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{{Infobox military conflict
{{出典の明記|date=2015年1月}}
|conflict=第三次ポエニ戦争
{{Expand English|Third Punic War|date=2020年11月}}
|partof=[[ポエニ戦争]]
 
|image=The Capture of Carthage MET DT1445b.jpg
{{Battlebox|
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battle_name=第三次ポエニ戦争
|caption=カルタゴの攻略を描いた[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ]]の絵画(1725年 - 1729年)
|campaign=第三次ポエニ戦争
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|image=[[ファイル:Carthage location.png|300px]]
|caption=[[カルタゴ]]の位置
|conflict='''第三次ポエニ戦争'''
|date=[[紀元前149年]] - [[紀元前146年]]
|place=[[カルタゴ]](現代の[[チュニジア]])
|casus=カルタゴの[[ヌミディア]]に対する条約違反の戦争
|result=ローマの勝利、カルタゴ滅亡
|combatant1result=[[ローマの勝利とカルタゴ]]の滅亡
|combatant2=[[ファイルFile:SpqrstoneVexilloid of the Roman Empire.jpgsvg|20px]] [[共和制ローマ|ローマ]]
|combatant1=[[File:Carthage standard.svg|12px]] [[カルタゴ]]
|commander1=[[ハスドルバル]]
|commander2=[[スキピオ・アエミリアヌス]]<br>[[マニウス・マニリウス]]<br>[[ルキウス・マルキウス・ケンソリヌス (紀元前149年の執政官)|ルキウス・マルキウス・ケンソリヌス]]<br>[[ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス (紀元前148年の執政官)|ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス]]<br>[[ルキウス・ホスティリウス・マンキヌス]]
|commander2=[[ファイル:Spqrstone.jpg|20px]][[スキピオ・アエミリアヌス]]
|commander1={{仮リンク|ハスドルバル (ボイオータルケス)|label=ハスドルバル|en|Hasdrubal the Boetharch}}<br>ディオゲネス
|strength1= 守備兵90,000<br>市民210,000
|strength2= 40,000人から50,000人(内、騎兵4,000人)
|strength1=20,000人以上の軍隊と多くの武装市民
|casualties1= 戦死250,000<br>残り50,000は奴隷
|casualties2= 17,000不明
|casualties1=[[古代ローマの奴隷制|奴隷]]となった捕虜50,000人
|}}
|notes={{fontsize|110%|'''戦闘''':{{仮リンク|オロスコパの戦い|label=オロスコパ|en|Battle of Oroscopa}} - [[チュニス湖の戦い|チュニス湖]] - [[ネフェリスの戦い (紀元前149年)|第一次ネフェリス]] - [[カルタゴ港海戦|カルタゴ港]] - {{仮リンク|ネフェリスの戦い (紀元前147年)|label=第二次ネフェリス|en|Battle of Nepheris (147 BC)}} - {{仮リンク|カルタゴ包囲戦 (第三次ポエニ戦争)|label=カルタゴ包囲|en|Siege of Carthage (Third Punic War)}}}}
'''第三次ポエニ戦争'''(だいさんじポエニせんそう、[[紀元前149年]] - [[紀元前146年]])は、かつて[[フェニキア人]]の植民地だった[[カルタゴ]]と[[共和政ローマ]]との間で争われた[[ポエニ戦争]]の3回目にあたり、最後となった戦争である。「ポエニ」という名称は、ローマ人によるフェニキア人の呼び名から名付けられた。
}}
'''第三次ポエニ戦争'''(だいさんじポエニせんそう、{{lang-en-short|Third Punic War}})は、古代の[[地中海]]地域における有力な国家であった[[カルタゴ]]と[[共和制ローマ|ローマ]]が戦った三度にわたる[[ポエニ戦争]]で最後に起こった戦争である。戦争はローマの勝利に終わり、カルタゴとその国家は完全に滅亡した。
 
[[紀元前201年]]にローマの勝利で[[第二次ポエニ戦争]]が終結し、戦争後に結ばれた講和条約でカルタゴはローマの許可なく戦争を起こすことが禁じられた。ローマの同盟国であった[[ヌミディア]]の[[マシニッサ]]王はこの状況を利用してカルタゴの領土を公然と襲撃し、占領する行為を繰り返した。これに耐えかねたカルタゴは[[紀元前151年]]にローマとの条約を無視して将軍の{{仮リンク|ハスドルバル (ボイオータルケス)|label=ハスドルバル|en|Hasdrubal the Boetharch}}が率いる軍隊をヌミディアに向けて派遣した。しかし、この軍事作戦は{{仮リンク|オロスコパの戦い|en|Battle of Oroscopa}}でカルタゴ軍が完敗するという結果に終わり、ローマはこの不正な軍事行動を口実に懲罰的な遠征の準備を始めた。
戦争はカルタゴ市に対する3年間の攻囲戦であり、これによってカルタゴの町は完全に破壊され、残されたカルタゴの全領土はローマに併合され、戦争の際に都市に残っていたカルタゴの全住民は戦死(飢死含む)か奴隷となった。第三次ポエニ戦争により、国家としてのカルタゴは滅亡した。
 
その後、[[紀元前149年]]にローマの大軍が北アフリカの[[ウティカ]]に上陸した。カルタゴは使者をウティカに派遣したが、ローマ側の要求に応じてすべての兵器を引き渡し、艦船を焼却した一方で、都市を放棄する最後の要求は拒否した。これに対しローマはカルタゴを攻略するために軍を派遣した。紀元前149年の間、ローマ軍の作戦は度重なる失敗に終わったが、ローマ軍の将校の一人である[[スキピオ・アエミリアヌス]]の活躍によって大きな損害は食い止められた。[[紀元前148年]]には新しい[[執政官]]が派遣されたが、前年と同様に成果は上がらなかった。[[紀元前147年]]の執政官を決める選挙では、就任可能な最低年齢に達していなかったスキピオに対するローマ人の支持が非常に高かったため、[[元老院 (ローマ)|元老院]]はその年におけるすべての公職の年齢制限を撤廃した。スキピオは執政官に選出され、アフリカにおけるローマ軍の総司令官となった。
 
スキピオはカルタゴへの包囲網を強化し、海側からの都市への補給を遮断するために巨大な堤防を建設した。これに対してカルタゴは艦隊を再建して出撃したが、撤退時に多くの船を堤防に阻まれて失う結果に終わった。その後、スキピオは大規模な部隊を率いて近隣のネフェリスに陣地を構えていたカルタゴの野戦軍を撃破し、ローマ軍に抵抗していたほとんどのカルタゴの後背地の要塞を降伏させた。[[紀元前146年]]の春にローマ軍はカルタゴへの総攻撃を開始し、6日間かけて抵抗者を一掃した。都市は破壊され、50,000人に及んだカルタゴ人の捕虜は奴隷として売り払われた。
 
カルタゴの旧領土はウティカを州都とするローマの[[アフリカ属州]]として再編された。廃墟となったカルタゴが[[ユリウス・カエサル]]と[[オクタウィアヌス]]の下でローマの都市として再建されるのは1世紀後のことである。
 
== 一次史料 ==
[[File:Polybius-removebg-preview.png|thumb|right|200px|ポリュビオス]]
[[紀元前167年]]に人質として[[ローマ]]に送られたギリシア人の歴史家である[[ポリュビオス]](紀元前200年頃 - 紀元前118年頃)による著作が[[ポエニ戦争]]に関する最も多くの情報を伝える主要な史料となっている{{sfn|Goldsworthy|2006|pp=20–21}}。ポリュビオスは今日では失われてしまった戦術書などを残しているが{{sfn|Shutt|1938|p=53}}、その著作の中では紀元前146年以降の時期に著された『[[歴史 (ポリュビオス)|歴史]]』が最もよく知られている{{sfn|Goldsworthy|2006|p=20}}{{sfn|Walbank|1990|pp=11–12}}。また、第三次ポエニ戦争では後援者であり友人でもあったローマの将軍の[[スキピオ・アエミリアヌス]](小スキピオ)に同行して北アフリカを訪れている{{sfn|Astin|2006|p=5}}{{sfn|Champion|2015|pp=96, 108}}。しかしながら、このようなスキピオとの親しい関係は、通常は信頼性の高いポリュビオスの記録にスキピオの行動を好意的に記述させた要因となっている{{sfn|Goldsworthy|2006|p=21}}{{sfn|Astin|2006|pp=5–6}}{{sfn|Walbank|1979|p=662}}。さらに、『歴史』の第三次ポエニ戦争に関する記述は今日では多くの部分が失われている{{sfn|Goldsworthy|2006|p=21}}{{sfn|Hoyos|2015|p=2}}。
 
ポリュビオスからかなりの情報を参照しているローマの年代記作者の[[ティトゥス・リウィウス]]による説明はポエニ戦争を研究する現代の歴史家によく利用されているが{{sfn|Champion|2015|p=95}}、紀元前167年以降の出来事に関する記述は『梗概』の形式でしか残されていない{{sfn|Goldsworthy|2006|p=22}}{{sfn|Mineo|2015|p=123}}。その他の今日ではほとんど失われてしまった第三次ポエニ戦争やその参加者に関する古代の記録には、[[プルタルコス]]、[[カッシウス・ディオ]]、[[シケリアのディオドロス]]などによるものがある{{sfn|Mineo|2015|p=126}}{{sfn|Mineo|2015|p=119}}。現代の歴史家は同様に2世紀のギリシア人の歴史家である[[アッピアノス]]による説明も利用している{{sfn|Le Bohec|2015|p=430}}{{sfn|Mineo|2015|p=125}}。歴史家のベルナール・ミネオは、アッピアノスの記録を「この戦争に関する唯一の完全かつ連続した説明である」と述べている{{sfn|Mineo|2015|p=126}}。しかしながら、大半がポリュビオスの記録に基づくと考えられているアッピアノスによる説明は、いくつかの問題点の存在が明らかとなっている{{sfn|Walbank|1979|p=662}}{{sfn|Goldsworthy|2006|pp=22–23}}。歴史家の[[エイドリアン・ゴールズワーシー]]によれば、これらの問題点は第三次ポエニ戦争に関する記録が三つのポエニ戦争の中で最も情報の信頼性で劣っていることを示している{{sfn|Goldsworthy|2006|p=24}}。その他の情報源としては、硬貨、碑文、考古学的証拠、そして各種の構造物の復元や再現に基づく[[経験的証拠]]などがある{{sfn|Goldsworthy|2006|pp=23, 98}}。
 
== 背景 ==
[[File:Punic wars-fr.gif|thumb|right|290px|[[ポエニ戦争]]期(紀元前264年 - 紀元前146年)の領土の変遷{{div col||5em}}{{fontsize|75%|{{legend|blue|[[カルタゴ]]}}{{legend|red|[[共和制ローマ|ローマ]]}}{{legend|yellow|[[シュラクサイ]]}}}}{{div col end}}]]
[[第二次ポエニ戦争]]の終わりから第三次ポエニ戦争に至るまでの間、[[共和政ローマ|ローマ]]は、ギリシャから、ヘレニズム諸国の侵攻に対抗する援軍を要請され、当初最低限の援軍で勝利していたが、次第にこの戦争に深入りする事になった([[マケドニア戦争]]、[[イリュリア戦争]]、[[アンティオコス3世 (セレウコス朝)]] を参照)。また、西に向かっては[[イベリア半島]]に遠征し、半島の住民が第二次ポエニ戦争の勝利に大きく貢献した部族も含めて、課税無きローマ同盟に組み入れた([[第一次ケルティベリア戦争]]、[[ヌマンティア戦争]]、[[ルシタニア戦争]])。
ローマは紀元前2世紀半ばの[[地中海]]地域において強大な勢力を築いていたが{{sfn|Holland|2004|p=10}}、一方で[[カルタゴ]]は現代の[[チュニジア]]の北東部に位置する大規模な都市国家として存在していた{{sfn|Miles|2011|pp=324–325}}。カルタゴ人はローマ人から[[ラテン語]]の''Punicus''(または''Poenicus'')という言葉で呼ばれていたが、これはカルタゴが[[フェニキア人]]によって建てられたことに由来している{{sfn|Sidwell|Jones|1998|p=16}}。カルタゴとローマは[[紀元前264年]]から[[紀元前241年]]まで23年間続いた[[第一次ポエニ戦争]]と、[[紀元前218年]]から紀元前201年まで17年間続いた[[第二次ポエニ戦争]]を戦っていた。第二次ポエニ戦争では、ローマの将軍[[スキピオ・アフリカヌス]](大スキピオ)がカルタゴの南西160キロメートルで起こった[[ザマの戦い]]でカルタゴ軍の最高司令官[[ハンニバル]]を破り、両戦争ともローマの勝利で終わった{{sfn|Bagnall|1999|pp=289, 295–298}}。スキピオ・アフリカヌスはカルタゴに講和条約を押し付け、海外領土とアフリカの領土の一部を剥奪した。また、賠償金として銀10,000[[タレント (単位)|タレント]]{{efn2|古代からいくつかの異なる「タレント」が知られている。この記事において言及されているものは、すべて''Euboic''(もしくは''Euboeic'')タレントである{{sfn|Lazenby|1998|p=228}}。第二次ポエニ戦争当時の10,000タレントは、およそ269,000キログラム(265[[ロングトン]])の銀であった{{sfn|Lazenby|1996|p=158}}。}}を50年かけて支払う義務を負わせた{{sfn|Lazenby|1998|p=228}}。さらにカルタゴは人質を取られた上にアフリカ以外での戦争行為を禁じられ、アフリカにおいてもローマの特別な許可を得なければ戦争を行うことができなくなった。有力なカルタゴ人の多くはこれを拒否しようとしたが、ハンニバルが強く支持を表明したため、紀元前201年の春にこれらの条件を受け入れた{{sfn|Miles|2011|p=317}}{{sfn|Goldsworthy|2006|pp=308–309}}。これ以降カルタゴはローマに対して政治的に従属することが明白となった{{sfn|Bagnall|1999|pp=303, 305–306}}。
[[File:Map of kingdom of numidia ancient algeria (cropped).png|thumb|left|265px|紀元前150年頃の[[ヌミディア]]の版図]]
第二次ポエニ戦争が終結すると、ローマの同盟者であった[[マシニッサ]]が現代の[[アルジェリア]]とチュニジアの大部分を支配していた先住民である[[ヌミディア人]]の中で最も強力な支配者となって台頭した{{sfn|Kunze|2015|p=398}}。その後の50年にわたってマシニッサはカルタゴが自らの意思で自国の領土を守れない状況を何度も利用した。カルタゴがローマに状況の改善や軍事行動の許可を求めてもローマはマシニッサを支持し、カルタゴの要請を拒否した{{sfn|Kunze|2015|pp=398, 407}}。マシニッサによるカルタゴの領土への襲撃と制圧はますます目に余るものとなり、紀元前151年にはカルタゴがこの時初めて記録に現れるカルタゴ人の将軍である{{仮リンク|ハスドルバル (ボイオータルケス)|label=ハスドルバル|en|Hasdrubal the Boetharch}}の率いる大規模な軍隊を編成し、条約の存在にもかかわらずヌミディア人に対する反撃に出た。しかし、この軍事作戦は{{仮リンク|オロスコパの戦い|en|Battle of Oroscopa}}で完敗を喫するという結果に終わり、カルタゴ軍は降伏した{{sfn|Bagnall|1999|p=307}}{{sfn|Kunze|2015|p=407}}{{sfn|Goldsworthy|2006|pp=336–337}}。そして戦いの後に多くのカルタゴ人がヌミディア人に虐殺された{{sfn|Bagnall|1999|p=307}}。ハスドルバルはカルタゴへ逃れたが、ローマをなだめようとしたカルタゴはハスドルバルに死刑を言い渡した{{sfn|Bagnall|1999|p=308}}{{sfn|楠田|1989|p=114}}。
 
カルタゴは紀元前151年に賠償金を完済し{{sfn|Goldsworthy|2006|p=332}}、経済的には繁栄していたが{{sfn|Kunze|2015|pp=405, 408}}、軍事的には既にローマの脅威ではなかった{{sfn|楠田|1989|p=114}}{{sfn|Kunze|2015|p=408}}。それでもなお、ローマの[[元老院 (ローマ)|元老院]]の中にはカルタゴに対して軍事行動を起こしたいと考える一派が以前から存在していた{{sfn|Kunze|2015|p=399}}。例として有力な元老院議員であった[[マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス]](大カト)のカルタゴ嫌いは非常に有名であり、18世紀以降、大カトは自分のあらゆる演説の最後に ''"Carthago delenda est"''([[カルタゴ滅ぶべし|カルタゴは滅ぶべきである]])と語ったと信じられるようになった{{sfn|Miles|2011|p=336}}{{sfn|Vogel-Weidemann|1989|p=79}}。一方、カルタゴへの軍事行動に対する反対派には[[プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム]]がいた。ナシカはカルタゴのような強力な敵の存在に対する恐れが民衆の行動を抑制させ、社会の分裂を防ぐであろうと主張していた{{sfn|Bagnall|1999|p=307}}{{sfn|Goldsworthy|2006|p=333}}。大カトは(恐らく[[紀元前153年]]に{{sfn|MRR1|p=453}})カルタゴへ派遣された使節団の一員であり、カルタゴの経済成長と力を回復しつつある状況に注意を寄せていた{{sfn|Goldsworthy|2006|p=333}}。また、恐らくナシカも同じ使節団の一員として同行していた{{sfn|Vogel-Weidemann|1989|p=80}}。結局、ローマはカルタゴの不正な軍事行動を口実に{{sfn|Kunze|2015|p=399}}、懲罰的な遠征の準備を始めた{{sfn|Goldsworthy|2006|p=337}}。
20年間にわたる第二次ポエニ戦争においてローマ本土を破滅的状況に追い込んだ[[カルタゴ]]であったが、ローマから提示された停戦条件は寛容なものであった。内容としては海外領土([[シチリア島]]、[[サルデーニャ島]]、[[ヒスパニア]])を(いずれも、すでに敗戦により実効支配を失っている)ローマに引き渡し、毎年200[[タレント (単位)|タレント]]銀貨の賠償金(カルタゴ農業生産の1年分未満)を50年間にわたって支払う事、軍事行動の自主決定権を持たないという責務を負うものに過ぎなかった。
[[File:Carthage - Double Shekel - c.160-149 BC.jpg|thumb|right|260px|カルタゴ末期(紀元前2世紀前半)に鋳造された[[シェケル]]銀貨。左側にはカルタゴ人や[[ベルベル人]]に信仰されていた女神{{仮リンク|タニト|en|Tanit}}の肖像、右側には馬の像が刻まれている。]]
現代の学者はローマが戦争を強く望んだ理由についていくつかの説を唱えている{{sfn|Vogel-Weidemann|1989|p=81}}。カルタゴ人との商業上の競争に対するローマ人の恐れ{{sfn|Le Bohec|2015|p=432}}{{sfn|Harris|2006|p=156}}{{sfn|Vogel-Weidemann|1989|pp=81–82}}、当時89歳であったマシニッサの死によって勃発する可能性がある広範囲にわたる戦争を未然に防ぎたかったこと{{sfn|Vogel-Weidemann|1989|pp=82, 85}}、戦争を推進する一派がカルタゴの真の力とは関係なくカルタゴを政治的に「邪悪な存在」であるとして利用したこと{{sfn|Le Bohec|2015|pp=431–432}}{{sfn|Harris|2006|p=154}}、名誉や略奪に対する欲求{{sfn|Le Bohec|2015|p=432}}{{sfn|Harris|2006|p=155}}、ローマが忌み嫌う政治体制を撲滅したかったことなどが挙げられている{{sfn|Le Bohec|2015|pp=431–432}}。しかし、これらの説やその他の仮説に対する合意は得られていない{{sfn|Vogel-Weidemann|1989|pp=81, 87–88}}。カルタゴの複数の使節がローマとの交渉を試みたが、ローマは曖昧な態度に終始した{{sfn|Bagnall|1999|p=308}}{{sfn|Harris|2006|p=151}}。そして紀元前149年にはカルタゴから北へおよそ55キロメートルに位置する大規模な北アフリカの港湾都市である[[ウティカ]]がローマ側に寝返った。この港がカルタゴへのあらゆる攻撃を非常に容易にすることを理解していたローマの元老院と[[ケントゥリア民会]]は、カルタゴに対する宣戦を布告した{{sfn|Kunze|2015|p=407}}{{sfn|Le Bohec|2015|p=437}}{{sfn|Goldsworthy|2006|pp=337–338}}。
 
ローマは毎年[[執政官]](コンスル)として知られる二人の男性を[[政務官 (ローマ)|政務官]]の最高職として選出していたが、執政官は戦争時にはそれぞれ軍隊を率い、時には[[インペリウム|指揮権]]が延長される場合もあった{{sfn|Beard|2016|p=127}}{{sfn|Holland|2004|pp=154–155}}{{sfn|Bagnall|1999|p=24}}。紀元前149年にその年の両執政官([[マニウス・マニリウス]]と[[ルキウス・マルキウス・ケンソリヌス (紀元前149年の執政官)|ルキウス・マルキウス・ケンソリヌス]])の下でローマの大軍がウティカに上陸した。陸軍はマニウス・マニリウスが指揮し、海軍はルキウス・マルキウス・ケンソリヌスが指揮した。カルタゴはローマをなだめる努力を続け、ウティカに使者を派遣した。しかし、執政官はすべての兵器を引き渡すように要求し、カルタゴはしぶしぶこれに応じた。大規模な輸送船団がカルタゴからウティカに膨大な量の兵器を運んだ。残されている記録によれば、これらの兵器には200,000個の[[鎧]]と2,000台の[[カタパルト (投石機)|カタパルト]]が含まれていた。カルタゴの戦艦はすべてウティカに向けて出航し、ウティカの港で焼却された{{sfn|Goldsworthy|2006|pp=338–339}}。カルタゴが武装解除されると、執政官のケンソリヌスはさらに都市を放棄して海から16キロメートル離れた場所に移転し、その後カルタゴを破壊するように要求した{{sfn|Goldsworthy|2006|pp=338–339}}{{sfn|Purcell|1995|p=134}}。しかし、カルタゴはこの要求は受け入れずに交渉を放棄し、都市を防衛するための準備を始めた{{sfn|Goldsworthy|2006|p=339}}。
第二次ポエニ戦争でローマは20年近く戦場になり、数十万人の犠牲を出していたことと、イタリアと異なりギリシャでの、従来の主権国家同士の同盟政策が、ギリシャ人の侮りを買い、全く裏目に出ている事などで、ローマ人の中に、強硬派が増え始めていた。彼らの警戒心はカルタゴにも向けられた。カルタゴは貿易によって経済的繁栄をかなり取り返しており、そのためにローマ人はギリシャで戦役が無益に長引く現状への嫌悪もあり、全ての禍根をローマの力で絶つこと、そのためには、復興したカルタゴも滅ぼすべきだと言う民意が芽生えていた。特に主戦派の[[マルクス・ポルキウス・カトー・ケンソリウス|マルクス・カトー]]は元老院でどんな演説をしても、「[[カルタゴ滅ぶべし|ところで、カルタゴは滅ぼされなければならない (Carthago delenda est) ]]」の言葉で締めくくった。カトーは、当時ローマ最大の英雄でかつ、下記の伝統外交派である大スキピオの政治生命を絶った。
 
== カルタゴの防衛体制 ==
スキピオの失脚後も、元老院においてはローマの伝統的外交手法である、ローマを主、同盟国を従とした覇権(課税無き、戦争にのみ参加する義務を負う同盟)を目論んでいた非戦派も存在し、その代表者[[プブリウス・コルネリウス・スキピオ・ナシカ・コルクルム|スキピオ・ナシカ・コルクルム]]はカトーに対抗し自身の演説を「カルタゴは存続されねばならない」で締めくくった。
[[File:Carthage.png|thumb|220px|right|カルタゴの防衛線を示した平面図]]
カルタゴの都市の規模は当時としては異例の大きさであり、現代の学者は人口を90,000人から800,000人の範囲で推定している。この範囲のいずれの数値であったにせよ、カルタゴは当時の地中海地域で最も人口の多い都市の一つであった{{sfn|Hoyos|2005|p=225}}{{sfn|Miles|2011|p=342}}。都市は周囲を全長35キロメートル超の城壁で強固に要塞化されていた{{sfn|Bagnall|1999|p=313}}。陸側の主要な接近手段から都市を防御するために三つの防衛線が存在し、そのうち最も強固なものは幅9メートル、高さ15から20メートルのレンガ造りの壁からなり、壁の前には幅20メートルの堀が築かれていた。また、壁の内側には24,000人以上の兵士を収容できる兵舎が建てられていた{{sfn|Purcell|1995|p=134}}{{sfn|Goldsworthy|2006|p=340}}。都市には頼ることが可能な地下水源はほとんどなかったものの、雨水を集めて水路に通すための複雑な仕組みや、雨水を貯めるための多くの貯水槽が存在した{{sfn|Miles|2011|pp=342–343}}。
 
カルタゴは市民から兵を募り、戦う意思のあるすべての奴隷を解放することによって、都市を防衛するための強力で士気の高い軍隊を築いていった{{sfn|Goldsworthy|2006|p=339}}{{sfn|Le Bohec|2015|pp= 438–439}}{{sfn|Miles|2011|p=341}}。また、少なくとも20,000人の規模に及ぶ野戦軍を組織し{{sfn|Harris|2006|p=159}}、野戦軍は死刑囚の監房から解放されたばかりであったハスドルバルの指揮下に置かれた。この軍隊は都市から25キロメートル南方に位置するネフェリスに拠点を置いた{{sfn|Le Bohec|2015|p= 439}}。アッピアノスはアフリカに上陸したローマ軍の兵力を84,000人としているが、現代の学者は40,000人から50,000人の間と推定しており、そのうち4,000人は[[騎兵]]であったと考えられている{{sfn|Goldsworthy|2006|p=340}}{{sfn|Le Bohec|2015|p= 436}}。
しかしながら、[[紀元前192年]]の[[ローマ・シリア戦争]]は、対カルタゴ非戦派をも失望させるものとなった。この戦争においてカルタゴは兵糧の提供を、[[ヌミディア]]は兵糧に加えて兵力の提供を申し出たのだが、ローマは兵糧の提供は断って有償で買い上げる一方、ヌミディアの兵力提供は有り難く受け取った。当時のローマの価値観では兵糧は自前で用意すべきものであったが、兵力は同盟国から供与を受けるものであったからである。そのためローマは、カルタゴを非協力的な国と看做す一方で、ヌミディアを信頼できる同盟国と考えるようになった。
 
== 戦争の経過 ==
当時ローマは、先進国であったギリシャ文明に敬意と憧れを強く抱いていた。大スキピオもそうであったように、大多数のローマ市民は、この伝統派であり、ギリシャに傾倒して子弟にギリシャ式の教育を施すほどであった。同時に、そのギリシャが、優れた行政能力とシステムを持ちつつあったローマを、よりにもよってそのローマの援軍に助けられながら蛮族扱することや、衰退に甘んじ、紛争や外向的失策を繰り返しては、そのたびにローマの援軍を利用する事などに幻滅しつつあった。特に、カトーはローマ至上主義者であった。
{{more|{{仮リンク|カルタゴ包囲戦 (第三次ポエニ戦争)|en|Siege of Carthage (Third Punic War)}}}}
=== 紀元前149年 ===
{{more|チュニス湖の戦い}}
ローマ軍はカルタゴへ移動し、海側と陸側から二度にわたって城壁を越えようと試みたものの、いずれも失敗に終わり、包囲作戦に切り替えてその地に留まった。ケンソリヌスとマニリウスはそれぞれ自軍の陣地を構えた。ケンソリヌスの陣地は主に接岸したローマ軍の船舶を守る役割を担い、マニリウスの陣地では[[ローマ軍団]]が駐屯した。一方でハスドルバルは軍隊を前線に移動させ、ローマ軍の補給線と徴発部隊に対して繰り返し攻撃を加えた{{sfn|Goldsworthy|2006|p=341}}。ローマ軍は巨大な[[破城槌]]を作り、城壁の一部を破壊した。そして破壊した場所へ襲撃を試みたものの、壁をよじ登る間に混乱に陥り、待ち構えていたカルタゴ軍によって撃退された。この時、第4軍団の[[トリブヌス・ミリトゥム]]{{sfn|MRR1|p=459}}であったスキピオ・アフリカヌスの養孫の[[スキピオ・アエミリアヌス]]は、命令通りには攻撃に加わらずに破壊された城壁沿いに道を開けて兵士を待機させ、前方のローマ軍がスキピオの部隊の隊列の間を抜けて逃げてきた際に追撃してきたカルタゴ軍を迎え討ち、撃退することに成功した{{sfn|Bagnall|1999|p=314}}{{sfn|Goldsworthy|2006|pp=342–343}}。
 
[[File:Catapulta by Edward Poynter.jpg|thumb|300px|right|『カタパルト』([[エドワード・ポインター]]画、1868年)。カルタゴの城壁を攻撃する[[カタパルト (投石機)|カタパルト]]を操作するローマ兵が描かれている。また、兵器の木材には大カトの有名な台詞である ''Delenda est Carthago''([[カルタゴ滅ぶべし|カルタゴは滅ぶべきである]])が刻まれている。]]
ローマによる新秩序を求める強攻策か、従来通りの伝統策か、ローマは、自ら兵士としても、対外関係の影響を受ける市民達によって、激しく二分されつつあった。
ケンソリヌスが築いた陣地は立地が悪く、初夏には疫病が蔓延したため、より衛生状態の良い場所に陣地を移した。しかしながら、移動した場所は防御には向いておらず、カルタゴ軍は[[火船]]を用いてローマ艦隊に被害を与えた{{sfn|Bagnall|1999|p=314}}。ローマ軍は追加的に砦を建設することで敵の攻撃をより困難にさせたが{{sfn|Goldsworthy|2006|p=343}}、それでもなおカルタゴ軍は繰り返しローマ軍の陣地に攻撃を加えてきた。スキピオはしばしば混乱した戦いの中でカルタゴ軍の攻撃を阻止する役割を果たし、さらに頭角を現していった。スキピオが自分の部隊に課した規律は残りのほとんどのローマ軍の振る舞いとは対照的であった{{sfn|Goldsworthy|2006|pp=343–344}}。
 
敵にとって優位な立地であり要塞化されていたにもかかわらず、マニリウスはネフェリスに近いカルタゴ軍の本陣に対する攻撃を決めた。そして現地に到着するとスキピオの助言に逆らって直ちに攻撃を命じた。当初は順調に攻撃を進めていたが、やがて自軍が持ちこたえられない場所まで軍を前進させてしまった。そして撤退しようとしたところをカルタゴ軍に襲われ、多くの犠牲者を出した。スキピオは300人の騎兵を率い、限定的でよく統率された一連の襲撃と威嚇を繰り返し、カルタゴ軍を足止めさせ、ほとんどの歩兵が退却を完了するための十分な時間を稼いだ。さらに、スキピオはその夜に再び自身の騎兵隊を率いて引き返し、捕らえられたローマ軍の一団を救出した{{sfn|Bagnall|1999|pp=314–315}}。
第二次ポエニ戦争の最後に締結された講和条約により、カルタゴの境界に関する争いは全て[[元老院 (ローマ)|ローマ元老院]]の調停に任せることとされ、カルタゴが市民を武装させたり傭兵を雇ったりする前にはローマの承認が必要とされていた。その結果、第二次と第三次の戦争を隔てる50年間、カルタゴはローマの同盟国ヌミディアと境界紛争が起こるたびにローマ元老院の仲裁を仰いだが、上述のローマ・シリア戦争の経緯もあり、下される裁定は常にヌミディアに一方的に有利なものだった。
 
ローマ軍の縦隊はカルタゴに近い陣地に退却したが、そこには戦況の経過を調査する元老院の委員が到着していた。その後に作成された委員の報告書におけるスキピオの活躍は特筆に値するものであった{{sfn|Goldsworthy|2006|pp=344–345}}。スキピオはカルタゴ側のヌミディア人の騎兵隊の隊長数人と接触を持った後、マニリウスが率いるネフェリスのハスドルバルに対するより入念に計画された二度目の遠征に参加した。しかし、スキピオが接触したヌミディア人の一人が2,200人の兵士を引き連れてローマ軍に投降したにもかかわらず、ローマ軍は成果を上げられないまま時を過ごした。結局、マニリウスはローマ軍が食糧不足に陥ったために撤退し、一方でスキピオはローマ軍の新たな同盟者を率いて食糧を調達するための遠征に向かい、成功裏に遠征を終えた{{sfn|Bagnall|1999|p=315}}{{sfn|Goldsworthy|2006|pp=345–346}}。
この時、カルタゴは、自国の以前の姿との落差に、適応出来ておらず、かといって、それを跳ね返すだけの長期的準備も、不十分だった。
 
=== 戦争の経緯紀元前148年 ===
ローマは二人の新しい紀元前148年の執政官を選出したが、アフリカに派遣されたのは[[ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス (紀元前148年の執政官)|ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス]]一人だけであった。そして[[ルキウス・ホスティリウス・マンキヌス]]がカエソニヌスの部下として海軍を指揮した。カエソニヌスはカルタゴに対する固い包囲を緩い封鎖に戻し、地域内の他のカルタゴを支援する都市を一掃しようとした。しかし、[[ナブール|ネアポリス]]を降伏させることに成功し、都市を略奪した一方で、{{仮リンク|Kelibia|label=アスピス|en|Kelibia}}はローマの陸軍と海軍の双方の攻撃に耐え、[[ビゼルト|ヒッポ]]に対する包囲も攻略に至らなかったことで、カエソニヌスの作戦は失敗に終わった。さらに、ヒッポから出撃したカルタゴ軍がローマ軍の[[攻城兵器]]を破壊したため、ローマ軍は軍事作戦を中断して冬営地に撤退せざるを得なくなった。一方のカルタゴ側では、それまで野戦軍を預かる立場にあったハスドルバルがカルタゴの文民指導者を打倒し、自ら軍権を掌握した。そしてカルタゴは[[マケドニア王国|マケドニア]]の王位を主張する[[アンドリスコス]]と同盟を結んだ。アンドリスコスはローマが支配するマケドニアに侵攻してローマ軍を破り、自らマケドニア王ピリッポス6世を称して[[第四次マケドニア戦争]]を引き起こしていた{{sfn|Goldsworthy|2006|p=346}}{{sfn|Bagnall|1999|pp=315–316}}。
[[紀元前151年]]、[[カルタゴ]]は二度の戦争で領土の大半を失ったにもかかわらず、[[共和政ローマ|ローマ]]への高額の賠償金を繰り上げて完済した。しかし、過去連年ライバル・カルタゴに悩まされてきたローマにとっては、かかるカルタゴの驚異的な経済力や復興力は脅威であり、ローマ内ではカトーを始め、ローマへの将来の禍根を断つ為、いつかカルタゴを徹底的に破壊すべき、という意見が増え始めた。
 
=== 紀元前147年 ===
ところで、その頃、[[ヌミディア]]王[[マシニッサ]]は数度にわたりカルタゴ領土に国境侵害を繰り返し、町を襲撃したので、カルタゴはヌミディアの侵略に対抗すべく大規模な軍隊(25,000人)を召集したが、完敗してしまった。
{{more|カルタゴ港海戦|{{仮リンク|ネフェリスの戦い (紀元前147年)|en|Battle of Nepheris (147 BC)}}}}
[[File:Carthage view.jpg|thumb|right|220px|[[第二次世界大戦]]中に[[アメリカ陸軍航空軍]]が撮影したカルタゴの港湾の跡地。中央に商業港の跡地、右下に軍港の跡地が写っている。]]
スキピオは紀元前147年に就任する公職者の選挙において、自然な成り行きとして[[按察官]](アエディリス)に立候補するつもりであった。その一方でスキピオを執政官に任命してアフリカにおける戦争を担当させたいという世論が大きな高まりを見せていた。しかし、当時36歳か37歳であったスキピオは、{{仮リンク|ウィッリウス法|en|Lex Villia Annalis}}で定められていた執政官の最低年齢である43歳には達していなかった。舞台裏ではかなりの政治的な駆け引きが行われた。スキピオの支持者たちは、それまでの2年間の成功と第二次ポエニ戦争でアフリカにおけるローマ軍の勝利を決定づけたのが養祖父のスキピオ・アフリカヌスであるという事実を利用した。結局、元老院は世論に押された形でその年だけウィッリウス法を無効にするよう[[護民官]]に指示{{sfn|Rotondi|pp=293-294}}した。スキピオは執政官に選出され、通常は戦争の任地を二人の執政官の間でくじ引きで割り当てるにもかかわらず、単独でアフリカのローマ軍の総司令官に任じられた。スキピオはアフリカの軍隊の人員を補充するために十分な兵を徴集することができる通常の権限に加え、志願兵を入隊させることができる異例の権限が与えられた{{sfn|Goldsworthy|2006|pp=346–347}}{{sfn|Astin|1967|pp=61–69}}{{sfn|藤井|2003|pp=793, 797}}。
 
スキピオはローマ軍の本陣をカルタゴの近くに戻したが、これに対してカルタゴ軍の8,000人の分隊が厳重な警戒に当たった。スキピオは規律の強化を求める演説を行い、規律に欠けるか士気に乏しいと見なされた兵士たちを追放した。その後、スキピオは強力な部隊を率いて夜襲を仕掛け、ローマ軍がカルタゴの城壁の弱点と考えていた場所を攻撃した。ローマ軍は一つの門を奪い、4,000人の兵士が市内になだれ込んだ。暗闇の中でパニックに陥ったカルタゴ軍の守備隊は最初は激しく抵抗したものの、やがて逃亡した。スキピオはカルタゴ軍が夜明けに態勢を立て直せば自軍の拠点が無防備になると判断して撤退した{{sfn|Goldsworthy|2006|pp=348–349}}。ハスドルバルはカルタゴ軍の防御が崩壊に至った手段に衝撃を受け、ローマ軍が目の前にいる城壁の上で捕虜に拷問を加えて殺害した。そして今後は交渉はおろか降伏の可能性すらないとしてカルタゴ市民の抵抗の意志を強化していった。都市の議会の一部の議員はハスドルバルの行動を非難したが、これに対してハスドルバルはこれらの議員までも処刑し、都市の全権を掌握した{{sfn|Le Bohec|2015|p=440}}{{sfn|Goldsworthy|2006|p=349}}。
その結果、ヌミディアとの間には、カルタゴは新たに50年間の賠償義務を負うことになったが、上述のような背景のあったローマは、ローマの承諾のない軍事行動は講和条約の違反とし、軍隊を召集、カルタゴに開戦を示唆した。カルタゴは低姿勢で折衝を重ね、カルタゴの良家子息300人をローマに人質に差し出す条件で、国土と自治を許可されるとの約束を得たが、人質送還が履行されると、ローマは軍団をウティカに上陸させ、 全ての武器と防具とを引渡せと要求を加えた。引渡しを終わると、ローマはさらに要求を加え、海岸の都を廃し、10マイル以上の内陸に遷都するようという海洋国家カルタゴにとっては殆ど破滅的な事項を求めた。カルタゴ市は、当時の[[都市国家]]カルタゴにとって数百年来の首都であり、同時に領土を大幅に縮小された同国にとって唯一の都市であり、しかも海洋貿易はカルタゴの繁栄と復興の源泉であった。したがって、それらを放棄してしかも港湾の建設不可能な内陸部に新たに一から都市を創始する、などは、都市国家カルタゴの消滅に等しく、カルタゴ人にとっては承諾の不可能な要求であった。
[[File:Vitrine 3e guerre punique.jpg|thumb|left|240px|第三次ポエニ戦争で用いられた武器の展示({{仮リンク|カルタゴ国立博物館|en|Carthage National Museum}})]]
その後、再度のカルタゴに対する包囲によって陸側からの都市への進入を封鎖したものの、海側からの厳重な封鎖は当時の海軍技術ではほとんど不可能であった。船積みによって都市に運び込まれる食糧の量に苛立ちを募らせたスキピオは、[[封鎖突破船|封鎖を突破しようとする船]]を遮って港への接近手段を封じるために巨大な堤防を建設した。これに対してカルタゴは港から海に向かう新しい水路を切り開いた。そして同時に新しい艦隊を建造し、水路が完成すると艦隊を出撃させてローマ軍の不意を付いた。その後の[[カルタゴ港海戦|カルタゴ港の海戦]]でカルタゴ軍はローマ軍に対して引けを取らずに戦ったが、撤退時に多くの船が堤防に阻まれて沈没するか拿捕された{{sfn|Goldsworthy|2006|pp=349–350}}{{sfn|Miles|2011|p=2}}。続いてローマ軍は港湾周辺のカルタゴ軍の防衛拠点に対する攻撃を試み、最終的に埠頭を制圧した。そして数ヶ月をかけて制圧した場所から城壁と同じ高さのレンガ造りの構造物を建設し、最大で4,000人のローマ兵が近距離からカルタゴの城壁の上へ砲撃できる体制を作った{{sfn|Le Bohec|2015|p=441}}{{sfn|Miles|2011|p=346}}{{sfn|Goldsworthy|2006|p=351}}。
 
この機能が完成すると、スキピオはカルタゴの野戦軍と対決するために大規模な部隊を率いてネフェリスへ向かった。ディオゲネスという名のギリシア人が指揮していたカルタゴ軍は、冬営地として要塞化された陣地を築いていた。紀元前147年末にスキピオは複数の方角からカルタゴ軍の陣地への攻撃を指示し、陣地を制圧することに成功した。逃走するカルタゴ軍はローマの同盟者であるヌミディア人の騎兵に追われ、逃げ延びた者はほとんどいなかった。その後ネフェリスの町は包囲され、3週間後に降伏した。それから程なくしてカルタゴの後背地で抵抗を続けていた要塞のほとんどがその門を開いた{{sfn|Goldsworthy|2006|p=351}}{{sfn|Bagnall|1999|pp=317–318}}。
既にカルタゴは完全に武装解除され丸裸同然の状態だったが、最後のローマの要求は拒否し、ローマ軍によるカルタゴ攻撃戦が始まった。これが第三次ポエニ戦争である。
 
=== 紀元前146年 ===
開戦と同時に町は包囲されたが、紀元前149年に始まるこの包囲戦に、カルタゴは紀元前146年の春まで持ちこたえた。しかし、完全包囲下にあり、食料も他物資も補給のないカルタゴ側は次第に追い詰められ、最後は嵐も加勢し、[[スキピオ・アエミリアヌス]]によって町は陥落した。アエミリアヌスはかつて繁栄したカルタゴの町が陥落し炎上する光景を目にし、現在栄華を誇るローマもいつかは同じ運命を辿るであろうことを考え、歓喜ではなく悲嘆の心情を手記に記している。
[[File:Pietro della Vecchia - Hasdrubal's wife denouncing her husband before Scipio Africanus.jpg|thumb|right|265px|『スキピオ・アフリカヌスの前で夫を非難するハスドルバルの妻』({{仮リンク|ピエトロ・デッラ・ヴェッキア|en|Pietro della Vecchia}}画、1650年代)]]
紀元前146年にアフリカにおけるスキピオの指揮権が一年間延長された{{sfn|Goldsworthy|2006|p=347}}。スキピオは春に港の周辺から総攻撃を開始した。港からの攻撃を予測していたハスドルバルは付近の倉庫群に火を放った。それでもなおローマ軍の先遣部隊は軍港まで突破し、そこを占領することに成功した。さらに部隊の主力は都市の中心となる広場まで到達し、そこに夜通しで留まった{{sfn|Miles|2011|p=3}}。翌朝にはスキピオも軍港の部隊と合流するために4,000人の部隊を率いて向かったが、部隊が[[アポロン]]神殿から[[金]]を奪おうと道を逸れたために混乱が生じた。スキピオとその将校たちは部隊の行動を制止することができず激怒した。しかし、カルタゴ側も部隊が防衛用の陣地に撤退していたためにこの状況を生かすことができなかった{{sfn|Goldsworthy|2006|pp=351–352}}。
 
部隊を再編成したローマ軍は組織的に都市の居住区へ侵入し、遭遇した者たちを皆殺しにして背後の建物を焼き払った{{sfn|Le Bohec|2015|p=441}}。時には頭上への飛び道具による攻撃を避けるために屋根伝いに前進した{{sfn|Miles|2011|p=3}}。抵抗者を一掃するまでにはさらに6日を要し、最後の日にスキピオは捕虜を受け入れることに同意した。カルタゴ側に付いていた900人のローマ軍の脱走兵を含む最後の抵抗者たちは、[[ビュルサ|ビュルサの丘]]の{{仮リンク|エシュムーン|en|Eshmun}}神殿から戦い続けたものの、すべての望みが潰えると自分たちの周囲に火を放った{{sfn|Miles|2011|pp=3–4}}。この時にハスドルバルは命と自由を保証したスキピオに降伏したが、その様子を城壁から眺めていたハスドルバルの妻はスキピオを祝福して降伏した夫を罵り、その後、子供たちと共に神殿に入り焼死を遂げた{{sfn|Le Bohec|2015|p=442}}。
== 結果 ==
包囲戦の後半には多くのカルタゴ人が餓死した。さらに戦いの最後の6日間には、多くの戦死者が出た。戦後に残され捕虜になったカルタゴ人の数は5万人で、戦前に比べるとわずかな数だったが、全て奴隷として売られることになった。
 
都市は破壊と略奪を受け、10日間にわたって燃え続けた{{sfn|楠田|1989|p=127}}。都市陥落の現場に居合わせていたポリュビオスは、スキピオが勝利の大きさと破壊の大きさを前に苦悩を覚え、[[ホメロス]]の詩の一節を引用しつつ国家はどんなに栄光と権力を手にしていても永遠ではないとして祖国の運命について暗い考えを抱いたと伝えている{{sfn|Decret|1977|p=224}}。
町は、10日間から17日間ほどで手際よく焼き払われた。町の壁や建物、港は完全に破壊され、一説によると周辺の土地は作物が育たぬようにと塩が撒かれた([[塩土化]])とも言われる。
 
<blockquote>
残されたカルタゴの領土はローマに併合され、ローマの'''[[アフリカ属州]]'''を形成した。なお、フェニキア人によって建設されたカルタゴ市はローマ軍によって完全に破壊されてしまったため、現存するカルタゴの遺跡はその後[[ガイウス・ユリウス・カエサル|カエサル]]が再建させた植民都市時代以降のものである。
日は來るべしイーリオン、聖なる都城亡びの日、<br>
槍に秀づる[[プリアモス]]、民衆ともに亡びの日。
 
<cite>ホメロス『[[イーリアス]]』6.448-449([[土井晩翠]]訳)</cite>
この戦争でローマが地中海世界の完全な覇者たる傾向はますます強まっていったが、ローマの体制自体が、このような状況に適応しておらず、従来の共和制は行き詰まり、社会不安が急速に増大していくことになる。海外の属州で得た広大な土地や戦争捕虜からなる莫大な奴隷の労働力で大規模農場を経営する([[ラティフンディウム]])富裕層が出現する一方で、海外の安価な農作物がローマ本国の市場に大量に流れ込み、これに対抗できない中小農場経営者の多くが破産し多数の無産市民もまた出現したのである。更に一定の資産を持つ市民が従軍する市民兵によって構成されていたローマ軍にとって、資産を持たない市民の急増は組織的劣化に直結するものであった。こうしてローマの膨張と共に貧富の格差が拡大することでローマの市民社会、及び国家は分裂の様相をみせはじめ、軍の弱体化も顕著になっていく。これに対処せんとスキピオ・アエミリアヌスの義弟(妻の弟達)である[[グラックス兄弟]]は政治改革を目指すも、保守派の反撃によって失敗に終わり(アエミリアヌスも又、グラックス兄弟と敵対する保守派の代表的人物であった)、以降、ローマ人同士の抗争が頻発する混乱期が訪れることになる([[内乱の一世紀]])。
</blockquote>
 
カルタゴ人の捕虜は50,000人におよび、捕虜たちは奴隷として売り払われた{{sfn|Scullard|2002|p=316}}。また、カルタゴが何世紀にもわたって[[シチリア]]の都市や神殿から略奪した宗教関連の品々や偶像の多くは盛大な式典をもって返還された{{sfn|Purcell|1995|pp=141–142}}。
==現代への影響 ==
[[1985年]][[1月]]、[[ローマ]]市長のユーゴ・ヴェテレと[[チュニス]]市長のチェドリー・クリビンは、2200年以上の時を経て、「公式に」終戦の条約に署名を取り交わした。
 
== 脚注戦争後の経過 ==
[[File:Roman Province of Africa in 146 BC.png|thumb|left|300px|ローマがカルタゴを征服した直後の紀元前146年時点におけるローマの[[アフリカ属州]]の推定領土(赤い斜線部分)]]
<references/>
ローマはカルタゴの町を廃墟のまま留めておく決定を下した。元老院から10人の委員が派遣され、スキピオはさらなる破壊を進めるように命じられた{{efn2|戦争後にローマ軍が[[塩土化|都市に塩を撒いた]]とする説があるものの、これは19世紀の創作であると考えられている{{sfn|Ridley|1986|pp=144–145}}{{sfn|Ripley|Dana|1858–1863 |p=497}}{{sfn|Purcell|1995|p=140}}。}}。また、将来この地に再定住しようとする恐れがあるすべての者に対する[[呪詛]]の儀式が行われた{{sfn|Miles|2011|p=353}}。都市の跡地は{{仮リンク|アゲル・プブリクス|en|Ager publicus}}(ローマの公有地)として没収された{{sfn|Le Bohec|2015|p=443}}。スキピオは[[凱旋式]]を挙行し、養祖父と同じように「アフリカヌス」の[[アグノーメン]]を名乗った{{sfn|Le Bohec|2015|p=442}}{{sfn|Scullard|2002|p=316}}。一方でハスドルバルはイタリアの地所へ引退するという誓約と共に降伏していたものの、その後の運命については定かではない{{sfn|Le Bohec|2015|p=442}}。カルタゴの旧領土はローマに併合され、ウティカを州都とするローマの[[アフリカ属州]]として再編された{{sfn|Le Bohec|2015|p=443}}{{sfn|Scullard|2002|pp=310, 316}}。アフリカ属州は穀物をはじめとする食糧の重要な供給地となった{{sfn|Mitchell|2007|p=345}}。
 
最後までカルタゴに味方をしていたポエニの都市は、アゲル・プブリクスとしてローマに没収されるか、ヒッポのように破壊された{{sfn|Le Bohec|2015|p=443}}{{sfn|Miles|2011|p=353}}。一方で生き残った都市では少なくとも伝統的な政治制度や文化の基盤を残すことが許された{{sfn|Fantar|2015|pp=455–456}}{{sfn|Pollard|2015|p=249}}。ローマ人は地元の人々の私生活には干渉せず、ポエニの文化、言語、宗教は生き残り、これらは現代の学者によって「新ポエニ文明」と呼ばれている{{sfn|Le Bohec|2015|pp=443–445}}{{sfn|Fantar|2015|p=454}}。北アフリカでは紀元後7世紀まで{{仮リンク|ポエニ語|en|Punic language}}が話されていた{{sfn|Jouhaud|1968|p= 22}}{{sfn|Scullard|1955|p=105}}。
== 関連項目 ==
[[File:Tunisie Carthage Ruines 08.JPG|thumb|right|245px|カルタゴの遺跡]]
*[[ポエニ戦争]]
[[紀元前123年]]に[[ガイウス・グラックス]]に率いられたローマの[[ポプラレス|改革派]]が公有地を含む[[土地分配法|土地の再分配]]を強力に推し進めようとした。この再分配の対象にはカルタゴの跡地も含まれており、そこに{{仮リンク|ユノニア|en|Colonia Junonia}}と呼ばれる新しい[[コロニア (古代ローマ)|植民都市]]の設立を命じる物議を醸す法律が可決された。[[オプティマテス|保守派]]はこの法律に反発し、法の成立後には新しい居留地の境界を示す標識が狼に掘り返されたという非常に縁起の悪い噂を流した。このような噂やその他の政治的な謀略によって、植民の計画は頓挫した{{sfn|Miles|2011|pp=354–355}}{{efn2|スキピオの下で第三次ポエニ戦争を戦っていたガイウス・グラックスは、その後も土地改革を推進したものの、[[紀元前121年]]に3,000人の支持者たちと共に殺害された{{sfn|Miles|2011|p=355}}。}}。[[紀元前111年]]に制定された法律では再びあらゆる再定住が禁止されている{{sfn|Miles|2011|p=448}}。戦争から1世紀を経て[[ユリウス・カエサル]]がカルタゴをローマの都市として再建する計画を立てたが、計画はわずかしか実行に移されなかった。[[紀元前29年]]に至り[[オクタウィアヌス]]がこの構想を復活させ、計画を完成へと導いた。{{仮リンク|カルタゴ (古代ローマ)|label=ローマ期のカルタゴ|en|Roman Carthage}}は[[帝政ローマ]]時代にアフリカの主要都市の一つとなった{{sfn|Richardson|2015|pp=480–481}}{{sfn|Miles|2011|pp=363–364}}。そして戦争終結から2,131年後の[[1985年]][[2月5日]]にはローマ市長の{{仮リンク|ウーゴ・ヴェテレ|en|Ugo Vetere}}とカルタゴ市長の{{仮リンク|シェドリ・クリビ|en|Chedli Klibi}}によって、両都市の間で象徴的な平和条約が締結された{{sfn|Fakhri|1985}}。
**[[第一次ポエニ戦争]]
**[[第二次ポエニ戦争]]
*[[ガイセリック]](5世紀の[[ヴァンダル族]]の王。ローマからカルタゴを奪って自らの本拠地とし、さらにローマに侵攻。これを占拠、略奪した)
*[[民族浄化]]
*[[カルタゴ (映画)]]
 
== 脚注 ==
{{古代ギリシア・ローマの戦争}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
=== 出典 ===
{{reflist|20em}}
== 参考文献 ==
=== 日本語文献 ===
*{{Cite journal|和書|author=楠田直樹 |title=カルタゴの滅亡とスキーピオー・アエミリアーヌス |journal=創価女子短期大学紀要 |issn=09116834 |publisher=創価女子短期大学紀要委員会 |year=1989-12-01 |volume= |issue=7 |pages=109-136 |naid=110006608061 |doi= |url=https://soka.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=38842&file_id=15&file_no=1 |accessdate=2021-10-8 |ref={{SfnRef|楠田|1989}}}}
*{{Cite journal|和書|author=藤井崇 |title=<論説>ポリュビオスとローマ共和政 : 『歴史』からみた共和政中期のローマ国政 |journal=史林 |issn=03869369 |publisher=史学研究会 |year=2003-11-01 |volume=86 |issue=6 |pages=765-799 |naid=120006598237 |doi=10.14989/shirin_86_765 |url=https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/239772/1/shirin_086_6_765.pdf |accessdate=2021-10-8 |ref={{SfnRef|藤井|2003}}}}
=== 外国語文献 ===
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