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{{Infobox criminal
{{出典の明記|date=2021-03}}
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'''ロバート・ケイツビー'''(Robert Catesby、1572年3月3日頃 - 1605年11月8日)は、[[イングランドの歴史|イングランド史]]において、[[プロテスタント]]の[[イングランド国王]][[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]を暗殺し、[[カトリック教会|カトリック]]の君主に挿げ替えようとした1605年の過激派カトリック教徒らによる[[火薬陰謀事件]]の首謀者。
 
[[イングランド]]の[[ウォリックシャー]]にて、[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]時代以来の名門かつ熱心なカトリック教徒であるケイツビー家の三男として生まれる。その後、未だカトリックの影響が強かった[[オックスフォード]]の{{仮リンク|グロスター・ホール|en|Gloucester Hall}}で高等教育を受けるも、おそらくイングランド王室への忠誠を誓わせる[[至上権承認の宣誓]]を嫌って、学校を中退した。1593年に裕福なプロテスタントの女性と結婚し、2人の子供を授かってプロテスタントの洗礼を受けさせるなど、一時は穏健派となるが、1598年に妻が亡くなると、過激派に回帰する。1601年には{{仮リンク|エセックス伯の反乱|en|Essex's Rebellion}}に加担し、助命されるも多額の罰金を科され、{{仮リンク|チャスルトン|en|Chastleton}}の地所を売却した。しかし、諦めることはなく、カトリックの旗手である大国[[スペイン帝国|スペイン]]の援助を求めたり(スペイン反逆事件)、イングランド国内で密かに活動する[[イエズス会]]神父たちの支援を行っていた。
'''ロバート・ケイツビー'''(Robert Catesby、[[1573年]] – [[1605年]][[11月18日]])は、[[火薬陰謀事件]]の首謀者として知られる、[[イングランド王国|イングランド]]の貴族である。[[馬術]]と剣術に秀でており、人望のある人物であったと伝えられる。
[[画像:Gunpow1.jpg|thumb|280px|right|ロバート・ケイツビー(右から2人目)]]
 
1603年にイングランド王としてジェームズ1世が即位すると、多くのカトリック教徒たちはカトリックへの寛容政策を期待していたが、次第に失望に変わった。その一人であるケイツビーは[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]([[ウェストミンスター宮殿]])で行われる議会開会式にて、議場を大量の[[火薬]]をもって爆破し、ジェームズ及び政府要人らをまとめて暗殺した上で、同時に{{仮リンク|ミッドランド・ディストリクト|label=ミッドランズ地方|en|The Midlands}}で民衆叛乱を起こし、カトリックの傀儡君主を立てることを計画した。
== 生涯 ==
1604年初頭には、[[ウィンター兄弟|トマス・ウィンター]]、[[ライト兄弟 (火薬陰謀事件)|ジョン・ライト]]、[[ガイ・フォークス]]、[[トマス・パーシー]]といった有力な同志たちを集め、計画準備を進めていった。
=== 幼少期 ===
ロバート・ケイツビーは、[[ウォリックシャー]]のラプワーズで出生したとみられている。父はウィリアム・ケイツビー(William Catesby)、母はアン・スロックモートン(Anne Throckmorton)。兄ウィリアムは幼くして死亡した。由緒ある家柄で、[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]の治世における有力議員ウィリアム・ケイツビーの子孫である。
 
しかし、陰謀を密告する匿名の手紙に基づき、イングランド当局は計画決行日の前日である1605年11月4日の深夜にウェストミンスター宮殿の捜索を行い、貴族院の地下室にて、大量の火薬とそれを管理していたフォークスを発見し、計画は露見した。
父ウィリアムは敬虔なカトリック信者で、[[イエズス会]]の支持者であった。彼は1581年に、司祭[[エドマンド・キャンピオン]]を匿った容疑で、義兄(すなわちロバートの伯父)のトマス・トリーシャム(Thomas Tresham、1543年 – 1605年)やウィリアム・ヴォークス(William Vaux, 3rd Baron Vaux of Harrowden、1535年 - 1595年)と共に捕らえられ、以後投獄と釈放とを繰り返す人生を送った。このためウィリアムは、莫大な罰金の支払いを強いられた。
フォークス逮捕の連絡を受けたケイツビーは、ロンドンを脱出した仲間と共にもう一つの反乱計画があるミッドランズに向かい、最後の抵抗を試みようとした。ところが、ロンドンの情報が広がったことによってもはやケイツビーらを支持したり協力を申し出る者はおらず、計画は頓挫した。11月8日の早朝に、滞在していた[[スタッフォードシャー]]の{{仮リンク|ホルベッチ・ハウス|en|Holbeche House}}を、ウスターの州長官率いる200人の部隊に襲撃され、その戦闘の中でケイツビーは射殺された。
その遺体は一度は埋葬されるが、後に掘り起こされ、[[大逆罪 (イギリス)|大逆罪]]の罪人として斬首されて、議会の外に晒し首にされた。
 
== 前半生 ==
ロバートは、このような父を始め、多くの[[国教忌避|国教忌避者]]に囲まれて育った。彼の思想の核の形成には、こうした環境が大きく影響しているものとみられる。
=== 出自 ===
[[File:CatesbyArms.svg|thumb|ケイツビー家の紋章:王冠をかぶった2頭の黒いライオン(パサント{{efn|パサント(passant)とは、動物が左向かって歩行する様子の図案のこと。}})]]
 
1572年3月3日に[[ウォリックシャー]]の{{仮リンク|ラップワース|en|Lapworth}}のサー・ウィリアム・ケイツビーの三男として生まれた。母は同州{{仮リンク|コートン・コート|en|Coughton Court}}の{{仮リンク|ロバート・スロックモートン|label=サー・ロバート・スロックモートン|en|Robert Throckmorton}}(1513年頃 - 1581年、KG)の娘アン・スロックモートン<ref name="CatesbyODNB"/>。ケイツビー家は、[[リチャード3世 (イングランド王)|リチャード3世]]の有力な参謀で[[ボズワースの戦い]]で捕らえられて処刑された{{仮リンク|ウィリアム・ケイツビー|label=サー・ウィリアム・ケイツビー|en|William Catesby}}(1450年 - 1485年)の直系子孫の家柄であった<ref>{{Cite ODNB | last = Horrox | first = Rosemary | title = Catesby, William (b. in or before 1446, d. 1485) | orig-year = 2004 | year = 2008 | url = http://www.oxforddnb.com/view/article/4884 | access-date = 13 July 2010 | doi = 10.1093/ref:odnb/4884}} {{subscription}}</ref>。
=== 青年期 ===
1586年、ロバートは[[オックスフォード大学]]のグロスター・ホール(Gloucester Hall、現ウスター・カレッジ)に入学するが、学位を得る前に退学した。同校では、卒業の際に国王至上の宣誓を求められていたことから、恐らくこれを忌避したのであろうといわれている。その後、[[ネーデルラント]]のドゥエイ(Douai)の神学校に通ったとみられる。
 
父ウィリアムと母アンは有名な国教忌避カトリック教徒であり、父は信仰のために何年も投獄され<ref name="CatesbyODNB">{{Cite ODNB | last = Nicholls | first = Mark | title = Catesby, Robert (b. in or after 1572, d. 1605) | year = 2008 | orig-year = 2004 | url = http://www.oxforddnb.com/view/article/4883 | access-date = 27 May 2010 | doi = 10.1093/ref:odnb/4883}} {{subscription}}</ref><ref name="Fraser 2005 110">{{Harvnb|Fraser|2005|p=110}}</ref>、1581年には[[イエズス会]]神父[[エドマンド・キャンピオン]]を匿っていたとして、{{仮リンク|ウィリアム・ヴォークス (第3代ハローデン男爵)|label=第3代ハローデン男爵ウィリアム・ヴォークス|en|William Vaux, 3rd Baron Vaux of Harrowden}}とその義理の兄弟{{仮リンク|トマス・トレシャム2世|label=サー・トマス・トレシャム|en|Thomas Tresham II}}と共に[[星室庁]]裁判にかけられたこともあった<ref>{{Citation | last = Levy | first = Leonard W. | title = The Right Against Self-Incrimination: History and Judicial History | work = Political Science Quarterly, No. 1 | publisher = The Academy of Political Science, hosted at jstor.org | page = 5 | year = 1969 | issue = 1 | volume = 84 | jstor = 2147044}} {{subscription}}</ref>。
1593年、ロバートはウォリックシャー、ストーンリー(Stoneleigh)の[[プロテスタント]]貴族トマス・リー(Thomas Leigh)の娘キャサリン・リー(Catherine Leigh)と結婚した。また、[[オックスフォードシャー]]のチャスルトン(Chastleton)、オクソン(Oxon)の莫大な資産を相続した。妻キャサリンとの間には、長男ウィリアム、次男ロバートの2人の息子を儲けた。うちウィリアムは早世している。
 
母の実家スロックモートン家の当主サー・トマス・スロックモートンも、国教忌避の罪で罰金を科せられ、長年捕囚の身であった。もう一人の親族{{仮リンク|フランシス・スロックモートン|label=サー・フランシス・スロックモートン|en|Francis Throckmorton}}は、スコットランド女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]の脱獄計画に関与していたとして1584年に処刑されていた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=195}}</ref>。
=== 「危険人物」として ===
結婚後しばらくの間、ケイツビーはその信仰に揺らぎを見せる(1595年11月に息子ロバートを[[イングランド国教会]]で[[受洗]]させるなど)が、妻や父、長男が死亡した頃から、再びカトリックの教えに軸足を置く。国教忌避者として活動する彼を、政府は危険人物と目した。
 
=== 学生時代 ===
[[1596年]]、彼はジョン・ライト(John Wright)とクリストファー・ライト(Christopher Wright)の兄弟や、従兄のフランシス・トリーシャム(Francis Tresham)と共に逮捕された。この頃、[[エリザベス1世]]が病の床にあったことから、政情不安を恐れた政府が先手を打ったのであろう。
1586年にケイツビーはオックスフォード大学のカトリック教徒が多いことで有名な{{仮リンク|グロスター・ホール|en|Gloucester Hall}}(ウスター・カレッジの前身)で教育を受けた<ref name="CatesbyODNB"/>。当時、大学で勉学を行う者、また公職に就きたい者は「[[至上権承認の宣誓]]」(イングランド国王が最高統治者であることを認める宣誓)を行う必要があり<ref name="Fraserpp5859"/>、おそらくこれはケイツビーのカトリック信仰を危うくするものであった。そのため、学位を取得せずに退学し、[[ドゥエー]]の神学校に通ったものと思われる<ref name="Fraserpp111112"/>。
 
1588年には、ロバートは[[フランシス・トレシャム]]と共に{{仮リンク|ウィズビーチ城|en|Wisbech Castle}}に投獄された<ref>{{cite book| title= A History of Wisbech Castle| author= George Anniss| publisher= E A R O}}</ref>。
[[1601年]]、[[ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)|エセックス伯ロバート・デヴァルー]]が反逆を企てた際、ケイツビーも連座した。拘束されたケイツビーは危うく罪を免れたが、4000[[マルク (通貨)|マーク]]の罰金刑を課せられた。この罰金を支払うため、彼はある毛織物商にチャスルトンの土地を売却したが、なおも彼には相当な財産と定収があった。のちに彼は、アシュビー・セント・レジャーズ(Ashby St. Ledgers)で母と暮らし、またモアクロフツ(Morecrofts)とランベス(Lambeth)にある彼の家で過ごしたとみられる。
 
=== 陰謀成人後 ===
1593年にウォリックシャーの{{仮リンク|ストーンリー・アビー|en|Stoneleigh Abbey}}の{{仮リンク|サー・トマス・リー|en|Sir Thomas Leigh}}の孫娘であるキャサリン・リーと結婚した{{refn|group="注釈"|この結婚証明の日付は3月2日付であり、当時はまだ21歳でなかったことが記述されている<ref name="CatesbyODNB"/>。}}。彼女はプロテスタントの裕福な家の出身であったために2,000ポンドの[[持参金]]をもたらしただけでなく、ケイツビーを国教忌避法の対象外にすることもできた。翌年、祖母の死によりオックスフォードシャーの{{仮リンク|チャスルトン|en|Chastleton}}の地所を相続した。妻との間にできた長男ウィリアムは乳児期に死亡したが、次男ロバートは1595年11月11日にチャスルトンのプロテスタントの教会で洗礼を受けた
エリザベス1世の死を受け即位した[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]は、[[1604年]]に国教会優遇政策を行う宣言を発した。これに憤激したケイツビーは、ジョン・ライトやガイ・フォークス(Guy Fawkes)ら同調者と共に、[[貴族院 (イギリス)|上院]]の爆破を企てた。すなわち、開院式に出席する国王ジェームズ1世を、議員もろとも爆殺する計画である。開院式は2度にわたって延期され、そのたびに彼らは足止めを食った。
{{refn|group="注釈"|このロバートは、後にアシュビー・セント・レジャーズに預けられ、トマス・パーシーの娘と結婚したという<ref name="CatesbyODNB"/>。}}。
1598年に父ウィリアムが亡くなると{{仮リンク|アシュビー・セント・レジャーズ|en|Ashby St Ledgers}}の財産は妻に委ねられ、ケイツビーとその家族はチャスルトンに残った。この頃のケイツビーは教会の教皇派であることに満足していたようだが{{refn|group="注釈"|教皇派とは、表向きはプロテスタントの規則に従うものの、密かにカトリックを信仰していた者たちの通称<ref>{{Citation | last = Walsham | first = Alexandra | title = Church Papists | url = http://www.boydellandbrewer.com/store/viewItem.asp?idProduct=7716 | archive-url = https://archive.is/20120630143216/http://www.boydellandbrewer.com/store/viewItem.asp?idProduct=7716 | url-status = dead | archive-date = 30 June 2012 | publisher = Boydell Press | access-date = 15 July 2010 | isbn = 0-86193-225-0 | year = 1993 }}</ref>。}}、同年末に妻が亡くなると過激になり、狂信的なカトリックに戻った<ref name="CatesbyODNB"/><ref name="Fraserpp111112">{{Harvnb|Fraser|2005|pp=111–112}}</ref><ref>{{Harvnb|Sharpe|2005|p=30}}</ref>。
 
1601年、ケイツビーはトレシャムと共に{{仮リンク|エセックス伯の反乱|en|Essex's Rebellion}}に関与した。[[ロバート・デヴァルー (第2代エセックス伯)|エセックス伯]]の目的はカトリックの利益ではなく、自身の利益追求だったかもしれないが、ケイツビーはこの反乱が成功すればカトリックの君主に戻るかもしれないと期待していた<ref name="Fraserpp5859">{{Harvnb|Fraser|2005|pp=58–59}}</ref>。しかし、反乱は失敗に終わり、負傷したケイツビーは捕らわれ、{{仮リンク|ウッド・ストリート・カウンター|en|Wood Street Counter}}に投獄された<ref>{{Harvnb|Bengsten|2005|p=25}}</ref>。そして[[エリザベス1世|エリザベス女王]]より4,000マーク(2008年現在の価値で600万ポンド以上{{refn|group="注釈"|1601年と2008年の3000ポンドの貨幣価値の比より計算。}})の罰金が科せられた<ref>{{citation |last=Officer |first=Lawrence H. |title=Purchasing Power of British Pounds from 1264 to Present |publisher=measuringworth.com |url=http://www.measuringworth.com/ppoweruk/index.php |year=2009 |access-date=3 December 2009 |url-status=dead |archive-url=https://web.archive.org/web/20091124192556/http://www.measuringworth.com/ppoweruk/index.php |archive-date=24 November 2009 }}</ref>。これに対しトレシャムの父の手助けを受け{{sfn|Fraser|2005|p=xxiv}}、ケイツビー自身もチャルストンの地所を売却することとなった<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=47}}</ref><ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|pp=44–46}}</ref>。
結局、開院式の開催日は[[ユリウス暦]]1605年11月5日([[グレゴリオ暦]]では1605年11月15日)と決まり、ケイツビーらは決行に向け、遺漏なきよう準備を進めた。
エリザベス女王の健康悪化に際して、ケイツビーがとった行動についてはいくつかの説がある。
一説に主要な教皇派として公然と反旗を翻すことを危惧して政府に投獄されていたという説もあるし<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=xxv–xxvi}}</ref><ref name="Fraserp112">{{Harvnb|Fraser|2005|p=112}}</ref>、あるいは1603年3月にクリストファー・ライトを使者としてスペイン王室に派遣し、エリザベス死後も[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]がイングランドのカトリック勢力を支援してくれるか確認させていたというものもある{{refn|group="注釈"|この時、ライトはアンソニー・ダットソン(Anthony Dutton)の偽名を用いていた可能性がある<ref>{{Cite ODNB | last = Nicholls | first = Mark | title = Wright, John (bap. 1568, d. 1605) | url = http://www.oxforddnb.com/view/article/30036/30028 | orig-year = 2004 | year = 2008 | access-date = 16 July 2010 | doi = 10.1093/ref:odnb/30028}} {{subscription}}</ref>。}}。
ケイツビーは、イエズス会の神父たちに活動資金を提供し<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=49}}</ref>、彼らと会う際にはミスター・ロバーツという偽名を使うこともあった<ref name="CatesbyODNB"/>。
 
=== 最期火薬陰謀事件 ===
{{Main|火薬陰謀事件}}
だが、計画(陰謀)は決行直前になって発覚した。1605年11月5日未明、点火予定の火薬と共に潜んでいた実行責任者フォークスを[[治安判事]]トマス・ナイヴェットが発見し、フォークスは捕縛され、議事堂爆破は未遂に終わった。
 
=== 背景 ===
3日後の11月8日([[グレゴリオ暦]]では11月18日)、ケイツビーは[[スタッフォードシャー]]のホルベックの家(Holbeache House)を襲撃されて死亡した。
1603年、[[エリザベス1世|エリザベス女王]]が亡くなるとスコットランド王の[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]が[[イングランド国王]]に即位した。ジェームズの母でスコットランド女王であった[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]は敬虔なカトリック教徒かつ、そのために1587年に反逆罪で処刑されたことで知られ、そのためカトリック教徒たちはエリザベス時代の迫害が終わることを期待していた。実際、即位直後のジェームズのカトリック教徒に対する態度は穏健で寛容なものであった。しかし、16世紀後半のヨーロッパでは、プロテスタントの為政者が暗殺される、あるいは未遂の出来事が何件もあり、また1620年代までイングランドのカトリック教徒の中には暴君を権力の座から引きずり下ろし、摂政を立てることは正当化されうると考える者もいた<ref name=MarshallP227>{{Harvnb|Marshall|2006|p=227}}</ref>。
ジェームズの政治的著作の多くは、このような問題や「『信仰は異端者と共に守る必要はない』という(カトリックの)主張に対する反論」を主題としたものであった<ref name=MarshallP228>{{Harvnb|Marshall|2006|p=228}}</ref>。
そんな中でルター派に育てられ、イングランド王の戴冠式でイングランド国教会の聖公会を棄権した妻[[アン・オブ・デンマーク|アン]]が、[[クレメンス8世 (ローマ教皇)|教皇クレメンス8世]]からロザリオを贈られたことが発覚し、即座にジェームズはすべてのイエズス会、カトリック司祭の追放命令を出し、国教忌避者に対する罰金を再開した<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=41–42}}</ref>。
このため、ケイツビーはすぐに新たな王に対する忍耐を失った<ref>{{Citation | last = Haynes | first = Alan | title = The Enduring Memory of the Gunpowder Plot | url = http://www.bbc.co.uk/history/british/civil_war_revolution/gunpowder_haynes_01.shtml | publisher = bbc.co.uk | date = 5 November 2009 | access-date = 14 July 2010}}</ref>。
 
イギリスの作家で歴史家の[[アントニア・フレイザー]]は、ケイツビーの精神性を「精神的な価値観のためには剣を手に取ることも躊躇しない十字軍のような者」と表現している<ref name="Fraserp112"/>。
== 関連項目 ==
後に一連の出来事を叙述した[[オズワルド・テシモンド|テシモンド神父]]は、友人・ケイツビーに好意的であった。「彼の顔は非常に高貴であり表情に富む(中略)彼の会話と態度は独特の魅力がある堂々としたものであり、その人格の威厳は、彼と関わる人々の心中に抗い難い影響を及ぼした」。計画の同志であった[[アンブローズ・ルックウッド]]は死の直前に「彼(ケイツビー)のことを自分の命のように敬愛している」と語り<ref>{{Harvnb|Spinks Jr|2005|pp=24–25}}</ref>、また友人の[[ジョン・ジェラード (イエズス会)|ジョン・ジェラード神父]]は、彼が「剣士や行動派と呼ばれる人々の集まりで尊敬されていた」とし、「彼以前に支持されうる主張をする者はほぼおらず、彼は知人や友人を増やしていった」と述べている<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=48}}</ref>。
*[[火薬陰謀事件]]
著述家のマーク・ニコルズは、「エセックス伯の計画が失敗したことへの苦い思い出が、既に研ぎ澄まされていた神経症をさらに鋭くした」と指摘している<ref name="CatesbyODNB"/>。
*[[ガイ・フォークス]]
 
=== 計画の始動 ===
[[File: Gunpowder Plot conspirators.jpg|right|thumb|300px|alt=A monochrome engraving of eight men, in 17th-century dress; all have beards, and appear to be engaged in the discussion.|{{仮リンク|ヴァン・ド・パス家|label=クリスピン・ド・パス|en|Van de Passe family}}による犯人たちのうち8人を描いた当時の銅版画。右から2番目がケイツビー。]]
 
後に「火薬陰謀事件」と呼ばれる事件の関係者として、現代において[[ガイ・フォークス]]の名前がよく知られているが、計画を立案した首謀者はケイツビーであったことはほとんど忘れられている<ref>{{Harvnb|Sharpe|2005|p=31}}</ref>。
彼が計画を志した正確な日時は不明だが、1604年初頭には既に考えていたと推定されている<ref name=" CatesbyODNB"/>。
その前年の6月頃、ケイツビーの元を友人の[[トマス・パーシー]]が訪ねてきた。彼は第4代ノーサンバーランド伯の曾孫にあたり、血縁にあたる[[ヘンリー・パーシー (第9代ノーサンバランド伯)|第9代ノーサンバーランド伯]]に仕え、カトリック教徒となる前には「荒々しい青年時代」を過ごしたと伝えられていた。エリザベス女王の晩年には主君の命令を受けて、当時のスコットランド王のジェームズとの密使も務め、イングランドのカトリック教徒を代表して、彼が王位に就いた後の宗教政策についても嘆願していた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=48–50}}</ref>。
パーシーは今やジェームズの裏切りと見える行為に不満を鳴らし、暗殺も辞さない態度を見せた。ケイツビーは「いやいや、トム。君が小さな目的のために危険を冒すようなことはないと思うが、もし反逆者になろうとするならば何か大きな利益を見出すべきだ」と答え、さらにケイツビーは「俺はもっと確実な方法を考えているから、すぐに君に知らせる」と続けた。
10月31日の万聖節の期間に、ケイツビーは従兄弟の[[ウィンター兄弟|トマス・ウィンター]]に声を掛けた。彼は兄ロバートと共に[[ウスター]]近郊の{{仮リンク|ハディントン・コート|en|Huddington Court}}に住んでいた。トマスは弁護士として教育を受け、イングランドのために低地地方で戦ったこともあったが、1600年にカトリックに改宗した。エセックス伯の反乱が失敗すると、スペインに赴き、イングランドのカトリック教徒への支援を募ったという男だった。この時のケイツビーの招待は断られてしまったものの<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|pp=49–50}}</ref>、翌年2月にケイツビーは再びトマスに声を掛けた<ref name=FraserPP59-61>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=59–61}}</ref><ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=93}}</ref>。
 
1604年2月、ケイツビーのランデスの自宅をトマス・ウィンターが訪問し、この場には剣士[[ライト兄弟 (火薬陰謀事件)|ジョン・ライト]]もいた。ここでケイツビーはウィンターに対し、国王も参席する[[貴族院 (イギリス)|貴族院]]での議会開会式において、議場を大量の火薬で爆破し、国王以下、政府要人を暗殺する計画を打ち明けた。最初ウィンターは反対の意を示したが、ケイツビーは「病気の性質上、非常に痛烈な(sharp)治療が必要だ」と彼を説得した<ref>{{Citation | last = Wormald | first = Jenny | title = Gunpowder, Treason, and Scots | work = The Journal of British Studies, No. 2 | volume = 24 | publisher = The University of Chicago Press, hosted at jstor.org | issue = 2 | year = 1985 | pages = 141–168 | jstor = 175701}} {{subscription}}</ref>。
この頃、カトリックのスペインはイングランドと外交的融和に動いていたにもかかわらず<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=88}}</ref>、ケイツビーは海外勢力からの支援とそれによる平和的解決の希望を抱いていた。このため、ウィンターは大陸に渡り、愛想は良かったスペインの要人{{仮リンク|ファン・フェルナンデス・デ・ベラスコ (第5代フリアス公爵)|label=フリアス公|en|Juan Fernández de Velasco y Tovar, 5th Duke of Frías}}{{efn|後のポルトガル王[[ジョアン4世 (ポルトガル王)|ジョアン4世]]の母方の祖父にあたり、コンスタブル・オブ・カスティーリャ(Constable of Castile)の名誉称号も持つ。}}を説得して、近々行われる和平交渉にてイングランドのカトリック教徒に有利な条件を提示するように依頼したが、これは失敗に終わった。そこで次に、元イングランドの司令官でスペインに寝返った<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=87}}</ref>{{仮リンク|ウィリアム・スタンリー (エリザベス朝)|label=ウィリアム・スタンリー|en|William Stanley (Elizabethan)}}とウェールズ出身の亡命スパイであるヒュー・オーウェン(Hugh Owen)と会合を持ったが、2人はスペインが支援してくれる望みは薄いと答えた。その代わりオーウェンは、ウィンターに、前もってケイツビーが「忠実な同志になるだろう紳士」と見当をつけていたガイ・フォークスを紹介してくれた。フォークスは元はイングランド出身の敬虔なカトリック教徒であり、オランダ独立戦争においてスペインのために戦うため、大陸に渡ったという男であった。
ウィンターはフォークスに「スペインによる戦争が我らの癒しにならないのであれば、イングランドで事を起こすことを決めている」と、計画を伝え、1604年4月に2人はイングランドに戻った<ref name=" Fraserpp117119">{{Harvnb|Fraser|2005|pp=117–119}}</ref>。
戻ってきたウィンターはケイツビーに、スペインは前向きな反応を示したが、実際には「行動で示されることはないのではないか」という懸念を伝えた。これについてニコルズは、それ以上の期待は抱いていなかったケイツビーにとっては何も驚くようなことではなかったのではいかと推測している{{efn|実際、1604年8月にスペイン王[[フェリペ3世 (スペイン王)|フェリペ3世]]は、イングランドと和平を結んでいる<ref name="CatesbyODNB"/>。}}<ref name="CatesbyODNB"/><ref name="Nichollsp39">{{Harvnb|Nicholls|1991|p=39}}</ref>。
 
1604年5月20日、おそらくトマス・ウィンターがロンドンに滞在する際の常宿であった[[ストランド (ロンドン)|ストランド]]のすぐ近くにある「ダック・アンド・ドレイク」にて、最初の会合が開かれた。参加者はケイツビーとウィンター以下、ジョン・ライト、トマス・パーシー、ガイ・フォークスの5人だった<ref name="Fraserpp117119"/>。
パーシーはウィンターとフォークスがイングランドに帰国してから数週間後に、今回の計画を打ち明けられた<ref name="ODNB Thomas Wintour">{{cite ODNB |last=Nicholls |first=Mark |title=Winter, Thomas (c.&nbsp;1571–1606) |year=2004 |url=http://www.oxforddnb.com/view/article/29767 |isbn=0-19-865212-7 |doi=10.1093/ref:odnb/29767 |access-date=16 November 2009}} {{subscription}}</ref><ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|pp=46–47}}</ref>。
外部から隔離された個室において、5人は祈祷書に秘密の誓いを立てた。偶然だが、ケイツビーの友人で、陰謀を知らないジョン・ジェラード神父が別室で[[聖餐]]([[ミサ]])を行っており、その後、5人は[[聖体]]を拝領した<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=120}}</ref>。
 
その後、1604年10月に新たな仲間[[ロバート・キーズ]]が加わり<ref name=NorthcoteParkinsonP96>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|p=96}}</ref>、火薬などの物資を保管するケイツビーのランベスの家の管理を任された。12月には{{efn|ベイツ本人の告白による。}}、偶然計画を知ってしまったケイツビーの使用人[[トマス・ベイツ]]を仲間に引き入れた<ref name="NorthcoteParkinsonP96"/><ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=130–132}}</ref>。翌1605年3月までにトマス・ウィンターの弟[[ウィンター兄弟|ロバート]]、その義理の弟[[ジョン・グラント]]、ジョン・ライトの兄[[ライト兄弟 (火薬陰謀事件)|クリストファー]]も仲間に加わった<ref name="FraserPP59-61"/><ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=56–57}}</ref><ref>{{Citation |last=Nelthorpe |first=Sutton |title=Twigmore and the Gunpowder Plot |publisher=Lincolnshire Magazine |volume=8 |date=November–December 1935 |page=229}}</ref><ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=136–137}}</ref>。
 
=== さらに同志を募る ===
[[File:James I, VI by John de Critz, c.1606.png|thumb|upright|right|alt=A full-length portrait of a middle-aged man, wearing a grey doublet with grey tights, and brown fur draped over his shoulders|ジェームズ1世({{仮リンク|ジョン・ド・クリッツ|en|John de Critz}}作、1606年)]]
 
当初、議会の開会式は1605年2月に予定されていたが、[[ペスト]]の影響で10月3日まで延期されることが公布された。後の当局の説明によれば、計画者たちは1604年12月までに議場まで続くトンネルを掘る作業を行っていたとされるが、これについては証拠はなく、トンネルの痕跡も見つかっていない。また事実だとしても、貴族院の地下室の借地権が得られたことによってこの作業は不要になったと考えられる<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|pp=55–59}}</ref><ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=133–134}}</ref>。
 
1605年6月初旬にケイツビーは、イングランド国内における[[イエズス会]]の要人[[ヘンリー・ガーネット]]神父とテムズ・ストリートで会った。ケイツビーはフランドル地方での戦争の話題という形で「罪のない人を殺す」ことの道徳性について質問した<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=154}}</ref>。これに関してガーネットは、こうした行為はしばしば許されることがある、と答えたとされるが、7月に再会した際には反乱を禁じた教皇からの手紙を見せたという。これに対してケイツビーは「私が何をしようとも、もしそれを教皇が知ったところで一般的な国益のために目をつむってくださるだろう」と答えた。ガーネットが非難すると、「私は教皇の考えをあなたから聞く義務はない」と答えた<ref>{{Harvnb|Gardiner|1883|pp=274–275}}</ref>。
その直後にガーネットはテシモンド神父より、ケイツビーが告白{{efn|Haynesは、テシモンドが受けた告白はトマス・ベイツからとしている<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=62}}</ref>。}}して陰謀を知ったことを報告された。7月24日にガーネットはケイツビーの裕福な親戚である[[アン・ヴォークス]]の家で、多くのイエズス会司祭を匿っていた{{仮リンク|エンフィールド・チェイス|en|Enfield Chase}}のホワイト・ウェッブズでケイツビーと3度目の会談をもった<ref name="Fraserpp4243">{{Harvnb|Fraser|2005|pp=42–43}}</ref>。この時、ガーネットは自分は陰謀のことは知らないという形{{efn|告解の守秘義務により、上司と言えど部下の司祭が告解で聞いた内容を知ることは問題があった}}で、ケイツビーの計画をやめさせようと無駄な努力を払うことになった<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|pp=65–67}}</ref>。
 
1605年7月20日までに火薬樽36本を地下室に運び入れたが、ペストの問題は去らず、今度は1605年11月5日まで再度、議会の開会が延期されることが公布された<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=146,&nbsp;159}}</ref>。
ここまでケイツビーは計画のために多額の出資をしており、資金が枯渇し始めていた<ref>{{Harvnb|Nicholls|1991|p=41}}</ref>。
計画が着々と進んでいく中、ケイツビー、パーシー、トマス・ウィンターが集まった8月のバースでの密会において、「仲間はまだ少ない」ため「最適と思われる者に声を掛ける」ことを許可することが決められた。ケイツビーは即座に[[アンブローズ・ルックウッド]]を一味に引き入れた。ルックウッドは若く裕福な男だったが、特に重要だったのは彼がコールダムで馬屋を経営する熱心なカトリック教徒であることであった。そして計画上、ルックウッドと彼の馬たちは他の仲間たちの近くにいる必要があったため、ケイツビーは彼にストラトフォード=アポン=エイヴォンの{{仮リンク|クロプトン・ハウス|en|Clopton House}}を借りるように説得した。
 
[[フランシス・トレシャム]]が陰謀に加担したのは10月14日のことであった<ref name="Fraser 2005 170–176">{{Harvnb|Fraser|2005|pp=170–176}}</ref>。トレシャムはケイツビーの従兄弟にあたり{{efn|ケイツビーの母アン・スロックモートンは、トレシャムの母メリエル・スロックモートンの姉妹であった<ref name="ODNB Tresham"/>。}}<ref name="ODNB Tresham">{{Cite ODNB |last=Nicholls |first=Mark |title=Tresham, Francis (1567?–1605) |year=2004 |url=http://www.oxforddnb.com/view/article/27708 |access-date=16 November 2009 |doi=10.1093/ref:odnb/27708}} {{subscription}}</ref>、幼少時は2人でしばしばホワイトウェッブスを訪れる仲だった<ref name="Fraserpp4243"/>。
この時のケイツビーの誘い文句は、後に逮捕されたトレシャムが告白しているが(ただし、捕らえられた時、トレシャムは仲間ではないと否認したため、自分に有利なように脚色されている可能性がある)、トレシャムは「王が殺された後、カトリック教徒への支援はどうなるのか」と尋ねたところ、ケイツビーは「カトリック教徒にとって必要なことは、それをなさねばならないことだ」というものであった。フレイザーは、ケイツビーは少なくとも1604年初頭にトマス・ウィンターと会話した時から、この問題に対する揺るぎない見解を有していたと捉えている。
10月21日のハローデンでの会合で、最後の加入者となる[[エバラード・ディグビー]]がやってきた。ケイツビーは延期された「聖ルカの祝日」にてディグビーに計画を打ち明けた。ルックウッドと同じくディグビーは若く裕福で馬屋を所有していた。ケイツビーは彼に{{仮リンク|アルセスター|en|Alcester}}近くの{{仮リンク|コートン・コート|en|Coughton Court}}を借りるように言った。これはエリザベス王女を誘拐する上での好地であった<ref name="Fraser 2005 170–176"/>。
 
トレシャムを採用した翌日、ケイツビーはロンドンでフォークスの元雇い主である{{仮リンク|アンソニー=マリア・ブラウン (第2代モンタギュー子爵)|label=モンタギュー卿|en|Anthony-Maria Browne, 2nd Viscount Montagu}}と挨拶を交わし、「議会に閣下は出席されるのですか?」と尋ねた。モンタギューは親戚に会いに来たが数週間後の議会にも出席するだろうと答えた。それに対しケイツビーは「閣下は出席したくないように見える」と述べた。これはかつての反カトリック法の成立に際してモンタギューは議会で反対意見を述べたことで投獄された過去があり、このため、彼は今議会でも同種の法が多く可決される見通しの間は出席を見合わせるつもりであることを認めた<ref name="Fraserpp178179">{{Harvnb|Fraser|2005|pp=178–179}}</ref>。
後に暗殺計画が失敗した後、モンタギューは容疑者として当局に逮捕されることになったが、激しいロビー活動を展開し、数か月後に釈放された<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|pp=125–126}}</ref>。
 
ルックウッド、トレシャム、ディグビーの採用はロンドン市内の様々な酒場で行われた一連の打ち合わせの中で都度行われ、同時に計画の詰めが検討された。実行予定日、フォークスは導火線に火を着けた後、テムズ川を船で渡って逃げること、ミッドランズで蜂起を起こしエリザベス王女の身柄を確保すること、その後フォークスは大陸に渡りイングランドの状況をカトリック勢に説明することと決まった<ref name="Fraserpp178179"/>。
 
=== モンティーグルの手紙 ===
[[File:William Parker, 4th Baron Monteagle and 11th Baron Morley by John de Critz.jpg|thumb|upright|alt=Three-quarter-length portrait of an elderly gentleman|[[ウィリアム・パーカー (第4代モンティーグル男爵)|モンティーグル男爵ウィリアム・パーカー]]({{仮リンク|ジョン・ド・クリッツ|en|John de Critz}}作、1615年)]]
 
仲間内に爆発に巻き込まれるであろうカトリック教徒の知人を心配する声が挙がった<ref>{{Harvnb|Northcote Parkinson|1976|pp=62–63}}</ref>。
例えばパーシーは自分の庇護者であるノーサンバーランド伯を心配し、また若き[[トマス・ハワード (第21代アランデル伯)|アランデル伯爵]]の名前を持ち出した。ケイツビーは、軽傷を負えば当日は出席できないのではないかと提案した。しかし、{{仮リンク|ヘンリー・モーダント (第4代モーダント男爵)|label=ピーターバラ伯爵(モーダント卿)|en|Henry Mordaunt, 4th Baron Mordaunt}}に警告したいというキーズの提案には、ケイツビーはこれを嘲笑した<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=82}}</ref>。
10月26日、[[ウィリアム・パーカー (第4代モンティーグル男爵)|第4代モンティーグル男爵ウィリアム・パーカー]](トレシャムの義兄)は、ホクストンの自宅にいる時に匿名の手紙を受け取った。そこには「この議会で彼らはひどい打撃(blow)を受けるだろうが、誰が彼らを傷つけるのかはわからないだろう」という予言と、議会出席を見合わせるように警告が記されていた<ref name="Fraserpp178179"/>。
モンティーグル男爵は手紙の意味がわからないまま、それをすぐに[[国王秘書長官 (イングランド)|国王秘書長官]][[ロバート・セシル (初代ソールズベリー伯)|ロバート・セシル(初代ソールズベリー伯爵)]]に届け出た<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=89}}</ref>。
この時、ケイツビーはジェームズの狩りに同行する予定であったが、モンティーグルの使用人から裏切りがあったことを伝えられた。すぐにケイツビーはトレシャムを疑い、トマス・ウィンターも同じ見解を示した。2人はトレシャムを詰問し、「お前を吊るしてやる」とも脅した。しかし、トレシャムは手紙の差出人は自分ではないと弁明して納得させ、さらに翌日には計画の放棄を勧めた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=180–182}}</ref>。
 
ケイツビーはパーシーが北部から戻るのを待ってから決断を下した<ref>{{Harvnb|Nicholls|1991|p=43}}</ref>。
彼は手紙の中身が不明瞭すぎて計画を脅かす恐れはないと判断し、このまま計画を進めるというものであった。フォークスが火薬の最終確認を行っている頃、他の仲間たちはミッドランズ地方に集まっていた。
一方のセシルは、実は手紙を受け取る以前から策謀の匂いを嗅ぎ取っていたが、具体的な内容や誰が関与しているのかといったことはわかっていなかった。そのため、事態の進展を見定めようと待つ方針を取っていた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=187–189}}</ref>。
11月3日、ケイツビーはロンドンでウィンター、パーシーと会った。この時の会話の内容は不明だが、後にパーシーがヨーク公の下宿で王女の動向を探っていたという目撃談があったことを踏まえて、フレイザーはエリザベス王女誘拐計画に何らかの軌道修正が入ったのではないかと推測している<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=197–198}}</ref>。
ニコルズによれば、その1週間前の10月26日(モンティーグルが手紙を受け取った同日)、ケイツビーはフォークスと一緒にホワイト・ウェッブズにいて、エリザベス王女ではなく[[ヘンリー・フレデリック・ステュアート|ヘンリー王子]]の誘拐について話し合っていたという{{efn|ケイツビーは、ウィンターからヘンリー王子が議会開会式には出席しないと聞いていた<ref name="Nichollsp42"/>。}}<ref name="Nichollsp42">{{Harvnb|Nicholls|1991|p=42}}</ref>。
 
=== 計画の露見と死 ===
[[File:Warwick Castle -mist 23o2007.jpg|right|thumb|1605年11月6日にケイツビーらは[[ウォリック城]]を襲撃し、物資調達を行った。]]
 
議会開会の前夜である11月4日の深夜、ケイツビー、ジョン・ライト、ベイツの3人は、蜂起が計画されているミッドランズへと向かった。ところが同夜、モンティーグルの手紙に基づいて議場周辺が探索され、そこでフォークスが貴族院地下室で火薬を守っていたところを発見され、拘束された。翌日、フォークス逮捕の報がロンドン市中に広がるとここに残っていた仲間たちのほとんどは急いで街を脱出した。一方、そのようなロンドンの出来事を知らないケイツビー一行は馬の蹄鉄が外れたことで道中のダンススタンブルに一時的にとどまっていた。そこにロンドンから逃げてきたルックウッドが追いつき、フォークスが逮捕されたことを伝えた。ルックウッド以外のロンドンのメンバーも合流する中で、ケイツビーはルックウッド、ケイツビー、ベイツ、ライト兄弟、パーシーと共に、ディグビー率いる狩猟隊が待つダンチャーチに向かって馬を走らせた。その日の午後6時頃には{{仮リンク|アシュビー・セント・レジャーズ|en|Ashby St Ledgers}}の実家に到着した。ここには母親とロバート・ウィンターが滞在していたが、ケイツビーは母に知られないように、ウィンターに街はずれで会うようメッセージを送った。そして{{仮リンク|ダンチャーチ|en|Dunchurch}}に到着するとディグビー率いる狩猟隊と合流し、彼らには王とセシルは亡くなったと嘘の報告を行うことで計画を続行させた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=200,&nbsp;202–205}}</ref>。
 
11月6日、彼らは[[ウォリック城]]を襲撃して物資を調達した後、{{仮リンク|ノーブルック|en|Norbrook}}に移動してジョン・グラントが用意していた武器を回収した。そこからハディントンへと向かい、その道中でケイツビーはコートン・コートにいるガーネット神父や他の神父たちに、事の次第を伝え、カトリックの支持が強いとされるウェールズでの挙兵に協力することを要請する手紙を書いてベイツに届けさせた。手紙を読んだガーネットは、ケイツビーの思惑に反して、彼とその仲間たちに「邪悪な行為」を止め、教皇の説教に耳を傾けるよう懇願した。そして即座に逃亡生活に入り、これは結果としてガーネットらイエズス会の神父らが当局の捜査から数か月逃れられることに繋がった。
午後2時頃、ハディントンに到着したケイツビーらをトマス・ウィンターが出迎えた。陰謀への加担を疑われたくない家族や元友人たちは、彼らに同情を示さなかった<ref name="Fraser 2005 218–222">{{Harvnb|Fraser|2005|pp=218–222}}</ref>。
 
一方、ロンドンにおいて、捕まったフォークスは連日拷問を受けて計画や仲間についての供述をし始めていた。11月7日には当局はケイツビー以下、主だった者たちの指名手配を布告した。この日の早朝にはハディントンでは残った無法者たちが告解を行い、聖餐式に臨んでいた。フレイザーによれば、これは彼らの誰もが先が長くないことを覚悟してのものであった。謀略の主要メンバーと支援者、そしてディグビー率いる狩猟隊を含めた一味の数は、この時点で36名にまで数を減らしていた<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|pp=205–206}}</ref>。
降り止まぬ雨の中で彼らは{{仮リンク|ヘウェル・グランジ|en|Hewell Grange}}にあるウィンザー卿の空き家で武器や弾薬、資金を手に入れた。未だ彼らが期待していた大規模な反乱の目論見は、地元民の反応によって打ち砕かれた。彼らは、反乱者たちの「神と国」のためという意見に対し、「神と国だけではなくジェームズ王も支持している」と答えた。
午後10時頃、一行はスタフォードシャーとの州境にある{{仮リンク|ホルベッチ・ハウス|en|Holbeche House}}に到着した。疲労困憊の彼らはヘウェル・グランジで奪った火薬を乾かすため火の前に広げたが、ここに火の粉が掛かり、火柱が上がった。この炎にケイツビー、ルックウッド、グラント、そして狩猟隊の一人が飲み込まれた<ref name="Fraser 2005 218–222"/>。
 
[[File:Catesby and percy slain.jpg|right|thumb|ボルベッチ・ハウスから脱出しようとして殺されたケイツビーとパーシー(作者不明)]]
 
ケイツビーは重い火傷を負ったが生きていた。ディグビーとジョン・ウィンターは、表向き自首すると言って去った。トマス・ベイツはロバート・ウィンターと共に逃亡した。残ったのは(「まあまあ良い(reasonably well)」と表現される)ケイツビー、ルックウッド、ライト兄弟、パーシー、そして炎で失明という重傷を負ったジョン・グラントであった。彼らはこのままアジトに留まり、王の部下たちを待つことに決めた。ケイツビーは死期が近いことを確信しており、首にかけていた金の十字架に口づけすると「十字架の名誉」のため、すべてを捧げると言った。また、生きて捕まる気はなく、そのためには「自分の身は自分の剣で守るしかない」とも言った<ref name="Fraserpp222225">{{Harvnb|Fraser|2005|pp=222–225}}</ref>。
 
11月8日の午前11時頃、ウスターシャーの州長官リチャード・ウォルシュ率いる200人の部隊がホルベッチ・ハウスを包囲し、襲撃した。トマス・ウィンターは中庭を横切っていたところを肩を撃たれた。ジョン・ライトも撃たれ、続けて彼の弟、そしてルックウッドも撃たれた。ケイツビーとパーシーはドア近くに立っていたというが、ラッキーショットによって二人ともに1発で仕留められたという。ケイツビーはかろうじて家の中に這い込んだものの、後に聖母マリアの絵を握りしめた遺体の状態で発見された。この絵と金の十字架はロンドンに送られ、「迷信的でありふれた偶像」が計画者たちを鼓舞したものと見なされた<ref name="Fraserpp222225"/>。
生存者は生け捕りにされ、死者はホルベッチ近くに埋葬された。しかし、後に[[ヘンリー・ハワード (初代ノーサンプトン伯)|ノーサンプトン伯爵]]の命令によってケイツビーとパーシーの遺体は掘り起こされ<ref>{{Harvnb|Dixon|1869|p=190}}</ref>、斬首された。{{仮リンク|ジョン・ハリントン(第2代エクストン男爵)|en|John Harington, 2nd Baron Harington of Exton}}は、ロンドンに向かう途中でこれら頭部を検分し、後に「これほど恐ろしい表情を見たことはない」と語っている<ref>{{Harvnb|Fraser|2005|p=235}}</ref>。
ケイツビーの首は議会堂の脇に晒され、「自分たちの失敗を直視させられる盲目の観衆(sightless spectators of their own failure)」の1人となった<ref>{{Harvnb|Haynes|2005|p=104}}</ref>。
 
== 著名な血縁者 ==
現代の俳優であり、プロデューサーでもある[[キット・ハリントン]]は、ケイツビーの傍系子孫にあたる。ローナン・ベネットとダニエル・ウェストと共に、火薬陰謀事件を犯人たち目線で扱ったBBCの3部構成ドラマ『{{仮リンク|ガンパウダー (BBCのドラマ)|label=ガンパウダー|en|Gunpowder (TV series)}}』の共同制作にあたり、さらにハリントン自身がロバート・ケイツビーを演じた<ref name="HBO">{{cite web |url= http://www.bbc.co.uk/programmes/articles/5Xl6S0zf1c4xqjygyDxr83Y/kit-harington-my-ancestor-tried-to-blow-up-parliament |title= Kit Harington: My ancestor tried to blow up parliament |publisher= bbc.co.uk |date=19 October 2017 |access-date= 27 October 2018}}</ref>。
 
== 祖先 ==
以下の図表はロバート・ケイツビーの先祖を血統図(Ahnentafel)のルールに従い、番号付けしたものである。
 
{{ahnentafel
|collapsed=yes|align=center
|title=Ancestors of Robert Catesby
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|footnotes = {{hlist
|{{legend inline|#fb9|Parents}}
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}}
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|1= 1. Robert Catesby
 
<!--Parents-->
|2= 2. William Catesby of Lapworth
|3= 3. Anne Throckmorton
 
<!--Grandparents-->
|4= 4. William Catesby of Lapworth
|5= 5. Katherine Willington
|6= 6. [[:en:Robert_Throckmorton|Sir Robert Throckmorton of Coughton Court]]
|7= 7. Elizabeth Hussey
 
<!--Great-grandparents-->
|8= 8. Sir Richard Catesby MP <ref name=HoP>[https://www.historyofparliamentonline.org/volume/1509-1558/member/catesby-richard-1505-53 History of Parliament: Sir Richard Catesby], accessed May 2020.</ref>
|9= 9. Dorothy Spencer, Lady Catesby
|10= 10. William Willington
|11= 11. Anne
|12= 12. [[:en:George_Throckmorton|Sir George Throckmorton of Coughton Court]]
|13= 13. Katherine Vaux, Lady Throckmorton
|14= 14. [[:en:John Hussey, 1st Baron Hussey of Sleaford|John Hussey, 1st Baron Hussey of Sleaford]]
|15= 15. Anne Grey, Baroness Hussey of Sleaford
 
<!--Great-great-grandparents-->
|16= 16. George Catesby of Ashby St. Ledgers <ref name=HoP/>
|17= 17. [[:en:Richard Empson|Elizabeth Empson]]
|18= 18. [[:en:John_Spencer_(died_1522)|Sir John Spencer]]
|19= 19. Isabel Graunt, Lady Spencer
|20=
|21=
|22=
|23=
|24= 24. Sir Robert Throckmorton of Coughton Court
|25= 25. Catherine Marrow
|26= 26. [[:en:Nicholas Vaux, 1st Baron Vaux of Harrowden|Nicholas Vaux, 1st Baron Vaux of Harrowden]]
|27= 27. [[:en:Elizabeth_FitzHugh|Elizabeth FitzHugh, Lady Parr of Kendal]]
|28= 28. [[:en:William_Hussey_(judge)|Sir William Hussey]]
|29= 29. [[:en:Thomas_Berkeley_(died_1488)|Elizabeth Berkeley of Wymondham]]
|30= 30. [[:en:George Grey, 2nd Earl of Kent|George Grey, 2nd Earl of Kent]]
|31= 31. [[:en:William_Herbert,_1st_Earl_of_Pembroke_(died_1469)|Catherine Herbert, Countess of Kent]]
}}
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
{{Reflist|group="nb"}}
 
=== 出典 ===
{{Reflist|40em}}
 
== 参考文献 ==
{{EB1911 poster|Catesby, Robert}}
{{Refbegin}}
*{{citation |last=Bengsten |first=Fiona |title=Sir William Waad, Lieutenant of the Tower, and the Gunpowder Plot |url=https://books.google.com/books?id=89NarZPrQ7sC |edition=illustrated |publisher=Trafford Publishing |year=2005 |isbn=1-4120-5541-5}}
*{{Citation | last = Dixon | first = William Hepworth | author-link = William Hepworth Dixon | title = Her Majesty's Tower | volume = 2 | url = https://books.google.com/books?id=KExmeVsBVd4C | publisher = BiblioBazaar, LLC | orig-year = 1869 | year = 2009 | isbn = 978-1-103-08639-9 | location = Charleston, South Carolina | ref = {{harvid|Dixon|1869}} }}
*{{Citation |last=Fraser |first=Antonia |author-link=Antonia Fraser |title=The Gunpowder Plot |publisher=Phoenix |year=2005 | location = London |orig-year=1996 |isbn=0-7538-1401-3}}
*{{Citation | last = Gardiner | first = Samuel Rawson | work = History of England from the accession of James I. to the outbreak of the civil war 1603-1642 | title = The Oath of Allegiance | url = https://archive.org/details/historyofengland01gard | publisher = Longmans, Green | location = London | volume = 1 | year = 1883}}
*{{Citation |last=Haynes |first=Alan |title=The Gunpowder Plot: Faith in Rebellion |publisher=Hayes and Sutton |year=2005 |location=Sparkford, England |orig-year=1994 |isbn=0-7509-4215-0}}
*{{Citation |last=Marshall |first=John |title=John Locke, Toleration and Early Enlightenment Culture | url = https://books.google.com/books?id=dRb-P3HRuvkC|publisher=Cambridge University Press | location = Cambridge | year=2006 |isbn=978-0-521-65114-1}}
*{{Citation | last = Nicholls | first = Mark | title = Investigating Gunpowder plot | url = https://books.google.com/books?id=RiHpAAAAIAAJ | publisher = Manchester University Press | year = 1991 | location = Manchester | isbn = 0-7190-3225-3}}
*{{Citation |last=Northcote Parkinson |first=C. |author-link= C. Northcote Parkinson |title=Gunpowder Treason and Plot |year=1976 |publisher=Weidenfeld and Nicolson |location=London |isbn=0-297-77224-4}}
*{{Citation | last = Sharpe | first = J. A. | title = Remember, remember: a cultural history of Guy Fawkes Day | url = https://books.google.com/books?id=hYYSKgMpAxIC | publisher = Harvard University Press | year = 2005 | location = London | isbn = 0-674-01935-0}}
*{{Citation | last = Spinks Jr | first = Henry Hawkes | title = The Gunpowder Plot and Lord Mounteagle's Letter | url = https://books.google.com/books?id=uUl0DgZs89YC | publisher = Kessinger Publishing | year = 2005 | orig-year = 1902 | location = Whitefish, Montana | isbn = 1-4179-3083-7}}
{{Refend}}
 
== 外部リンク ==
* {{Commons category-inline}}
*[http://www.gunpowder-plot.org/catesby.asp Robert Catesby](英語)
* [https://archives.parliament.uk/collections/getrecord/GB61_CAT Parliamentary Archives, Papers, photographs, maps and drawings relating to Robert Catesby and the Gunpowder Plot]
 
{{Normdaten}}