「ゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
過剰な原語の併記、太字の使用を除去
75行目:
'''ゲオルゲ・ゲオルギウ=デジ'''({{Lang-ro|'''Gheorghe Gheorghiu-Dej'''}}, {{IPA-ro|ˈɡe̯orɡe ɡe̯orˈɡi.u ˈdeʒ|-|Ro-Gheorghe Gheorghiu-Dej.ogg}}; [[1901年]][[11月8日]] – [[1965年]][[3月19日]]) は、[[ルーマニア]]の共産政治家、電気技師。ルーマニア労働者党([[ルーマニア共産党]])[[書記長]]([[1948年]]2月以降は「第一書記」)、ルーマニア閣僚評議会議長、ルーマニア閣僚評議会第一副議長、ルーマニア国家評議会議長を歴任した。
 
1930年代初頭から共産主義運動に参加し、[[第二次世界大戦]]勃発後に[[イオン・アントネスク]]('''Ion Antonescu''')政権の手で[[トゥルグ・ジウ|テルグ・ジウ]]('''Târgu Jiu''')の[[強制収容所]]に収監されるも[[1944年]]8月に脱出する。ルーマニア王国の君主、[[ミハイ1世 (ルーマニア王) |ミハイ1世]]('''Mihai I''')はアントネスクを追放し、アントネスクは戦争犯罪の罪で逮捕され、[[1946年]]に[[銃殺刑]]に処せられた。[[1947年]][[12月30日]]、ゲオルギウ=デジは首相の{{仮リンク|ペトル・グローザ('''|ro|Petru Groza''')}}とともにミハイ王に対して退位を迫った。ミハイ王は退位文書に署名し、国外に亡命した。これにより、ルーマニアは共産主義者が采配を振るう国家になった。
 
[[1952年]]、ゲオルギウ=デジは対立関係にあった[[アナ・パウケル]]('''Ana Pauker''')らを粛清・追放したのちに党内で実権を握り、ルーマニアにおいて実質的な指導者の地位にあり続けた。
 
ゲオルギウ=デジは、1950年代末に[[ニキータ・フルシチョフ]]('''Никита Хрущев''')が開始した脱スターリン政策の一部に困惑しながらも、ゲオルギウ=デジによる統治下で、ルーマニアは[[ソヴィエト連邦]]に対して最も忠実な衛星国の一つとみなされるようになった。ゲオルギウ=デジの政策においては、ルーマニアと[[西側諸国]]との貿易・経済関係の大幅な強化措置が講じられた一方で、ルーマニア国内における[[人権侵害]]も指摘されるようになった。
 
[[1965年]][[3月19日]]、[[肺癌]]で死亡。ゲオルギウ=デジの死後、彼の後継者的な存在であった[[ニコラエ・チャウシェスク]]('''Nicolae Ceaușescu''')がルーマニア共産党書記長に就任した。
 
== 生い立ち ==
[[1901年]]、[[ルーマニア王国]]トゥトヴァ('''Tutova''', 現在の[[ヴァスルイ県]]){{仮リンク|ブルラド('''|ro|Bârlad''')}}にて<ref name="NeagoePleșa77">Neagoe-Pleșa, p. 77</ref>、父タナーセ・ゲオルギウ('''Tănase Gheorghiu''')と、母アナ・ゲオルギウ('''Ana Gheorghiu''')の間に生まれた。ゲオルギウには、ティンカ('''Tinca''')という妹がいた。貧乏ゆえに早くに学校を離れ、11歳のときに働き始めた<ref name="NeagoePleșa77"/>。年齢の問題に加えて、専門的な訓練を受けていなかったゲオルギウはしばしば職を変え、最終的には電気技師となった<ref name="NeagoePleșa77"/>。[[コマネシュティ('''Comănești''')]]にある工場で働いていたころ、ゲオルギウは[[労働組合]]に入り、大規模な[[同盟罷業]]に参加した。これは[[1920年]][[10月20日]]から[[10月28日]]にかけて実施され、ルーマニア全土から40万人を超える産業労働者が集まった。これに参加した者たちは、ゲオルギウを含めて1920年に全員解雇された<ref name="NeagoePleșa77"/>。その1年後、ゲオルギウは{{仮リンク|ガラーツィ('''|ro|Galați''')}}にある路面電車会社に電気技師として雇われたが、ここで9時間労働への反対と賃上げを要求する抗議行動を組織したことで解雇された<ref name="NeagoePleșa77"/>。その後、ガラーツィにある[[ルーマニア鉄道]]('''Căile Ferate Române''', チャイレ・フェラーテ・ロムネ)の作業場での仕事に雇用された<ref name="NeagoePleșa78">Neagoe-Pleșa, p. 78</ref>。労働者たちの生活水準は既に低いものであったところに、[[世界恐慌]]がルーマニア国民に追い打ちをかけた。ゲオルギウは政治活動に積極的に関わるようになり、[[1930年]]に[[ルーマニア共産党]]に入党した<ref name="NeagoePleșa78"/>。ゲオルギウは、[[モルダヴィア]]にあるルーマニア鉄道の作業場にて、扇動を編成する役割を任命された<ref name="NeagoePleșa78"/>。
 
[[1931年]][[8月15日]]、ゲオルギウは「共産主義を扇動した」との理由で告発され、[[トランシルヴァニア|トランスィルヴァニア]]にある町、デジに懲罰的に移送された。彼はここでも組合活動を続けた<ref name="NeagoePleșa78"/>。[[1932年]]2月、組合は、労働環境の改善と賃上げを要求する嘆願書をルーマニア鉄道に提出した。これに対し、ルーマニア鉄道はデジにある工場を閉鎖し、ゲオルギウを含む全労働者を解雇した。ゲオルギウは、国内にある他のルーマニア鉄道の作業場で雇用される機会を失った<ref name="NeagoePleșa80">Neagoe-Pleșa, p. 80</ref>。
 
== 共産活動 ==
彼は他のゲオルギウという名の組合活動家と識別するため、秘密警察のスィ[[シグランツァ('''Siguranța''')]]から「ゲオルギウ=デジ」('''Gheorghiu-Dej''')という呼び名を名乗つけられるようになった<ref name="NeagoePleșa80"/>。ルーマニア鉄道を解雇されたゲオルギウ=デジは、以前よりも積極的に組合の組織化と、ヤーシ、パシュカーニ、ガラーツィの労働者たちをまとめ上げる作業を進めた<ref name="NeagoePleșa81">Neagoe-Pleșa, p. 81</ref>。ゲオルギウ=デジは、[[1932年]][[7月14日]]から15日の夜にかけて「反体制的な内容の貼り紙をジュレシュティ通りの壁や電柱に貼り付けた」との理由で逮捕され、ヴァカレシュティ刑務所に収容された<ref name="NeagoePleșa82"/>。弁護士のヨスィフ・シュライエル('''Iosif Schraier''')の弁護により、その貼り紙は1932年に実施されたルーマニア総選挙の選挙運動中に関連するものであったことが判明し、ゲオルギウ=デジは釈放された<ref name="NeagoePleșa82">Neagoe-Pleșa, p. 82</ref>。1932年[[10月3日]]、ヤーシで開催された労働者集会の終盤で「『資本家階級との戦いに向けて団結する』よう呼びかけたのち、警察本部長を殴った」として告発され、一時的に逮捕される<ref name="NeagoePleșa84">Neagoe-Pleșa, p. 84</ref>も、実際にはこれは冤罪であることが判明し、釈放された<ref name="NeagoePleșa84"/>。[[1933年]]1月、ルーマニア政府は、新たな賃金削減を含む、さらに厳しい緊縮財政を発表したが、これは労働者たちをより先鋭化させた<ref name="NeagoePleșa86">Neagoe-Pleșa, p. 86</ref>。ゲオルギウ=デジは、組合の会長である{{仮リンク|コンスタンティン・ドンチャ('''|ro|Constantin Doncea''')}}とともに、[[ブカレスト]]('''București''')にいる労働者たちを率いて非常に大規模な同盟罷業を実施した。これは1933年に行われた「ルーマニア鉄道グリヴィア労働争議闘争」として知られている<ref name="NeagoePleșa86"/>。交渉は決裂に終わり、同盟罷業を危惧した政府は、ブカレストを含めた都市に[[戒厳令]]('''State of Siege''')を敷いた<ref name="NeagoePleșa87">Neagoe-Pleșa, p. 87</ref>。ゲオルギウ=デジは、1933年[[2月14日]]から15日の夜間にかけて逮捕された<ref name="NeagoePleșa88">Neagoe-Pleșa, p. 88</ref>。
 
=== 獄中派 ===
ゲオルギウ=デジは、[[軍事法廷]]の下した判決で刑務所に送られ<ref name="NeagoePleșa100">Neagoe-Pleșa, p. 100</ref> 、ドフタナ刑務所('''Doftana Prison''')やその他の施設で服役した。[[1936年]]には、獄中の身でありながら党中央委員会の委員の1人に選出され、ルーマニア共産党内において「獄中派」(''Prison Faction'')と呼ばれる派閥の指導的立場となった。獄中派に対し、[[モスクワ]]で亡命生活を送っていた共産党員は「モスクワ派」と呼ばれ、[[アナ・パウケル]]('''Ana Pauker''')がこれに相当し、「モスクワ派」と「獄中派」は区別される。ゲオルギウ=デジは、[[イオン・アントネスク]]('''Ion Antonescu''')政権の全期間および[[第二次世界大戦]]の時期の大半をテルグ・ジウ収容所で過ごしていた。アントネスク政権が崩壊する数日前の1944年8月に収容所から脱走した。ゲオルギウ=デジは、[[ソ連]]がルーマニアを占領したのちの1944年10月にルーマニア共産党書記長に就任するが、党内において実権を握っていたのは、戦後しばらく非公式の指導的立場にあったアナ・パウケルであった。[[1952年]]にアナ・パウケルらモスクワ派の同志を粛清・追放したのち、ゲオルギウ=デジは実権を掌握することになる。
 
獄中生活を送っていたころのゲオルギウ=デジは、[[ニコラエ・チャウシェスク]]('''Nicolae Ceaușescu''')と知り合う。2人が収容所に投獄されたのは、共産党が企画した集会後のことであった。ゲオルギウ=デジは、チャウシェスクに対して[[マルクス・レーニン主義]]('''Marxism–Leninism''')の理論と原則を教え、収容所から脱獄したのち、ゲオルギウ=デジが堅実に権力を掌握する過程でチャウシェスクに対して弟弟子のように接した<ref name=stalinism_in_romania>{{cite web|url=http://www.rri.ro/en_gb/gheorghe_gheorghiu_dej_and_stalinism_in_romania-2536497|title= Gheorghe Gheorghiu-Dej and Stalinism in Romania|publisher=Radio Romania International|access-date=11 December 2018}}</ref>。[[1946年]]から[[1947年]]にかけて[[パリ]]で行われた講和会議においては、ゲオルギウ=デジは、[[ゲオルゲ・タタレスク]]('''Gheorghe Tătărescu''')率いるルーマニア代表団の一員にもなった。
 
== 権力掌握 ==
100行目:
[[File:Gheorghiu-DejPaukerLucaGeorgescuRoman1951.jpg|thumb|[[1951年]][[4月7日]]、ルーマニア大国民議会での様子。左から、ゲオルギウ=デジ、アナ・パウケル、ヴァスィーレ・ルカ、テオハリ・ジョルジェスク]]
[[File:Gheorghiu-Dej & Khrushchev at Bucharest's Baneasa Airport (June 1960).jpg|thumb|[[1960年]]6月、第7回ルーマニア共産党大会閉会後、ブカレストにあるバネアサ空港にて、[[ニキータ・フルシチョフ]]を見送るゲオルギウ=デジ。ゲオルギウ=デジの右後ろにいるのは[[ニコラエ・チャウシェスク]]]]
[[1947年]][[12月30日]]、ゲオルギウ=デジは、首相のペトル・グローザ('''Petru Groza''')とともに、ルーマニアの君主・[[ミハイ1世 (ルーマニア王) |ミハイ一1世]]('''Mihai I''')に対して退位を迫った。この数年後、[[アルバニア共産党]]の共産指導者、[[エンヴェル・ホッジャ]]('''Enver Hoxha''')は、このとき、ゲオルギウ=デジ自らミハイ王に対して銃を突き付け、「王位を放棄しなければ殺す」と恫喝した、と証言している<ref>[[Nikita Khrushchev|Nikita Sergeevich Khrushchev]], Sergeĭ Khrushchev.[https://books.google.com/books?id=EkFZqlgdzCkC&pg=RA1-PA701&dq=king+michael+romania&sig=s9B8__XDcPT1NZr2s6G55jEOdyA ''Memoirs of Nikita Khrushchev: Statesman, 1953–1964''], [[Pennsylvania State University Press]], 2007, p. 701, {{ISBN|0-271-02935-8}}</ref>。ゲオルギウ=デジらがミハイ王に退位を迫った数時間後、[[1946年]]に実施された総選挙後に共産主義者の完全な統制下にあった議会は、[[王制]]を廃止し、[[ルーマニア人民共和国]]('''Republica Socialistă România''')の建国を宣言した。これをもって、ゲオルギウ=デジが事実上ルーマニアの最も強大な権力者となった瞬間でもあった。[[ヨシフ・スターリン]]('''Иосиф Сталин''')治下によるソ連の影響力は、マルクス・レーニン主義の揺るぎない理念を持つ指導者と見なされていたゲオルギウ=デジに有利に働いた。モスクワの経済的影響力は、ルーマニアの商業交流について、「ソヴロム」('''SovRom'''(SovRom, ルーマニアとソ連の経済企業。ソ連が資源を確保するための手段として設立された。[[1956年]]に解散)を設立したことでソ連の利益が守られる形となっており、ルーマニアにはほとんど利益をもたらさなかった。スターリンの死後も、ゲオルギウ=デジは抑圧的な政策([[ドナウ・黒海運河]]の建設の際に流刑労働者を働かせる)を変えようとはしなかった。ルーマニアでは、ゲオルギウ=デジの命令により、農村部においては大規模な[[集団農場]]が実施された。1946年、ルーマニア共産党書記長を務めていた{{仮リンク|シュテファン・フォリシュ('''|ro|Ștefan Foriș''')}}を、[[セクリターテ]]('''Securitate''')の長官、{{仮リンク|ゲオルゲ・ピンティリ('''|ro|Gheorghe Pintilie''')}}に殺害させ、[[1948年]]には[[法務大臣]]の{{仮リンク|ルクレチウ・パトラシュカ('''|ro|Lucrețiu Pătrășcanu''')}}を逮捕させ、その見せしめ裁判を扇動しており、いずれもた。ゲオルギウ=デジにとって、フォリシュとパトラシュカヌは党内での指導権を争う政とみなしていであった。ゲオルギウ=デジは、書記局の委員であったアナ・パウケルと、その同盟者である{{仮リンク|ヴァスィーレ・ルカ('''|ro|Vasile Luca''')}}{{仮リンク|テオハリ・ジョルジェスク('''|ro|Teohari Georgescu''')}}も粛清・追放した。彼らはゲオルギウ=デジの統治下で政治的・経済的失敗の責任を負わされ、悪玉化スケープゴートにされた。
 
ルーマニア人民共和国建国宣言後の最初の5年間は、ゲオルギウ=デジの協力者であり続けたペトル・グローザが閣僚評議会議長('''Prim-ministrulPreşedinţii GuvernuluiConsiliului de Miniştri, României''')の議長(首相)を務めており、集団で指導する時代であった。しかし、グローザは[[1952年]]に首相を辞任し、{{仮リンク|ルーマニア大国民議会('''|ro|Marea Adunare Națională''')の}}議長(国家元首)に就任した。ゲオルギウ=デジはグローザの後任として、共産主義者として初めて首相の座に就いた。ゲオルギウ=デジはソ連の全面的な承認も得て、ルーマニアにおいて最も強大な2つの政治的地位を手中に収めた。[[1954年]]、ゲオルギウ=デジはルーマニア共産党第一書記の座を{{仮リンク|ゲオルゲ・アポストル('''|ro|Gheorghe Apostol''')}}に一時的に譲り、首相の座には留まった。しかしながら、ゲオルギウ=デジがルーマニアにおける最高指導者である事実に変わりは無く、[[1955年]]には党内の統率力を取り戻し、同時に首相の座を{{仮リンク|キヴ・ストイカ('''|ro|Chivu Stoica''')}}に譲渡した。[[1961年]]には、新設された国家評議会の議長に就任し、法律的にも国家元首となった。しかし、共産党の指導者の地位にあるという理由で、[[1947年]]以降、彼は既に事実上の国家元首の地位にあった。
 
ゲオルギウ=デジは、[[ニキータ・フルシチョフ]]('''Никита Хрущев''')の「脱スターリン化」という新たな一連の行為に対して、当初は動揺を見せていた。その後、ゲオルギウ=デジは[[1950年代]]後半にワルシャワ条約機構と[[経済相互援助会議]]('''The Council for Mutual Economic Assistance''')において、ルーマニアが半自主的な外交・経済政策の事業計画立案者となり、とりわけ[[東ヨーロッパ]]の共産主義ブロック全体に対するソ連からの指示に叛く形で、ルーマニアにおける重工業の創設を主導した([[インド]]と[[オーストラリア]]から輸入した鉄資源を活用する形でガラーツィに新しい大規模な製鉄所を建設する)。皮肉なことに、ゲオルギウ=デジ政権下のルーマニアは、かつてはソ連に最も忠実な衛星国の一つと考えられていたため、「外交政策の寛大さと『自由主義』が国内の抑圧と結び付いた様式を最初に確立したのは誰か」が忘れられる傾向にある<ref>Johanna Granville, [https://www.academia.edu/22876051/Dej-a-Vu_Early_Roots_of_Romanias_Independence "''Dej''-a-Vu: Early Roots of Romania's Independence,"] ''East European Quarterly'', vol. XLII, no. 4 (Winter 2008), p. 366.</ref>。このような価値体系に基づいた措置は、「ソヴロム」の追放や、ソ連とルーマニアの共通文化事業の縮小により、明らかにされた。[[1958年]]、ソ連はルーマニアから最後の赤軍を撤退させた。これはゲオルギウ=デジ個人の功績である。公式の『ルーマニア史』においては[[ベッサラビア]]について言及しており、ルーマニアとソ連、2国間の関係に緊張を走らせる話柄もあった。さらに、ゲオルギウ=デジ政権の末期には、(それまで秘匿されていた)[[カール・マルクス]]('''Karl Marx''')が残した文書が公開され、その内容は、かつてソ連の一部であったルーマニアの旧地域におけるロシアの帝国主義政策を扱ったものであった。
 
しかし、セクリターテは依然としてゲオルギウ=デジの忠実な手先であった<ref>Dennis Deletant, ''Communist Terror in Romania: Gheorghiu-Dej and the Police State, 1948–1965'' (New York: St. Martin's Press, 1999), p. x.</ref>。[[1956年]]に勃発した[[ハンガリー動乱]]のあとに、ルーマニアは、[[ワルシャワ条約機構]]('''The Warsaw Treaty Organization''')加盟国による弾圧の波に加わった。[[ハンガリー]]の指導者、[[ナ・イムレ]]('''Nagy Imre''')ほどなくして短期間ルーマニア国内で拘束監禁され、処刑された。
 
また、ゲオルギウ=デジ政権下のルーマニアは、[[アメリカ合衆国]]を含む[[第一世界]]('''The First World''')とも外交関係を結んだ。このような措置は、[[1963年]]にルーマニアを「友好的な共産国家」として見るようになっていた[[リンドン・B・ジョンソン]]('''Lyndon B. Johnson''')が大いに奨励した。また、[[1964年]]は多くの政治犯が釈放された年でもあった。
 
== 西側との交流 ==
115行目:
ゲオルギウ=デジ政権の初期のころのルーマニアは、アメリカに対する諜報行為やルーマニア国内での人権侵害を告発・非難されており、[[西側諸国]]との関係に緊張が走っていた。[[1950年]]に発表された経済計画では、ルーマニアは「貿易全体の89%が共産圏のみとの取引」であり、ソ連の衛星国との結び付きが強かったゆえに、西側諸国との[[貿易]]は低水準に留まっていた。
 
しかし、その後のルーマニアは西側諸国との貿易に対して積極的な姿勢を明確に示すようになった。[[1952年]]には雑誌『ルーマニア対外貿易』が創刊され、西ヨーロッパの貿易業者に、ルーマニア産の[[石油]]や[[穀物]]を購入する機会を提供した。西側でも、ルーマニアが世界市場で自国の製品を販売する可能性を認める内容の記述が出てきた。[[1953年]][[8月29日]]号の『''The Times''[[タイムズ]]の記事では、「例を挙げると、ルーマニアは機械類や援助と引き換えに、食料品を含むロシアへの輸出を余儀なくされている多くのものについて、国際市場において、より高い価格で利益を出せる可能性がある、と考えられている」と書いた。ゲオルギウ=デジも、「ルーマニアが西側諸国との貿易ができるようになれば、国民の生活水準が向上する可能性が出てくる」ことは理解していた。1953年以降、西側諸国は、アメリカ、[[イギリス]]、[[フランス]]が[[東ヨーロッパ]]に輸出できる製品を限定していた輸出規制について、徐々に緩和していった。ゲオルギウ=デジは、ルーマニアと西側諸国との交流の確立に対して意欲を示し、ブカレスト在住の西側の外交官の渡航制限を緩和し、西側の[[ジャーナリスト]]たちのルーマニアへの入国を許可した。また、[[1954年]]初頭、ルーマニアはイギリスに対してルーマニアの未払の賠償金の問題を解決するための協議を要請しており、イギリスは同年12月にこれに同意した。
 
ルーマニアの西側に対する外交政策は、対ソ連政策とも密接に繋がっていた。ルーマニアは、ソ連からの独立を強く主張することにより、西側との通商を振興できた。ゲオルギウ=デジはこのことを理解しており、それゆえにルーマニアの主権を強調していた。[[1955年]][[12月23日]]に開催された第二回ルーマニア共産党大会において、ゲオルギウ=デジは5時間に及ぶ演説を行い、その中で、ルーマニアは外国(→ソ連の名出して指す)の利益への従属を強いられるのではなく、自国の利益を守る権利がある趣旨や、国家共産主義の理念を強調した。また、ゲオルギウ=デジは西側との貿易の着手についても話し合った。[[1956年]]、ゲオルギウ=デジはルーマニアと西側諸国との対話を深めるため、新しい駐アメリカ合衆国[[特命全権大使]]に、[[国務長官]]の[[ジョン・フォスター・ダレス]]('''John Foster Dulles''')、さらには[[合衆国大統領]]の[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]('''Dwight D. Eisenhower''')の両方に謁見するよう指示を出した。その後、[[アメリカ合衆国国務省]]はブカレストに[[図書館]]を設置し、アメリカとルーマニア両国の交流の深化に関心を示した。
 
しかしながら、1956年のハンガリー動乱、それをソ連が暴力的に鎮圧したことで、ルーマニアと西側諸国との交流は一時的に縮小した。それでもゲオルギウ=デジは、ルーマニアのソ連からの独立の強化を続けた。それまでのルーマニアの学校では、[[ロシア語]]の学習が必修であったが、ゲオルギウ=デジ政権下ではそれを取り止めた。ルーマニアは、[[1957年]]に出されたモスクワ宣言「社会主義国は、完全なる平等、領土保全、国家の独立ならびに主権の尊重、互いの問題への不干渉の原則に基づき、お互いの関係を構築する・・・社会主義国はまた、他のすべての国との経済および文化関係の全面的な拡大を支持する・・・」の声明を支持したが、この声明は、ゲオルギウ=デジが唱えた国家主権や独立の旗幟とも一致していた。
 
1957年の時点でルーマニアは西側との貿易を大幅に拡大しており、この年の西側との貿易はルーマニアの貿易総額の25%に達していた。[[1960年代]]初頭までに、ゲオルギウ=デジ政権下のルーマニアでは工業化が進み、生産性が向上した。第二次世界大戦後、ルーマニア国民の80%は農業に従事していたが、[[1963年]]には65%に減少していた。農作業に従事する者たちは減ったものの、農業の生産性は実際に向上していた。さらに、ゲオルギウ=デジは貿易相手を西側に転換し、ルーマニアをソ連から切り離すことに成功した。ルーマニアは産業機器の多くを、[[西ドイツ]]、イギリス、フランスから輸入した。この貿易傾向はゲオルギウ=デジによる経済計画に沿ったものであった。[[1960年]]、ゲオルギウ=デジは対外諜報部長を[[パリ]]と[[ロンドン]]に派遣し、ルーマニアが経済相互援助会議からの指令を無視して西側との交流を望んでいる趣旨を明確にした。[[1964年]]、ゲオルギウ=デジはアメリカと貿易協定を結んだ。これにより、ルーマニアはアメリカから工業製品を輸入できるようになった。この協定は、「西ヨーロッパに対して赤字を抱えている」というアメリカ企業の不満が誘因となった。時の大統領、[[ジョン・F・ケネディ]]('''John F. Kennedy''')は、アメリカ企業の損失を懸念し、権力を行使してアメリカと西ヨーロッパの貿易を拡大させた。ケネディの後任、リンドン・B・ジョンソンもこの政策を踏襲した。
 
こうしてゲオルギウ=デジは、西側との貿易を拡大し、ルーマニアを、ソ連圏の国として初めて、完全に独立した形で西側と貿易ができる国に変えた。ゲオルギウ=デジは、国家主権政策でもって西側諸国におけるルーマニアの人気を高めた。アメリカの国民的な出版物の記事は、1950年代前半のルーマニアにおける人権侵害や抑圧についての報道から、[[1950年代]]半ばから[[1960年代]]初頭にかけてのルーマニアで脱スターリン化が進む趣旨の記事に移行していった。1960年代初頭、『''The Times''タイムズは、ゲオルギウ=デジ治下のルーマニアが西側諸国との経済的な結びつきを強めている趣旨もしばしば報道した。ゲオルギウ=デジによるルーマニアの対外関係、とりわけ西側諸国との関係の拡大の取り組みの成功は、[[1965年]]3月に行われたゲオルギウ=デジの[[葬儀]]に、[[シャルル・ド・ゴール]]('''Charles de Gaulle''')が遣わしたフランスの[[全権公使]]を含む33の外国代表団が出席していた点でも明らかであった。ゲオルギウ=デジによる政策は、その後任者であるニコラエ・チャウシェスクがルーマニアの新たな道筋をさらに推進するための段階のお膳立てに繋がった。
 
== 死 ==
131行目:
[[Image:Mormant GGDej 1.jpg|thumb|150px|セルバン・ヴォーダ墓地にあるゲオルギウ=デジの墓]]
[[Image:Lica Gheorghiu.jpg|thumb|120px|ゲオルギウ=デジの長女、ヴァスィリカ]]
[[1965年]][[3月19日]]、ゲオルギウ=デジは、ブカレストにて[[肺癌]]で亡くなった。ゲオルゲ・アポストルは、自分が「ゲオルギウ=デジ直々に後継者に指名された」と主張していたが、閣僚評議会議長のイオ{{仮リンク|ヨン・ゲオルゲ・マウレー('''ル|ro|Ion Gheorghe Maurer''')}}はアポストルに対して敵意を抱いており、アポストルが権力を掌握するのを阻止し、代わりにゲオルギウ=デジが子飼いにしていたニコラエ・チャウシェスクに党指導部をまとめさせた。[[1978年]]にアメリカ合衆国に亡命したセクリターテの幹部、[[イオン・ミハイ・パチェパ]]('''Ion Mihai Pacepa''')によれば、チャウシェスクが「[[クレムリン]]('''Кремль''')の最高指導部が殺した、あるいは殺そうとした10人の国際的指導者について語った」といい、その中にはゲオルギウ=デジの名も含まれていた<ref name="Pacepa0">{{Cite web |url = http://www.nationalreview.com/article/219342/kremlins-killing-ways-ion-mihai-pacepa|title = The Kremlin’s Killing Ways|last = |first = |author = Ion Mihai Pacepa|authorlink = |coauthors = |date = 28 November 2006|website = |work = nationalreview.com|publisher = |archiveurl = |archivedate = |accessdate = 21 January 2022}}</ref>。
 
死後、ブカレストにある「自由公園」(''Parcul Libertății''」(「自由公園」、,現在の「カロル1世公園」,''Parcul Carol I'')の[[霊廟]]に埋葬された。ルーマニア革命後の[[1991年]]に彼の遺骸が掘り起こされ、セルバン・ヴォーダ墓地に再び埋葬された<ref name="StanVancea2015">{{cite book|author1=Lavinia Stan|author2=Diane Vancea|title=Post-Communist Romania at Twenty-Five: Linking Past, Present, and Future|url=https://books.google.com/books?id=I2zHCQAAQBAJ&pg=PA46|year=2015|publisher=[[Rowman & Littlefield|Lexington Books]]|isbn=978-1-4985-0110-1|pages=46}}</ref>。{{仮リンク|ブカレスト工科大学('''|ro|Universitatea Politehnica din București''')Bucureşti}}は、ゲオルギウ=デジに敬意を表し、[[1992年]]まで大学名を「''Institutul Politehnic 'Gheorghe Gheorghiu-Dej' București''」としていた。また、[[ロシア]]にある都市、{{仮リンク|リースキ('''|ru|Лиски''')}}は、ゲオルギウ=デジに敬意を表して「'''Георгиу-Деж'''」と名付けられた。
 
[[1926年]]にマリーア・ステレ・アレクセグゼ('''Maria Stere Alexe''')と結婚し、ヴァスィリカ('''Vasilica''', 1928 - 1987)とコンスタンツァ('''Constanţa''', 1931-2000)、2人の娘を儲けた。長女のヴァスィリカはルーマニアの映画女優として活躍した。
 
== 参考 ==