「弥生時代」の版間の差分
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[[鈴木尚]]は、縄文時代から現代までの南関東の人骨を比較研究後、縄文人から弥生人への体質変化を生活環境の変化と考えた。狩猟・漁労生活から農耕生活へと生活環境を一変させた変革こそ形質を変えることになったと理解した。
一方、[[1960年代]]になると[[金関丈夫]]が、山口県[[土井ヶ浜遺跡]]や佐賀県の三津永田遺跡などの福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から、弥生時代の人の身長は高く、さらに頭の長さや顔の広さなどが大陸の人骨に近く、縄文時代人とは大きな差があると指摘し<ref>東アジアと『半島空間』―山東半島と遼東半島 千田 稔 ,宇野 隆夫</ref>、縄文人とは違った人間が朝鮮半島を経由してやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えた<ref>{{Cite web |url=http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/131.html |title=金関の渡来説 |publisher=九州大学総合研究博物館 |accessdate=2013-4-19}}</ref>。また、[[埴原和郎]]は、アジア南部に由来する縄文人の住む日本列島へ中国東北部にいた[[ツングース系民族|ツングース系]]の人々が流入したことにより弥生文化が形成されたとの「二重構造モデル」を1991年に提唱した。埴原は、人口学の推計によれば弥生時代から古墳時代にかけて一般の農耕社会の人口増加率では説明できない急激な人口増加が起きていることから、この間、100万人規模の渡来人の流入があったはずだとする大量渡来説も提唱していた<ref>{{Cite web |url=http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/161.html |title=今日の渡来説 |publisher=九州大学総合研究博物館 |accessdate=2013-
[[佐原真]]は福岡平野・佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人が渡来人と混血した結果弥生文化を形成して東に進み、混血して[[名古屋]]と[[丹後半島]]とを結ぶ線まで進み、[[水稲耕作]]が定着したとしている<ref>佐原真「農業の開始と階級社会の形成」、金関恕・春成秀爾編『佐原真の仕事4 戦争の考古学』岩波書店 2005年</ref>。
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