「チャド・リビア紛争」の版間の差分

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グクーニがこの共同声明の内容を受け入れた背景は、カダフィからの脅し、激しい圧力、カダフィが約束した財政支援、といった要因が混在していた、とほぼ一致して考えられている。グクーニのトリポリ訪問の直前、グクーニは2人の指揮官を事前協議のためリビアに派遣していた。グクーニはトリポリ訪問時にカダフィから、その2人は「リビアの反体制派」に暗殺されたと聞かされ、また、リビアの支持や自身の権力を失いたくなければ、合併計画を受け入れるべきだと諭された{{sfn |Azevedo |1998 |pp=147-148 }}。
 
共同声明に対する強い逆風により、「union」とは両国民の「連合」のことであり両国家の「合併」の意ではないとか、「first step」とはより緊密な協力に向けた「第一歩」であるとか、カダフィとグクーニは共同宣言を矮小化を行うこととなった。しかし、ダメージを抑えることはできず、グクーニの愛国主義者・立派な政治家・指導者としての信望はひどく低下することとなった{{sfn |Azevedo |1998 |p=147 }}。
 
国際的な圧力の高まりに対して、グクーニは「チャド政府の要請に基づいて、リビア軍はチャドに駐留している。国際的な仲裁役は、チャドにおける合法政府が為した決定を受け入れるべきだ」と述べた。1981年5月開催の会議においては、グクーニはやや軟化し「リビアの撤退は優先事項ではないが、[[アフリカ統一機構]](OAU)の決定は受け入れる」と表明した。エジプトとスーダンが支援し、[[アメリカ中央情報局]]がエジプトを通じて資金提供を行っている、ハブレ率いる北部軍(FAN)に対処する必要から、グクーニはその当時、リビアの軍事支援を放棄することが出来なかった{{sfn |Nolutshungu |1996 |p=156 }}。