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Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/高橋瑞子 20201230をもとに、+ 産婆時代の活動、学生時代の学費など。引用の体裁など修正
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[[1877年]]([[明治]]10年)、東京の伯母から「養女に迎えたい」と乞われて上京したが{{refnest|group="*"|兄嫁との衝突が原因で上京したとの説や{{R|理系の扉を開いた日本の女性たち_73|日本女性史叢書20081225_p69}}、当時の25歳前後の年齢は、周囲からは「行き遅れ」と噂の種になったため、郷里を離れて新天地を目指したとの説もある<ref name="潮19900601_p342">{{Harvnb|潮|1990|pp=342-343}}</ref>。}}、伯母の家ではすでに養子が迎えられており、結婚を前提とした話であった{{R|理系の扉を開いた日本の女性たち_73}}。伯母が財産家にもかかわらず吝嗇家で、瑞子にろくに食事を与えないなど虐待したことなどが理由で{{R|吉岡弥生伝19980825_p125}}、結婚話は約1年で破綻し、瑞子は家を出た{{R|明治・大正を生きた女性逸話事典_p215|理系の扉を開いた日本の女性たち_73}}。
 
生活のため、ある家に手伝いとして住み込んだところ、その家の者の弟への嫁入りを勧められた{{R|明治・大正を生きた女性逸話事典_p215|理系の扉を開いた日本の女性たち_73}}。相手は小学校の教員であり、生活の上でも不安がないと思われたが、これも失敗して離婚した。この他に、車屋と同棲して飢えを凌いだ話なども伝えられている{{R|理系の扉を開いた日本の女性たち_73}}<ref name="日本看護歴史学会誌201405_p86">{{Harvnb|大竹|城丸|佐藤|2014|p=86}}</ref>{{refnest|group="*"|この車屋の逸話は、[[吉岡彌生]]は[[#車屋の逸話|先述]]の通り、「もしほんとうであったとしたら」と仮定して見解を述べているものの、自伝で「何かの間違いだろうと思う」と述べている{{R|吉岡弥生伝19980825_p125}}。瑞子自身が過去の語りを嫌う性格であったため<ref name="ドクトルたちの奮闘記_p140">{{Harvnb|石原|2012|p=140-145}}</ref>、この頃の逸話は半ば伝説じみており、諸説あり、真偽のほどは定かではない{{R|近代日本の女性史19810623_p11}}。}}。後年に瑞子と親交([[#吉岡彌生|後述]])を持つ吉岡彌生は、当時の瑞子の生活の窮状を、自著で以下の通り述べている{{R|吉岡弥生伝19980825_p125}}。
 
{{Quotation|{{Anchors|車屋の逸話}}女が働いて自活するといっても、仕立物や洗濯の内職で得られる収入はたかの知れたもので、高橋さんは、持っていた着物や道具を質に入れたり売り飛ばしたりして、どうやら飢えを凌いでいました。高橋さんが、車夫と一しょに住んでいたという噂は、──もしほんとうであったとしたら、恐らくこのどん底時代の出来事ではなかったでしょうか。──高橋さんの男まさりの性格や伝法肌のところには、よほど浮世の荒波を潜ってきた人でなければ見られないものがありましたから。|[[吉岡彌生]]|秋山聾三「瑞子二説」|{{Harvnb|秋山|1991|p=70}}より引用}}
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産婆会の会長である[[津久井磯]]が、[[前橋市|前橋]]で数人の助手を雇って開業していたことから、[[1879年]](明治12年)<ref name="日本看護歴史学会誌201405_p88">{{Harvnb|大竹|城丸|佐藤|2014|pp=88-90}}</ref>、瑞子は前橋に移り、知人の紹介により{{R|ドクトルたちの奮闘記_p140}}、磯の助手として住み込みで勤めた{{R|明治・大正を生きた女性逸話事典_p215|理系の扉を開いた日本の女性たち_74}}。瑞子は新参者にもかかわらず、早々に頭角を現し、磯の信頼を得るに至った<ref name="近代日本の女性史19810623_p17">{{Harvnb|佐藤|円地|1981|pp=17-25}}</ref>。磯の没後に建立された[[#顕彰碑|後述]]の顕彰碑にも、瑞子のことが「従遊もっとも久しく、学術最も勝る」と記載されている{{R|日本看護歴史学会誌201405_p88}}。
 
折しも1876年(明治9年)に、東京府で産婆教授所が設置されて以来、産婆教育は従来の徒弟制度に代り、正式な産婆教育が開始された時期であった。磯は瑞子に、正式に産婆学を学ぶことを勧めた{{R|日本看護歴史学会誌201405_p88}}。[[1881年]](明治14年){{R|日本看護歴史学会誌201405_p88}}、瑞子は産婆開業資格を取るべく、上京して産婆養成所である紅杏塾(後の東京産婆学校)で学んだ{{R|明治・大正を生きた女性逸話事典_p215|理系の扉を開いた日本の女性たち_74}}。学費は磯が援助した{{R|日本看護歴史学会誌201405_p88}}。瑞子は磯の助手として産婆の実践を学ぶことに加えて、この紅杏塾で、その実践を裏付ける理論を学んだ。特に徒弟制度では学ぶことのできない異常妊娠分娩産褥論、初生児処置などを学ぶことで、学問としての知識と技術、医師と産婆の職域の違いを明確に理解した{{R|日本看護歴史学会誌201405_p88}}。[[1882年]](明治15年)に紅杏塾を卒業{{R|海を越えた日本人名事典19851210_p350}}。同1882年{{refnest|group="*"|name="年譜のずれ"|紅杏塾の卒業は明治16年9月{{R|吉岡弥生伝19980825_p125}}、医術開業前期試験合格は明治19年3月{{R|海を越えた日本人名事典19851210_p350|吉岡弥生伝19980825_p129}}、医師引退は大正4年との説もある{{R|海を越えた日本人名事典19851210_p350}}。瑞子の医師への道を始めて紹介した資料『明治医家列伝』({{NCID|BN11564590}})では、このように瑞子が医師となって以降の年が1年ずつずれているが、西尾市で『西尾市史』編纂委員を務めた礒貝逸夫は、この『明治医家列伝』を指して「こちらの方が正しいかも知れない」と語っている{{R|岩瀬彌助の生涯_p262}}。}}、開業資格内務省産婆免許を取得した{{R|理系の扉を開いた日本の女性たち_74|日本看護歴史学会誌201405_p88}}。
 
産婆は当時、社会進出を目指す女性にとっての花型職業であったが、東京府の産婆は約3千人のところ、正式な免許取得者は、仮免許を含めてもわずか658人であり、瑞子のような産婆が希少な存在として尊重されていたことが示されている{{Sfn|紀田|1969|pp=156-158}}。後年に発行された愛知県西尾市の『西尾市史』では。「本邦に於て、内務省の産婆免許は、實に瑞子を以て嚆矢とす」と記載があり、瑞子は内務省の免許を持つ日本でも数少ない先駆的な産婆であったと見られている{{R|日本看護歴史学会誌201405_p88}}。
 
=== 医学への転身 ===
磯は瑞子を自分の後継者にと考えており{{R|理系の扉を開いた日本の女性たち_74}}、自分の息子の妻にと考えていたともいうが{{R|近代日本の女性史19810623_p17}}、瑞子は東京での産婆開業資格を取得後、前橋に戻らずに東京に留まり、医師を志した{{R|理系の扉を開いた日本の女性たち_74}}。
 
産婆から医師への転身の理由については、以下の説が唱えられている。
{{Quotation|同性の悩みを救おうとして女医を志した理論家タイプの荻野さんと、収入が多いというところから女医に目をつけた実際家タイプの高橋さんとは、その点でも興味ある対照といわなくてはなりませんでした。──高橋さんにとって、免許状は目的でなく、まず産婆になって医者修行の学費を稼ぐのが目的であったことは申し上げるまでもないでしょう。|吉岡彌生|秋山聾三「新産婆」|{{Harvnb|秋山|1991|p=84}}より引用}}
* 内職程度では自立が困難なことから、最初から収入の多い職業として医師を志しており、産婆はその医師の学費を稼ぐための手段だった{{R|吉岡弥生伝19980825_p125}}{{Sfn|秋山|1991|p=84}}。
* 先述のように医師と産婆の違いを明確に理解したことから、産婆では救いきれない命があると考えた{{R|日本看護歴史学会誌201405_p88}}<ref name="婦人公論20200709">{{Cite web|url=https://fujinkoron.jp/articles/-/2243 |title=男装の女医・高橋瑞の波瀾の人生「あとに続く女子医学生たちのために自らを標本に」|accessdate=2020-10-21|author=田中ひかる|date=2020-7-9|pages=1-3|website=[[婦人公論]]|publisher=[[中央公論新社]]}}</ref>
* 高い向学心により、産婆の仕事に満足できなかった{{R|理系の扉を開いた日本の女性たち_74}}。
* 磯の夫が産婦人科医であり、瑞子は住み込み先の産婦人科医と産院の両方を見ていたことが事情にあった<ref name="ライフビジョン201305">{{Cite web|url=http://www.lifev.com/mag/index.php?MENU=%93%FA%96%7B%89%C8%8Aw%8BZ%8Fp%82%CC%97%B7&DATE=130501&PAGE=&CHCK=REV# |title=女医の道を開拓した高橋瑞子|accessdate=2020-10-21|author=君川治|date=2013-5|website=[http://www.lifev.com/mag/ On Line Journal「ライフビジョン」]|publisher=有限会社ライフビジョン}}</ref>。
 
吉岡彌生はこれらの内、最初から医師を志していたとの説を支持し、自著において以下の通りの推測を述べている{{R|吉岡弥生伝19980825_p125}}{{Sfn|秋山|1991|p=84}}。
吉岡が語るように「産婆はあくまで医師としての開業までの資金を得るためだった」との説の他{{R|吉岡弥生伝19980825_p125}}{{Sfn|秋山|1991|p=84}}、先述のように医師と産婆の違いを明確に理解したことから、産婆では救いきれない命があると考えたため{{R|日本看護歴史学会誌201405_p88}}<ref>{{Cite web|url=https://fujinkoron.jp/articles/-/2243 |title=男装の女医・高橋瑞の波瀾の人生「あとに続く女子医学生たちのために自らを標本に」|accessdate=2020-10-21|author=田中ひかる|date=2020-7-9|page=1|website=[[婦人公論]]|publisher=[[中央公論新社]]}}</ref>、または、高い向学心によるものとの説もある{{R|理系の扉を開いた日本の女性たち_74}}。磯の夫が産婦人科医であり、瑞子は住み込み先の産婦人科医と産院の両方を見ていたことも事情にあった<ref name="ライフビジョン201305">{{Cite web|url=http://www.lifev.com/mag/index.php?MENU=%93%FA%96%7B%89%C8%8Aw%8BZ%8Fp%82%CC%97%B7&DATE=130501&PAGE=&CHCK=REV# |title=女医の道を開拓した高橋瑞子|accessdate=2020-10-21|author=君川治|date=2013-5|website=[http://www.lifev.com/mag/ On Line Journal「ライフビジョン」]|publisher=有限会社ライフビジョン}}</ref>。
{{Quotation|同性の悩みを救おうとして女医を志した理論家タイプの荻野さんと、収入が多いというところから女医に目をつけた実際家タイプの高橋さんとは、その点でも興味ある対照といわなくてはなりませんでした。──高橋さんにとって、免許状は目的でなく、まず産婆になって医者修行の学費を稼ぐのが目的であったことは申し上げるまでもないでしょう。|吉岡彌生|秋山聾三「新産婆」|{{Harvnb|秋山|1991|p=84}}より引用}}
 
[[ファイル:Nagayo_Sensai.jpg|thumb|right|[[長與專齋]]]]
しかし当時、女性は医学校の入学も、医師開業試験も受験資格がなかった{{refnest|group="*"|当時、[[帝国大学]]医学部の卒業生は、自動的に医師の取得を取得でき、[[医師国家試験]]などの受験は不要だった。しかし帝国大学は、日本初の女性化学者である[[黒田チカ]]が1913年(大正2年)に入学するまで女人禁制であり、医学を志す女性は、私学のみが頼りであった{{R|ドクトルたちの奮闘記_p140}}。黒田チカ以前に、1887年(明治20年)1月、医科大学選科生として木村秀子が帝国大学に入学したが、これは木村が同年10月に20歳で死去したことによる例外的措置と考えられており、その後進の例はない<ref name="ドクトルたちの奮闘記_p256">{{Harvnb|石原|2012|pp=256-262}}</ref>。}}。[[1883年]](明治16年)、瑞子は持ち前の行動力から、[[内務省 (日本)|内務省]]衛生局長である[[長與專齋]]に直訴して、現状を訴えた{{sfn|礒貝|1990|pp=236-238}}。長與の返事は「もうしばらく待て」とのことであった。瑞子はこれを良い感触と受取り、勉強のために大阪の病院での実地で[[内科]]、[[外科]]、[[産婦人科]]を学んだ{{R|海を越えた日本人名事典19851210_p350}}<ref name="群馬県立図書館2010">{{Cite web|url=https://www.library.pref.gunma.jp/?page_id=657 |title=日本の女性史にかがやく群馬ゆかりの先駆者たち 関連資料展示リスト|accessdate=2020-10-21|date=2010|format=PDF|page=1|publisher=[[群馬県立図書館]]}}</ref>。
 
しかし学費が不足したと見られ、翌年に前橋に戻って、「新産婆」の看板を出して開業した。当時の正式な免許を得た産婆の1人であったことで名声を博し、産婆として大いに活躍した{{Sfn|秋山|1991|pp=84-85}}。地元の有力者と相談して、地元で優秀な産婆を育てる必要性を説き、産婆学校の開設を考えるなど、正式な産婆の少ない当時としてはユニークな試みもあった<ref name="岩瀬彌助の生涯_p239">{{Harvnb|礒貝|1990|pp=239-241}}</ref>
 
=== 勉学時代 ===
==== 済生学舎 ====
1883年(明治16年)10月、内務省で女子の開業医試験の受験が許可された{{R|理系の扉を開いた日本の女性たち_74}}。翌[[1884年]](明治17年)、[[荻野吟子]]が[[医術開業試験]]に合格した。瑞子はこの報せを新聞記事で読み、女子に医師への道が開かれたと知った{{R|海を越えた日本人名事典19851210_p350}}{{sfn|礒貝|1990|pp=239-241岩瀬彌助の生涯_p239}}。しかし開業試験の受験には、医学校での勉強が条件に課せられていた{{R|理系の扉を開いた日本の女性たち_74}}。
 
女子も入学可の医学校としては、成医会講習所(後の[[東京慈恵会医科大学]])があったが、月謝半年分{{refnest|group="*"|当時の成医会講習所の月謝半年分は、40円から50円程度であったと推測されている<ref name="明治の群像19690131_p160">{{Harvnb|紀田|1969|pp=160-163}}</ref>{{refnest|group="*"|name="明治の時計"|当時の貨幣価値の参考として、小学校の教員の月給が、1886年(明治19年)では約5円、1897年(明治30年)では約8円であった<ref>{{Cite book|和書|author=[[小島健司]]|title=明治の時計|date=1988-2|publisher=[[校倉書房]]|isbn=978-4-7517-1830-8|page=185}}</ref>。}}。}}の前納が条件であったため、学費不足から断念した{{R|吉岡弥生伝19980825_p125}}<ref name="|明治の群像19690131_p160">{{Harvnb|紀田|1969|pp=160-163}}</ref>。続いて前納金の不要な月謝制の医学校として、当時の唯一の私立医学校である[[済生学舎]]の門を叩いた{{R|ドクトルたちの奮闘記_p140}}。済生学舎は、純然たる開業試験の予備校であり、月謝も月ごとの分納であったため、瑞子のように苦学する立場の者には、非常に好都合な学校であった{{Sfn|秋山|1991|p=85}}。
 
[[ファイル:Hasegawa Tai.jpg|thumb|right|[[長谷川泰]]]]
済生学舎は、後年に女子の入学を許可するものの、当時はまだ不許可であった<ref name="明治の女性たち_p80">{{Harvnb|島本|1966|pp=80-85}}</ref>。瑞子はその押しの強い性格から校長に面会を求め、3日3晩にわたって無言で校門に立ち尽くした{{R|大正期の職業婦人_p269}}。食事も睡眠もとらず{{Sfn|楠戸|1992|p=215}}{{refnest|group="*"|瑞子の記念碑にも「君・玄關に端坐するもの三晝三夜、食はず眠らず、死を期し以て之を示す、舎主その熱誠に感動して意に之を聽す」とある{{Sfn|佐藤|円地|1981|p=90}}。}}、男子学生たちの冷やかしや野次にも耐え続けた{{R|ドクトルたちの奮闘記_p140}}<ref name="岩瀬彌助の生涯_p241">{{Harvnb|礒貝|1990|pp=241-243}}</ref>。3日目に校長の[[長谷川泰]]に会うことができたが、返事は「考えておきましょう」のみであったため、その後も連日で嘆願し、10目にして入学を許可された。普段は男同然に振る舞う瑞子は、入学を許可されて初めて、声を立てんばかりに泣いた{{R|大正期の職業婦人_p269|明治の女性たち_p80}}。
 
同1884年、瑞子は済生学舎で初の女生徒となった<ref name="日本看護歴史学会誌201405_p97">{{Harvnb|大竹|城丸|佐藤|2014|pp=97-98}}</ref>。周囲の学生は男子ばかりであり、瑞子は紅一点といえば聞こえは良いが、[[#人物|後述]]のように大柄の上に化粧気もなく、男子学生たちからは嫌がらせの的となった。奇声、口笛、嘲笑、黒板の卑猥な落書きなどの嫌がらせが続いたが、瑞子はそれを無視して勉強を続けた{{R|明治の群像19690131_p160}}<ref name="近代日本の女性史19810623_p25">{{Harvnb|佐藤|円地|1981|pp=25-32}}</ref>。包帯の実習など、2人1組での実習でも、瑞子と組もうとする男子学生はいなかった{{R|近代日本の女性史19810623_p25}}。骨の標本を観察しようとしたところ、男子学生が貸さないので、夜に墓場から骨を彫り出し、洗って用いたとの逸話もあった{{R|近代日本の女性史19810623_p25}}{{refnest|group="*"|この墓場の骨の逸話は、瑞子ではなく、日本の女医第4号である本多銓子の逸話だとする説もある{{R|近代日本の女性史19810623_p25}}。}}{{refnest|group="*"|name="婦人公論20200709_p4"|後年に骨格標本の主材料となる合成樹脂は、当時はまだ貴重品であり、標本は本物の遺骨か、または木製の高級品しかなかった{{R|婦人公論20200709}}{{Sfn|田中|2020|pp=227-228}}<ref>[https://fujinkoron.jp/articles/-/2243?page=2 田中 2020], p. 4</ref>。}}
 
男子たちよりも瑞子を苦しめたものは、資金面であった{{refnest|group="*"|対照的に、日本の女性初の公許女医である[[荻野吟子]]は、高額の学費を払う余裕も、有力者からも支援もあった<ref name="三田文学20110501_p177">{{Harvnb|石原|2011|pp=177-179}}</ref>。}}。頼れる親戚は皆無であり、産婆で稼いだ資金に、津久井磯からのある程度の援助、さらに身の周りのほとんどの物を質入れしても、まったく不足であった{{R|ドクトルたちの奮闘記_p140}}。瑞子は勉強の傍らも内職で女中、手紙の代筆、着物の仕立てなど、自力で生活費と学費を捻出した{{R|明治・大正を生きた女性逸話事典_p215|近代日本の女性史19810623_p17}}{{refnest|group="*"|当時の学費は、前期の月謝が1円30銭(月謝1円、講堂費30銭)、後期が1円50銭。加えて顕微鏡、屍体実験料が月額50銭、3か月間の実地演習の講習が月額70銭、下宿料として月額3円から4円を要し、前期生で1か月7円から8円、後期生は約10円が必要であった。さらに卒業後、開業試験合格後の医師免許状の登録には3円が必要で、必要な学費は、当時としてはかなりの大金であった<ref name="日本女医史199104_p88">{{Harvnb|秋山|1991|pp=88-89}}</ref>{{R|group="*"|明治の時計}}。}}。学校を終えて、19時頃に帰宅すると復習、その間に病院へも顔を出し、日付が変わる頃には内職に取り掛かった<ref name="吉岡弥生伝19980825_p129">{{Harvnb|吉岡|1998|pp=129-133}}</ref>。学校では日暮れになってもランプの灯りが暗く、黒板の文字がよく見えない上に、後方の座席では講義も聞き取れないために、できるだけ良い席を確保するために{{R|日本女医史199104_p88}}、翌朝はまだ暗い内から書物を背負って、学校へ向かった。怪しげな姿を、よく巡査から咎められた{{R|吉岡弥生伝19980825_p129}}{{Sfn|秋山|1991|pp=89-90}}。文字通り、不眠不休の生活であった{{R|シンシア20160703_p2}}。ろくな食事をとることもなかった<ref name="明治の女性たち_p85">{{Harvnb|島本|1966|pp=85-88}}</ref>。当時の金銭的な窮状を、瑞子は後年、以下の通り振り返っている{{R|明治の女性たち_p85}}<ref name="日本女医会雑誌20180501_p9">{{Harvnb|日本女医会雑誌|2018|pp=9-10}}</ref>。
 
{{Quotation|何しろひどい素寒貧でしょう、お金になることというのが、いつでも第一恋しかったね、それでならよその台所も這いまわったし、手紙の代筆でも何処かへ届けの代書きでも、何でもござれ、時たま忙しい産婆さんの手代り頼まれたり産後のつきそいなんてのがあると、有難かったねえ。|高橋瑞子|[[島本久恵]]「女医事始」|{{Harvnb|島本|1966|p=86}}より引用}}
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=== 開業 ===
同1888年(明治21年)、佐藤志津や知人たちの援助を得て、[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の元大工町(後の[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[八重洲]]1丁目付近<ref name="日本女医会雑誌20180501_p9">{{HarvnbR|日本女医会雑誌|2018|pp=9-1020180501_p9}}</ref>)に「高橋瑞子医院<ref name="日本女性史叢書20081225_p122">{{Harvnb|田中|三井|2008|pp=122-124}}</ref>」を開業した{{R|事典近代日本の先駆者_p353|近代日本の女性史19810623_p32}}。場所は魚河岸に近い町であり、周囲からは「女医さんなら[[山の手]]のような品の良い場所がいいのに」とも言われたが、瑞子は「粗野な自分には下町の気風が似合う。日本橋なら金回りは良いし、診察代の取りっぱぐれもない」と言い放った{{R|近代日本の女性史19810623_p32}}<ref name="ドクトルたちの奮闘記_p148">{{Harvnb|石原|2012|pp=148-149}}</ref>。開業にあたっては借金もしたが、貸主は瑞子の将来性を見込み、無利子に等しい状態で貸したといい、これも瑞子の人望を物語っていた{{R|近代日本の女性史19810623_p32|ドクトルたちの奮闘記_p148}}。
 
開業初日には、順天堂での縁からか、大勢の医師たちが開業祝いに駆け付けて、下町の住人たちから驚かれた。[[#人物|後述]]のように瑞子が男のような気性であったため、江戸っ子気質の現地の人々から支持され、開業早々から盛況であった<ref name="吉岡弥生伝19980825_p133">{{Harvnb|吉岡|1998|pp=133-136}}</ref>。当時は女医が珍しかったことも、人気の要因となった<ref name="岩瀬彌助の生涯_p251">{{Harvnb|礒貝|1990|pp=251-254}}</ref>。
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[[1890年]](明治23年)、38歳のとき{{R|日本看護歴史学会誌201405_p97}}、[[ドイツ]]の[[ベルリン大学]]で本場の医学{{R|吉岡弥生伝19980825_p133}}、特に[[産婦人科学]]を学ぶことを望んだ{{R|三田文学20110501_p177}}。理由は、瑞子は多くの患者を診察する内に、自分の未熟さを痛感し、より医学を学ばなければならないと考えるようになったため{{R|近代日本の女性史19810623_p32}}、または後述のような男装姿を警官から不審に見られ「本当に医者か」「免許を見せろ」などといわれ、国外の勉強で男以上の実力をつけることを望んだため{{R|ドクトルたちの奮闘記_p150}}、などの説がある。また、[[岡見京]]がアメリカの[[ペンシルベニア女子医科大学]]を卒業して医師となったことに触発されて、アメリカに対して本場のドイツの医学を学ぶ気持ちを抱いた可能性も、示唆されている{{R|近代日本の女性史19810623_p32}}。佐藤進は「アメリカ行きなら助力できる」とアメリカを勧めたが、瑞子はあくまでドイツ行きを希望した{{R|明治の女性たち_p85}}。
 
留学資金の調達には、開業時の借金の貸主の援助があった{{R|ドクトルたちの奮闘記_p148}}。また言葉の問題については、{{Anchors|津久井磯の孫}}恩師の津久井磯の義孫(磯の夫の先妻の子の息子)が[[ドイツ語]]を学んでいたため、家庭教師を乞い、付け焼刃ながらドイツ語を学んだ<ref name="ドクトルたちの奮闘記_p150">{{Harvnb|石原|2012|p=150-152}}</ref>。瑞子は喘息持ちで体が弱く{{refnest|group="*"|順天堂医院での恩師である佐藤進の証言によれば、この時点での瑞子は「永年の無理が祟って、すでに体がぼろぼろ」だったという<ref name="岩瀬彌助の生涯_p257">{{Harvnb|礒貝|1990|pp=257-259}}</ref>。}}、ドイツは気候面で不安があり、周囲は反対したが、瑞子は「死んでもいいから行きたい」と、その反対を振り切って日本を発った{{R|婦人公論20200709|ドクトルたちの奮闘記_p150}}<ref name="婦人公論20200709_p3">[https://fujinkoron.jp/articles/-/2243?page=3 田中 2020], p. 3</ref>
 
下調べも紹介状もない独断での渡航であり、ドイツでもどの大学も女子の入学を許可していなかった{{R|明治の女性たち_p85}}。そもそも当時のドイツは、女子の医術開業自体を禁止しており、医学や技術自体はともかく、女医の道の点では日本に後れをとっていた{{R|吉岡弥生伝19980825_p133}}<ref name="日本看護歴史学会誌201405_p91">{{Harvnb|大竹|城丸|佐藤|2014|pp=91-92}}</ref>。
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その瑞子の窮状が、ベルリン大学の[[ロベルト・コッホ|コッホ]]研究所に勤めていた[[北里柴三郎]]の耳に届いた。北里は「40歳近くでドイツ語もうろ覚えの女性が、ベルリンに医学を学びに来た」と聞き、驚いて椅子から転げ落ちそうになったとも伝えられる<ref name="ドクトルたちの奮闘記_p152">{{Harvnb|石原|2012|p=152-155}}</ref>。北里は[[佐々木東洋]]と共に、オーストリアの[[ウィーン大学]]への留学を手引きしようとしたが{{R|海を越えた日本人名事典19851210_p350}}、瑞子の願いはあくまで、ドイツでの勉学だった<ref name="近代日本の女性史19810623_p40">{{Harvnb|佐藤|円地|1981|pp=40-48}}</ref>。またウィーン大学もドイツ同様、女人禁制であった{{R|海を越えた日本人名事典19851210_p350}}。
 
当時の瑞子の下宿先は、薬学者の[[長井長義]]や理学博士の[[田中正平]]がドイツ留学時に滞在した場所であり<ref name="明治の群像19690131_p165">{{Harvnb|紀田|1969|pp=165-167}}</ref>、そこの女主人は、日本人から「日本婆さん」と呼ばれるほどの親日家、且つ聡明な人物であった{{R|岩瀬彌助の生涯_p257}}。この女主人が瑞子に同情すると、瑞子はこう言い切った{{R|ドクトルたちの奮闘記_p152}}<ref name="日本女性史叢書20081225_p125">{{Harvnb|田中|三井|2008|pp=125-127}}</ref>。
 
{{Quotation|私は武士の娘ですよ。(略)いざとなったら日本の武士は切腹してでも自分の意志を通します。どうしてもベルリン大学が入学を拒否するなら覚悟があります。産婦人科の前で胸を刺して、自殺するくらいのことはできますよ{{refnest|group="*"|瑞子自身は「首つり自殺を図った」と語っていたが{{R|明治の女性たち_p85|日本女医会雑誌20180501_p9}}、[[石原あえか]]は瑞子が士族の娘であることから、切腹を図った可能性が高いと指摘している{{R|ドクトルたちの奮闘記_p256}}。}}。(略)そうすることで、今後、私と同じ志を持った女性に大学入学への道がひらかれるなら、これほど愉快なことはありませんからね。|高橋瑞子|礒貝逸夫「ベルリン大学の日々」|{{Harvnb|礒貝|1990|p=260}}より引用}}
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=== 帰国 - 日本での再開業 ===
翌[[1891年]](明治24年)、瑞子は慣れないドイツの地での無理が祟り、病気を患って吐血した。先滞在費に加えて治療費で留学資金が尽き、重症のまま帰国した{{R|近代日本の女性史19810623_p40}}。一時は命すら危ぶまれ{{R|吉岡弥生伝19980825_p133}}、佐々木東洋が「無事に帰国するのは難しいかも知れない」と危惧するほどの病状であった{{Sfn|礒貝|1990|pp=260-262}}。ドイツの3人の医師が「ドイツでの回復は困難、航海中の無事も保証できないが、日本へ近づくのが良い」との判断での帰国であったが、帰国後は病状が奇跡的に回復した{{R|明治の女性たち_p85}}。日本橋で再開業後は医師たちやドイツ仕込みベルリン大学へ腕前と手引きをした下宿先評判女主人への恩義を、瑞子は帰国後より、医院以下名声も高ま語った{{R|理系の扉を開いた日本明治の女性たち_74|近代日本の女性史19810623_p40}}、同業者の間でも羨望の的となった{{R|吉岡弥生伝19980825_p133_p85}}。
 
{{Quotation|日本では頑健だったんだけれど、むこうじゃひとたまりもなかったってわけか、(略)どうせ印度洋あたりで水葬のつもりで、船に乗ったと思い、それがさ、死なないだけじゃない、どうしてか洋(うみ)の上で治って、神戸を元気で上陸したっての、元大工町に戻って見ると嘘のように何でもなかった、やっぱりあれは私に大望すぎたんだよ、それからはもうこの通りおとなしいのさ──、三先生を拝んでるよね、あの親切なおかみさんもね。|高橋瑞子|[[島本久恵]]「女医事始」|{{Harvnb|島本|1966|p=88}}より引用}}
 
日本橋での再開業後は、ドイツ仕込みの腕前との評判により、医院の名声も高まり{{R|理系の扉を開いた日本の女性たち_74|近代日本の女性史19810623_p40}}、同業者の間でも羨望の的となった{{R|吉岡弥生伝19980825_p133}}。ベルリン滞在期間は、佐藤進や長井長義と比較すると非常に短期間だが、短期だからこそ、現地で得られるものを徹底的に得ようと努力していたようで、帰国から引退までに、産婦人科医および小児科医として、症例研究を扱って発表した論文が、後年にいくつか発見されている([[#論文|後述]])。当時、女医としての医学雑誌への投稿は、非常に珍しいことであった{{R|ドクトルたちの奮闘記_p160|日本看護歴史学会誌201405_p92}}。
 
瑞子の医院には女性が勤めたことがあったが、夜道の往診で危険な目に遭った経験から、以後、瑞子は男性のみを内弟子に雇った。「男ならどこへ放り出しても大丈夫」との弁だった。女性はかえって世話が焼けるといい、「女は駄目だ」が口癖だった{{R|近代日本の女性史19810623_p40}}{{Sfn|紀田|1969|pp=171-174}}。男性たちは用心棒も兼ね、薬局や代診も手伝った<ref name="岩瀬彌助の生涯_p262">{{Harvnb|礒貝|1990|pp=262-265}}</ref>。
 
当時の瑞子の経済状況については資料が確認されていないが、この数年後に吉岡彌生が開業したときの年収が2千円で、これが一流の地方病院に相当することから、瑞子の年収はその数倍と見られている。なお、当時の総理大臣の年俸が9600円の時代であった<ref name="{{R|明治の群像19690131_p165">{{Harvnb|紀田|1969|pp=165-167}}</ref>
 
=== 晩年 ===
「歳をとって、万が一にも誤診をしては大変なことになるから、60歳で廃業する」と以前から宣言しており、その言葉通り[[1914年]]([[大正]]3年{{R|group="*"|年譜のずれ}})の還暦の祝宴で引退を表明して{{R|海を越えた日本人名事典19851210_p350}}、潔く引退した{{R|吉岡弥生伝19980825_p133|近代日本の女性史19810623_p40}}。日本女医会による『日本女医会雑誌』同年10月10日号では、瑞子の引退を受けに際しは新聞2社に以下偉業が「女史の履歴は立派な一遍の立志談で吾々後進者を益する少なくないと信じます私共は女医会の偉人なる女史永く忘れてはならないと思ひます掲載した<ref groupname="*日本看護歴史学会誌201405_p94">{{Harvnb|日本女医会雑誌大竹|2018城丸|p佐藤|2014|pp=1094-95}}より引用。</ref>」と讃えられた{{R|日本女医会雑誌20180501_p9}}
 
{{Quotation|何が大切と申して、此社會に生命といふものが第一大切なものです。其大切な生命を預るといふのに、六十以上にもなつては、もしも過ちがあつては済まないことですから私は今年限り生命を預ることを辞めやうと決心しましたのです。|高橋瑞子|読売新聞 1914年12月14日 東京朝刊|{{Harvnb|大竹|城丸|佐藤|2014|p=94}}より引用。}}
 
日本女医会による『日本女医会雑誌』同年10月10日号では、瑞子の引退を受けて、その偉業が「女史の履歴は立派な一遍の立志談で吾々後進者を益する事少なくないと信じます私共は女医会の偉人なる女史を永く忘れてはならないと思ひます<ref group="*">{{Harvnb|日本女医会雑誌|2018|p=10}}より引用。</ref>」と讃えられた{{R|日本女医会雑誌20180501_p9}}。
{{Quotation|今後はどちらへも御無沙汰がちに相成やも計られず候につき、そちら様にて当方への御心遣いは、必ず必ず御無用に願上候。尚折角お出下され候ても失礼致すことも有之べく、其節は悪しからず御容謝願上候。|高橋瑞子による引退の挨拶文|礒貝逸夫「医師廃業」|{{Harvnb|礒貝|1990|p=266}}より引用}}
 
引退後は病院を閉じて、京橋区六兵衛町に転居した{{R|海を越えた日本人名事典19851210_p350}}。その後は青年期とは対照的に、[[和歌]]を嗜むなど、静かな余生を送った{{R|近代日本の女性史19810623_p40}}([[#和歌|後述]])。和歌は父譲りの趣味であり、自ら和歌を詠う傍ら、両親の遺稿集『春河流集』を発行した{{R|ドクトルたちの奮闘記_p256}}{{Sfn|楠戸|1992|p=216}}。西尾の和歌集団との交流のために頻繁に帰郷し、郷里の寺に自ら建てた父の碑に前に佇むことも多かった<ref name="岩瀬彌助の生涯_p265">{{SfnHarvnb|礒貝|1990|pp=265-268}}</ref>
 
瑞子が済生学舎の門戸を開いたことで、済生学舎は1901年(明治34年)に全女子学生を締め出すまでに、約百人の女医を輩出した{{R|日本女医会百年史_p35}}。中途退学者や、途中で挫折した学生も含めれば、その数は400から500人にまで上った{{Sfn|秋山|1991|p=85}}。医師を志す女性の学ぶ場所を瑞子が獲得したといえ{{R|ドクトルたちの奮闘記_p140}}、こうして女性が医学を学ぶ道を拓いたことこそを、瑞子の最大の功績とする声もある{{R|近代日本女性史19700910_p140}}。しかし当の瑞子自身は「500や600のお産を見た程度で専門家気どりとは、近頃の娘さんはいい度胸だね。私なんざ、開業までに2万人を手がけたよ」などと毒舌も吐いていた{{R|近代日本の女性史19810623_p40}}<ref name="日本女性史叢書20081225_p131">{{Harvnb|田中|三井|2008|pp=131-133}}</ref>。
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産婆として学んでいた津久井磯は瑞子にとって終生の恩師であり、終生にわたり、親戚同然に温かく交際を続けた{{R|ドクトルたちの奮闘記_p145}}。磯の没後(1910年〈明治44年〉死去)には、顕彰碑の建立のために奔走した。[[1920年]](大正9年)、前橋で{{Anchor|顕彰碑}}の除幕式に参列した{{R|近代日本の女性史19810623_p40}}。[[#津久井磯の孫|先述]]の磯の義孫のことも可愛がり、彼が1年間の世界漫遊旅行に発つ際には、その費用を無利子で気前良く貸した{{R|ドクトルたちの奮闘記_p256}}。
 
晩年は病気がちとなり{{R|明治・大正を生きた女性逸話事典_p215}}、1927年(昭和2年)2月23日に[[風邪]]をひき、24日に[[肺炎]]を併発した{{R|近代日本の女性史19810623_p11}}。同1927年2月28日、右肺上葉[[クループ]]性肺炎により76歳で死去した{{R|明治・大正を生きた女性逸話事典_p215}}<ref name="|日本看護歴史学会誌201405_p94">{{Harvnb|大竹|城丸|佐藤|2014|pp=94-95}}</ref>。なお、直接の死因は肺炎だが、胸腺に[[悪性腫瘍]]も認められたため、半年ももたなかったろうと診断されている<ref name="ドクトルたちの奮闘記_p162">{{Harvnb|石原|2012|p=162-169}}</ref>{{Sfn|島本|1966|pp=66-68}}。
 
== 論文 ==
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瑞子が最初に開業した翌年の[[1889年]](明治22年)12月26日、読売新聞の「慈善」の欄に、瑞子が東京の育児施設である[[福田会]]の恵愛部に寄付を行ったことが掲載されている。福田会は貧窮状態にある児童の救済のために設立された施設、恵愛部は福田会に創設された婦人部である。当時は[[明治維新]]の最中、政府が体制の不十分なままで[[富国強兵]]や[[殖産興業]]などの政策を推進したことで、人々の生活が混乱して困窮し、特に士族は[[廃藩置県]]や[[版籍奉還]]に伴って特権を失い、生活が悪化を始めていた。瑞子もまた士族出身で、恵まれない幼少時を過ごした過去があることから、多くの母子を救済したいと考えていたものと推察されている{{R|日本看護歴史学会誌201405_p92}}。
 
ドイツ留学から帰国後は、産科に限り貧窮者の無償施療を始めており、[[1892年]](明治25年)5月20日の[[読売新聞]]{{R|日本看護歴史学会誌201405_p92}}、[[1898年]](明治31年)7月5日の[[東京朝日新聞]]などに、その旨の広告が掲載されている{{R|ドクトルたちの奮闘記_p160}}。当時は多産であり、中流家庭でも出産へ要する費用の捻出が困難で、適切な助産行為を受けられる者が少なかった。また1890年代末の妊産婦死亡率は、後の平成期と比較すると百倍以上に達し、当時の出産は非常に危険なものといえた。こうしたことから瑞子の施した産科施療は、母子、特に貧困者層の保健衛生の向上に対して、大きな影響を与えたといえる{{R|日本看護歴史学会誌201405_p92|婦人公論20200709_p320200709}}。
 
さらに貧窮者への支援として、小児科医として[[種痘|種痘医]]の資格を所持していたことから、[[予防接種]]のために[[孤児院]]へも出向いていた{{R|ドクトルたちの奮闘記_p160}}。[[1906年]](明治39年)6月18日の[[朝日新聞]]には、瑞子が乳児院で無償で種痘治療を行ったと報じられている{{R|日本看護歴史学会誌201405_p92}}。日本での種痘は幕末から普及していたが、その努力も及ばず、1886年(明治19年)には死者は[[天然痘]]による18000人以上に上り、最も恐ろしい伝染病の一つといえた。政府はこの予防のため[[1876年]](明治9年)に種痘医規則や天然痘予防規則を定めたことから、瑞子もまた子供たちの命を守るため、無償で種痘医療に努めたと考えられている{{R|日本看護歴史学会誌201405_p92}}。
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{{Quotation|弟子に対する態度も、まるで男のようであった。(略)銀の細いのべ煙管を使っておられたが、我々がなにか不始末を為出かすと、それで、肩口をハッシと打たれる。(略)その気合いのよさは、無類だった。(略)この痛さを忘れるなよ、と云う言葉にも、誠意がこもっている感じで、自然に頭が下がってしまった。|瑞子の援助により開業した医師の1人|礒貝逸夫「帰国後の生活」|{{Harvnb|礒貝|1990|p=264}}より引用}}
 
医師を廃業したときには、以下の通りの挨拶分を出した。これにも、よく言えば率直、悪く言えば無遠慮ともいえる瑞子の人柄が現れているとの意見もある{{R|岩瀬彌助の生涯_p265}}。
{{Quotation|今後はどちらへも御無沙汰がちに相成やも計られず候につき、そちら様にて当方への御心遣いは、必ず必ず御無用に願上候。尚折角お出下され候ても失礼致すことも有之べく、其節は悪しからず御容謝願上候。|高橋瑞子による引退の挨拶文|礒貝逸夫「医師廃業」|{{Harvnb|礒貝|1990|p=266}}より引用}}
 
若い時代から苦労を重ねただけに、人生経験が豊かで、人の心の機微や世間の事情によく通じ、交際範囲は広かった。順天堂での研修で隣人や[[佐藤志津]]の助力を受けたことも、瑞子の性格を物語っている。また下宿で長く友人付き合いした者に、医学者の[[岡田和一郎]]がいた。瑞子は岡田と花札友達であり、受験最中でも、余暇には岡田と花札を楽しんだ{{R|日本女医史199104_p123}}。
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* {{Cite book|和書|author=石原あえか|title=ドクトルたちの奮闘記 ゲーテが導く日独医学交流|date=2012-6-18|publisher=[[慶應義塾大学出版会]]|isbn=978-4-7664-1950-4|ref={{SfnRef|石原|2012}}}}
* {{Cite book|和書|author=礒貝逸夫|title=岩瀬彌助の生涯|date=1990-11-3|publisher=三河新報社|ncid=BN06053300|ref={{SfnRef|礒貝|1990}}}}
* {{Cite journal|和書|author=太田妙子|date=2011-6|title=高橋瑞の骨標本調査 発達した下肢骨、深い耳状面前溝|journal=医譚|issue=93|publisher=[[日本医史学会]]関西支部|id={{NAID|40018917325}}|ref={{SfnRef|太田|2011}}}}
* {{Cite journal|和書|author=大竹沙織・城丸瑞恵・佐藤公美子|date=2014-5|title=産婆・女医高橋瑞の生涯|journal=日本看護歴史学会誌|issue=27|publisher=日本看護歴史学会|id={{NAID|40020135374}}|ref={{SfnRef|大竹|城丸|佐藤|2014}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[紀田順一郎]]|title=明治の群像|date=1969-1-31|publisher=[[三一書房]]|volume=9|ncid=BN01794732|ref={{SfnRef|紀田|1969}}}}