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科学の分野でも、古い学説を知っているとそれに縛られて目の前の現象をも見落とす例がある。[[ジャン・アンリ・ファーブル|ファーブル]]は『[[昆虫記]]』でそのような例にいくつもふれている。その一方で[[カイコ]]の病気を研究にきて、基礎知識を彼のところに求めてやってきた[[ルイ・パスツール]]について、あまりの無知に驚くとともに、そうであるからこそ新しい挑戦ができるのだと褒めたたえている。
 
== 無知の自覚とある無 ==
{{See also|en:I know that I know nothing}}
他人の無知を指摘することは簡単であるが、言うまでもなく人間は世界のすべてを知ることはできない。[[ギリシア]]の哲学者[[ソクラテス]]は当時、知恵者と評判の人物との対話を通して、自分の知識が完全ではないことに気がついている、言い換えれば無知であることを自覚している点において、知恵者と自認する相手よりわずかに優れていると考えた。また知らないことを知っていると考えるよりも、知らないことは知らないと考えるほうが優れている、とも考えた。なお、日本では「無知の知」と言われる事もあるが、ソクラテスは「無知の知」を主張しておらず、「無知の自覚」とすべきであるいない。<ref>{{Cite web|title=哲学の誕生 UTokyo BiblioPlaza|url=https://www.u-tokyo.ac.jp/biblioplaza/ja/C_00027.html|website=www.u-tokyo.ac.jp|accessdate=2020-10-09|publisher=[[東京大学]]|author=[[納富信留]]|date=2017}}</ref>。
 
なお、[[論語]]にも「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、これ知るなり」という類似した言及がある。しかしこれらは「無知が良い」という意味ではなく、「無知であることを自覚することで、新たな学びを行うことを促進し、その結果無知を克服し成長する」ことを意味する。ただし、論語は伝統的に複数の[[解釈]]がある([[論語の注釈]])。
 
[[15世紀]]の[[ニコラウス・クザーヌス]]は「知ある知の知」({{Lang-la|docta ignorantia}},「知ある知の知」とも)は訳し難い)を説いた<ref>{{コトバンク|docta ignorantia}}</ref>。
 
== 無知の罪 ==