date=2009-08-28|accessdate=2009-08-28|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090903024157/http://mainichi.jp/select/biz/subprime/news/20090828k0000e020003000c.html?inb=yt|archivedate=2009-09-03}}</ref>。
[[麻生内閣]]の対策は、財政拡張と金融緩和だった。財政政策では、2008年10月から2010年10月にかけて5回の補正予算が成立し、追加支出は42.7兆円となった。金融政策では、2008年12月にFRBにならって政策金利のコールレートを0.1%に引き下げて実質的にゼロ金利となった。[[日本銀行]]は他国の中央銀行と協調で市場に流動性供給を行った。財政拡大によって増えた国債は日本の金融機関が消化した。中小企業の資金調達が困難となったため、金融庁は2008年11月に銀行監督基準を緩和し、[[中小企業金融円滑化法]](2009年12月)へとつながった{{Sfn|鯉渕ほか|2014|pp=18-19}}。
=== アフリカ ===
アフリカの経済は、2003年からの資源価格の上昇を受けて成長していた。2008年9月15日には、株式時価総額が比較的大きい7カ国(南アフリカ、モロッコ、エジプト、チュニジア、モーリシャス、ザンビア、ナミビア)の株価はいずれも大きく下落し、南アフリカなどへの資金流入が減少した{{efn|当時この中で、ヨーロッパ依存の大きい国はモロッコ、チュニジア、モーリシャスであり、アメリカ依存の大きい国は南アフリカ、エジプト、ナミビアだった{{Sfn|杉本|2014|p=114}}。}}。しかし、金融危機の全体的な影響は欧米に比べると軽微だった。貿易の減少は、資源輸出国であるアンゴラ、ナイジェリア、ボツワナなどに影響を与えた{{Sfn|杉本|2014|p=107}}{{Sfn|杉本|2017|pp=103-104, 110}}。
== 危機後の各国GDPの推移 ==
{{Bar chart|float=center
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== 危機後の
2008年10月の各国の対応によって、金融危機はいったん収束へと向かう。アメリカでは銀行の資本増強が行われたが、ヨーロッパは共通の対策がドイツによって拒否されたために各国ごとの対策にとどまり、資本増強は不十分に終わった。この違いは、のちに2010年の[[2010年欧州ソブリン危機|ユーロ危機]]によって表面化した{{Sfn|トゥーズ|2020|p=235}}。全米経済研究所は2010年9月20日に、2007年12月からのアメリカの景気後退は2009年6月に終了していたとコメントした。しかしこれはアメリカ国内の[[景気循環]]について述べたものであり、余波について触れていない。世界金融危機によって[[韓国通貨危機]](2008年-)、[[ドバイ・ショック]](2009年11月)、ユーロ危機(2010年-)などが起きて経済にマイナスの影響を残したほか、[[2014年クリミア危機]]のように金融危機の余波による政治危機も起きている<ref>{{Cite news|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASGN2000B_Q0A920C1000000/|title=直近の米景気後退「戦後最長」 09年6月終了と判定|newspaper=日本経済新聞|date=2010-09-21}}</ref>。
[[File:Wallst14occupy.jpg|thumb|250px|[[ウォール街を占拠せよ]]のデモ(2011年10月1日)]]
全世界の失業者は2700万人から4000万人に達したといわれる{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=185-187}}。他方、政府支援を受けた企業が高待遇を続けたために批判を受ける場合もあった。ウォール街では、投資銀行、資産運用会社、ヘッジファンドなどの幹部が2009年夏に1450億ドルの利益を得ており、2008年の1170億ドルを超えていた{{efn|ゴールドマン・サックスは報酬とボーナスに162億ドル、シティグループは50億ドルのボーナスを支払った{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=357}}。}}{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=357-358}}。GM、[[フォード・モーター]]、クライスラーの各首脳は公的支援を求めてアメリカ議会の公聴会に出席した際、自家用ジェット機を使用したため議員から批判された<ref>{{Cite news|url=http://sankei.jp.msn.com/economy/business/081120/biz0811201440005-n1.htm|title=救済求めるビッグ3の首脳、自家用機で議会に乗りつけ非難の嵐|publisher=MSN産経ニュース|date=2008年11月20日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20081209104030/http://sankei.jp.msn.com/economy/business/081120/biz0811201440005-n1.htm|archivedate=2008-12-09}}</ref>。政府の資金注入を受けたイギリスのロイヤルバンク・オブ・スコットランド(RBS)は、銀行業界で過去最大のボーナスを支給して批判され、CEOの{{仮リンク|フレッド・グッドウィン|en|Fred Goodwin}}が引責辞任した。AIGアメリカン・ゼネラル社幹部は救済決定後にリゾート地で44万ドルの会合を開催し、2009年3月に幹部73人に100万ドル以上のボーナスを支払い、支給直後に11人が退社した。これに対して、ボーナスの90%(地方税の10%相当を加えて事実上は100%)を所得税課税する法案が可決された{{efn|社員の一部はボーナス返還要求を拒否して法的処置を模索した<ref>[http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPJAPAN-37178020090326 米AIGの欧州部門従業員、賞与返還要求は「脅迫」と反発]、2009年3月29日、ロイター</ref>。}}<ref>[http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/772 AIGボーナスベイビー〜深刻な財務省の人手不足](2009年3月26日、[http://jbpress.ismedia.jp/ JBpress])</ref>。アイスランドでは、アイスセーブを提供した[[ランズバンキ銀行]]などの幹部が起訴されて有罪となった{{Sfn|スタックラー, バス|2014|pp=1812-1893/4865}}。金融業界の不祥事は就職にも影響を与え、[[マサチューセッツ工科大学]](MIT)の2009年の卒業生で金融業を選ぶ者は2006年から2008年と比較して45%減少した{{Sfn|バナジー, デュフロ|2020|p=5432/8512}}。
金融危機は、現在の金融システムが債務に依存しているという批判のきっかけにもなった。20世紀後半から世界金融危機までは、高額所得者に占める金融業者の割合が増加を続けた時代であった{{efn|アメリカでは1979年から2005年の間に最上位所得層に占める金融業者の数が2倍になった。イギリスでは1998年から2007年にかけて最上位所得層の金額の60%が金融業者のものだった{{Sfn|バナジー, デュフロ|2020|pp=5286-5320/8512}}。}}{{Sfn|バナジー, デュフロ|2020|pp=5286-5320/8512}}。さらには、富裕者とそれ以外の所得格差が拡大した時代でもあった{{efn|アメリカでは1992年には純資産分布の上位10%が富の66%を所有し、2007年には71%に上昇した{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=661-669/4780}}。}}{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=661-669/4780}}。2011年9月17日、ウォール街でデモを起こす呼びかけがFacebookで拡散され、[[ウォール街を占拠せよ]]と呼ばれる抗議活動の始まりとなった。マンハッタンの[[ズコッティ公園]]には2000人が集まって[[ソーシャル・ネットワーク・サービス]](SNS)で活動の様子が拡散された。10月には全米各地で100以上の占拠活動やデモが起き、世界各地にも影響を与えた。2011年10月15日にはローマで10万人から40万人、スペインで100万人、ポルトガルで数十万人が集まって緊縮財政への反対デモが開催され、他にも世界の900以上の都市で支援デモがあった{{efn|ロンドン、パリ、ソウル、マニラ、ベルリン、ムンバイ、アムステルダム、香港でキャンプ村が設置された{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=465-466}}。}}{{Sfn|パッカー|2014|pp=564-573, 586-591}}{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=465-466}}。
=== アメリカ ===
; オバマ政権
危機の最中に大統領選挙が行われ、2008年11月には[[バラク・オバマ]]が当選した。ブッシュ政権時代からオバマと[[民主党 (アメリカ)|民主党]]は危機の対策に協力しており、緊急経済安定化法案では民主党の賛成が共和党よりも多かった。オバマ政権のもとで民主党が上院と下院を支配下に置き、経済政策の人事は市場に歓迎された{{efn|財務長官はニューヨーク連銀のティモシー・ガイトナー、[[アメリカ合衆国国家経済会議|国家経済会議]]の委員長は[[ラリー・サマーズ]]、[[アメリカ合衆国行政管理予算局|行政管理予算局]]の局長は{{仮リンク|ハミルトン・プロジェクト|en|Hamilton Project}}でオバマの仲間だった[[ピーター・リチャード・オルザグ]]、[[大統領経済諮問委員会]]の委員長は世界恐慌史の研究者である[[クリスティーナ・ローマー]]だった{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=233-234}}。}}。しかし景気は回復に向かったものの、危機の対策では住宅ローンの債務者よりも金融機関が優先されたため、オバマ政権への不満が高まり2010年の中間選挙で民主党は大敗する{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=233-234, 584}}。他方、共和党はブッシュ政権時代の緊急経済安定化法案で多数の反対者を出すなど分裂を起こした。2012年の大統領選がオバマの勝利に終わると共和党内の分裂はさらに進み、2016年の[[ドナルド・トランプ]]政権への遠因となる{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=232-233}}。
; 格差の拡大
危機によってアメリカの格差は拡大した。年間経済生産14兆ドルに対して、2008年の住宅価格は5.5兆ドルの下落と巨額に達した。サブプライムローンの証券化は、価格の暴落分を債務者の純資産に吸収させる構造だったため、高所得者がより有利になり、低所得層がより不利になった{{efn|損失の比率は、上位20%の富裕層の債務比率が7%であり、下位80%の層が債務比率の大半を占めた{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=564-603/4780}}。}}{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=564-603/4780}}。2007年から2009年の間に住宅を差し押さえられた世帯はアメリカだけで400万世帯に及び、2007年3月から2009年3月の間に民間部門で600万人が失業した{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=199, 1550/4780}}。住宅所有で破綻が多かったのはヒスパニック系の人々でもあり、社会集団の分離にもつながった。平均資産は2007年から2010年の間に56万ドルから46万ドルに減ったが、富裕層をのぞくとより深刻であり、中央値の世帯は10万ドルから5万7800ドルと半減した。住宅ブームの最多の参加者だったヒスパニック系は、86%減と最も厳しい状況になっている{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=180-181}}。
; 銀行規制・消費者金融保護
[[File:Nomination of Richard Cordray.jpg|thumb|upright=1.2|2011年7月、消費者金融保護局の初代長官[[リチャード・コードレイ]](右)と、消費者金融保護局設立を提唱した[[エリザベス・ウォーレン]](左)]]
危機を反省した規制として2010年に[[ドッド=フランク・ウォール街改革・消費者保護法]]が制定され、FRBがシャドー・バンキング・システムを監督規制することとなった{{Sfn|柴田|2016|pp=143-144}}。破産法の専門家である[[エリザベス・ウォーレン]]は{{仮リンク|アメリカ合衆国消費者金融保護局|en|Consumer Financial Protection Bureau}}(CFPB)の設立を提唱し、オバマ政権はCFPB設立とウォーレンの長官任命を検討した。しかし共和党を中心とする反対を受け、2011年にCFPBは設立されたが初代長官は[[リチャード・コードレイ]]が就任した{{Sfn|パッカー|2014|pp=551-554}}。{{仮リンク|金融調査局|en|Office of Financial Research}}(OFR)が2013年にレポートを提出し、[[機関投資家|資産運用会社や運用ファンド]]も金融システム安定化の脅威になりうると結論した。そこでこれらも{{仮リンク|システム上重要な金融会社|en|Systemically important financial institution}}(SIFI)への指定が検討されたが、資産運用会社の[[フィデリティ・インベストメンツ]]や[[ブラックロック]]が反発し、[[証券取引委員会]](SEC)も警戒感を示した。そしてドッド・フランク法が改正されるまでファンドマネージャーレベルでの規制はなされず、商品や業務のリスクに注目した監視だけが行われた{{Sfn|柴田|2016|pp=143-144}}。
=== ヨーロッパ ===
ヨーロッパ諸国では若者層を中心とする高い失業率や、国家の財政危機が深刻化した。緊縮財政は経済的困窮や健康の悪化を招いて国内の不満を高めた。危機への対応としてEUレベルで銀行の資本増強が求められたが、{{仮リンク|国際金融協会|en|Institute of International Finance}}(IIF)を中心とする業界が銀行への規制であるという論点から反対し、実現しなかった。そのため、のちにユーロ危機の発端になった公債市場の暴落に銀行は対応できなかった{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=364-370}}。東欧諸国やバルト三国は危機が起きる前からユーロ圏加盟を進めていたが、延期や後退が起きた。エストニアは2011年、ラトビアは2014年、リトアニアは2015年にユーロ圏に加盟した{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=591-592}}。
ヨーロッパ系銀行は世界金融危機の損失に加えて、いくつもの問題を抱えた。(1) 欧州の国債の不良債権化、(2) ユーロ圏の問題による新規事業の停滞、(3) バーゼルIIIによる規制、(4) アメリカやアジアの銀行との競争、(5) 資金調達の困難、などがある{{Sfn|トゥーズ|2020|p=474}}。
; 早期の回復国
アイスランドは社会保障維持、IMFの緊縮財政案の拒否、所得格差是正、金融機関の起訴などによって回復に向かった。2012年にGDP成長率が3%となり、格付けでも危機対応が評価されて上昇し、所得格差は他の北欧諸国と同レベルになった{{Sfn|スタックラー, バス|2014|pp=1812-1893/4865}}。さらに、国家危機の再発を防ぐためにインターネットの国民投票をもとに憲法を改正した。2012年に改正された新憲法には、政治家と銀行の癒着の防止が含まれている{{Sfn|スタックラー, バス|2014|p=1906/4865}}。
; ユーロ危機
[[File:Budget Deficit and Public Debt to GDP in 2012 (for selected EU Members).png|thumb|upright=1.35|right|alt=Budget Deficit and Public Debt to GDP in 2012|ヨーロッパ諸国の2012年の財政赤字と公的債務の対GDP比。緑がEUの[[安定・成長協定]](SGP)の範囲内である。]]
金融危機後に財政悪化が注目された国々は、支払い不能に近いギリシャとポルトガル、不動産バブルが崩壊したアイルランドとスペイン、巨額の政府債務があるイタリアだった。特にギリシャとアイルランドが債務の再編を必要としていたが、両国の国債は暴落し、緊密な金融システムをもつヨーロッパ全体に波及して[[ユーロ危機]]が起きた{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=374-380, 418}}。
イタリアの[[シルヴィオ・ベルルスコーニ]]政権は、EUとIMFが支援と引き換えに求める年金制度改革を2011年に拒否した。このためにイタリアはIMFの支援を得られないまま監視下に置かれるという状況になり、市民は退陣要求デモを行い、連立与党の[[北部同盟 (イタリア)|北部同盟]]も首相の辞任を求めた。ベルルスコーニは辞任し、経済学者の[[マリオ・モンティ]]が首相に就任した{{efn|ベルルスコーニは過去に数々の起訴歴があり、2011年2月にもスキャンダルを起こしていた。ボッコーニ・ボーイズ(Bocconi boys)と呼ばれるエコノミストやトレモンティ財務相は、金融危機におけるベルルスコーニの対応を懸念していた{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=454-455}}。}}{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=485-487}}。
スペインでは2011年11月にサパテロ政権に代わって[[マリアーノ・ラホイ]]政権が誕生したが、2012年にはバンキアが破綻して国有化され、国債の高騰・財政赤字の膨張が起き、若者層の失業が55%に達した。2015年にはスペインの二大政党制は崩壊した{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=512-513, 650}}。ポルトガルは緊縮財政によってスペインよりも景気後退が深刻であり、失業率が40%・若者層では60%まで上昇した。2011年に成立した[[ペドロ・パッソス・コエーリョ]]政権はユーロ圏の維持を主張したが、2015年の選挙では[[アントニオ・コスタ]]率いる連立左派政権が成立した{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=650-653}}。
; イギリスの欧州連合離脱(Brexit)
[[ファイル:Love Like Jo campaigners Trafalgar Square (2).jpg|250px|thumb|EU離脱是非を問う国民投票の1週間前に、残留支持の[[ジョー・コックス]]議員が殺害された。写真はコックスを追悼する人々。]]
イギリスは金融危機の損失がヨーロッパ最大であり、13年間におよぶ[[労働党 (イギリス)|労働党]]政権が終わったが、[[保守党 (イギリス)|保守党]]も単独政権は不可能で[[自由民主党 (イギリス)|自由民主党]]との連立政権となった。[[デーヴィッド・キャメロン]]政権は緊縮財政を続け、2016年までに公共部門で100万人以上の雇用を削減し、地方自治体の支出を30%以上削減した。[[経済協力開発機構]](OECD)によれば、ギリシャ・アイルランド・スペインを除けばイギリスが最も経済収縮を起こした国だった{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=408-411}}。
2011年12月のEU首脳会議では、EUの統合を進める財政協定が検討され、イギリスと他の加盟国のあいだで対立が起きた。キャメロン政権は、イギリスの独立性の保持をEUに求め、財政協定で譲歩が得られないならEU離脱を国民投票に問うと主張した。しかしEU側は譲歩せず、キャメロン政権は[[イギリスの欧州連合離脱是非を問う国民投票|EU離脱是非を問う国民投票]]の実施を決定した{{efn|キャメロン政権が2016年に国民投票を決定した理由として、(1) 大都市の保守党支持を確保する、(2) イギリスの影響力でEUの方針を変更させる、(3) EUとの交渉にはユーロ圏が安定する2013年から2016年が望ましい、などがあった{{Sfn|トゥーズ|2020|p=665}}。}}。キャメロン自身はEU残留支持派だったが、2016年6月23日の国民投票は離脱支持51.9%、残留支持48.11%となり、[[イギリスの欧州連合離脱]](Brexit)が決定した{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=663-667}}。スコットランドには残留支持の投票が多かったため、Brexitは[[スコットランド独立運動]]に影響を与えた。[[スコットランド自治政府]]の[[ニコラ・スタージョン]]政権は、イギリスからの独立を問う住民投票の実施と、EUへの加盟を目指している<ref>{{cite news |title=スコットランド独立めぐる住民投票、英政府が正式に拒否 |publisher=BBC NEWS JAPAN |date=2020-1-15|url=https://www.bbc.com/japanese/51115894|accessdate=2020-08-08}}</ref>。
===
[[ファイル:Ruins of Donetsk International airport (16).jpg|thumb|250px|クリミア危機・ウクライナ東部紛争で破壊されたウクライナの[[ドネツィク国際空港]](2014年12月)]]
ウクライナは2008年のIMF支援がもたらした緊縮政策で国内の不満が高まり、2010年にヤヌコーヴィチ政権が成立する。EUとロシアはウクライナへの支援を申し出る代わりに、それぞれ条件を出した。EUの条件はEU連合協定であり、ロシアの条件は[[ユーラシア関税同盟]]への参加だった。ウクライナ世論はEU派とロシア派で二分され、2013年に数十万人の市民が反ヤヌコーヴィチ政権のデモを行った([[2014年ウクライナ騒乱]])。ヤヌコーヴィチはロシアへ亡命し、2014年に[[クリミア危機・ウクライナ東部紛争]]が起きた。ウクライナは資本規制をしなかったため外貨準備高が急減し、2015年2月に[[ウクライナ国立銀行]]は公式為替レートの発表を停止し、IMFは支援の再開とともに債務再編を認めた{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=593-600, 612}}。
ロシアの外貨準備高は2014年には5100億ドルに達して危機から回復していたが、ウクライナとの紛争が始まると為替市場が11%以上急落した。さらに[[マレーシア航空17便撃墜事件]]が原因となった西側の経済制裁、FRBのQE3終了、原油価格の下落なども重なって財政難に陥った。2014年から2015年にGDPは10%以上減少し、ロシアの市民にとっては2008年から2009年の危機を超える厳しさだった。ロシアの苦境は周辺のNIS諸国にも影響し、ベラルーシ、カザフスタン、アゼルバイジャンの通貨が50%の暴落、モルドバ、キルギス、タジキスタンの通貨は30%から35%下落した{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=606-611}}。
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; 中国
中国は金融危機の対応で世界経済の回復を牽引して高く評価され、国際的な影響力を高めた{{efn|{{仮リンク|ピュー・チャリタブル・トラスト|en|The Pew Charitable Trusts}}の世論調査によれば、中国を世界経済のリーダーと考える人が2010年のアメリカとヨーロッパでは最多となった{{Sfn|トゥーズ|2020|p=293}}。}}{{Sfn|梶谷, 藤井編|2018|pp=296-297}}。[[習近平]]政権においても経済成長は続いたが、危機対策による巨額の債務が残った。2009年の段階で政府赤字、債券発行、銀行への貸付を合計すると6兆4870億元であり、GDPの19%を超える額となった{{efn|中国の対応に関しては批判も起きた。アメリカのヘンリー・ポールソン財務長官や後任のティモシー・ガイトナーは2009年1月に、中国や産油国をはじめとする新興国の過剰な貯蓄が金利低下をもたらしてリスクを拡大させた、中国が為替操作をしている、などと述べた{{Sfn|渡邉|2010|pp=53-54}}。}}<ref>{{cite news |title=中国、4兆元対策の功罪 「影の銀行」火種残 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=2013-12-15|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS1004T_R11C13A2TY8000/|accessdate=2019-03-01}}</ref><ref>{{cite news |title=[FT<nowiki>]</nowiki>中国が強国となった2008年 |publisher=[[日本経済新聞]] |date=2018-09-17|url=https://www.nikkei.com/article/DGXMZO35368400U8A910C1TCR000/|accessdate=2019-03-01}}</ref>{{Sfn|トゥーズ|2020|p=291-292}}。シャドウ・バンキング・システムは中国でも拡大しており、[[理財商品]]と呼ばれる高金利の金融商品が中心になっている。地方政府が資金調達に用いる[[地方融資平台]](融資プラットフォーム)でも理財商品が扱われ、金融危機の対策だった4兆元の景気刺激策によって急増した。2013年の地方政府の債務は17兆元、2017年の金融機関以外の民間債務はGDPの165%まで増加している。理財商品は10年代から次第に不良債権化しており、政府は対策を進めている{{Sfn|梶谷, 藤井編|2018|pp=131-132, 152-153}}。
2014年には中国の外貨準備高は4兆ドルまで増加し、中国企業の対外債務1兆ドルのうち8000億ドルが欧米大手金融機関への債務になっていた。しかし中国経済の減速と、原油価格の急落、さらに汚職撲滅運動で富裕層が資産を国外に流出させたことが重なり、[[人民元]]が下落を始める。2015年6月12日には上海総合株価指数が30%下落して[[中国株の大暴落 (2015年)|中国株の暴落]]となった。企業と投資ファンドの人民元投入で一時的に安定したものの、8月の人民元切り下げで下落が続いた。2016年には株価指数は半減し、外貨準備高は3兆ドルまで落ちた。一時は中国発のグローバルなデフレも警戒されたが、中国政府は新たなペッグの設定・資本移動規制強化・信用拡張・景気刺激策・過剰生産能力の削減などを打ち出して鎮静化にあたった{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=738-744}}。
; 東南アジア
金融危機の対策を主張して成立したマレーシアのナジブ・ラザク政権は、国際金融地区の建設のために[[1マレーシア・デベロップメント・ブルハド]](1MDB)という投資会社を設立する。しかし不正の発覚によって、2018年には野党から出馬した[[マハティール・ビン・モハマド]]政権が成立し、マレーシア初の政権交代が起きた。ラザクは10億ドル規模の汚職で有罪となった{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=300-302}}。
; 日本
日本銀行は、金融危機後の景気後退への対策として2010年10月から包括的金融緩和を行い、国債の他に[[上場投資信託]](ETF)や[[不動産投資信託]](REIT)などのリスク資産の買い入れを始めた{{efn|EFTの残高上限は当初4500億円だったが、2011年に9000億円、2014年に3兆円、2016年に6兆円へと増額された{{Sfn|原田|2017|p=17}}。}}。[[東日本大震災]]の被害も大きく、経済のみならず社会に深刻なダメージを受けた。日銀は物価上昇率2%を目標としたが、円高やデフレは解消されず国内外で批判が高まり、[[白川方明]]日銀総裁は任期満了前の2013年に退任した{{Sfn|白井|2017|pp=60-62}}。
[[第2次安倍内閣]]は[[アベノミクス]]と呼ばれる一連の経済政策を掲げ、日銀は[[黒田東彦]]総裁のもとで緩和政策を続けた。しかしデフレは続き、[[失われた20年]]とも呼ばれるようになった。2013年から2016年の実質GDP成長率は2010年から2012年よりも低下し、実質賃金は下落した。2013年前後から雇用環境は改善したものの、平均給与は[[リーマン・ショック]]の下落を回復した程度にとどまっている。OECDによる2015年時点の調査では、日本の[[相対的貧困率]]は加盟国33カ国中で9位となった。2016年には[[エンゲル係数]]が約30年前の水準まで上昇し、実質消費は改善されず、安倍内閣による2014年4月の[[消費税]]増税が景気回復を後退させたという見方がある<ref>{{Cite news|url=http://jp.reuters.com/article/marketsNews/idJPL3N0RV1MC20140930|title=〔焦点〕予想裏切る生産悪化、「景気後退入り」の可能性で増税シナリオに影|publisher=ロイター|date=2014年9月30日|accessdate=2014年10月12日}}</ref>{{Sfn|白井|2017|pp=73-75}}{{Sfn|OECD|2020|p=}}。2017年には、日銀がETF市場全体の純資産総額の70%にあたる15兆9300億円を保有し、日本株の第1位の株主が日銀、第3位が[[年金積立金管理運用独立行政法人]](GPIF)となった。結果的に中央銀行が大企業を優遇する状況になり、株式市場の価格形成の歪み、コーポレートガバナンスへの悪影響、将来の量的緩和縮小による株価下落のリスクなどが懸念されている{{efn|間接的にせよ、株式を金融緩和目的で購入した中央銀行は日銀のみである{{Sfn|白井|2017|p=51}}。}}{{Sfn|白井|2017|pp=41-50}}{{Sfn|原田|2017|pp=20-21}}{{Sfn|大原|2019|pp=16-17, 24}}。
=== 国際機関 ===
世界金融危機は、IMFをはじめとする国際機関の方針や経済学者の思想に変更をもたらした。20世紀後半以降の金融危機である{{仮リンク|メキシコ通貨危機|en|Mexican peso crisis}}(1994年)、[[アジア通貨危機]](1997年)、[[ロシア金融危機]](1998年)、{{仮リンク|ブラジル通貨危機|en|Samba effect}}(1999年)、{{仮リンク|アルゼンチン金融危機|en|1998-2002 Argentine great depression}}(2001年)などが起きた際には、国内に問題があるといわれていた。危機が起きた国々では、金融危機を防ぐための金融規制や財政規律などが不完全であり、国内改革が必要だとされていた。しかし、世界金融危機によって[[グローバル金融システム]]そのものの監督や規制が課題となった{{Sfn|ロドリック|2019|pp=3920-3926/5574}}。
; 緊縮財政
IMFは支援の条件として各国に緊縮財政を求めた。しかし緊縮財政によって、ヨーロッパのユーロ危機をはじめとして問題が頻発した{{Sfn|トゥーズ|2020|pp=374-377, 418}}。IMFの内部監察を行う独立評価機関(IEO)は、2014年11月4日の報告書で、IMFが金融危機後に主要先進国に緊縮策・予算削減を求めたことは誤りだったとの判断を示した<ref>{{Cite news|url=http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NEJRPR6K50Y101.html|title=IMFの緊縮策要求は誤りだった-金融危機後の対応で報告書|publisher=Bloomberg|date=2014年11月5日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141105174030/http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NEJRPR6K50Y101.html|archivedate=2014-11-05}}</ref>。
; 資本規制
IMFは2012年に資本規制と、国境を越える資金フローへの制限を認めた。世界金融危機が起きるまでは、金融危機は国内問題だと解釈されていた。IMFや欧米の経済学者は、危機の起きた国が資本の活用や危機を防ぐ金融機関の健全性規制・財政規律・金融統制などを行わなかったのが理由だと分析した。しかし世界金融危機は先進国と呼ばれる国々から発生しており、グローバル金融市場の監督や規制に問題があるとされるようになった。IMFが資本規制を認める条件には、マクロ経済政策やプルーデンス政策が資金流入に対応できない場合や、景気の加熱などがある{{Sfn|ロドリック|2019|pp=3893-3925/5574}}。
; 会計監査
国際会計基準審議会(IASB)は、2008年に会計基準を変更した際に適正手続を取らなかったために批判を受け、IASBが推進してきた公正価値会計も批判された{{efn|公正価値会計への批判には、収益費用観と資産負債観に代表される会計観の違いや、{{仮リンク|景気循環増幅効果|en|Procyclical and countercyclical variables}}などマクロ経済の観点からの批判も含まれている{{Sfn|森|2019|pp=66-67}}。}}。IASBは公正価値会計の全面適用から方針を変更し、調整機関としての活動を増やすこととなった{{Sfn|森|2019|pp=63-68}}。
危機によって会計監査報告の信頼性や監査人の役割に疑問がもたれ、欧州委員会(EC)や{{仮リンク|国際監査・保証基準委員会|en|International Auditing and Assurance Standards Board}}(IAASB)は規制を強化した。IAASBは2011年に監査報告を改革して、2015年に[[国際監査基準]](ISA)を公表した。EUでは監査委員会と監査人の協力で改革を検討し、監査報告書の透明化を進めた。2014年には法定監査指令にEUの統一監査報告書が導入され、加盟国に適用された。IAASBとEUの改革にドイツやフランスも適合し、イギリスやオランダはIAASBよりも早く新監査基準を成立させたのちに適合を果たした。アメリカでは2017年に新監査基準がSECに承認された{{Sfn|小松|2019|pp=32-34}}。
== 原因と対策の研究 ==
[[ファイル:BankingCrises.svg|thumb|300px| 1800年以降に銀行危機が発生した国の数。1945年から1971年までの[[ブレトン・ウッズ協定|ブレトン・ウッズ体制]]期には銀行危機が事実上存在しない。ケネス・ロゴフとカーメン・ラインハートの研究(2009)の図10.1と同様<ref name="Rogoff & Reinhart 2009">{{Cite book|title=This Time Is Different: Eight Centuries of Financial Folly|last=Rogoff, Kenneth|last2=Reinhart, Carmen|year=2009|publisher=Princeton University Press|isbn=978-0-691-14216-6}}</ref>]]
{{Notice|この節は学術上に論争のある記事を扱っています。}}
金融危機の原因については議論が続いている。(1) 金融の自由化・市場の自己調節機能・政府の規制の不可能性をはじめとする思想が経済学者や専門家に影響を与えたというする説、(2) 住宅市場を支えようとする政府の介入が過度だったという説、(3) 銀行の利益団体とコミュニティ・グループの協力によって起きたとする説、などがある{{Sfn|ロドリック|2019|pp=3193-3206/5574}}。バブル経済の研究で知られる経済学者の[[チャールズ・キンドルバーガー]]は、晩年は不動産市場に注目していた。2002年の[[ウォールストリートジャーナル]]のインタビューで、銀行がそろって住宅担保ローンを売ろうとしており、危険な兆候だと語っていた{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|p=2785/4780}}。
; 家計債務の増加
近年の研究によって有力とされる説が、債務者の消費減少にある。特に家計債務の大幅な増加が景気後退につながるとする説である。債務者の家計支出の減少は、家計債務の上昇と相関関係がある{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|p=352/4780}}。
{{仮リンク|国民所得・生産勘定|en|National Income and Product Accounts}}(NIPA)のデータによれば、GDP成長率を引き下げた最大の理由は、住宅投資の減少である。銀行危機が起きる前から家計の消費は減っており、景気後退の3四半期においても同様だった。純資産が減った人間は支出を控えることが明らかにされており、(1) 家計債務の上昇、(2) 家計の消費の減少、(3) 景気後退による企業投資の減少や大量解雇につながったとされる{{efn|住宅資産からの限界消費性向についての研究にもとづいている。当時の住宅価値が5.5兆ドル減少したことから計算すると、少なくとも2750億ドルから3850億ドルの消費が失われた{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=878-1009/4780}}。}}。1997年から2007年にかけて家計債務が急増した地域と、2008年から2009年に家計支出が急落した地域は一致する{{efn|ルーベン・グリック(Reuven Glick)とケビン・ランシング(Kevin J. Lansing)の研究による。グリックとランシングはOECD加盟の16カ国を調査しており、さらにIMFが36カ国に拡げて調査した{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=296-305/4780}}。}}。戦後の5大銀行危機の全てで、不動産価格の高騰と経常収支の赤字が起きている。そして、金融危機発生前には民間債務が急増したことも明らかになっている{{efn|[[カーメン・ラインハート]]と[[ケネス・ロゴフ]]の研究、およびモリッツ・シュラリック(Moritz Schularick)と{{仮リンク|アラン・M・テイラー|en|Alan M. Taylor}}の研究による。5大銀行危機とは、1977年スペイン、1987年ノルウェー、1991年フィンランドとスウェーデン、1992年日本を指す{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=330-338/4780}}。}}{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=296-345/4780}}。
銀行部門が景気後退の原因であり、リーマン・ブラザーズを救済しなかったのは間違いであるという説も存在するが、NIPAのデータとは矛盾する{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=878-1082/4780}}。金融危機の当初は、経済学者や政策立案者は銀行を景気後退の原因として救済した。その後の研究によれば、家計債務(特に住宅ローン債務)の減免の方が金融危機の回避に役立ったというデータが集まっている{{efn|債務減免政策も提案されていたが、実施されなかった。主なものとして、(1) 住宅ローンの見直し制度。2008年10月にジョン・ジーナコロプスとスーザン・コニャックが提案。(2) 住宅ローンの変更手続き(クラムダウン)。(3) 元本の減額。2007年10月にドリス・ダンギーとビル・マックブライドが提案{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=3504, 3519, 3535/4780}}。}}。のちに、国家経済会議委員、住宅都市開発長官、経済顧問などオバマ政権の当局者やIMFも、住宅ローン減額を選択しなかったのは誤りと認めた{{Sfn|ミアン, サフィ|2015|pp=3409-3417, 3553/4780}}。
; 格差
所得格差の拡大を金融危機の一因とする説もある。特にアメリカでは、金融危機前の1977年から2007年にかけての国民経済の成長は、最も裕福な層が75%を得ていた。この期間の経済成長は低かったため、実質的に低所得者層や中間所得者層の賃金の停滞につながった。中間所得者層や低所得者層の購買力が低下するために借金が増え、金融機関が融資を拡大する余地が増えた{{Sfn|ピケティ|2014|pp=308-309}}。
; ロビー活動
アメリカの銀行による[[ロビー活動]]を一因とする研究がある。{{仮リンク|カントリーワイド・フィナンシャル|en|Countrywide Financial political loan scandal}}と{{仮リンク|アメリクエスト|en|Ameriquest Mortgage}}は、2002年から2006年にかけて3000万ドルを献金とロビー活動に使い、サブプライムローンを規制する可能性がある法案の成立を妨害したとされる。この2社は貧困層に融資をしていた最大手であり、違法ではないが公共の利益を損なう活動として批判された{{Sfn|フィスマン, ゴールデン|2019|pp=50-51}}。
== 出典・脚注 ==
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{{Reflist|3|}}
== 参考文献(著者五十音順) ==
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* {{Citation| 和書
| author =
| ref = {{sfnref|梶谷, 藤井編|2018}}
| chapter =
| title= 現代中国経済論 第2版
| series =
| publisher = ミネルヴァ書房
| editor1 = [[梶谷懐]]
| editor2 = [[藤井大輔]]
| pages =
| periodical =
| year = 2018
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* {{Cite journal|和書|author=[[辻村雅子]] |title=米国サブプライム危機の資金循環分析 |journal=産業連関 |publisher=環太平洋産業連関分析学会 |year=2009 |volume=17 |issue=1-2 |pages=88-104 |naid= |issn= |url=https://ci.nii.ac.jp/naid/130005084141/ |fotmat=PDF |accessdate=2020-08-08|ref={{sfnref|辻村|2009}}}}
* {{Citation| 和書
| author = [[アダム・トゥーズ]]
| title= 暴落 - 金融危機は世界をどう変えたのか(上・下)
| publisher = みすず書房
| series =
| translator = [[江口泰子]], [[月沢李歌子]]
| year = 2020
| isbn =
| ref = {{sfnref|トゥーズ|2020}}
}}(原書 {{Citation| 洋書
| last = Tooze
| first = Adam
| authorlink =
| year = 2018
| title= CRASHED: How a Decade of Financial Crises Changed the World
| publisher = London: Allen Lane and New York: Viking
| isbn =
}})
* {{Citation| 和書
| author = {{仮リンク|ジョージ・パッカー|en|George Packer}}
| title={{仮リンク|綻びゆくアメリカ―歴史の転換点に生きる人々の物語|en|The Unwinding}}
| publisher = NHK出版
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| translator = [[須川綾子]]
| year = 2014
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| ref = {{sfnref|パッカー|2014}}
}}(原書 {{Citation| 洋書
| last = Packer
| first = George
| authorlink =
| year = 2013
| title= The unwinding : an inner history of the new America.
| publisher = New York: Farrar, Straus and Giroux
| isbn =
}})
* {{Citation| 和書
| author1 = [[アビジット・V・バナジー]]
| author2 = [[エステル・デュフロ]]
| year = 2020
| title= {{仮リンク|絶望を希望に変える経済学 - 社会の重大問題をどう解決するか|en|Good Economics for Hard Times}}(Kindle版)
| publisher = 日経BP
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| translator = 村井章子
| ref = {{sfnref|バナジー, デュフロ|2020}}
}}(原書 {{Cite| 洋書
| author1 = Abhijit Vinayak Banerjee
| author2 = Esther Duflo
| year = 2019
| title= Good Economics for Hard Times
| publisher = PublicAffairs
| isbn =
}})
* {{Cite journal|和書|author=原田喜美枝 |title=日本銀行のETF買入政策と日経平均株価銘柄入れ替えの事例分析 |url=https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/65089/ |fotmat=PDF |journal=国際公共政策研究 |publisher=大阪大学大学院国際公共政策研究科 |year=2017 |month=sep |volume=22 |issue=1 |pages=15-26 |naid=AA1115271X |issn=24320870 |accessdate=2020-08-08 |ref={{sfnref|原田|2017}}}}
* {{Citation| 和書
| author = トマ・ピケティ
| authorlink1 = トマ・ピケティ
| title = [[21世紀の資本]]
| publisher = みすず書房
| series =
| year = 2014
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| translator = 山形浩生, 守岡桜 [[森本正史]]
| ref = {{sfnref|ピケティ|2014}}
}}(原書 {{Cite| 洋書
| last = Piketty
| first = Thomas
| authorlink =
| year = 2013
| title = Le Capital au XXIe sièclethe present
| publisher =
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}})
* {{Citation| 和書
| author1 = {{仮リンク|レイ・フィスマン|en|Raymond Fisman}}
| author2 = {{仮リンク|ミリアム・A・ゴールデン|en|Miriam A. Golden}}
| year = 2019
| title= コラプション なぜ汚職は起こるのか
| publisher = 慶應義塾大学出版会
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| translator = 山形浩生, 守岡桜
| ref = {{sfnref|フィスマン, ゴールデン|2019}}
}}(原書 {{Cite| 洋書
| last1 = Fisman
| first1 = Ray
| last2 = Golden
| first2 = Miriam A.
| author-link =
| year = 2017
| title= Corruption: What Everyone Needs to Know
| publisher = Oxford University Press
| isbn =
}})
* {{Cite journal|和書|author=[[福光寛]] |title=アメリカの住宅金融をめぐる新たな視点 : 証券化の進展の中でのサブプライム層に対する略奪的貸付 |url=https://seijo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2138&item_no=1&page_id=13&block_id=17 |fotmat=PDF |journal=成城大學經濟研究 |publisher=成城大学経済学部 |year=2005 |month=sep |volume=170 |issue= |pages=57-88 |naid= |issn= |accessdate=2020-08-08 |ref={{sfnref|福光|2005}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[藤井彰夫]]|title=G20 先進国・新興国のパワーゲーム |publisher= 日本経済新聞出版社 |year=2011 |ref = {{sfnref|藤井|2011}}}}
* {{Citation| 和書
| author1 = {{仮リンク|アティフ・ミアン|en|Atif Mian}}
| author2 = {{仮リンク|アミール・サフィ|en|Amir Sufi}}
| title= {{仮リンク|ハウス・オブ・デット|en|House of Debt}}(Kindle版)
| publisher = 東洋経済新報社
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| translator = [[岩本千晴]]
| year = 2015
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| ref = {{sfnref|ミアン, サフィ|2015}}
}}(原書 {{Citation| 洋書
| last1 = Mian
| first1 = Atif
| last2 = Sufi
| first2 = Amir
| authorlink =
| year = 2014
| title= House of Debt: How They (and You) caused the Great Recession, and How We Can Prevent It from Happening Again
| publisher =
| isbn =
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* {{Cite journal|和書|author=[[森洵太]]|year=2019|url=https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/il/meta_pub/G0000438repository_04515986-70-1-57|title=金融危機後のIASBの変化 : 2つの正統性の視点から|format=PDF|work=|journal=経営研究|volume=70|issue=1 |pages=57-70 |publisher=大阪市立大学経営学会|accessdate=2020-08-08|ref={{sfnref|森|2019}}}}
* {{Citation| 和書
| author = [[ダニ・ロドリック]]
| year = 2019
| title= 貿易戦争の政治経済学 - 資本主義を再構築する(Kindle版)
| publisher = 白水社
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| isbn =
| translator = [[岩本正明]]
| ref = {{sfnref|ロドリック|2019}}
}}(原書 {{Cite| 洋書
| last = Rodrik
| first = Dani
| author-link =
| year = 2017
| title= Straight Talk on Trade: Ideas for a Sane Economy
| publisher = Princeton University Press
| isbn =
}})
* {{Cite journal|和書|author=[[渡邉真理子]] |year=2010 |url=https://doi.org/10.5760/jjce.47.1_51 |title=中国のサブプライム危機の影響と対応|journal=比較経済研究 |publisher=比較経済体制学会 |volume=47|issue=1 |pages=51-57 |naid=130004558748 |issn=1880-5647 |doi=10.5760/jjce.47.1_51 |accessdate=2020-09-23|ref={{sfnref|渡邉|2010}}}}
* {{Cite web|和書|year=2020|url=https://data.oecd.org/inequality/poverty-rate.htm |title=OECD Date Poverty rate |format= |work= |journal= |publisher=OECD |volume= |issue= |pages= |accessdate=2020-08-08|ref={{sfnref|OECD|2020}}}}
== 関連文献==
* {{Cite journal|和書
|author=国立国会図書館調査及び立法考査局
361 ⟶ 510行目:
|month=9
|url=http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/issue/0647.pdf
|pages=
}}
* {{Citation| 和書
| author1 = {{仮リンク|レオ・パニッチ|en|Leo Panitch}}
| author2 = {{仮リンク|サム・ギンディン|en|Sam Gindin}}
| title= グローバル資本主義の形成と現在――いかにアメリカは、世界的覇権を構築してきたか
| publisher = 作品社
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| year =
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| ref = {{sfnref|
}}(原書 {{Citation| 洋書
|
|
| last2 = Gindin
| first2 = Sam
| authorlink =
| year =
| title= The Making of Global Capitalism: The Political Economy of American Empire
| publisher =
| isbn =
}})
== 関連項目 ==
{{portal|経済学}}
{{col-begin}}
{{col-2}}
* {{仮リンク|アメリカ住宅バブル|en|United States housing bubble}}
* [[貯蓄貸付組合]]
* {{仮リンク|貯蓄貸付組合危機|en|Savings and Loan crisis}} - 1980年代の貯蓄貸付組合を舞台とした金融危機。単に、S&L危機とも(英語)
* [[ノンリコースローン]]
* [[米国債ショック]]
* [[財政の崖]]
* [[2007年-2008年の世界食料価格危機]]
{{col-2}}
* 映画
:* [[マージン・コール]]
416 ⟶ 551行目:
:* [[キャピタリズム〜マネーは踊る〜]]
:* [[インサイド・ジョブ 世界不況の知られざる真実]]
:* [[ノマドランド]]
{{col-end}}
== 外部リンク ==
{{日本の経済史}}
|