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'''ロシア飢饉(1921年-1922年)'''({{Lang-en|Russian famine of 1921–1922}})は、1921年から1922年にかけてロシアで発生した[[飢饉]]である。
1917年の十月革命、その後のロシア内戦と諸外国の干渉戦争による混乱のさなか、1921年夏に[[旱魃]]が襲い、[[ヴォルガ川]]流域地帯を中心に広範囲で飢饉が起きた。餓死者の数には諸説ある。500万人<ref>[http://www.cbc.ca/news/background/forcesofnature/natural-disasters.html World's worst natural disasters since 1900]</ref>というもの、数百万人<ref>{{Harvnb|土肥|発行年=2016年|pp=320|Ref=harv}}</ref>、100万人以上<ref>{{Harvnb|松戸|発行年=2011年|pp=23|Ref=harv}}</ref>などである。ソヴィエト政権では、[[レーニン]]の強い要求により、1921年3月に「新経済政策」([[ネップ]])を導入した。ネップによって穀物生産は増えはじめ、1925年には第1次世界大戦前の水準に回復した。<ref>{{Harvnb|松戸|発行年=2011年|pp=23|Ref=harv}}</ref>
いっぽう、ロシア内戦期を専門とするロシア史学者 [[梶川伸一]] は、1921/22年飢饉に対する研究の遅れを指摘する。ことにソヴィエト時代には、飢饉は実際よりはるかに過小に見積もられ、些末な事件として扱われた。そのように事実がゆがめられた背景には、以下の理由があるとする。'''1.'''レーニン時代の出来事である。'''2.'''農民のためのネップ開始時に農民が悲惨な目に遭うはずがない。'''3.'''飢饉救済は[[アメリカ救済局]]を初めとする諸外国の組織であった。<ref>{{Harvnb|梶川|発行年=2013|pp=128-129|Ref=harv}}</ref>
『共産主義黒書〈ソ連篇〉』では、ソヴィエト政府の食物徴収の過酷さを指摘するとともに、1922年3月19日にレーニンが政治局のメンバーに書いた手紙を紹介している。「飢饉は『敵の頭に致命的な一撃を与え』るために利用できるかもしれない」という内容で、レーニンが飢饉の終息にさして興味がなかったことを示している。<ref>{{Harvnb|クルトワ|ヴェルト|発行年=2016|p=254|Ref=harv}}</ref>
 
== 背景 ==
===ロシアの農業 ===
ロシアの自然条件は厳しく、農業に不利な地域が多い。国土の大半が高緯度寒冷地に位置し、作物は春小麦、[[ライ麦]]、[[甜菜]](てんさい)といった、北方性農産物や酪農になる。霜のない期間は、[[黒土地帯]]で130日から160日に過ぎない。
また南部の多くの地域は乾燥地域にあり、旱魃の被害を受けやすい。<ref>{{Harvnb|吉田|発行年=2017年|p=37|Ref=harv}}</ref>⁠
2006年から2012年にかけて、旧ロシア帝国、旧ソヴィエト連邦である[[カザフスタン]]、ロシア、[[ウクライナ]]の三国が世界の穀物輸出量の14%を占めるようになった。21世紀になっても旱魃などの影響で、凶作と豊作の差が激しく、安定供給が難しい状態である。 <ref>{{Harvnb|吉田|発行年=2017年|p=50|Ref=harv}}</ref>⁠
 
イギリスでは18世紀後半には、播いた種の10倍の収穫を得るようになっていた。だが、ロシアでは19世紀末ですら5倍であ⁠った。<ref>{{Harvnb|土肥|発行年=2011年|p=246|Ref=harv}}</ref>
ロシアにおいても、ヴォルガ川下流域や現ウクライナにあたる黒海沿岸地域では、19世紀末から第1次大戦直前にかけて、穀物の収穫量が大きく増えた。とはいえ、ヨーロッパで8世紀から19世紀まで行われていた[[三圃式農業]](さんぽしきのうぎょう)<ref>{{Harvnb|精選版日本国語大辞典|発行年=2006年|section= 三圃式農業|Ref=harv}}</ref>が、いまだ広く行われ、1875年に凶作、1891年には旱魃による大飢饉、1906年は不作、1911年は凶作が起きた。<ref>{{Harvnb|冨岡|発行年=1995年|p=246|Ref=harv}}</ref>
 
==公式発表による被害==
1921年7月21日と8月4日づけ[[ソヴィエト中央執行委員会]]の政令によって凶作地域が認定された。まず[[ヴォルガ川]]流域の8つの地域、また[[ウラル]]地方の3つの地域である。この認定地域は、1921年12月までにさらに広がり、10の県や自治共和国が加わった。
[[ポムゴル中央特別委員会]]では、ヨーロッパ地域とアジア地域を含めたロシア共和国全体で、1921年総播種面積の40%にあたる2100万[[デシャチーナ]](1デシャチーナは約1.1ヘクタール、すなわち約2310万ヘクタール)以上が飢饉地域に指定され、住民約3600万人の罹災が指摘された。
中央統計管理局によると、1921年-1922年のあいだに505万3000人が餓死した。
これらが当時の公式発表である。<ref>{{Harvnb|梶川|発行年=2013年|p=137|Ref=harv}}</ref>
 
[[File:1921-Famine-map.jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:1921-Famine-map.jpg|サムネイル|飢饉の影響を受けたエリア]]
[[File:Fridtjof_Nansen,_Les_deux_étapes_de_la_faim_(1922).jpg|リンク=https://en.wikipedia.org/wiki/File:Fridtjof_Nansen,_Les_deux_%C3%A9tapes_de_la_faim_(1922).jpg|サムネイル|308x308ピクセル|飢饉の様子を伝える葉書の写真]]
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| publisher = 土地制度史学会(現 政治経済学・経済史学会)
| doi = 10.20633/tochiseido.37.4_1
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* {{Cite |和書
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| title = 日本国語大辞典 精選版
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| date = 2006年
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* {{Cite |和書