「チャド・リビア紛争」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
en:Chadian–Libyan conflict at 00:59, 22 October 2021 oldid=1051182238」Libyan escalation節を訳出、ほか。
en:Chadian–Libyan conflict at 00:59, 22 October 2021 oldid=1051182238」Libyan difficulties節を訳出、ほか。
11行目:
*{{仮リンク|人民軍 (チャド)|label=人民軍|en|People's Armed Forces}}(FAP)
*{{flagicon image|Flag of Frolinat.svg}}{{仮リンク|チャド民族解放戦線|en|FROLINAT}}(FROLINAT)
*国民統合のための暫定政府(GUNT)(1979-1986)
*{{仮リンク|Codos|en|Codos}}(1983-1986)
{{flagicon image|Flag of Palestine.svg}}[[パレスチナ解放戦線]](PLO)(1987)<ref>{{cite news |title=قصة من تاريخ النشاط العسكري الفلسطيني ... عندما حاربت منظمة التحرير مع القذافي ضد تشاد |url=https://raseef22.net/article/173109-%D9%82%D8%B5%D8%A9-%D9%85%D9%86-%D8%AA%D8%A7%D8%B1%D9%8A%D8%AE-%D8%A7%D9%84%D9%86%D8%B4%D8%A7%D8%B7-%D8%A7%D9%84%D8%B9%D8%B3%D9%83%D8%B1%D9%8A-%D8%A7%D9%84%D9%81%D9%84%D8%B3%D8%B7%D9%8A%D9%86%D9%8A |accessdate=2021-05-16 |publisher={{仮リンク|Raseef22|en|Raseef22}}|date=2018-12-04 |language=ar }}</ref><ref>{{cite book |url=https://books.google.com/books?id=n8LsPA3mTBYC&q=PLO+Aouzou&pg=PA98 |title=Palestinian Refugees: Pawns to Political Actors |first=Ghada Hashem |last=Talhami |date=2003 |accessdate=2021-12-01 |publisher=Nova Publishers |isbn=9781590336496 |page=98 |language=en }}</ref>
23行目:
*{{仮リンク|北部軍 (チャド)|label=北部軍|en|Armed Forces of the North}}(FAN)(1978–1983)
*{{仮リンク|チャド軍 (1983年 - 1990年)|en|Chadian National Armed Forces}}(FANT)(1983–1987)
*{{仮リンク|国民統合のための暫定政府|en|Transitional Government of National Unity}}(GUNT)(1986–1987)
{{FRA}}<br />
アフリカ連合軍
63行目:
チャド民族解放戦線(FROLINAT)より分裂した最強派閥・{{仮リンク|北部軍軍事司令評議会|en|Command Council of the Armed Forces of the North}}(CCFAN)にとって、リビアの積極的な活動は懸念になり始めた。1976年10月、リビアからの支援問題で分裂、一部の者が離反し、反リビアの[[イッセン・ハブレ]]が率いる{{仮リンク|北部軍 (チャド)|label=北部軍|en|Armed Forces of the North}}(FAN)を結成した。一方、カーザーフィーとの同盟を受け入れる多数派は[[グクーニ・ウェディ]]の指揮下にあった。この多数派はほどなくして{{仮リンク|人民軍 (チャド)|label=人民軍|en|People's Armed Forces}}(FAP)と改称した{{sfn |Buijtenhuijs |1984 |p=19 }}。
 
その当時、カーザーフィーからの支援は道義的に問題のない物資が中心で、武器類の供給はごく限定的であった。1977年2月になると、リビアはウェディグクーニ率いる人民軍(FAP)に[[AK-47|AK-47アサルトライフル]]数百丁、[[RPG|RPG (兵器)]]数十丁、81mmおよび82mmの[[迫撃砲]]、[[無反動砲]]を供給し、状況は変わり始めた。同年6月、これらの武器で武装した人民軍(FAP)は、ティベスティ(Tibesti)地方の[[バルダイ]]、{{仮リンク|ズアール|en|Zouar, Chad}}、ボルク(Borkou)地方の{{仮リンク|ウニアンガ・ケビル|en|Ounianga Kébir (town)}}にある[[チャド軍 (1960年 - 1979年)|チャド軍]](FAT)の拠点を攻撃した。6月22日以来包囲されていたバルダイは7月4日に陥落、またチャド軍(FAT)はズアールからも撤退し、ウェディグクーニはティベスティ地方を完全に掌握した。チャド軍(FAT)は兵士300人を失い、多量の軍事物資が人民軍(FAP)側に渡った{{sfn |Buijtenhuijs |1984 |pp=16-17 }}<ref>{{cite web |date=1993 |title=Public sitting held on Friday 2 July 1993, at 10 a.m., at the Peace Palace, President Sir Robert Jennings presiding |url=https://www.icj-cij.org/public/files/case-related/83/083-19930702-ORA-01-00-BI.pdf |format=PDF |website=[https://www.icj-cij.org/en/case/83/oral-proceedings INTERNATIONAL COURT OF JUSTICE > Territorial Dispute (Libyan Arab Jamahiriya/Chad) > ORAL PROCEEDINGS] |publisher=国際司法裁判所 |language=en |accessdate=2021-12-08 |page=18 }}</ref>。一方、ウニアンガ・ケビルは6月20日に攻撃を受けるが、当地在留のフランス軍事顧問団により救われた{{sfn |Clayton |1998 |p=99 }}。
 
[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア]]がチャドへの関与をより深めるための拠点として[[アオゾウ地帯]]を利用していることが明らかになってきたため、[[フェリックス・マルーム|マルーム]]は、リビアによるアオゾウ地帯の占領問題について[[国際連合]]および[[アフリカ統一機構]]に提起することにした{{sfn |Wright |1989 |pp=130-131 }}。また、マルームは新たな同盟を結ぶ必要があると判断し、1977年9月、[[イッセン・ハブレ|ハブレ]]と正式な同盟関係締結を交渉し、「ハルツーム合意」に双方合意した。この合意は1978年1月22日に行われた基本綱領の署名までは秘匿され、その後、1978年8月29日にはハブレを首相とする国民統一政府(National Union Government)が発足した{{sfn |Macedo |2003 |pp=132-133 }}{{sfn |Buijtenhuijs |1981 |p=27 }}。マルームとハブレによるこの合意は、「カーザーフィーが支配する過激なチャド」を危惧する[[スーダン]]と[[サウジアラビア]]が積極的に後押しした。両国とも、ハブレを敬虔な[[イスラム]]教徒、反植民地主義者と見ており、カーザーフィーの計画を阻む唯一の好機と考えた{{sfn |Gérard |1984 |p=119 }}。
71行目:
[[File:LARAF MiG-23MS rolling along the runway at Faya Largeau AB,.jpg |thumb |left |1980年代中頃、{{仮リンク|ファヤ・ラルジョー空港|label=ファヤ・ラルジョー基地|en|Faya-Largeau Airport}}を滑走する[[MiG-23 (航空機)|MiG-23 M's]]]]
 
カーザーフィーは「マルーム・ハブレ合意はチャドにおける自身の影響力に対して深刻な脅威である」と認識し、チャドに対するリビアの関与度合いを高めることとなった。リビア地上部隊の積極的な参加を得ると{{sfn |Pollack |2002 |p=376 }}、ウェディグクーニ率いる人民軍(FAP)は、1978年1月29日に初めて、政府軍のチャド北部最後の前哨基地[[ファヤ・ラルジョー]]、[[ファダ (チャド)|ファダ]]、ウニアンガ・ケビルに対し「イブラヒム・アバッチャ攻撃(the Ibrahim Abatcha offensive)」を仕掛けた。攻撃は成功し、ウェディグクーニおよびリビア軍は[[ボルク・エネディ・ティベスティ県]](BET県)の支配権を手に入れた{{sfn |Brecher |Wilkenfeld |1997 |p=86 }}{{sfn |Buijtenhuijs |1981 |p=26 }}。
 
リビア軍・人民軍(FAP)連合とチャド政府軍との間の決定的な衝突は、BET県の県都ファヤ・ラルジョーで発生した。守備側のチャド政府軍5000人と、人民軍(FAP)軍2500人+リビア軍支援約4000人とで激しい戦闘が行われたのち、1978年2月18日、ファヤ・ラルジョーは陥落した。リビア軍は戦闘に直接携わらず、機甲部隊・砲兵部隊及び航空支援を担当し、この役割分担はこれ以降繰り返されることとなった{{sfn |Pollack |2002 |p=376 }}。また、人民軍(FAP)の武装も、[[9K32|9K32ストレラ-2地対空ミサイル]]を誇示するなど、以前と比べ格段に強化されていた{{sfn |Buijtenhuijs |1984 |p=18 }}。
 
人民軍(FAP)は1977年から1978年にかけて約2500人を捕虜とし、その結果、チャド政府軍は少なくとも20%の兵員を失った{{sfn |Buijtenhuijs |1981 |p=26 }}。特に「{{日本語版にない記事リンク|国家・遊牧民警備隊|en|National and Nomadic Guard}}(GNN)」は、ファダ、ファヤ・ラルジョーの陥落で壊滅的な損害を被った{{sfn |United States |1982 |p=32}}。ウェディグクーニはこの勝利により、チャド民族解放戦線(FROLINAT)内での地位を高めることとなった。1978年3月にファヤ・ラルジョーにおいて、主要な反体制勢力を集めた会議がリビア主催で開催され、各派閥がチャド民族解放戦線(FROLINAT)として再結集、その事務局長にウェディグクーニが指名された{{sfn |Buijtenhuijs |1984 |p=21 }}。
 
人民軍(FAP)・リビア軍の攻勢に対し、マムーームは、1978年2月6日に[[大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国|リビア]]との外交関係を断絶、リビアの関与に関して[[国際連合安全保障理事会]]に提起というかたちで応じた。リビアによるアオゾウ地帯の占領問題に関しても再度提起を行ったが、ファヤ・ラルジョー陥落後の1978年2月19日、停戦受け入れと提起撤回を余儀なくされた。一方、リビア側は、兵器の重要な供給元であったフランスからの圧力により、チャドへの進軍を停止させた{{sfn |Brecher |Wilkenfeld |1997 |p=86 }}。
 
1978年2月24日、[[ニジェール]]大統領[[セイニ・クンチェ]]、[[スーダン]]副大統領アブ・アルガシム・モハメド・イブラハム(Abu al-Gasim Mohamed Ibrahim)を仲介者とする国際和平会議がリビアの[[セブハ]]で開かれ、チャドとリビアは外交関係を回復した。フランス、スーダン、ザイールからの強い圧力を受けて{{sfn |Azevedo |1998 |p=146 }}、1978年3月27日、マムーームは、「チャド民族解放戦線(FROLINAT)の承認」「新たな停戦の合意」を旨とするベンガジ合意への署名を余儀なくされた。この合意では、合意事項を履行するためのリビア・ニジェール合同軍事委員会の創設が求められており、この委員会を通じて、リビアのチャド領内への介入は合法化されることとなった。また、合意事項にはリビアにとって重要な条件「チャド駐留フランス軍の完全撤収」も含まれていた{{sfn |Brecher |Wilkenfeld |1997 |p=86 }}。初めから履行が覚束ないこの合意は、カーザーフィーにとっては、「子分」であるウェディグクーニの立場を強固にするための戦略以上の何物でもなかった。また、この合意におけるマルームの譲歩を「指導者としての力量が足りない証である」と見たチャド南部の人々の間では、マルームの威信は大きく低下した{{sfn |Azevedo |1998 |p=146 }}。
 
1978年4月15日、停戦合意からほどなくして、リビアの駐留軍800人をファヤ・ラルジョーに残したまま、ウェディグクーニは同地を離れた。リビアの機甲部隊と航空戦力を後ろ盾に、ウェディグクーニ率いる反政府軍は、小規模なチャド軍(FAT)駐屯地を制圧し、[[ンジャメナ]]へ向かった{{sfn |Pollack |2002 |p=376 }}{{sfn |Azevedo |1998 |p=146 }}。
 
ウェディグクーニの進軍に対し、新たにチャドに投入されたフランス軍が立ちはだかった。ウェディグクーニ側からの最初の攻勢の後の1977年には既に、マルームはフランス軍のチャド再派兵を要請していたが、フランス大統領[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]は、[[1978年フランス議会総選挙]]を控える中、再派兵には当初は消極的であった。また、フランスは、利益を生むリビアとの通商及び外交関係を損なうことを恐れていた。しかしながら、チャド情勢の急速な悪化をうけて、1978年2月20日にデスタン大統領は「{{日本語版にない記事リンク|オペレーション・タコー|fr|Opération Tacaud}}」を決定、4月までにチャドへ2500人を派兵し首都ンジャメナの防衛を行うこととなった{{sfn |De Lespinois |2005 |pp=70-71 }}。
 
ンジャメナ北東430kmの[[アティ (チャド)|アティ]]が決戦の場となった。1978年5月19日、アティ駐屯の政府軍1500人に対し、火砲や現代兵器を装備したチャド民族解放戦線(FROLINAT)が攻撃を仕掛けた。機甲部隊にサポートされたチャド機動部隊、さらには[[フランス外人部隊]]、[[第3海兵歩兵連隊 (フランス軍)|フランス第3海兵歩兵連隊]]が支援に到着し、アティ駐屯の政府軍は救い出された。2日にわたる戦闘でチャド民族解放戦線(FROLINAT)は甚大な被害を出して撃退され、また1978年6月の[[ジェッダ (チャド)|ジェッダ]]での戦闘においても政府軍側が勝利した。チャド民族解放戦線(FROLINAT)は兵士2000人を失い敗北、持ち込んでいた「最先端の装備品」を残したまま北へ逃走した。一連の戦闘で決定的だったのは、リビア空軍のパイロットが戦闘を拒否したため、フランス側が完全な[[制空権]]を確保できたことであった{{sfn |Azevedo |1998 |p=146 }}{{sfn |Pollack |2002 |pp=376-377 }}{{sfn |Simpson |1999 |p=55 }}。
 
=== リビアの苦境 ===
首都ンジャメナに対する攻撃が失敗したわずか数か月後、チャド民族解放戦線(FROLINAT)では内部対立の激化により所属各勢力の結束は打ち砕かれ、チャドにおけるリビアの影響力はひどく弱体化した。1978年8月27日夜、{{仮リンク|火山軍|en|VolcanArmy}}の指導者{{仮リンク|アーマット・アシル|en|Ahmat Acyl}}は、リビア軍の支援のもとファヤ・ラルジョーを攻撃した。これは明らかにカーザーフィーの「チャド民族解放戦線(FROLINAT)の指導者をグクーニからアシルへとすげ替える」という試みであった。この試みは裏目に出ることになり、グクーニは、チャドにいるリビア軍事顧問を全て追放することで応じ、フランスとの和解を探り始めることとなった{{sfn |Brandily |1984 |p=59 }}{{sfn |Mouric |1984 |p=99 }}。
 
カーザーフィーとグクーニの衝突には、民族的要因と政治的要因の二つの要因があった。チャド民族解放戦線(FROLINAT)は、アシルのような[[アラブ人]]と、グクーニやハブレといった{{仮リンク|トゥブ族|en|Toubou people}}に分かれていた。また、人種・民族の違いは、カーザーフィーやその思想「[[緑の書]]」に対する姿勢の相違にも表れていた。特に、グクーニおよびその配下は、「『緑の書』をチャド民族解放戦線(FROLINAT)の公式政策に」というカーザーフィーの要請に対し消極的であり、時間をかけたうえで、チャド民族解放戦線(FROLINAT)の活動が完全に再統合されるまでは、この問題を先延ばししようとしていた。再統合がなされ、カーザーフィーが「緑の書」採用を再び要請すると、チャド民族解放戦線(FROLINAT)の革命評議会(the Revolution's Council)では意見の相違が明らかになった。すなわち、多くの者は、「チャド民族解放戦線(FROLINAT)が発足し、{{仮リンク|イブラヒム ・アバチャ|en|Ibrahim Abatcha}}が初代事務総長に就任した1966年当時の活動方針」に従うと明言する一方、アシルほかの一部の者は、カーザーフィーの考えを完全に受け入れるという状況であった{{sfn |Brandily |1984 |pp58-61 }}。
 
首都ンジャメナでは、ハブレ首相の北部軍(FAN)とマルーム大統領のチャド政府軍(FAT)の2つの軍隊が同時に存在し、国家の崩壊と北部指導者の台頭をもたらすことになる{{仮リンク|ンジャメナの戦い (1979年)|laber=ンジャメナの戦い|en|battle of N'Djamena (1979)}}の舞台が整っていた。1979年2月12日、小規模な偶発的事件が北部軍(FAN)とチャド政府軍(FAT)の激しい戦闘に発展、2月19日にはグクーニ配下の人民軍(FAP)が北部軍(FAN)側としてンジャメナ入りすると、戦闘はさらに激化することとなった。最初の国際和平会議が開催された3月16日までで、死者は推定2千-5千人、避難民は推定6万-7万人に上った。消耗が激しいチャド政府軍(FAT)は、首都を対立する勢力の手に委ね、{{仮リンク|ワデル・アブデルカデル・カモウゲ|en|Wadel Abdelkader Kamougué}}の指導のもと、チャド南部にて再編成を行うこととなった。この戦いの間、フランス駐留軍は積極的な関与を行わず傍観していたが、{{仮リンク|チャド空軍|en|Chadian Air Force}}に空爆中止を要請するなど、状況によっては、ハブレ側を助けることすらあった{{sfn |Azevedo |1998 |pp=104–105,119,135 }}。
 
1979年3月、国際和平会議が[[ナイジェリア]]の[[カノ]]で開催され、マルーム、ハブレ、グクーニのほか、チャドと国境を接する各国が参加した。3月16日に全ての出席者が{{仮リンク|カノ協定|en|Kano Accord}}に署名、マルーム大統領は辞任し、グクーニが議長を務める国家評議会が大統領職に取って代わることになった{{sfn |Azevedo |1998 |p=106 }}。これは、ナイジェリアとフランスが、グクーニとハブレに対し、権力を共有するように圧力をかけた結果であり{{sfn |Brecher |Wilkenfeld |1997 |p=88 }}、 特にフランスは、「グクーニとカーザーフィーとの関係を完全に断ち切らせる」ための戦略の一つと考えていた{{sfn |Mouric |1984 |p=100 }}。数週間後、同じ枠組みの各勢力は、{{仮リンク|国民統一暫定政府|en|Transitional Government of National Unity}}(GUNT)を結成、「リビアをチャドから追い出したい」という共通の思いのもと、かなりの程度までまとまっていた{{sfn |Pollack |2002 |p=377 }}。
 
リビアは、カノ協定に署名したにもかかわらず{{sfn |Mays |2002 |p=43 }}、火山軍の指導者たちが国民統一暫定政府(GUNT)に参画できず、アオゾウ地帯についてのリビアの主張が認められていないことに激怒していた。1979年4月13日以降、チャド北部ではリビアによる小規模な軍事活動がいくつか発生し、またチャド南部では分離独立運動への支援が行われていた。一方で、リビアが大きく動くのは、「より包括的な新たな統一政府の構築を」との近隣諸国からの最終的な要請が6月25日に回答期限を迎えてからであった。6月26日、リビア軍2500人がチャドに侵攻、ファヤ・ラルジョーに向かった。チャド政府はフランスに救援を要請。リビア軍は、はじめはグクーニ配下の民兵によって窮地に立たされ、その後、フランスの[[偵察機]]・[[爆撃機]]によって撤退を余儀なくされた。同月、国民統一暫定政府(GUNT)より締め出された各勢力は、対抗政府組織「暫定共同行動戦線(the Front for Joint Provisional Action、FACP)」を創設した{{sfn |Brecher |Wilkenfeld |1997 |p=88 }}{{sfn |Pollack |2002 |p=377 }}{{sfn |Mays |2002 |p=39 }}。
 
リビアとの戦い、ナイジェリアによる[[経済的ボイコット]]、国際的な圧力がかかる状況下、1979年8月、新たな国際和平会議がナイジェリア・[[ラゴス]]で開催され、チャドで活動する政治勢力11グループのすべてが参加した。8月21日、新たな協定「{{仮リンク|ラゴス協定|en|Lagos Accord}}」が署名・締結され、全ての政治勢力が参加する新しい国民統一暫定政府(GUNT)が結成されることとなった。またフランス軍はチャドから引き揚げ、アフリカ諸国による平和維持軍が派遣されることとなった{{sfn |Mays |2002 |pp=45-46 }}。新しい国民統一暫定政府(GUNT)は1979年11月に発足し、グクーニ大統領、カモウゲ副大統領、ハブレ国防相{{sfn |Nolutshungu |1996 |p=133 }}、アシル外相が就任した{{sfn |Azevedo |1998 |p=147 }}。反リビアのハブレはいるものの、新しい国民統一暫定政府(GUNT)の構成メンバーには、カーザーフィーを満足させるのに十分な親リビア人材が揃っていた{{sfn |Wright |1989 |p=131 }}。
 
== 脚注 ==
104 ⟶ 117行目:
* {{cite journal |last=Gérard |first=Alain |title=Nimeiry face aux crises tchadiennes |journal=[http://www.politique-africaine.com/numeros/016_SOM.HTM Politique Africaine] |issue=16 |pages=118–124 |date=1984-12 |url=http://www.politique-africaine.com/numeros/pdf/016118.pdf |format=PDF |accessdate=2009-06-25 |language=fr |ref=harv }}
* {{Cite book |author=United States |title=Libya-Sudan-Chad triangle: dilemma for United States policy: hearings before the Subcommittee on Africa of the Committee on Foreign Affairs, House of Representatives, Ninety-seventh Congress, first session, October 29 and November 4, 1981 |date=1982 |publisher=U.S. G.P.O. |language=en |url=https://hdl.handle.net/2027/uc1.31210024748632 |accessdate=2021-12-10 |ref=harv }}
* {{cite journal |last=De Lespinois |first=Jérôme |title=L'emploi de la force aérienne au Tchad (1967–1987) |journal=Penser les Ailes Françaises |issue=6 |pages=65–74 |date=2005-06 |issn=1771-0022 |publisher=Centre d'enseignement supérieur aérien |language=fr |url=http://www.cesa.air.defense.gouv.fr/DPESA/PLAF/PLAF_N_6.pdf |accessdate=2009-06-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090305170836/http://www.cesa.air.defense.gouv.fr/DPESA/PLAF/PLAF_N_6.pdf |archivedate=2009-03-05 |ref=harv }}
* {{cite book |last=Simpson |first=Howard R. |title=The Paratroopers of the French Foreign Legion: From Vietnam to Bosnia |publisher=Brassey's |date=1999-11-01 |isbn=1-57488-226-0 |language=en |ref=harv }}
* {{cite journal |last=Brandily |first=Monique |title=Le Tchad face nord 1978–1979 |journal=[http://www.politique-africaine.com/numeros/016_SOM.HTM Politique Africaine] |issue=16 |pages=45–65 |date=1984-12 |url=http://www.politique-africaine.com/numeros/pdf/016045.pdf |format=PDF |accessdate=2009-06-25 |language=fr |ref=harv }}
* {{cite journal |last=Mouric |first=Nelly |title= La politique tchadienne de la France sous Valéry Giscard d'Estaing: Vers la prise en compte de la rébellion |journal=[http://www.politique-africaine.com/numeros/016_SOM.HTM Politique Africaine] |issue=16 |pages=86–101 |date=1984-12 |url=http://www.politique-africaine.com/numeros/pdf/016086.pdf |format=PDF |accessdate=2009-06-25 |language=fr |ref=harv }}
* {{cite book |last=Mays |first=Terry M. |title=Africa's First Peacekeeping operation: The OAU in Chad |publisher=Greenwood |date=2002-05-30 |isbn=978-0-275-97606-4 |language=en |ref=harv }}
 
{{DEFAULTSORT:ちやとりひあせんそう}}