「住吉神社 (福岡市)」の版間の差分
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'''住吉神社'''(すみよしじんじゃ)は、[[福岡県]][[福岡市]][[博多区]][[住吉 (福岡市)|住吉]]にある[[神社]]。[[式内社]]([[名神大社]])、[[筑前国]][[一宮]]。[[近代社格制度|旧社格]]は[[官幣小社]]で、現在は[[神社本庁]]の[[別表神社]]。
全国にある[[住吉神社]]の始祖とする説があるほか、大阪の[[住吉大社]]・下関の[[住吉神社 (下関市)|住吉神社]]とともに「三大住吉」の1つに数えられる<ref>{{Cite book |和書 |editor=森睦彦 |title=名数数詞辞典 |publisher=東京堂出版 |year=1987 |page=135}}</ref>。
== 概要 ==
現在の本殿は[[江戸時代]]前期の[[黒田長政]]による造営で、
== 祭神 ==
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一方で当社縁起では、住吉神が生まれた阿波岐原を当地に比定する{{Sfn|住吉神社(式内社)|1978}}{{sfn|住吉神社(平凡社)|2004}}<ref group="注">住吉神社から西に約10キロメートルには日向峠、北東に約10キロメートルには古賀市青柳(阿波岐?)がある。また立花山(橘?)、その北の尾東山麓(小戸?)といった地名が関連づけられる。</ref>。その説の中で、『日本書紀』<ref group="原">『日本書紀』神功皇后摂政前紀仲哀天皇9年9月己卯(10日)条。</ref>において三韓征討以前に神功皇后が[[依網男垂見|依網吾彦男垂見]]に対して住吉神の神主を命じたとする記事を当社の創建記事とし、これにより全ての住吉神社の中で最も早く創建された神社であるとする{{Sfn|住吉神社(式内社)|1978}}。
住吉三神を構成する底筒男命・中筒男命・表筒男命の「ツツノヲ」の字義については、諸説がある。すなわち夕星(ゆうつづ)を手掛かりに「ツツ」
かつて当社祭神の住吉三神の[[本地仏]]は[[薬師如来]]、[[阿弥陀如来]]、[[大日如来]]とされて
== 歴史 ==
=== 創建 ===
社記(筑前国住吉大明神御縁起<ref>社蔵。収蔵:{{Cite book |和書 |title=[[神道大系]] 神社編44 - 筑前・筑後・豊前・豊後国 |publisher=神道大系編纂会 |year=1982}}</ref>)では、この住吉神社が鎮座する地を住吉神の生まれた阿波岐原(あはきはら、檍原)の古跡に比定する{{sfn|住吉神社(平凡社)|2004}}。これをもって住吉神社<!-- 『住吉神社略誌』 --><!-- 詳細不明 -->では、当社が上古よりの鎮座として「住吉本社」または「日本第一の住吉宮」であるとし{{Sfn|住吉神社(神々)|1984}}、全国2千数百社ある住吉神社の始源である根拠としている{{sfn|住吉神社(平凡社)|2004}}{{Sfn|住吉神社(角川)|1988}}{{Sfn|中世諸国一宮制|2000|pp=576-577}}。
<!--
また、[[住吉大社]]の『[[住吉大社神代記]]』の住吉大神顕現次第 庚辰年十二月戊戌朔辛亥には「[[応神天皇|誉田皇子]]を生みます。故時人その産処(うみぶところ)を号けて[[宇美町|宇瀰]](うみ)と曰ふ。筑紫大神、社を定め奉らむとして皇后に誨へて曰はく。我が[[荒魂・和魂|荒魂]]をば穴門の山田邑に祭らしめよ。時に[[穴門国造|穴門直]]の祖[[踐立]]。[[津守氏|津守連]]の祖手搓足尼([[田蓑宿禰]])皇后に啓して曰さく。軍(みいくさ)の[[住吉三神|三神]](みはしらのかみ)居さ欲しくしたまふ地。必ず宜しく定め奉るべし。」とあり、[[住吉三神]]を筑紫大神と記されていることからも当社が住吉神社の始祖である根拠となっている。
--><!--無出典-->
中世絵図の「博多古図」には、当社の鎮座地が地形的には比恵川と[[那珂川 (九州)|那珂川]]の河口に突き出た冷泉津の岬の上に位置する様子が見られ、当地は航海守護神の祭祀地として適地であったと考えられている{{Sfn|住吉神社(神々)|1984}}{{sfn|住吉神社(平凡社)|2004}}。また『[[和名抄]]』では[[筑前国]][[那珂郡 (福岡県)|那珂郡]]に[[海人族]]の集落に共通すると考えられる古代地名「海部郷」の記載があるほか、境内からは[[弥生時代]]の[[銅戈]]・[[銅矛|銅鉾(銅矛)]]が出土したとも伝えられることから、当地が古くから
なお『筑前国続風土記拾遺』では、当社の元地を[[現人神社]]([[福岡県]][[那珂川市]])とする{{Sfn|住吉神社(式内社)|1978}}{{Sfn|住吉神社(神々)|1984}}。この伝承では現人神社の地まで海岸線であったとし、海岸線の後退とともに現在の博多区住吉に遷座したとしている。『式内社調査報告』では、住吉神社と現人神社の中間に[[奴国]]のものと思われる遺跡([[須玖岡本遺跡]]など)が展開していたことから、[[那珂川]]の上流・下流に位置する神社として古代より両社の祭祀が結ばれていたとする説を挙げている{{Sfn|住吉神社(式内社)|1978}}。
{{Location map+|Japan|width=230|float=right|caption={{Center|住吉神社([[式内社]]に限定)の分布}}|places=
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境内の広さは8,107坪(2.68ヘクタール)<ref name="由緒書"/>。博多が砂丘上に立地するのとは異なり、境内周辺は那珂川の沖積地に立地する<ref name="住吉神社遺跡第3次発掘調査"/>。
境内社殿のうち'''本殿'''は、[[江戸時代]]前期の[[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])の[[福岡藩|福岡藩主]][[黒田長政]]による造営。大阪の[[住吉大社]]と同様
本殿前に建てられている'''拝殿'''は、[[入母屋造]]で、屋根は銅板葺<ref name="由緒書"/>。また境内南側にある'''能楽殿'''(のうがくでん)は、[[警固神社]](福岡市中央区天神)能楽堂の老朽化に伴い[[昭和]]10年([[1935年]])から住吉神社内での造営が計画され、昭和13年([[1938年]])に完成したものになる。[[入母屋造]]の妻入りで、屋根は波子鉄板葺。この能楽殿は日本の伝統様式と洋風の様式を一体とした近代和風建築であり、福岡市指定文化財に指定されている<ref>[http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/cultural_properties/detail/158 住吉神社能楽殿](福岡市文化財保護課「福岡市の文化財」)。</ref><ref name="説明板">境内説明板。</ref>。
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* 住吉大明神御縁起 - 17世紀末成立の縁起。
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* [[寛弘]]2年([[1005年]])、[[藤原高遠]]参詣時の歌{{Sfn|住吉神社(平凡社)|2004}}
{{Cquote|すみよしと 思ふにはあらで ちはやぶる 神のこころを まつるなりけり|20px||大宰大弐[[藤原高遠]]、『大弐高遠集』}}
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