「文禄・慶長の役」の版間の差分

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織田信長
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<ref>月峯海上録によると、男性が3~4万人、女性が6~8万人になるという。「人身売買・奴隷・拉致の日本史」渡邊大門 柏書房 2014年 p.206</ref>
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'''文禄・慶長の役'''(ぶんろく・けいちょうのえき)は、[[天正]]20年/[[万暦]]5320年/[[宣祖]]25年<ref group="注" name="jnk">日本・中国(明)・朝鮮の元号。</ref>([[1592年]])に始まって翌[[文禄]]2年([[1593年]])に休戦した'''文禄の役'''と、[[慶長]]2年([[1597年]])の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年<ref group="注" name="jnk"/>([[1598年]])の[[太閤]][[豊臣秀吉]]の死をもって日本軍の撤退で終結した'''慶長の役'''とを、合わせた[[戦役]]の総称である(他の名称については[[#名称|後節]]を参照)。全兵船の3分の1以上を動員して、[[対馬]]を侵略した[[朝鮮]]による[[応永の外寇]]以来の[[朝鮮半島]]国家との戦争であった<ref name=":0">歴史評論第573~578号p86,1998年</ref>。
 
なお、文禄元年への改元は[[12月8日 (旧暦)|12月8日]]([[グレゴリオ暦]]1593年[[1月10日]])に行われたため、[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]の[[釜山広域市|釜山]]上陸で始まった戦役初年のほとんどの出来事は、厳密にいえば天正20年の出来事である。また特に注記のない文中の月日は全て[[和暦]]<ref group="注">出典にある明と朝鮮の暦の日付は+1日多いので注意。</ref>)で表記。( )の年は[[西暦]]である。
 
[[日本]]の[[天下統一]]を果たした[[天下人]]・織田信長豊臣秀吉は[[明|大明帝国]]の征服を目指し、配下の西国の[[戦国大名|諸大名]]を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)[[冊封国]]である朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。[[小西行長]]や[[加藤清正]]らの侵攻で混乱した首都・[[漢城府|漢城]]を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。明は戦闘が[[遼東半島]]まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。休戦と交渉を挟んで、[[朝鮮半島]]を舞台に戦われたこの国際戦争は、[[16世紀]]における世界最大規模の戦争であった<ref name="zinsinwar" /><ref name="ks" group="注"/>。
 
双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本軍諸将が撤退を画策して未決着のまま終息したため、[[対馬藩]]は[[偽使]]を用いて勝手に国交の修復を試み、江戸時代に[[柳川一件]]として暴露された。戦役の影響は、明と李朝には傾国の原因となる深刻な財政難を残した。朝鮮側は戦果を補うために捕虜を偽造し、無関係の囚人を日本兵と称して明に献上せざるを得なかった。[[豊臣氏|豊臣家]]にも[[武断派]]と[[文治派]]に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を蒙ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして損害を弁済した大名もあった。