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{{画像提供依頼|
# 黄蝉葉の団十郎朝顔
# 青斑入蝉葉覆輪の団十郎朝顔
# その他団十郎と呼ばれている朝顔
|date=2021年5月}}
'''団十郎朝顔'''(だんじゅうろうあさがお)は、[[柿色]]{{sfn|伊坂|1941|p=14}}{{sfn|岩本|1941|p=143}}{{sfn|宇治朝顏園|1900|p=25}}{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}{{sfn|賀集|1895|p=137}}{{sfn|柴田|1971|pp=68-69}}{{sfn|東京朝日新聞|1891|p=4}}{{sfn|渡邊|1939|pp=60-61}}(もしくは茶・焦茶・柿茶・栗皮茶など茶系統の色{{sfn|渡辺|1996|p=44}})の花を咲かせる[[アサガオ]]に付けられる品種名である{{sfn|渡辺|1996|pp=43-45}}。
 
明治初期、入谷の植木屋[[#成田屋留次郎|成田屋留次郎]]が、柿色丸咲きの朝顔を自らの屋号より「成田屋」と名付け販売しており、当時劇壇の明星であった[[九代目市川團十郎]]の三升の紋が柿色に染め出されている事により、「成田屋」と呼ばれた朝顔が「団十郎」と呼ばれるようになった{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}。また[[市川團十郎]]が歌舞伎十八番「[[暫]]」に用いる[[素襖|素袍]]の色が[[柿色]]であり、その色と同じ事から名付けられたともされる{{sfn|東京朝日新聞|1891|p=4}}。他に柿色へ三升の線を取った朝顔が出来て、それを三升の朝顔、または団十郎朝顔と宣伝して人気を博したとする記述もある{{sfn|伊坂|1941|p=14}}。
 
朝顔の名所であった入谷で明治時代に売り出されたのが最初である{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}。九代目市川團十郎の名声と共に一世を風靡したが{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}、九代目市川團十郎の死(明治36、1903年)と大正初期に入谷名物の朝顔が消滅したことにより、明治期の団十郎朝顔は廃れた{{sfn|環境文化研究所|1986|p=103}}{{sfn|柴田|1971|pp=68-69}}{{sfn|明治教育社|1914|pp=80-81}}{{sfn|森|1969b|p=419}}{{sfn|有祿生|1912|p=24}}。それ以降様々な朝顔に「団十郎」という名前がつけられてきた{{sfn|渡辺|1996|p=44}}。2020年時点で一般的に正式な団十郎朝顔と言われている「黄蝉葉栗皮茶丸咲大輪」の品種は朝顔愛好家が作成した黄蝉葉種の一品種である。これは明治時代初期入谷で売り出された団十郎とは由来にする全く別の品種であり、その作出時期はどんなに古くとも大正時代以前には遡らない。また一般的に、団十郎朝顔が江戸時代に団十郎の茶色として一世を風靡した<ref>{{Cite web |url=http://www.city.akiruno.tokyo.jp/contents_detail.php?frmId=3440 |title=スポーツ祭東京2013花いっぱい運動 ~朝顔(団十郎)編~ |publisher=あきる野市 |date=2012-06-08 |accessdate=2020-11-11 |archiveurl=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8264492/www.city.akiruno.tokyo.jp/contents_detail.php?frmId=3440 |archivedate=2013-08-11 |deadlinkdate= 2020-08-03|ref={{sfnref|あきる野市|2012}}}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|title=朝顔「団十郎」育っています|date = 2013-07-01|publisher=国分寺市|journal=市報国分寺|page=10|issue=1186|url = https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8723562/www.city.kokubunji.tokyo.jp/dbps_data/_material_/localhost/150000/s151500/KOKU120701.pdf|ref={{sfnref|国分寺市|2013}}}}</ref><ref>{{Cite web |url=http://www.city.higashiyamato.lg.jp/index.cfm/34,44615,358,html |title=スポーツ祭東京2013の花「団十郎」成長記録 |publisher=東大和市 |date=2012-08-01 |accessdate=2020-11-11 |archiveurl=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4020008/www.city.higashiyamato.lg.jp/index.cfm/34,44615,358,html |archivedate=2012-11-22 |deadlinkdate= 2020-08-03|ref={{sfnref|東大和市|2012}}}}</ref>もしくは江戸の昔から栽培が盛んに行われていた{{sfn|あきる野市|2012}}<ref>{{Cite web |url=https://matome.naver.jp/odai/2143385694903726101 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20200820122705/https://matome.naver.jp/odai/2143385694903726101|archivedate=2020-08-20|title=江戸の粋な朝顔「団十郎」とはあさがお市での見分け方など |publisher=NAVERまとめ |accessdate=2020-11-11|ref={{sfnref|Naverまとめ|2016}}}}</ref>、種子の確保が容易ではないことから、生産量が激減し戦後途絶えた{{sfn|国分寺市|2013|p=10}}。巷では茶色の朝顔を「団十郎」と呼んでいるが、本来は「団十郎」は特定の品種を指している<ref>{{Cite web |url=http://www.tokyo-park.or.jp/teien/special/asagao.html |title=庭園へ行こう。あさがお特集 |publisher=公益財団法人 東京都公園協会 |accessdate=2020-11-11 |archiveurl=https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11161438/www.tokyo-park.or.jp/teien/special/asagao.html |archivedate=2018-09-22 |deadlinkdate= 2020-08-03 |ref={{sfnref|東京都公園協会|n.d.}}}}</ref>{{sfn|Naverまとめ|2016}}。などと言われるが、そのような事実は無い(根拠は[[#一般に流布する通説について]]で述べる)。
 
== 歴史 ==
=== 団十郎朝顔誕生以前の朝顔の歴史(江戸時代まで) ===
====朝顔の起源====
アサガオ(朝顔 [[学名]]:{{Snamei|Ipomoea nil}}) は世界の熱帯、亜熱帯に広く分布している。日本のアサガオの起源はネパールを含む熱帯アジアか、東南アジア地域では無いかと考えられてきたが{{sfn|米田|竹中|1981|p=IX}}、ブラジルやアフリカの系統もあり、これらがどういう関係にあるかは不明である{{sfn|米田|2012|p=21}}。アサガオ研究者の米田芳秋は「新大陸のどこかで生まれた可能性が高い」としている{{sfn|米田|2012|p=21}}。本稿は種としてのアサガオではなく一園芸品種の「団十郎」についての記事なので、以後基本的には「朝顔」と漢字で表記し、また朝顔の品種を指すときは「団十郎」、歌舞伎役者を指すときは「團十郎」、江戸時代以前の[[大阪]]に言及する場合は「大坂」と表記し、旧字旧かなの文章を引用する場合、新字や[[現代仮名遣い]]に改めずそのまま引用する。
====奈良時代から安土桃山時代====
朝顔は奈良時代に中国から日本へ薬草として渡来したと考えられている{{sfn|中村|1961|p=227}}{{sfn|渡辺|1977|p=240}}{{sfn|米田|竹中|1981|p=IX}}。『[[古今和歌集]]』に収載されている[[矢田部名実]]の歌「{{ruby|打|う}}ちつけに{{ruby|濃|こ}}しとや花の色を見むをくしらつゆの染むる{{ruby|許|ばかり}}を」{{efn|朝顔の異称「けにごし(牽牛花)」を「打ちつけに濃し」に読み込んでいる。}}{{sfn|小島|新井|1989|p=145}}が今のところ朝顔渡来の最初の証拠である{{sfn|米田|2012|p=12}}{{sfn|米田|竹中|1981|p=IX}}。その頃の朝顔は葉は緑で模様が無い並葉、丸咲の中輪、淡青色の花で種子は黒く、蔓性の単純な物であった{{sfn|米田|竹中|1981|p=IX}}。
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江戸時代になり、世の中が平和になると各種の花卉園芸が発展していった。1692年(元禄5年)に狩野重賢の描いた『草木写生春秋乃巻』では濃青、赤、青、白色の花が描かれている{{sfn|米田|2012|p=14}}。次いで形の変化が起こった。『花壇地錦集』(元禄8、1695年)、『草花絵前集』(元禄12、1699年)、『[[大和本草]]』(宝永6、1709年)、『[[和漢三才図会]]』(正徳2、1712年)は二葉朝顔(ちゃぼ朝顔、小牽牛花)の名前がある。これは木立の変異である。この頃から朝顔の形態的な突然変異が起こり始めてきた{{sfn|米田|2012|p=14}}。従来、変化朝顔の第一次流行期は文化文政期と言われてきたが{{sfn|米田|竹中|1981|p=XI}}、享保8年(1723年)の三村森軒の自筆本『朝顔明鑑鈔』では、文化文政期以降の変化朝顔より変化の程度は低いが、種々の変化朝顔が記録されている。花色は青、白、紫系、紅系が記録されている{{sfn|米田|2012|pp=14-15}}。団十郎朝顔の色、柿色の記録はまだ無い{{sfn|三村|2012}}。
=====文化文政期の流行=====
[[ファイル:asagaoso.jpg|200px|thumb|『あさかほ叢』(文化14、1817年)収載の柿色と瑠璃色の絞り咲き朝顔。この頃柿色の朝顔が出現した。]]変化朝顔の本格的な流行は文化・文政期(1804 - 1830年)に始まったと言われる{{sfn|米田|2012|p=15}}{{sfn|渡辺|1977|p=242}}。米田は同時代の様々な文献を挙げ「江戸の変化朝顔の栽培は文化3年(1816年)頃から始まり、大坂に広まったとみてよいだろう」と述べている{{sfn|米田|2012|p=15}}。江戸や大坂では、花合わせ(品評会)が始まり、大坂では『花壇朝顔通』(文化12、1815年)、『牽牛品類図考』(文化12、1815年)、『牽牛品』(文化14、1817年)、江戸では『あさかほ叢』(文化14、1817年)、『丁丑朝顔譜』(文化15、1818年)、『朝顔水鏡』(文政元、1818年)など朝顔専門の図譜が多数刊行されるようになった{{sfn|米田|2012|p=15}}{{sfn|渡辺|1977|p=242}}{{sfn|中村|1961|p=232}}。この頃の変異としては、花色は赤系統と青系統は濃色から淡色まであり、茶系統や灰色系の花も現れ、また絞りや絣りの花も出現していた{{sfn|渡辺|1977|pp=242-243}}{{sfn|中村|1961|p=233}}。『あさかほ叢』ではさらに、柿色{{sfn|国立歴史民俗博物館|2008|p=27}}、薄黄{{sfn|国立歴史民俗博物館|2008|p=21}}、極黄{{sfn|国立歴史民俗博物館|2008|p=16}}{{sfn|国立歴史民俗博物館|2008|p=18}}、黄絞り{{sfn|国立歴史民俗博物館|2008|p=10}}の花が見られる{{sfn|渡辺|1977|p=243}}。葉色では、斑入り葉、黄葉、葉型では丸葉、芋葉、鍬形葉が現れた{{sfn|中村|1961|p=233}}。葉と花に関連した変異では、渦、立田、笹、柳、南天、乱獅子、獅子、桐性など、花形では縮咲、石畳咲、竜胆咲、台咲、孔雀咲、八重咲きなど、他に茎の石化、種子も斑入り葉の褐色黒筋入りと茶色種子が出現した{{sfn|中村|1961|pp=233-234}}。この頃に団十郎朝顔の特長である柿色の変異が生まれた。{{clear}}
=====嘉永安政期の流行=====
[[ファイル:santo-icchou02.jpg|200px|thumb|『三都一朝』(嘉永7、1854年)収載「青南天變紫柿咲分牡丹度咲」柿色と紫色の咲き分けの朝顔。江戸時代の朝顔図譜に柿色の朝顔は収載されているが、「団十郎」という名前の品種は出てこない。]]文化・文政期における変化朝顔の流行は文政初期より次第に衰微していった{{sfn|岡|1934|pp=23-24}}。天保9年(1838年)刊行の『東都歳事記』には「多くは異様のものにして愛玩するに足らず、されば四五年の間にして、文政の始めより絶えしも{{ruby|宜|むべ}}なり」とある{{sfn|岡|1934|p=23}}{{sfn|斎藤|1838|p=33}}{{sfn|台東区史編纂専門委員会|2000a|p=645}}。朝顔への熱は冷め、多くの園芸愛好家の関心は子万年青や松葉蘭に移っていった{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|p=28}}{{sfn|台東区史編纂専門委員会|2000a|pp=646-651}}。もしくは文政の末から天保にかけて江戸の火災、飢饉や大塩平八郎の乱、天保の改革による倹約令なども重なり朝顔の流行は下火になったとする文献もある{{sfn|岡|1934|pp=23-24}}{{sfn|中村|1961|p=235}}{{sfn|渡辺|1977|pp=244-245}}。岡はその間も愛好家は表面を憚りながら栽培を継続していたのではないかとしている{{sfn|岡|1934|p=24}}。嘉永・安政期(1848 - 1860年)になると再び変化朝顔のブームが再来した。この時代に出現した変異としては、洲浜、乱菊、燕、手長牡丹、茎別牡丹などがある{{sfn|中村|1955|pp=21-22}}{{sfn|中村|1961|p=237}}。また八重咲や牡丹咲と各種の変異が組み合わされ、獅子牡丹、台咲牡丹、車咲牡丹、蓮花咲牡丹、采咲牡丹など複雑な変異が生まれた{{sfn|中村|1955|pp=21-22}}{{sfn|中村|1961|p=237}}。この時代の流行の中心人物として、武家代表としては旗本であった[[鍋島直孝]]、町人代表としては植木屋の[[#成田屋留次郎|成田屋留次郎]]がいた{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|pp=28-39}}{{sfn|中村|1961|p=236}}{{sfn|米田|2012|p=16}}{{sfn|渡辺|1977|p=245}}。鍋島直孝は石高5000石の大身の旗本で、北町奉行、大番頭などを務めた。杏葉館と号し、江戸飯田町もちの木坂に邸宅を構えていた{{sfn|米田|2012|p=16}}。趣味家としてパトロン的存在であり{{sfn|米田|2012|p=16}}、朝顔図譜『朝かほ三十六花選』の刊行を助け、自らも変化朝顔や撫子の奇品の育成を楽しんだ{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|p=28}}。成田屋留次郎は本名を山崎留次郎と言い{{sfn|岡|1931|p=10}}{{sfn|環境文化研究所|1986|p=14}}{{sfn|杉田|1889|p=10}}{{sfn|渡辺|1996|pp=40-41}}、江戸入谷の植木屋であった{{sfn|中村|1961|p=236}}{{sfn|米田|2012|p=16}}。彼は『三都一朝』(嘉永7、1854年)『両地秋』(安政2、1855年)、『都鄙秋興』(安政4、1857年)を刊行し{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|p=37}}{{sfn|米田|2012|p=16}}、また花合わせ会を通じて江戸の変化朝顔の発展に活躍した{{sfn|米田|2012|p=16}}。この成田屋留次郎が明治時代に「団十郎」と名付けられた朝顔を入谷で売り出した。{{clear}}
=== 明治時代 ===
====団十郎朝顔の誕生====
[[ファイル:Mimasu.svg|150px|thumb|三升紋]][[ファイル:Danjuro Ichikawa IX as Kamakura Gongoro Kagemasa in Shibaraku.jpg|thumb|200px|left|「[[暫]]」の[[鎌倉権五郎景政]]を演じる九代目市川團十郎]]明治維新後の社会的混乱のため、朝顔栽培をはじめとする園芸全般は衰退した{{sfn|岡|1912|p=1}}{{sfn|米田|2012|p=19}}{{sfn|米田|竹中|1981|p=XII}}。社会の混乱が落ち着いた明治12、3年頃から入谷が再び朝顔の名所となり、そこで団十郎朝顔が生まれ一世を風靡した{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}{{sfn|環境文化研究所|1986|p=16}}{{sfn|渡辺|1996|p=44}}。日本画家でありまた本草学の研究家であった[[岡不崩]]{{efn|岡不崩は画家、また各地で美術の教鞭をとる一方で、明治27年(1894年)に朝顔愛好会のあさがほ穠久會に入会して、変化朝顔の栽培と研究、技術の普及に注力した。明治大正期の第三次変化朝顔ブームにおける中心人物の一人であった。{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|p=45}}。}}は以下のように記している。
 
{{Quotation| 抑も、明治の初年は、百事未だ混沌の中にありて、泰西文化は時々刻々に歷史的風習を破壊し去らんとし上下共に其歸著する處に惑ひ、各般の制度未だ容易に確立せず、然れども幾多の事變と、困難と、經驗とによりて、次第に秩序的に萬事に基礎を按排することを得たり。<br />
如此くして明治十二三年の交に至りて、制度文物の施設略その體を備ふるに至り、人心融和して市民其居に安んじ園藝を弄ぶの餘暇を得るに至り、入谷は再び都下の一名所となり成田屋、丸新、栞齊、其他の花戸嬋娟を競へり。都民は年中行事の一として必ず此入谷に{{Ruby|あ|﹅}}{{Ruby|さ|﹅}}{{Ruby|か|﹅}}{{Ruby|ほ|﹅}}を見ることヽとせるが如し。然りと雖も其花たるや普通平凡なるもののみにして、成田屋と稱する柿の丸咲最も名高りき。そは入谷の留次郞が専賣なるを、其屋號の成田屋なると、其當時劇壇の明星なりし團十郞の三升の紋の柿色に染出されしとに依つて、留次郎の屋號の成田屋を名とせる花は、又、團十郞と呼ばるヽに至れり。而して當時はあながちに大輪を稱するにてもなく、只一鉢に數多く咲かせたるを嗜むの風ありき。架を大にして繁茂せしめたるを入谷作りと云ふ。如此一般は其嗜好幼稚なりしと雖も、文化文政より繼續せる成田屋留次郎は猶雨龍葉の類を奥座敷に飾り、三都一朝、都鄙秋興を繙ときて、好事者に説明するあれば、高須栞齊は又、昔しの印籠作に妙を得て、留次郎と雌雄を爭へり。成田屋没して茶來出でて、入谷の重鎭となる。|岡不崩|明治昭代の牽牛子{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}}}
 
当時、成田屋留次郎が専売していた「成田屋」という柿色丸咲きの朝顔が最も名高かった。自らの屋号を冠した「成田屋」が当時劇壇の明星であった[[九代目市川團十郎]]の三升の紋が柿色に染め出されている事により、「団十郎」と呼ばれるようになった。この成田屋留次郎がどういう人物か、当時東京名物であった入谷の朝顔がどのような物であったかは[[#成田屋留次郎と入谷の朝顔]]で述べる。{{clear}}
 
==== 文献に現れる団十郎朝顔 ====
[[ファイル:Kuniyoshi Utagawa, Japan, The actor.jpg|thumb|200px|「暫」で用いられる柿色の素襖]]以上の岡による記述は大正元年(1912年)のものである。確認できる団十郎朝顔に関する最も古い記述は明治24年(1891年)東京朝日新聞の記事である{{sfn|東京朝日新聞|1891|p=4}}{{sfn|森|1969a|p=207}}{{efn|明治23年(1890年)の『朝顔銘鑑』で、「斑入黄葉柿色覆輪咲き」と紹介されているとする文献もあるが<ref>{{Cite journal|和書|author=田旗裕也|title=大人気!‘団十郎’はこんなアサガオ|year=2019|month = 8|publisher=NHK出版|journal=趣味の園芸|page=72|url = http://textview.jp/post/hobby/38225|ref={{sfnref|田旗|2019}}}}</ref>、出典が確認が出来ない。前年、明治22年(1889年)の『朝顔名鑒』には「団十郎」の名は無いが、洲濱部の項に「斑入葉柿覆輪」の品種がある{{sfn|伊藤|n.d.}}。}}。入谷での団十郎朝顔の様子が「朝顔大名」という題で、狂言風に大名と太郎冠者の問答として書いた記事が掲載されている。
 
{{quotation|<sup>大名</sup>「なか〱{{Ruby|此處|こヽ}}ぢや{{Ruby|扨|さて}}も{{Ruby|出|で}}たぞ{{Ruby|夥|おびた}}だしい{{Ruby|人|ひと}}ぢやヤアー{{Ruby|咲|さい}}たぞ{{Ruby|扨|さて}}もさても{{Ruby|美事|みごと}}に{{Ruby|咲|さい}}た{{Ruby|事|こと}}ぞアノ{{Ruby|赤|あか}}と{{Ruby|白|しろ}}との{{Ruby|間|あひだ}}にある{{Ruby|一鉢|ひとはち}}ハ{{Ruby|珍|めづ}}らしい{{Ruby|花|はな}}ぢや{{Ruby|何|なん}}と申すぞ <sup>太</sup>「これで{{Ruby|厶|ござ}}りまするか{{Ruby|是|これ}}ハ{{Ruby|團|だん}}十{{Ruby|郞|らう}}と申して{{Ruby|近年|きんねん}}{{Ruby|此花|このはな}}を{{Ruby|造|つく}}つたと申すことでことで{{Ruby|厶|ござ}}ります <sup>大名</sup>「シテ{{Ruby|何故|なにゆゑ}}に{{Ruby|團|だん}}十{{Ruby|郞|らう}}と申すのでおりやるぞ <sup>太</sup>「これハ{{Ruby|此色|このいろ}}を{{Ruby|俗|ぞく}}に{{Ruby|柿色|かきいろ}}と申し{{Ruby|團|だん}}十{{Ruby|郞|らう}}が十八{{Ruby|番|ばん}}の{{Ruby|家|いへ}}の{{Ruby|藝|げい}}{{Ruby|暫|しばら}}くの{{Ruby|素袍|すはう}}の{{Ruby|色|いろ}}と{{Ruby|同|おな}}じ{{Ruby|色|いろ}}ぢやによつて{{Ruby|團|だん}}十{{Ruby|郞|らう}}と{{Ruby|名|なづ}}けたと{{Ruby|見|み}}えまする|朝顔大名{{sfn|東京朝日新聞|1891|p=4}}}}
この記事では[[市川團十郎]]が歌舞伎十八番「[[暫]]」に用いる[[素襖|素袍]]の色が[[柿色]]であり、その色と同じ事から名付けられたとしている。明治27年(1894年)8月に発行された『朝顔銘鑑』(東京・百草園丸新 鈴木新次郎発行)には「常葉極大輪咲之部」内に「斑入葉極濃キ柿覆輪、一名團十郞」と記されている{{sfn|賀集|1895|p=137}}{{sfn|渡辺|1996|pp=43-44}}。また、明治33年(1900年)12月10日に発行された『朝顏畫報』第7号(宇治朝顏園発行)の「花名録」には丸咲きの部として「成田屋 黄州浜葉渋茶白覆輪大輪」と記されている{{sfn|宇治朝顏園|1900|p=25}}{{sfn|渡辺|1996|p=44}}。{{clear}}
 
他にも明治時代の団十郎朝顔について、いつくかの文献に記述がある。[[#団十郎朝顔の誕生]]の項に引用した岡の記述にもある入谷の重鎮であった横山茶來{{efn|横山正名といい、茶來と号した。天保4年(1833年)に御手先与力の横山為政の長男として生まれた。陸軍奉行、一橋家二番銃隊三番銃士、警視庁と種々の官命を拝し、その後植木商となり明治41年(1908年)に没した。幕末期から朝顔界で名をなし、高い位の人たちと交流があった。明治維新後も植木商として、また変化朝顔の愛好会であった穠久会の役員としても活動した{{sfn|渡辺|1996|pp=46-47}}。}}の息子、横山五郎が語った明治時代の入谷の朝顔についての思い出話を岩本熊吉が『実用花卉新品種の作り方』の中で記している。
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また、アメリカのジャーナリスト、[[エリザ・シドモア]]が「The Wonderful Morning-Glories of Japan(素晴らしい日本の朝顔)」という記事を『[[:en:The_Century_Magazine|The Century Magazine]]』に寄稿しており、その中で団十郎色の朝顔について触れている{{sfn|渡辺|1996|p=43}}。
{{quotation|The whole family of dull grayish pink, or old rose, known as shibu (persimmon-juice) or kake{{sic}} (persimmon) color, are lately classed as Danjiro{{sic}} colors, from the shibu-colored robe worn by that great actor in a favorite role.<br />
(訳)[[渋色]]([[柿色|柿渋色]])または[[柿色]]として知られている、くすんだ灰色がかったピンク、または[[:en:Rose_(color)#Old_rose|オールドローズ]]{{efn|英語圏の色名の一種、灰色がかった落ち着いた赤色で英国ヴィクトリア朝時代に流行した。}}の品種はすべて、かの大役者が得意演目で渋色の衣装を着ていた事から、最近団十郎色と分類されるようになった。|Eliza Ruhamah Scidmore|The Wonderful Morning-Glories of Japan{{sfn|Scidmore|1897|p=285}}}}
 
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{{quotation|団十郎の名声が一世を風靡するにつれて、その影響はいろいろな方面に現れた。煙草のオールドが勧進帳の弁慶を広告に用ゐたなどもその一例であるが、もつと小さなもので意外に普及したのは朝顔の団十郎である。(中略)団十郎その人は絶えず回顧されてゐながらも、朝顔の方は次第に閑却されてしまつた。団十郎の人気を切り離して見れば、柿色の朝顔などは別に美しい物ではない。|[[柴田宵曲]]|明治風物誌{{sfn|柴田|1971|pp=68-69}}}}
==== 明治時代の団十郎朝顔の特徴 ====
以上に挙げた文献に現れる明治時代の団十郎朝顔の特徴に共通するのは、丸咲きで柿色の花である事{{sfn|伊坂|1941|p=14}}{{sfn|岩本|1941|p=143}}{{sfn|宇治朝顏園|1900|p=25}}{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}{{sfn|賀集|1895|p=137}}{{sfn|柴田|1971|pp=68-69}}{{sfn|東京朝日新聞|1891|p=4}}{{sfn|渡邊|1939|pp=60-61}}、覆輪である事{{sfn|伊坂|1941|p=14}}{{sfn|宇治朝顏園|1900|p=25}}{{sfn|賀集|1895|p=137}}{{efn|伊坂{{sfn|伊坂|1941|p=14}}の記述は「柿色へ三升の線を取つた朝顏が出來た」である。}}である。無地の花であったとする文献は無い。朝顔研究家の渡辺好孝{{efn|渡辺好孝は昭和9年(1934年)福島県生まれ。神奈川県立高等学校教諭として勤務のかたわら、植物古文献の収集と変化朝顔の栽培研究にいそしみ、数冊の著書を刊行した。変わり咲き朝顔同好会設立者{{sfn|渡辺|1996|p=175}}{{sfn|渡辺|1984|p=148}}。}}は「現在、朝顔愛好家が栽培している『団十郎』とは異なっているが、もしかすると茶系統で覆輪の花が『団十郎』なのかもしれない。」と述べている{{sfn|渡辺|1996|p=44}}。葉は「斑入黄葉」{{sfn|田旗|2019|p=72}}「常葉斑入葉」{{sfn|賀集|1895|p=137}}「黄州浜葉」{{sfn|宇治朝顏園|1900|p=25}}と様々である。渡辺は「葉形も、常葉、千鳥葉、州浜葉、恵比寿葉であろうと、また、今日の蝉葉でも、花色が似ているなら、葉型に関係なく『団十郎』と命名してもとくに問題ではなかった。」と述べている{{sfn|渡辺|1996|p=44}}。シドモアは渋色や柿色の朝顔はすべて団十郎色と分類されるようになったとしている{{sfn|Scidmore|1897|p=285}}。このように特定の一品種だけを「団十郎」と呼んでいたわけでは無かった。団十郎朝顔の出現時期に付いては明治12、13(1879、1880)年頃とするのが最も早く{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}、明治20年代頃とする物もある{{sfn|東京朝日新聞|1891|p=4}}{{sfn|有祿生|1912|p=24}}。確認できる同時代の資料として最も古いのは明治24年(1891年){{sfn|東京朝日新聞|1891|p=4}}の物であるから、この頃までに団十郎朝顔が出現していたことになる。また通説で言われるように、「団十郎」という名称が[[市川團十郎 (2代目)|二代目市川團十郎]]にちなんで名付けられた<ref>{{Cite book |和書|author=藤田雅矢|year=2007 |title=まいにち植物 ひみつの植物愛好家の一年|publisher=WAVE出版|page=81}}</ref>{{sfn|米田|2006|p=70}}とする文献は無く、[[九代目市川團十郎]]にちなんで名付けられた、また一世を風靡したとする文献が多い{{sfn|伊坂|1941|p=14}}{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}{{sfn|柴田|1971|pp=68-69}}{{sfn|有祿生|1912|p=24}}。なぜ通説で二代目市川團十郎にちなんだとされるのかは[[#一般に流布する通説について]]で解説する。
==== 成田屋留次郎と入谷の朝顔 ====
=====成田屋留次郎=====
[[ファイル:santo-icchou01.jpg|200px|thumb|『三都一朝』嘉永7年(1854年)7月刊行]][[ファイル:santo-icchou03.jpg|200px|thumb|『三都一朝』収載<br />柿色の朝顔2種]]明治22年(1889年)に書かれた杉田逢川野夫による『成田屋のこと』と題する見聞記がほぼ唯一の同時代の文献である{{sfn|杉田|1889|pp=9-11}}。この項ではこの文献を中心に解説していく。
 
成田屋留次郎の本名は山崎留次郎と言い、成田屋は屋号である。入谷で弘化期から明治時代まで植木屋を営んでいた{{sfn|岡|1931|p=10}}{{sfn|環境文化研究所|1986|p=14}}{{sfn|杉田|1889|p=10}}{{sfn|渡辺|1996|pp=40-41}}。留次郎は文化8年(1811年)浅草の造園家の次男として生まれた{{sfn|環境文化研究所|1986|p=14}}{{sfn|杉田|1889|p=10}}{{sfn|渡辺|1996|pp=40-41}}。弘化4年(1847年)、37歳で入谷に別に一家を構え、朝顔栽培を始めた。留次郎は丸新の主人とともに入谷での朝顔栽培の始祖であった{{sfn|伊藤|n.d.}}{{sfn|環境文化研究所|1986|p=14}}{{sfn|杉田|1889|p=10}}{{sfn|馬淵|1892|p=24}}。
 
留次郎の名が初めて現れるのは嘉永2年(1849年)[[榧寺]]で花友追悼のために行われた「{{ruby|朝花園|追善朝顔華合(ちょうかえん}}{{ruby|追善|ついぜん}}{{ruby|朝顔|あさがお}}{{ruby|華合|はなあわせ}}」の番付である。植木屋留次郎と三五郎が世話人となっている{{sfn|環境文化研究所|1986|p=14}}{{sfn|渡辺|1996|pp=41}}。嘉永4年(1851年)7月10日、[[亀戸天神]]で開かれた花合わせ、翌日に開かれた小村井の江藤梅宅で開かれた小規模な花合わせでも世話人を務めている。江藤梅宅で開かれた花合わせでは、後に活躍する横山萬花園(横山茶來)らの仲間も加わった。安政3年(1856年)7月18日には、留次郎が催主で坂本入谷の蓬深亭で花合わせがあり、鍋島杏葉館(鍋島直孝)、大坂から山内穐叢園が出品した。江戸期最後の「朝顔花合」の番付は文久3年(1863年)6月27日のもので、成田屋が催主、英信寺で開催され、植木屋30名、そのうち20名が入谷の植木屋であった{{sfn|渡辺|2001|p=80}}。
 
留次郎は自らを「朝顔師」と名乗り朝顔図譜『三都一朝(さんといっちょう)』、『両地秋(りょうちしゅう)』、『都鄙秋興(とひしゅうきょう)』を刊行している{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|p=37}}{{sfn|米田|2012|p=16}}。『三都一朝』は嘉永7年(1854年)7月に刊行された。上巻の品類32図、中巻34図、下巻34図、計100図が収められている{{sfn|環境文化研究所|1986|p=16}}。「三都」とは江戸・大坂・京都を指している。絵図を描いた[[田崎草雲]]は[[谷文晁]]らに師事した[[南画]]家である{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|p=37}}。なぜ田崎草雲が描いたかを、若い頃留次郎に会った事があるという{{sfn|岡|1937|pp=13-14}}岡不崩が以下のように記している。「成田屋は將基が好きで、草雲は好敵手であつた。留次郎が奥の小座敷に、變り物の珍品を陳列して、將基盤を前にして、見物人をながめて『お前さん達に此の朝顏はかるものか、といつた風に控えてゐたものである。草雲とは至つて心安なので、將基の敵手であると共に、朝顏は留次郎の門下であつたらしい、なか〱朝顏は悉しかつたそうである。將基で一ツ花を持たして『草雲先生どをです、此葉にこの花を咲しては、此花は面白いから此枝に咲して下さい、といつた銚子{{sic}}もあつたらしい。出來上つた三都一朝は、卽ちそをいつた樣な點も伺はれるやうである{{sfn|岡|1931|pp=9-10}}。」『両地秋』は安政2年(1855年)の刊行、「両地」とは江戸・大坂を指す{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|p=37}}。『都鄙秋興』は安政4年(1857年)刊行、「都鄙」とは「都(みやこ)」と「鄙(いなか)」、江戸と近郊都市を指す。題名の変遷で分かるように変化朝顔の流行は大都市から周辺都市に広がっていた{{sfn|国立歴史民俗博物館|2000|p=37}}。幸良弼選、野村文紹画。三書とも選者は幸良弼である{{sfn|環境文化研究所|1986|p=16}}、幸良弼とは南町奉行の[[跡部良弼|跡部能登守]]である<ref>{{Cite web |url=http://opac.ll.chiba-u.jp/da/engeisho/2628/ |title= 都鄙秋興 |website=千葉大学附属図書館松戸分館 江戸・明治期園芸書コレクション |accessdate=2020-11-11}}</ref>。『緑の都市文化としての入谷朝顔市』によれば、『都鄙秋興』は『三都一朝』の図を再利用したり、同じ図でも培養家の名を改めていることが多いとしている{{sfn|環境文化研究所|1986|p=16}}。岡はこの三書を刊行した留次郎の功績について以下のように述べている。「彼の著書に就いては、今日ではいろ〱と論議すべき點も多くあるとはいへど、維新後一時中絶した斯界を再興する時代にありては、是等の著書を標準とし硏究栽培したものであつた、つまりお手本として、又珍奇の{{ruby|出物|でもの}}の目標として、遂に今日のやうな珍品や、理想花を得るに至つたので、その點は大いに預つて功ありといつべきである{{sfn|岡|1931|p=10}}。」
 
『成田屋のこと』には入谷で朝顔栽培を始めた頃の以下のようなエピソードが記されている。当時、朝顔栽培者が多くなっていたが大坂あたりのような奇品はなく{{efn|江戸では文化文政期の流行が冷め変化朝顔栽培が衰えていたが、大坂では珍種も保存され各地の朝顔より優れていた{{sfn|中村|1961|p=235}}。}}、普通の品種ばかりであった{{efn|『緑の都市文化としての入谷朝顔市』では「当時の入谷には変化朝顔が全く無かったかのようにも書かれているが、実は少しは栽培されていたのである。ただし、大阪のような奇品はなかったと考えたい。」としている{{sfn|環境文化研究所|1986|p=14}}}}。同好の者たちがこれを嘆き、各々から集金して大坂に行き良種を得ようと計画した。留次郎はこれを了承し、翌年有志より金を集め大坂に向かった。しかしどこに良種があるか分からず、留次郎は奔走してある培養家を見つけ、1種につき種子を2粒ずつ、70 - 80種を50両で購入し、集金した者に頒布した。しかし皆普通の品種であったので、一同は失望し留次郎は面目がないので再び大坂に行き、あまねく培養者を探した。そしてある家ですこぶる佳品が多いのを認め、その家の種をことごとく買い取ろうとしたが、60両という大金を示された。交渉の末30両で買い取る事でまとまり、良品か否かの差別なくその家の種をことごとく持ち帰り、それを集金した者に頒布した。それがこの地の名人が名を博し朝顔愛好者の増える始まりとなった。持ち帰った種子からは7、8割は各種の奇品が出た。それから毎年季節を見計らい大坂に行き、そこで自分の品種と交換をし、奇品を出すことに熱が入る事8年に至った。そして今(明治22年当時)に至り各地方より尋ね来たり、もしくは手紙で買入れをする人が絶えなくなったという{{sfn|杉田|1889|p=10}}。
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{{quotation|マア{{ruby|此|この}}{{ruby|入谷|いりや}}の{{ruby|草別|くさわけ}}と{{ruby|云|い}}ふなァ五十{{ruby|年|ねん}}{{ruby|程|ほど}}{{ruby|前|まへ}}の{{ruby|事|こと}}で{{ruby|私|わたくし}}どもと{{ruby|成田屋|なりたや}}{{ruby|留次郎|とめじろう}}と{{ruby|云|い}}ふ{{ruby|家|うち}}二{{ruby|軒|けん}}でしたが{{ruby|夫|それ}}が{{ruby|今|いま}}でハ三十四五{{ruby|軒|けん}}は{{ruby|厶|ござ}}ります{{ruby|夫|そ}}れに{{ruby|私|わたくし}}の{{ruby|親父|おやぢ}}は{{ruby|當年|ことし}}七十三になりますが三十{{ruby|年|ねん}}{{ruby|程|ほど}}{{ruby|前|まへ}}{{ruby|其頃|そのころ}}のお{{ruby|大名|だいめう}}{{ruby|樣|さま}}の{{ruby|薩摩|さつま}}{{ruby|樣|さま}}{{ruby|鍋島|なべしま}}{{ruby|樣|さま}}{{ruby|其外|そのほか}}お{{ruby|旗本|はたもと}}なんぞで{{ruby|種々|しゅ〲}}お{{ruby|求|もと}}めになつてドン〱お{{ruby|培養|したて}}になつたので一{{ruby|時|じ}}ハ{{ruby|随分|ずいぶん}}{{ruby|盛|さか}}りましたが{{ruby|其後|そのご}}{{ruby|少|すこ}}しの{{ruby|間|あひだ}}{{ruby|中絶|ちうぜつ}}{{ruby|致|いた}}して――イヽエ{{ruby|培養|したて}}ハ{{ruby|仕立|した}}てましたが{{ruby|流行|はやら}}なかつたので――{{ruby|明治|めいぢ}}十七八{{ruby|年|ねん}}{{ruby|頃|ごろ}}から{{ruby|又|また}}{{ruby|大層|たいそう}}に{{ruby|流行|はや}}り{{ruby|出|だ}}しました|名人巡り{{sfn|伊藤|n.d.}}}}
この記事の50年前は弘化3年(1846年)となるが、成田屋留次郎の見聞記にも成田屋が「弘化四年に入谷に別戸を開き以て牽牛花を培ふ」と言う記述があり時期が一致する{{sfn|杉田|1889|p=10}}。この頃から成田屋や丸新は入谷で朝顔栽培を行っていた。『風俗画報』第45号には以下のような記述がある。
[[ファイル:Totoiriyaasagao hiroshige.jpg|thumb|200px|喜斎立祥画 三十六花撰 東都入谷朝顔]]{{quotation|丸新ハ百草園と稱し此地{{ruby|槖駝師|うゑきや}}中の{{ruby|巨臂|おやかた}}なり{{ruby|抑|そも}}この入谷ハ{{ruby|土性|つちしやう}}總ての草花に{{ruby|適|てき}}し昔より草花の名地なりしが文政の頃となん此家の老翁十六七歳の時よりして千紫万紅の草花中に{{ruby|酷|はなは}}た{{ruby|蕣花|あさかほ}}を愛しけれバ同好の友成田屋の某と興に共に{{sic}}{{ruby|錬磨|れんま}}してこれか{{ruby|培養|バいよう}}に力を{{ruby|竭|つく}}し數年の{{ruby|經驗|けいけん}}を{{ruby|積|つ}}み大に發明する所あり漸やく世上の{{ruby|愛顧|ひいき}}を{{ruby|博|はく}}せしよりやこれか{{ruby|顰|ひとみ}}に{{ruby|傚|なら}}ふ東隣西家相{{ruby|競|きそ}}ふて培養したりけれバ遂に朝顔の一大名所とハなりしなり舊幕時代にハ大名旗本の家々にて{{ruby|盛|さか}}んに之を培養し其中にも嶋津家などにてハ三万{{ruby|鉢|はち}}も仕立てしとなん之に次く鍋島家なとハ多くの異花珍{{ruby|葩|は}}を出し朝顏會を{{ruby|催|もやう}}して互に{{ruby|誇負|じまん}}されしといひ當時丸新の老人か手に{{ruby|造立|つくりた}}てたる名種奇品ハ一{{ruby|盆|はち}}十五六両のものありけるとこれ今の百圓以上に{{ruby|當|あた}}るなるべし以て花客其人、逸品其花共に高貴なりし{{ruby|一斑|いつぱん}}を知るにたらんそれより明治革新前後の六七年間ハ兵馬の餘{{ruby|氣|ふん}}に{{ruby|壓|あつ}}せられ痛く{{ruby|凋衰|てうすゐ}}せる姿に{{ruby|陥|おち}}いりしが復又十七八年前{{ruby|以還|このかた}}受賞の機運興り隨て{{ruby|槖駝師|うゑきや}}の經驗發明共に大に進歩をなし斯道の遠く昔日の{{ruby|駕|が}}するの勢とハなれりけり然と雖今の華族ハ昔の大名の如くならす愛顧花客ハ往時の貴人豪族にあらされハ如何せん受賞年一年に{{ruby|倍殖|バいしょく}}にも抅らず今ハ絶品妙種なる物も僅に一盆一圓の上に出でず{{ruby|價値|あたひ}}ハそれしかるも丸新一園にてさへ一季に一万餘鉢を{{ruby|販鬻|うりひさぐ}}と云又盛んなりと謂ふべし|馬淵漁史|入谷の朝顏 附 和歌の浦{{sfn|馬淵|1892|p=24}}}}
入谷の土はすべての草花の栽培に適しており、丸新主人は成田屋留次郎と共に朝顔栽培に力を尽くし、それに倣って他の植木屋も栽培を行うようになって入谷は朝顔の一大名所となったとしている。当時の顧客は大名旗本が多く名種奇品は一鉢15、6両で売れるものもあった。その頃の入谷の朝顔を描いた錦絵に[[歌川広重 (2代目)|喜斎立祥]]が描いた『三十六花撰 東都入谷朝顔』がある(国会図書館デジタルコレクションで閲覧が可能)<ref>{{Cite book|和書|author=立祥|year=n.d.|title=東都入谷朝顔|id={{NDLJP|1308735clear}}|ref={{sfnref|立祥|n.d.}}}}</ref>。
 
その後明治維新の混乱により朝顔栽培を含め園芸全般が衰退した{{sfn|岡|1912|p=1}}{{sfn|米田|2012|p=19}}{{sfn|米田|竹中|1981|p=XII}}。その頃の入谷の朝顔について藻紋字が以下のように記している。
{{quotation|三百{{ruby|年|ねん}}の{{ruby|泰平|たいへい}}は{{ruby|興亡|こうばう}}{{ruby|隆替|りうたい}}の{{ruby|歴史|れきし}}に{{ruby|砲煙|はうえん}}{{ruby|彈雨|だんう}}と{{ruby|修羅|しゆら}}の{{ruby|巷|ちまた}}を{{ruby|現|げん}}じ、{{ruby|幾程|いくほど}}もなく{{ruby|王制|わうせい}}{{ruby|維新|ゐしん}}となりし{{ruby|明治|めいぢ}}二{{ruby|年|ねん}}{{ruby|夏|なつ}}の{{ruby|初|はじ}}めより、{{ruby|明|あ}}けて三{{ruby|年|ねん}}の{{ruby|春|はる}}の{{ruby|末|すゑ}}には、{{ruby|此地|このち}}に{{ruby|數|かず}}ある{{ruby|寺院|じゐん}}の{{ruby|内|うち}}、{{ruby|何|なに}}がしの{{ruby|住職|ぢうしよく}}、くれがしの{{ruby|住持|ぢうじ}}が、{{ruby|數寄|すき}}に{{ruby|任|まか}}して一たび{{ruby|廢|すた}}れかヽりし{{ruby|此|こ}}の{{ruby|花|はな}}の{{ruby|培養|ばいやう}}を{{ruby|試|こヽろ}}み、{{ruby|初|はじ}}めは{{ruby|暁|あかつき}}かけてあからひく{{ruby|雲|くも}}のまだ{{ruby|切|き}}れぬ{{ruby|頃|ころ}}より、{{ruby|咲|さ}}き{{ruby|誇|ほこ}}る{{ruby|色|いろ}}のさま〲を{{ruby|愛|め}}でたりしを{{ruby|甲|かふ}}{{ruby|傳|つた}}へ{{ruby|乙|おつ}}{{ruby|知|し}}りて、{{ruby|後|のち}}には{{ruby|懇望|こんもう}}の{{ruby|客|きやく}}{{ruby|門戸|もんこ}}に{{ruby|滿|み}}ち、{{ruby|風流|ふうりう}}{{ruby|韻事|いんじ}}には{{ruby|途|みち}}の{{ruby|遠近|ゑんきん}}を{{ruby|問|と}}わで、三々{{ruby|伍々|ごヾ}}{{ruby|群|むらが}}り{{ruby|來|きた}}り、{{ruby|日頃|ひごろ}}の{{ruby|嗜|たしな}}みを{{ruby|稱賛|しようさん}}するもあれば{{ruby|或|あるゐ}}は{{ruby|用意|ようい}}の{{ruby|行届|ゆきとヾ}}けるに{{ruby|感嘆|かんたん}}しつ、{{ruby|時|とき}}ならぬ{{ruby|淸興|せいきょう}}を{{ruby|入谷|いりや}}の{{ruby|朝嵐|てうらん}}に{{ruby|浴|あ}}びて、{{ruby|思|おも}}ひがけぬ{{ruby|娯樂|ごらく}}を{{ruby|瑠璃|るり}}{{ruby|紺碧|こんぺき}}の{{ruby|月旦|げつたん}}に{{ruby|上|のぼ}}せしは{{ruby|同|おな}}じく七、八、九{{ruby|年頃|ねんごろ}}が{{ruby|最|もつと}}も{{ruby|盛|さか}}んに{{ruby|見受|みう}}けられたりとなん。<br />
{{ruby|如|かく}}{{ruby|有|あ}}りければ{{ruby|土地|とち}}の{{ruby|植木師|うゑきし}}の{{ruby|内|うち}}、{{ruby|兼|かね}}てしも{{ruby|之|こ}}れが{{ruby|栽培|さいばい}}に{{ruby|力|ちから}}を{{ruby|盡|つく}}せしも{{ruby|尠|すく}}なからぬ{{ruby|事|こと}}とて、さらには一{{ruby|層|そう}}{{ruby|進|すゝ}}みて{{ruby|朝顏|あさがほ}}を{{ruby|入谷|いりや}}の{{ruby|名物|めいぶつ}}と{{ruby|數|かぞ}}へ{{ruby|立|た}}て、{{ruby|花|はな}}のさま〲{{ruby|葉|は}}のさま〲 {{ruby|珍|ちん}}なる{{ruby|奇|き}}なる{{ruby|異|こと}}なりたる{{ruby|夫等|それら}}を{{ruby|都|みやこ}}の{{ruby|人々|ひと〲}}に{{ruby|眺|なが}}めさせんは{{ruby|如何|いか}}にとの{{ruby|議|ぎ}}{{ruby|纏|まと}}まり、{{ruby|初|はじ}}めて{{ruby|縱覽|じうらん}}さする{{ruby|事|こと}}とせしは{{ruby|同|おなじ}}く十{{ruby|年|ねん}}の{{ruby|夏|なつ}}なりしが、{{ruby|人|ひと}}も知る{{ruby|此|こ}}の{{ruby|花|はな}}の{{ruby|麗|うる}}はしき{{ruby|色|いろ}}を{{ruby|愛|め}}づるには、{{ruby|單衣|ひとへ}}の{{ruby|袂|たもと}}に{{ruby|風|かぜ}}を{{ruby|孕|はら}}みて、{{ruby|涼氣|れうき}}{{ruby|颯々|さつ〱}}{{ruby|肌膚|はだへ}}を{{ruby|洗|あら}}ひ、{{ruby|明|あ}}けゆく{{ruby|空|そら}}の{{ruby|東雲|しのヽめ}}に、{{ruby|朝霧|あさぎり}}{{ruby|晴|は}}れ{{ruby|渡|わた}}る{{ruby|頃|ころ}}なれば、{{ruby|從|したが}}つて一{{ruby|部|ぶ}}の{{ruby|外|ほか}}は{{ruby|客|きやく}}の{{ruby|足取|あしどり}}{{ruby|如何|いか}}にと{{ruby|氣遣|きづか}}はれしに、{{ruby|思|おも}}ひきや{{ruby|常|つね}}には{{ruby|夢|ゆめ}}を{{ruby|貪|むさぼ}}る{{ruby|若|わか}}き{{ruby|人々|ひと〲}}、{{ruby|老|お}}ひたるは{{ruby|更|さら}}なり{{ruby|男|をとこ}}、{{ruby|女|をんな}}の{{ruby|何|いづ}}れを{{ruby|問|と}}はで{{ruby|來觀|らいくわん}}の{{ruby|人士|じんし}}{{ruby|引|ひき}}も{{ruby|切|き}}らず、{{ruby|其|そ}}の{{ruby|明|あ}}けの{{ruby|年|とし}}も{{ruby|翌年|よくとし}}も、{{ruby|數|かず}}は{{ruby|彌|いや}}が{{ruby|上|うへ}}に{{ruby|重|かさ}}なりて十五、六、七{{ruby|年|ねん}}の{{ruby|頃|ころ}}には、{{ruby|朝顏|あさがほ}}の{{ruby|名聲|めいせい}}{{ruby|入谷|いりや}}を{{ruby|壓|あつ}}して{{ruby|優|いう}}に{{ruby|花|はな}}ごよみの一{{ruby|角|かく}}を{{ruby|占|し}}め|藻紋字|入谷の名物史凋む{{sfn|藻紋字|1913|p=10-11}}}}
[[ファイル:Iriya asagao meiji.jpg|thumb|200px|入谷の朝顔(明治時代)]]明治2年(1869年)頃から、某寺院の住職が一度廃れかかってしまった朝顔栽培を試み、見物者が群がった、それが盛んだったのは明治7 - 9年(1874 - 1876年)ごろであった。入谷の植木屋たちは朝顔を入谷の名物として都の人々に眺めさせようと議論がまとまり、初めて縦覧させたのは明治10年(1877年)の事であり、明治15 - 17年(1882 - 1884年)頃には朝顔の名物として定着したとしている{{sfn|長沢|2010|p=5}}。他にも明治期の入谷の朝顔について、[[#文献に現れる団十郎朝顔]]でも引用した入谷の重鎮であった横山茶來の息子、横山五郎が語った思い出話を岩本熊吉が書き留めたものがある。
{{quotation|{{ruby|其|そ}}の{{ruby|頃|ころ}}の{{ruby|入谷|いりや}}は、{{ruby|坂本村|さかもとむら}}{{ruby|字|あざ}}{{ruby|入谷|いりや}}の{{ruby|約|やく}}百{{ruby|戸|こ}}{{ruby|位|ぐらゐ}}であつて、{{ruby|此處|ここ}}に二十{{ruby|戸|こ}}ぐらゐ{{ruby|草花|くさばな}}を{{ruby|作|つく}}つて、{{ruby|半分|はんぶん}}は{{ruby|農家|のうか}}、{{ruby|半分|はんぶん}}は{{ruby|植木屋|うゑきや}}をやつてゐたもので、{{ruby|其|そ}}の{{ruby|頃|ころ}}の{{ruby|朝顏|あさがほ}}は、六{{ruby|寸|すん}}五{{ruby|分|ぶ}}{{ruby|位|ぐらゐ}}の{{ruby|小鉢|こばち}}にして、{{ruby|只今|ただいま}}の{{ruby|如|ごと}}く{{ruby|芽|め}}を{{ruby|止|と}}めて{{ruby|木造|きづく}}りにせず、一{{ruby|尺|しやく}}{{ruby|位|ぐらゐ}}の{{ruby|鳥居|とりゐ}}にして、これにからませて、{{ruby|毎朝|まいあさ}}{{ruby|市中|しちう}}に賣りに出たもので、{{ruby|陳列|ちんれつ}}の{{ruby|分|ぶん}}は、{{ruby|主|おも}}に{{ruby|桐性|きりしやう}}{{efn|桐の葉に似て石目という凹凸がある。全般に雄大で、茎が太く、毛が多く節間が不揃いで時に蔓が棒状になる。昭和10年(1935年)頃絶滅した{{sfn|中村|1961|pp=8-9}}。}}のから{{ruby|葉|は}}のものを{{ruby|染附|そめつけ}}の{{ruby|瀨戸鉢|せとばち}}に{{ruby|植|う}}ゑたのである。{{ruby|何故|なにゆゑ}}に{{ruby|牡丹|ぼたん}}{{efn|幾重にも花弁と萼が繰り返す変異。種が出来ない。他の変異と組み合わせて豪華に見せるために必須の変異{{sfn|仁田坂|2012|p=29}}{{sfn|仁田坂|n.d.d}}。}}を作らずして、から{{ruby|葉|は}}の{{ruby|桐性|きりしやう}}を{{ruby|作|つく}}つたといふに、{{ruby|之|これ}}は{{ruby|苗|なへ}}のうちに{{ruby|能|よ}}く{{ruby|分|わか}}り、{{ruby|樂|たの}}しみがあつたからで、{{ruby|大輪|だいりん}}は、四{{ruby|種|しゆ}}しかなく、{{ruby|何|いづ}}れも{{ruby|常葉|つねは}}で、{{ruby|紅|べに}}{{ruby|覆輪|ふくりん}}、{{ruby|紺|こん}}{{ruby|覆輪|ふくりん}}、{{ruby|淺黄|あさぎ}}の{{ruby|刷毛目|はけめ}}と{{ruby|白|しろ}}に{{ruby|紫|むらさき}}の{{ruby|堅縞|たてじま}}の四{{ruby|種|しゆ}}で、三{{ruby|寸|ずん}}五{{ruby|分|ぶ}}{{ruby|位|ぐらゐ}}のものである。{{ruby|之|これ}}はさつま{{ruby|性|せい}}といつてゐたが、{{ruby|薩摩|さつま}}から{{ruby|來|き}}たものではなく、{{ruby|島津家|しまづけ}}で作つたものが、{{ruby|花|はな}}が{{ruby|大|おほ}}きく{{ruby|咲|さ}}くからさつまといつたものだ。これとても{{ruby|澤山|たくさん}}は{{ruby|作|つく}}らず、一{{ruby|軒|けん}}で百{{ruby|鉢|はち}}{{ruby|位|くらゐ}}のものであつた。{{ruby|之|これ}}を{{ruby|陳列|ちんれつ}}にしてゐたが、{{ruby|段々|だん〲}}{{ruby|見物|けんぶつ}}も{{ruby|少|すく}}なく、{{ruby|丸新|まるしん}}、{{ruby|成田屋|なりたや}}{{ruby|及|およ}}び{{ruby|私|わたし}}({{ruby|横山氏|よこやまし}})の三{{ruby|戸|こ}}だけになつた。{{ruby|其|そ}}の{{ruby|後|ご}}、{{ruby|明治|めいぢ}}十七{{ruby|年|ねん}}{{ruby|頃|ごろ}}になつて、{{ruby|入十|いりじふ}}といふのが{{ruby|黄色|きいろ}}の{{ruby|朝顏|あさがほ}}を{{ruby|作|つく}}つた。これは{{ruby|成田屋|なりたや}}が{{ruby|上州|じやうしう}}から{{ruby|持|も}}つて{{ruby|來|き}}たもので、{{ruby|成田屋|なりたや}}では、{{ruby|別|べつ}}に{{ruby|氣|き}}に{{ruby|留|と}}めなかつたのを、{{ruby|入十|いじりふ}}の{{ruby|主人|しゆじん}}が{{ruby|買|か}}つて{{ruby|來|き}}たのが、{{ruby|其|そ}}の{{ruby|年|とし}}に{{ruby|新聞|しんぶん}}に{{ruby|出|で}}た。それでいくらか{{ruby|見物人|けんぶつにん}}が{{ruby|增|ふ}}ゑて{{ruby|來|き}}て、{{ruby|陳列|ちんれつ}}する{{ruby|家|いへ}}も{{ruby|增加|ぞうか}}し、十三四{{ruby|戸|こ}}{{ruby|陳列|ちんれつ}}するやうになつた。これは{{ruby|明治|めいぢ}}二十七、八{{ruby|年|ねん}}{{ruby|頃|ごろ}}であつた。それより{{ruby|追々|おひ〱}}{{ruby|盛大|せいだい}}となり、一{{ruby|番|ばん}}{{ruby|盛|さか}}りといふのは、三十{{ruby|年|ねん}}から{{ruby|日露戰爭|にちろせんさう}}の{{ruby|頃|ころ}}であつて、一{{ruby|時|じ}}は、{{ruby|朝|あさ}}{{ruby|車止|くるまど}}めまでするやうになつた。{{ruby|朝顏人形|あさがほにんぎやう}}の{{ruby|如|ごと}}き{{ruby|殺風景|さつぷうけい}}のものも{{ruby|此|こ}}の{{ruby|頃|ころ}}{{ruby|出來|でき}}たのである。{{ruby|之|これ}}は{{ruby|普通|ふつう}}の{{ruby|朝顏|あさがほ}}で、{{ruby|變|かは}}り{{ruby|物|もの}}は、{{ruby|維新後|ゐしんご}}{{ruby|作|つく}}らなくなり、{{ruby|絶|た}}えてしまつた。{{ruby|其|そ}}の{{ruby|頃|ころ}}{{ruby|成田屋|なりたや}}だけは{{ruby|變|かは}}り{{ruby|物|もの}}を{{ruby|持|も}}つてゐた。{{ruby|私|わたし}}も{{ruby|近所|きんじよ}}に{{ruby|居|を}}つたから、どうして{{ruby|種|たね}}を{{ruby|取|と}}るかを{{ruby|見|み}}てゐたが、やはり{{ruby|番號|ばんがう}}を{{ruby|帳面|ちやうめん}}に{{ruby|記|しる}}して、{{ruby|何番|なんばん}}から、{{ruby|何番|なんばん}}が{{ruby|出|で}}るといふやり{{ruby|方|かた}}であつたが、{{ruby|段々|だん〲}}{{ruby|牡丹|ぼたん}}が{{ruby|出|で}}ないやうになつたから、{{ruby|私共|わたしども}}は、{{ruby|帳面|ちやうめん}}{{ruby|等|など}}を作らず、{{ruby|牡丹|ぼたん}}の{{ruby|澤山|たくさん}}{{ruby|出|で}}たものから、{{ruby|親木|おやき}}を{{ruby|取|と}}らなくてはならんと{{ruby|考|かんが}}へたが、{{ruby|其|そ}}の{{ruby|後|ご}}{{ruby|入谷|いりや}}は{{ruby|段々|だんだん}}{{ruby|都會地|とくわいち}}となり、{{ruby|居所|きよしよ}}を{{ruby|轉|てん}}じ、{{ruby|又|また}}{{ruby|居|ゐ}}るものも{{ruby|花屋|はなや}}を{{ruby|止|や}}め四十五{{ruby|年|ねん}}{{ruby|頃|ごろ}}から{{ruby|益々|ます〱}}{{ruby|減|へ}}つて、{{ruby|大正|たいしやう}}二三{{ruby|年|ねん}}{{ruby|頃|ごろ}}には{{ruby|全部|ぜんぶ}}なくなつた。また{{ruby|其|そ}}の頃の{{ruby|大輪物|たいりんもの}}は、{{ruby|悉|ことごと}}く{{ruby|鍬形葉|くわがたは}}であつて、{{ruby|蟬葉|せみは}}や、{{ruby|千鳥葉|ちどりは}}はなく、せいぜい四{{ruby|寸位|すんくらゐ}}であつて、{{ruby|最|もつと}}も{{ruby|能|よ}}く{{ruby|賣|う}}れたのは{{ruby|亂菊咲|らんぎくざき}}{{efn|葉が深く裂け、しばしば復葉状になる。花は曜(維管束のある部分)が多くなり、ひだができ、しばしば不規則に乱れて咲く{{sfn|仁田坂|2012|p=31}}{{sfn|仁田坂|n.d.e}}{{sfn|米田|竹中|1981|p=XII}}。}}と云つて三{{ruby|寸|ずん}}五{{ruby|分位|ぶぐらゐ}}であつた。また一{{ruby|時|じ}}、{{ruby|柿色|かきいろ}}を{{ruby|大層|たいそう}}{{ruby|好|この}}み、{{ruby|之|これ}}を{{ruby|團|だん}}十{{ruby|郞|らう}}といつてゐた。|岩本熊吉|実用花卉新品種の作り方{{sfn|岩本|1941|p=143}}}}
明治期の入谷の朝顔に関する確認できる最古の記述は『讀賣新聞』明治11年(1878年)8月2日の広告である。
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2020年時点で、「団十郎」の名で販売される朝顔は蝉葉の大輪朝顔である事が多い{{sfn|Naverまとめ|2016}}。明治時代に一世を風靡した入谷の団十郎朝顔と、2020年現在販売されている蝉葉の大輪朝顔の「団十郎」は全く系統が異なる物である。蝉葉の大輪朝顔は明治末から大正期に掛けて朝顔愛好家によって作成され、昭和戦前期に人気となり発展した。蝉葉の大輪朝顔には大きく分けて青葉(通常の色の葉)と黄葉(葉緑素が少なく黄緑色の葉)の2つの系統がありそれぞれ青斑入蝉葉(略称:アフセ)と黄蝉葉(キセ)、黄斑入蝉葉(キフセ)と呼ばれる{{sfn|東京朝顔研究会|2019}}{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。青葉と黄葉の大輪朝顔はそれぞれ由来が異なる。次項からは大輪朝顔と朝顔会の歴史を含めて解説して行く。
====蝉葉出現以前の大輪朝顔の歴史====
入谷の朝顔のように一般大衆が楽しむ朝顔の文化とは別に、朝顔愛好家が愛好会を結成し変化朝顔の花芸や大輪朝顔の花径の大きさを競い合う文化も存在した。大阪では明治17年(1884年)に浪速牽牛社{{sfn|中村|1961|p=239}}{{sfn|渡辺|1977|pp=247-248}}、京都では明治19年(1886年)に半日会{{sfn|中村|1961|p=239}}{{sfn|渡辺|1977|p=249}}、東京では明治26年(1893年)に穠久会(じょうきゅうかい){{sfn|渡辺|1977|p=250}}、名古屋では明治30年(1897年)に名古屋朝顔会の前身である月曜会{{sfn|中村|1961|p=239}}{{sfn|渡辺|1977|p=249}}、熊本では明治32年(1899年){{sfn|村山|1977|p=160}}に涼花会が結成された(他にも各地域に朝顔会が結成された)。半日会と涼花会は当初から大輪朝顔が専門であったが、他は変化朝顔が主で大輪朝顔は従だった。大正時代に逆転し大輪朝顔専門の会が多くなった{{sfn|中村|1961|p=239}}。大輪朝顔の基本変異は洲浜遺伝子である。洲浜遺伝子は曜([[維管束]]のある部分)を増加させる働きがある{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。大輪朝顔の起源は江戸期に遡ると考えられ、文化14年(1817年)刊行のあさかほ叢には「日傘(ヒガラカサ)」{{sfn|国立歴史民俗博物館|2008|p=12}}や「葵葉菊咲」{{sfn|国立歴史民俗博物館|2008|p=13}}など曜が増えている品種の記述がある。しかし確実に州浜といえるものはない{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。嘉永7年(1854年)刊の朝顔三十六花撰には「掬水洲濱葉照千種花笠フクリン数切獅子牡丹度咲」と洲浜の文字が見える。アサガオ研究者の仁田坂英二は「これは獅子(feathered)であり、獅子の弱い対立遺伝子の持つ獅子葉は洲浜葉によく似ているため本当の洲浜突然変異ではない」と述べている{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。洲浜の最古の確実な記録とされるのは成田屋留次郎が安政2年(1855年)に刊行した「両地秋」に記載されている[[鍋島直孝]](号は杏葉館)の「黄洲濱葉紅カケ鳩筒ワレクルイシン一筋丁子咲芯」である。狂い咲きとして取り上げられているが、大坂朝顔会発起人で全国朝顔会理事でもあった中村長次郎{{efn|中村長治郎は大正6年(1917)大阪生まれ。大阪府立東商業学校在学時、今井喜孝の『朝顔の話』を読んだことがきっかけで朝顔栽培を始めた。今井に弟子入りし文通で栽培方法を学んだ。若い頃は朝顔だけでなく遺伝学や生物学の勉強にも打ち込んだ。戦後は大阪朝顔研究会を発足させ、また戦争の混乱で絶滅寸前になっていた変化朝顔の復活に尽力し、昭和31年(1956年)国際遺伝会議のシンポジウムでの変化朝顔展示にも協力をした。朝顔の歴史に精通しており大量の史料を収集していた。長年の朝顔研究の成果を『アサガオ 作り方と咲かせ方』『朝顔』などの著書、いくつかの解説や論文として発表している。同じ[[古典園芸植物]]である[[桜草|さくらそう]]の栽培も行っており、後年はさくらそう栽培に重点を移した。平成14年(2002年)逝去。享年85歳{{sfn|椎野|2017|pp=192-202}}{{sfn|中村|1961|p=253}}{{sfn|毎日新聞社会部|1967|pp=146-154}}。}}はアサガオ研究者の今井喜孝にこの図を見せ「『まぎれもない洲浜』と認定された」としている{{sfn|中村|1977a|p=72}}。仁田坂は「この時期に存在した洲浜系統が九州の大名に渡りその後も栽培されていたと考えている」と述べている{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。江戸時代の大輪は常葉から選抜された物であったので大輪とは言っても4寸2、3分(12.7 - 13cm)であり、明治中期に至っても依然として4寸台が主流であった{{sfn|今井|1961|p=290}}。
[[ファイル:Asagao leaves.jpg|thumb|200px|left|様々な葉の変異<br />1.は並葉(常葉)で野生型の葉、3.は蜻蛉葉(鍬形葉)、7.は洲浜葉(千鳥葉)、図の洲浜葉は黄葉の変異も併せ持っており、1.や3.より色が薄く黄緑色を呈する]]
[[ファイル:Asagao semiba.jpg|thumb|200px|常葉(並葉)と蝉葉<br />常葉は野生型の葉、蝉葉は洲浜葉(千鳥葉)と蜻蛉葉(鍬形葉)が組み合わされた変異、戦前は鍬形千鳥葉とも呼ばれた]]
[[ファイル:Asagao suhama leaf.jpg|thumb|200px|洲浜葉(千鳥葉)<br />大輪朝顔の基本となる変異]]
[[ファイル:Asagao tombo leaf.jpg |thumb|200px|蜻蛉葉(鍬形葉)<br />常葉(並葉)の品種よりやや大輪となる]]
====青斑入蝉葉種の由来====
浪速牽牛社を結成した吉田宗兵衛(本名惣兵衛)(号は秋草園)は明治19年(1886年)に旧筑前黒田侯([[黒田長溥]]、[[黒田長知]]どちらを指すのかは不明)の所望で種子16品を献上した返礼として、黒田家秘蔵の種子10種を拝領した。この中に「間黄洲浜葉柿覆輪四寸三分咲」の品種があり、そこから明治19年(1886年)に「村雲」と命名された「黄洲浜葉黒鳩覆輪四寸八分咲」、また「老獅子」と思われる「黄洲浜葉大和柿覆輪四寸五分咲」が生まれ、さらに翌年の明治20年(1887年)に「村雲」から「常暗」と命名された「黄千鳥葉黒鳩無地五寸咲」、「老松」と命名された「黄千鳥葉唐桑無地」が出現した。当時の5寸(15cm)咲は未曾有の巨大輪で、当初秘蔵種とされたが、明治26年(1893年)やむなく他へ譲渡され「常暗筋」と称され流行した{{sfn|中村|1977a|pp=70-71}}。明治28年(1895年)頃浪速牽牛社に入社、のち大正11年(1922年)に大阪大輪朝顔会を組織し会長になった花井善吉(大蕣園)が常暗筋の老獅子から「紫宸殿(青斑入千鳥葉紫天鵞絨無地)」(6寸2分、18.8cm)(明治38年、1905年)をはじめとする一連の品種を作出した{{sfn|中村|1977a|p=72}}{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。仁田坂は「浪速蕣英会雑誌等を見ると、明治末~大正にかけて既に蝉葉の品種はあったが、千鳥葉(洲浜葉)の紫宸殿の方が花径は大きかったようである。」と述べている{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。蝉葉は洲浜葉(千鳥葉)と蜻蛉葉(鍬形葉)が掛け合わされた物であるが、鍬形葉の品種でも洲浜に次ぐサイズのものがあった{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。花井善吉に弟子入りし大輪朝顔の栽培法を会得した塩飽嘉右衛門(嘉蕣園)は大正8年(1919年)自然変化で生まれた「御所桜(青斑入蝉葉桜色無地)」が当時最大輪の6寸7分(20.3cm)に咲き、その子孫を多数栽培し、自然変出から多くの品種を作り出した。この系統は千鳥葉に比べ花切れが少なく巨大輪に咲いたので、関西だけでなく関東でも広く栽培されるようになり{{sfn|中村|1977a|pp=72-73}}。2020年現在栽培されている青斑入蝉葉種の元祖だとされる{{sfn|仁田坂|n.d.b}}。
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黄蝉葉種の澄んだ色彩、縞柄、筒白抜けという長所はすべて肥後朝顔から取り入れられた{{sfn|中村|1977a|p=79}}。肥後朝顔は洲浜変異を持つ一連の品種群である{{sfn|仁田坂|n.d.c}}。仁田坂は「起源は恐らく大輪朝顔と同じで、江戸後期に出現した洲浜系統が九州に渡り、熊本で栽培されていたものに由来すると考えられる。」と述べている。{{sfn|仁田坂|n.d.c}}。中村は熊本藩第6代藩主[[細川重賢]]が宝暦年間(1751年 - 1764年)の創始と伝えられるが、品種が洗練されている点、他の地の発達史から考えて到底信じられないとしている{{sfn|中村|1961|p=301}}。明和2年(1765年)の「草木うつし」には朝顔6品が写生されているが洲浜はなく全部常葉である{{sfn|中村|1961|p=301}}。米田は「細川家の家老であった八代市の肥後松井家を訪れ、文化文政期以降に作成されたと思われる朝顔絵巻を調べたことがあるが、多数の変化朝顔の中に洲浜葉を持つ多曜性の花は、残念ながら見つからなかった。」と述べている{{sfn|米田|2006|p=89}}。村山によれば、代々松代城主であった松井家に伝わった、文化文政期に書かれたとされる「朝顔生写図鑑」<ref>*{{Cite web |url=http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum/event/per_ex2/matsui/kisai2.html |title=松浜軒驥斎(きさい)展示概要 |date=2003|author=八代市立博物館未来の森ミュージアム |website=八代市立博物館未来の森ミュージアム|accessdate=2020-11-11}}</ref>に写生された渦川という品種は、青地白斑入洲浜葉の紅色花で肥後朝顔の一品種「司紅」によく似ているとされる{{sfn|村山|1977|p=160}}。仁田坂は「大輪品種の元になった洲浜品種も黒田(福岡)に由来するように、幕末から明治にかけて九州では洲浜は比較的広まっていたのかもしれない」と述べている{{sfn|仁田坂|n.d.c}}。明治32年(1899年)涼花会が結成され、明治35年(1902年)には名古屋朝顔会から多数の入会を見た{{sfn|村山|1977|p=161}}。これが後に名古屋での黄蝉葉種の誕生につながった。昭和15年には会員180名にも及んだ{{sfn|仁田坂|n.d.c}}。第二次大戦後はようやく命脈を保っていたが、[[昭和28年西日本水害|昭和28年(1953年)6月の風水害]]により栽培品の大半が流出し絶滅の危機を迎えた。しかし徳永据子の栽培品15種が残り、絶滅の危機を免れた。昭和35年(1960年)には天皇皇后の天覧に供された。それを長崎で日本遺伝学会に出席中の[[国立遺伝学研究所]]の竹中要が新聞報道で知り熊本に立ち寄り、徳永の栽培場を調査、肥後朝顔の生存を中央の朝顔界に報告した{{sfn|村山|1977|pp=161-162}}。昭和36年(1961年)涼花会は復活し{{sfn|村山|1977|p=162}}、現在(2020年)まで明治以来の品種と栽培法を守り伝えている。
====戦前(昭和期)の大輪朝顔と団十郎朝顔====
戦前の昭和期は、大輪朝顔の黄金期であった。全国各地に朝顔会がさらに増え、雑誌『実際園芸』や『農業世界』が増刊号を発行し、その影響で朝顔栽培者が年々増加していった{{sfn|渡辺|1977|p=259}}。昭和2年(1927年)の『大輪朝顔栽培秘法』には「花王」の名が見える{{sfn|尾崎|1927|p=132}}。黄蝉葉の「団十郎」は花王系の変化で、戦前吉田柳吉が選出、京都半日会の伊藤穣士郎{{sfn|広瀬|1955|p=35}}が保存した{{sfn|中村|1961|p=280}}{{sfn|米田|2006|p=70}}とされるが、戦前の書籍には黄蝉葉の「団十郎」の名が見えない。昭和12年(1937年)発行の雑誌『農業世界』には黄蝉葉の品種「暫」の名前が見える。極めて濃い茶色で「花王」と「古代錦」の交配種から変化したものとしている{{sfn|安藤|朝比奈|安藤|津熊|1937|p=95}}。「花王」は前にも述べたように「名古屋種」と呼ばれた黄蝉葉桜色深覆輪の品種{{sfn|安藤|朝比奈|安藤|津熊|1937|p=92}}、「古代錦」は黄蝉葉薄柿花傘覆輪の品種である{{sfn|尾崎|1927|p=132}}。この「暫」が後の「団十郎」であったとするならば、黄蝉葉の「団十郎」の記述としては今のところ最も古い物となる。昭和18年(1943年)頃からは戦争の拡大で朝顔の栽培が許されない世相になり、各地の朝顔会は消息を絶っていった{{sfn|中村|1961|p=253}}。{{clear}}
=== 戦後の歴史 ===
戦後、東京の内藤愛次郎は21cmの巨大輪「天津」(桃色無地)を選出し大輪朝顔復興のきっかけになった{{sfn|渡辺|1977|p=261}}。京都半日会の伊藤穣士郎は戦前の多数の品種、特に黄蝉葉種を保存していた{{sfn|中村|1961|pp=253-255}}。中村によればこの中に黄蝉葉の団十郎も含まれてるとされる{{sfn|中村|1961|p=280}}。名古屋朝顔会が昭和24年(1949年)、東京朝顔研究会が昭和26年(1951年)がいち早く再興され、その後各地の朝顔会が次々と復活していった{{sfn|渡辺|1977|p=261}}。戦後長年にわたる泰平に恵まれて大輪朝顔は発展を遂げた。全国の朝顔会も戦前をしのぐ発展を遂げ、新たに発会する地方も多かった{{sfn|尾崎|1974|p=147}}。[[東京朝顔研究会]]は1970年代には1000人弱に及ぶ会員数を誇った{{sfn|尾崎|1974|p=147}}。2020年現在はそのようなブームは落ち着いているが、東京朝顔研究会をはじめ各地の朝顔会が活動中であり、黄蝉葉「団十郎」も栽培されている。
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====戦後の入谷朝顔市と団十郎朝顔====
[[ファイル:Asagao Festival 001.JPG|thumb|200px|入谷朝顔まつり(2008年)]]東京名物であった入谷の朝顔が朝顔市という形で復活したのは昭和23年(1948年)であった。地域発展への期待、また敗戦で打ちひしがれた都民の心を癒やしたいという思いも合わせて企画された{{sfn|入谷中央商店街振興組合|1979}}{{sfn|長沢|2010|p=10}}。当初は3会場で分散開催され、7月中のほぼ1箇月開催されていた。また明治期のように朝顔人形の展示も行われた。当初は人出も少ないさびしい市だったが、関係者の熱意で続けられた。3会場での分散開催では盛り上がりに欠けるとの反省から、会場が統一され[[真源寺]]境内に一本化された。その頃から台東区や下谷観光連盟の後援を受けて盛況化していった。1960年代には朝顔の売り上げが3万鉢に達するほどの盛況を見せ、真源寺の境内には収まりきれず裏手の路地にまではみ出していった。この頃には朝顔市の開催期間が7月6日から7月8日の3日間に限定されるようになっていた。その後1970年代から[[言問通り]]の方に朝顔屋を振り分けていき、昭和50年(1975年)に言問通りの拡幅が行われ余裕を持って出店が出来るようになったため、真源寺境内や裏手から言問通りに並ぶ形になっていき、ますます盛大に行われるようになった{{sfn|長沢|2010|p=10-11}}。
 
戦後の入谷朝顔市でいつ頃から「団十郎」が販売されていたかは不明であるが、確認できる最も古い記録は昭和48年(1973年)の読売新聞の記事で、入谷朝顔市での団十郎朝顔の言及がある<ref>{{Cite news |和書|title=朝顔で公害測る時代とは |newspaper=読売新聞 朝刊|date=1973-07-05|page=6}}</ref>。昭和53年(1978年)の朝日新聞には団十郎朝顔が人気と伝える記事がある<ref>{{Cite news |和書|title=色あざやか夏の風物詩 |newspaper=朝日新聞 夕刊|date=1978-07-06|page=10}}</ref>。入谷朝顔市で販売されている団十郎朝顔の特徴を、平成2年(1990年)の読売新聞では「セピア色に白いふちどり」と報じている<ref>{{Cite news |和書|title=入谷の朝顔市始まる |newspaper=読売新聞 都民版|date=1990-07-07|page=24}}</ref>。青斑入蝉葉で茶色の覆輪花である事はいくつかのウェブサイトで確認できる<ref>{{Cite web |url=https://blog.nissan.co.jp/DEALER/1240/050/entry18244 |title=日産プリンス埼玉販売株式会社 花園インター店 |publisher=日産プリンス埼玉販売株式会社 |accessdate=2020-11-11}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://greensnap.jp/post/5271550 |title=GreenSnap |publisher= |accessdate=2020-11-11}}</ref>。{{clear}}
 
=== 2000年代以降 ===
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{{quotation|サテ弘化から嘉永へかけまして、世の中で流行ました衣物は、海老茶と申す色です。これは八代目團十郞が、或る狂言の世話女房に、例のコクモチの着付で、舞臺へ出ました時に市川家の柿色へ、濃めの黑味を帶びさせた色でありました。ナニガさて、當時江戸八百八町の贔負を、一人で背負って居ました八代目の事ですから、此色が大流行で、十五六から三十前ぐらゐな婦人、海老茶の紋付を着ない者は無いのです。大概{{ruby|太織紬|ふとをりつむぎ}}などを染めまして、不斷着にしました。紋所は銘々の紋で、市中の女は、どこもかしこも、紋付の衣物ならざるは、ないといふ有樣でした。この茶の色を八代目茶とも、團十郞茶とも申しました。この時は、何んでもかんでも八代目八代目で持ち切て居ました。この如電入道も、はづかしながら、子供の時分、三升小紋の上下を着せられた事がありました。八つ九つの頃でした。|大槻如電|江戸の風俗衣服のうつりかはり(第七談){{sfn|大槻|1978|pp=41-42}}}}
八代目市川團十郎の人気に乗じて「海老茶」が流行し、これを「団十郎茶」とも呼んだとしている。これらはあくまで'''「団十郎茶」という「色」'''が流行したという事を示しているにすぎず、通説ではこれを'''「団十郎茶」の「朝顔」'''が流行したと誤って解釈している。二代目市川團十郎の活躍した時代は文化文政期第一次朝顔ブーム以前であり、単純な変化朝顔が出始めた時代である。柿色の朝顔も当時の文献には現れない{{sfn|三村|2012}}。海老茶または団十郎茶が流行したという八代目市川團十郎の活躍した弘化から嘉永に掛けて「団十郎」という朝顔があったと記述する文献も無い。[[#明治時代の団十郎朝顔の特徴]]で述べたように、明治時代の団十郎朝顔を扱った文献では九代目市川團十郎に由来するとする。
 
また、団十郎朝顔の色として「海老茶色」と表現する文献は東京都農林総合研究センターの記述以前には無く{{sfn|東京都農林総合研究センター|2011}}、柿色のほか茶・焦茶・柿茶・栗皮茶と呼ばれていた{{sfn|渡辺|1996|pp=43-44}}。明治期の団十郎朝顔の花色の表現としては「柿色」と表現していることが多い{{sfn|伊坂|1941|p=14}}{{sfn|岩本|1941|p=143}}{{sfn|宇治朝顏園|1900|p=25}}{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}{{sfn|賀集|1895|p=137}}{{sfn|柴田|1971|pp=68-69}}{{sfn|東京朝日新聞|1891|p=4}}{{sfn|渡邊|1939|pp=60-61}}。「暫」で用いる素袍の色は江戸時代から柿色と表現されており{{sfn|藝能史研究會|1973|p=574}}、団十郎朝顔に関する通説以外で「暫」で用いる素袍の色を「海老茶色」と記述することは無い。
{{quotation|市川流暫の素袍に定紋三升を付る事、此素袍は顔見せ三十日の興業に素袍ののり落ちるゆへ、柿の素袍二張ツヽ用ゆる。|三升屋二三治|三升屋二三治戯場書留{{sfn|藝能史研究會|1973|p=574}}}}
黄蝉葉「団十郎」の色は、東京都農林総合研究センターの記述以前は濃茶{{sfn|樋口|1977|p=199}}{{sfn|米田|2006|p=70}}{{sfn|芦澤|2012|p=61}}もしくは濃栗皮茶{{sfn|中村|1961|p=280}}と表現されている。
 
===江戸時代から団十郎が栽培されてきたという通説について===
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===種子の確保が容易ではないことから、生産量が激減し戦後途絶えたという通説について===
これは東京都農林総合研究センター『農総研だより第17号』の「かつて、栽培が盛んであった『団十郎』は、種子の確保が難しく生産量が激減していました。そのため、“幻の朝顔”とも言われ、類似品種が『団十郎』として販売されていることもありました。」という記述が元である{{sfn|東京都農林総合研究センター|2011}}。これは黄蝉葉「団十郎」の事を指しているが、「かつて」というのがいつの時代か、どこで生産されていたものが激減したのかこの記述からは読み取れない。東京都農林総合研究センターの田旗裕也は『趣味の園芸』誌上で「昭和の入谷朝顔まつりでは、茶色花のことを一般に‘団十郎’と称しましたが」と述べている事から{{sfn|田旗|2019|p=72}}、「かつて」とは戦後の入谷朝顔市が始まった昭和23年(1948年)以前のことを指すという事が分かる。[[#歴史]]の項目で述べたように、戦前入谷の朝顔が全盛であったのは明治時代であり、そこで一世を風靡し団十郎朝顔は黄蝉葉種の「団十郎」が江戸時代もしくない。明治時代に入谷で栽培されていたという事実は無い。大正以降、入谷の団十郎朝顔は大正以降に廃れてしまったが、これは種子の確保が難しかったからではなく、九代目市川團十郎の死と入谷の朝顔の衰退によるものである。黄蝉葉種が生まれ愛好家の人気を得ていた大正末期から昭和戦前期に栽培が盛んであったと解釈も出来るが、それを裏付ける証拠は今のところ無い。「戦後途絶えた」{{sfn|国分寺市|2013|p=10}}とするのも誤りである。途絶えてしまったのなら黄蝉葉「団十郎」は戦後作られたものとなるはずであり、戦前から作られてきたという主張と矛盾する
 
これまで述べてきたように黄蝉葉「団十郎」は朝顔愛好家用の品種であり、戦前から戦後にかけて商業的に栽培されたと記録している文献は確認できない。広く一般に販売されるのは東京都農林総合研究センターが黄蝉葉「団十郎」を正統として種を供給し始めた2010年代以降のことである{{sfn|東京都農林総合研究センター|2011}}。また「戦後途絶えた」{{sfn|国分寺市|2013|p=10}}とするのも誤りである。途絶えてしまったのなら黄蝉葉「団十郎」は戦後作られたものとなるはずであり、戦前から作られてきたという主張と矛盾する。
 
以上の'''「二代目市川團十郎が名の由来」'''、'''「江戸時代から団十郎が栽培されてきた」'''、'''「種子の確保が容易ではないことから、生産量が激減し戦後途絶えた」'''という通説の作られた過程をまとめると以下のようになる('''太字'''は引用時に付け加えられた要素)。
{| class="wikitable"
|style="background-color:#CEF2E0"| 中村 1961||style="background-color:#CEF2E0"|濃栗皮茶筒白。花王系の変化、戦前吉田柳吉氏選出、伊藤氏が保存。現存茶色中最優色の特異な存在であるがやや小輪。三四年半日会で芝原氏の優勝花{{sfn|中村|1961|p=280}}。
|-
|style="background-color:#CEE0F2"| 渡辺 1996||style="background-color:#CEE0F2"|当時、入谷で名の知られた「団十郎」(成田屋ともいう)柿色丸咲きの花は、名優市川団十郎の名にちなんだ花名である。『暫』の狂言に柿色の素袍を用いたが、団十郎の人気に乗じ、この色が流行したといわれている。(中略)花色は、茶・焦茶・柿茶・栗皮茶など茶系統なら、青葉でも黄葉でもよく、無地でも覆輪でも『団十郎』と呼んでいた{{sfn|渡辺|1996|p=43}}。
|-
|style="background-color:#F2CEE0"| 米田 2006||{{font color||#CEF2E0|キセ 濃茶無地 日輪抜け 戦前、吉田柳吉氏が『花王』から分離選出したものを伊藤穣士郎が保存維持して伝えたといわれている。}}'''江戸時代に二代目市川団十郎が'''{{font color||#CEE0F2|『暫(しばらく)』の衣裳に柿色の素襖(すおう)を用いて一躍人気を博し、この色が団十郎茶として流行した。朝顔でも}}'''古くから'''{{font color||#CEE0F2|茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名してきたらしい{{sfn|米田|2006|p=70}}。}}
|-
|style="background-color:#E0CEF2" | 東京都農林総合研究センター 2011||style="background-color:#E0CEF2" |かつて、栽培が盛んであった『団十郎』は、種子の確保が難しく生産量が激減していました。そのため、“幻の朝顔”とも言われ、類似品種が『団十郎』として販売されていることもありました。(中略)葉色が淡く花は大輪で花色がえび茶色といった珍しい花色が特徴です{{sfn|東京都農林総合研究センター|2011}}。
|-
| 芦澤 2012||{{font color||#F2CEE0|黄蝉葉 濃茶無地 日輪抜け。戦前、吉田柳吉が『花王』から分離したものから選出したものを伊藤穣士郎が保存維持して伝えたといわれている。朝顔の「団十郎」の名は古く、}}'''江戸時代から'''{{font color||#F2CEE0|茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名した事もあったらしい{{sfn|芦澤|2012|p=61}}。}}
|-
|あきる野市 2012||{{font color||#E0CEF2|「団十郎」は海老茶色の花と黄緑色の葉が特徴です。}}{{font color||#F2CEE0|「団十郎」の名は2代目市川團十郎(成田屋)が演目「暫(しばらく)」で用いた装束の色}}{{font color||#E0CEF2|(海老茶色)}}{{font color||#F2CEE0|にちなんでつけられたもので、江戸時代には「団十郎茶」色として一世を風靡しました。}}'''江戸の昔から栽培が盛んに行われていましたが'''、{{font color||#E0CEF2|種子の確保が難しく幻の朝顔と言われるようになりました{{sfn|あきる野市|2012}}}}
 
|-
|国分寺市 2013||{{font color||#E0CEF2|「団十郎」とは、えび茶色の大きな花と黄緑色の葉が特徴の朝顔です。}}{{font color||#F2CEE0|「団十郎」の名は、二代目市川團十郎(屋号成田屋)が演目「暫」で用いた装束の色}}{{font color||#E0CEF2|(えび茶色)}}{{font color||#F2CEE0|にちなんでつけられたもので、江戸時代には「団十郎茶」色として一世を風靡しました。}} {{font color||#E0CEF2|ところが、種子の確保が難しく生産量が激減し、}}'''戦後途絶えてしまい'''{{font color||#E0CEF2|「幻の朝顔」と言われていました。{{sfn|国分寺市|2013}}}}
|}
 
(中村 1961)は黄蝉葉の団十郎という特定の1品種に関する記述、(渡辺 1996)は「団十郎」と呼ばれた朝顔全般に関する記述である。これが混同されて引用され、また引用の度に根拠不明の記述が付け加えられてきた。「江戸時代に二代目市川団十郎が『暫』の衣裳に柿色の素襖を用いて一躍人気を博し、この色が団十郎茶として流行した。」との記述が江戸時代から「団十郎」と呼ばれた朝顔が存在したと誤解され、またさらに黄蝉葉「団十郎」が江戸時代からの品種という誤解に発展していった。これまで述べてきたように江戸時代の朝顔図譜に「団十郎」の名は無いし、蝉葉の朝顔は明治時代中期以降に作られた物である。また黄蝉葉「団十郎」の親品種である「花王」が広まるのは大正以降であるため、それ以前に存在することはあり得ない。
 
===「団十郎」が特定の品種と指しているという通説について===
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と五つ挙げている{{sfn|渡辺|1996|p=44}}。5.は[[#団十郎朝顔の誕生]]で引用した「明治昭代の牽牛子」という記事である{{sfn|岡|1912|pp=1-2}}。
 
「団十郎」が特定の品種を指していて、それ(黄蝉葉の団十郎)のみが正統という通説がある{{sfn|東京都公園協会|n.d.}}{{sfn|Naverまとめ|2016}}。渡辺の記述や[[#歴史]]の項で述べてきたように「団十郎」という名前は歴史上多くの朝顔に付けられてきたもので、正統な品種が一つだけあるわけではない。黄蝉葉「団十郎」が正統とされる根拠、「二代目團十郎に由来する」「江戸時代に一世を風靡した」はこれまで述べてきたように誤りである。[[#江戸時代から団十郎が栽培されてきたという通説について]]で述べたように、黄蝉葉「団十郎」は名古屋と京都に由来し、江戸や東京にゆかりはないから「東京ならではの花」という見解{{sfn|スポーツ祭東京2013実行委員会事務局|2013}}は正しいとは言えない。園芸業者が流通名として自由に「団十郎朝顔」の名をつけるのが不当だという主張もある<ref>{{Cite web |url=http://asagaoasagao.shop28.makeshop.jp/ |archiveurl=http://web.archive.org/web/20110907045642/http://asagaoasagao.shop28.makeshop.jp/|archivedate=2011-09-07|title=あさがおのお宿 |publisher=あさがおのお宿 |accessdate=2021-05-05|ref={{sfnref|あさがおのお宿|2011}}}}</ref>。しかし明治時代の「団十郎」も「成田屋」という品種が「団十郎」と呼ばれるようになった物であり、黄蝉葉「団十郎」もかつて「暫」と名付けられていた可能性がある。
 
渡辺は「現在でも、入谷朝顔市に行くと、『団十郎』という花に人気があるが、売り子は、ただ茶色の花なら『団十郎』といっているにすぎない。」と述べているが{{sfn|渡辺|1996|p=44}}、これは先に挙げた渡辺自身の記述と矛盾している。田旗も「団十郎茶のアサガオを、広く‘団十郎’と呼んだと考えられます」と述べているが「茶色花のことを一般に‘団十郎’と称しましたが、近年は江戸川の生産者を中心に、一部の店先で正確な‘団十郎’を生産販売する動きがあります。」と矛盾した見解を述べている{{sfn|田旗|2019|p=72}}。以上のように専門家の間でも団十郎朝顔の議論には矛盾があり、茶系統の朝顔を広く「団十郎」と称していたとしながらも、一方では正統「団十郎」が存在し、それ以外の茶色花の朝顔に「団十郎」と命名するのは不当という見解を示している。
 
=== その他の通説について ===
[[まとめサイト]]などでは、「暫」で用いられる衣装を「[[法被]]」と表現する事がある<ref>{{Cite web |url=https://xn--m9jp9m6aj7c2644did0b.net/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%82%AC%E3%82%AA-%E5%93%81%E7%A8%AE/%E5%9B%A3%E5%8D%81%E9%83%8E%E6%9C%9D%E9%A1%94.html |archiveurl=http://web.archive.org/web/20210123161110/https://xn--m9jp9m6aj7c2644did0b.net/%E3%82%A2%E3%82%B5%E3%82%AC%E3%82%AA-%E5%93%81%E7%A8%AE/%E5%9B%A3%E5%8D%81%E9%83%8E%E6%9C%9D%E9%A1%94.html|archivedate=2021-01-23|title=団十郎朝顔 |publisher=アサガオの育て方.net |accessdate=2021-05-03|ref={{sfnref|アサガオの育て方.net|2016}}}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://omatsurijapan.com/blog/iriya-asagao/ |archiveurl=http://web.archive.org/web/20210116115911/https://omatsurijapan.com/blog/iriya-asagao/|archivedate=2021-01-16|title=「入谷朝顔まつり」で夏休み気分を先取り!大人になった今育てたい”幻の朝顔”も |publisher=オマツリ ジャパン |accessdate=2021-05-03|ref={{sfnref|オマツリ ジャパン|2020}}}}</ref>。「暫」で用いられる衣装は「素袍(素襖)」であり「法被」ではない。「法被」は[[能]]で用いられる衣装{{efn|能で用いられる衣装は特に「能装束」と称され、歌舞伎などの衣装とは区別されている{{sfn|小林|森田|1999|p=461}}。}}で袷法被は源氏などの武将や鬼畜類の扮装として用い、単法被は[[平家]]の[[公達]]の鎧姿として用いられる{{sfn|小林|森田|1999|pp=46-51}}。歌舞伎の[[連獅子]]では法被が用いられるが、明治以後のことであり、江戸時代には当時式楽であった能の衣装を用いることは許されないことであった{{sfn|杉|1977|pp=168-172}}。江戸時代に「暫」の衣装を「素袍」と表現して記録としているものは、[[#二代目市川團十郎が名の由来という通説について]]に引用した『三升屋二三治戯場書留』{{sfn|藝能史研究會|1973|p=574}}のほか、以下に引用する『柳多留』『川柳評万句合』内の川柳がある。
*ぬつて居るすわうしばらく人たかり{{sfn|小池|1997|p=48}}
*柿の素袍に中受のしぶつ面{{sfn|小池|1997|p=48}}
また2021年現在印半天と同様の意味で使われ、祭りなどで着用する法被<ref>{{Cite web |url=https://kyo-ya.net/hanten/%E5%8D%8A%E7%BA%8F%E3%81%A8%E6%B3%95%E8%A2%AB%E3%81%AE%E9%81%95%E3%81%84/|accessdate=2021-05-03|title=半纏と法被の違い|author=京屋染物店|}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.hanten.jp/koeblog/diary/honzome/happihanten/|accessdate=2021-05-03|date=2012-03-05 |title=半纏と法被の違いについて|author=水野染工場|}}</ref>でもない。この場合の法被は火事羽織を前身とし、明暦3年(1657年)の[[振袖火事]]に浅野家300から500石位の武士たちが柿色木綿羽織に大紋をつけて出場したのを起源とする。印半天は法被を模した物で、文化頃に生じ、江戸では文化頃から法被が廃れ印半天が盛んになった。法被は印半天より上格であり武家下僕、鳶、町家雑用人などが着用した。印半天は町人、鳶、諸工、小商人も用いた。法被は襟紐があり襟をそらして着ていた、半天は襟をそらさない。明治になって法被は滅び印半天が盛んとなったが、両者は混同され法被の名が残った{{sfn|江馬|1978|pp=47-50}}。この意味で暫の衣装を「法被」と表現する事は団十郎朝顔に関する通説以外には見いだせない。
 
== 脚注 ==
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*{{Cite journal|和書|author=伊坂梅雪|title=見たり聞いたり|year=1941|month = 7|publisher=武蔵野文化協会|journal=武蔵野|volume=28|issue=7|id={{NDLJP|7932603}}|ref={{sfnref|伊坂|1941}}}}
*{{Cite journal|和書|editor=宇治朝顏園|title=牽牛花種類|year=1900|publisher=宇治朝顏園|journal=朝顏畫報|issue=7|id={{NDLJP|1557090}}|ref={{sfnref|宇治朝顏園|1900}}}}
*{{Cite journal |和書|author=[[岡不崩]]|title=明治昭代の牽牛子 |year=1912 |publisher=穠久会 |journal=あさがほ穠久會雜誌|issue=24|id={{NCID|AN00399596}}|ref={{sfnref|岡|1912}}}}
*{{Citation |和書|editor=賀集久太郎|year=1895 |title=朝顏培養全書 正編 |publisher=平瀬種禽園|id={{NDLJP|839963}}|ref={{sfnref|賀集|1895}}}}
*{{Cite web |author=公益財団法人東京都農林水産振興財団東京都農林総合研究センター |date=2011-07 |url=https://www.tokyo-aff.or.jp/uploaded/attachment/7583.pdf |title=農総研だより第17号 |website=東京農林水産振興財団 |publisher=公益財団法人東京都農林水産振興財団東京都農林総合研究センター |accessdate=2020-11-11|ref={{sfnref|東京都農林総合研究センター|2011}}}}
*{{Cite journal|author=Eliza Ruhamah Scidmore|year=1897|month=December|publisher=|journal=The Century Magazine||title=The Wonderful Morning-Glories of Japan|volume=|issue=|url = https://www.unz.com/print/Century-1897dec-00281/|ref={{sfnref|Scidmore|1897}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[柴田宵曲]]|year=1971|title=明治風物誌|publisher=有峰書店 |id={{全国書誌番号|73002343}}|ref={{sfnref|柴田|1971}}}}
*{{Cite web |author=橋本智明 |url=http://edoyasai.sakura.ne.jp/sblo_files/edoyasai/image/3-1-131f7.pdf |title=自分史 |website=[http://edoyasai.sblo.jp/article/180649116.html 江戸野菜通信 大竹道茂の伝統野菜に関するブログ] |accessdate=2020-11-11|ref={{sfnref|橋本|2017}}}}
*{{Cite journal|和書|author=有祿生|title=朝顏の時代趣味|year=1912|month = 6|publisher=俳味社|journal=俳味|volume=3|issue=6|id={{NCID|AN10193972}}|ref={{sfnref|有祿生|1912}}}}
*{{Cite book |和書|author=渡辺好孝|year=1996 |title=江戸の変わり咲き朝顔 |publisher=平凡社|isbn=9784582515053|ref={{sfnref|渡辺|1996}}}}
*{{Cite news |和書|title=朝顔大名 |newspaper=東京朝日新聞 朝刊|date=1891-07-26|ref={{sfnref|東京朝日新聞|1891}}}}
 
===団十郎朝顔が登場する文学作品===
*{{Cite book |和書|author=[[河東碧梧桐]]|year=1992 |title=碧梧桐全句集|publisher=蝸牛社|isbn=9784876612000|ref={{sfnref|河東|1992}}}}
*{{Cite book |和書|author=[[高浜虚子|高濱虛子]]|year=1935 |title=高濱虛子全集 第十二卷 |publisher=改造社|id={{NDLJP|1260030}}|ref={{sfnref|高濱|1935}}}}
*{{Cite book|和書|author=中里昌之|year=1985|title=村上鬼城の基礎的研究|publisher=桜楓社|isbn=9784273009854|ref={{sfnref|中里|1985}}}}
*{{Cite journal |和書|author=[[正岡子規]]|title=朝顏句合|year=1898|month=10 |publisher=ホトトギス社|journal=ホトトギス|volume=2|issue=1|id={{NDLJP|7972133}}|ref={{sfnref|正岡|1898}}}}
*{{Cite book |和書|author=[[正岡子規]]|year=1975a |title=子規全集 第一卷 俳句 一|publisher=講談社| id={{全国書誌番号|75005017}}|ref={{sfnref|正岡|1975a}}}}
*{{Cite book |和書|author=[[正岡子規]]|year=1975b |title=子規全集 第二卷 俳句 二|publisher=講談社| id={{全国書誌番号|75005018}}|ref={{sfnref|正岡|1975b}}}}
*{{Cite book |和書|author=[[正岡子規]]|year=1977 |title=子規全集 第三卷 俳句 三|publisher=講談社| id={{全国書誌番号|77033059}}|ref={{sfnref|正岡|1977}}}}
*{{Cite book |和書|author=[[正岡子規]]|year=1978 |title=子規全集 第二十二卷 年譜 資料|publisher=講談社| id={{全国書誌番号|79001016}}|ref={{sfnref|正岡|1978}}}}
*{{Cite journal|和書|author=[[村上鬼城]]|title=第二年目|year=1911|month = 9|publisher=ホトトギス社|journal=ホトトギス|volume=14|issue=14|id={{NDLJP|7972301}}|ref={{sfnref|村上|1911}}}}
*{{Cite journal|和書|author=[[渡辺水巴|渡邊水巴]]|title=夏の風景 ―(明治時代も娯しかつたナと思ふ)―|year=1939|month = 8|publisher=改造社|journal=俳句研究|volume=6|issue=8|id={{NDLJP|10987958}}|ref={{sfnref|渡邊|1939}}}}
 
===朝顔全般に関する文献===
*{{Citation |和書|author=芦澤恒夫|contribution=大輪朝顔 切込み作り(無地・覆輪花)|editor=朝顔百科編集委員会|year=2012 |title=朝顔百科 |publisher=誠文堂新光社| pages = 50-61|isbn=9784416712016|ref={{sfnref|芦澤|2012}}}}
*{{Citation |和書|editor=中村長次郎|author=今井喜孝|contribution=大輪朝顔の起源|year=1961 |title=アサガオ 作り方と咲かせ方|publisher=誠文堂新光社|pages=289-304 |id={{全国書誌番号|61004907}}|ref={{sfnref|今井|1961}}}}
*{{Cite journal|和書|author=安藤安廣|author2=朝比奈柳塘|author2=安藤安廣|author3=津熊健一郎|title=大輪朝顏の代表品種|year=1937|month = 5|publisher=博友社|journal=農業世界|volume=32|issue=7|id={{NDLJP|1756741}}|ref={{sfnref|安藤|朝比奈|安藤|津熊|1937}}}}
*{{Cite book |和書|author = [[伊藤圭介]]|editor = 伊藤圭介|year=n.d. |title=植物図説雑纂 第180巻 |publisher=|id={{NDLJP|2571129}}|ref={{sfnref|伊藤|n.d.}}}}
*{{Cite journal|和書|author=[[岡不崩]]||title=「あさかほ」流行史 外編下|year=1934|publisher=春陽堂|journal=本草|volume=24|id={{NDLJP|1494370}}|ref={{sfnref|岡|1934}}}}
*{{Cite book |和書|author=[[岡不崩]]|year=1937 |title=朝顔に關する文献 |publisher=[出版者不明]|id={{NDLJP|2537559}}|ref={{sfnref|岡|1937}}}}
*{{Cite book|和書|author=岡山鳥|year=n.d.|title=江戸遊覧花暦 巻三|id={{NDLJP|2537157}}|ref={{sfnref|岡山|n.d.}}}}
*{{Cite book |和書|author=尾崎哲之助 |year=1927 |title=大輪朝顔栽培秘法 |publisher=大阪毎日新聞社|id={{NDLJP|1175499}}|ref={{sfnref|尾崎|1927}}}}
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*{{Citation |和書|author=米田芳秋|contribution=朝顔の園芸文化を中心に|editor=朝顔百科編集委員会|year=2012 |title=朝顔百科 |publisher=誠文堂新光社| pages = 12-24|isbn=9784416712016|ref={{sfnref|米田|2012}}}}
*{{Citation |和書|editor=渡辺好考|author=渡辺好考|contribution=朝顔と日本人|year=1977 |title=原色 朝顔 つくり方と鑑賞|publisher=自然の友社|pages=239-261 | id={{全国書誌番号|77024046}}|ref={{sfnref|渡辺|1977}}}}
*{{Cite book |和書|author=渡辺好考|year=1984 |title=変わり咲き朝顔|publisher=日本テレビ放送網| id={{全国書誌番号|86045420}}|ref={{sfnref|渡辺|1984}}}}
*{{Cite book |和書|editor=台東区史編纂専門委員会|year=2000a |title=台東区史 通史編II | id={{全国書誌番号|20044631}}|ref={{sfnref|台東区史編纂専門委員会|2000a}}}}
 
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===入谷の朝顔に関する文献===
*{{Cite book |和書|author=岩本熊吉|year=1941 |title=実用花卉新品種の作り方 |publisher=育生社|id={{NDLJP|1217424}}|ref={{sfnref|岩本|1941}}}}
*{{Cite journal|和書|author=[[岡不崩]]||title=入谷の朝顔|year=1931|publisher=小田原書房|journal=今昔|volume=2|issue=7|id={{NDLJP|1477402}}|ref={{sfnref|岡|1931}}}}
*{{Citation |和書|editor=環境文化研究所|year=1986|title=緑の都市文化としての入谷朝顔市|publisher=環境文化研究所| id={{全国書誌番号|88016021}}|ref={{sfnref|環境文化研究所|1986}}}}
*{{Cite journal|和書|author=藻紋字|title=入谷の名物凋む |year=1913|publisher=東陽堂|journal=風俗画報|issue=449|id={{NDLJP|1579965}}|ref={{sfnref|藻紋字|1913}}}}
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*{{Cite journal|和書|author=馬淵漁史|title=入谷の朝顏 附 和歌の浦|year=1892|publisher=東陽堂|journal=風俗画報|issue=45|id={{NDLJP|1579473}}|ref={{sfnref|馬淵|1892}}}}
*{{Citation |和書|editor=明治教育社|year=1914 |title=下谷繁昌記 |publisher=明治教育社出版部|id={{NDLJP|953793}}|ref={{sfnref|明治教育社|1914}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[森銑三]]|year=1969a|title=明治東京逸聞史 1|publisher=平凡社|isbn=9784582801354|ref={{sfnref|森|1969a}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[森銑三]]|year=1969b|title=明治東京逸聞史 2|publisher=平凡社|isbn=9784582801422|ref={{sfnref|森|1969b}}}}
*{{Cite book|和書|author=[[若月紫蘭]]|year=1968|title=東京年中行事 2|publisher=平凡社|isbn=9784582801217|ref={{sfnref|若月|1968}}}}
*{{Cite book |和書|editor=入谷中央商店街振興組合|year=1979 |title=入谷朝顔市と共に | id={{全国書誌番号|79027759}}|ref={{sfnref|入谷中央商店街振興組合|1979}}}}
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===団十郎色に関する文献===
*{{Citation|和書|author=[[大槻如電]]|contribution=江戸の風俗衣服のうつりかはり(第七談)|year=1978|title=雑誌叢書1 江戸時代文化 第四巻|publisher=ゆまに書房| id={{全国書誌番号|00033792}}|ref={{sfnref|大槻|1978}}}}
*{{Citation|和書|editor=近世文化研究会|year=1995|title=図説 浮世絵に見る色と模様|publisher=河出書房新社|isbn=9784309724973|ref={{sfnref|近世文化研究会|1995}}}}
*{{Cite book|和書|author=城一夫|year=2017|title=大江戸の色彩|publisher=青幻舎|isbn=9784861525988|ref={{sfnref|城|2017}}}}
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*{{Cite book|和書|author=長崎盛輝|year=1996|title=日本の傳統色―その色名と色調―|publisher=京都出版|isbn=9784763615053|ref={{sfnref|長崎|1996}}}}
*{{Cite book|和書|author=福田邦夫|year=2001|title=色の名前事典|publisher=主婦の友社|isbn=9784072309582|ref={{sfnref|福田|2001}}}}
*{{Citation |和書|editor=藝能史研究會|author=三升屋二三治|contribution=三升屋二三治戯場書留|year=1973|title=日本庶民文化史料集成 第六巻 歌舞伎|publisher=三一書房|pages=563-596| id={{全国書誌番号|48009466}}|ref={{sfnref|藝能史研究會|1973}}}}
 
===その他===
*{{Cite book |和書|editorauthor=[[小島憲之江馬務]]・新井栄蔵校注|year=19891978| title=古今和歌江馬務著作|series=新日本古典文学大系 第十一巻|publisher=岩波書店中央公論社|isbnid=9784002400051{{NDLJP|78009057}}|ref={{sfnref|小島|新井江馬|19891978}}}}
*{{Cite book |和書|author=[[小池章太郎]]|year=1997| title=増補改訂 考証江戸歌舞伎|publisher=三樹書房|isbn=4895222136|ref={{sfnref|小池|1997}}}}
*{{Cite book |和書|author=[[小林保治]]|author2=森田拾史朗|year=1999 |title=能・狂言図典 |publisher=小学館|isbn=4093620628|ref={{sfnref|小林|森田|1999}}}}
*{{Cite book |和書|author=[[竹内弘行]]|year=2008 |title=十八史略|series=講談社学術文庫 |publisher=講談社|isbn=9784061598997|ref={{sfnref|竹内|2008}}}}
*{{Cite book |和書|author=椎野昌宏|year=2017| title=日本園芸界のパイオニアたち|publisher=淡交社|isbn=9784473041876|ref={{sfnref|椎野|2017}}}}
*{{Cite book |和書|author=杉昌郎|year=1977 |title=邦楽入門 |series=文研の芸能鑑賞シリーズ |publisher=文研出版| id={{NDLJP|77027480}}|ref={{sfnref|杉|1977}}}}
*{{Cite book |和書|author=林秀一|year=1969 |title=十八史略(下)|series=新釈漢文大系 第21巻 |publisher=明治書院| id={{NDLJP|3002785}}|ref={{sfnref|林|1969}}}}
*{{Cite book |和書|author=毎日新聞社会部(大阪)|year=1967 |title=なにわ町人学者|publisher=所書店| id={{NDLJP|2974595}}|ref={{sfnref|毎日新聞社会部|1967}}}}
*{{Cite book|和書|editor=[[小島憲之]]・新井栄蔵校注|year=1989|title=古今和歌集|series=新日本古典文学大系|publisher=岩波書店|isbn=9784002400051|ref={{sfnref|小島|新井|1989}}}}
*{{Cite book |和書|editor=台東区史編纂専門委員会|year=2000b |title=台東区史 通史編III | id={{全国書誌番号|200446321}}|ref={{sfnref|台東区史編纂専門委員会|2000b}}}}