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:[[5月26日]](慶応3年4月23日)。[[紀州藩]]船[[明光丸]]と衝突し、積荷ごと沈没(後述)。
 
== いろは丸 沈没事件 ==
=== 経緯 ===
[[ファイル:Inn of Ryoma Sakamoto stay.jpg|thumb|200px|坂本龍馬が泊まった桝屋清右衛門宅跡は2011年から一般公開されている。(広島県[[福山市]]・{{ウィキ座標|34|23|05.0|N|133|23|02.6|E|region:JP-34_type:landmark|地図|name=桝屋清右衛門宅跡}})]]
[[1867年]][[5月26日]](慶応3年4月23日)、いろは丸は大洲藩から借り受けた[[海援隊]]による操縦のもとで大坂に向かって[[瀬戸内海]]を航行中であった。
 
23時頃に、長崎港に向けて同海域を航行していた[[紀州藩]]の軍艦・明光丸(船長[[高柳楠之助]]{{refnest|group=注|高柳は[[伊東玄朴]]のもとで[[蘭学]]を学び、のち[[函館市|函館]]で英学と[[航海術]]を習得したことが[[南紀徳川史]]に記載されている<ref name=":7">{{Cite book|title=龍馬と伊呂波丸|year=1996|publisher=毎日新聞社|pages=9-14|author=神坂次郎|author-link=神坂次郎}}</ref><ref name=":8">{{Cite book|title=Nanki Tokugawa shi|url=http://archive.org/details/nankitokugawashi12hori|publisher=Wakayama : Nanki Tokugawa Shi Kankkai|date=1930|others=Cheng Yu Tung East Asian Library - University of Toronto|first=Shin|last=Horiuchi}}</ref>。}})が[[備中国]][[笠岡諸島]](現在の[[岡山県]][[笠岡市]])の[[六島 (岡山県)|六島]]({{coord|34|18|16.0|N|133|31|53.7|E|type:isle_scale:100000_region:JP-33|display=inline|name=六島}})付近で進路が交差・接近した。いろは丸が'''[[取舵]]'''、明光丸が[[面舵]]をとり、同じ方角に回避行動をとった結果、両船は衝突した。明光丸はイギリスで建造された長さ四十二間、幅六間、深さ三間半、百五十馬力、八百八十七トンの蒸気船であり、彼我の差はあまりにも大きく、更にいったん後退した明光丸が再び前進{{refnest|group=注|紀州藩側は、2度めの衝突を引き起こした前進を、いろは丸救助のために接舷を目的としたものであったとしている<ref name=":7" />。}}し再度衝突を起こした<ref name=":0">{{Cite newsweb|title=【関西歴史事件簿】坂本龍馬・いろは丸事件(上) 怒りの龍馬、本邦初の「損害賠償」請求提訴へ…海難事故で大量の武器が海の藻くずに|date=2013-8-18|url=https://www.sankei.com/west/news/130818/wst1308180062-n1.html|accessdate=2018-09-27|publication-date=|workwebsite=産経WEST|publisher=[[産業経済新聞社|産経デジタル]]}}</ref>。
 
いろは丸は大破し自力航行不能となり、船舶の修理施設の整った近くの[[備後国]][[沼隈郡]][[鞆の浦]]まで明光丸で曳航することとなったが、風雨が激しくなった翌実早朝、鞆の南10km付近にある沼隈郡[[宇治島]]({{coord|34|18|52.7|N|133|27|55.8|E|type:isle_scale:100000_region:JP-34|display=inline|name=宇治島}})沖で沈没した。搭乗していた[[坂本龍馬]]はじめ海援隊士などいろは丸乗組員は全員明光丸に乗り移っており、死者は発生しなかった<ref name=":0" />。
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その後、龍馬らは[[鞆の浦]]に上陸した。龍馬は紀州藩の用意した[[廻船問屋]]の桝屋清右衛門宅や[[対潮楼]]に4日間滞在し賠償交渉を行った。紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたが、龍馬は当時日本に持ち込まれたばかりで自身が精通している[[万国公法]]を持ち出し、紀州藩側の過失を追及した<ref name=":3" />。
 
一度目の衝突に至るまでのいろは丸の操船は当時の国際ルール{{refnest|group=注|欧米では1863年にイギリスで制定された海上衝突予防規則が標準となっていた<ref>{{Cite web|url=http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/thesis/d1/D1005600.pdf|title=国際海上予防規則が日本人船員の法意識に与えた影響についての史的考察|accessdate=2018-10‐02|author=藤原紗衣子|format=PDF|publisher=神戸大学}}</ref>。}}に照らしても重大な過失があったとする説が現在は有力であるが('''取舵は右側通行を原則とする行き合い船の航法に違反'''しており、また[[スターボード艇優先の原則|横切り船]]に相当していた蓋然性が極めて高いことから{{refnest|group=注|いろは丸側は東南に向けて航行していたと主張しているが、徳島大学名誉教授で郷土研究家の渋谷雅之は、[[来島海峡]]を経由していたとするいろは丸に同乗していた大洲藩の人物の証言を確認したとして、明光丸側の主張通り両船とも北上しながら東西から対向したと考えるのが自然であり、いろは丸側の非がほぼ確定したと結論づけている<ref name=":4" />。}}明光丸よりも小型の'''いろは丸が回避義務を負い'''、逆に保持船に相当する明光丸は進路を維持していれば問題なかったものと考えられる。また、いろは丸側の主張は高柳家に残された『明光丸ト土佐藩之汽船伊呂波丸ト衝突事件応接筆記』や紀州藩の歴史書『[[南紀徳川史]]』での記録と真っ向から対立しており、位置関係上明光丸の紅灯が見えるべきところ緑灯を発見して舵を切ったとするなど不自然であることから、自己の立場を有利にするための偽証であったと目される。なお、紀州藩側はいろは丸が相手に自船の向きを伝える役割をする[[舷灯]]を点灯していなかったと主張しているが、証拠となるいろは丸船体が水没したために立証できなかった<ref name=":7" /><ref name=":8" /><ref name=":4">{{Cite web|title=飛騰 103号|url=https://ryoma-kinenkan.jp/about/pamphlet.html|website=ryoma-kinenkan.jp|accessdate=2020-07-29|publisher=公益財団法人高知県文化財団|work=いろは丸事件の記録(3)|year=2017|month=10|author=渋谷雅之}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://oceanpolicy.jp/dai2kai-nenjitaikai.pdf|title=坂本龍馬と万国公法|accessdate=2010-12-4|author=坂本茂樹|format=PDF|publisher=日本海洋政策研究所}}</ref>)、紀州藩は龍馬の交渉術に翻弄された<ref name=":3" />。
 
明光丸船長の高柳に対し、龍馬は「万国公法に基づき非は明光丸にある」と一方的に主張し、急場の難を救うためとして1万両を要求した。動揺を隠せない高柳は明光丸に搭乗している勘定奉行の[[茂田一次郎]]と相談した結果、「金一封(千両)を出す」と返答したが、強気の龍馬はこれを拒絶した。藩命を受けて長崎に向かわなければならず焦る高柳は「1万両を立て替えるから、返済期限を決めよ」とさらに提案するも、龍馬は「1万両は賠償金の一部。それを返済期限を明示せよとは何事か」と反発した。交渉は決裂し、明光丸は長崎に向けて出港し、龍馬は停泊中の長州藩船に乗り込んでその後を追った<ref name=":9" /><ref name="yomiuri20100425" /><ref name=":3">{{Cite newsweb|title=【関西歴史事件簿】坂本龍馬・いろは丸事件(中) 崩れる龍馬のイメージ…国際法タテに1万両要求した〝銭ゲバ〟ぶり、紀州藩の無知につけこむ|date=2013-8-25|last=INC.|first=SANKEI DIGITAL|url=https://www.sankei.com/smp/west/news/130825/wst1308250087-s.html|accessdate=2018-10-01|publication-date=|language=ja-JP|workwebsite=産経WEST|publisher=[[産業経済新聞社|産経デジタル]]}}</ref><ref name=":1">{{Cite newsweb|title=【関西歴史事件簿】坂本龍馬・いろは丸事件(下) 龍馬暗殺真相〝異説〟=身内の裏切り?「賠償金7万両」支払い直前に急襲、その金は…|date=2013-9-1|url=https://www.sankei.com/west/news/130901/wst1309010068-n1.html|accessdate=2018-09-27|workwebsite=産経WEST|publisher=[[産業経済新聞社|産経デジタル]]}}</ref>。
 
慶応3年5月15日に長崎で交渉が再開された。初日は土佐藩から龍馬・[[小谷耕蔵]]・[[腰越次郎]]・[[岩崎弥太郎]]ら、紀州藩からは高柳楠之助・[[岡本覚十郎]]・[[成瀬国助]]・[[福田熊楠]]らが出席したとされる。龍馬らは[[ミニエー銃]]400丁など銃火器3万5630[[両]]や金塊など4万7896両198[[文 (通貨単位)|文]]を積んでいたと主張し、航海日誌や談判記録をもとに万国公法にのっとり判断すべきとしたが、紀州藩側は[[長崎奉行所]]([[江戸幕府]])の公裁を仰ぐべきと反論した。龍馬は「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」と民衆を煽り紀州藩を批判する自作の俗謡を花街で流行らせた<ref name=":9" /><ref name=":1" />。
 
紀州藩は龍馬ら海援隊との交渉を避けるようになり、茂田一次郎が土佐藩参政の[[後藤象二郎]]と交渉を行った。このとき茂田は後藤に対し「一戦も覚悟」と激怒していたが、五代友厚のとりなしもあり、事故から1か月後に紀州藩が折れて積荷代に相当する[[賠償金]]8万3526両198文を支払う事で決着した{{refnest|group=注|ただし、証文や南紀徳川史で記載された内訳では、35,630両を沈没した船代、47,896両198文を積荷物等対価としている<ref name=":9" /><ref name=":8" />。}}<ref name=":9" /><ref name=":8" /><ref name=":1" /><ref>[http://www.ryoma-kinenkan.jp/study/qa/other/post-112.php いろは丸事件での龍馬の対応 - 高知県立坂本龍馬記念館|調べる|龍馬Q&A]</ref>。この賠償金額は、現在の貨幣価値に換算すれば164億円([[日本銀行]]高知支店の計算による)にも匹敵する、巨額なものであった<ref>{{Cite web|url=http://www3.boj.or.jp/kochi/ryomatookane5.html|title=坂本龍馬とおかね(いろは丸賠償金83,526両)|日本銀行高知支店|accessdate=2018-10-01|website=www3.boj.or.jp}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www3.boj.or.jp/kochi/ryomatookane7.html|title=坂本龍馬とおかね|accessdate=2018-10-01|website=www3.boj.or.jp|publisher=日本銀行高知支店}}</ref>。紀州藩の現地責任者だった茂田は紀州藩の下級藩士の家に生まれ事務方としての能力や人脈を生かして重役の勘定奉行にまで出世した苦労人であったが、この交渉失敗の詰め腹を切らされる形で御役御免(免職)となった{{refnest|group=注|南紀徳川史では海援隊ら攘夷派の過激な言動や後藤象次郞・[[中島信行]]らの脅迫を恐れた茂田が、独断の策窮で五代に仲裁を依頼し賠償金の支払いを約したため、処罰を受けたとしている<ref name=":8" />。}}<ref>{{Cite newsweb|title=幕末の紀州藩士・茂田一次郎の壮絶人生、わかやま歴史館で企画展示|date=2018-02-11|url=https://www.sankei.com/region/news/180211/rgn1802110017-n1.html|accessdate=2018-09-27|workwebsite=産経ニュース|publisher=[[産業経済新聞社|産経デジタル]]}}</ref>。
 
沈没したいろは丸の船体は1980年代に海底で発見された。その後複数回実施された潜水調査では、いろは丸から[[辰砂|朱]]や[[鮫皮]]などの交易品は見つかったものの、'''龍馬らが主張した銃火器などの積荷はまったく確認されておらず'''、紀州藩から多額の賠償金をせしめるための「はったり」であったとみられている<ref name=":2">{{Cite news|title=【水中考古学へのいざない(19)】瀬戸内海に眠る龍馬の「いろは丸」、日本の夜明け夢見た志士たち|date=2017-12-16|url=https://www.sankei.com/west/news/171216/wst1712160010-n1.html|accessdate=2018-09-28|work=産経WEST}}</ref><ref name=":1" /><ref name=":5">{{Cite journal|和書|author=吉崎伸|month=12|year=2006|title=坂本龍馬の「いろは丸」|url=https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet.html|journal=リーフレット京都|volume=216|page=|publisher=京都市埋蔵文化財研究所}}</ref>。賠償金は7万両に減額されたうえで11月7日に長崎で土佐藩に支払われ、更にその後龍馬に支払われるはずだったが、8日後の11月15日に龍馬はその大金を受け取ることなく京都川原町の[[近江屋事件|近江屋で暗殺された]]<ref name=":2" /><ref name=":7" /><ref name=":1" />。
 
この事故は、蒸気船同士の衝突事故としても[[海難審判]]事故としても日本で最初の事例とされている<ref name="yomiuri20100425" /><ref name=":1" />。
 
[[ファイル:Irohamaru map.jpg|thumb|center|550px|'''いろは丸と明光丸の海路図'''
<br />『坂本龍馬関係文書 第二』(岩崎英重、大正15年)に基づく解説<ref>{{Cite web|title=飛騰 101号|url=https://ryoma-kinenkan.jp/about/pamphlet.html|website=ryoma-kinenkan.jp|accessdate=2020-07-29|publisher=公益財団法人高知県文化財団|work=いろは丸事件の記録(1)|year=2017|month=4|author=渋谷雅之}}</ref>。
<br />御手洗航路上を西進していた明光丸を発見したいろは丸は、左に舵を取り、遅れていろは丸を発見した明光丸は右に舵をとった後、左に戻し、衝突した。衝突後、いろは丸乗組員は明光丸に乗り移ったが、当直士官が甲板にいなかったという。またその後明光丸はいったん後進していろは丸から離れたが、再び前進して再度いろは丸に衝突、これが沈没の原因となった。明光丸は乗組員全員を乗せ、いろは丸を鞆港に曳航しようとしたが途中で沈没した。<ref>坂本龍馬といろは丸事件(2008年 二葉印刷有限会社)</ref>]]