「シリウスシンボリ」の版間の差分

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== 競走馬時代 ==
=== デビュー前 ===
[[週刊ギャロップ]]初代編集長の[[芹澤邦雄]]は、[[シンボリルドルフ]]が2冠を達成したばかりの頃に、[[野平祐二|野平調教師]]と共に[[シンボリ牧場]]を訪ね、牧場の調教スタッフで元騎手である[[渡辺実]]に「来年のクラシックで期待する2歳馬がいますか」と尋ねたところ、即座に「いるよ。馬名はシリウスシンボリ。[[モガミ]]と[[スイートエプソム]]の子だよ。ルドルフまでとはいかんかもしれんが、それに近い動きをしているんだ」と応えたという<ref>井崎 脩五郎『60YEARS 名馬伝説〈下〉スーパーホースたちの栄光と遺産 1954‐1993』(トレンドシェア、2014年)</ref>。
 
=== 3歳 ===
[[1984年]][[9月16日]]、[[中山競馬場]]の[[新馬|新馬戦]]にて[[加藤和宏 (JRA)|加藤和宏]]騎乗でデビュー。出遅れながらも1着になり、デビュー勝ちを収めた。2走目の芙蓉特別は1位入線も[[斜行]]により失格、3走目の[[いちょうステークス|いちょう特別]]は第4コーナーで不利を受けたのが原因で2着と敗れるが、[[東京スポーツ杯2歳ステークス|府中3歳ステークス]]でクビ差で競り勝った。[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳S]]に出走を予定していたが、脚部不安([[繋靭帯炎|左前繋靭帯]])で回避し、この年を終えてい<ref>『優駿』1985年3月号P44</ref>
 
=== 4歳春 ===
[[シリウスシンボリ#転厩騒動|後述する転厩騒動]]後の[[若葉ステークス|若葉賞]]は、[[岡部幸雄]]が騎乗し勝利したものの、[[皐月賞]]は出走登録をしたものの、脚部不安<ref> 『優駿』1987年7月号P58</ref>、あるいは移籍騒動の影響で出走できなかった。鞍上{{efn|『優駿』1985年4月号には、「皐月賞出走馬特集」としてシリウスシンボリの記事掲載されている}}<ref>『優駿』1985年4月号</ref>。[[NHK杯]]からは再び加藤とのコンビで復活すること決まったが、脚部不安([[挫跖]])で回避し<ref> 『優駿』1987年7月号P58 </ref>、[[東京優駿|日本ダービー]]では、皐月賞を5馬身差で優勝した[[ミホシンザン]]が骨折で回避した事もあり、[[投票券 (公営競技)#単勝式|単勝]]1番[[人気]]に推された。レースでは[[スダホーク]]を3[[着差 (競馬)|馬身差]]で下し優勝した。この時、[[馬主]]の[[和田共弘]]は風邪気味であり、自身の代わりに妻の[[和田容子]]と[[桐沢正好]]牧場長を遣わしていた<ref>『優駿』1985年8月号135P</ref>
 
=== 欧州遠征(4歳秋 - 6歳春) ===
日本ダービーを優勝したシリウスシンボリは[[シンボリルドルフ]]に帯同して海外に遠征する予定であったが、シンボリルドルフが故障により遠征を中止したため、単独で渡欧した。
シリウスの遠征の際に[[イギリス]]で入厩したのはジョン・ウィンター厩舎である。和田とジョン・ウィンターには、[[スピードシンボリ]]がイギリスに遠征した時からの交友関係があった<ref>『優駿』1985年9月号P57.58</ref>。
 
イギリスに渡航してはじめてのレースである[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]は8着に終わった。鞍から下りた岡部に、イギリスの記者が敗因を聞きに来た際に、岡部は「He likes soft(彼は軟らかい馬場が好きなんだ)」と答えた<ref>『優駿』1985年9月号P7.8</ref>。また岡部は「芝が深いイギリスの馬場。その石灰岩質の土はゴツゴツして荒っぽく、デコボコだ。日本ダービーを制したシリウスにも、いきなりこの馬場はきつすぎた。日本の馬場は芝が短く、硬めの土で丹念に整地されている。とても記録の出やすい馬場だ。何もかも至れりつくせりの環境の中で走っている日本の馬の状況に、ボクは疑問を感じた」と述べている。さらに観戦に来ていた日本の記者に「もし[[シンボリルドルフ]]が出場できていたら何着に入れていただろうか」と尋ねられた際に、「わからない。しかし、シリウスには申しわけないが、ルドルフとシリウスでは格段の差がある。はっきり言ってものが違うという感がある。天と地ほどの差だ。タイプとしても違う。シリウスがプロレスラータイプなら、ルドルフはボクサータイプ。日本から英国へ渡れば急激な環境の変化がある。だから、ハンディはあるが、1着になったペトスキー、2着のオーソーシャープ、レインボークエストの1着争い。この一角には必ず食いこめたはずとボクは秘かに思っている」と答えた<ref> 岡部 幸雄『ルドルフの背』(池田書店、1986年)</ref>。芹沢は、当レースの解説をしていた[[野平裕二]]との対談の中で「出発前は、シンボリ牧場の関係者は一様に『シリウスは力強い走りっぷりをするので、ルドルフよりもヨーロッパの馬場が向いている』と言っていましたが、実際はその逆でした」と述べている<ref>『優駿』1985年9月号P103.104</ref>。野平は、同対談の中で、「日本人の記者が今回、シリウスを預かったウインター調教師に[[スピードシンボリ]]と比較してどうかという質問をしたら、『シリウスはまだ子供。スピードシンボリは完成していた。スピードシンボリの方が間違いなく上位だ』と断言した」と述べている<ref>『優駿』1985年9月号P103.104</ref>。
4歳時は[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]8着、[[バーデン大賞]]4着、プランスドランジュ賞6着、[[ロワイヤルオーク賞]]3着に終わった。なお、キングジョージとバーデン大賞までは岡部が騎乗している。
 
4歳時その後[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]8着、[[バーデン大賞]]4着、プランスドランジュ賞6着、[[ロワイヤルオーク賞]]3着に終わった。なお、キングジョージとバーデン大賞までは岡部が騎乗している。
5歳時はエドゥヴィユ賞5着、シーシック賞では1番人気に推されたが3着、[[ミラノ大賞典]]5着、ゴントービロン賞4着、[[フォワ賞]]2着、コンセイユドパリ賞4着。[[凱旋門賞]]にも出走したが、[[ダンシングブレーヴ]]の14着に終わっている。
6歳時はエドモンブラン賞4着、アルクール賞8着、[[ガネー賞]]7着に終わり、このガネー賞を最後にシリウスシンボリは帰国した。
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帰国したシリウスシンボリは鞍上を加藤に戻して[[毎日王冠]]で復帰したが8着、[[天皇賞(秋)]]では勝った[[ニッポーテイオー]]から1.7秒も離された9着に終わった。
翌年も現役を続行し、夏の[[函館競馬場|函館]]開催から復帰したが、オープン特別の[[青函トンネル]]開通記念2着を経て出走した[[函館記念]]ではレコード勝ちした[[サッカーボーイ]]から1.4秒離された4着に終わった。
続く毎日王冠では、ゲート入り前に[[レジェンドテイオー]]と[[ダイナアクトレス]]を蹴り、レジェンドテイオーを発走除外に追い込む事件を起こし、レース後に厩務員同士が喧嘩する事態にまで発展した。ただしシリウス自身は、このレースでは[[オグリキャップ]]の2着と好走した。そして、天皇賞(秋)で7着に終わった後に骨折が判明し、現役を引退した。
 
== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web|title=シリウスシンボリの競走成績 {{!}} 競走馬データ|url=https://db.netkeiba.com/horse/result/1982103448/|language=ja|accessdate=2021-12-10}}</ref>(国内競走)及び[[日本調教馬の日本国外への遠征]](国外競走)の情報に基づく。