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|遺族会=
|被害者の会=
|管轄=[[警察庁]]および[[兵庫県警察]]{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=174}}
* [[神戸地方検察庁]]{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=174}}
}}
'''古谷惣吉連続殺人事件'''(
加害者の'''古谷
古谷が[[兵庫県警察]]により[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された直後、警察庁は本事件を「'''犯行の凶悪さ・広域性では戦後最大規模の事件'''」と発表した<ref name="朝日新聞1965-12-13"/>。また、兵庫県警は『兵庫県警察史』 (1999) で、本事件を「犯人と被害者が互いに面識のない、いわゆる『[[通り魔]]事件』」と定義した上で、「'''人々を震え上がらせた連続強盗殺人事件'''」と述べている{{Sfn|兵庫県警察|1999|p=314}}。
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== 古谷惣吉 ==
{{Infobox Serial Killer
| subject_name = 古谷 惣吉<br/><small>ふるたに そうきち</small>
| image_name =
| image_size = 250px
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| place_of_birth = {{JPN}}・[[長崎県]][[上県郡]][[仁田村]]志多留267番地{{Efn2|name="志多留"|「上県郡仁田村志多留」は後の[[上県町]]志多留で、現在は「[[対馬市]]上県町志多留」。}}<ref name="読売新聞1965-12-13"/>
| date_of_death = {{死亡年月日と没年齢|1914|2|16|1985|5|31}}<ref name="死刑執行"/>
| place_of_death = {{JPN}}・
| cause of death = [[絞首刑]]
| number of victims = 10人(105号事件の8人{{Sfn|最高裁第三小法廷|1978|p=1}}+1951年の事件2人)
| beginning year = 1965年10月30日
| end year = 1965年12月12日(105号事件)
| conviction = [[強盗致死傷罪|強盗殺人罪]]・[[強盗罪]]・強盗未遂罪{{Sfn|最高裁第三小法廷|1978|p=1}}
| sentence = [[日本における死刑|死刑]] ([[神戸地方裁判所]] / 1971年4月1日)<ref name="死刑判決"/>
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| states =
}}
一連の事件の加害者である'''古谷 惣吉'''(ふるたに<ref group="注" name="読み仮名"/> そうきち<ref name="読売新聞1965-12-13一面"/><ref name="毎日新聞1965-12-13"/>、逮捕当時{{年数|1914|2|16|1965|12|12}}歳)は、[[1914年]]([[大正]]3年)2月16日
=== 古谷の生い立ち ===
志多留集落は[[対馬|対馬島]]・上島の北西部に位置し、惣吉の父親は農業と旅館業を兼業していた{{Sfn|佐木隆三|1992|p=152}}。実家は比較的裕福だったが{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=146}}、4歳のころに
惣吉が5歳の時{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=109}}、父は後妻(惣吉らの継母)と惣吉ら子供5人を家に残したまま<ref name="朝日新聞1965-12-13 大阪"/>、材木商として[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]
10歳くらいのころ、惣吉は父を慕って1人で朝鮮へ渡り、父と一緒に住むようになったが、2度目の継母との仲もうまくいかず、2年ほどして父に無断で対馬へ戻り、本籍地(志多留)で祖父母に1年足らず身を寄せた{{Efn2|『対馬新聞』は「惣吉は
=== 多数の前科 ===
対馬を離れた惣吉は、[[博多駅]]([[福岡県]][[福岡市]])付近を徘徊し、やがて土地の不良徒輩の仲間に身を投じた{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=110}}。その後、1964年に最後の服役を終え
# 古谷は16歳に達した
# 1. の服役を終えて出所後
# 2. の服役後、1935年(昭和10年
# 3. の服役後、1937年
# 1941年(昭和16年)4月11日、福岡区裁で窃盗罪により懲役6年に処され{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=110}}、
#* この事件は、1940年(昭和15年)11月 - 1941年1月にかけ、福岡市内で刑事を騙って通行人を呼び止め、「身体検査をする」と称して相手の財布から金を抜くもので、福岡警察署(現:[[中央警察署 (福岡県)|中央警察署]])の刑事だった
# 1947年(昭和22年)1月25日、神戸区裁判所で詐欺罪により懲役3年に処され
=== 福岡連続強盗殺人事件 ===
[[1951年]](昭和26年)、当時37歳だった古谷惣吉は{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=153}}、'''
* 1951年5月15日{{Efn2|事件発生日は最高裁 (1983) によれば'''5月15日'''{{Sfn|最高裁|1983|p=670}}。『西日本新聞』 (1951) は「殺害時刻は5月16日22時ごろ」と<ref name="西日本新聞1951-07-28"/>、夕刊紙『九州タイムズ』<!--『九州タイムズ』は1949年末、『朝日新聞』の夕刊発行開始に伴って廃刊になっているとの情報あり。[
* 1951年6月3日
2つの事件の現場は麦畑や、山間部の一軒家といった人通りの少ない場所だったため、目撃者はおらず、遺留品もなかった{{Sfn|週刊新潮|1965|p=124}}。
==== 共犯
2人とも事件後に逃亡したが{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=153}}、同年7月27日、坂本(当時20歳)は福岡市の事件の被疑者として、[[福岡市警察]]に逮捕された<ref name="西日本新聞1951-07-28">『西日本新聞』1951年7月28日朝刊3頁「バタ屋殺し捕る “小金欲しさ”」(西日本新聞)</ref>。その後、坂本は同月30日になって、八幡市の事件について自供した<ref name="西日本新聞1951-07-31">『西日本新聞』1951年7月31日朝刊2頁「福岡のバタ屋殺し 八幡の山小屋殺人も自供」(西日本新聞社)</ref>。坂本は、1941年に古谷を取り調べた鹿子生寛治による取り調べに対し、素直に罪を認めた一方、「ソウさん」なる共犯者の存在を主張したため、鹿子生は坂本に古谷の写真を見せ、「ソウさん=古谷」と確認を取った上で、古谷を全国[[指名手配]]したが、坂本の死刑執行より先に古谷の所在を掴むことはできなかった{{Efn2|佐木 (1992) は「坂本は取り調べに対し、『ソウさん』という共犯者の存在を主張したが、警察はほとんどその共犯者(=古谷)について追及しなかった」と{{Sfn|佐木隆三|1992|p=154}}、免田 (2004) は「坂本は裁判では何度も無罪を主張した」と述べている{{Sfn|免田栄|2004|p=91}}。}}{{Sfn|週刊新潮|1965|p=124}}。
2人とも事件後に逃亡したが、Sは古谷に先んじて逮捕・起訴された{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=153}}{{Efn2|佐木 (1992) は「Sは『ソウさんという共犯者がいる』と主張したが、警察はほとんどその共犯者(=古谷)について追及しなかった」と{{Sfn|佐木隆三|1992|p=154}}、免田 (2004) は「Sは裁判では何度も無罪を主張した」と述べている{{Sfn|免田栄|2004|p=91}}。}}。被告人Sは1951年11月7日に[[福岡地方裁判所]]で死刑判決{{Sfn|死刑事件判決総索引|1981|p=108}}{{Sfn|最高裁|1983|p=670}}<ref name="朝日新聞1951-11-07"/>(求刑:死刑)を<ref name="朝日新聞1951-11-07"/><!--Sは「早く処刑してほしい」と申し立てた<ref name="読売新聞1965-12-13"/>-->、1952年(昭和27年)4月9日に[[福岡高等裁判所]]で[[控訴]][[棄却]]の判決を受け{{Efn2|田島 (1997) で紹介されたSから支援者である同級生への手紙(1952年4月22日付)でSは「4月9日に控訴審判決があり、(結果は)原審通り死刑だった」と述べている{{Sfn|田島惠三|1997|p=60}}。その後、1952年5月1日付の手紙では「4月19日に最高裁へ上告したが、21日に取り下げた」と述べている{{Sfn|田島惠三|1997|p=75}}。}}{{Sfn|死刑事件判決総索引|1981|p=108}}{{Sfn|最高裁|1983|p=670}}、死刑が確定した{{Sfn|死刑事件判決総索引|1981|p=108}}{{Sfn|最高裁|1983|p=670}}(戦後17番目の[[少年死刑囚]]){{Sfn|最高裁|1983|p=670}}。▼
▲
死刑確定後、Sは自身への面会・差し入れをしていた満州時代の小学校同級生の影響を受け、[[キリスト教]]に深く帰依するようになった{{Efn2|Sとその同級生の交流などは『天国への凱旋門』(田島惠三・[[教文館]]より1997年1月に発行 / [[#参考文献]]を参照)で描写されている{{Sfn|佐久間哲|2005|p=176}}。同書ではS(作中では実名ではなく、イニシャル「S」と表記)からの手紙を引用して「Sは1952年6月25日に受洗した」と述べているが{{Sfn|田島惠三|1997|p=92}}、同日はSの誕生日だった{{Sfn|田島惠三|1997|p=220}}。}}{{Sfn|佐久間哲|2005|p=176}}。その一方で[[再審]]請求を検討し、[[免田事件]]の死刑囚・免田栄(後に[[冤罪]]が判明し、[[再審]]で無罪確定)に対し、再審請求の相談を持ち掛けたが、請求のための資金・支援者などを欠いていたため、処刑直前に請求を断念した{{Efn2|免田 (2004) は「Sの事件資料を読むと(有罪が)疑わしい点が多数あった。Sは明らかに冤罪だ」と述べている{{Sfn|免田栄|2004|p=92}}。}}{{Sfn|免田栄|2004|pp=91-92}}。そして1953年(昭和28年){{Efn2|Sの死刑執行日は『朝日新聞』(1955年6月16日西部夕刊)では「1953年3月28日」と報道されているほか<ref name="朝日新聞1955-06-16"/>、免田 (2004) は「1953年9月16日」{{Sfn|免田栄|2004|p=91}}、田島 (1997) は「1953年3月27日」と述べている{{Sfn|田島惠三|1997|pp=145-146}}。}}、Sは収監先・福岡刑務所に隣接していた[[藤崎 (福岡市)|藤崎]]拘置区{{Efn2|免田は「(自身を含め)最高裁で死刑が確定した被告人は死刑確定後に死刑台のある拘置支所に移監されるが、その移監先は当時の福岡刑務所に隣接する『藤崎拘置区』であった」{{Sfn|免田栄|2004|pp=64-65}}と述べているほか、当該章「刑場に消えた人々」にて福岡刑務所(当時)を「本所」と呼び{{Sfn|免田栄|2004|p=88}}、Sの死刑執行について「本所から藤崎拘置区の運動場を横切って刑場に去った」と述べている{{Sfn|免田栄|2004|p=91}}。}}で死刑を執行された{{Sfn|免田栄|2004|p=91}}。▼
▲死刑確定後、
そして1953年(昭和28年){{Efn2|坂本登の死刑執行日は、『西日本新聞』 (1955) では「一昨年(1953年)3月」<ref name="西日本新聞1955-06-16"/>、『朝日新聞』 (1955) では「1953年3月28日」と報道されている<ref name="朝日新聞1955-06-16"/>。また、免田 (2004) は「1953年9月16日」{{Sfn|免田栄|2004|p=91}}、田島 (1997) は「1953年3月27日」と述べている{{Sfn|田島惠三|1997|pp=145-146}}。}}、坂本登は収監先の福岡刑務所に隣接していた[[藤崎 (福岡市)|藤崎]]拘置区{{Efn2|免田は「(自身を含め)最高裁で死刑が確定した被告人は死刑確定後に死刑台のある拘置支所に移監されるが、その移監先は当時の福岡刑務所に隣接する『藤崎拘置区』であった」{{Sfn|免田栄|2004|pp=64-65}}と述べているほか、当該章「刑場に消えた人々」にて福岡刑務所(当時)を「本所」と呼び{{Sfn|免田栄|2004|p=88}}、坂本の死刑執行について「本所から藤崎拘置区の運動場を横切って刑場に去った」と述べている{{Sfn|免田栄|2004|p=91}}。}}で、死刑を執行された{{Sfn|免田栄|2004|p=91}}。当時、死刑囚は原則として一定期間(死刑確定から6か月)以内に死刑を執行することになっており{{Efn2|[[:b:刑事訴訟法第475条|刑事訴訟法第475条]]「1. 死刑の執行は、法務大臣の命令による。2. 前項の命令は、'''判決確定の日から6箇月以内'''にこれをしなければならない。但し、上訴権回復若しくは再審の請求、非常上告又は恩赦の出願若しくは申出がされその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であった者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。」}}、共犯者がいた場合でも、死刑執行を猶予されることはなかった{{Sfn|週刊新潮|1965|p=125}}。
==== 古谷は懲役10年に ====
一方で
事件後、古谷は長距離トラックに同乗し、[[関門トンネル (国道2号)|関門トンネル]]の非常線を抜け、[[下関市]]内でサーカスの団員となって[[山口県]]内を転々とした<ref name="朝日新聞1965-12-13夕刊"/>。さらに神戸へ行き、逮捕されるまで1、2か月周期で関西と九州を往復しつつ、[[拳銃|ピストル]]強盗などを重ねた<ref name="朝日新聞1965-12-13夕刊">『朝日新聞』1965年12月13日西部夕刊第6版第一社会面7頁「古谷 盲点ついた戦前型犯罪 超人的―歩いて出没 体力十分、新聞も読まず」(朝日新聞西部本社)</ref>。
そして同年12月19日、古谷は西宮市内の民家の郵便受けに「明日までに現金50,000円を用意しろ」と書いた脅迫状を入れ、この民家の住民から金品を脅し取ろうとした{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=195}}。しかし翌20日、現金の受け渡し場所として指定した場所で張り込んでいた兵庫県警の捜査員によって取り押さえられ{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=195}}、[[恐喝罪|恐喝未遂罪]]で{{Sfn|兵庫県警察|1999|p=312}}[[西宮市警察]]に検挙された{{Efn2|『読売新聞』は「1951年12月に兵庫県内で恐喝事件を起こして西宮署に検挙された」と<ref name="読売新聞1965-12-13"/>、『朝日新聞』は「同年12月8日、脅迫容疑で西宮署に逮捕された」とそれぞれ報道している<ref name="元教員殺し">『朝日新聞』1965年12月13日西部朝刊第16版第一社会面15頁「【京都】14年前の元教員殺しも?」(朝日新聞西部本社)</ref>。<!--池上・斎藤 (1996) は「古谷は偽名を名乗っていたが、1952年(昭和27年)3月に恐喝未遂事件を起こして[[明石警察署]](兵庫県警)に逮捕され、裁判で懲役3年が確定。1953年9月に仮釈放されるまで[[加古川刑務所]]に服役していた」と述べている{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|pp=153-154}}。-->}}{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=196}}。この時、古谷は「清水正雄」の偽名{{Efn2|『西宮市警察史』 (1954) および神戸サンケイ新聞社 (1978) 、『読売新聞』 (1965) では「清水正雄」と表記{{Sfn|西宮市警察局|1954|p=108}}{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|pp=195-196}}<ref name="読売新聞1965-12-13"/>。このほか佐木 (1992) では「清水政雄」{{Sfn|佐木隆三|1992|p=154}}、池上・斎藤 (1996) では「清水定夫」と表記されている{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=153}}。}}を用い、取り調べに対しても容疑を否認していたが、筆跡鑑定により犯行が証明された{{Sfn|西宮市警察局|1954|pp=107-108}}{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|pp=195-196}}。その後、西宮市警が[[国家地方警察]](国警)本部に指紋照会を依頼したところ、「清水」の正体は古谷惣吉(当時38歳・前科6犯)であることも判明した{{Sfn|西宮市警察局|1954|p=108}}。古谷はその後も「2, 3日前に知り合った『山口』という人物と共謀して脅迫状を郵便受けに入れたが、脅迫状は主犯の『山口』が書いた」と主張したが、各種証拠から「『山口』は架空の人物で、古谷の単独犯である』として起訴された{{Sfn|西宮市警察局|1954|p=108}}。古谷は犯行を否認し続けたことで、裁判官の心証を悪くし{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=196}}、1952年(昭和27年)2月1日に[[神戸地方裁判所]]尼崎支部で懲役3年に処され{{Efn2|兵庫県警察 (1999) は「通常ならば[[起訴猶予処分|起訴猶予]]か[[執行猶予]]の可能性が高い恐喝未遂罪でありながら、古谷の場合は複数の前科が考慮されて実刑となった」と述べている{{Sfn|兵庫県警察|1999|p=312}}。}}{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=110}}、刑務所に服役した{{Efn2|神戸サンケイ新聞社 (1978) は「古谷は(恐喝未遂罪で懲役3年の刑に処され)神戸刑務所に収容された」と{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=198}}、池上・斎藤 (1996) は「古谷は1953年(昭和28年)9月に[[加古川刑務所]]から仮釈放されたが、出所直後に[[姫路市]]内で洋服の窃盗事件を起こして逮捕され、仮釈放も取り消された」と述べている{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=154}}。}}{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=198}}{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=154}}。しかし、この事件について兵庫県警は「古谷はあえて刑務所に入ることで、強盗殺人の余罪を追及されることを免れようとした」とみなしている{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=196}}{{Sfn|兵庫県警察|1999|pp=312-313}}。▼
▲そして同年12月19日、古谷は西宮市内の民家の郵便受けに「明日までに現金50,000円を用意しろ」と書いた脅迫状を入れ、この民家の住民から金品を脅し取ろうとした{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=195}}。しかし翌20日、現金の受け渡し場所として指定した場所で、張り込んでいた兵庫県警の捜査員によって取り押さえられ{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=195}}、[[恐喝罪|恐喝未遂罪]]で{{Sfn|兵庫県警察|1999|p=312}}、[[西宮市警察]]に検挙された{{Efn2|『読売新聞』 (1965) は「1951年12月に兵庫県内で恐喝事件を起こして西宮署に検挙された」と<ref name="読売新聞1965-12-13"/>、『朝日新聞』 (1965) は「同年12月8日、脅迫容疑で西宮署に逮捕された」とそれぞれ報道している<ref name="元教員殺し">『朝日新聞』1965年12月13日西部朝刊第16版第一社会面15頁「【京都】14年前の元教員殺しも?」(朝日新聞西部本社)</ref>。<!--池上・斎藤 (1996) は「古谷は偽名を名乗っていたが、1952年(昭和27年)3月に恐喝未遂事件を起こして[[明石警察署]](兵庫県警)に逮捕され、裁判で懲役3年が確定。1953年9月に仮釈放されるまで[[加古川刑務所]]に服役していた」と述べている{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|pp=153-154}}。-->}}{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=196}}。この時、古谷は「清水正雄」の偽名{{Efn2|『読売新聞』や『[[週刊新潮]]』、『西宮市警察史』 (1954)
古谷は在監1年目の暮れ、知人に手紙を出した{{Efn2|神戸サンケイ新聞社(1976年・兵庫県警察監修)は「仮出所のために必要な身元引受人を頼むため、郷里の友人に手紙を出した」と{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=198}}、兵庫県警察 (1999) は「満期出獄を間近に控え、福岡の知人に便りをした」とそれぞれ述べている{{Sfn|兵庫県警察|1999|p=313}}。}}が、1951年の強盗殺人を捜査していた[[福岡市警察]]にそのことを把握された{{Efn2|池上・斎藤 (1996) は「指紋照会から2件の強盗殺人への関与が発覚した」と述べている{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=154}}。}}{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=198}}。このため、古谷は[[神戸刑務所]]から福岡市警へ移監され{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=198}}、1954年(昭和29年)に強盗殺人容疑で福岡県警に逮捕された{{Efn2|兵庫県警察史 (1999) は「神戸刑務所で服役していた古谷は、1954年5月に突然福岡刑務所へ移送された」と述べている{{Sfn|兵庫県警察|1999|p=312}}。一方、『朝日新聞』 (1955) は「古谷は福岡刑務所服役中の1954年4月16日、[[福岡地方検察庁|福岡地検]]に強盗殺人罪で逮捕された」と報じている<ref name="朝日新聞1955-06-16"/>。}}<ref name="朝日新聞1955-06-16"/>。この時、福岡署の留置場に勾留された古谷は、1941年に盗みで自身を逮捕した甲と再会したが、甲は「古谷は死刑か無期懲役になるだろう」と考え、古谷に好きな果実などを頻繁に差し入れていた<ref>『朝日新聞』1965年12月13日東京朝刊第12版第二社会面14頁「【福岡】逮捕の陰に老刑事 写真(モンタージュ)見て速報 前に二度も対決」([[朝日新聞東京本社]])</ref>。▼
▲古谷は在監1年目の暮れ、知人に手紙を出した{{Efn2|『週刊新潮』 (1965) は「出所を控え、郷里の対馬へ手紙を出した」と{{Sfn|週刊新潮|1965|p=124}}、神戸サンケイ新聞社
しかし、古谷は逮捕直後に同房者から、坂本が既に死刑に処されていることを聞かされたため、坂本に罪を押し付けることを思いつき、取り調べに対しては徹底的に犯行を否認{{Efn2|『朝日新聞』 (1955) は「古谷は最初から『人違いだ』と無罪を主張していた」と報道している<ref name="朝日新聞1955-06-16"/>。}}{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=323}}。坂本が「殺害実行犯は古谷」と主張していた八幡市の事件については、「自分は逃げた」と供述した{{Sfn|週刊新潮|1965|p=124}}。また、古谷の犯行を証明する証拠も不十分で、最大の証人となり得た坂本も既に死刑を執行されていたため{{Sfn|週刊新潮|1965|p=124}}、一連の犯行で古谷がどのような役割を果たしたかは解明されなかった<ref name="読売新聞1965-12-13"/>。梅田は、「古谷も強盗に入った以上、『相手の出方次第では殺す』という意思を有しており、刑事責任は坂本と同等である」という旨を主張し、古谷の[[国選弁護制度|国選弁護人]]を担当していた高良一男も、古谷の主張を聞いて「古谷は坂本の従犯ではなく、刑事責任は同等ではないか?」という疑念を抱いていた{{Sfn|週刊新潮|1965|pp=124-125}}。福岡地検の検事16人が、古谷への求刑を行うにあたり、合議を行ったところ、「死刑を求刑すべき」という意見が圧倒的だったが、全員一致ではなかった(死刑は全員一致でないと求刑できなかった)ため、やむを得ず無期懲役を求刑することとなった{{Sfn|週刊新潮|1965|p=125}}。
古谷は同事件について、後に105号事件で逮捕されて取り調べを受けた際に'''「主犯は自分で、Sは見ていただけだ」と告白'''した{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=323}}。その上で、被害者2人を絞殺した手段も105号事件と同一である旨を述べたほか、「捜査機関や裁判所のミスを公表してやる。新聞記者に面会させろ』とも要求したが、当時の主任検事はこの件について記者会見を認めず、主犯とされたS本人も既に死亡していたため、再捜査はされなかった{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=324}}。▼
福岡地裁第3刑事部{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=127}}(佐藤秀裁判長){{Sfn|週刊新潮|1965|p=125}}は、11回の公判(審理期間は約1年)を経て、1955年(昭和30年)6月16日、古谷に懲役10年(求刑:無期懲役)の判決を言い渡した<ref name="西日本新聞1955-06-16">『西日本新聞』1955年6月16日夕刊第7版第一社会面3頁「バタヤ殺しに10年 共犯は死刑・否認のまま判決」(西日本新聞社)</ref>。同地裁は、古谷と坂本の交友関係から、古谷の無罪主張を退け、福岡市の事件については坂本との共謀を認定し、強盗殺人罪を適用したが、両事件で「主犯」とされた坂本が既に死刑を執行されていたため、古谷関与の確証が得られなかった八幡市の事件については、「[[疑わしきは罰せず]]」の鉄則から、窃盗罪を認定した{{Efn2|判決宣告時、福岡地裁(佐藤裁判長)は判決理由で「坂本が処刑されたことは結果的に非常に遺憾だが、法執行の経過から見てやむを得ないことだった」「古谷の犯行を立証する証拠が不十分であるため、法律の原則により古谷に有利に判断すべき」と述べた<ref name="朝日新聞1955-06-16">『朝日新聞』1955年6月16日西部夕刊第5版3頁「バタ屋殺し判決 無期求刑から懲役10年 主犯死刑で確証なし」(朝日新聞西部本社)</ref>。佐藤は105号事件の解決後、「古谷の裁判の過程で坂本がいないため、完全な事実を突き止められなかったのが心残りではあったが、このような(被告人にとって不利益な事情を裏付ける証拠がない)場合、裁判の原則としては、被告人に不利益に認定することはできないという事情もあって、十年の刑にしたわけだ」と述べている{{Sfn|週刊新潮|1965|p=125}}。}}<ref name="西日本新聞1955-06-16"/>。その後、同判決は1956年(昭和31年)3月4日に確定した{{Efn2|福岡高裁刑事三部判決(1955年10月27日){{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=127}}、最高裁第二小法廷決定(1956年2月3日:上告棄却)<!--『刑事裁判資料』 (1981) では「判決」と誤記されている{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=127}}--><ref>{{Cite journal|和書|journal=最高裁判所刑事裁判書総目次 昭和31年2月分|title=刑事決定(1) (昭和31年)2月3日 第二小法廷 昭和30年(あ)第3369号 強盗殺人、窃盗 古谷惣吉|page=8|publisher=[[最高裁判所事務総局]]}} - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)第112号(昭和31年1月 - 3月)の付録。{{NDLJP|1349141/506}}・{{国立国会図書館書誌ID|000001203693}}</ref>による。}}{{Sfn|更生保護|1966|p=41}}{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=113}}。
▲古谷は同事件について、後に105号事件で逮捕されて取り調べを受けた際に'''「主犯は自分で、
== 警察庁広域重要指定105号事件 ==
=== 仮釈放まで ===
刑確定後、古谷はまず福岡刑務所に収監され{{Efn2|免田 (2004) は「坂本の死刑執行後、本所(福岡刑務所)に『坂本が全部(罪を)負ってくれたから助かった』と言っていた者がいたが、その人物が古屋(古谷)だった」と述べている{{Sfn|免田栄|2004|p=92}}。}}、後に長期刑受刑者を収監する[[熊本刑務所]]へ移監された{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=127}}。刑期は1965年6月までで<ref name="すぐに腕力"/>、古谷は服役中、1958年(昭和33年)に同囚を殴打したことで軽屏禁10日に処され、1960年(昭和35年)には喧嘩をして叱責を受けたが、その後は4年間反則はなく、1963年(昭和38年)には処遇の最高段階である1級{{Efn2|「模範囚に次ぐ一級囚」とする報道もある<ref name="朝日新聞1965-12-13夕刊"/>。}}になった{{Sfn|更生保護|1966|p=41}}。同年7月、熊本刑務所長から九州[[地方更生保護委員会]]へ、古谷の仮釈放について第1回の申請がなされたが、この時は、「犯行、前歴、社会感情、帰住環境等綜合検討して仮釈放は時期尚早で適当でない」として棄却された{{Sfn|更生保護|1966|p=41}}。
翌[[1964年]](昭和39年)、2度目の仮釈放申請がなされ、九州地方委員会は同年9月1日付の決定で、「社会内処遇に移して順次その社会適応性をはかっていくことの必要性が認められ、[[保護観察]]に付することが本人の改善に役立つ」として、仮釈放を許可した{{Sfn|更生保護|1966|p=41}}。このため、古谷は刑期を1年残し{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=154}}、[[1964年]](昭和39年)11月9日に仮釈放された{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=127}}(当時{{年数|1914|2|16|1964|11|9}}歳){{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=154}}。仮釈放に当たり、「厳に酒を慎み、禁酒するように努力すること」「夜遊びや盛り場に出入りしないこと」「仕事に就いたら辛抱強く続けて働くこと」「保護会の規則や職員の指示をよく守ること」などの特別遵守事項がつけられた{{Sfn|更生保護|1966|pp=41-42}}。保護観察期間は当初、1965年6月10日までとされていた{{Sfn|更生保護|1966|p=42}}。
=== 連続殺人 ===
古谷は熊本刑務所を仮出所すると、更生保護会「熊本自営会」([[熊本県]][[熊本市]])で土木作業に携わるようになった<ref name="読売新聞1965-12-13"/>。惣吉の父親や、彼と同居していた甥夫婦は惣吉への感情が極めて悪く、姉婿も身元を引き受ける意思がなかったため、熊本自営会がその身元を引き受けることになったのである{{Sfn|更生保護|1966|p=41}}。古谷は熊本自営会に帰住した際、「二度と(刑務所に)入所するようなことはしない」との決意を示し、将来の職業として「経験のある溶接か洋裁をしたいが、土工でもなんでもして働きたい」という意欲を示していた{{Sfn|更生保護|1966|p=42}}。
熊本自営会にいた当時、古谷はあまり外泊せず、門限を守り、新聞をよく読んで身だしなみに気を使うなど、真面目に生活していた<ref>『読売新聞』1965年12月13日東京朝刊第二社会面14頁「前科八犯、冷酷な“古谷”案外よい身だしなみ」(読売新聞東京本社)</ref>。このころ、古谷は雑記帳に以下のような手記を書いている。
{{Quotation|「人を殺したと云う事は悪いかも知れぬ。併し殺さねばならぬという必然の上に立った行動にはいささかも悔ゆる処は無いのである。如何に前科を重ねた凶悪な囚人でも、ものに感じる気持は人一倍持っている。私は今日の刑ム官に牢番や番犬になってもらいたく無い」|古谷惣吉「罪の是非」|{{Sfn|週刊サンケイ|1966|p=19}}}}
また、古谷はこのころ、「旅愁」と題した詩で「旅人よ、何をそんなに急ぐんだ。明日への希望を持て」などと歌っていた{{Efn2|池上・斎藤 (1996) は「古谷に人間らしい心があったとするなら、その安らぎは故郷・対馬を思うときだったろう。自営会の世話になっていたときは、少しは心の安らぎもあったはずだ。『旅愁』の詩に出てくる『旅人』は、犯罪を繰り返して社会を流離っていた古谷自身を指していただろう」と考察している{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=178}}。}}{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=178}}。一方、古谷は日記に「天狗の鼻をへし折ってみたい」という反権力主義を吐露した文章や{{Sfn|石田郁夫|1979|p=98}}、「人間の刺身を喰いたい」という一文も記していたが、事件後にはマスコミによって「イダ天殺人魔」「連続殺人に狂う」「まれにみる逃走の名人」などといった論調で取り上げられることはあっても、後者の言葉が取り上げられることはなかった{{Sfn|石田郁夫|1971|p=198}}。石田郁夫 (1979) は、後者の言葉について「これらの片言隻句から、彼の残忍性、冷血、凶暴をあかし立てるものたちもいるわけだが、うっぷんを紙の上に晴らして自制していたにすぎまい。」と述べている{{Sfn|石田郁夫|1979|p=98}}。
同年11月12日、古谷は保護観察所長に対し、「本籍地の父親(実際は同年2月4日に死去していた)を見舞いたい」と旅行許可を求めた{{Sfn|更生保護|1966|p=42}}。保護観察所長は、古谷が長期間在監生活を送っていたことや、父親が高齢であること{{Efn2|当時、地方委員会、保護観察所とも、古谷の父親が死去していた事実は把握していなかった{{Sfn|更生保護|1966|p=43}}。古谷は旅行後の同年12月8日、保護観察所へ出頭した際、旅行の報告で、「父に会ったが元気だった」と述べている{{Sfn|更生保護|1966|p=43}}。}}、また12月から就職するよう斡旋していた事情から、20日間の旅行を許可{{Sfn|更生保護|1966|p=42}}。古谷は予定通り、同年11月29日に旅行から帰ってきたが、その旅行中の11月17日には{{Sfn|更生保護|1966|pp=42-43}}、鳥取県米子市で廃品回収業者が殺害される事件(古谷の関与が疑われたが、立件されなかった。[[#その他嫌疑を受けた未解決事件|後述]])が発生している{{Sfn|更生保護|1966|p=44}}。
同年12月1日、古谷は熊本市内の水道配管工事に従事し、更生保護委員会から通勤するようになった{{Sfn|更生保護|1966|p=43}}。1965年1月8日には、保護観察所の主任官との面接で、本人の希望もあって雇主の家への住み込みが認められ、同年2月20日には担当の[[保護司]]が、熊本自営会の主幹(仮出所直後からの担当者)から別の人物に交代している{{Sfn|更生保護|1966|p=43}}。しかし、古谷は同月28日、雇主との喧嘩がきっかけで、雇主への暴力沙汰を起こした{{Efn2|『朝日新聞』 (1965) は「2月28日に雇主と喧嘩し、暴力事件を起こして辞めた。その後、3月末に熊本市内の友人宅で一泊し5月に行方をくらました」と<ref name="五月まで熊本">『朝日新聞』1965年12月13日西部朝刊第16版第一総合面1頁「連続殺人 容疑者古谷 西宮で逮捕 【熊本】五月まで熊本にいた古谷」(朝日新聞西部本社)</ref>、『毎日新聞』 (1965) は「2月28日に雇主の首を絞めて意識不明にさせる事件を起こしたが、5月までは雇主の下で暮らしていた」と報道している<ref name="すぐに腕力">『毎日新聞』1965年12月13日東京朝刊第13版第二社会面14頁「【福岡】犯人の『古谷』 凶暴、すぐに腕力 14年前にも二人を殺す」「【福岡、熊本、対馬】犯行…服役…出所くりかえす」(毎日新聞東京本社) - 『毎日新聞』縮刷版 1965年(昭和40年)12月号330頁</ref>。また、神戸サンケイ新聞社 (1976) は「古谷は勤労の尊さを説く知人を殴りつけ、熊本から姿を消して逃避行に出た」と述べている{{Sfn|神戸サンケイ新聞社|1978|p=198}}。}}{{Sfn|更生保護|1966|p=43}}。この時は雇主の配慮もあって、当事者間で解決され、担当の保護司も保護観察所への報告を見送っていたが、古谷はこの事件がきっかけで水道配管工を退職し、3月・4月は適職がなかったため、更生保護会の庭園工事の手伝いをしていた{{Sfn|更生保護|1966|p=43}}。また、配管工を辞めてから前後8回にわたり、元雇主の仕事現場に現れて脅迫し、20,000円を脅し取る事件を起こしているが、この事実は逮捕後に元雇主が保護観察所へ報告するまで明るみにならなかった{{Sfn|更生保護|1966|p=43}}。
古谷は同年5月1日、熊本自営会の主幹から小遣いとして2,000円を借りたが{{Efn2|『朝日新聞』 (1965) は「古谷は同月3日、自営会の代表に『神戸に行く』と言って2,000円を借りた」と報じている<ref name="五月まで熊本"/>。}}、4日まで無断外泊したまま帰らなかった{{Sfn|更生保護|1966|p=43}}。同月5日朝、いったん熊本自営会に帰ってきたが、それ以降は行方不明になり、同月27日には担当者から主任官に対し、その旨が報告される{{Efn2|古谷が所在不明になって以降も、担当者は20日以上にわたって報告を見合わせていたが、これは古谷の所持品が自営会に預けられたままだったことや、以前期限付きで父の下への旅行を許可した際には予定通り20日で帰ってきたことから、「今回もその時分には帰るだろう」と考えていたためだった{{Sfn|更生保護|1966|p=44}}。}}{{Sfn|更生保護|1966|pp=43-44}}。このため、翌28日には熊本保護観察所長が、長崎保護観察所長宛に地古谷の所在調査を依頼したが、同所長は29日、「古谷は父方(本籍地)に居住しておらず、立ち寄った形跡もない」と報告した{{Sfn|更生保護|1966|p=44}}。そのため、熊本保護観察所長は同日、九州地方委員会に対し、所在不明による保護観察停止の申請手続を行い、同年6月1日、九州地方委員会は保護観察を停止することを決定した{{Sfn|更生保護|1966|p=44}}。同月6日、同決定の効力が発生したことで保護観察は停止され、残り刑期の進行も停止したが、最終的には本人が一連の事件で逮捕され、所在が判明したことを受け、同年12月18日に近畿地方委員会が保護観察停止の解除を決定し、刑期満了日は同年12月22日に変更された{{Sfn|更生保護|1966|p=44}}。同日、熊本保護観察所長からの申請を受け、九州地方委員会は古谷の仮出獄を取り消すことを決定した{{Sfn|更生保護|1966|p=44}}。
一連の事件の共通点としては以下のような点が見い出されている。
204 ⟶ 231行目:
|事件直後に現行犯逮捕(後述)。
|}
# X事件 - バラック<ref group="注" name="X事件現場"/>を訪れ{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=145}}、警察官を装って所持する金品について尋問をしたりしながら{{Efn2|池上・斎藤 (1996) は「古谷は刑事を詐称し、被害者Xを尋問口調でいろいろと質した。Xはその口車に乗せられ、銀行の預金証書などを見せた直後に首を絞められた」と述べている{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|pp=145-146}}。}}、その場にあったタオルでXの首を絞め、失神させて金品を奪った{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=111}}。X事件の翌日(8月20日)、古谷はXから奪った証書を換金して得た現金58万円{{Efn2|name="X事件預金"|X事件後、古谷は福岡銀行比恵支店で被害者Xの(残高10万円のうち)8万円を、日本興業銀行福岡支店から(残高58万円のうち)40万円をそれぞれ引き出した<ref>『朝日新聞』1966年1月14日東京夕刊第3版第一社会面7頁「【福岡】福岡でも強盗 古谷自供」([[朝日新聞東京本社]])</ref>。}}を手に故郷・対馬へ帰郷し{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=146}}、8月22日 - 26日まで対馬に滞在{{Efn2|明石は斎藤の取材に対し「惣吉は連続殺人を起こす前の8月に対馬に帰ったが、結果的にそれが最後の帰省だった。姉の家に3泊し、実家に2泊してから内地に帰った」と述べている{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=150}}。}}{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|pp=155-156}}。その後、東は[[伊豆半島]]から西は四国まで([[裏日本|日本海側]]も含めて)無目的な観光旅行を続けた{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|pp=155-156}}。
# 垂水事件 - 各地を旅行し、所持金が尽きたところでAの小屋を訪れ{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=157}}、「泊めてくれ」と頼んだが、「泊まりたければ旅館か警察に行け」と断られ{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=169}}、Aを殺害して金品を奪うことを決意{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=111}}。やにわに拳でAの鳩尾を殴りつけてうつぶせに押さえつけ、右腕で首を絞め上げ{{Efn2|古谷は逮捕後、取り調べで「Aの両手を近くにあったロープで縛り上げ、その紐でAの首をぐるぐる巻きにして後ろから締め付けたところ、Aが窒息死した」と述べている{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=169}}。}}、小屋にあった紐(昭和42年押第235号の25)でAの首を絞めて窒息死させ{{Efn2|古谷はAを絞殺した後、Aの死体に布団を2,3枚被せた{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=169}}。}}、金品を奪った{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=111}}。またAが調理していたうどんをその場で食べ、外から施錠して逃走した{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=169}}。その後、[[舞子 (神戸市)|舞子]]の海岸の建物で泊まり、翌日(10月31日)朝5時ごろに起き{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=149}}、垂水を発って東方へ歩き、同日21時ごろに[[大山崎町|山崎]]で一泊した{{Efn2|name="高槻山崎"|古谷は弁護人主張の供述調書で「被害者Aを殺害してから舞子の海岸の建物で止まり、翌朝5時ごろ起きて徒歩で[[神戸市|神戸]]・[[芦屋市|芦屋]]・[[西宮市|西宮]]・旧伊丹街道および[[高槻市|高槻]]を経由し、山崎街道を歩いているうち、21時ごろに鉄橋付近の無人小屋で寝た」と述べた{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=149}}。弁護人は控訴審で「垂水 - 山崎間は約68 kmあり、歩行速度を毎時約4 kmとすると17時間を要するため、食事・休憩時間を入れれば朝5時に垂水を出て歩いても、21時に山崎に着くことは不可能」と主張したが、大阪高裁 (1974) は「出発・到着時間はおおよその者で、途中で乗り物を利用した可能性も完全には否定できないが、古谷は自らも認めるように従来より各地を広く歩き回るなど、健脚で地理にも明るい。また経路からして平地の一般道路を歩行するため、古谷は平均的歩行者の速度よりも多少足早に歩行することができるため、夜に高槻と山崎の間の地点まで達することは全く不可能ではない」と結論付けた{{Sfn|刑事裁判資料|1981|pp=148-149}}。}}{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=148}}。
# 大津事件 - Bを殺害して金品を強取するため、やにわにBの右腕を逆手にとって後方にねじ上げ、小屋にあった紐(昭和42年押第235号の28)でBの両手首を後ろ手に縛り上げた{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=111}}。そして自身の右上でBの首を絞めて失神させ、小屋にあったタオル(昭和42年押第235の27)で首を絞めて殺害し金品を奪った{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=111}}。当時は現金がほとんどなかったため、B宅を素手でかなり物色したが、これが原因で指紋を現場に6個{{Efn2|大津事件の現場にあった指紋は左手中指・薬指の連続指紋、および左手人差し指の指紋の3個<ref name="モンタージュ"/>。}}残し、うち砂糖壺に残された指紋が身柄特定のきっかけになった{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=160}}。
# Y事件 - 橋の下で掘立小屋に1人で住んでいた男性Yに{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=161}}刃渡り約30 cmの刺身包丁を突き付け、所携のネクタイ(昭和42年押第235号の1)でYの両手首を縛り上げ、抵抗を抑圧{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=112}}。その上でYの上着・ズボンのポケット内を物色したが、偶然Y宅を訪れた男性ら2人に発見されたため金品を奪えず{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=112}}、そのまま逃走した{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=161}}。
# 福岡事件 - 男性C宅(海岸に面する松林の中に建っていた一軒家){{Efn2|name="福岡事件"|福岡事件(C事件)の現場は、X事件(8月19日)の現場から直線距離約5 [[キロメートル|km]]の場所で、被害者男性Cは家族3人で生活していた{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=161}}。}}に侵入し{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=161}}、Cを殺害して金品を強取しようと決意{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=112}}。Cに刺身包丁(刃渡り約30 cm)を擬して取っ組み合いとなったが、包丁で左前胸部・右腋窩部などを突き刺して失血死させ、金品を奪った{{Efn2|被害者Cの死因は右心室刺通による外傷性失血死{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=112}}。}}{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=112}}。そして、この時まで古谷は垂水事件で被害者Aから奪ったズボンを穿いていたが、このズボンのほころびに気付いたために脱ぎ捨て{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=159}}、Cから奪ったズボンと穿き替えた{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=159}}。本事件でも遺留品(給料袋)に古谷の指紋が残されていた<ref name="朝日新聞1965-12-12"/>。唯一家族居住の被害者だったが、妻子の留守中の犯行
#* 事件前、被害者C宅やその周辺([[西鉄新宮駅]]など)で40歳代 - 50歳代の不審な男(地下足袋姿)が複数の近隣住民に目撃されていた{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|pp=308-309}}。事件の約2日前には、C宅を「営林署の岡」と名乗る40歳前後の男が訪れ、在宅していたCに対し「付近で松を盗伐する者がいる」と言っていたが、当時の福岡営林署に「岡」という職員はおらず、同署職員が現場付近を巡回した事実もなかった{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|pp=308-309}}。
#* 11月末には、古谷の身元引受人を担当していた「熊本自営会」の会主男性宛に、福岡県[[大牟田市]]内在住の女性から「9月末に[[香川県]]の[[琴平山]]を旅行した際に古谷さんから親切にしていただきました」という礼状に加え、古谷が女性とその同僚2人とともに4人で映った記念写真が届いたため、[[福岡県警察|福岡県警]]特捜本部がこの女性から当時の古谷の行動について事情聴取した<ref>『読売新聞』1965年12月13日東京朝刊第二社会面14頁「前科八犯、冷酷な“古谷”九月、四国に現われる」(読売新聞東京本社)</ref>。
# 伏見事件(D事件・E事件) - 京都市伏見区内([[鴨川 (淀川水系)|鴨川]]の河畔)で相次いで発生{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=162}}。
## D事件 - 小屋の中でやにわにDの胸部・鳩尾を拳で強打し、Dが後方へ転倒したところ、両手を逆手に取って後方にねじ上げた{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=112}}。そして小屋にあった電気コード(昭和42年押第235号の29)でDの首を絞めて窒息死させ、金品を強取{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=112}}。Dのバラックを施錠した上で堤防を上り、やや東方を走る[[京阪国道]]([[国道1号]])を500 mほど下った工事現場の小屋の中で就寝した{{Sfn|福田洋|1980|pp=204-205}}。同事件翌日(12月4日){{Efn2|同日、古谷は[[京阪本線]]の沿線([[伏見稲荷駅|稲荷駅]] - [[東福寺駅]]のほぼ中間)で建設中だった2階建ての家の中(京都市[[東山区]]本町17丁目319番地)で就寝した{{Sfn|福田洋|1980|pp=205-206}}。}}、古谷はDから奪ったジャンパーと、福岡事件で被害者Cから奪ったトランジスタラジオ・腕時計を第三者{{Efn2|[[福田洋 (作家)|福田洋]] (1980) はその人物について「鴨川上流の橋の下に住んでいた拾い屋」と述べている{{Sfn|福田洋|1980|p=205}}。}}に売却した{{Sfn|刑事裁判資料|1981|pp=141-142}}。
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# 高槻事件 - 伏見事件2件の直後{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=167}}、[[大阪府]][[高槻市]]へ移動{{Sfn|福田洋|1980|p=148}}。Fの小屋で格闘の末、拳でFの鳩尾を強打して転倒させ、馬乗りになって右手で首を絞めて失神させ、小屋にあったシャツ(昭和42年押第235号の41)の袖で首を絞めて窒息死させた{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=113}}。犯行後、壁にかかっていた上着・ズボンなどを物色したが、目ぼしいものを発見できず、何も持ち去らず逃走{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=153}}。またこの時、現場にそれまで持ち歩いていた青写真の設計図{{Efn2|D事件後に寝泊まりした工事現場の小屋にあったもの{{Sfn|福田洋|1980|p=205}}。}}を遺留している{{Sfn|福田洋|1980|p=205}}。
# 西宮事件 - 金品を強取するため、同じ小屋の中で寝ていた2人(被害者G・被害者H)の頭部をいきなりハンマー(昭和42年押第235号の30)で滅多打ちにし、脳挫傷により死亡させた{{Efn2|name="西宮事件"|被害者Hは搬送先の付近の病院で間もなく死亡し、被害者Gも13日3時55分に死亡<ref name="朝日新聞1965-12-13"/>。司法解剖により2人の遺体には多数の傷が確認され、男性Hの遺体は肋骨6本が折れていた<ref name="朝日新聞1965-12-14"/>。古谷は「小屋に『飯をくれ』と入ったら、2人(GとH)に『泥棒』と叫ばれたのでカッとなって殴った」と供述したが、[[司法解剖]]・現場検証の結果、就寝中の2人を突然金槌で殴り殺したことが判明している<ref name="朝日新聞1965-12-14">『朝日新聞』1965年12月14日西部朝刊第16版第一社会面15頁「【西宮】西宮の殺人 なぐって踏殺す? 解剖結果 古谷、就寝中襲う」(朝日新聞西部本社)</ref>。}}{{Sfn|刑事裁判資料|1981|p=113}}。
一連の事件のさなか、古谷は新聞・ラジオの報道に気を配ることも、旅館に宿泊することもなく、長距離を徒歩で移動していたが、この行動故に[[急行列車]]・旅館などを対象とした警察の一斉検索にはかからず、
=== 広域事件に指定 ===
福岡事件の遺留品となったズボンには、神戸市垂水区内の
しかし同年11月29日、県警捜査員が[[垂水警察署]](兵庫県警)の署員{{Efn2|後に被害者と判明する男性Aのズボンが福岡事件の現場で発見されたことから、兵庫県警は福岡県警から応援を求められていた{{Sfn|兵庫県警察|1999|p=313}}。}}とともに
そのような中で、警察庁から新たに類似事件として大津事件に関する報告が入り、3事件には「民家を離れた1人暮らしの老人が殺され、死体には布団が被せられていた」「現場の遺留品(たばこの吸い殻など)からA型の血液型が検出された」という共通点が判明した{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|pp=311-312}}。このため、12月1日には兵庫・[[滋賀県警察|滋賀]]・福岡の3県警が神戸市内で初の合同捜査会議を開き、バラックや掘立小屋に住む老人に対する捜査を行うことが決められた{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=312}}。その翌日(12月2日)、Y事件(強盗未遂事件)に関して被害者Yと、犯行を目撃していたYの知人2人からの目撃証言が入り、これを得た{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=312}}福岡県警の捜査本部は犯人の[[フォトモンタージュ|モンタージュ写真]]を作成した<ref name="モンタージュ">『毎日新聞』1965年12月13日東京朝刊第13版第一社会面15頁「【福岡、滋賀】 モンタージュが手掛り」(毎日新聞東京本社)</ref>一方、警察庁は同月9日に垂水・福岡の両事件を同一犯による連続殺人事件と断定し<!--9日当時は大津事件まで古谷の犯行とは断定されていなかった{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=313}}。-->{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=313}}、「広域重要105号事件」に指定した{{Efn2|また同日、[[近畿管区警察局]]も兵庫・滋賀の両県で発生した事件(垂水事件・大津事件)を重点事件として指定した{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=162}}。}}<ref>『朝日新聞』1965年12月10日大阪朝刊第15版第一社会面15頁「【神戸・大津】難航の連続殺人捜査 三県警 関連性追及に全力」(朝日新聞大阪本社)</ref>。それまでの広域重要指定事件4件(101 - 104号)はいずれも多額窃盗事件であり、殺人事件の広域指定は初めてだった{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=313}}{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=143}}。
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== 事件解決 ==
=== 指名手配 ===
モンタージュ写真は同月7日にほぼ完成し、翌8日には報道機関にも配布されたが、1941年の窃盗事件や、1951年の連続強盗殺人事件
一方、京都市伏見区内でも新たに同様の強盗殺人2件が発覚したため、両事件も広域105号事件と関連して捜査された{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=314}}。福岡県警がモンタージュ写真から割り出された古谷の指紋と、大津事件の現場から採取されていた指紋を照合したところ、2つの指紋が合致した{{Efn2|『朝日新聞』 (1965) では「福岡事件・大津事件それぞれの現場に遺留されていた指紋が古谷と合致した。特に、前者は完全に合致していた」と報道しているが、夕刊フクニチ新聞社 (1976) は「福岡事件では満足な遺留指紋がなく、先に他県の分を割り出して指紋照合を行った」と述べている{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=314}}。}}{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=314}}。さらに、伏見区内で発生したE事件の現場遺留品から採取された指紋も古谷と合致した<ref name="神戸新聞1965-12-13"/>ため、警察庁は「古谷が105号事件の犯人である可能性が高い」と断定した{{Sfn|福田洋|1999|p=28}}。
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米子事件は一連の連続殺人と同じく、「堤防の掘立小屋に住む独居男性が被害者である点」「凶器の草刈り鎌が福岡事件の際に用いられた凶器(刺身包丁)と類似している点」「初動捜査時の聞き込みの結果、近隣住民が犯行当日に古谷と似た人相の男を目撃している点」といった共通点が見いだされた{{Sfn|福田洋|1980|p=152}}。加えて事件発生日前後(11月12日 - 29日)の古谷の行動は不明瞭で、古谷がいた熊本自営会の押し入れから兵庫県警がズボン(米子事件の被害者と同じ姓が書かれていた)が入っていたこともあり、鳥取県警は古谷に強く嫌疑を掛けた{{Sfn|福田洋|1980|pp=152-153}}。
また、北大路事件も「人目のない橋の下が現場」「被害者の両手を緊縛して絞殺し、(遺体の上に)多量の俵を積んだ残忍性」「被害者の職業がバタ屋(廃品回収業)である点」と、これまでに古谷の犯行と断定された事件と類似していた{{Sfn|福田洋|1980|p=155}}。加えて古谷は当時、5月 - 6月に福岡県内で
== 刑事裁判 ==
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それ以来、公判は[[論告]][[求刑]]までに計26回開かれたが、古谷は警察の捜査・公判廷を通じて自身に不利な点を追及されると、わめくなどして手こずらせた<ref name="死刑求刑"/>。特に第7回公判以降は<ref name="死刑判決"/>、西宮事件(GおよびHの殺害)以外の罪状を全面的に否認し、「残りの事件は自分と一緒にいた“岡”という男が真犯人だ」{{Efn2|佐久間 (2005) によれば、古谷は否認した殺人6件のうち4件について、「“岡”の単独犯、もしくは“岡”と第三者らによる複数犯だ」「自分が被害者の小屋に行った際、すでに被害者は死亡していた」「小屋に行ったことはあるが、何も知らない」と供述した{{Sfn|佐久間哲|2005|pp=175-176}}。}}{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=324}}「自供は“岡”をかばうため、刑事の誘導のまま認めたもので、(捜査段階における供述は)真実ではない」と述べ、無罪を主張した<ref name="死刑判決"/>。また、唯一事実として認めた西宮事件も「金を奪うつもりはなく、食事と宿を借りるために立ち寄ったが、(被害者たちから)断られたために殺した」と主張し、強盗目的を否認<ref name="死刑判決"/>。弁護人も、「強盗殺人ではなく傷害致死にとどまる。供述調書にも信用性がなく、有罪とする証拠も不十分だ」と主張したが、これらの主張はいずれも採用されず、神戸地裁から「現場の遺留品、被害者の鑑定結果から、(古谷が被害者たちを強盗目的で殺害したことは)十分証明できる」と認定した{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=325}}。
古谷はそれ以外にも、裁判官の忌避・弁護人の解任を申し立てたり、収監先・神戸拘置所で「好物のうどんを食べさせてもらえない」と絶食を始めるなど、裁判闘争を行ったが、これらの行動が公判日程に影響することはなかった{{Sfn|池上正樹|斎藤充功|1996|p=175}}。一方、無償で古谷の私選弁護人を引き受けていた小田良英は、第一審公判途中の1969年(昭和44年)春に弁護人を辞任した
==== 死刑求刑・死刑判決 ====
[[1971年]](昭和46年)2月16日{{Efn2|同日は古谷の57歳の誕生日だった{{Sfn|福田洋|1980|p=217}}。}}に神戸地裁(中川幹郎裁判長)にて論告求刑公判が開かれ、神戸地検の中村恵検事は被告人・古谷惣吉に死刑を求刑した<ref name="死刑求刑">『読売新聞』1971年2月16日東京夕刊第4版第二社会面8頁「【神戸】“連続殺人魔”古谷に死刑求刑」(読売新聞東京本社)</ref>。論告の要旨は以下の通り。
* 「物的証拠の数々から古谷が一連の連続殺人事件の犯人であることは間違いなく、調書は古谷自身が点検して1枚ずつ拇印を押しており信憑性がある」<ref name="死刑求刑"/>
* 「古谷が真犯人と主張する“岡”という人物は、以前心服していた福岡県警の巡査の名前を借りた架空の人物で実在しない<ref name="死刑求刑"/>。古谷はかつて
* 「幼少期に母親と死別して継母にいじめられるなど不幸な家庭に育ったことは同情できるが、8人もの命を奪った凶行への情状酌量にはならない。尊い多数の人命を虫けらのように奪った稀に見る凶悪犯罪で、[[死刑存廃問題|死刑廃止論者]]でもこの求刑には異議を申し立てないだろう」<ref name="死刑求刑"/>
事件当時、兵庫県警の刑事として古谷を取り調べ<ref name="週ベ1970-08-31"/>、「罪は償うべきだ」と説得して自供させた沼本{{Efn2|後に[[阪神タイガース]]独身選手寮「虎風荘」の寮長を務めた沼本喜久雄(ぬまもと きくお)<ref>{{Cite book|和書|title=人名よみかた辞典 姓の部 新訂第3版|publisher=[[日外アソシエーツ]](編集・発行)|date=2004-09-27|edition=第1刷発行|isbn=978-4816918636|page=342}}</ref><ref name="人名典拠録">{{Cite book|和書|title=日本著者名・人名典拠録 新訂増補第3版―75万人収録―|volume=3(に~ん)|publisher=[[日外アソシエーツ]](編集・発行 / 発行人:大高利夫)|date=2012-05-25|edition=第1刷発行|isbn=978-4816923586|page=106}}</ref>。捜査一課に15年間勤務し、1970年(当時は[[川西警察署]]刑事課所属・巡査部長)には現職警官ながら、阪神球団から寮長としてスカウトされたことで話題になった<ref name="週ベ1970-08-31">{{Cite news|title=週べ60周年記念 太田殿下故郷に帰る/週ベ回顧(1970年8月31日号)|newspaper=[[週刊ベースボール]]|date=2020-02-17|url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200216-01|accessdate=2020-04-28|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200428090833/https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200216-01|archivedate=2020年4月28日}}</ref>。1984年没<ref name="人名典拠録"/>。}}は<ref name="週ベ1971-03-08"/>、後に古谷が刑事裁判で死刑を求刑された際に「8人も殺した罪は許されないが、自分が刑事時代に関係した人物が死刑を求刑されることは寂しいものだ」と述べている<ref name="週ベ1971-03-08">{{Cite news|title=週べ60周年記念 野村克也監督は二刀流が好きだった?/週べ回顧(1971年3月8日号)|newspaper=週刊ベースボール|date=2020-04-06|url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200405-01|accessdate=2020-04-28|publisher=ベースボール・マガジン社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200428091446/https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200405-01|archivedate=2020年4月28日}}</ref>。
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しかし、大阪高裁第5刑事部(本間末吉裁判長)は1974年(昭和49年)12月13日の控訴審判決公判で、第一審の死刑判決を支持して被告人・古谷の控訴を[[棄却]]する判決を言い渡した<ref name="毎日新聞1974-12-13">『毎日新聞』1974年12月13日夕刊第4版第二社会面10頁「高裁も死刑支持 西日本連続殺人の『古谷』」(毎日新聞社)</ref><ref>『読売新聞』1971年12月13日東京夕刊第4版第二社会面10頁「【大阪】8人殺しの『古谷』 控訴審も死刑」(読売新聞東京本社)</ref>。大阪高裁 (1974) は、判決理由で「取り調べの経緯などを総合すれば、供述調書の信用性に疑問はなく、古谷の『異常な精神状態で捜査員に誘導されて虚偽の自白をした』という主張は信用できない。各犯行について、古谷や弁護人の弁解・主張を検討しても、古谷が犯人であることは間違いない」と認定した<ref name="毎日新聞1974-12-13"/>上で、「古谷には前科があり、犯行も計画的・残忍だ。古谷にとって有利な情状を考慮し、死刑適用について慎重に検討しても、犯行の残虐性・反社会性から極刑は免れない」と指摘した{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=325}}。
古谷は[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]へ[[上告]]したが、[[1978年]](昭和53年)11月28日に最高裁第三[[小法廷]]([[高辻正己]]裁判長)で上告棄却の判決(一・二審の死刑判決を支持する判決)を言い渡された<ref>『読売新聞』1978年11月28日東京夕刊第4版第二社会面10頁「『古谷』の死刑確定 老人8人殺人」(読売新聞東京本社)</ref>{{Sfn|最高裁第三小法廷|1978}}。古谷は同小法廷に対し、判決の訂正を申し立てたが、[[1979年]](昭和54年)1月
== 死刑確定後 ==
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古谷は死刑確定後から死刑執行まで、[[死刑囚]]として[[大阪拘置所]]に収監されていたが{{Sfn|藤田公彦|2007|pp=52-54}}、その人となりについては以下のような証言がある。
* 夕刊フクニチ新聞社 (1976) は当時、上告中だった古谷の獄中での生活について「『[[ヨハネの黙示録]]』や『[[旧約聖書]]』を愛読しており、すこぶる健康的なようだ」と述べている{{Sfn|夕刊フクニチ新聞社|1976|p=326}}。
* 1977年(昭和52年)1月6日には『[[毎日新聞]]』の[[毎日新聞大阪本社|大阪朝刊
* 大阪拘置所での古谷の人物像を知る関係者は、[[前坂俊之]]からの取材に対し、「古谷は拘置所内でも手が付けられないほどの暴れん坊で、『あと
* かつて大阪拘置所で刑務官を務めていた藤田公彦は、自著 (2007) で「古谷{{Efn2|藤田の著書中では実名を伏せ、姓のイニシャル「F」と表記されている{{Sfn|藤田公彦|2007|pp=52-54}}{{Sfn|藤田公彦|2008|p=26}}。なお藤田 (2008) ではその死刑囚「F」について「2か月足らずのうちに強盗目的で8名を殺害した。ほかに4名の殺害容疑があったが、それらは証拠不十分で不起訴になった」{{Sfn|藤田公彦|2008|p=26}}「犯行から20年目に死刑を執行された」と述べている{{Sfn|藤田公彦|2008|p=48}}。}}は獄中では拘置所職員たちを困らせて恨みを買い、古谷の死刑執行当日には通常は誰もが敬遠する死刑執行官を自ら志願する希望者が殺到し、任命されなかった刑務官が鬱憤晴らしに『みんなであいつ(古谷)の足を引っ張ってやろう』と吐き捨てたほどだった。しかし自分が教育課から手に負えない古谷の心情安定を頼まれ、[[インコ]]の雛を与えて世話させたところ、古谷はインコを大変可愛がっていた。やがてそのインコは逃げてしまい、そのまま帰ってこなかったが、その際に古谷はそれ以上インコに執着しなかったので、自分は『古谷は自身の“自由に外に出たい”という叶わない願望をインコに託して放鳥したのではないか?』と思った」と述べている{{Sfn|藤田公彦|2007|pp=52-54}}。また、藤田は自著 (2008) で「F(古谷)は生前、大阪拘置所の死刑囚たちの中でも難題で、室外での運動中に抜き打ちで居室の検査をされた際、検査を行っていた我々刑務官たちに対し『お前ら、殺したろうか!そしたらまた裁判だ。裁判中は死刑にならない。俺はあと何人殺しても一緒だ!』と怒鳴りつけてきたことがあったが、私が『そう怒るな。これも俺の仕事だ』となだめたら一応怒りの矛を収めた。これはかつて、自分が心情安定のためにFにインコを飼わせた際、いろいろとインコの世話の仕方を教えたことをFが借りとして感じていたからかもしれない」と述べている{{Sfn|藤田公彦|2008|pp=27-28}}。
* かつて被告人として大阪拘置所に収監されていた藤村昌之{{Efn2|藤村は1957年・大阪市生まれ{{Sfn|藤村昌之|1997|p=198}}。銃刀法違反(拳銃所持)などで起訴され、1989年に出所するまで大阪拘置所の五舎四階(死刑囚および死刑・無期懲役判決を受け上訴中の被告人が収監されていた舎房)に収監されていた{{Sfn|藤村昌之|1997|p=199}}。その後、出所後の1990年からカード詐欺に手を染めて大量カード奪取事件・2億円宝石盗難事件により1993年に逮捕され、1997年時点で拘留中だった{{Sfn|藤村昌之|1997|p=198}}。}} (1997) は、生前の古谷{{Efn2|藤村 (1997) は実名を伏せ「本に書かれている人で、バタ屋(くず拾い)を8人か9人殺している老人」と述べている{{Sfn|藤村昌之|1997|p=200}}。}}の人となりについて「日ごろは柔和な好々爺だったが『自分は実は(起訴された8人より)もっと大勢殺している。警察の捜査技術が未発達だったから(被害者の)死因がわからなかった』と自慢していた」と述べている{{Sfn|藤村昌之|1997|p=200}}。
* 古谷の弁護人を務めていた橘一三は、獄中における古谷について「仏のように落ち着いた日と、荒れ狂う日の間を揺れ動いている」と証言した<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[FOCUS]]|author=|title=|volume=1|page=24|date=1981-11-27|issue=9|publisher=[[新潮社]]}} - 1981年11月27日号(通巻:第9号)</ref>。
=== 獄中で刃傷事件 ===
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=== 死刑執行 ===
死刑囚・古谷惣吉は[[法務大臣]]・[[嶋崎均]]が発した死刑執行命令により、死刑確定から6年後(105号事件発生および逮捕から20年後)の[[1985年]](昭和60年)[[5月31日]]に収監先・[[大阪拘置所]]で死刑を執行された({{没年齢|1914|2|16|1985|5|31}})<ref name="死刑執行">『[[読売新聞]]』1985年6月1日東京朝刊第14版第二社会面22頁「【大阪】老人8人連続殺人鬼 古谷に死刑執行」([[読売新聞東京本社]])</ref><ref name="中日新聞1985-06-01">『[[中日新聞]]』1985年6月1日朝刊第12版第一社会面23頁「独居老人ら8人殺し 古谷の死刑執行」([[中日新聞社]])</ref><ref name="asahi">『朝日新聞』1985年6月1日東京朝刊第一社会面23頁「強盗殺人犯、古谷の死刑を執行 大阪拘置所」(朝日新聞東京本社)</ref>。佐久間 (2005) は「死刑執行当時の年齢(71歳3か月){{Sfn|佐久間哲|2005|p=177}}は最高齢の死刑執行である」と述べている{{Efn2|[[2006年]](平成18年)[[12月25日]]には
* 「'''厚恩を背負いてのぼる老いの坂、重きにたえず涙こぼるる'''」<ref name="asahi"/>{{Sfn|福田洋|1999|p=29}}
== 評価 ==
石田郁夫 (1979) は、古谷の犯罪傾向について、権力につながる者ではなく、最も力のない弱い人々を標的とし、わずかな金品を奪ったことについて、以下のように言及している{{Sfn|石田郁夫|1979|p=107}}。
{{Quotation|刑務所生活で、神経痛をやんでいた古谷は、やがてそのような老いを確実にむかえるだろう、社会から疎外され、身寄りもなく、橋の下や河原や堤防のさしかけ小屋に孤独に暮らす年寄りたちをみて、あたかも自己の近い未来の姿を眼前にしたように逆上して、先ゆきの不安を抹殺するように、被害者たちにうちかかったのかもしれない。弱い者に、カサにかかって力を行使する、あの「権力の味」の倒錯したよろこびに、つきうごかされたのかも知れない。|石田郁夫|{{Sfn|石田郁夫|1979|p=107}}}}
前坂俊之 (1985) は、戦後日本の連続的な連続大量殺人犯として、古谷や[[小平事件|小平義雄]](7人殺害)・[[おせんころがし殺人事件|栗田源蔵]]・[[大久保清|大久保清]]・[[勝田清孝事件|勝田清孝]](以上いずれも8人殺害)を挙げた上で、古谷が戦後日本で最も多くの犠牲者を出した連続殺人犯である旨を述べている{{Sfn|前坂俊之|1985|p=167}}。また、大量殺人には「[[性犯罪|性的なもの]]とそうでないもの」で2つの傾向があり、後者に該当する連続殺人犯として、古谷の事件や[[永山則夫]]による[[永山則夫連続射殺事件|4人連続ピストル射殺事件]](1968年)<!--出典では「[[混血少年連続殺人事件]]」についても同列に言及されているが、同事件は強盗強姦罪でも起訴されている。-->、さらに戦前の事件である李判能事件{{Efn2|1921年(大正10年)6月2日深夜、東京・[[大久保町 (東京府)|東大久保]]で、[[東京都電車|東京市電]]の運転手を務めていた李判能が、隣部屋や離れたところに住んでいた日本人の同僚宅を玄能で襲い、さらに翌朝、牛込町付近で通行人を次々と襲撃した{{Sfn|前坂俊之|1985|p=141}}。一連の事件で7人が死亡し、10人が重傷を負った(うち2軒の同僚宅襲撃で6人が死亡、3人が重傷){{Sfn|前坂俊之|1985|p=141}}。李は事件の3年前である1918年(大正7年)に朝鮮から日本に渡り、東京市電の運転手をしていたが、事あるごとに対立して喧嘩となり、その原因を「朝鮮人へのいわれのない差別」として恨みを募らせた末、最終的には「日本人が朝鮮人を圧迫し、理由もなく苦しめる。警察に訴えても不公平な扱いばかりをする。広く知らせるためには世の注意を引くようなことをしなければだめだ」と犯行におよんだ{{Sfn|前坂俊之|1985|p=141}}。1923年(大正12年)2月27日、[[東京地方裁判所|東京地裁]]で無期懲役の判決が言い渡されている{{Sfn|前坂俊之|1985|p=142}}。}}や[[浜松連続殺人事件]]を挙げ、それらの事件の共通点として、社会の最底辺部で厳しい差別や偏見を受けてきた者が、社会への復讐として事件を起こした側面がある旨を述べている{{Sfn|前坂俊之|1985|pp=168-169}}。
== 関連書籍 ==
* {{Cite book|和書|title=
== 脚注 ==
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** 弁護人:橘一三
* {{Cite journal|和書|journal=[[刑集|最高裁判所刑事判例集]]|publisher=最高裁判所判例調査会|year=1983|pages=659-689|title=検察官の上告趣意:別表 犯時少年の事件に対し死刑の判決が確定した事例|volume=37|issue=6|ref={{SfnRef|最高裁|1983}}}}
** [[永山則夫連続射殺事件]](被告人:[[永山則夫]])の上告審判決[事件番号:[[永山基準|昭和56年(あ)第1505号 / 1983年(昭和58年)7月8日・第二小法廷判決]]]。永山以前に戦後、死刑が確定した[[少年犯罪|少年事件]]([[少年死刑囚]])の一覧表(事件および裁判の概要・被告人の年齢など)が掲載されている。古谷と共謀して1951年に福岡県内で[[#福岡連続強盗殺人事件]]を起こし、死刑が確定した
'''警察当局資料'''
* {{Cite book|和書|title=西宮市警察史|publisher=[[西宮市警察|西宮市警察局]]|date=1954-06-30|pages=107-108|ref={{SfnRef|西宮市警察局|1954}}|chapter=第9.鑑識關係 > 4.鑑識利用による事件検挙の実例 >(2)筆跡鑑定(理化學鑑識)が唯一の証據として有罪判決}} - [[兵庫県立図書館]]・[[神戸市立中央図書館]]・[[西宮市立図書館]](中央図書館および北口図書館・鳴尾図書館)に所蔵
* {{Cite book|和書|title=昭和40年 兵庫県警察年鑑|publisher=[[兵庫県警察]]本部総務部総務課(編集兼発行者)|date=1966-06-30|ref={{SfnRef|兵庫県警察|1966}}|pages=124-128|chapter=第5章 刑事|doi=10.11501/3025399}}
* {{Cite book|和書|title=滋賀県警察史|publisher=[[滋賀県警察|滋賀県警察本部]]|date=1968-12-25|ref={{SfnRef|滋賀県警察|1968}}|editor=滋賀県警察本部警務部警務課|pages=1105-1108|chapter=大津柳ケ崎水泳場強盗殺人事件|doi=10.11501/9634171}}
* {{Cite book|和書|title=洑流 ひょうご事件風俗史|publisher=[[産経新聞大阪本社|神戸サンケイ新聞社]]|year=1978|ref={{SfnRef|神戸サンケイ新聞社|1978}}|editor=
* {{Cite book|和書|title=福岡県警察史 昭和後編|publisher=[[福岡県警察|福岡県警察本部]]|date=1993-03-31|ref={{SfnRef|福岡県警察|1993}}|editor=福岡県警察史編さん委員会|pages=516-521|chapter=第二章 警察組織の整備と警察活動|doi=10.11501/9639863}}
* {{Cite book|和書|title=兵庫県警察史 昭和続編|publisher=兵庫県警察本部|date=1999-03-12|ref={{SfnRef|兵庫県警察|1999}}|editor=兵庫県警察史編さん委員会|pages=310-315|chapter=第2章 急速な経済発展に対応する警察|doi=10.11501/9639994}}▼
'''雑誌記事'''
* {{Cite journal|和書|journal=[[サンデー毎日]]|title=一軒家襲うナゾの連続殺人|volume=44|date=1965-12-19|issue=53|pages=114-117|publisher=[[毎日新聞出版|毎日新聞社出版部門]]|ref={{SfnRef|サンデー毎日|1965}}}} - 1965年12月19日号(通巻:第2446号)。
* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊新潮]]|title=罪と罰 死刑にならなかった“古谷”|volume=10|date=1965-12-25|issue=51|pages=124-125|publisher=[[新潮社]]|ref={{SfnRef|週刊新潮|1965}}|doi=10.11501/3377383|id={{NDLJP|3377383}}}} - 1965年12月25日号(通巻:第513号)。
* {{Cite journal|和書|journal=[[SPA!|週刊サンケイ]]|year=1966|title=特集・狂った歳末(2)連続殺人魔古谷惣吉の異常な犯罪簿|volume=15|month=1|issue=1|pages=17-19|publisher=[[扶桑社|産経新聞社出版局]]|ref={{SfnRef|週刊サンケイ|1966}}|doi=10.11501/1809786|id={{NDLJP|1809786}}}} - 1966年(昭和41年)1月3日新年号(通巻:第761号)。
* {{Cite journal|和書|journal=更生保護|author=編集部|title=西日本連続殺人事件|volume=17|editor=法務省保護局|date=1966-03-01|issue=3|pages=40-44|publisher=日本更生保護協会|ref={{SfnRef|更生保護|1966}}|DOI=10.11501/2688122|ISSN=1343-5078|id={{NDLJP|2688122}}}} - 1966年3月号(同年3月1日発行)。
* {{Cite journal|和書|journal=問題小説|author=石田郁夫|title=さすらいの殺人鬼 最も貧弱な欲望のため八人余の老人を次々に殺した“イダテン殺人魔”古谷惣吉の怨念!!|volume=5|date=1971-09-01|issue=10|publisher=[[徳間書店]]|ref={{SfnRef|石田郁夫|1971}}}} - 1971年9月号。
'''一般書籍'''
* {{Cite book|和書|title=福岡犯罪50年史 戦後編|publisher=[[フクニチ新聞|夕刊フクニチ新聞社]]|date=1976-03-01|ref={{SfnRef|夕刊フクニチ新聞社|1976}}|author=弓削信夫|editor=夕刊フクニチ新聞社「昭和50年史刊行会」|edition=第1刷|pages=308-327|chapter=昭和40年 10人殺しの古谷惣吉|author2=中島義博|author3=笠井邦充|doi=10.11501/10262013}}
* {{Cite book|和書|title=はみだした殺人者 当世犯罪巷談|publisher=[[三一書房]]|date=1979-07-25|pages=89-111|ref={{SfnRef|石田郁夫|1979}}|author=石田郁夫|edition=第1版第1刷発行|NCID=BN10867790|chapter=5 連続老爺殺人事件 玄海・漂民譚|id={{国立国会図書館書誌ID|000001419298}}}}
* {{Cite book|和書|title=強殺 連続八人殺害広域捜査105号事件|series=|volume=|date=1980-05-30|ref={{SfnRef|福田洋|1980}}|edition=第1刷発行|author=[[福田洋 (作家)|福田洋]]|coauthor=|publisher=[[講談社]](発行者:[[野間省一]])|isbn=|pages=|chapter=}} - 本事件を主題とした長編ドキュメンタリー小説。事件当事者たちの名前は、古谷が「岩村源治」、1951年の連続強盗殺人の共犯
* {{Cite book|和書|title=日本犯罪図鑑|publisher=[[東京法経学院|東京法経学院出版]]|ref={{SfnRef|前坂俊之|1985}}|author=[[前坂俊之]]|edition=初版発行|series=犯罪ドキュメントシリーズ|isbn=978-4808944117|NCID=BN09505715|id={{国立国会図書館書誌ID|000001815575}}}}
* {{Cite book|和書|title=殺人百科 陰の隣人としての犯罪者たち|series=|volume=|date=1992-04-15|ref={{SfnRef|佐木隆三|1992}}|edition=第7刷|origdate=1981年4月25日:第1刷|author=[[佐木隆三]]|coauthor=|publisher=[[文藝春秋]](発行者:[[豊田健次]])|isbn=978-4167215026|pages=146-161|chapter=}} - 当該ページの「第七話 巡礼いそぎ旅」を参照。
* {{Cite book|和書|title=増補新版 日本死刑白書|series=|volume=|date=1993-02-15|ref={{SfnRef|前坂俊之|1993}}|edition=第1版第2刷発行|origdate=1990年4月30日:第1版第1刷発行|author=[[前坂俊之]]|coauthor=|publisher=
* {{Cite book|和書|title=改訂新版 事件・犯罪 日本と世界の主要全事件総覧 国際・政治事件から刑事・民事事件|date=1993-04-25|ref={{SfnRef|教育社|1993}}|edition=第1刷発行|origdate=1991年12月25日:初版第1刷発行|author=溝川徳二(編集委員会代表)|author2=編集担当:佐藤喜久雄|editor=事件・犯罪編集委員会|publisher=教育社(発行者:高森圭介)|isbn=978-4315513141|page=554|chapter=古谷惣吉西日本連続強盗殺人事件}}
* {{Cite book|和書|title=連続殺人事件|series=TRUE CRIME JAPAN|volume=2|date=1996-02-15|ref={{SfnRef|池上正樹|斎藤充功|1996}}|author1=[[池上正樹]](著者)|author2=[[斎藤充功]](監修者)|publisher=[[同朋舎出版]]|isbn=978-4810422610|pages=140-179|chapter=}} - 当該ページの「第三章 戦後最大、日本のシリアルキラーの犯罪『古谷惣吉・広域重要手配一〇五号事件』」(文:斎藤充功)を参照。
* {{Cite book|和書|title=天国への凱旋門 死刑囚からの手紙|series=|volume=|date=1997-01-10|ref={{SfnRef|田島惠三|1997}}|edition=初版発行|author=田島惠三|coauthor=|publisher=[[教文館]](発行者:中村義治)|isbn=978-4764263338|pages=|chapter=}} - 作中では
* {{Cite journal|和書|title=隣りの殺人者たち|journal=[[別冊宝島]]|issue=333|date=1997-09-18|ref={{SfnRef|藤村昌之|1997}}|edition=発行|author=藤村昌之|editor=発行人:[[蓮見清一]]・編集長:[[井上学]]・編集:熊谷みのり・編集局長:[[石井慎二]]|publisher=[[宝島社]]|isbn=978-4796693332|pages=198-208}} - 当該ページの「奴らを高く吊るせ!ああ大阪拘置所「五舎四階」--他人の死刑を熱望する日々!」(文:藤村昌之)を参照。
▲* {{Cite book|和書|title=兵庫県警察史 昭和続編|publisher=兵庫県警察本部|date=1999-03-12|ref={{SfnRef|兵庫県警察|1999}}|editor=兵庫県警察史編さん委員会|pages=310-315|chapter=第2章 急速な経済発展に対応する警察|doi=10.11501/9639994}}
* {{Cite book|和書|title=図説 現代殺人事件史|series=ふくろうの本|date=1999-06-25|ref={{SfnRef|福田洋|1999}}|edition=初版発行(初版印刷:1999年6月15日)|author=福田洋|editor=石川保昌|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309726090|pages=28-29|chapter=}}
* {{Cite book|和書|title=日本の大量殺人総覧|publisher=
* {{Cite book|和書|title=免田栄 獄中ノート 私の見送った死刑囚たち|date=2004-08-10|ref={{SfnRef|免田栄|2004}}|edition=第1刷発行|author=[[免田事件|免田栄]]|publisher=[[インパクト出版会]]|isbn=978-4755401435|pages=91-92}} - 同書の著者であり、[[免田事件]]の[[冤罪]]被害者である免田栄(当時死刑囚として収監中・後に[[再審]]で無罪確定)は
* {{Cite book|和書|title=死刑に処す 現代死刑囚ファイル|series=|date=2005-12-05|ref={{SfnRef|佐久間哲|2005}}|edition=第1刷発行|author=佐久間哲|publisher=[[自由国民社]]|isbn=978-4426752156|pages=173-182|chapter=後世に名を残したい-絞首最高齢- 古谷惣吉(1985年5月31日死刑執行)}}
* {{Cite book|和書|title=死刑はこうして執行される|series=[[講談社文庫]]|date=2006-01-15|ref={{SfnRef|村野薫|2006}}|edition=第1刷発行|author=村野薫|publisher=講談社|isbn=978-4062753043|pages=141-142}}
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== 関連項目 ==
* [[警察庁広域重要指定事件]]
* [[累犯|再犯]]
{{死刑囚}}
{{デフォルトソート:ふる
[[Category:昭和時代戦後の殺人事件]]
[[Category:警察庁広域重要指定事件]]
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[[Category:1965年12月]]
[[Category:日本の死刑確定事件]]
[[Category:戦後の福岡]]
[[Category:戦後の神戸]]
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