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| 官位 = [[従五位|従五位下]][[大膳職|大膳亮]]、[[従四位|従四位下]][[和泉国#江戸時代|和泉守]]
| 幕府 = [[江戸幕府]]
| 主君 = [[徳川家治]][[徳川家斉|家斉]]
| 藩 = [[伊勢国|伊勢]][[津藩#久居藩|久居藩]]主伊勢[[津藩]]主
| 氏族 = [[藤堂氏]]
| 父母 = [[父]]:[[藤堂高朗]]、[[母]]:中村氏<br/>[[養父]]:''[[藤堂高雅]]''、''藤堂高悠''
| 兄弟 = '''高嶷'''、[[藤堂高朶|高朶]]、[[藤堂高悠|高悠]]、栄性院、<br/>[[清水谷公美]]室、[[藤堂高興|高興]]
| 妻 = '''[[正室]]:[[中川久貞]]・'''岩'''<br/>[[側室]]:智峯院
| 子 = 菊松、甲、[[藤堂高崧|高崧]]、順、[[藤堂高兌|高兌]]、穀、睦、挙、[[藤堂高邁|高邁]]、湧、埴、[[藤堂高允|高允]]、[[木下利徳]]、[[藤堂高愨|高愨]]、<br/>[[藤堂高醸|高醸]]、[[藤堂高秭|高秭]]、そよ、彩、つれ、絃、延
| 特記事項 =
}}
'''藤堂 高嶷'''(とうどう たかさと/たかさど)は、[[伊勢国]][[津藩]]の第9代[[藩主]]。元は[[津藩#久居藩|久居藩]]の第7代[[]]主、[[久居陣屋]]の主。[[藤堂氏|藤堂家]]宗家9代、久居藩藤堂家7代。
 
'''藤堂 高嶷'''(とうどう たかさと/たかさど)は、[[伊勢国]][[津藩]]9代藩主。元は[[津藩#久居藩|久居藩]]7代藩主、[[久居陣屋]]の主。[[藤堂氏|藤堂家]]宗家9代、久居藩藤堂家7代。
 
== 生涯 ==
[[延享]]3年(1746年)生まれ。幼名は初次郎。本家の[[津藩]]では嗣子が絶えることが多く、[[久居藩]]主が津藩主に転任することも少なくなかったが、この人物もはじめは久居藩主であり、'''高敦'''と名乗っていた。宝暦12年([[1762年]])11月29日、久居藩主藤堂高雅の死去により、家督を相続する。同年12月7日、将軍[[徳川家治]]に[[御目見]]する。同年12月18日、従五位下・佐渡守に叙任する。しかし、[[明和]]7年([[1770年]])閏6月26日、本家を継いでいた弟の[[藤堂高悠|高悠]]が死去したため、高嶷と改名して本家を継いだ。久居藩主は弟の[[藤堂高朶|高朶]]が継いだ。同年9月1日、将軍徳川家治に御目見する。同年12月16日、従四位下に昇進する。安永元年(1772年)12月18日、侍従に任官する。寛政4年(1792年)12月16日、左少将に任官する。
 
久居から津への藩主の転任が度重なったことで、当時の津藩は藩政が不安定化し、財政も窮乏化していた。このため高嶷は財政再建を主とした藩政改革を行なうこととなる。借金棒引きを主とした金融政策、[[殖産興業]]政策、土地制度改革などがそれであった。ところが、土地制度改革では[[均田制]]を導入しようとしたが、多くの土地を所有していた地主たちが猛反対し、[[寛政]]8年([[1796年]])に[[安濃津地割騒動]]と呼ばれる3万人規模の領民[[一揆]]が発生して失敗した。金融政策においても借金を強権的に棒引きにしようとした上、寺社修復のために領民が積み立てていた「祠堂金」を藩財政再建に使おうとしたため、領民や寺社勢力が高嶷に対して「神仏の敵」と非難するほどであった。このため高嶷の藩政改革は失敗に終わった。