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== 戦後 ==
[[白起]]と不仲だった[[秦]]の宰相の[[范雎]]は、[[趙 (戦国)|趙]]攻略の大功を立てた際の白起の影響力が自分の地位を脅かしかねないと危惧するようになり、[[昭襄王 (秦)|昭襄王]]を巧みに説いて秦軍の進撃を中止させるようにした。この不本意な停戦は、戦死した秦兵のみならず趙の早期攻略のためにあえて生き埋めにした趙兵たちの多大な犠牲をも無駄にする決定だったので、激怒した白起は病気と称して以後の出仕を拒むようになった。
白起の功績に脅威を抱いた范雎は、秦軍の進撃を一旦止めさせた。しかし後に秦は再び趙へ侵攻し、首都[[邯鄲市|邯鄲]]を包囲した。この包囲戦は平原君らの活躍と[[魏 (戦国)|魏]]の[[信陵君]]・[[楚 (春秋)|楚]]の[[春申君]]などの協力により切り抜けることができたものの、長平で大量の兵士を失ったことにより、もはや趙が秦に対抗することは絶望的となっていた。
 
その翌年、昭襄王は[[王陵]]を将軍にした侵攻軍を興して趙の首都[[邯鄲市|邯鄲]]を包囲させた。しかし趙の軍民の激しい抵抗に遭って城攻めは難航した。加えて援軍に駆け付けてきた[[魏 (戦国)|魏]]の[[信陵君]]と[[楚 (春秋)|楚]]の[[春申君]]にも反撃されて苦戦を強いられた秦軍は敗退を重ねるようになった。業を煮やした昭襄王は繰り返し白起に出仕を求めて軍の指揮を取るよう要請したが、白起は病を理由に拒み続けて屋敷から出ようとしなかった。白起の拒絶に対する昭襄王の不満は憎悪へと変わり、白起の屋敷に自決用の剣を届けさせた。白起は昭襄王からの剣を黙って受け取ると、これは天が自分に下した裁きであろうと答えてそのまま自刎した。
一方、秦の白起は皮肉にもこの戦いの功績によって范雎らに妬まれる結果となり、のちに[[賜死|自害させられる]]ことになる。自害の際、白起は「私は死ぬべきなのだ。長平の戦いにおいて捕虜数十万余りを生き埋めにした。天に対し罪を犯したのだ」と述べたという。
 
「私は死ぬべきなのだ。私は20万の軍卒を生き埋めにした。私は天に対して罪を犯したのだ。」
 
== 脚注 ==