「江戸時代の日本の人口統計」の版間の差分

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==辺境地域の人口変遷==
===蝦夷地・松前藩 (福山藩/館藩)・アイヌ人の人口変遷===
[[松前藩]] (蝦夷福山藩)は[[アイヌ人]]との交易収入を独占するため、[[和人地]]と[[蝦夷地]]を設置して往来を取締しまったが、19世初頭まで蝦夷地は人口調査の対象外であった。宝暦10年(1760(1760)の幕府巡検使への報告において和人地の人口は和人2万1647人を数えたほか、東在47人、西在50人、合計97人のアイヌ人が和人地に暮らしていた。また、福山城下の人口は安永6年(1777(1777)において、諸士1526人、寺社方170人、町方4308人であった。
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+18世紀の松前藩和人地の和人の人口変遷
!元号
!西暦
!和人人口<br>(領民人口)
!城下
!東在
1,167行目:
!rowspan=3|元号
!rowspan=3|西暦
!rowspan=3 style="white-space:nowrap"|蝦夷地・<br>松前藩全域<br>(領民人口)
!rowspan=3 style="white-space:nowrap"|和人
!colspan=6|アイヌ人
1,173行目:
!rowspan=2|合計
!colspan=4|北海道アイヌ
!rowspan=2 style="white-space:nowrap"|北蝦夷地<br>(樺太)
|-
!合計
!style="white-space:nowrap"|六箇場所<br>(松前藩領内)
!style="white-space:nowrap"|東蝦夷地<br>(千島を含む)
!style="white-space:nowrap"|西蝦夷地<br>(樺太を除く)
|-
|align=left style="white-space:nowrap"|文化元年 (家中寺社共)||align=left|1804年||56,461||32,664||23,797||21,697||526||12,227||8,944||2,100
|-
|align=left|文化年中||align=left style="white-space:nowrap"|1810年頃||58,540||31,740||26,800||||450||||||
1,203行目:
|-
|}
蝦夷地が天領になってからは和人の人口は増加し始めるが、一方でアイヌ人の人口は減少の傾向を見せる。これは和人との接触により[[天然痘]]、[[梅毒]]などの感染症が広がったことによる。文化4年(1821(1821)には蝦夷地の大藩が松前藩へ返却されたが、ペリー来航後の安政2年(1855(1855)には再び蝦夷地は天領となり、松前藩には陸奥国伊達郡と出羽国村山郡内の飛び地が与えられた。松前藩は慶応4年(1868(1868)に居城を福山城から館城に移した。明治3年(1870(1870)旧暦5月調の[[松前藩#館藩|館藩]]の族籍別人口は以下の通りである。
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+館藩の族籍別人口<br>(明治3年旧暦5月調)
!族籍
!合計
1,224行目:
|-
|}
(典拠は葭田光三 (1989(1989)<ref>葭田光三, 1989, 「アイヌ人口史―資料を中心として―」 『日本大学人文科学研究所研究紀要』 (37号), pp. 279–301.</ref>、白山友正 (1971年)<ref>(a) 白山友正, 1971, 「幕末のアイヌへの人口政策と人口」 『社会経済史学』 36巻 (6号), pp. 524–555; (b) 白山友正, 1971, 「北海道アイヌ人口史(中)」 『北海道経済史研究』 (28号), pp. 7–25; (c) 白山友正, 1971, 「北海道アイヌ人口史III」 『函大商学論究』 (6号), pp. 131–154.</ref>、関根達人 (2010(2010)<ref>関根達人, 『近世墓と人口史料による社会構造と人口変動に関する基礎的研究 (平成19年度~21年度 科学研究費補助金 (基盤研究 (B)) 研究成果報告書)』, 2010.</ref>、『新北海道史』
)
 
===琉球、奄美群島、鹿児島藩 (薩摩藩)の人口変遷===
[[琉球王国|琉球]]<ref name=Ryukyu/>は[[清]]の[[冊封]]国の建前上、江戸時代の全国人口調査の統計から除外されたが、その一方で[[鹿児島藩|鹿児島藩 (薩摩藩)]]によって琉球の宗門手札改が実施されていた。また、道之島([[奄美群島]])も明治に入って薩摩国(後に大隅国)に編入されるまで全国人口調査から除外されていたが、慶長18年(1613(1613)の琉球からの割譲以降鹿児島藩の直轄支配下にあった。これらの地域の人口は本土の人口と共に鹿児島藩の藩政史料として伝わっている。
 
以下鹿児島藩の総人口とともに奄美群島、「本琉球」<ref>『本琉球内[[大宜味村|大宜味]]間切城村人数改帳』などが存した。(『沖縄大百科事典』(1983年)沖縄タイムス、p.140)</ref>の人口をまとめる。幕府がまとめた旧国別人口([[#旧国別調査人口の変遷]]記載の薩摩国、大隅国の人口)と幕府へ報告された領民人口([[#江戸時代前期の推定人口変遷]]に示す『竹橋余筆別集』記載の元禄11年(1698(1698)と享保17年(1732(1732)の松平大隅守領人口)などは、鹿児島藩が幕府に報告した領民人口そのものであるが、本表では日向国[[諸県郡]]分の人口が判明している享保5年(1721年)分の領民人口のみを採用する。この一例を除き、他の統計はすべて武士、武家奉公人、従者などの除外人口を含む。なお鹿児島藩の人口調査は遺漏が多く、天保年間~幕末の遺漏人口は20万人以上いたとも推測されている。特に琉球は'''[[人頭税]]逃れの遺漏人口'''が多く、[[沖縄県]]発足直後に調査人口がほぼ倍増している。
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+鹿児島藩、奄美群島、琉球の人口変遷
1,237行目:
!rowspan=2 style="white-space:nowrap"|鹿児島藩・<br>琉球国全域
!colspan=6 style="white-space:nowrap"|薩隅日三ヶ国合計
!colspan=3 style="white-space:nowrap"|道之島 (奄美群島)
!colspan=3|本琉球
!rowspan=2|他国
1,256行目:
|align=left|寛永9年||align=left|1632年||||||||||||||||||||||108,958||53,610||55,348||
|-
|align=left|寛永13年<ref>寛永13年(1636(1636)の薩隅日三ヶ国人口は、薩摩国[[喜入町|喜入]]、[[枕崎市|鹿籠]]、[[鹿島町藺牟田|蘭牟田]]、[[甑島列島|甑島]]、[[水引村|水引]]、[[東郷町 (鹿児島県)|東郷]]、[[祁答院町黒木|黒木]]、[[南さつま市|久志]]、大隅国[[桜島]]、[[種子島]]、[[垂水市|垂水]]、[[輝北町|百引]]の各外城人口、日向国諸県郡[[須木村|須木]]1047人の男女別人口の記載を欠く。欠落分を補った薩隅日三ヶ国合計人口は33万~34万人と推定される。</ref>||align=left|1636年||||302,021||174,911||126,063||148,477||89,821||63,723||||||||111,669||54,496||57,173||
|-
|align=left|万治2年||align=left|1659年||||||||||||||||||||||112,764||55,721||57,043||
1,266行目:
|align=left|寛文12年||align=left|1672年||||||||||||||||||||||116,483||57,540||58,943||
|-
|align=left|延宝4年<ref>延宝4年(1676(1676)の薩隅日三ヶ国合計人口は、慶賀人口不明。</ref>||align=left|1676年||||369,062||||||||||||||||||||||||
|-
|align=left|延宝5年<ref>延宝5年(1677(1677)の薩隅日三ヶ国合計人口は、慶賀1081人の男女別人口が不明のため、男女別人口の合計と一致しない。</ref>||align=left|1677年||||380,223||222,139||157,003||||||||||||||122,213||60,558||61,655||
|-
|align=left|貞享元年||align=left|1684年||||355,387||||||183,376||117,583||54,428||||||||129,995||64,235||65,760||
1,284行目:
|align=left|正徳3年||align=left|1713年||||||||||||||||||||||157,760||||||
|-
|align=left style="white-space:nowrap"|享保6年<br>(''領民人口'')||align=left|1721年<br>&nbsp;||||&nbsp;<br>''303,642''||&nbsp;<br>''173,040''||&nbsp;<br>''130,602''||&nbsp;<br>''149,039''||&nbsp;<br>''112,616''||&nbsp;<br>''41,987''||||||||167,671<br>&nbsp;||80,009<br>&nbsp;||87,662<br>&nbsp;||
|-
|align=left style="white-space:nowrap"|享保7年~享保12年<br>(''領民人口'')||align=left style="white-space:nowrap"|1722年~1727年||||||||||||||||&nbsp;<br>''62,304''||&nbsp;<br>''31,086''||&nbsp;<br>''31,218''||&nbsp;<br>''129,642''||&nbsp;<br>''57,685''||&nbsp;<br>''71,957''||
|-
|align=left|享保14年||align=left|1729年||||||||||||||||||||||173,969||||||
|-
|align=left|享保17年<br>(''領民人口'')||align=left|1732年<br>&nbsp;||||&nbsp;<br>''339,955''||||||||||||||||||||||||
|-
|align=left|元文2年||align=left|1737年||817,635||||||||||||||||||||||||||
1,312行目:
|align=left|嘉永5年||align=left|1852年||843,906||625,365||||||393,527||157,111||74,727||85,125||||||132,678||||||738
|-
|align=left|明治4年<ref>明治4年(1871(1871)の薩隅日三ヶ国合計、薩摩国、大隅国の人口は、東郷、種子島の人口が欠落している。また、[[曽於市|末吉]]郷の人口は大隅国にまた薩隅日三ヶ国合計、薩摩国、大隅国の人口は、男女別人口の合計(それぞれ72万6515人、45万6312人、19万1116人)と一致しない。欠落分を補った薩隅日三ヶ国合計、薩摩国、大隅国の人口はそれぞれ76万人台、46万3000~46万4000人、21万人台後半~22万人台と推定される。</ref>||align=left|1871年||||727,634||364,427||362,088||457,213||191,334||79,087||||||||||||||
|-
|}
1,321行目:
!身分・地域・職業
!延宝5年
(1677(1677)
!貞享元年
(1684(1684)
!宝永3年
(1706(1706)
!明和9年
(1772(1772)
!寛政12年
(1800(1800)
!文政9年
(1826(1826)
!嘉永5年
(1852(1852)
|- style="background:lightgrey;"
|align=left|薩隅日三ヶ国合計||380,223||355,387||457,806||637,787||626,856||651,202||625,365
1,415行目:
|align=left|他国||||||4,155||314||463||747||738
|-
|align=left|&nbsp;&nbsp;&nbsp;他国(江戸・京・伏見・大坂・長崎)居付士分||||||3,109||314||463||747||738
|-
|align=left|&nbsp;&nbsp;&nbsp;他国居付百姓||||||876||||||||
1,424行目:
|-
|}
(典拠は尾口義男 (1998(1998年, 2000年)<ref name=Oguchi>(a) 尾口義男, 「薩摩藩の人口」, 『黎明館調査研究報告』, (11号), pp. 87–134 (1998). (b) 尾口義男, 「薩摩藩と近世琉球国の人口―琉球人口データ及び近世前期の薩摩藩の社会動向に関する新たな史実を付加しての「薩摩藩の人口」補論―」 『黎明館調査研究報告』 (13号), pp. 1–42 (2000).</ref>、『鹿児島県史』)
 
==主な藩の人口調査==
江戸時代中期以降の諸藩の領民人口調査は様々な形で残っているが、調査様式が各藩に任されたため内容・質に差がある。以下武家人口を含めた詳しい人員調査が残っている例として、金沢藩 (加賀藩)、仙台藩、熊本藩 (肥後藩)、萩藩/山口藩 ([[長州藩]])、[[佐賀藩]] (肥前藩)、岡山藩 (備前藩)、若松藩 ([[会津藩]])、高知藩 ([[土佐藩]])、久保田藩/[[秋田藩]]、盛岡藩 (南部藩)、[[米沢藩]]、[[宇和島藩]]、[[弘前藩]] (津軽藩)、[[津和野藩]]を取り上げる。なお[[廃藩置県]]直前の明治初期の藩の人口に関しては、'''[[府藩県三治制下の日本の人口統計]]'''を参照。また、鹿児島藩 (薩摩藩)に関しては、上述の[[#琉球、奄美群島、鹿児島藩 (薩摩藩)の人口変遷]]を参照。
 
===金沢藩 (加賀藩)===
享保6年(1721(1721)に金沢藩領内(支藩の[[大聖寺藩]]・[[富山藩]]領を除く)の15歳以上の人口を調べた「今津甚四郎書出候人数一巻」によると、金沢藩の15歳以上人口は左下のような身分構成となっている。これに対し幕府へ提出した15歳以上領民人口の構成は右下の通りで、多数の15歳未満人口のほか、御家中6万7302人(おそらく武家奉公人を含む)、寺社方1万9785人のみならず、百姓・町人人口の内、寺社門前地の百姓・町人、[[藤内]]など合計6万6234人も除外人口となっていた実態が伺える。
{|
|-
|style=vertical-align:top;|
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+金沢藩の身分別領内人口構成<br>(享保6年, 15歳以上)
!身分
!合計
1,456行目:
|style=vertical-align:top;|
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+金沢藩の旧国別領民人口構成<br>(享保6年, 15歳以上)
!旧国
!合計
1,478行目:
15歳以上の百姓・町民人口の変遷は以下の通りである。金沢城下町の町方人口については[[金沢市#第二次世界大戦以前|金沢市]]参照。
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+金沢藩の百姓・町人人口変遷 (15(15歳以上)
!年号
!西暦
1,511行目:
|-
|}
15歳未満の人口も含む明治3年旧暦閏10月10日(西暦1870年12月02日)の金沢藩の族籍別人口は以下の通りで、金沢藩は明治維新の頃に人口が100万人を超えていた唯一の藩である。
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+金沢藩の族籍別人口<br>(明治3年旧暦閏10月10日付)
!族籍
!合計
1,538行目:
|-
|}
(典拠は『加賀藩史料』、[[土屋喬雄]]『封建社会崩壊過程の研究』弘文堂 (1927(1927)、『石川県史』)
 
===仙台藩===
以下に支藩の'''[[一関藩]]'''を含む仙台藩の身分別人口の変遷を示す。仙台藩は中世の[[地方知行]]制が幕末まで存続し、万石以上の家臣も5家存在した。その結果「一門・諸士・諸組・諸職人」と称される武家には相当数の陪臣が含まれる。なお享保2年(1717(1717)の陸奥領と一関藩領の郡方人口は、武家等除外人口を含めたものを掲載している。
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+仙台・一関藩の身分構成の変遷
!身分・地域
!style="white-space:nowrap"|寛文8年<br>(1668(1668)
!style="white-space:nowrap"|延宝2年<br>(1674(1674)
!style="white-space:nowrap"|貞享3年<br>(1686(1686)
!style="white-space:nowrap"|元禄3年<br>(1690(1690)
!style="white-space:nowrap"|元禄8年<br>(1695(1695)
!style="white-space:nowrap"|元禄15年<br>(1702(1702)
!style="white-space:nowrap"|享保2年<br>(1717(1717)
!style="white-space:nowrap"|享保17年<br>(1732(1732)
!style="white-space:nowrap"|寛保2年<br>(1742(1742)
!style="white-space:nowrap"|宝暦7年<br>(1757(1757)
!style="white-space:nowrap"|天明6年<br>(1786(1786)
!style="white-space:nowrap"|寛政元年<br>(1789(1789)
!style="white-space:nowrap"|享和2年<br>(1802(1802)
!style="white-space:nowrap"|文政8年<br>(1825(1825)
!style="white-space:nowrap"|文政11年<br>(1828(1828)
|-
|align=left style="white-space:nowrap"|一門・諸士・諸組・諸職人||151,211||176,057||194,203||||205,916||||||||185,570||||133,174||||143,208||149,465||
1,565行目:
|align=left|&nbsp;&nbsp;&nbsp;仙台藩||||||||||202,541||||||||182,678||171,639||130,509||||140,438||146,352||
|-
|align=left|&nbsp;&nbsp;&nbsp;一関藩(支藩)||||||||||3,375||||||||2,892||||2,665||||2,770||3,113||
|-
|align=left|仙台町方||18,493||20,073||22,501||||22,706||||||||20,374||||11,610||||13,302||13,749||
1,581行目:
|align=left|&nbsp;&nbsp;&nbsp;常陸領||||9,980||||10,194||||9,840||||9,299||||7,611||||7,358||7,402||
|-
|align=left style="white-space:nowrap"|&nbsp;&nbsp;&nbsp;下総領 (正徳2年以降)||colspan=6|&nbsp;||150||||155||||143||||147||150||
|- style="background:lightgrey;"
|align=left|総数<ref name=gokei/>||607,868||720,826||776,277||||819,749||||869,846||||816,061||||596,282||598,001||639,070||687,802||699,334
1,711行目:
|-
|}
(典拠は玉山勇 (1942(1942)<ref name=Sendai-1>玉山勇, 「江戸時代の人口問題 ―仙台藩の場合―」 『国民経済雑誌』 73巻(1号), pp. 63–94 (1942).</ref>、『岩手県史』、『宮城県史』、高木正朗, 新屋均 (2006(2006)<ref name=Sendai-2>高木正朗, 新屋均, 「近世国家の人口とその趨勢 ―仙台藩郡方・一関藩村方人口の復元: 1668–1870年―」 『立命館大学人文科学研究所紀要』 (87(87), pp. 7–39 (2006).</ref>)
 
===熊本藩 (肥後藩)===
文政11年(1828(1828年)と明治2年(1869(1869)の熊本藩の身分別・族籍別人口は以下のとおりである。
{|
|-
1,752行目:
|style=vertical-align:top;|
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+熊本藩族籍別人口 (明治2年)
!族籍
!合計
1,787行目:
|-
|}
また、領民人口の変遷は以下の通りである。文政11年の身分別人口と比較すると、総人口64万8277人中百姓55万8257人と五ヶ町([[熊本市|熊本]]、[[八代市|八代]]、[[川尻 (熊本市)|川尻]]、[[高瀬町 (熊本県)|高瀬]]、[[高橋町|高橋]])町方3万2491人の合計59万0748人が幕府へ報告される領民人口として扱われ、武家、寺社方合計5万7529人が計外人口として扱われていたことが分かる。
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+熊本藩領民人口の変遷
1,848行目:
|align=left|文政5年||align=left|1822年||577,788||298,217||279,571||536,412||41,376
|-
|align=left|文政11年<br>(''総数'')||align=left|1828年<br>&nbsp;||590,748<br>''648,277''||303,645<br>&nbsp;||287,103<br>&nbsp;||548,780<br>&nbsp;||41,968<br>&nbsp;
|-
|align=left|天保5年||align=left|1834年||593,661||304,095||289,566||||
1,865行目:
|-
|}
(典拠は『熊本県史』、『肥後読史総覧』、鎌田浩『熊本藩の法と政治』創文社 (1998(1998)、『新熊本市史』)
 
===萩藩/山口藩 (長州藩)===
元禄7年(1694(1694)の萩藩の身分別人口と、防長領国を構成する各藩(萩藩と、その支藩である'''[[長府藩]]'''、'''[[清末藩]]'''、'''[[徳山藩]]'''、'''[[岩国藩]]''')の町在共人口を以下にまとめる。
{|
|-
1,905行目:
|align=left style="white-space:nowrap"|&nbsp;&nbsp;&nbsp;地神経座頭||68||n.a.||n.a.
|-
|align=left|&nbsp;&nbsp;&nbsp;後施 (瞽女)||23||n.a.||n.a.
|-
|align=left|町在共||275,511||148,617||126,894
1,920行目:
|style=vertical-align:top;|
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+防長両国の藩別町在共人口構成 (元禄7年)
!rowspan=2 style="white-space:nowrap"|本藩・<br>支藩
!colspan=3|町在共人口
1,956行目:
|style=vertical-align:top;|
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+萩藩の身分別人口 (寛政4年)
!身分
!合計
1,992行目:
|align=left|町在方||403,257||208,053||195,204
|-
|align=left style="white-space:nowrap"|&nbsp;&nbsp;&nbsp;町方 (浜崎・[[山口市|山口]]・[[三田尻]])||10,674||5,316||5,358
|-
|align=left|&nbsp;&nbsp;&nbsp;百姓||392,583||202,737||189,846
2,025行目:
|style=vertical-align:top;|
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+防長両国の藩別家中人口構成 (寛政4年)
!rowspan=2|身分
!colspan=3|防長合計
2,096行目:
|-
|}
明治2年(1869(1869)の族籍別人口は以下の通りで、萩藩陪臣2万5487人<ref>萩藩陪臣の扱いはこの時点では、おそらく卒族のような扱いだったと思われる。陪臣は明治2年の人口総数に含まれていない。</ref>はこの段階では士族か卒族か決まってなかった。しかしながら明治5年(1872(1872)の壬申戸籍では山口県全体で士族の人口は7万1776人となっており、最終的に足軽・中間・陪臣を含め、ほぼ全ての旧武家階級が士族になっている。
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+防長両国の族籍別人口 (明治2年)
!style="white-space:nowrap"|族籍
!style="white-space:nowrap"|防長合計
2,126行目:
|-
|}
また、防長二ヶ国の領民人口の変遷を以下にまとめる。享保6年(1721年)以降、6年毎に幕府へ支藩を含めた領民人口を報告することが義務付けられ(享保6年分として萩藩より報告されているものは実際は享保5年(1720年)の人口)、萩藩には幕府が人口集計を中断した嘉永5年(1852(1852)以降の分の集計も残っている。萩藩の場合、武家・武家奉公人等家中、寺社方・寺社方支配場、[[萩市|萩町]]町方、乞食・非人、領内に籍を置かない旅人の人口は除外したが、浜崎・[[山口市|山口]]・[[三田尻]]の町方、農民(地方)・漁民(浦方)の[[本百姓]]・門男([[水呑百姓]])、穢多・宮番・茶筅の人口は領民人口に含めていた。また、人口の減少の責を免れるため、藩主の了解のもと幕府報告の際に度々人口を改竄していたことが『公儀事諸控』の記録より判明している。例えば延享3年(1750(1750)には6000人の人口水増しを行っている。その6年後の宝暦6年(1756年)の領民人口も、各藩の合計48万2278人と幕府報告人口52万4646人が一致しない。
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+防長両国の領民人口の変遷
2,148行目:
|align=left|寛文3年||1663年||204,331||||||||||||||||||
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|align=left|元禄7年<br>(''総数'')||1694年<br>&nbsp;||418,827<br>&nbsp;||222,861<br>&nbsp;||195,966<br>&nbsp;||||||275,511<br>''335,567''||56,960<br>&nbsp;||10,715<br>&nbsp;||23,164<br>&nbsp;||52,477<br>&nbsp;
|-
|align=left|享保5年||1720年||475,051||251,425||223,626||212,124||262,927||||||||||
2,160行目:
|align=left|延享元年||1744年||521,531||276,212||245,319||228,384||293,147||||||||||
|-
|align=left|寛延3年<br>(''改竄前'')||1750年<br>&nbsp;||516,326<br>''510,326''||274,934<br>''271,707''||241,392<br>''238,619''||226,934<br>''225,005''||289,392<br>''285,321''||||||||||
|-
|align=left|宝暦6年||1756年||524,646||277,542||247,104||233,312||291,334||366,665||54,953||8,339||39,099||68,175
2,172行目:
|align=left|安永8年||1779年||||||||||||424,404||||||||
|-
|align=left|安永9年<br>(''総数'')||1780年<br>&nbsp;||549,072<br>''612,479''||284,413<br>&nbsp;||264,659<br>&nbsp;||226,995<br>&nbsp;||322,077<br>&nbsp;||||||||38,959<br>&nbsp;||
|-
|align=left|天明3年||1783年||||||||||||421,500||||||||
2,184行目:
|align=left|寛政3年||1791年||||||||||||403,082||||||||
|-
|align=left|寛政4年<br>(''総数'')||1792年<br>&nbsp;||592,031<br>&nbsp;||309,058<br>&nbsp;||282,973<br>&nbsp;||240,921<br>&nbsp;||351,110<br>&nbsp;||403,257<br>''476,505''||||||40,082<br>&nbsp;||
|-
|align=left|寛政9年||1797年||||||||||||406,479||||||||
2,273行目:
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(典拠は石川敦彦『萩藩戸籍制度と戸口統計』山五青写真工業 (2005(2005))))
 
===佐賀藩 (肥前藩)===
佐賀藩では本藩と'''[[佐賀藩#小城藩|小城藩]]'''、'''[[佐賀藩#蓮池藩|蓮池藩]]'''、'''[[佐賀藩#鹿島藩|鹿島藩]]'''の各支藩を含めた領地について、武家人口を含めた領内総人口の統計を残している。天明6年(1786(1786)、安政元年(1854(1854)、元治元年(1864(1864)については幕府へ届け出た領民人口が分かっており、計外人口は、天明6年に約14万2500人、安政元年に19万5606人、元治元年に18万3683人と求まる。また、享保17年(1732(1732)の[[享保の大飢饉]]を挟む享保16年(1731(1731)と享保19年(1734(1734)の間に6万人前後の人口減少が起こっている。記録によると、享保18年(1730(1730)3)3月までに[[後多久氏|多久領]]で3866人、鹿島藩領で1359人の餓死者が出たとされる。
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+佐賀本藩・支藩領内総人口変遷
2,330行目:
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初期の佐賀藩では出入国を禁じる政策を取っていたが、炭鉱の開発が進んだ天保年中より他国からの人口流入が引き起こり、安政元年(1854(1854)の頃には領内本籍者40万2769人に対し、他国者が3万8163人に増えていた。急激な人口増加傾向は幕末から明治維新まで続いている。
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|style=vertical-align:top;|
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+佐賀本藩・支藩領内人口 (安政元年)
!内訳
!人口
2,366行目:
|style=vertical-align:top;|
{|class="wikitable" style="text-align:right;font-size:small"
|+佐賀本藩・支藩領内人口 (明治3年)
!rowspan=2|族籍
!colspan=3 style="white-space:nowrap"|本藩・支藩合計
2,411行目:
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(典拠は城島正祥 (1973年)<ref>(a) 城島正祥, 「佐賀藩の人口統計(一)」, 『史学雑誌』, 82巻 (9号), pp. 1293–1320 (1973). (b) 城島正祥, 「佐賀藩の人口統計(二)」, 『史学雑誌』, 82巻 (10号), pp. 1450–1467 (1973).</ref>)
 
===岡山藩 (備前藩)===