「NTV紅白歌のベストテン」の版間の差分

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[[1969年]][[10月6日]]放送開始{{efn|ただし、この回は前夜祭で、様々な歌手が応援に駆け付けて放送した(10組以上)。内容は不明。}}。毎週月曜20時00分 - 20時56分に放送{{efn|[[1972年]]10月から[[1975年]]9月までは20時00分 - 20時55分、1975年10月以降は20時00分 - 20時54分。いずれも「[[NNNニューススポット]]」拡大のため。}}。「『[[NHK紅白歌合戦]]』を毎週お茶の間に」という発想から始まり、「紅白」と、いわゆる「ベストテン」形式の歌謡番組を組み合わせた、当時としては画期的かつ異色とも言える歌謡番組だった。また、2か月前の[[8月4日]]に放送開始した[[TBSテレビ|TBS]]の「[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]」が高視聴率だったことから、それに対抗するという意味もあった。
 
放送形式は原則として公開[[生放送]]([[東京]]・[[渋谷公会堂]]。渋谷公会堂で定着するまでは{{efn|渋谷公会堂で行われるようになったのは[[1970年]]4月から<ref>日本テレビ社史「大衆とともに25年・沿革史」 1978年</ref>。}}、[[後楽園ホール]]を中心に、[[関東地方|関東]]近辺の公会堂を持ち回りしていた。まれに[[名古屋市|名古屋]]・[[大阪府|大阪]]から公開放送を行ったこともあった)。この番組は、クロスネット局で月曜20時に日本テレビが選択される原因となった番組と言われる。本家「紅白」同様、{{color|red|紅組}}、{{color|gray|白組}}に分かれて対決を行う。司会者は{{color|gray|白組}}、{{color|red|紅組}}それぞれの[[キャプテン]]を務める形式。番組にオープニングテーマ曲(エンディングでも使われてい)がある
 
放送形式は原則として公開[[生放送]]で、[[渋谷公会堂]]から放送されていた{{efn|渋谷公会堂で行われるようになったのは[[1970年]]4月から<ref>日本テレビ社史「大衆とともに25年・沿革史」 1978年</ref>。それでは[[後楽園ホール]]など関東各地の公会堂を巡回してい。}}。まれに[[名古屋市|名古屋]]・[[大阪府|大阪]]から公開放送を行ったこともあった。中学校・高校の[[修学旅行]]の定番コースになったりもた。ても使われており、その際はオープニングでキャプテンが観覧に来た学校を紹介し、その学校の生徒がリアクションをとるのが定番だった(これについては後継番組の『[[ザ・トップテン]]』や『[[歌のトップテン]]』でもそのまま行っていた)。
オープニングの流れは、幕が閉まった状態で双方のキャプテンが登場、その回のテーマに関するショートコントを行い、オチが着いた所でタイトルコール([[#セリフ|下記]])をして幕を開き、出場歌手が客席に向かってサインボールを投げながらテーマ曲を歌うというものであった。しかし末期({{color|red|紅組キャプテン}}が[[大場久美子]]の頃)からはコントは廃止され、[[徳光和夫]](当時・日本テレビアナウンサー)のアナウンスと共に幕を開け、テーマ曲も後半は歌われなくなり、提供コメントとなった。そして最末期([[榊原郁恵]]時代の途中から)にはアナウンスは廃止され、テーマ曲は演奏のみになり、終わった所でキャプテンが登場する様になった。
 
{{color|gray|白組のキャプテン}}は[[堺正章]]が番組終了まで務めた。{{color|red|紅組キャプテン}}については最初は[[水前寺清子]]が務めていたが、[[1970年]]にスタートした「[[ありがとう (テレビドラマ)|ありがとう]]」(TBS)への出演や地方公演、テレビ番組出演の関係でスケジュール調整が困難となり、程なく降板。その後暫く決まったキャプテンはおかれず、毎週出場歌手から1人がキャプテンを務めていた。その後は、[[今陽子]]、[[岡崎友紀]]らが{{color|red|紅組キャプテン}}を担当した。
 
水前寺は番組開始前年である[[1968年]]の『[[第19回NHK紅白歌合戦]]』で{{color|red|紅組司会}}を務めているが、この時の司会ぶりの評価が本番組起用に繋がった。一方で翌1969年の『[[第20回NHK紅白歌合戦]]』でも水前寺は{{color|red|紅組司会}}の有力候補に挙がったが、本番組に起用されたことでそちらの起用を見送られるという事態も発生している(堺についても同回の{{color|gray|白組司会}}の候補に挙がっていたという)。ただし、水前寺は本番組キャプテンを降板した後、本家紅白の{{color|rad|紅組司会}}を3回務めている(堺も本番組終了後、3回{{color|gray|白組司会}}に起用されている)<ref>[[合田道人]]『紅白歌合戦の真実』</ref>。
 
[[1978年]][[10月2日]]の放送分からは、音声がステレオ放送になっている。これは同年[[9月28日]]、日本テレビが日本で初めて[[音声多重放送]]の実用化試験放送を開始したことに伴うもので、テレビの音楽番組でのステレオ化は最も早かった方である(ちなみに、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]『[[夜のヒットスタジオ]]』も、同年10月2日にステレオ化されている)。
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主な出演歌手は[[アイドル]]が中心となり、[[演歌]]がそれに続いた。[[フォークソング|フォーク]]、[[ロック (音楽)|ロック]]、[[ニューミュージック]]は稀であった。{{color|gray|白組}}では「[[新御三家]]」の[[野口五郎]]、[[郷ひろみ]]、[[西城秀樹]]が毎週交代で出演し、演歌では[[五木ひろし]]が常連であった。{{color|red|紅組}}はこれに対抗して「[[花の中三トリオ]]」の[[森昌子]]、[[桜田淳子]]、[[山口百恵]]が出演し、演歌では[[八代亜紀]]が常連となっていた。[[和田アキ子]]の出演も多い。
 
ただ、既に同じ月曜日に[[1968年]]11月放送開始の人気歌謡番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)があり、当代の人気歌手や大物は『夜ヒット』の出演を優先させることが多かったことや、[[1973年]]の「[[渡辺プロダクション|渡辺プロ]]事件」(後述)のために、出場歌手の調達に相当苦労しており、このことについては後年、堺は「'''出演者ががら空きになってしまい、3曲歌ったことも時折あった'''」と回顧している。
出演歌手の本性を暴く『[[ウソ発見器]]』や、{{color|red|紅組}}VS{{color|gray|白組}}で他の歌手に扮装しての物まね対決なども見所であった。さらに本家「紅白」同様、紅白両軍の応援合戦もあり、ダンスやバンド演奏、物真似芸などその演目は多岐に亘った。また毎年夏には、[[東京サマーランド]]や赤坂プリンスホテルなどで『プール大会』(これに限り昼間にVTR収録)が行われ、歌の傍ら、プール上の一本橋での「あっち向いてホイ」対決や、かつて[[MBSテレビ|毎日放送]]制作・[[テレビ朝日|NETテレビ]]系列で放送した「[[ダイビングクイズ]]」を紅白歌手の対戦で行う(クイズの内容は曲名当て)などの趣向も挟み込まれた。
 
番組の最後で日本テレビスタジオのいわゆる「ベストテン本部」から発表される得点発表は、担当者の「レッツ、ダイヤル!」(初期は「電話、スタート!」)の掛け声とともに系列局ごとに電話で行われ(いわゆる「電話審査員」)、ドラムロールのBGMと共に支持チームを発表、支持する系列局が多いチームが優勝となり、[[くす玉]]が割られて、紙吹雪と風船と紙テープが降り、キャプテンに優勝カップが手渡される(この時画面に{{color|red|紅組優勝!!}}または{{color|gray|白組優勝!!}}の[[スーパーインポーズ (映像編集)|巨大テロップ]]が映る)。そのベストテン本部には、徳光和夫(この番組以降バラエティ路線に転向する)、[[福留功男]]などが担当していた。なお系列局は、時期によってその数が異なっており、時によっては引き分けになる数(偶数)になる時も有った。また、毎回の系列局代表の電話審査員全員に盾と番組スポンサー(花王石鹸(現・[[花王]])・[[江崎グリコ]]・[[三菱鉛筆]]などから1社)から自社製品が贈られていた{{efn|スタート当初では出場歌手や観客にこの回の結果を予想してもらい、ズバリ的中した歌手や観客にもこの製品が贈られた。}}。この流れは『ザ・トップテン』『歌のトップテン』でも視聴者プレゼントとして受け継がれた(ただし、以降は葉書で曲をリクエストした人の中から、抽選で30人を選出)。番組末期は電話開始の掛け声が廃止されていきなり電話審査開始になり、くす玉割りが廃止され、出場歌手のバックに立つ[[ザ・バーズ (日本テレビ音楽学院)|ザ・バーズ]]のメンバー{{efn|{{color|red|紅組が赤}}、{{color|gray|白組が白の衣装}}を着用。なお、白組に就いていたメンバーには男性が数名含まれていた。}}が、優勝決定時に[[ポンポン]]({{color|red|紅組が赤}}、{{color|gray|白組が白}})を高々と上げる演出となった。決定後は「最優秀歌手」を1人選び、スタッフロールと共に番組テーマ曲が流れる中、負けたチームにいたザ・バーズのメンバーも一緒にポンポンを振り回し、最後にカメラがステージから客席へとズームアウトした後「'''紅白歌のベストテン また来週'''」(年内最後の放送は「また来年」最終回は「長い間ありがとうございました」)というテロップが画面下部に表示され終了していた。
毎年12月の最終週には「あなたが選ぶ紅白歌合戦」という企画を行った。やはり本家「紅白」を多分に意識して「NHKの紅白はヒット曲もない人を選んでいますが合点行きませんね。こちらはあくまで今年活躍した歌手をそろえました」と、制作側が「紅白に対する造反番組」とまで言い切った企画であった{{efn|ただし、1973年は、12月17日に前倒ししてこの企画を行い、さらに最終週となった12月31日には「ヤング紅白歌合戦!」という企画を放送。1979年にはやはり12月24日に前倒しして行った。}}。
 
他の1970年代のテレビ番組同様、VTRを上書きで使い廻していた関係から、日本テレビに残存する映像は1976年3月15日放送回からである。
[[1975年]]ごろから毎年7月ごろに、上半期にデビューした新人歌手が集合し、点数で評価され、合格点に満たないと歌えない企画があった。点数はネット局の地区別に集計され3度のチャンスがあり、1巡目で合格する歌手もいれば、最後まで歌えずじまいになる歌手も出る残酷さで、[[日本テレビ音楽祭]]の前哨戦でもあった。
また、毎年夏に行われた「日本テレビ音楽祭」の受賞者を集めての回もあった。(1979年)
 
== 主な企画 ==
また中学校・高校の[[修学旅行]]の定番コースになったりもした。その際はオープニングでキャプテンが観覧に来た学校を紹介し、その学校の生徒がリアクションをとるのが定番だった(これについては後継番組の『[[ザ・トップテン]]』や『[[歌のトップテン]]』でもそのまま行っていた)。
オープニングの流れは、幕が閉まった状態で双方のキャプテンが登場、その回のテーマに関するショートコントを行い、オチが着いた所でタイトルコール([[#セリフ|下記]])をして幕を開き、出場歌手が客席に向かってサインボールを投げながらテーマ曲を歌うというものであった。しかし末期({{color|red|紅組キャプテン}}が[[大場久美子]]の頃)からはコントは廃止され、[[徳光和夫]](当時・日本テレビアナウンサー)のアナウンスと共に幕を開け、テーマ曲も後半は歌われなくなり、提供コメントとなった。そして最末期([[榊原郁恵]]時代の途中から)にはアナウンスは廃止され、テーマ曲は演奏のみになり、終わった所でキャプテンが登場する様になった。
 
出演歌手の本性を暴く『[[ウソ発見器]]』や、{{color|red|紅組}}VS{{color|gray|白組}}で他の歌手に扮装しての物まね対決なども見所であっが行われた。さらに本家「紅白」同様、紅白両軍の応援合戦もあり、ダンスやバンド演奏、物真似芸などその演目は多岐に亘った。また毎年夏には、[[東京サマーランド]]や赤坂プリンスホテルなどで『プール大会』(これに限り昼間にVTR収録)が行われ、歌の傍ら、プール上の一本橋での「あっち向いてホイ」対決や、かつて[[MBSテレビ|毎日放送]]制作・[[テレビ朝日|NETテレビ]]系列で放送した「[[ダイビングクイズ]]」を紅白歌手の対戦で行う(クイズの内容は曲名当て)などの趣向も挟み込まれた。
ただ、既に同じ月曜日に[[1968年]]11月放送開始の人気歌謡番組『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)があり、当代の人気歌手や大物は『夜ヒット』の出演を優先させることが多かったことや、[[1973年]]の「[[渡辺プロダクション|渡辺プロ]]事件」(後述)のために、出場歌手の調達に相当苦労しており、このことについては後年、堺は「'''出演者ががら空きになってしまい、3曲歌ったことも時折あった'''」と回顧している。
 
毎年12月の最終週には「あなたが選ぶ紅白歌合戦」という企画を行った。やはり本家「紅白」を多分に意識して「NHKの紅白はヒット曲もない人を選んでいますが合点行きませんね。こちらはあくまで今年活躍した歌手をそろえました」と、制作側が「紅白に対する造反番組」とまで言い切った企画であった{{efn|ただし、1973年は、12月17日に前倒ししてこの企画を行い、さらに最終週となった12月31日には「ヤング紅白歌合戦!」という企画を放送。1979年にはやはり12月24日に前倒しして行った。}}。
番組の最後で日本テレビスタジオのいわゆる「ベストテン本部」から発表される得点発表は、担当者の「レッツ、ダイヤル!」(初期は「電話、スタート!」)の掛け声とともに系列局ごとに電話で行われ(いわゆる「電話審査員」)、ドラムロールのBGMと共に支持チームを発表、支持する系列局が多いチームが優勝となり、[[くす玉]]が割られて、紙吹雪と風船と紙テープが降り、キャプテンに優勝カップが手渡される(この時画面に{{color|red|紅組優勝!!}}または{{color|gray|白組優勝!!}}の[[スーパーインポーズ (映像編集)|巨大テロップ]]が映る)。そのベストテン本部には、徳光和夫(この番組以降バラエティ路線に転向する)、[[福留功男]]などが担当していた。なお系列局は、時期によってその数が異なっており、時によっては引き分けになる数(偶数)になる時も有った。また、毎回の系列局代表の電話審査員全員に盾と番組スポンサー(花王石鹸(現・[[花王]])・[[江崎グリコ]]・[[三菱鉛筆]]などから1社)から自社製品が贈られていた{{efn|スタート当初では出場歌手や観客にこの回の結果を予想してもらい、ズバリ的中した歌手や観客にもこの製品が贈られた。}}。この流れは『ザ・トップテン』『歌のトップテン』でも視聴者プレゼントとして受け継がれた(ただし、以降は葉書で曲をリクエストした人の中から、抽選で30人を選出)。番組末期は電話開始の掛け声が廃止されていきなり電話審査開始になり、くす玉割りが廃止され、出場歌手のバックに立つ[[ザ・バーズ (日本テレビ音楽学院)|ザ・バーズ]]のメンバー{{efn|{{color|red|紅組が赤}}、{{color|gray|白組が白の衣装}}を着用。なお、白組に就いていたメンバーには男性が数名含まれていた。}}が、優勝決定時に[[ポンポン]]({{color|red|紅組が赤}}、{{color|gray|白組が白}})を高々と上げる演出となった。決定後は「最優秀歌手」を1人選び、スタッフロールと共に番組テーマ曲が流れる中、負けたチームにいたザ・バーズのメンバーも一緒にポンポンを振り回し、最後にカメラがステージから客席へとズームアウトした後「'''紅白歌のベストテン また来週'''」(年内最後の放送は「また来年」最終回は「長い間ありがとうございました」)というテロップが画面下部に表示され終了していた。
 
[[1975年]]ごろから毎年7月ごろに、上半期にデビューした新人歌手が集合し、点数で評価され、合格点に満たないと歌えない企画があった。点数はネット局の地区別に集計され3度のチャンスがあり、1巡目で合格する歌手もいれば、最後まで歌えずじまいになる歌手も出る残酷さもあった。また毎年夏に行われた「[[日本テレビ音楽祭]]前哨戦で受賞者を集めて評価する回もあった。
その他、[[小林完吾]]が「ウソ発見器」コーナーのナレーターを担当していた(番組内では、小林を「'''Mr.コンピュータ'''」と呼称)。また、初期には作曲家・[[山本直純]]が総合司会(ベストテン本部担当)兼審査判定役として出演していた。
 
番組末期の[[1980年]][[10月13日]]は、[[特別番組]]として19:30からの90分に拡大(当時クロスネットだった局は20:00飛び乗り{{efn|20時の飛び乗り時には簡易的なオープニングして、[[後楽園球場]]・[[横浜スタジアム]]の電光掲示板と、銀座・和光の横にあった[[朝日新聞]]の電光ニュースに惜別のメッセージが映し出される中継映像が流された。スポンサーセールスは、その後の『トップテンシリーズ』の特番時と同様に前半30分はロート製薬の一社提供、20時台は本番組のスポンサー(ただしロート製薬の[[オープニングキャッチ]]はなし)。}})して『山口百恵スペシャル ザ・ラスト・ソング』が放送され。百恵の他、ゲスト出演者は「花の中三トリオ」の森昌子・桜田淳子、「新御三家」の野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹、さらに当番組の司会者の堺・郁恵・徳光らが登場。また、全国各地のファンの様子を伝えるリポーターとして徳光が当時総合司会を務めていた『[[ズームイン!!朝!]]』の各局キャスターも登場した。百恵は番組の冒頭で「[[秋桜 (山口百恵の曲)|秋桜]]」、最後に「[[さよならの向う側]]」を歌唱。そしてエンディングでは、ゲスト出演者らが「ザ・ラストソング」(作詞:桜田淳子、作曲:野口五郎)を合唱したが、百恵は同年[[10月5日]]に開催した[[日本武道館]]のファイナルコンサートなどで見せた涙は一切流さず、観客らに向い晴れやかな笑顔でサラリと手を振って、秋桜の花道の向こうに消えていった。この特番が百恵の現役歌手として最後のテレビ生出演となり、百恵は2日後の[[10月15日]]を限りに芸能界から引退した。
放送開始当初はVTRが非常に高価だったため日本テレビに公式に残されているのは1976年3月15日放送回からである。
 
== セリフ ==
; 冒頭
({{color|red|紅組キャプテン}}&{{color|gray|堺}})「'''皆さーん、こんばんはーっ!!'''」(観客)「'''こんばんはーっ!!'''」
; タイトルコール
({{color|red|紅}})「'''それではそろそろまいりましょうかー!'''」({{color|gray|堺}})「'''NTV(エヌティーヴィー)'''」({{color|red|紅}})「'''紅白歌の'''」({{color|red|紅}}&{{color|gray|堺}}&観客)「'''ベストテーン!!'''」
; 1回目のCM明け
({{color|gray|堺}})「'''あっ、さてぇ〜'''」
 
これら3セリフは、堺・大場時代(1979年以降)からは言わなくなったが、後年の「今夜復活!!」(後述)の時も使われた。
 
== レギュラー ==
; '''{{color|gray|白組キャプテン(司会)}}'''
* [[堺正章]](1969年10月 - 1981年3月)
** 終了まで一貫して担当した。
** 堺が休みのときは、かつて[[ザ・スパイダース]]のメンバーで親友の[[井上順]]が代理を務めていた。
 
;'''{{color|red|紅組キャプテン(司会)}}'''
* [[水前寺清子]](1969年10月 - 12月) 
**[[1970年]]にスタートした「[[ありがとう (テレビドラマ)|ありがとう]]」(TBS)への出演や地方公演、テレビ番組出演の関係でスケジュール調整が困難となり、1クールで降板となった。
**水前寺は番組開始前年である[[1968年]]の『[[第19回NHK紅白歌合戦]]』で{{color|red|紅組司会}}を務めているがおり、この時の司会ぶりの評価が本番組起用に繋がった。一方で翌1969年の『[[第20回NHK紅白歌合戦]]』でも水前寺は{{color|red|紅組司会}}の有力候補に挙がったが、本番組に起用されたことでそちらの起用を見送られるという事態も発生している(堺についても同回の{{color|gray|白組司会}}の候補に挙がっていたという)。ただし、水前寺は本番組キャプテンを降板した後、本家紅白の{{color|rad|紅組司会}}を3回務めている(堺も本番組終了後、3回{{color|gray|白組司会}}に起用されている)<ref>[[合田道人]]『紅白歌合戦の真実』</ref>。
* 週替り(1970年1月 - 3月)
** なお、水前寺の降板後から倍賞が起用されるまでの間、ベストテン本部の担当である[[山本直純]]・[[梓英子]]、コーナーレギュラーとして出演していた[[丹下キヨ子]]が紅組のキャプテン役を務めるゲスト歌手のアシスト役も兼務していた。
* [[倍賞美津子]](1970年4月 - 9月)
* [[今陽子]](1970年10月 - 1973年12月)
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* [[大場久美子]](1979年4月 - 1980年3月)
* [[榊原郁恵]](1980年4月 - 1981年3月)
** なお、水前寺の降板後から倍賞が起用されるまでの間は、ベストテン本部の担当である[[山本直純]]・[[梓英子]]、コーナーレギュラーとして出演していた[[丹下キヨ子]]が紅組のキャプテン役を務めるゲスト歌手のアシスト役も兼務していた。
 
; 進行役(主にベストテン本部担当)
* [[山本直純]](1969年10月 - 1970年3月)
* [[梓英子]](1969年10月 - 1970年3月)
* [[徳光和夫]](当時日本テレビアナウンサー)(1970年1月 - 1981年3月){{efn|『[[カリキュラマシーン]]』では徳光が出演し、「50音 段の歌」を発表。}}
** 開始当初は山本が総合司会、梓がアシスタントという位置づけでベストテン本部の進行を担当。
** 徳光は元々、紅組キャプテン役が暫定的に週替わり制となり、放送中に本部を抜けて当日の生中継が行われている会場([[後楽園ホール]]など)へ移動して(主に紅組側の)進行のアシストを務めることになった山本・梓の本部不在時の留守を預かる役回りとして起用されたが、1970年春の改編で2代目の紅組キャプテンに倍賞が起用されることになり、それに伴い番組構成の一部をリニューアルすることになったのに伴い山本・梓が降板することになったため、そのまま正式な進行役として番組への出演を継続。これ以降、山本・梓同様に、徳光も回によっては本部を抜け出し渋谷公会堂のステージに出演して進行補助を務める事が増えて行った(徳光が本部不在時のスタジオ進行代行は[[本多当一郎]]、[[福留功男]]、[[小林完吾]]など実況・ナレーターとして番組に参加していた局アナウンサーが担当)。
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; その他
* [[丹下キヨ子]] - 番組初期にコーナーレギュラーとして出演(1970年3月まで)。前述の通り、紅組キャプテン不在の時期には進行役(総合司会)の山本・梓とともに代理キャプテンを務めるゲスト歌手のアシスト役も務めた
* [[本多当一郎]](当時日本テレビアナウンサー)- 初期の頃に実況アナウンスを担当。徳光欠席・渋谷公会堂にいる際にはベストテン本部進行の代役も担当。
* [[舛方勝宏]](当時日本テレビアナウンサー) - 同上
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これを知った日本テレビの制作局次長、[[井原高忠]](当時の同局の音楽・バラエティ番組制作部門の責任者)は渡辺プロと話し合いをしたが、渡辺プロ側は「それじゃあ、お宅の番組を打ち切るか時間を移動させればいいじゃないか」<ref>軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』p.255</ref><ref name=":0">{{Cite web|url=https://friday.kodansha.co.jp/article/58750|title=故・井原高忠 日テレプロデューサーに学ぶ「芸能プロの未来図」|accessdate=2019年12月27日|publisher=FRIDAY(2019年8月1日作成)}}</ref> と主張し、さらに日本テレビサイドに対して、「放送時間をずらさないのであれば今後、『歌のベストテン』にうちのタレントは出演させない」と通告してきた。日本テレビは、渡辺プロ側の要求を受け入れて『歌のベストテン』の放送時間帯を移動するか、この挑戦を受けて立つかの選択を迫られた。井原は渡辺プロ以外の全[[芸能事務所|芸能プロダクション]]からの全面協力<ref group="注釈">本番組に全面協力する見返りとして、『スター誕生!』の新人スターを新興の芸能プロダクション([[ホリプロ]]・[[サンミュージックプロダクション|サンミュージック]]・[[田辺エージェンシー]]など)に配分したという。</ref>を得た上で後者を選択<ref name=":0" />。真っ向からこの挑戦を受けた<ref>軍司、p.257</ref>。
 
なお、渡辺プロ側には、当時NET系列局{{efn|1975年4月にTBS系列に[[ネットチェンジ]]。}}だった[[MBSテレビ|毎日放送]]の社長、[[高橋信三]]に『あなたならOK!』の放送枠の手配の協力を仰ぎ、再三にわたり調整した結果確保できたのがNET系列月曜20時枠だったという経緯からこれ以上枠を動かせなくなり、またこの当時は、同一時間帯の表裏番組への出演は芸能事務所単位で調整し、違うタレントでも同じ事務所なら裏被りを避ける放送業界の習慣が残っていたことから、日本テレビ側が『歌のベストテン』の枠を移動するか渡辺プロ側が『あなたならOK!』からタレント引上げるかのどちらかしか選択肢がなくなった結果前述の要求へと至り、[[渡辺晋]]と井原との個人的な繋がりや、渡辺プロと日本テレビとの関係をも犠牲にせざるを得なくなったという事情があった<ref>[[松下治夫]]『芸能王国渡辺プロの真実。―渡辺晋との軌跡』[[青志社]]、[[2007年]]7月{{要ページ番号|date=2016年3月}}</ref>。
 
日本テレビは渡辺プロとの共同制作の金曜日22時からの新番組の予定を白紙にし、その時間帯を使い『[[金曜10時!うわさのチャンネル!!]]』を開始した。この番組には渡辺プロのタレントを一切出演させなかったが、[[視聴率]]30%台を記録することもあった。これに対し、『あなたならOK!』は出演者が渡辺プロ所属のタレントばかりとなり、他のプロダクション所属のタレントは出演しなかったこと、視聴者の音楽嗜好の変化などが響き、視聴率は低迷。番組そのものも半年でレギュラー番組としては終了した{{efn|単発特番としてはその後も継続した。}}<ref name=":0" />。渡辺プロの一強が崩壊する遠因にもなった<ref name=":0" />。
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== 番組の終了とその後 ==
番組末期の[[1980年]][[10月13日]]は、[[特別番組]]として19:30からの90分に拡大(当時クロスネットだった局は20:00飛び乗り{{efn|20時の飛び乗り時には簡易的なオープニングとして、[[後楽園球場]]・[[横浜スタジアム]]の電光掲示板と、銀座・和光の横にあった[[朝日新聞]]の電光ニュースに惜別のメッセージが映し出される中継映像が流された。スポンサーセールスは、その後の『トップテンシリーズ』の特番時と同様に前半30分はロート製薬の一社提供、20時台は本番組のスポンサー(ただしロート製薬の[[オープニングキャッチ]]はなし)。}})して『山口百恵スペシャル ザ・ラスト・ソング』が放送される。百恵の他、ゲスト出演者は「花の中三トリオ」の森昌子・桜田淳子、「新御三家」の野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹、さらに当番組の司会者の堺・郁恵・徳光らが登場。また、全国各地のファンの様子を伝えるリポーターとして徳光が当時総合司会を務めていた『[[ズームイン!!朝!]]』の各局キャスターも登場した。百恵は番組の冒頭で「[[秋桜 (山口百恵の曲)|秋桜]]」、最後に「[[さよならの向う側]]」を歌唱。そしてエンディングでは、ゲスト出演者らが「ザ・ラストソング」(作詞:桜田淳子、作曲:野口五郎)を合唱したが、百恵は同年[[10月5日]]に開催した[[日本武道館]]のファイナルコンサートなどで見せた涙は一切流さず、観客らに向い晴れやかな笑顔でサラリと手を振って、秋桜の花道の向こうに消えていった。この特番が百恵の現役歌手として最後のテレビ生出演となり、百恵は2日後の[[10月15日]]を限りに芸能界から引退した。
 
[[1981年]][[3月23日]]放映分をもって当番組を終了、約12年に亘る歴史に幕を下ろし、翌週からの新番組『[[ザ・トップテン]]』に引き継がれた。最終回では歴代{{color|red|紅組キャプテン}}から水前寺清子・岡崎友紀・大場久美子がゲスト出演(倍賞美津子と今陽子は未出演)、そして結果は{{color|red|18}}×{{color|gray|7}}で{{color|red|紅組}}の優勝だったが、歴代キャプテンの一人である水前寺清子の計らいで、12年間一貫して{{color|gray|白組キャプテン}}を務めた堺に優勝カップが渡された。
 
{{color|gray|白組キャプテン}}として約12年出演した堺と、最後の1年間{{color|red|紅組キャプテン}}を担当した郁恵は、そのまま『ザ・トップテン』の司会として続投することになる。進行担当の徳光も『ザ・トップテン』のコーナー出演者で続投、その後は『歌のトップテン』『[[歌のワイド90分!]]』『[[速報!歌の大辞テン]]』といった日本テレビの歌番組の司会を務めた{{efn|当番組で「ウソ発見器」のナレーションや代理進行役などを務めた小林完吾も『ザ・トップテン』で[[小倉淳]]不在時の「エレクトリックお兄さん・ご主人」の代役「エレクトリック上司」を務めた。また、1985年8月12日放送分では放送中の[[日本航空123便墜落事故#報道|日本航空123便墜落事故]]に関する臨時ニュースのキャスターとして番組に顔を出した。}}
 
番組終了から13年後の[[1994年]][[3月31日]]には『[[木曜スペシャル]]』の最終回で'''「[[今夜復活・紅白歌のベストテン]]」'''と銘打ち、一夜限りの復活を遂げた(そのことに関しては『[[今夜復活・紅白歌のベストテン]]』を参照)。また、その前年の[[1993年]][[12月31日]]放送の『[[スーパー電波バザール 年越しジャンボ同窓会]]』では、「ウソ発見器」が[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]のコーナー司会で1回だけの復活を果たした(なお質問は、小林完吾のナレーションでなく、ダウンタウンが担当)。
また、その前年の[[1993年]][[12月31日]]放送の『[[スーパー電波バザール 年越しジャンボ同窓会]]』では、「ウソ発見器」が[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]のコーナー司会で1回だけの復活を果たした(なお質問は、小林完吾のナレーションでなく、ダウンタウンが担当)。
 
[[1992年]]の『[[24時間テレビ 「愛は地球を救う」]]』番宣CMでは、同年のテーマが「愛の歌声は地球を救う」であったことから番組パーソナリティのダウンタウン・[[松本人志]]が『ベストテン』のテーマ曲を口ずさみ、相方の[[浜田雅功]]に「最高!」と投げやりな口調でツッコミを入れられていた。
 
[[2014年]][[8月17日]]から[[通信衛星|CS]][[衛星放送|放送]]・[[歌謡ポップスチャンネル]]にて再放送が開始された(日曜日21時00分 - 22時00分)。堺・郁恵時代の1981年の放送分からのものを放送している。なお放送では、「放送回数」「生放送」「また来週」の[[スーパーインポーズ (映像編集)|テロップ]]はそのまま放送するが、提供クレジットと「電話審査員への賞品の紹介」は全て省かれている。
 
== 主なスタッフ ==