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①唯は郵便船「備後丸」でドイツへ渡った、②指導教官はLudwig Bach、③たぶん:午後の14時まで→午後の19時まで
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唯は実地研究として、東京市内や地方の病院で医局員として勤めたが、自身が専攻を望む眼科学の研修場所は、当時としては医学の本場であるドイツが唯一であった{{R|くまもとの風19900201_p22}}。ドイツは唯が開業前に、伝染病研究所にいた頃よりの夢であったが、娘にそばにいてほしいと母に乞われ、すぐ実行に移すことができなかったとの経緯があった{{R|文学部論叢200203_p30|ドクトルたちの奮闘記_p188}}。1902年(明治35年)に上京して、ドイツ留学を目指し、ドイツ語を学んだ{{R|日本医史学雑誌199505_p82}}。猛勉強が叶って、1902年(明治35年)には帝国獨逸学会(帝国ドイツ学会)の会員となった{{R|熊本開発199305_p58|苓州20190831_p79}}。
 
1903年(明治36年)1月10日、唯は郵便船「備後丸」でドイツへ渡った{{R|慶応義塾大学日吉紀要2012_p94}}<!-- {{R|ドクトルたちの奮闘記_p188}} -->。巡査の初任基本給・月俸が12円、銀行の大卒初任給が35円の時代にあって、渡航費には7000円もの莫大な費用を要したが、父と兄の援助があり{{R|ドクトルたちの奮闘記_p188|苓州20190831_p79}}{{refnest|group="*"|父や叔父の援助との説や{{R|熊本日日新聞19940423m_p19}}、父が全額を負担し、名義が父と兄だったとする説もある{{R|熊本大学学報199701_p7}}。}}、豪商であった実家の財力があればこそであった{{R|ドクトルたちの奮闘記_p182}}。出発前には、[[東京府]][[麹町]]で{{R|文学部論叢200203_p32}}、日本女医会の新年会を兼ねた送別会が開催され、唯の済生学舎での学友にして{{R|苓州20190831_p79}}、同会の会長である[[吉岡彌生]]が幹事の1人を務めた{{R|ドクトルたちの奮闘記_p188|文学部論叢200203_p32}}。
 
当初は[[ベルリン大学]]を望んでいたが、目標は医学士号取得であり、同大学でそれが不可能と知り{{R|ドクトルたちの奮闘記_p188|電気通信大学紀要20200201_p10}}、[[フィリップ大学マールブルク]]に留学した{{R|苓州20190831_p79|ドクトルたちの奮闘記_p192}}{{refnest|group="*"|この経緯について、唯は後年に日本女医会のインタビューに対して、「ドイツへ渡ってもなかなか女医を入れてくれるところがありません。マルブリヒ(マールブルク)なら入学さしてくれるとのことなのでとにかくそこにはいりました」と語ったが{{R|ドクトルたちの奮闘記_p192}}、ドイツ文学者の[[石原あえか]]は、「ベルリン大学で不可なら、1866年以降も同じプロイセン領に属していたマールブルク大でも状況は同じのはず」として、「唯の言葉を字面通りに解釈するのは危険」と指摘している{{R|ドクトルたちの奮闘記_p194}}。また上村直己は、「ベルリン大学と違って、マールブルク大は女性でも学位を授与できるから、マールブルク大へ入った」との意味に解釈している{{R|文学部論叢200203_p32}}。}}。マールブルク大は当時、公式にはまだ女子の入学を許可していなかったが、国外の正規の医学課程修了者に限定して受け入れを始めていた{{R|ドクトルたちの奮闘記_p194}}。唯は、北里柴三郎からの紹介状に加えて、すでに医師免許を持っていたことが功を奏して{{R|熊本開発199305_p58}}、同1903年春にマールブルクの聴講生の資格を得た{{R|ドクトルたちの奮闘記_p194}}。
 
唯の専門指導教官は眼科教授の{{仮リンク|ルートヴィヒ・バッハ|de|Ludwig Bach}}であった{{R|慶応義塾大学日吉紀要2012_p96}}。1903年の夏学期はバッハの授業のみを受けていたが{{R|慶応義塾大学日吉紀要2012_p96}}、「せっかく来たのだから全教科を」と勧められ{{R|ドクトルたちの奮闘記_p196}}、マールブルク大で眼科と衛生学研究所に所属し{{R|日本医史学雑誌199505_p82}}、[[病理学]]、[[生理学]]、[[産婦人科学]]、[[内科学]]、[[外科学]]と{{R|文学部論叢200203_p36}}、医学部のあらゆる授業を受けた{{R|西日本新聞20180226m_p24|ドクトルたちの奮闘記_p196}}。朝7時から午後の1419時まで複数の授業を受け{{R|慶応義塾大学日吉紀要2012_p96}}、その後もラボで実験に明け暮れる過酷な日々で、ドイツ滞在中はほとんど下宿と大学の往復だけの日々を送り{{R|ドクトルたちの奮闘記_p196}}、ドイツ人との交流の機会もなかった{{R|文学部論叢200203_p38}}。眼科の研究のみを目的としていた唯にとっては、眼科以外を学ぶことは不満であったが、ここで全教科を学んだことが、後の医療活動に生きる結果となった{{R|ドクトルたちの奮闘記_p196|文学部論叢200203_p38}}。
 
同1903年{{R|宇良田唯の生涯}}{{R|年の異説|group="*"}}、良き理解者だった父が死去した。唯は深く悲嘆したが、当時は空路がなく帰国が容易でなかったこともあり{{R|ドクトルたちの奮闘記_p192}}、涙を堪えて、留学期間を1年短縮して勉学に励んだ{{R|西日本新聞20180226m_p24}}。兄も責任をもって、学費の送金を続けた{{R|熊本大学学報199701_p7|ドクトルたちの奮闘記_p192}}。[[日露戦争]]の開戦後は、小国である日本の者として小馬鹿にされることもあったが、戦争で日本が勝利すると、周囲の目も変わり始めた{{R|熊本開発199305_p60|プリーズ200406_p20}}。
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<ref name="慶応義塾大学日吉紀要2011_p214">{{Harvnb|石原|眞岩|2011|pp=214-215}}</ref>
 
<ref name="慶応義塾大学日吉紀要2012_p94">{{Harvnb|石原|2012x|p=94}}</ref>
<ref name="慶応義塾大学日吉紀要2012_p96">{{Harvnb|石原|2012x|p=96}}</ref>
 
<ref name="市政だより天草20210101_p29">{{Harvnb|熊本県天草市総務部|2021|p=29}}</ref>
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* {{Cite journal|和書|author=石井清喜|date=1993-5|title=生涯、医は仁術を貫く 宇良田タダ|journal=熊本開発|issue=65|publisher=熊本開発研究センター|id={{NCID|AN00259688}}|ref={{SfnRef|石井|1993}}}}
* {{Cite journal|和書|author=[[石原あえか]]・眞岩啓子|date=2011|title=ヴュルツブルクのシーボルト家 日独で女医を輩出した医学家系|journal=慶応義塾大学日吉紀要 ドイツ語学・文学|issue=47|publisher=[[慶應義塾大学]]日吉紀要刊行委員会|naid=40018795586|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10032372-20110331-0189 |accessdate=2021-6-18|ref={{SfnRef|石原|眞岩|2011}}}}
* {{Cite journal|和書|author=石原あえか|date=2012|title=Japanische Medizinerinnen in Deutschland 1890-1905 : Mizuko TAKAHASHI und Tada URATA|journal=慶応義塾大学日吉紀要 ドイツ語学・文学|issue=49|publisher=慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会|naid=120005148256|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10032372-20120330-0075 |accessdate=2022-3-8|ref={{SfnRef|石原|2012x}}}}
* {{Cite book|和書|author=石原あえか|title=ドクトルたちの奮闘記 ゲーテが導く日独医学交流|date=2012-6-18|publisher=[[慶應義塾大学出版会]]|isbn=978-4-7664-1950-4|ref={{SfnRef|石原|2012}}}}
* {{Cite book|和書|author=伊藤春奈|title=「姐御」の文化史 幕末から近代まで教科書が教えない女性史|date=2019-10-10|publisher=DU BOOKS|isbn=978-4-86647-103-7|ref={{SfnRef|伊藤|2019}}}}