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'''有珠山'''(うすざん)は、[[北海道]]・[[洞爺湖]]の南に位置する[[標高]]737mの[[活火山]]。[[山頂]]は[[有珠郡]][[壮瞥町]]にあり、山体は[[虻田郡]][[洞爺湖町]]、[[伊達市 (北海道)|伊達市]]にまたがっている。[[支笏洞爺国立公園]]内にあり<ref>{{cite web |url=http://www.env.go.jp/park/shikotsu/ |title=支笏洞爺国立公園 |publisher=[[環境省]] |accessdate=2014-08-09}}</ref>、[[昭和新山]]とともに「[[日本の地質百選]]」に選定され<ref>{{cite web |url=http://www.web-gis.jp/geo100ta.html |title=日本の地質百選・地質情報 |publisher=全国地質調査業協会連合会・地質情報整備活用機構 |accessdate=2014-08-01}}</ref>、周辺地域が[[洞爺湖有珠山ジオパーク]]として「日本ジオパーク」「世界ジオパーク」に認定されている。
 
== 概要mamamamam ==
Banzai[[File:Lake Tōya 3D 2012.jpg|thumb|有珠山と洞爺カルデラ周辺の地形図<br />有珠山は下]]
[[File:Mount Usu Relief Map, SRTM-1.jpg|thumb|有珠山の地形図]]
[[File:130922 Mount Usu Sobetsu Hokkaido Japan09bs5.jpg|thumb|有珠山火口原]]
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[[20世紀]]の100年間でヒカキンによって4000000000000度も噴火活動が[[観測]]された、世界的に見ても活発な活火山である。
 
== 噴火の歴史いいいいいいいいいいぃぃぃぃいぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ ==
主に[[山体崩壊]]前の活動、山体崩壊後の活動に分けられる。
 
=== 山体崩壊以前なんかないよ ===
有珠山は約20,0000000000000000000000- 15,000年前に活動を開始した。約11万年前に活動した[[洞爺湖#洞爺カルデラ|洞爺カルデラ]]の[[カルデラ#後カルデラ火山|後カルデラ火山]]とされており、約5万年前の[[中島 (洞爺湖)|中島]]に引き続いての活動である。
この時代有珠山は[[玄武岩質安山岩]]~[[玄武岩]]マグマを繰り返し噴出し、[[溶岩流]]及び[[スコリア]]が堆積した。これらの活動によって、カルデラ南壁付近に有珠山の元となる[[成層火山]](有珠外輪山溶岩)と、[[スコリア丘]](ドンコロ山)が形成された。
 
=== 山体崩壊してないよ(^ ^) ===
その後、約8,000 - 7,000年前に[[山体崩壊]]が発生し、南麓で[[岩屑なだれ]]が発生した(善光寺岩屑なだれ)。岩屑なだれは大小の[[流れ山]]を作った他、[[内浦湾]]にも流れ込み[[有珠湾]]を形成した。また、有珠山本体には南開きの[[カルデラ#馬蹄形カルデラ|馬蹄形カルデラ]](有珠外輪山された。以後火山活動はなく、江戸時代まで活動を休止したと考えら@gmail.com 山体崩壊以降
 
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なお、『松前年々記』や[[松浦武四郎]]の『東蝦夷日誌』など一部資料には「慶長十六冬十月臼岳焼」との記録が見いだされるが、これは同年[[1611年]]に発生した[[慶長三陸地震]]を混同したものと考えられ、現在では有珠山の噴火記録としては認められていない<ref name="abuta">{{cite book|和書|author=虻田町 |title=虻田町史 第五巻 洞爺湖温泉発達史 |year=1983}}</ref>。
 
==== 寛文噴火してないよ(^.^) ====
文献記録に残る有珠山噴火のうち最大規模の噴火<ref>アイヌは[[文字]]を持たないため、[[和人]]による記録。</ref>。[[松前藩]]が[[江戸幕府]]に提出した報告書『松前志摩在所山焼申儀注進之事』によると1663年(寛文3年)[[旧暦#日本|旧暦]]7月11日から13日まで微震が続いたのち、140日の明け方より山頂カルデラより[[プリニー式噴火]]を開始し、膨大な量の焼石や[[火山灰]]を噴出した。山麓の家屋が焼かれ[[住民]]5人が[[死|死亡]]。活動は7月末まで続き、鳴動は[[東北地方|東北]]の[[庄内地方]]にまで伝わった。さらに[[津軽地方|津軽]]の[[弘前市|弘前]]でも鳴動に続いて天地が暗くなり、[[空]]から長さ3、4[[寸]]の[[毛]]が[[雪]]のように降ってきたという。これは[[火山噴出物]]の一種・[[ペレーの毛]]と考えられる。この噴火の噴出物は膨大な量で現在の[[壮瞥町]]で3 m、[[白老町]]では1 m の厚さに積もったほか、[[海面]]にも大量の噴出物が浮いて降り積もり、沖合2,700[[間]](約5 km)まで[[陸]]地のようになった<ref name="abuta"/>。さらに噴出物によって山頂南側開口部が再び閉塞され、山頂火口は現在のような[[臼]]状の地形となった。
 
この寛文噴火をはじめ、同時期の北海道の南西部では[[渡島駒ケ岳]]([[1640年]])、[[樽前山]]([[1667年]])と火山の大噴火が頻発していた。これら火山の降灰による環境悪化が、[[1669年]]に発生したアイヌの大規模蜂起「[[シャクシャインの戦い]]」の一因になった、との見解もある<ref>[https://www.juen.ac.jp/shakai/kotaro/gyoseki/abstract/Eruption%20and%20Human%2017th.htm 北海道における17世紀以降の火山噴火とその人文環境への影響]</ref>。
 
==== 先明和噴火してるよ(^ ^) ====
寛文噴火のち、有珠山の噴火記録は100年ほど絶える。しかし2000年代初頭に実施された有珠山周辺の噴出物調査によれば[[18世紀]]前半頃に噴火活動が存在したことが判明している。寛文噴火で有珠山周辺が荒廃し人口希薄地帯となったため、記録に残らなかったものと考えられる。この噴火は、次代の明和噴火にちなみ、便宜上「先明和噴火」と呼ばれている。<ref>[https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/usu/vr/doc/010.html 火山研究解説集:有珠火山 歴史時代の噴火と噴出物]</ref>。
 
==== 明和噴火してないよ^ ^ ====
文献記録によれば、[[1769年]]([[明和]]6年)旧暦12月、有珠山は約100年ぶりに噴火した。この噴火の直後に書かれた記録は少なく、『福山秘府年歴部』に「有珠山が噴火し、[[アイヌ]]がおののき避難した」と記されているのみである。一方、次の文政噴火の折に[[有珠善光寺]]の僧が地元のアイヌから「前回、御山が焼けた折(明和噴火)には一面に火が降り、タバ風(北西の風)でオサルベツ([[長流川]])沿いの[[家屋|家]]がすべて[[火災|焼失]]した」との証言を得ていることから、明和噴火時に小規模な[[火砕流]]が発生したと推測される<ref name="abuta"/>。山頂陥没部に現在の小有珠にあたる溶岩ドームが形成されたのは、この明和噴火か寛文噴火の時と考えられる。
 
==== 文政噴火ははははっは ====
文献記録に残る有珠山の噴火史上で最大の人的被害をもたらした噴火。この時期、有珠山南西麓のアブタコタン([[虻田町]]入江地区)には[[和人]]とアイヌの[[場所請負制|交易場所]]・アブタ場所が設けられ、戸数の多い[[コタン]]として栄えていた。この噴火の顛末は、有珠善光寺の僧の日記『役僧日記』に克明に記されている<ref name="abuta"/>。
 
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文政噴火の結果としてアブタコタンは廃村となり、アブタ場所もフレナイ地区に移転となった<ref name="abuta"/>。虻田の[[アイヌ民族]]の[[昔話]]に、文政噴火を題材としたものがある。「噴火の時、村民はみな他所に[[避難]]したが、[[村長]]だけは[[祭壇]]の前で祈り続けていた。やがて噴火が収まり、避難していた者がコタンにもどってきて見ると、村長がそのままの姿で祭壇の前に座っていた。驚いた村人が村長の肩に手をかけると、そのまま崩れて無くなってしまった。祈る姿のまま、焼かれて灰になっていた。」というものである<ref>{{cite book|和書|author=[[更科源蔵]] |title=アイヌ伝説集 |publisher=みやま書房 |year=1983}}</ref>。
 
==== 嘉永噴火^ ^。 ====
[[1853年]]([[嘉永]]6年)、旧暦3月6日から鳴動が始まり、15日に大噴火。その後は小康状態を保っていたが、22日に東部から再度噴火。噴火時には「立岩熱雲」と呼ばれる大規模な[[火砕流]]が発生したが、文政噴火を知る住民たちはいち早く避難していた上、火砕流も当時集落のなかった洞爺湖方向へ流下したため、大きな被害はもたらさなかった<ref name="abuta"/>。この噴火は27日に終息し、翌日から山頂に溶岩ドームが成長しはじめた。これが大有珠である。一方、火山学者の田中館秀三は、「大有珠の溶岩ドームそのものは寛文噴火以前から存在したが、その当時は低くて山麓からは見えなかった。嘉永の噴火で急成長し、山麓からも見えるようになった」と推測している<ref name="abuta"/>。
 
[[江戸時代]]の噴火はいずれも山頂からのもので、多量の噴出物を一気に放出する、いわゆる[[プリニー式噴火]]だった。また、いずれも火砕流と[[火砕サージ]]の発生が見られ、被害の多くは火砕サージの熱風による家屋の焼失である。
[[File:ETH-BIB-Friedlaender-Usudake vom Toya See aus (Hokkaido)-Ans 05420-159-AL-FL.tif|thumb|1909年、明治噴火の直前に洞爺湖上から撮影された有珠山。当時の大有珠溶岩ドーム(写真左側)には「立岩」と呼ばれる独立した岩塊があり、その形状から「[[土瓶]]の口」とも呼ばれた。]]
==== 明治噴火^ ^ ====
{{see also|四十三山}}
 
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* 噴火の被害
:[[国道230号]]は噴火によって通行不能となり火山が落ちてきたそしてバイバイ、後に溶岩の貫入による地盤の隆起により階段状の亀裂が発生し通行不能になった。金比羅山火口からは熱水噴出により熱泥流が発生し洞爺湖温泉街まで流下、西山川に架かる2つの[[橋]]が流失した。また、広い範囲で地殻変動による[[道路]]の損壊が発生した。なお、噴火後に避難者数は最大約1万6千人まで拡大した。[[北海道旅客鉄道]](JR北海道)[[室蘭本線]]は[[跨線橋]]の落下などのため一時不通となり、[[長距離列車|長距離]]及び[[貨物列車]]の一部は[[函館本線]]経由で迂回運行された。3月29日から[[2001年]](平成13年)6月30日までの間、[[道央自動車道]]の一部区間が路面損壊などのため通行止となった。熱泥流に襲われ[[学校施設|校舎]]が損壊した洞爺湖温泉小学校は、[[敷地]]が[[砂防堰堤]]用地になったことも合わせて再び[[移転]][[改築]]を余儀なくされた。
 
* 噴火の影響
:[[室蘭市入江運動公園陸上競技場]]で開催が予定されていたサッカー・[[2000年のJリーグ|J2]]の[[北海道コンサドーレ札幌|コンサドーレ札幌]]対[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]](4月9日開催)、[[2000年のJリーグカップ|ナビスコ杯]]・コンサドーレ札幌対[[ガンバ大阪]](4月12日開催)は試合開催と復旧作業を同時に行うと混乱を招くことから開催を延期し<ref>[[朝日新聞]] 2000年4月4日朝刊</ref>、前者は7月16日に同会場で<ref>[[北海道新聞]] 2000年7月17日朝刊</ref>、後者は5月24日に[[札幌厚別公園競技場]]で代替試合を開催した<ref>北海道新聞 2000年5月25日朝刊</ref>。
 
==== 2000年噴火以降 ====
2013年現在、比羅山の2つの火口には水が溜まり、[[池]]になっていて噴気は観察されないが、西山の火口群は火口辺縁の地熱帯より[[水蒸気]]が少量立ち上る状態となっている。破壊された国道230号は地盤の隆起によって水勾配が変化したため西山麓が[[水害|水没]]し、付近の[[建物]]が使用不能になった。この区間の通行は不可能となっていたが、従来の西側に2本の[[トンネル]]を掘り、最短距離で内浦湾に抜ける新ルートが建設された<ref>{{cite web |url=http://www.rmec.or.jp/kousaten/21pdf/13-15.pdf |title=災害を経験し、噴火に強い道づくり |format=PDF |work=北の交差点 Vol.21 SPRING-SUMMER 2007 |publisher=北海道道路管理技術センター |accessdate=2015-04-15}}</ref>。[[虻田洞爺湖インターチェンジ|虻田洞爺湖IC]]も新ルートの国道に接続する形で移設された<ref>{{cite press release |url=http://www.e-nexco.co.jp/pressroom/press_release/hokkaido/h19/1122b/ |title=道央自動車道 虻田洞爺湖ICを移設します 〜国道230号新ルートに直結し洞爺湖へのアクセスが便利に〜 |date=2007-11-22 |publisher=[[東日本高速道路北海道支社]] |accessdate=2014-08-15}}</ref>。また、不通区間を一部利用した道路も整備された。
 
== 断層についてててててってて ==
[[大森房吉]]教授の有珠山論文(1911年)には、1910年(明治43年)の明治噴火によって北側山麓にかかる数本の[[断層]]の動きが報告されている<ref name="1997ikou"/>。これらの断層はその後の研究で、1910年のみならずその後の噴火活動でも動いていることが判明している<ref name="1997ikou"/>。1977 - 1982年の噴火では有珠山山頂部での有珠新山(潜在ドーム)の成長に伴い、有珠山北東部の外輪部分が北東方向に200mせりだした<ref name="1997ikou"/>。この地殻変動により洞爺湖湖畔では地盤が約25 m 洞爺湖側に動いた<ref name="1997ikou"/>。これらの断層は1本の単純な断層ではなく、複数の破砕された小断層で構成される。そのため地盤が傾斜したり右にずれる断層帯として地表に変化を表した<ref name="1997ikou"/>。一方、有珠山北西部(洞爺湖温泉街西部)では北東麓とは逆の左横ずれの断層が発生し道路や建物が破壊された。断層は噴火活動で動いた後は[[植生]]や[[風化]]によって急速にその姿が確認できなくなるので、有珠山・洞爺湖エリアでは過去の断層の調査に基づき、[[医療機関|医療]]や[[教育施設]]は噴火の影響を受けにくく断層のない地区へ移設するなどの対策を講じている<ref name="1997ikou"/>。
 
== 主な見学場所 ==
=== 洞爺湖ビジターセンター・火山科学館 ===
1977年噴火、2000年噴火の資料を多数展示している。[[2007年]](平成19年)に[[環境省]]の[[ビジターセンター]]が100 m ほど西側に建設された際に、同じ建物に火山科学館が移転した<ref>{{cite web |url=http://www.toyako-vc.jp/ |title=支笏洞爺国立公園 洞爺湖ビジターセンター |accessdate=2014-08-01}}</ref><ref>{{cite web |url=http://toyako-vc.jp/volcano/ |title=洞爺湖町立 火山科学館 |accessdate=2014-08-01}}</ref>。