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=== 女学校卒業後 ===
[[1929年]](昭和4年)、19歳で女学校補習科師範科を卒業した。その後も依然として、向学心が尽きることがなかった{{R|ほっかいどう先人探訪_p151}}。卒業後は実家で家事を手伝ったが、数学のことが頭を離れず、暇があれば数学の教科書を取り出して、机に向かっていた{{R|ほっかいどう百年物語20040331_p158}}。そののち姉の紹介で小樽市立第2中学校の数学教師に学ぶことができ、中学校の教科書を全部習得している
 
[[小学校]]の教員に勤める手段もあったが、芳枝は進学してより高度な数学を学ぶこと、数学研究者への道を望んだ{{R|ほっかいどう百年物語20040331_p158}}<ref name="理系の扉を開いた日本の女性たち_210">{{Harvnb|西条|2009|pp=210-212}}</ref>。地元の北海道帝国大学(後の[[北海道大学]]、以下、北大と略)にはまだ[[理学部]]がなく、あったとしても学歴不足で受験資格はなかった。女性が学問の道へ進むためには依然、壁の立ちはだかる時代であった{{R|理系の扉を開いた日本の女性たち_210}}。
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[[1936年]](昭和11年)、芳枝は北大の数学教室の事務補助員となった{{R|北海道大学}}。雑用を一手に引き受けつつ、受験勉強を続けた{{R|ほっかいどう百年物語20040331_p161}}。教員検定試験は同1936年、翌[[1937年]](昭和12年)と不合格が続いた。同1937年、 [[東京女子大学]]が数学科教員無資格認定の学校として認定され、芳枝は北大の教員に勧められ、この学校に入学した。
 
[[1939年]](昭和14年)、芳枝は教員検定試験に4度目にして合格した{{R|理系の扉を開いた日本の女性たち_212}}。東京女子大学でも祝福されたが、最早この学校に留まる理由はなく、翌[[1940年]](昭和15年)に退学し、念願の北大に正規学生としての入学を果たした{{R|理系の扉を開いた日本の女性たち_212}}。十代の同級生ばかりの中、芳枝は29歳になっていた{{R|ほっかいどう百年物語20040331_p161}}。11期生の同級生は7名、年齢的には30歳前後のグループと20歳を少し出たグループに分かれ、紅一点の芳枝は上位グループ。しかし年齢を感じることなく、7人はいつも一緒で仲が良かったようである<ref>『北大理学部五十年史』 p291</ref>。[[1942年]](昭和17年)、戦時下の軍の指令により、在籍2年繰り上げで北大を卒業し{{R|理系の扉を開いた日本の女性たち_212}}。北海道帝国大学理学部数学教室第二講座(幾何学)の助手となる
 
=== 戦後 ===
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=== 日本国外での活動 ===
[[1956年]](昭和31年)、[[ローマ大学]]からの招待状が届いた。ローマ大学は、世界中の優れた数学者たちが集う、数学者たちの憧れの地であった。芳枝は、生まれて初めて目にする本格的な数学の世界に、多大な影響を受けた。ここで、「Pezzo-Segreの代数的多様体の平行移動について」の研究を行う<ref>『近代日本女性史 4 科学』 p168</ref>。研究内容はもちろんのこと、大学での授業風景は、教える教授の側、教わる学生の側、双方とも熱意に満ちていた。ローマという歴史ある街の中で、さらに新しい歴史を推し進めようとする人々の姿に、芳枝は心を打たれた{{R|ほっかいどう百年物語20040331_p164}}。
 
半年後、芳枝はローマからスイス連邦国立理工科大学に移動した。芳枝はここで、数学の巨匠といわれる{{仮リンク|ハインツ・ホップ|en|Heinz Hopf}}に師事し、ホップとの共同研究を開始し{{R|ほっかいどう先人探訪_p151}}、当時の微分幾何学では画期的な研究「部分多様体論」を手がけた。これは世界的に見てもまだ広い範囲での研究がなされていない、新しい分野での研究であった。想像力と熱意にあふれた芳枝、世界の巨匠であるホップの2人は、起床から深夜に床につくまで、激しい討論をひたすら繰り返し、1年後についに研究の到達点に辿り着いた{{R|ほっかいどう百年物語20040331_p164}}。
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{{Quotation|その時の喜び、感激は言葉では言い表せません。それまでの先生と血のにじむような討論の毎日、純粋に学問一筋に研究のみに没頭した生活の充実感、それらは苦しいが素晴らしいものでした。|桂田芳枝|{{Harvnb|STVラジオ編|2004|p=166}}より引用}}
 
「大域の微分幾何学研究」を「リーマン空間の研究」に結び付けた「リーマン空間の閉局面の合同定理」は、エジンバラで同年開かれた国際数学者会議で発表することとなった。また、1958年4月からはE.Davies教授の招待で英国サウサンプトン大学 ( University of Southampton)へ行くことになっていた。しかし、芳枝は病気になり、やむなく帰国、この会議には出席できなかった。<ref>「数学者の目:スイスの思い出―点描」p24</ref>が、この研究は称賛を浴び、国際的にも高い評価を受けた{{R|ほっかいどう先人探訪_p151}}。世界中の数学者から彼女の元に手紙が届いた。後に「この研究によって数学の本当のおもしろさがわかった」と語っている<ref>『近代日本女性史 4 科学』P171</ref>。
ホップとの共著による論文「リーマン空間の閉曲面の合同定理」は、国際的にも高い評価を受けた{{R|ほっかいどう先人探訪_p151}}。芳枝はこれにより、数学者として歴史に残る業績を生み出すことができたのである{{R|ほっかいどう百年物語20040331_p164}}。
 
再びヨーロッパへ研究に出たのは3年後、1961年(昭和36年)11月、ローマ大学国立高等数学研究所のベニアミーノ・セグレ(Beniamino Segre)教授に招かれた。翌1962年6月からは再びスイス理工科大学にアカデミック・ゲストとして招かれ、ホップ教授と引き続き研究を重ねた。<ref>『近代日本女性史 4 科学』p171</ref>。この時には週2回の頻度で討議をしている<ref>「数学者の目:スイスの思い出―点描」p24</ref>。8月にはスウェーデンのストックホルムで開かれた国際数学者会議でホップ・桂田の共同研究「リーマン空間の中の閉超局面のある性質」を発表した。
芳枝は帰国後、ローマ大学で感銘を受けた授業内容をもとに、学生たちへの指導を続けた{{R|ほっかいどう百年物語20040331_p164}}。[[1967年]](昭和42年)、北大教授の河口商次の後任として、理学部の[[教授]]に就任した{{R|北海道大学総合博物館}}。女性が教授になったのは、北大で初のことであった。多くの新聞がこれを、「女性の社会進出」として報道した。このことは日本全国の大学でも、女性の教授が誕生する機会となった{{R|ほっかいどう百年物語20040331_p164}}。
1966年(昭和41年)9月にも、S.S.Chern教授の招きでカリフォルニア大学バークレー校で研究し、翌年7月より9月は、再度スイスのホップ教授の元で研究している<ref>『近代日本女性史 4 科学』p172</ref>。
 
芳枝は帰国後、ローマ大学で感銘を受けた授業内容をもとに、学生たちへの指導を続けた{{R|ほっかいどう百年物語20040331_p164}}。[[1967年]](昭和42年)、北大教授の河口商次の後任として、北海道大学理学部数学教室幾何学講座の[[教授]]に就任した{{R|北海道大学総合博物館}}。旧帝国大学で初の女性教授になった誕生である。<ref>「桂田芳枝 (Yoshie Katsurada, 1911-1980)」https://www.math.sci.hokudai.ac.jp/general/history_katsurada.php</ref>。理学部長福富教授北大でめてこと女性教授あっすが、学問の上でも人間的にもすばらしい人です。教授会の推薦も満場一致でし」と祝福している<ref>『近代日本女性史 4 科学』p172</ref>。多くの新聞がこれを、「女性の社会進出」として報道した。このことは日本全国の大学でも、女性の教授が誕生する機会となった{{R|ほっかいどう百年物語20040331_p164}}。
芳枝は、1970年7月から12月にも、スイス理工科大学を訪れ、研究を継続している。
 
=== 晩年 ===
[[1973年]](昭和48年)10月、自然科学の分野で[[北海道文化賞]]を受賞した{{R|北海道大学}}<ref>{{Cite web|url=http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/bunkasho/jushoshaichiran3.pdf|format=PDF|title=北海道文化賞・奨励賞表彰状況一覧|accessdate=2020-9-18|publisher=[[北海道]]}}</ref>。1975年(昭和50年)に定年退職し、名誉教授となっている<ref>『北大理学部五十年史』p447</ref>。「昭和17年以来、何学の研究に精進し、リーマン空間における大域的微分幾何学に関する研究など、その業績は国際的にも高く評価されている。北大において30年間にわたり子弟の教育にあたり、本道の各大学や高等学校へ数多くの教育者を送り出している<ref group="*">{{Harvnb|北海道大学総合博物館|2016|p=2}}より引用。</ref>」との評価であった{{R|北海道大学総合博物館}}。
 
[[1975年]](昭和50年)4月に、北大を退官した。その5年後の1980年(昭和55年)、68歳で死去した<ref>{{Cite book|和書|editor=札幌女性史研究会編|title=北の女性史|date=1986-7-30|publisher=[[北海道新聞社]]|isbn=978-4-89363-466-5|pags=202}}</ref>。本州の大学からの引き合いも多かったが、それをすべて断り、愛する北海道に留まって、生涯、北大でセミナーを続け、後進を育て続けた<ref name="北海道新聞20080208m_p30">{{Cite news|和書|language=ja|date=2008-2-8|title=人物散歩 桂田芳枝(1911-80年)旧帝大初の女性教授|newspaper=[[北海道新聞]]|edition=樽A朝刊|publisher=北海道新聞社|page=30}}</ref><ref>『北大百年の百人:エルムの杜の頭脳群像』p185</ref>。「努力・忍耐・独自の工夫創意なくして、あらゆる分野での開拓は成し得ません」が晩年の言葉であった{{R|ほっかいどう百年物語20040331_p164}}。
 
== 人物 ==
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ハインツ・ホップとの論文「リーマン空間の閉曲面の合同定理」は、[[1958年]]にイギリスの[[国際数学者会議]]で発表予定であったが、芳枝は体調不良から出席できなかった。このとき中国の数学者である[[陳省身]]を始め、会議に出席した各国の著名な数学者から見舞いの寄せ書きの葉書が送られており、芳枝が如何に多くから愛されていたかが窺える{{R|北海道大学総合博物館}}。
1962年8月のストックホルムで行われた国際数学者会議での様子を、現地に行った矢野健太郎は、「桂田さんは女性なので、晴れの場所であがってしまって、うまく言えないといけないというので、この講演の代読をHopf先生にたのまれた。Hopf先生は最初にその旨を言われて、非常に楽し気に、また非常に上手に、愛弟子の仕事を説明された」と、師弟の仲睦じい様子を述べている。<ref>「1962年国際数学者会議:ストックホルムだより」p23</ref>
 
== 没後 ==
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== 評価 ==
退官まで生涯を通じて発表した研究論文は全部で3741編にのぼり、これは当時の数学者としては大きな功績と言える{{R|ほっかいどう百年物語20040331_p164}}。ただし著作物は学術論文のみで、教科書やエッセイ集のような一般著作は一切、遺されていない{{R|理系の扉を開いた日本の女性たち_214}}<ref>『理系の扉を開いた日本の女性たち:ゆかりの地を訪ねて』p215</ref>
 
芳枝の講義の評価は高く、北海道教育大学名誉教授の長谷川和泉は、「丁寧な教え方で、とてもわかりやすかった」と回想した{{R|ほっかいどう先人探訪_p151}}。芳枝の感化を受けた教え子は、卒業後、芳枝と同じ研究者や教育者の道を目指して巣立っていく者たちも多かった{{R|ほっかいどう百年物語20040331_p164}}。北海道余市町の文芸誌である「余市文芸」に芳枝の評伝を書いた余市郷土文芸会の菅原一也は、「芯が強く、女性が勉学に励むことが困難な時代に、自ら道を切り拓いた偉大な女性だった」と称賛した{{R|ほっかいどう先人探訪_p151}}。
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* {{Cite book|和書|others=[[上田正昭]]監修|title=日本人名大辞典|date=2001-12-6|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4-06-210800-3|url=https://kotobank.jp/word/%E6%A1%82%E7%94%B0%E8%8A%B3%E6%9E%9D-1065787|accessdate=2020-9-18|ref={{SfnRef|上田監修|2001}}}}
*山下愛子編『近代日本女性史 4 科学』鹿島研究所出版会、1970年
*北海道大学理学部五十年史編纂委員会『北大理学部五十年史』北海道大学理学部 1980年
*桂田芳枝「数学者の目:スイスの思い出―点描」数学セミナー2巻4号 1963年10月p21-24
*北海タイムス社編『北大百年の百人:エルムの杜の頭脳群像』北海タイムス社 1976年
*矢野健太郎「1962年国際数学者会議:ストックホルムだより」数学セミナー1巻8号 1962年11月 p15-23
*桂田芳枝「Heintz Hopf先生の思い出」数学セミナー11巻7号 1972年7月 p44-45
*「数学界初の女博士 北大理学部の桂田女史」毎日新聞(大阪)1950.5.21 『新聞集成昭和編年史 昭和25年版3』新聞資料出版 2000年 p271
*山本美穂子「北海道帝国大学理学部における女性の入学」『北海道大学大学文書館年報』1号、2006年2月、p.18~57 https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/5774 北海道大学学術成果コレクション 全文閲覧可能
 
== 関連文献 ==