削除された内容 追加された内容
m 曖昧さ回避ページマッカーサーへのリンクを解消、リンク先をダグラス・マッカーサーに変更(DisamAssist使用)
m これは細部の編集です
16行目:
|ウィキソース=日本國憲法
}}
{{読み仮名_ruby不使用|'''日本国憲法'''|にほんこくけんぽう|にっぽんこくけんぽう、[[旧字体]]:日本國憲󠄁法、{{lang-en-short|Constitution of Japan}}}}は、現在の[[日本]]の[[国家]][[形態]]および[[統治]]の[[組織]][[作用]]を規定している[[憲法]]{{sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2018a|p=「日本国憲法」}}<!--{{要ページ番号|date=2020年4月}}--><!--←必要性不明。sfnによる「参考文献」でのリンク記載があり、出典内容を直接検証可能(https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95-110162#E3.83.96.E3.83.AA.E3.82.BF.E3.83.8B.E3.82.AB.E5.9B.BD.E9.9A.9B.E5.A4.A7.E7.99.BE.E7.A7.91.E4.BA.8B.E5.85.B8.20.E5.B0.8F.E9.A0.85.E7.9B.AE.E4.BA.8B.E5.85.B8)-->。
 
<!--[[民定憲法]]として--><!--←出典({{sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2018a|p=「日本国憲法」}})に存在しない-->「日本の[[民主]]的変革の基本原理」を提供する憲法として[[1946年]]([[昭和]]21年)11月3日に[[公布]]され、[[1947年]](昭和22年)5月3日に[[施行]]された{{sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2018a|p=「日本国憲法」}}<!--{{要ページ番号|date=2020年4月}}--><!--←必要性不明。上記と同じ理由-->。[[日本国憲法第10章]]により、同憲法は日本の[[法]]体系における最高法規に位置付けられる。'''{{Ruby|昭和憲法|しょうわけんぽう}}'''、あるいは単に'''{{Ruby|現行憲法|げんこうけんぽう}}'''とも呼ばれる。
 
'''昭和憲法'''(しょうわけんぽう)、あるいは単に'''現行憲法'''(げんこうけんぽう)とも呼ばれる。
 
== 概要 ==
26 ⟶ 24行目:
{{see also|憲法記念日 (日本)}}
{{右|
[[ファイル:Nihon Kenpo01.jpg|thumb|250px|none|日本国憲法原本「上諭」(1ページ目)]]
[[ファイル:Nihon Kenpo02.jpg|thumb|250px|none|日本国憲法原本「[[御名御璽]](ぎょめいぎょじ)と大臣の副署」(2ページ目)]]
[[ファイル:Nihon Kenpo03.jpg|thumb|250px|none|日本国憲法原本「大臣の副署」「前文」(3ページ目)]]
}}
[[欽定憲法]]に対して[[民定憲法]]として分類され{{sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2020|p=「民定憲法」}}、社会主義憲法に対して[[ブルジョア憲法]]([[資本主義]]憲法)として分類されている{{sfn|Britannica Japan Co., Ltd.|2018b|p=「ブルジョア憲法」}}<!--{{要ページ番号|date=2020年4月}}--><!--←必要性不明。上記と同じ理由-->{{sfn|吉田|2018|p=「憲法」}}<!--{{要ページ番号|date=2020年4月}}--><!--←必要性不明。上記と同じ理由-->。他の多くの国の憲法と同じように、[[硬性憲法]]であり{{sfn|樋口陽一|1992|p=74-75}}、人権規定と統治規定を含む。また象徴天皇制や間接民主制、権力分立制、地方自治制度、国務大臣の文民規定が盛り込まれ、加えて戦争の放棄、刑事手続(犯罪捜査裁判の手続)についての詳細な規定等もなされている。
 
{{要出典範囲|1945年(昭和20年)<!-- 8月15日: 降伏日については諸説あるのでコメントアウト -->に、[[ポツダム宣言]]を受諾して[[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]]に対し[[日本の降伏|降伏]]した[[日本国政府|日本政府]]は、そこに要求された「[[日本軍]]の[[無条件降伏]]」「日本の[[民主主義]]的傾向の復活強化」「[[基本的人権]]の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。|date=2020年4月}}
36 ⟶ 34行目:
{{要出典範囲|[[GHQ]]は、占領以来半年、日本の[[天皇制]]がいかに根強いものであるかを知り尽くしており、もし天皇制を廃止して[[共和制]]を実施したら大混乱をきたし、[[アメリカ]]の占領統治が収拾不能に陥ることは火を観るより明らかであると認識していたが、[[ソビエト連邦|ソ連]]が[[1946年]]2月26日に第一回総会の開会が予定されていた[[極東委員会]]において、日本に共和制を布くことを決定させて、日本を大混乱に陥れ、それに乗じて[[北海道]]侵入を敢行しようと策動し、ソ連、[[中華民国|中国]]、[[フィリピン]]、[[オーストラリア]]、[[ニュージーランド]]などによって支持されそうな形勢が現れたという情報をつかんだ|date=2020年4月}}。GHQはこれを阻止するために、先手を打って日本の憲法を早急に改正し、天皇の権能を全面的に剥奪して、極東委員会に対しては、日本の民主化は完全に終わり、あえて共和制を布く必要はないとの了解を求め、他方、日本国民に対しては、象徴天皇の名称を憲法に残すことによって、天皇制は存続され、日本の国体は変革されない、と納得させる以外に手はないとの結論に達した<ref>菅原裕『日本国憲法失効論』{{要ページ番号|date=2020年4月}}</ref>。
 
[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]元帥の命令によってわり僅かずか1週間で作成された英文の[[民政局]][[マッカーサー草案|草案]]を骨子として、[[連合国軍占領下の日本|連合国軍占領中]]に[[連合国軍最高司令官総司令部]]の監督の下で、徹夜して1日半で「憲法改正草案要綱」を作成した<ref name="世界大百科事典日本国憲法">『[[世界大百科事典]]』([[平凡社]])「日本国憲法」の項目より{{要ページ番号|date=2020年4月}}</ref>。民政局草案を起草したのは、民政局長の[[コートニー・ホイットニー]]と民政局員の[[マイロ・ラウエル]]を中心とした[[アメリカ人]]スタッフである<ref name="constitution-us-authors">{{Cite book|title=The World Transformed:1945 to the Present|last=Hunt|first=Michael|publisher=Oxford University Press|year=2013|isbn=9780199371020|location=|pages=86|quote=|via=}}</ref><ref name=Dower(1999)>{{cite book|last=Dower|first=John W.|title=Embracing defeat: Japan in the wake of World War II|year=1999|publisher=W.W. Norton & Co/New Press.|location=New York|isbn=978-0393046861|pages=365–367|edition=1st}}</ref>。
 
その後の紆余曲折を経て起草された新憲法案は、[[大日本帝国憲法]][[大日本帝国憲法第73条|73条]]の憲法改正手続に従い、[[1946年]](昭和21年)5月16日の第90回[[帝国議会]]の審議を経て若干の修正を受けた後、[[枢密院]]が[[10月29日]]に新憲法案を可決、改正が成立した。
 
[[極東委員会]]は1946年10月17日「日本の新憲法の再検討に関する規定」の政策決定を採択していたが、吉田内閣及び昭和天皇は[[1946年]](昭和21年)[[11月3日]]、公布文の[[上諭]]を付したうえで日本国憲法を[[公布]]した<ref>憲法制定の経過に関する小委員会『[[s:憲法制定の経過に関する小委員会報告書/日本国憲法制定経過年表#1946|日本国憲法制定経過年表]]』、1961年。</ref>。上諭文は10月29日の閣議で決定し、10月31日昼に吉田総理が上奏し裁可を得た。
<blockquote {{日本国憲法/blockquote@style}}>
 
61 ⟶ 59行目:
 
2017年現在、現行憲法としては世界で最も長い期間改正されていない憲法である<ref name="asahi2017">{{Cite web|url=https://www.asahi.com/articles/ASK515SJQK51UEHF007.html|title=日本国憲法、実は世界最年長 長寿支える「権利」の多さ|publisher=朝日新聞デジタル|accessdate=2018-05-18|archiveurl=https://web.archive.org/web/20170519011644/https://www.asahi.com/articles/ASK515SJQK51UEHF007.html|archivedate=2017年5月19日}}(Webアーカイブ)</ref><ref
group="注釈">出典元記事の記載では、施行されてから一度も改正されていないという立場であるが、日本国憲法が一度も改正されていないか否かは、行われた改正手続き通り、大日本帝国憲法の全面改正として日本国憲法を捉えるか、事実上大日本帝国憲法を破棄して制定された新憲法と捉えるかで異論がある。</ref>。2004年(平成16年)10月3日には、施行期間が20973日に達し大日本帝国憲法の施行期間(20972日)を追い抜いた。日本国憲法は、[[当用漢字|当用漢字表]]と[[現代仮名遣い|現代かなづかい]]の告示より前に公布されたもので、原文の漢字表記は当用漢字以前の[[旧字体]]であり、仮名遣いはかつ[[歴史的仮名遣]]である。
 
原本は[[国立公文書館]]に保管されており、不定期に公開されている<ref>[http://www.jiji.com/jc/article?k=2017043000342&g=soc 日本国憲法原本など公開=施行70年で特別展-東京:時事ドットコム] - [[時事通信社]]{{リンク切れ|date=2020年4月}}</ref>。
100 ⟶ 98行目:
日本国憲法は9条1項で、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる[[戦争]]と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と謳っている。さらに同条2項では、1項の目的を達するために「[[軍隊|陸海空軍]]その他の戦力」を保持しないとし、「国の[[交戦権]]」を認めないとしている。
 
憲法9条の解釈について学説には「国際紛争を解決する手段」ではない戦争というものはありえず憲法9条第1項で全ての戦争が放棄されていると解釈する立場(峻別不能説)<ref>樋口陽一・佐藤幸治・中村睦男・浦部法穂『注釈日本国憲法上巻』(1984年)青林書院、177ページ</ref>、憲法9条第1項の規定は「国際紛争を解決する手段」としての戦争放棄を定めたもので[[自衛戦争]]までは放棄されていないが、憲法9条第2項で戦力の不保持と交戦権の否認が定められた結果として全ての戦争が放棄されたと解釈する立場(遂行不能説)<ref>佐藤功『憲法(上)新版』(1983年)有斐閣、116-117ページ</ref>、憲法9条第1項の規定は「国際紛争を解決する手段」としての戦争放棄を定めたものであり自衛戦争までは放棄されておらず、憲法9条第2項においても自衛戦争及び自衛のための戦力は放棄されていないとする立場(限定放棄説)<ref>大石義雄『日本憲法論(増補第2刷)』(1974年)嵯峨野書院、274-279ページ</ref>がある<ref>それぞれの学説について野中俊彦・高橋和之・中村睦男・高見勝利『憲法(1) 第4版』(2006年)有斐閣、164-166ページ参照</ref>。
 
このうち限定放棄説は憲法9条は自衛戦争を放棄しておらず自衛戦争のための「戦力」も保持しうると解釈する<ref>大石義雄『日本憲法論(増補第2刷)』(1974年)嵯峨野書院、274-279ページ</ref>。これに対して政府見解は憲法9条第2項は「戦力」の保持を禁止しているという解釈のもと、これは自衛のための必要最小限度の実力を保持することを禁止する趣旨のものではなく、これを超える実力を保持することを禁止する趣旨であると解釈している<ref>昭和29年12月21日衆議院予算委員会、林法制局長官答弁</ref><ref>昭和32年4月24日参議院予算委員会、岸総理答弁</ref><ref>昭和47年11月13日参議院予算委員会、吉國内閣法制局長官答弁</ref>。また、政府見解は交戦権を伴う自衛戦争と個別的自衛権に基づく自衛行動とは別概念で後者について憲法上許容されていると解釈しており<ref>平成11年9月13日参議院予算委員会、大森内閣法制局長官答弁</ref><ref>平成11年3月15日参議院外交防衛委員会、秋山收内閣法制局第一部長答弁</ref>、平成11年の参議院予算委員会において[[大森政輔]]内閣法制局長官(当時)は「個別的自衛権に基づく我が国を防衛するために必要最小限度の自衛行動というものは憲法が否定していないということを申し上げたのでございまして、いわゆる戦争の三分類による自衛戦争ができるんだということを申し上げたわけではないと。自衛戦争という場合には当然交戦権が伴うんでしょうけれども、先ほど我が国がなし得ると申し上げましたのは、自衛戦争という意味よりももう少し縮減された、あるいは次元の異なる個別的自衛権に基づく自衛行動というふうにお聞き取りいただきたいと思います」<ref>1999年(平成11年)9月13日参議院予算委員会、大森内閣法制局長官答弁</ref>と述べている。また、平成11年の参議院外交防衛委員会において[[秋山收]]内閣法制局第一部長(当時)は「自衛戦争の際の交戦権というのも、自衛戦争におけるこのような意味の交戦権というふうに考えています。このような交戦権は、憲法九条二項で認めないものと書かれているところでございます。一方、自衛行動と申しますのは、我が国が憲法九条のもとで許容される自衛権の行使として行う武力の行使をその内容とするものでございまして、これは外国からの急迫不正の武力攻撃に対して、ほかに有効、適切な手段がない場合に、これを排除するために必要最小限の範囲内で行われる実力行使でございます」<ref>平成11年3月15日参議院外交防衛委員会、秋山收内閣法制局第一部長答弁</ref>と述べている。
115 ⟶ 113行目:
{{節スタブ|date=2015年12月}}
=== 天皇 ===
大日本帝国憲法では、天皇は「国ノ[[元首]]ニシテ[[統治権]]ヲ{{Ruby|総攬|そうらん}}」する存在([[大日本帝国憲法第4条|第4条]])であって、神聖不可侵な存在とされた([[大日本帝国憲法第3条|第3条]])。しかしこれらの権限は国務大臣による[[輔弼]](advice、助言)に基づき、国務大臣による副署がなければ法的効力を有しない([[大日本帝国憲法第55条|第55条]])。
 
日本国憲法(現行憲法)では、天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」([[象徴天皇制]]、[[日本国憲法第1条|第1条]])であり「主権の存する日本国民の総意に基く」地位とされた(国民主権、同条)。また、天皇は憲法に定める[[国事行為]]のみを行い、国政に関する権能を有しないものとされた([[日本国憲法第4条|第4条第1項]])。これらの権限は内閣の助言(advice)に基づき行使され、内閣の承認を必要とする([[日本国憲法第3条|第3条]])。なお、現行憲法には[[日本の元首]]に関する規定はない。
 
天皇の持つ権限について新旧憲法で共通している点は、天皇が独断で命令を出したりすることは出来ず内閣の構成員である大臣のアドバイス助言に基づく点、大臣の了承がなければならない点である。
 
一方異なる点は、アドバイス助言と了承を伴う天皇の行為が国政に関わる行為かどうかである。どの大臣がどのようなことを天皇にアドバイス助言するのかという要素は新旧憲法両方において書かれていないが、新憲法では国政に関わる行為に天皇がかかわらない為に問題にならないこの曖昧さが、旧憲法では極めて重大な大臣同士の権限の衝突を引き起こす上に、誰が国政に責任を追うのかしばしば曖昧になることがあった。これらの権限の衝突を調停する仕組みは憲法の外に置かれた機関(憲法外機関、[[内大臣]]・[[枢密院]]など)に委ねられ、憲法外の調停機関を少数の人間が牛耳ることにより思うままに独裁的な国政を行うことさえ出来た<ref>[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/046/046tx.html ラウエル「日本の憲法についての準備的研究と提案のレポート」 1945年12月6日]</ref>。
 
=== 立法府 ===
帝国憲法においては、天皇の立法権協賛機関として、[[衆議院]]と[[貴族院 (日本)|貴族院]]からなる[[帝国議会]]が置かれていた。現行憲法では「国権の[[最高機関]]であって、国の唯一の立法機関」たる[[国会 (日本)|国会]]が設置されている
 
現行憲法では「国権の[[最高機関]]であって、国の唯一の立法機関」たる[[国会 (日本)|国会]]が設置されている。
 
=== 行政府 ===
旧憲法には[[内閣]]および[[内閣総理大臣]]の規定は置かれず、これらは[[勅令]]である[[内閣官制]]に基づいて設置された。憲法では国務各大臣が天皇を{{Ruby|輔弼|ほひつ}}し、天皇に対してのみ責任を負うものとされた([[大日本帝国憲法第55条|第55条第1項]])。内閣総理大臣および国務大臣は天皇が任免するものとされたが([[大日本帝国憲法第10条|第10条]])、実際には[[元老]]や[[重臣]]、[[内大臣]]など、憲法外の機関が人選した。
 
現憲法では、内閣([[日本国憲法第65条|第65条]]等)および内閣総理大臣([[日本国憲法第6条|第6条第1項]]等)の規定が置かれた。天皇は[[国会]]の指名に基づいて国会議員の中から内閣総理大臣を任命し(第6条第1項)、内閣総理大臣が国務大臣を任免して内閣を組織し(第68条、第66条第1項)、内閣は行政権の行使について国会に対し連帯して責任を負う([[日本国憲法第66条|第66条第3項]])。内閣と国会([[衆議院]]および[[参議院]])との関係については様々に説明されるものの、[[議院内閣制]]を採用しているものと理解されている<ref>{{Cite book|和書|author=大石眞 |title=憲法講義 |date=2004 |publisher=有斐閣 |volume=1|isbn=4641129568 |ref=harv}} p88</ref>(第66条3項、[[日本国憲法第67条|第67条]]1項、[[日本国憲法第68条|第68条]]1項、[[日本国憲法第69条|第69条]]、[[日本国憲法第70条|第70条]]、[[日本国憲法第63条|第63条]])。また内閣が外交を処理する権限等を持つことから、学説の多くは内閣あるいは内閣総理大臣を元首とする{{sfn|芦部信喜|2016|p=47}}。
 
====国務大臣の任命資格====
旧憲法では、国務大臣に任命される資格(任命資格)については規定されていない([[大日本帝国憲法第55条|第55条第1項]]、[[大日本帝国憲法第10条|第10条]]参照)。なお、時期により変遷があるものの、勅令により、軍部大臣([[陸軍大臣]]、[[海軍大臣]])の任命資格は現役または予備役の武官(軍人)に限られた([[軍部大臣現役武官制]]を参照)。
 
現憲法では、国務大臣を「[[文民]]」に限った([[日本国憲法第66条|第66条第2項]])。「文民」の解釈については諸説あるものの、「旧職業軍人の経歴を有する者であって、軍国主義思想に深く染まっていると考えられるものは、文民ではない」と解されている<ref>1973年(昭和48年)12月19日、衆議院建設委員会、[[大村襄治]]内閣官房副長官答弁。</ref>。この趣旨は、軍部大臣現役武官制が軍による政治への介入を招き、軍の統制を困難にした反省から、[[文民統制]]を明文化することにある。なお、現職[[自衛官]]は文民に含まれないものの、元自衛官は文民に含まれると解されている<ref>1973年(昭和48年)12月6日、衆議院予算委員会、[[吉国一郎]]内閣法制局長官答弁。</ref>。また、国務大臣の過半数は、国会議員の中から選ばなければならないとされた([[日本国憲法第68条|第68条第1項但し書き]])。
 
=== 司法府 ===
227 ⟶ 223行目:
 
=== 憲法改正 ===
[[憲法改正]]手続は、[[日本国憲法第96条|96条]]で定められている。まず、憲法改正案は「各議院の総議員の三分の二以上の賛成」により「国会」が発議する。この発議された憲法改正案を国民に提案し、国民の承認を経なければならない。この承認には「特別の国民投票又は国会の定める選挙」の際に行われる投票において、その過半数の賛成を必要とする。この憲法改正案が、国民の承認を経た後、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。
 
この改正手続を定める[[日本国憲法の改正手続に関する法律|国民投票法]](正式名称・日本国憲法の改正手続に関する法律)が、[[2007年]][[5月14日]]、可決・成立した。その他の論点については、[[憲法改正論議]]の項を参照のことせよ
 
== 制定史 ==
403 ⟶ 399行目:
この日マッカーサー草案を手交された場において「案を飲まなければ天皇を軍事裁判にかける」「我々は原子力の日光浴をしている」などの恫喝的言動がなされた。
 
「マッカーサー草案」を受け取った日本政府は、2月18日に、松本の「憲法改正案説明補充」<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/082shoshi.html 松本国務相「憲法改正案説明補充」 1946年2月18日]</ref>を添えて再考するよう求めた。これに対してホイットニー民政局長は、松本の「説明補充」を拒絶し、「マッカーサー草案」の受け入れにつき、48時間以内の回答を迫った。2月21日に幣原首相がマッカーサーと会見し「マッカーサー草案」の意向について確認。翌22日の閣議で、「マッカーサー草案」の受け入れを決定し、幣原首相は天皇に事情説明の奏上を行った。
 
[[2月26日]]の閣議で、「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草を決定し、作業を開始した。松本国務大臣は、法制局の佐藤達夫・第一部長を助手に指名し、入江俊郎・次長とともに、日本政府案を執筆した。3人の極秘作業により、草案は[[3月2日]]に完成した(「3月2日案」<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/086shoshi.html 日本国憲法「3月2日案」の起草と提出]</ref>)。[[3月4日]]午前10時、松本国務大臣は、草案に「説明書」を添えて、ホイットニー民政局長に提示した。総司令部は、日本側係官と手分けして、直ちに草案と説明書の英訳を開始した<ref group="注釈">なお、GHQ草案の作成に関与したGHQ民政局チャールズ・ケーディスはのちのインタビュー(インタビュー日時・場所、インタビュアー等は不明。)で、日本側は文語体で書くことを頑なに主張したが、文語体で書かれれば日本側が内容を巧妙にすり替えることができ、検閲で身落とすかもしれないと危惧したため日本側の主張を退けた、と語ったとされる([https://books.google.co.jp/books?id=eABj0xcxGtkC&pg=PA345 『戦後日本の高等教育改革政策: 「教養教育」の構築』]土持ゲーリー法一、玉川大学出版部, 2006 )。もっとも、このとき作成された確定案(「[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/091/091tx.html 3月5日案]」)および「[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/093/093tx.html 憲法改正草案要綱]」(「3月6日案」)は文語体である。</ref>。英訳が進むにつれ、総司令部側は、「マッカーサー草案」と「3月2日案」の相違点に気づき、松本とケーディス・民政局行政課長の間で激しい口論となった。午後になり、松本は、経済閣僚懇談会への出席を理由に、総司令部を退出した。夕刻になり、英訳作業が一段落すると、総司令部は、続いて確定案を作成する方針を示した。午後8時半頃から、佐藤・法制局第一部長ら日本側とともに、徹夜の逐条折衝が開始された。成案を得た案文は、次々に首相官邸に届けられ、3月5日の閣議に付議された。5日午後4時頃、総司令部における折衝は全て終了し、確定案が整った。閣議は、確定案の採択を決定して「3月5日案」<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/089shoshi.html GHQとの交渉と「3月5日案」の作成]</ref>が成立、午後5時頃に幣原首相と松本国務大臣は宮中に参内して、天皇に草案の内容を奏上した。翌[[3月6日]]、日本政府は「3月5日案」の字句を整理した「憲法改正草案要綱」(「3月6日案」<ref>同、[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/093shoshi.html 「憲法改正草案要綱」の発表]</ref>)を発表し、マッカーサーも直ちにこれを支持了承する声明を発表した。日本国民は、翌7日の新聞各紙で「3月6日案」の内容を知ることとなった。国民にとっては突然の発表であり、またその内容が予想外に「急進的」であったことから衝撃を受けたものの、おおむね好評であった<ref group="注釈">なお、アメリカ国務省およびその出先機関である総司令部政治顧問部は、「3月6日案」の内容を事前に知らされていなかった。国務省は草案を批判的に検討し、起草作業にあたった[[アルフレッド・ハッシー]]中佐が反論している(「憲法改正草案要綱」に対する国務省の反応)。</ref><ref group="注釈">3月20日には極東委員会が、マッカーサーに対し、憲法草案に対する極東委員会の最終審査権の留保と、国民に考えるための時間を与えるため総選挙を延期することなどを要求している。これに対して3月29日、マッカーサーは、極東委員会の総選挙延期要求を拒否する返電を打った。さらに5月13日、極東委員会は、3点からなる「新憲法採択の諸原則」を決定した。その原則とは、 (1) 審議のための充分な時間と機会を与えられること、 (2) 大日本帝国憲法との法的連続性をはかること、 (3) 国民の自由意思を明確に表す方法により新憲法を採択することの3点。
</ref>。
 
[[3月26日]]、国語学者の[[安藤正次]]博士を代表とする「国民の国語運動」が「法令の書き方についての建議」という意見書を幣原首相に提出した。これを主たる契機として、憲法の口語化に向けて動き出した。4月2日、憲法の口語化について、総司令部の了承を得て、閣議了解が行われ、翌3日から口語化作業が開始された。まず、作家の[[山本有三]]に前文の口語化を依頼し、作成された素案を参考にして、入江・法制局長官、佐藤・法制局次長、[[渡辺佳英]]・法制局事務官らの手により、5日に口語化第1次案が閣議で承認された。<ref>国立国会図書館、「日本国憲法の誕生」[https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/03/099shoshi.html 口語化憲法草案の発表]</ref>4月16日に幣原首相が天皇に内奏し、まず憲法を口語化した後、憲法の施行後には順次他の法令も口語化することを伝えた。
 
[[4月10日]]、[[第22回衆議院議員総選挙|衆議院議員総選挙]]が行われた。総司令部は、この選挙をもって「3月6日案」に対する[[国民投票]]の役割を果たさせようと考えた。しかし、国民の第一の関心は当面の生活の安定にあり、憲法問題に対する関心は第二義的なものであった。選挙を終えた[[4月17日]]、政府は、正式に条文化した「憲法改正草案」<ref>同、口語化憲法草案の発表</ref>を公表し、[[枢密院 (日本)|枢密院]]に諮詢した。[[4月22日]]、枢密院で、憲法改正草案第1回審査委員会が開催された([[5月15日]]まで、8回開催)。同日に幣原内閣が総辞職し、5月22日に[[第1次吉田内閣]]が発足したため、枢密院への諮詢は一旦撤回され、若干修正の上、[[5月27日]]に再諮詢された。5月29日、枢密院は草案審査委員会を再開([[6月3日]]まで、3回開催)。この席上、[[吉田茂|吉田首相]]は、議会での修正は可能と言明した。[[6月8日]]、枢密院の本会議は、天皇臨席の下、第二読会以下を省略して直ちに憲法改正案の採決に入り、美濃部達吉・顧問官を除く起立者多数で可決した。
 
これを受けて政府は、[[6月20日]]、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に従い、憲法改正案を衆議院に提出した。[[衆議院]]は[[6月25日]]から審議を開始し、[[8月24日]]、[[GHQ]]の指示なく追加した[[国家賠償請求権]]・[[刑事補償請求権]]・[[生存権]]・[[納税]]の義務などの若干の修正を加えて<ref group="注釈">衆議院における修正点のうち、重要なものは次の通り。 (1) 前文、1条の[[国民主権]]の趣旨を明確化、 (2) 44条但書きに「教育、財産又は収入」を加えて[[普通選挙]]の趣旨を徹底、 (3) 67条、68条に関して、内閣総理大臣は国会議員の中から指名すること、国務大臣の過半数は国会議員の中から選ぶものとし、その選任についての国会の承認を削ったこと、 (4) 9条1項の冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の文言を加え、2項冒頭に「前項の目的を達するため」の文言を加えたこと、 (5) 第3章に関して、10条の「国民の要件」、17条の「国家賠償」、30条の「納税の義務」、40条の「刑事補償」の規定を新設し、25条に「全て国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」との規定を加えたこと、 (6) 98条に国際法規遵守に関する2項を追加したこと。このうち、 (1) (2) (3) は総司令部の要請によって修正された点であり、 (4) (5) (6) は衆議院の自発的な修正である。この点につき、「野中俊彦ほか著『憲法 I』有斐閣、2006年、59ページ」を参照。</ref> <ref> {{cite web|title= 衆憲資第90号「日本国憲法の制定過程」に関する資料|website=衆議院憲法審査会事務局|url= http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/shukenshi090.pdf/$File/shukenshi090.pdf|accessdate=August 23, 2020}}</ref>
419 ⟶ 415行目:
 
==== 芦田修正について ====
なお、憲法改正草案の衆議院における審議の過程では、'''[[日本国憲法第9条#芦田修正と文民条項|芦田修正]]'''と呼ばれる修正が行われた<ref>この節、「野中俊彦ほか著『憲法 I』有斐閣、2006年、150ページ」を参照。</ref>。芦田修正とは、憲法議会となった[[第90回帝国議会]]の衆議院に設置された、衆議院[[帝国憲法改正小委員会]]による修正である<ref group="注釈">小委員会で修正された条項は憲法9条だけではなく、現存する華族一代に限って身分の保障を定めた97条の削除等を行っている。[[小田部雄次]]『華族』([[中公新書]])</ref>。特に憲法9条に関する修正は委員長である[[芦田均]]の名を冠して芦田修正と呼ばれ、9条をめぐる議論ではひとつの論点となっている。
 
まず、帝国議会に提出された憲法改正草案第9条の内容は、次のようなものであった。
433 ⟶ 429行目:
 
==== 日本国憲法の公布と施行 ====
[[ファイル:Privy Council (Japan).jpg|thumb|250px|1946年(昭和21年)10月29日「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した枢密院本会議の模様]]
帝国議会における審議を通過して、[[10月12日]]、政府は「修正帝国憲法改正案」を枢密院に諮詢(19日と21日に審査委員会)。[[10月29日]]、枢密院の本会議は、天皇臨席の下で「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した(美濃部顧問官など2名は欠席)。同日、天皇は、憲法改正を裁可した。[[11月3日]]、日本国憲法が[[公布]]された。同日、貴族院議場では「日本国憲法公布記念式典」が挙行され、[[皇居外苑|宮城前]]では天皇皇后が臨席して「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」が開催された。
{{quotation| 本日、日本国憲法を公布せしめた。 <br/>この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたものである。即ち、日本国民は、みづから進んで戦争放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたものである。<br /> 朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任を重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。|昭和天皇による日本国憲法公布の勅語、1946年(昭和21年)11月3日}}
 
455 ⟶ 451行目:
この点について、憲法改正限界説に立ちつつ、これを整合的に無難に説明する見解としては、[[八月革命説]]がある。これは、天皇及び日本政府が[[1945年]](昭和20年)8月に[[ポツダム宣言]]を受諾したことで、国民の[[憲法制定権力]]を認めて主権の所在が変更し、法学的意味での革命が行われたとする説である。大日本帝国憲法は、改正条項も含めて、ポツダム宣言の受託で失効したと考える。その上で、大日本帝国憲法の改正手続を用いて新憲法を制定したのは、新旧両憲法の間に法的連続性の外観を与えることにより、急激な価値転換による混乱予防という政策的意図に基づく、と説明する<ref>宮沢俊義『憲法の原理』岩波書店、1967年。375ページ以下。</ref>。
 
一方、憲法改正限界説によれば、改正手続きが正しく行われれば主権の所在を変更することも可能で、日本国憲法への改正も問題ない。さらに、全部改正説では、日本国憲法は新憲法の制定ではなく、制定過程から見て大日本帝国憲法の全部改正で、欽定憲法であって民定憲法ではないとする見解もある<ref>佐々木惣一『改訂日本国憲法論』有斐閣、1952年。71ページ以下。</ref>。
 
この点について、日本政府は、憲法改正限界説無限界説のいずれに立つか明示することなく「日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正手続によって有効に成立したものであって、その間の経緯については、法理的に何ら問題はないものと考える。」と表明している<ref group="注釈">1985年(昭和60年)9月27日提出、「森清議員提出日本国憲法制定に関する質問主意書」に対する答弁書。本答弁書は、[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]に所属する[[衆議院議員]]の[[森清 (愛媛県の政治家)|森清]]が提出した質問主意書に対して、[[第2次中曽根内閣第1次改造内閣|中曽根内閣]]が決定したものである。質問の内容は「明治憲法の根幹は『天皇統治』であり、新憲法は、『国民主権』となっている。このように、憲法体制の根幹の改変は、その憲法の改正手続によってはできないのではないか。」というもの。</ref>。
 
==== 占領軍の関与 ====
日本国憲法は、アメリカ合衆国軍を中心とする連合国軍が日本を間接統治していた[[1946年]](昭和21年)に公布され、翌[[1947年]](昭和22年)に施行されている。さらに、その立案・制定過程においても、連合国軍総司令部が大きく関与している。このため、改正作業が行われている最中から、占領軍による憲法改正作業への介入に異議が唱えられ、日本国憲法の成立後も、同憲法は国際法上無効ではないかという[[押し付け憲法論]]が唱えられた。この立場には、日本国憲法はその制定手続と内容から無効であるとする説、または、日本国憲法は占領下では効力を有するとしても、占領終結によって失効すべきものであるとする説がある。この点については、ハーグ陸戦条約43条との整合性が問題とされている。
 
[[ハーグ陸戦条約]]第43条は、次のように定めている。
{{Quotation|国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法規を尊重して、成るべく公共の秩序及び生活を回復確保するため、施し得べき一切の手段を尽くすべし。(原文は旧字体、カタカナ書き)}}
の定めによれば、日本国憲法は、占領という異常事態の下で、しかも占領軍の圧力に屈して制定されたものであるから、同条に違反し、日本国憲法は無効であるとする<ref>相良良一「現行憲法の効力について」公法研究6号25ページ以下、1957年、参照。</ref>。こうした主張に対しては、ハーグ陸戦条約は交戦中の占領軍にのみ適用されること、日本の場合は交戦後の占領であり、したがって原則としてその適用を受けないこと、仮に適用されるとしても、ポツダム宣言・降伏文書という休戦協定が成立しているので、特別法は一般法に優先するという原則に従い、休戦条約(特別法)が陸戦条約(一般法)よりも優先的に適用されることなどが指摘されている<ref>芦部信喜『憲法学I 憲法総論』有斐閣、1992年。187ページ。</ref>。
 
なお、日本政府はこの点について「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則中の占領に関する規定は、本来交戦国の一方が戦闘継続中他方の領土を事実上占領した場合のことを予想しているものであって、連合国による我が国の占領のような場合について定めたものではないと解される」と答弁している<ref group="注釈">上掲、1985年(昭和60年)9月27日提出、「森清議員提出日本国憲法制定に関する質問主意書」に対する答弁書。この答弁書は、森清議員の「陸戦の法規慣例に関する条約(ハーグ条約)第43条は、次の如く規定している。(条文省略)憲法改正について占領軍総司令官のとった行為は、この条項に違反しているのではないか。」という質問に対して決定された。</ref>。
 
制定過程に外国人(強いていうならば占領軍)が関与した点については、議論が今もなお続いている。もっとも、新憲法成立後多くの国民がそれを支持し、[[朝鮮戦争]]時に改正を打診された政府も「その必要なし」と回答、さらに新憲法下で数十年にわたって無数の法令の運用がなされた今、憲法は無効だという主張は少数となった。憲法は慣習として成立したと説明されることもある。一方で憲法改正におおいに関与したアメリカは、1956年6月14日の[[アメリカ合衆国上院外交委員会|上院外交委員会]]秘密会において国務次官補[[ウォルター・ロバートソン|ロバートソン]]がハンド議員の質問への答えとして、アメリカが押しつけたものだと証言した。また、駐日大使を務めた、[[エドウィン・O・ライシャワー]]は著書の中で「日本人自身によって制定されたものではなかったのだ」としている。現行憲法は定着しているとしながらも、憲法制定行為はマッカーサーの越権行為であり、違法とする説は根強い<ref>青山武憲『新訂 憲法』啓正社、2000年。87ページ。</ref>。当時[[アメリカ合衆国副大統領|米国副大統領]]の[[ジョー・バイデン]]は「私たちが(日本を)核武装させないための日本国憲法を書いた」としており、日本国憲法の起草者がアメリカであることを明言している<ref>[https://mainichi.jp/articles/20160816/k00/00e/030/200000c バイデン副大統領「日本国憲法、米が書いた」]毎日新聞 2016年8月17日</ref>。
 
なお、極端なものだが、マッカーサーを事実上天皇の[[摂政]]であったとし、(当時は有効であった)大日本帝國憲法第七十五條の摂政をおいた期間での憲法・皇室典範変更を禁じる条文に反する<ref group="注釈">大日本帝国憲法 - 第七十五條: 憲法及皇室典範ハ摂政ヲ置クノ間之ヲ変更スルコトヲ得ス</ref>ので、現在の憲法は当時の憲法に違憲であり無効ではないかという意見がある<ref>渡部昇一・南出喜久治「日本国憲法無効宣言」(ビジネス社){{要ページ番号|date=2020年5月}}</ref>。だが、一般にマッカーサーは摂政とはみなされていない。摂政及び国事行為臨時代行は、成年に達した皇族が1.皇太子、皇太孫2.親王及び王3.皇后4.皇太后5.太皇太后6.内親王及び女王の順位で就任する。
478 ⟶ 474行目:
 
==== 改正されない理由 ====
日本国憲法は、現行憲法で最長、歴史上でも廃止された[[イタリア王国]]憲法(80年)に次いで2番目という長期間にわたって改正されていない<ref name=asahi2017 />。東京大学のケネス・盛・マッケルウェイン准教授は、長期間改正されない理由として、議員定数や選挙制度などの政治制度を他の法律で定めているため、各法の改正で対応できたことを挙げる<ref name=asahi2017 />。日本国憲法は、基本的な事項のみが記載された簡素な構成であり、英訳した文を他国の憲法と比較すると単語数が4998と比較的短いとする(対照的にインド憲法は極端に量が多い)<ref name=asahi2017 />。また国民の権利に関する記載が多く制定当時の憲法としては先進的とし、これらを後に追加する必要がなかったことも改正されない要因とする<ref name=asahi2017 />。
 
=== 各種の議論 ===
498 ⟶ 494行目:
 
=== 国家の自己表現 ===
いわゆる国家の自己表現(Selbstdarstellung des Staates)について、日本国憲法は規定していないが、比較憲法的に珍しいケースである。主な法源として、次のようなものがある。
 
* 日本の[[国号]]、[[政体]]に関する規定(例 日本国は自由と民主主義に基く[[民主制]][[国家]]である、など)。
515 ⟶ 511行目:
[[記念切手]]として[[1947年]][[5月3日]]、日本国憲法施行記念として50銭、1円、2種の[[切手]]と憲法の前文が印刷された額面の2倍の売価3円の無目打[[小型シート]]が発行された。図案は懸賞募集されたもので、1946年10月に募集が受け付けられ1万2000点の応募作から一等1点、二等3点などが選ばれた。しかし一等作品が国会議事堂を描いていたことから、当時の通常葉書の印面に酷似しているとして不採用になり、二等作品のうち2点が採用された。なお、応募の意匠は「憲法施行にふさわしいもの」とされ、「軍国主義、国家主義的、神道を象徴するもの、風景は不可」とされていた<ref>[[内藤陽介]]『濫造・濫発の時代』日本郵趣出版、21ページ</ref>。なお、募集時には記念切手の題名は「改正憲法施行記念」であったが、発行時には「日本国憲法施行記念」に変更された。小型シートであるが2月になって追加されたもので、当初はB7サイズで予定であったが、憲法普及会から余白に憲法条文を入れるように要望が寄せられ、B6サイズという大型サイズになった。
 
1946年12月27日に官製記念絵葉書が額面15銭で3種発行されている。取り上げられた題材は当時の著名な日本人画家の作品で、[[川端龍子]]の「不二」、[[石井柏亭]]の「平和」、[[藤田嗣治]]の「迎日」が裏面にオフセット印刷されていた。もともと外貨獲得の手段として著名画家を起用して日本国内の観光地を描く「日本絵葉書」の企画を急遽日本国憲法公布記念として題材をふさわしいものに入れ替えて発行した<ref>島田健造著、友岡正孝編『日本記念絵葉書総図鑑』日本郵趣出版、51ページ</ref>。当初第二弾の発行も計画されていたが、3枚セットで売価3円と高価であったため、売れ行きが悪く結局第一弾のみで、官製絵葉書は暑中見舞いや年賀葉書をのぞけば数十年間発行されなかった。
 
== 脚注 ==