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place= [[スィゲトヴァール]], [[ハンガリー王国]], [[ハプスブルク帝国]]<br />
{{Coord|46.050663|N|17.797354|E|display=inline,title|type:event|format=dms}}
|result=オスマン帝国が城塞を攻略するも、[[ピュロスの勝利|戦略的敗北]]<ref name="Kohn, 47">Kohn (2006), p. 47.</ref><ref name="Lázár and Tezla, 70">Lázár and Tezla (1999), p. 70.
|territory= オスマン帝国がスィゲトヴァール要塞を制圧、ブディン州に編入
|combatant1=[[File:
* [[File:CoA of the Kingdom of Croatia.svg|
* [[File:Coat of Arms of Hungary.svg|
combatant2=[[File:
*
commander1=[[File:CoA of the Kingdom of Croatia.svg|15px]] [[ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ]]{{KIA}}
|commander2=[[File:Osmanli-devleti-nisani-yeni.png|15px]] [[スレイマン1世]] [[自然死|#]]<br />
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strength1=2,300人<ref name="rarenewspapers">[http://www.rarenewspapers.com/view/548456 Timothy Hughes Rare & Early Newspapers], Item 548456. Retrieved 1 December 2009.</ref>–3,000人<ref name="Lieber 345"/> [[クロアチア人]]・[[ハンガリー人]]<ref name="Wheatcroft 59-60">Wheatcroft (2009), pp. 59–60.</ref><ref group="注釈">大多数が地元のクロアチア人であったというのが大多数の説である。これはズリンスキの侍従で包囲戦から生還したFranjo (Ferenc) Črnkoの報告''"Podsjedanje i osvojenje Sigeta"''という一次史料で裏付けられている。また後に書かれた''"Vazetje Sigeta grada"'' (1573年、Brne Karnarutić)、''"Szigeti veszedelem"'' (1647、ニコラ7世ズリンスキ)、''"Opsida Sigecka"'' (1647年、Peter Zrinski)もこのことを認めている。</ref>
* 最終日に戦闘可能だったのは600人。<ref name="Turnbull, 57">Turnbull (2003), p. 57.</ref> |
strength2=100,000人<ref name="Shelton 82-83">Shelton (1867), pp. 82–83.</ref>–300,000人<ref name="Elliott 117">Elliott (2000), p. 117.
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* 大砲300門|
casualties1= 甚大;
* ズリンスキは最終日の戦闘で死亡。
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'''スィゲトヴァール包囲戦''' ( {{lang-hu|Szigetvár ostroma}} {{IPA|ˈsiɡɛtvɑ̈ːr ˌoʃtromɒ}} スィゲトヴァール・オシュトロマ, {{Lang-hr|Bitka kod Sigeta; Sigetska bitka}}, {{Lang-tr|Zigetvar Kuşatması}}) は、[[1566年]]に[[ウィーン]]へ向かう[[オスマン帝国]]軍が[[ハプスブルク帝国]]支配下の[[ハンガリー王国]][[ショモジ県|ショモジ
1566年8月から9月にかけてのこの包囲戦で、オスマン帝国は勝利しスィゲトヴァールを確保しこそしたものの、双方が大勢の兵を失う結果に終わった。最終盤でスレイマン1世が陣没し、ニコラ・シュビッチ・ズリンスキも戦死した
17世紀前半の[[フランス王国|フランス]]の宰相[[リシュリュー]]は、スィゲトヴァール包囲戦を「(西方の)文明が救われた戦い」と位置付けている。現在でもハンガリーやクロアチアでは、自国の詩やオペラでこの戦いを語り継いでいる<ref name="Cornis-Pope and Neubauer">Cornis-Pope and Neubauer (2004), pp. 518–522.</ref>。合唱曲『[[ウ・ボイ、ウ・ボイ]]』は、この戦いにおけるズリンスキをうたったクロアチアの愛国歌である。
== 背景 ==
[[File:Meisner Dániel metszete Szigetvárról 1625.jpg|thumb|left|スィゲトヴァール(ダニール・マイスナー、エバーハルト・キーザー画、1625年)]]
1526年8月29日の[[モハーチの戦い]]で、[[ラヨシュ2世 (ハンガリー王)|ラヨシュ2世]]率いる[[ハンガリー王国]]軍が[[スレイマン1世]]率いる[[オスマン帝国]]軍に敗北した<ref name="Stephen Turnbull49">Turnbull (2003), p. 49</ref>。ラヨシュ2世が跡継ぎを残さず戦死したので、ハンガリーは独立を失い、ハンガリー王の領土だったクロアチアと共に[[ハプスブルク家]]とオスマン帝国の間で争奪されることになった。ハプスブルク家の[[オーストリア大公]][[フェルディナント1世 (神聖ローマ皇帝)|フェルディナント1世]](後の[[神聖ローマ皇帝]]、当時の皇帝[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の弟)はラヨシュ2世の姉と結婚していた<ref name="Turnbull, 49-51">Turnbull (2003), pp. 49–51.</ref>ことで、ハンガリー貴族やクロアチア貴族からそれぞれの王に[[選挙君主制|選出]]されることになった<ref name="Corvisier and Childs289">Corvisier and Childs (1994), p. 289</ref><ref name="Cetin">Milan Kruhek: Cetin, grad izbornog sabora Kraljevine Hrvatske 1527, Karlovačka Županija, 1997, Karlovac</ref>。1527年1月1日、{{仮リンク|セティン城|en|Cetin Castle|label=}}にクロアチア貴族が集結し、全会一致でフェルディナントをクロアチアの王に選出し、その後継者が王位を継承することを確認した。その見返りに、フェルディナントはクロアチアがハンガリーとの連合時代から有していた歴史的権利、自由、法、慣習を尊重し、オスマン帝国の侵攻からクロアチアを守ることを約束した({{仮リンク|セティン議会|en|1527 election in Cetin|label=}})<ref>[https://archive.org/stream/southernslavques00seto/southernslavques00seto_djvu.txt R. W. Seton -Watson:The southern Slav question and the Habsburg Monarchy page 18]</ref>。
一方ハンガリー東部では[[トランシルヴァニア]]の大領主[[サポヤイ・ヤーノシュ]]がハンガリー王を名乗り、フェルディナントと衝突した。サポヤイ・ヤーノシュはスレイマン1世から、ハンガリー全土の支配を認められていた<ref name="Turnbull, 55-56">Turnbull (2003), pp. 55–56.</ref>。1527年、フェルディナントはハンガリー遠征を行い、サポヤイ・ヤーノシュからハンガリーの首都[[ブダ]]を奪取した。しかし1529年にはオスマン帝国の反撃にあい、1527年から28年に獲得した領土をすべて失ってしまった<ref name="Turnbull, 49-51"/>。逆にスレイマン1世はオーストリアの首都[[ウィーン]]を包囲した([[第一次ウィーン包囲]])ものの、落とすことができず撤退した。これは彼が初めてウィーンを奪取しようとした事例であると共に、オスマン帝国史上で中央ヨーロッパ方面へ最も拡張した時点となった<ref name="Turnbull, 49-51"/>。
== 1566年のオスマン帝国の遠征 ==
[[ファイル:Szigetvár_a_16._században.jpg|右|サムネイル|スィゲトヴァール要塞を前に陣取るオスマン軍]]▼
[[ファイル:Szigetvár_-_Castle.jpg|右|サムネイル|現在のスィゲトヴァール要塞]]
1566年1月、治世46年目の新年を迎えたスレイマン1世は
対する神聖ローマ帝国・ハンガリー側では、[[神聖ローマ皇帝]][[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]が{{仮リンク|トルコ税|de|Reichstürkenhilfe|label=}}の増額を取り付けたものの、帝国内の問題で[[帝国議会 (神聖ローマ帝国)|帝国議会]]が長引き、これが閉会して皇帝が議会から解放されたのは5月30日のことであった。前線では[[ジェール]]の司令官{{仮リンク|エック・フォン・サルム|de|Eck von Salm|label=}}がオスマン軍の別動隊を撃退し、スレイマン1世到着前にオスマン帝国領へ逆侵攻しいくつもの要塞を奪取した。しかしマクシミリアン2世は自分の軍勢召集を優先し、エック・フォン・サルムに進撃を止め、奪取した要塞の防衛に専念するよう命じた。8月12日にようやく出陣したマクシミリアン2世の軍勢は約6万人で、ハンガリーやクロアチアに駐留しているものを含めれば約8万5000人となった{{sfn|河野|2004|page=36}}。
彼に対抗するニコラ・シュビッチ・ズリンスキは[[クロアチア王国 (1527年 - 1868年)|クロアチア王国]]内の最大の領主で歴戦のベテランであり、また1542年から1556年まではクロアチアの[[バン (称号)|バン]]の位にあった<ref>Krokar Slide Set #27, image 42</ref>。彼は第一次ウィーン包囲で頭角を現した後、軍人として輝かしい経歴を歩んだ.。▼
スレイマン1世は49日の行軍の末、6月27日に[[ベオグラード]]に着き、[[東ハンガリー王国|東ハンガリー王]][[ヤーノシュ・ジグモンド|ヤーノシュ2世]]と面会した。元よりスレイマン1世は、ゆくゆくはヤーノシュ2世を全ハンガリーの王にすると約束していた<ref name="Turnbull, 55-56"/>。神聖ローマ帝国側の将軍ニコラ・シュビッチ・ズリンスキが
[[ファイル:Sablja_i_kaciga_Nikole_Šubića_Zrinskog.jpg|右|サムネイル|ニコラ・シュビッチ・ズリンスキの剣と兜。2016年9月にスィゲトヴァール包囲戦450周年を記念するメジムリェ博物館の展覧会で展示された。]]▼
=== 包囲戦 ===▼
▲
▲[[ファイル:Szigetvár_a_16._században.jpg|右|サムネイル|スィゲトヴァール要塞を前に陣取るオスマン軍]]
[[ファイル:The_Battle_of_Szigetvar_-_Cut.jpg|右|サムネイル|包囲戦の鳥観図]]
[[File:Siege of Szigetvár 1566 B.jpg|thumb|right|スィゲトヴァール包囲戦。16世紀の細密画]]
オスマン軍の先遣隊がスィゲトヴァールに到着し、包囲を開始したのは1566年8月2日である。防衛軍はたびたび出撃して、オスマン軍に
スィゲトヴァールに戻っていたズリンスキを包囲したのは、少なくとも15万人の兵と強力な大砲群
スィゲトヴァールは
スレイマン1世が城下に現れた時、城壁には赤い布がかけられ、あたかも祭りの最中であるように見えた。オスマン帝国の大軍を歓迎するかのように、城から大砲が一発だけ放たれた<ref name="Roworth 53">Roworth (1840), p. 53.</ref>。8月6日、スレイマン1世の指示により最初の強襲がかけられた<ref name="Coppée 562-565"/>が、失敗に終わった<ref name="Coppée 562-565"/>。とはいえ防衛軍の人員が絶望的に不足しているのは明らかだったが、ウィーンから[[ハプスブルク帝国]]の援軍がスィゲトヴァールに送られることはなかった<ref name="Coppée 562-565"/>。
1か月以上にわたる壮絶な戦闘の末、ズリンスキら防衛軍の生き残りは旧市街へ撤退し、最後の抵抗の準備をした。スレイマン1世はズリンスキにクロアチアの(オスマン帝国の影響下での)支配権をちらつかせ降伏を促した
スィゲトヴァールの陥落はもはや必然的だったが、オスマン軍の首脳部は総攻撃を渋った。そうしているうちに、9月6日にスレイマン1世が[[戦病死|陣没]]した。彼の死はあらゆる手段によって隠し通され、スルタンの最側近のみがそれを知っていた<ref name="Turnbull, 57"/> 。兵士が戦闘放棄するのを恐れた側近たちにより、スレイマン1世の死は伏せられ、跡継ぎの[[セリム2世|セリム(2世)]]に急使が送られた。おそらくこの使者は手紙の内容を知らなかったはずだが、彼はアナトリアのセリムのもとへわずか8日間で到達した<ref name="Turnbull, 57"/>。
=== 最後の戦闘 ===
[[ファイル:Oton_Ivekovic,_Nikola_Subic_Zrinski.jpg|
スレイマン1世が死去した翌日の9月7日が包囲戦の最後の一日となった。この時すでに、要塞の城壁は砲撃や坑道からの爆破などによりほとんど体を成していなかった。朝に総攻撃が始まり<ref name="Lieber 345"/>、膨大な数のギリシアの火や砲弾が撃ち込まれた。
オスマン軍が軍楽や雄叫びとともに街に迫る中、ズリンスキは最後の演説をした<ref name=":2">Ferenac Črnko, ''Podsjedanje i osvojenje Sigeta'' (Zagreb: Liber, 1971), str. 20 - 21..</ref>。{{Cquote|...この燃え上がる地から出て、敵に立ち向かおう。ここで死んだ者は神の御許へ行くだろう。死ななかったものは、その名を讃えられるだろう。まず私が先に行くから、お前たちも同じようにせよ。神に誓って、私はお前たちを置いていきはしないぞ、我が兄弟、騎士たちよ!...}}
ズリンスキらは最後の攻撃に至っても城内への敵の侵入を許さなかった<ref name="Shelton 82-83"/>。オスマン兵が城門の前の細い橋に殺到したとき、防衛側は突然門を開いて大砲から鉄の塊を水平射撃し、たちまち600人の敵を殺害した<ref name="Shelton 82-83"/>。そしてズリンスキは600人の残存兵に突撃を命じた<ref name="Shelton 82-83"/>。先頭に立っていた彼は胸に2発のマスケット銃弾を受け、頭部に矢を受けて戦死した<ref name="Shelton 82-83"/>。一部の生き残った兵たちは城内に撤退した<ref name="Shelton 82-83"/>。
まもなくオスマン兵が城内に乱入し、生存者のほとんどを殺害した。ごく一部には、彼らの勇敢さを讃えたイェニチェリによって命を助けられた者もいた<ref name="Shelton 82-83"/>。彼らの手引きにより、わずか7人の騎士がオスマン軍の戦列を潜り抜けて逃げ延びた。ズリンスキの遺体は首をはねられ、その首はメフメト・パシャによりブディン太守ソクルル・ムスタファのもとへ<ref name="HrvRevija">{{cite journal|url=http://www.matica.hr/hr/530/nikola-iv-subic-zrinski-27448/|title=Nikola IV. Šubić Zrinski: O 450. obljetnici njegove pogibije i proglašenju 2016. "Godinom Nikole Šubića Zrinskog"|trans-title=Nikola IV. Šubić Zrinski: About 450th anniversary of his death and proclaiming of 2016 the year of Nikola Šubić Zrinski|author=Hrvoje Petrić|date=2017|language=hr|journal=[[Hrvatska revija]]|publisher=[[Matica hrvatska]]|location=Zagreb|issue=3|access-date=3 July 2020|pages=29–33}}</ref><ref name="Walton">{{cite journal |last=Walton |first=Jeremy F. |title=Sanitizing Szigetvár: On the post-imperial fashioning of nationalist memory |year=2019 |journal=[[History and Anthropology]] |publisher=[[Routledge]] |volume=30 |issue=4 |pages=434–447 |doi=10.1080/02757206.2019.1612388|doi-access=free }}</ref>、もしくは新スルタン[[セリム2世]]のもとへ送られたと考えられている<ref>{{Cite book | last=Sakaoğlu | first=Necdet | title=Bu Mülkün Sultanları: 36 Osmanlı Padişahi | publisher=Oğlak Yayıncılık ve Reklamcılık | year=2001 | isbn=978-975-329-299-3 | page=141}}</ref>が、最終的には1566年9月に、息子{{仮リンク|ジュラジ4世ズリンスキ|en|Juraj IV Zrinski|label=}}と、ボルディジャール・バッディアーニ、{{仮リンク|フェレンツ・タヒ|en|Ferenc Tahy|label=}}により、現在のクロアチアの{{仮リンク|シェンコヴェツ|en|Šenkovec|label=}}市{{仮リンク|スヴェタ・イェレナ|en|Sveta Jelena|label=}}にあるパウリネ修道院に埋葬された<ref name="HrvRevija"/><ref name="Walton"/>。一方遺体の体は、包囲戦中に捕虜となりつつもズリンスキによく扱われたオスマン軍兵により、名誉を保って葬られた<ref name="Shelton 82-83"/>。
=== 火薬庫の爆発 ===
[[File:Turkish State Council meeting after the conquest of Szigetvár.jpg|thumb|right|スィゲトヴァールを攻略した後のオスマン軍高官たちの会議。16世紀の細密画]]
上述の最後の戦闘の前に、ズリンスキは城内の火薬に導火線を渡させていた<ref group="注釈">Francis Lieberは、火薬庫の爆発自体に疑義を挟む余地があるとしている。</ref>。最後の城兵が倒されオスマン軍がなだれ込んだ時、誰かがこの[[ブービートラップ]]に触れた、城の火薬庫が爆発し数千人のオスマン兵が吹き飛ばされた<ref>Dupuy (1970), p. 501.</ref>。▼
[[File:Distribution of rewards after the siege of Szigetvár.jpg|thumb|right|攻略後の戦利品分配。16世紀の細密画]]
▲上述の最後の戦闘の前に、ズリンスキは城内の火薬に導火線を渡
オスマン軍の一部隊を率いて財宝を探していたヴェジール・イブラーヒームという人物がズリンスキの雇人に問うたところ、財宝はずっと以前に使い果たされており、代わりに自分たちの足元に3000ポンドもの火薬があって、燃焼の遅い火縄が渡されているのだと返答された<ref name="Shelton 82-83"/>。ヴェジールらの部隊は脱出できたものの、残っていた3000人のオスマン兵が爆発に巻き込まれ死亡した<ref name="Wheatcroft 59-60"/><ref name="Shelton 82-83"/><ref name="Coppée 562-565"/><ref name="Nafziger & Walton 105">Nafziger & Walton (2003), p. 105</ref>。
[[ファイル:Park_of_Hungarian_Turkish_Friendship_Szigetvár_3.jpg|右|サムネイル|スィゲトヴァール公園のトルコ・ハンガリー友好記念碑]]▼
▲[[ファイル:Sablja_i_kaciga_Nikole_Šubića_Zrinskog.jpg|右|サムネイル|ニコラ・シュビッチ・ズリンスキの剣と兜。2016年9月にスィゲトヴァール包囲戦450周年を記念するメジムリェ博物館の展覧会で展示された。]]
== 戦後 ==
ズリンスキ以下、防衛にあたった3000人のほぼ全員が戦死した<ref name="Lieber 345"/>。一方オスマン軍の被害も甚大であり、3人の[[パシャ]]、7000人のイェニチェリ、その他2万8000人の兵士を失った<ref name="Shelton 82-83"/>。なお、オスマン軍の総損失は、資料によって2万人から3万5000人の間で諸説がある<ref name="Lieber 345"/><ref name="Shelton 82-83"/><ref name="Tait 679"/>。
[[File:Eastern Adriatic 1576.svg|thumb|左|270px|スィゲトヴァール征服後のオスマン帝国のハンガリー・クロアチアへの伸長状況(1576年初頭)]]
[[大宰相]][[ソコルル・メフメト・パシャ]]は、スレイマン1世の名で戦勝を告示した<ref name="Turnbull, 57"/>。この中では、スルタンは自らの健康上の問題で、成功し続けていたこの遠征が不完全に終わったことを悔いている、としている<ref name="Turnbull, 57"/>。スレイマン1世の遺体はコンスタンティノープルに戻った後もまだ生きているように扱われ、側近たちは宮廷のおくでスルタンと話をしているふりをした<ref name="Turnbull, 57"/>。オスマン帝国の資料によれば、この偽装は3週間続けられ、秘密を守るためにスルタン付きの医師も絞殺された<ref name="Turnbull, 57"/>。
副宰相ペルテフの別動隊は、先立つ9月1日に{{仮リンク|ジュラ|en|Gyula, Hungary|label=}}を1か月の包囲の末に陥落させていた。スィゲトヴァールのオスマン軍とジェールの神聖ローマ帝国軍がにらみ合っている間に、ジュラ包囲戦に参加していた[[ティミショアラ|テメシュヴァール]]太守はさらに2つ要塞を奪取した。一方クロアチアでは、クラインの司令官らがオスマン帝国側の要塞2つを焼き、太守1人を捕虜にした。マクシミリアン2世もエック・フォン・サルムに[[セーケシュフェヘールヴァール]]の要塞へ向かわせ戦闘を挑ませようとしたが、オスマン軍守備隊が応じなかったので不首尾に終わった{{sfn|河野|2004|page=37}}。
遠征の長旅と長期化した包囲戦がスルタンの健康を著しく害し死に至らしめたのは明らかである。最高司令官となった大宰相ソコルル・メフメト・パシャはセリム2世の帝位継承のためにコンスタンティノープルに帰らねばならず、このウィーンを目指した遠征は全体として失敗に終わることとなった。例えスレイマン1世の死が無くとも、包囲戦の長期化のため冬が近づいており、オスマン軍は目的を果たさないまま撤退を余儀なくされただろう<ref name="Elliott 118">Elliott (2000), p. 118.</ref>。要塞を守り切れなかったとはいえ、ズリンスキらの壮絶な抵抗がオスマン軍のウィーン侵攻を阻んだのは確かといえる。▼
▲遠征の長旅と長期化した包囲戦が、スルタンの健康を著しく害し死に至らしめた
神聖ローマ皇帝[[マクシミリアン2世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン2世]]は、クロアチア貴族[[アントゥン・ヴランチッチ]]と[[シュタイアーマルク州|シュタイアー]]貴族クリストフ・トイフェンバッハをオスマン帝国に派遣し、彼らは1567年8月26日にイスタンブールに入り、セリム2世に歓待された<ref name="Setton 921-922">Setton (1984), pp. 921–922.</ref>。大宰相ソコルル・メフメト・パシャ(彼自身の出身はボスニアだった)との5か月にわたる交渉の結果、1568年2月17日に両者は講和の妥結点を見出し、同21日に[[アドリアノープル条約 (1568年)|アドリアノープル条約]]が締結された。セリム2世が認めたのは8年間の停戦だったが、結果として1593年の[[長トルコ戦争]]勃発まで25年もの間平和が保たれた。これに加えて、マクシミリアン2世は3万[[ドゥカート]]の賠償金を支払った。▼
▲神聖ローマ皇帝
== 文化的影響 ==
[[ファイル:Brne_Karnarutic_vazetje_sigeta_grada.gif|右|サムネイル|
▲[[ファイル:Park_of_Hungarian_Turkish_Friendship_Szigetvár_3.jpg|右|サムネイル|スィゲトヴァール公園のトルコ・ハンガリー友好記念碑。左がズリンスキ、右がスレイマン1世。]]
クロアチア・[[ザダル]]出身のルネサンス詩人・作家
ニコラ・シュビッチ・ズリンスキの[[曽孫|<span style="color:#0645ad">曽孫</span>]]でクロアチアのバンとなった
またクロアチアの軍人で詩人の{{仮リンク|パヴァオ・リッテル・ヴィテゾヴィチ|en|Pavao Ritter Vitezović|label=}}も、スィゲトヴァールの戦いに触れている<ref name="Anzulovic, 57-58">Anzulovic (2000), pp. 57–58.</ref>。1684年に出版された彼の詩『{{仮リンク|スィゲトの告別|en|Odiljenje sigetsko|label=}}』は、憎しみや復讐心抜きに、戦いの記憶を呼び起こしている<ref name="Anzulovic, 57-58"/>。最後の4編は「墓石」と題され、クロアチアとオスマン帝国双方の戦死者に同等の敬意を表する墓碑詩となっている<ref name="Anzulovic, 57-58"/>。
ドイツ人の詩人{{仮リンク|カール・テオドール・ケーナー|en|Karl Theodor Körner|label=}}は、1812年にスィゲトヴァールの戦いを描き「ズリニ」と題した戯曲を発表した。クロアチアの作曲家{{仮リンク|イヴァン・ザイツ|en|Ivan Zajc|label=}}が1876年に発表したオペラ『{{仮リンク|ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ (オペラ)|en|Nikola Šubić Zrinski (opera)|label=ニコラ・シュビッチ・ズリンスキ}}』は、クロアチアで彼の代表作とされ、最も人気がある作品である。この作品は、ザイツの時期に活動していた、[[ハプスブルク帝国]]に対抗するクロアチアのナショナリストたちのメタファーとして、トルコ人に対する「クロアチア人の」英雄的な抵抗を呼び覚まそうとするものであった<ref name="nytimes">{{Cite web | url=https://www.nytimes.com/1986/04/29/arts/opera-zajc-s-nikola-subic-zrinski.html | title=Opera: Zajc's 'Nikola Subic Zrinski' | last=Rockwell | first=John |work=The New York Times | date=29 April 1986 | access-date=3 December 2009}}</ref>。ズリンスキは、家族や盟友たちと共に、スィゲトの城の中で2度にわたりオスマン帝国を撃退した末に犠牲的な死を遂げた16世紀クロアチア人の英雄として描写された<ref name="Cornis-Pope and Neubauer"/><ref name="nytimes"/>。このザイツの愛国的なオペラに使われている合唱曲が、有名な『[[ウ・ボイ、ウ・ボイ]]』である<ref name="Cornis-Pope and Neubauer"/><ref name="nytimes"/>。
== 注釈 ==▼
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
▲=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
{{Refbegin}}
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* {{Cite book | last1=Corvisier | first1=André | last2=Childs | first2=John | url=https://books.google.com/books?id=nEQ7FUAdmc8C&
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* {{Cite book | last=Sakaoğlu | first=Necdet | title=Bu Mülkün Sultanları: 36 Osmanlı Padişahi
* {{Cite book | last=Shelton | first=Edward | title=The book of battles: or, Daring deeds by land and sea | publisher=Houlston and Wright | location=London | year=1867
* {{Cite book | last=Setton | first=Kenneth Meyer | title=The Papacy and the Levant, 1204–1571: The Sixteenth Century | volume=IV | publisher=The American Philosophical Society | location=Philadelphia | year=1984 | isbn=0-87169-162-0}}
* {{Cite book | last=Tait | first=William |
* {{Cite book | last=Turnbull | first=Stephen R | title=The Ottoman Empire, 1326–1699 | publisher=Osprey Publishing Ltd | location=New York (USA) | year=2003 | isbn=0-415-96913-1}}
* {{Cite book | last=Wheatcroft | first=Andrew | title=The Enemy at the Gate: Habsburgs, Ottomans, and the Battle for Europe | publisher=Basic Books
* {{cite journal|和書|format=pdf|author=河野淳|title=帝国議会と対オスマン戦争:トルコ税を巡る皇帝マクシミリアンニ世の情報戦略|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/aees/26/0/26_26/_pdf/-char/ja|journal=東欧史研究|volume=26|publisher=東欧史研究会|issn=03866904|year=2004|naid=AN00156415|doi=10.20680/aees.26.0_26|pages=26-49|ref={{sfnref|河野|2004}}}}
{{cite journal|format=pdf|author=先浜和美|title=ジトヴァトロク条約とブダのアリ・パシャ|url=http://doi.org/10.32286/00000328|publisher=関西大学学術リポジトリ|date=2014-3|doi=10.32286/00000328|naid=500000938581|ref={{sfnref|先浜|2014}}}}
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== 関連文献 ==
* {{Cite book | last=Fraser | first=Robert William | title=Turkey, ancient and modern: a history of the Ottoman Empire from the period of its establishment to the present time |
▲* {{Cite book|last=Fraser|first=Robert William|title=Turkey, ancient and modern: a history of the Ottoman Empire from the period of its establishment to the present time|year=1854|publisher=A. & C. Black}}
== 外部リンク ==
{{Commons category|Battle of Szigetvár}}
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▲* (ハンガリー語) [http://mek.oszk.hu/01100/01137/01137.htm#12 Hungarian epic poem "Peril of Sziget", written by Nicholas VII Zrinski]
▲* (クロアチア語) [http://www.cakovec.hr/index2.php?option=com_content&do_pdf=1&id=249 Nicholas Zrinski and Battle of Szigeth]
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[[Category:クロアチアの歴史]]
[[Category:オスマン帝国の戦闘]]
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