「禅定」の版間の差分
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{{Infobox Buddhist term
| title = 禅定
| en = concentration of mind
| pi = झान jhāna
| sa = ध्यान dhyāna
| bn =
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}}
{{波羅蜜}}
'''禅定'''(ぜんじょう、{{
==位置づけ==
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==禅定の段階==
{{Seealso|四禅|:en:Dhyāna in Buddhism}}
感覚的経験の世界が[[欲界]]であり、禅定の実践によって色界の初禅定に到達する{{sfn|ダライ・ラマ14世|2001|p=120}}{{efn2|色界の次を[[無色界]]と呼ぶ。}}。▼
個々の禅定は、仏教が興る以前の古代インドで知られていたものを仏陀が体系化し{{Sfn|藤本|2005|pp=890-889}}、取り入れたものであった{{Sfn|藤本|2005|pp=890-891}}。ただし、以下に列挙する「[[定#無心定(無想定と滅尽定)および九次次第|九次第定]]」(くしだいじょう)のうち、悟りの境地である想受滅こそが、仏陀によってこそ初めて到達し得た境地だったのである{{Sfn|藤本|2005|p=890}}。[[上座部]]研究の[[仏教学者]]、[[藤本晃]]によれば、この「九次第定」の体系は、[[パーリ仏典]]の成立以前には確立されていたようである{{Sfn|藤本|2005|p=888}}。
===色界の段階===
[[色界]]の禅定(Rūpajjhāna, [[四禅]])は以下の4段階がある。
# 初禅 - 諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、{{linktext|尋}}・{{linktext|伺}}を伴いながらも、離による喜・[[楽 (仏教)|楽]]と共にある状態。『[[中部 (パーリ)|中部]]』が伝えるところによれば、釈迦は、自身がまだ在家の王子であった頃、すでにこの境地を楽しんでいたという<ref>『[[中部 (パーリ)|中部]]』36, 85, 100</ref>{{Sfn|藤本|2005|p=880}}。
# 第二禅 - {{linktext|尋}}・{{linktext|伺}}が止み、内清浄による喜・楽と共にある状態。
# 第三禅 - 喜を捨し、正念・正見を得ながら、楽と共にある状態。
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===無色界の段階===
[[無色界]]の禅定(Arūpajjhāna, Āruppajjhāna)は4段階がある{{sfn|ダライ・ラマ14世|2001|p=120}}。これが、四無色定(四空定とも)で、さらに[[定#無心定(無想定と滅尽定)および九次次第
:5. [[空無辺処]](くうむへんしょ{{refnest|nama="精選版_空無辺処"|[https://kotobank.jp/word/%E7%A9%BA%E7%84%A1%E8%BE%BA%E5%87%A6-2031001#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8 「空無辺処」 - 精選版 日本国語大辞典]、小学館。}})
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:8. [[非想非非想処]](ひそうひひそうしょ)
:漢訳で想が非ず非想にも非ずの領域の意味。旧訳では非有想非無想処ともされ、この完成が[[有頂天]]である{{sfn|ダライ・ラマ14世|2001|pp=127-128}}。
『[[大般涅槃経]]』によれば、[[仏陀|ブッダ]]は弟子[[阿難|アーナンダ]]に、禅定の段階について以下のように説いたとされる{{Sfn|中村|2019|pp=84-85}}{{efn|なお『大般涅槃経』によればブッダは、第一の解脱について説いている。すなわち、第一の解脱は、[[色 (仏教)|色]]という想いをいだく者が、外部において形あるものを見ること。第二の解脱は、無色という想いをいだく者が、外部において形あるものを見ること。第三の解脱は、すべてのものが浄らかであると認めていることである{{Sfn|中村|2019|p=84}}。}}。
{{Quotation|1=アーナンダよ。これらの八つの解脱がある。その八つとは、どれどれであるか?……(中略)……
〈物質的なもの〉という想いを全く超越して、抵抗感{{Refnest|group="注釈"|{{lang-pi-short|paṭhiga sañña}}「抵抗、対抗、の思い」。[[中村元]]は、漢訳仏典においてこの語は「[[三毒#大乗仏教|瞋恚想]]」と訳される、としている。{{Sfn|中村|2019|272}}}}を消滅し、〈別のもの〉という想いを起こさないことによって〈(すべては)無辺なる虚空である〉と観じて、〈空無辺処〉に達して住する。これが第四の解脱である。
〈空無辺処〉を全く超越して、〈(すべては)無辺なる識である〉と観じて、〈識無辺処〉に達して住する。これが第五の解脱である。
〈識無辺処〉を全く超越して、〈何ものも存在しない〉と観じて、〈無所有処〉(=何も無いという境地)に達して住する。これが第五の解脱である。
〈無所有処〉を全く超越して、〈非想非非想処〉(想いがあるのでもなく、想いが無いのでもないという境地)に達して住する。これが第七の境地である。
〈非想非非想処〉を全く超越して、〈[[定#無心定(無想定と滅尽定)および九次次第|想受滅]]〉(表象も感受も消滅する境地)に達して住する。これが第八の解脱である。
アーナンダよ。これらが八つの解脱である。}}
== 日本仏教と禅定 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
==参考文献==
*{{Cite journal|author=[[藤本晃]]|year=2005|title=パーリ経典に説かれる「九次第定」の成立と構造|url=https://doi.org/10.4259/ibk.53.891|journal=印度學佛教學研究|volume=53|issue=2|pages=891-888|ref={{Sfnref|藤本|2005}}|issn=0019-4344}}
*{{Cite book|和書|author=ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ |authorlink=ダライ・ラマ |translator=[[菅沼晃]]|title=ダライ・ラマ 智慧の眼をひらく|publisher=春秋社|date=2001|isbn=978-4-393-13335-4|ref={{SfnRef|ダライ・ラマ14世|2001}} }}
*『[[大般涅槃経]]』
** {{Citebook|和書|title=ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経|date=2019-05-07|year=2019|publisher=[[岩波書店]]|author=|isbn=4003332512|edition=55|translator=[[中村元]]}}
*『[[中部 (パーリ)|中部]]』
== 関連項目 ==
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