削除された内容 追加された内容
倭ん王 (会話 | 投稿記録)
→‎脚色: 注釈と出典の分離
倭ん王 (会話 | 投稿記録)
m 全体的に、要出典の追加。
7行目:
== 概要 ==
[[Image:Ogura Shikishi.jpg|thumb|160px|left|小倉色紙(蝉丸)]]
小倉百人一首は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期にかけて活動した[[公家]]・[[藤原定家]]が選んだ秀歌撰である。その原型は、[[鎌倉幕府]]の[[御家人]]で歌人でもある宇都宮蓮生([[宇都宮頼綱]])の求めに応じて、定家が作成した[[色紙]]である。蓮生は、[[京都]][[嵯峨野]](現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘の[[襖]]の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。定家は、[[飛鳥時代]]の[[天智天皇]]から鎌倉時代の[[順徳天皇|順徳院]]まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、[[13世紀]]の前半と推定される<ref group="注釈">定家の日記『[[明月記]]』の[[文暦]]2年5月27日([[ユリウス暦]]1235年6月14日)の条には、「古来の人の歌各一首」を書き送った旨の記述がある。ただし、この時に書き送った物が『百人一首』であったとする確証はない。</ref>。成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。{{要出典|date=2021年4月}}
 
[[室町時代]]後期に連歌師の[[宗祇]]が著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。[[江戸時代]]に入り、[[木版画]]の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。{{要出典|date=2021年4月}}
 
小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『[[百人秀歌]]』がある。百人秀歌も百人一首の形式で、100人の歌人から一首ずつ100首を選んで編まれた秀歌撰である。『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、1)「[[後鳥羽天皇|後鳥羽院]]と[[順徳天皇|順徳院]]の歌が無く、代わりに[[藤原定子|一条院皇后宮]]・[[源国信|権中納言国信]]・[[藤原長方|権中納言長方]]の歌が入っていること、2) [[源俊頼|源俊頼朝臣]]の歌が『うかりける』でなく『やまざくら』の歌であることの2点である。この『百人秀歌』は、『百人一首』の原型(原撰本)となったと考えられている。{{要出典|date=2021年4月}}
 
定家から蓮生に送られた色紙、いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は、蓮生の子孫にも一部が受け継がれた。室町時代に[[茶道]]が広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将・[[城井鎮房|宇都宮鎮房]]が[[豊臣秀吉]]配下の[[黒田長政]]に暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房が[[城井氏|豊前宇都宮氏]]に伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。{{要出典|date=2021年4月}}
 
== 『百人一首』の歌と歌人たち ==
423行目:
|[[順徳天皇|順徳院]]
|百敷('''もも'''しき)や 古(ふる)き軒端(のきば)の しのぶにも<br />猶('''なほ''')'''あ'''まりある 昔(むかし)なりけり
|}{{要出典|date=2021年4月}}
|}
<gallery mode="nolines" heights="80" widths="100" perrow="10">
ファイル:Hyakuninisshu 001.jpg
525行目:
ファイル:Hyakuninisshu 099.jpg
ファイル:Hyakuninisshu 100.jpg
</gallery>小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。男性の内訳は、[[天皇]]7名、[[親王]]1名、[[公卿]]28名(うち[[摂政]][[関白]]4名、[[征夷大将軍]]1名)、下級貴族28名、[[僧侶]]12名、詳細不明3名<ref group="注釈">柿本人麻呂、猿丸大夫、蝉丸の3名。また、僧侶の内に入っている喜撰法師も経歴・出自が一切不明である。</ref>。また女性の内訳は、天皇1名、[[内親王]]1名、女房17名、公卿の母2名となっている。{{要出典|date=2021年4月}}
 
歌の内容による内訳では、春が6首、夏が4首、秋が16首、冬が6首、離別が1首、羇旅が4首、恋が43首、雑(ぞう)が19首、雑秋(ざっしゅう)が1首である<ref>宗政五十緒著「新編小倉百人一首 日本古典のこころ」中央図書</ref>。
 
100首はいずれも『[[古今和歌集]]』『[[新古今和歌集]]』などの[[勅撰和歌集]]に収載される[[短歌]]から選ばれている。{{要出典|date=2021年4月}}
 
;万葉の歌人
:『[[万葉集]]』の時代はまだおおらかで、身分の差にこだわらずに天皇、貴族、[[防人]]、農民などあらゆる階層の者の歌が収められている。自分の心を偽らずに詠むところが特徴。有名な歌人は、[[大伴家持]]、[[山部赤人]]、[[柿本人麻呂]]など。{{要出典|date=2021年4月}}
;六歌仙の時代
:この時代になると、[[比喩]]や[[縁語]]、[[掛詞]]などの技巧をこらした繊細で、優美な歌が多く作られた。選者の[[紀貫之]]が「[[六歌仙]]」と呼んだ、[[在原業平]]や[[小野小町]]などが代表的な歌人である。{{要出典|date=2021年4月}}
;女流歌人の全盛
:[[平安時代]]の中頃、宮廷中心の貴族文化は全盛を迎える。文学の世界では、女性の活躍が目ざましく[[清少納言]]が『[[枕草子]]』、[[紫式部]]が『[[源氏物語]]』を書いた。『百人一首』にはそのほかにも、[[和泉式部]]、[[大弐三位]]、[[赤染衛門]]、[[小式部内侍]]、[[伊勢大輔]]といった宮廷の才女の歌が載っている。{{要出典|date=2021年4月}}
;隠者と武士の登場
:貴族中心の[[平安時代]]から、[[武士]]が支配する[[鎌倉時代]]へと移る激動の世情の中で、[[仏教]]を心の支えにする者が増えた。『百人一首』もそうした時代を反映し、[[西行]]や[[寂蓮]]などの[[隠者]]<!--や[[源実朝]]などの[[武士]]の歌--><!--鎌倉右大臣を「武士」とするのはいかがなものかと-->も登場する。[[藤原定家]]自身も撰者となった『[[新古今和歌集]]』の歌が中心で、色彩豊かな絵画的な歌が多く、微妙な感情を象徴的に表現している。{{要出典|date=2021年4月}}
 
== 風刺 ==
550行目:
 
=== 教材 ===
たとえば中学や高校では、[[古典]]の入門として生徒に『百人一首』を紹介し、これを暗記させることがよくある。これは、それぞれが和歌(5・7・5・7・7の31文字)なので暗唱しやすく、また、後述するように正月に遊戯として触れることも多いので、生徒にとってなじみがあるからである。また、短い和歌の中に[[掛詞]]など様々な[[修辞技法]]が用いられ、[[副詞の呼応]]などの文法の例も含まれることから、古典の入門として適した教材だと言える。{{要出典|date=2021年4月}}
 
=== かるた ===
567行目:
歌かるたが正月の風俗となったのは格別の理由がある訳ではない。元々は様々な折に子供や若者が集まって遊ぶ際、百人一首がよく用いられたことによるものである。その中でも特に正月は、子供が遅くまで起きて遊ぶことを許されていたり、わざわざ百人一首のための会を行うことが江戸後期以降しばしば見られたりしたこともあり、現在ではこれが正月の風俗として定着しているものであろう。
 
首を用いたかるたの遊び方には以下のようなものがある。{{要出典|date=2021年4月}}
 
==== 散らし取り(お散らし) ====
580行目:
*百枚目を取ったところで終了。最も多くの札を取った人が勝ちである。
*本来は読み札には上の句しか書いてなかったために、この遊び方は百人一首を覚えるうえでも、札の取り合いとしても、それなりの意味があった。現在では読み札に一首全てが書かれているため、本来の意図は見失われている。ただし大人数で同時に遊ぶためには都合の良い遊び方で、かつてのかるた会などではたいていこの方法を用いていた。
*お散らしに限らず、江戸時代までは読み手は作者の名前から順に読み上げ、上の句が終わったところで読むことを止めるのが常であったようだ。現在では作者名を省き、最後まで読んでしまう(なかなか取り手が取れない場合には下の句を繰り返す)。読み方に関しては上の句と下の句の間で、間をもたせすぎるのは良くないとされるが、本来の遊び方からすればナンセンスな問題とも言える。{{要出典|date=2021年4月}}
 
==== 逆さまかるた ====
本来の百人一首は上記である散らし取りが一般的であるが、この逆さまかるたは読み札(絵札)が取り札になり、下の句札(取り札)が読み札となるもの。このゲームの目的は「下の句を聞いて上の句を知る」ための訓練ゲームでもある。もちろん、多くの札を取った人が勝ちとなるが、取り札である読み札には[[漢字]]が混じるため視覚からくる思わぬ[[錯覚]]なども加わって、思わぬところで「お手付き」があるのもこのゲームの特徴である。{{要出典|date=2021年4月}}
 
==== 源平合戦 ====
591行目:
#散らし取り同様に読まれた首の字札を取る。この時、相手のチームの札を取った時は、自分のチームの札を一枚相手チームに渡す。これを「送り札」という。
#先に札のなくなったチームの勝ちとなる。
[[北海道]]で行われる[[下の句かるた]]大会はほとんどがこのルールであり、民間でも一般的である。{{要出典|date=2021年4月}}
 
==== リレーかるた ====
源平合戦と同じルールだが、取る人が順次交代する点で異なる。交代のタイミングは、自分のチームの札を相手に取られた時、10枚読まれた時など。{{要出典|date=2021年4月}}
 
==== 競技かるた ====
601行目:
 
=== その他 ===
首を読まず、絵柄を利用した遊びもある。{{要出典|date=2021年4月}}
 
==== 坊主めくり ====