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m 打ち間違い?:菅家→関係、Varehrung→Verehrung、ūber→über
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同1903年{{R|宇良田唯の生涯}}{{R|年の異説|group="*"}}、良き理解者だった父が死去した。唯は深く悲嘆したが、当時は空路がなく帰国が容易でなかったこともあり{{R|ドクトルたちの奮闘記_p192}}、涙を堪えて、留学期間を1年短縮して勉学に励んだ{{R|西日本新聞20180226m_p24}}。兄も責任をもって、学費の送金を続けた{{R|熊本大学学報534_p7|ドクトルたちの奮闘記_p192}}。[[日露戦争]]の開戦後は、小国である日本の者として小馬鹿にされることもあったが、戦争で日本が勝利すると、周囲の目も変わり始めた{{R|熊本開発199305_p60|プリーズ200406_p20}}。
 
1905年(明治38年)2月上旬、唯は新生児淋菌性結膜炎の予防法に関する学位論文{{R|日本医史学雑誌199505_p82|西日本新聞20180226m_p24}}「Experimentelle Untersuchungen ūberüber den Wert des so genannten Credéschen Tropfens(所謂クレーデ点眼液の効果に関する実験的研究)」をドイツ語で書き上げ、同1905年の眼科学専門雑誌『Zeítschrift für Aúgenheilkunde』に掲載された{{R|ドクトルたちの奮闘記_p196|文学部論叢200203_p38}}。この論文に続き、同1905年2月から口頭試問を受けた末、唯は念願の医学士号「ドクトル・メディツィーネ」を得た{{R|ドクトルたちの奮闘記_p196}}<ref name="慶応義塾大学日吉紀要2011_p214">{{Harvnb|石原|眞岩|2011|pp=214-215}}</ref>。マールブルク大創設以来、女性初の医学士号取得者であり、日本人女性としても初めてのことであった{{R|西日本新聞20180226m_p24}}{{refnest|group="*"|この異例の措置は、北里柴三郎の同僚、マールブルク大の衛生学教授兼同衛生学研究所所長であった[[エミール・アドルフ・フォン・ベーリング]]の力によるものとの推測もある{{R|ドクトルたちの奮闘記_p194|ドクトルたちの奮闘記_p196}}。ちなみに、ドイツ女性でマールブルク大での初の医学士号取得者は、この翌々年の1907年のアリックス・ヴェスターカンプであり、このときもマールブル大は女生徒を公式に受け入れていなかった{{R|ドクトルたちの奮闘記_p194}}。なお日本国内で女性初の医学博士は、1930年(昭和5年)の宮川庚子(みやがわ かのえこ)であり、宇良田唯より25年も後のことである{{R|熊本開発199305_p60}}{{Sfn|西条|2009|p=139}}。}}。マールブルク大の附属文書館に保管されているドクトル・メディツィーネ受験者たちの書類によれば、男性受験生たちは慣例に基づき、専門領域の受験料として350マルクを支払ったが、唯は専攻する眼科以外にも全教科の口頭試験を受け、通常より多い525マルクの受験料を費やしており、加えて2週間もの口頭試験に耐え抜いての快挙であった{{R|ドクトルたちの奮闘記_p196}}{{Sfn|石原|2012|p=198}}。
 
=== 帰国 ===
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== 没後 ==
唯の存命当時は、女医界における先駆者として、女医界では注目されたものの、同時期の先駆者の1人である吉岡彌生らと比較すると、日本から離れた期間が長いため、一般的には関心は持たれなかった<ref name="文学部論叢200203_p29">{{Harvnb|上村|2002|p=29}}</ref>。昭和40年頃からは郷土史家や関係者の間で唯のことが語られるようになったが、それも断片的なもので、資料が不確実なために誤りも散見された{{R|文学部論叢200203_p29}}{{refnest|group="*"|一例として、ドイツでの留学先がベルリン大学とされていることがある{{R|熊本大学学報534_p7|文学部論叢200203_p29}}。『天草海外発展史』でもベルリン大学とされているが{{R|天草海外発展史19851215_p214}}、石原あえかはこの記述を誤りと指摘しており、同書について「細部に事実菅家関係の不一致が複数認められ、注意を要する」と述べている{{Sfn|石原|2012|p=263}}。}}。
 
1992年(平成4年)10月、日本人女性初のドイツ医学士号取得の功績により、社会に貢献した熊本の人物を称える「熊本県近代文化功労者」の1人として選ばれた{{R|熊本県近代文化功労者一覧}}<ref name="西日本新聞19921008m_p20">{{Cite news|和書|title=県近代文化功労者に琵琶師の山鹿さんら8人 熊本|newspaper=西日本新聞|edition=朝刊|date=1992-10-8|page=20|language=ja}}</ref>。このことが契機となり、唯の研究は徐々に進み始め、文献でも取り上げられるようになった{{R|文学部論叢200203_p29}}{{Sfn|吉川|2019|p=75}}。
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日本初の女医である[[荻野吟子]]が、女人禁制の医学校で男装で学んでいたことと同様<ref>{{Cite web|url=https://epilogi.dr-10.com/articles/1036/ |title=第1回 与えられなかった女医と、与えられた女医|accessdate=2021-6-18|date=2015-12-17|website=医師のキャリア選択を支援するWebマガジン【エピロギ】}}</ref>、唯も学生時代は男装して学校に通っていた{{R|エピロギ20160412}}。また、日本人の平均身長が男女共に160センチメートルに満たなかった当時、身長164{{R|プリーズ200406_p18}}、または165センチメートル以上で、男性と間違われるほどの体格で{{refnest|group="*"|明治初期は特に日本人の身長が低い時代であり、平均身長は男性が155センチメートル、女性が143センチメートルであった{{R|ドクトルたちの奮闘記_p188}}。ちなみに当時、特に身長の高かった著名人として、福沢諭吉(173.5センチメートル)が挙げられ{{R|ドクトルたちの奮闘記_p188}}、唯の夫の常三郎はさらに長身の約175センチメートルであった{{R|ドクトルたちの奮闘記_p210}}。}}。「動きやすいように」と常に袴を着用し{{R|プリーズ200406_p20}}、歩くときには袴の裾を蹴飛ばすように歩いた{{R|ドクトルたちの奮闘記_p188|プリーズ200406_p18}}。男性的な性格は、幼少時から成人後まで変わらなかったようで、人力車に乗ると、車夫から「旦那、どこへめえりませう(旦那、どこへ参りましょう)」と言われ{{R|ドクトルたちの奮闘記_p182|熊本開発199305_p58}}、男性に間違われたことを喜んだといわれる{{R|エピロギ20160412}}。[[女性差別]]の時代にあって、差別や苦難も経験したはずだが、そうした差別に悩んだよりもむしろ、いかに男のように振る舞うかを楽しむ余裕を持った女性だったともみられ、済生学舎入学からわずか3年で医師に、留学からわずか2年で医学士号を取得できたのは、そうした強くて広い心によるものとする意見もある{{R|エピロギ20160412}}。その体格や、医学を望んで結婚を捨てたとの逸話から、「並外れた」を意味する現地の方言で「とつけもにゃあ女子(おなご)」とも呼ばれた{{R|ドクトルたちの奮闘記_p184|プリーズ200406_p18}}。
 
そうした女傑ぶりの一方で、ドイツ留学時には生命保険を契約しており、留学中に死去したときには母が受取人として保険金千円(当時の米価は1升が15銭から16銭程度)を受け取ることになっており{{R|文学部論叢200203_p32}}、唯は莫大な渡航費用を負担した両親へ恩返しするつもりだったとも考えられている{{R|熊本大学学報534_p7}}。学位取得時の論文の冒頭にも「Meiner lieben Mutter und dem Andenken meines lieben Vaters Dankbarkeit und VarehrungVerehrung gewidmet(愛する母と愛する亡き父に、感謝と尊敬の気持ちを込めて捧げる)」との献辞が添えられている{{R|ドクトルたちの奮闘記_p196|文学部論叢200203_p38}}。
 
また、中国の同仁病院で働いていた時代の肖像では、歳をとるにつれて表情が柔和になっており、多忙ながらも充実した生活を送っていたことが窺える{{R|プリーズ200406_p20}}。当時の中国では日本人が圧倒的な優位にあったが{{R|ドクトルたちの奮闘記_p212}}、唯は病院での患者に対しては、国籍や貧富の差を嫌って、平等に接した{{R|牛深観光ガイド|タダ女史顕彰碑・生家跡}}。富裕層階級の婦人が診療に訪れることもあったが、そのようなときでも富裕層を差し置いて、最も具合の悪そうな患者から先に診察した{{R|熊本開発199305_p60|ドクトルたちの奮闘記_p212}}。往診料を払えない患者が、夜具を売って金に換えようとしても、「そんなことをして、病気が悪化したらどうするのですか」と、それを思い留まらせ{{R|くまもとのこころ_p19|天草海外発展史19851215_p220}}、逆に布団の下にそっと金を置いたり{{R|牛深観光ガイド|タダ女史顕彰碑・生家跡}}、そばにいる子供に金を握らせたり、といった逸話が残されている{{R|熊本開発199305_p60}}。「[[医は仁術]]」の理想を実践し{{R|西日本新聞20180226m_p24}}<ref name="熊本開発199305_p50">{{Harvnb|石井|1993|p=50}}</ref>、食事などは周囲の看護婦たちと同様に済ませて{{R|熊本開発199305_p50}}、夫と共に極めて質素な生活を送った{{R|牛深観光ガイド}}。誰にでも平等に接することで、患者たちからの信頼も厚かった{{R|プリーズ200406_p20}}。人々からは深く敬慕されて、「女神様」とも呼ばれた{{R|シンシア201901_p2}}。