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{{ActorActress|
| 芸名 = 早川 雪洲
| ふりがな = はやかわ せっしゅう
| 画像ファイル = Sessue Hayakawa 1918 (Fred Hartsook).jpg
| 画像サイズ = 250px
| 画像コメント = 早川雪洲(1918年)
| 本名 = 早川 金太郎<small>(はやかわ きんたろう)</small>
| 別名義 = 在原 狂夫<small>(ありはら たけお)</small><!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません -->
| ニックネーム = Sessue Hayakawa
| 出生地 = {{JPN}}・[[千葉県]][[朝夷郡]]千田村(現在の[[南房総市]][[千倉町]]千田)
| 死没地 = {{JPN}}・[[東京都]][[千代田区]][[神田駿河台]]
| 死没地 =
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です -->
| 身長 =
| 血液型 =
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| 没月 = 11
| 没日 = 23
| ジャンル職業 = [[映画]]([[俳優]]、[[映画監督]]、[[脚本映画プロデューサー]]、[[製作脚本家]]
| ジャンル = [[映画]]、[[テレビドラマ]]、[[演劇|舞台]]
| 活動期間 = [[1918年]]-[[1971年]]
| 活動期間 = [[1913年]] - [[1967年]]
| 活動内容 =
| 配偶者 = [[青木鶴子]](1914年 - 1961年)<br/>渡辺黙子(1964年 - 1973年)
| 著名な家族 = 息子:早川雪夫(放送作家)<!-- 『著名活動をしている人物』で記事対象の家族として公開されている人物がいる場合に記載。単にメディアで紹介された新生児の名前などは書かないように注意 -->
| 主な作品 =『[[チート (映画)|チート]]』 <br />『[[新しき土]]』<br />『[[戦場にかける橋]]』
| 主な作品 = 『{{仮リンク|タイフーン (映画)|label=タイフーン|en|The Typhoon}}』(1914年)<br />『[[チート (映画)|チート]]』(1915年)<br />『{{仮リンク|蛟龍を描く人|en|The Dragon Painter}}』(1919年)<br />『[[ラ・バタイユ (1923年の映画)|ラ・バタイユ]]』(1923年)<br />『{{仮リンク|ヨシワラ|fr|Yoshiwara (film)}}』(1937年)<br />『[[戦場にかける橋]]』(1957年)<!-- 誰もが認める代表作品を記述 -->
| その他の賞 = '''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー|ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]'''<br />'''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 助演男優賞|助演男優賞]]'''<br />[[:en:National Board of Review Awards 1957|1957年]]『[[戦場にかける橋]]』<hr />'''[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム|ハリウッド名声の歩道]]'''<br />[[1960年]] 映画産業への貢献、映画、演劇界への業績に対して
| その他の賞 = '''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー|ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]'''<br />'''[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 助演男優賞|助演男優賞]]'''<br />[[:en:National Board of Review Awards 1957|1957年]]『[[戦場にかける橋]]』<hr />'''[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]'''<br />[[1960年]] 映画産業への貢献に対して<ref name="walk">{{cite web |title=Sessue Hayakawa |url=https://walkoffame.com/sessue-hayakawa/ |publisher=Hollywood Walk of Fame |accessdate=2022-2-23|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160403141316/https://walkoffame.com/sessue-hayakawa/ |archivedate=2016-4-3|url-status=live}}</ref>{{Sfn|大場|2012|pp=168-170}}
| =
| 備考 =
}}
'''早川 雪洲'''(はやかわ せっしゅう、[[英語]]表記:Sessue Hayakawa{{Refnest|group="注"|英語での発音は、日本語と同じく「セッシュー(sesh-oo)」であるが、1910年代前半までは「セッスー」と発音されていた{{Sfn|中川|2012|pp=123-124}}<ref>{{Cite web |url=https://www.dictionary.com/browse/hayakawa |title=Hayakawa Definition & Meaning |website=Dictionary.com |accessdate=2022-3-29}}</ref>。}}、[[1886年]][[6月10日]] - [[1973年]][[11月23日]])は、[[日本]]の[[俳優]]、[[映画監督]]、[[映画プロデューサー]]、[[脚本家]]である。本名は早川 金太郎(はやかわ きんたろう)。[[アメリカ合衆国]]を中心に日本、[[フランス]]、[[イギリス]]などで活躍した国際俳優であり{{Sfn|中川|2012|p=7}}{{Sfn|鳥海|2013|p=75}}<ref name="世界映画大事典">{{Cite book|和書 |author=佐崎順昭 |date=2008-6 |chapter=早川雪洲 |title=世界映画大事典 |publisher=[[日本図書センター]] |isbn=978-4284200844 |page=674}}</ref>、アメリカとヨーロッパで主演男優としてスターダムにのし上がった最初のアジア系俳優となった<ref name="obit">{{cite news|title=Obituary-Sessue Hayakawa |work=Variety |url=http://www.varietyultimate.com/archive/issue/WV-11-28-1973-62 |date=1973-11-28 |page=62}}</ref><ref name="Lee 2011">{{cite book|last=Lee |first=Juilia H |title=Interracial Encounters: Reciprocal Representations in African and Asian American Literatures, 1896–1937 |publisher=New York University Press |date=2011-10-01 |isbn=978-0-8147-5256-2}}</ref><ref name="screenworld">{{Cite book|last=Monush |first=Barry |date=2003 |title= Screen World Presents the Encyclopedia of Hollywood Film Actors: From the silent era to 1965 |Volume=1 |publisher=Applause Theatre & Cinema Books |page=318 |isbn=978-1557835512}}</ref>。[[サイレント映画]]時代の1910年代から1920年代初頭に[[ハリウッド]]で最も人気のあったスターのひとりで{{Sfn|宮尾|1996|pp=227-228}}、エキゾチックな美貌と性的に魅力的な悪役という{{仮リンク|タイプキャスティング (演技)|label=タイプキャスティング|en|Typecasting (acting)}}で、公然と[[人種差別]]が行われていた時代にアメリカ白人女性の心を掴み、ハリウッドで最初の男性[[セックスシンボル]]のひとりとなった<ref>{{harvnb|Miyao|2007|pp=1–3, 191, 227, 281}}</ref><ref>{{cite book|last=Prasso|first=Sheridan|page=124|year=2006|title=The Asian Mystique: Dragon Ladies, Geisha Girls, and Our Fantasies of the Exotic Orient|publisher=PublicAffairs|isbn=978-1586483944}}</ref><ref>{{cite book|last=Warner|first=Jennifer|page=8|year=2014|title=The Tool of the Sea: The Life and Times of Anna May Wong|publisher=CreateSpace Independent Publishing Platform|isbn=978-1502403643}}</ref>。
'''早川 雪洲'''(Sessue Hayakawa<ref group="注釈">Sessueは早川本人が考えた「アメリカ人にも覚えやすい綴り」で、本人はこれを「セッシュー」(sesh-oo)と発音していたが[http://dictionary.reference.com/browse/sessue%20hayakawa]、アメリカ人は通称「セッスー」(ses-sue)または「セスエ」(sesu-é)と発音していた。</ref>、本名: 早川 金太郎、[[1886年]][[6月10日]] - [[1973年]][[11月23日]])は、日本の[[俳優]]。
 
[[千葉県]]で生まれ育ち、[[1907年]]に21歳で単身渡米し、[[ロサンゼルス]]の日本人劇団で活動したあと、[[1913年]]にハリウッドで映画デビューした。[[1915年]]に『[[チート (映画)|チート]]』でトップスターの地位を確立し、白人女性を誘惑する悪役の日本人役で{{仮リンク|マチネー・アイドル|en|Matinée idol}}として人気を獲得した。その一方で、アメリカで[[排日]]運動が高まっていた背景もあり、日本人社会からは雪洲の役柄が反日感情を助長するとして強く非難された。[[1918年]]からは自身の映画会社{{仮リンク|ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション|en|Haworth Pictures Corporation}}でプロデューサー兼主演俳優として活動したが、[[1922年]]に反日感情の高まりのためハリウッドを離れた。その後は私生活での女性問題や[[第二次世界大戦]]など波乱な人生を送りながら、1960年代までの半世紀にわたり欧米や日本で映画、舞台、テレビに出演した。キャリア後期の代表作『[[戦場にかける橋]]』(1957年)の捕虜収容所所長役は、雪洲の最も有名で高く評価された演技となり、[[第30回アカデミー賞]]では[[アカデミー助演男優賞|助演男優賞]]にノミネートされた。妻の[[青木鶴子]]もまたハリウッド草創期に活躍した映画女優である。
千葉県出身。[[1907年]]に21歳で単身渡米し、[[1910年代]]に草創期の[[ハリウッド]]で映画デビューして一躍トップスターとなった。彼はアメリカとヨーロッパで{{仮リンク|主演男優|en|Leading man}}としてスターダムにのし上がった最初のアジア系俳優だった。彼の「不気味でハンサムな」<ref name="saltz">{{cite news| url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9907E3DC143BF934A3575AC0A9619C8B63 | work=[[The New York Times]]| first=Rachel | last=Saltz | title=Sessue Hayakawa: East And West, When The Twain Met | date=2007-09-07| publisher=NYTimes.com}}</ref>美貌と性的に魅力的な悪役という{{仮リンク|タイプキャスティング (演技)|label=タイプキャスティング|en|Typecasting (acting)}}は、公然と[[人種差別]]が行われていた時代にアメリカ人女性の心を掴み、ハリウッドで最初の男性[[セックスシンボル]]の1人になった<ref>{{harvnb|Miyao|2007|pp=1–3, 191, 227, 281}}</ref><ref>{{cite book|last=Prasso|first=Sheridan|page=124|year=2006|title=The Asian Mystique: Dragon Ladies, Geisha Girls, and Our Fantasies of the Exotic Orient|publisher=PublicAffairs|isbn=978-1586483944}}</ref><ref>{{cite book|last=Warner|first=Jennifer|page=8|year=2014|title=The Tool of the Sea: The Life and Times of Anna May Wong|publisher=CreateSpace Independent Publishing Platform|isbn=978-1502403643}}</ref>。日本人排斥運動や二度の世界大戦、私生活での混乱などによるキャリアの中断を挟みながらも、晩年の『[[戦場にかける橋]]』([[1958年]])でアカデミー助演男優賞にノミネートされるなど半世紀以上にわたって活躍した国際的映画俳優である。妻の[[青木鶴子]]もまたハリウッド草創期の人気女優。
 
== 前半 ==
=== 生い立ち ===
[[1886年]][[6月10日]]{{Refnest|group="注"|雪洲は自伝で「1890年6月10日生まれ」であると述べて、4歳年をごまかしている。鳥海美朗によると、戸籍謄本では出生日が1886年6月10日となっており、雪洲がそれより若い年齢を称したのは、俳優としてのイメージ戦略であるという{{Sfn|鳥海|2013|p=50}}。}}、早川金太郎は[[千葉県]][[朝夷郡]]千田村([[1889年]]に[[七浦村 (千葉県)|七浦村]]に合併、現在の[[南房総市]][[千倉町]]千田)611番地に、父・與一郎(よいちろう)と母・か祢(かね)の6人兄姉の三男として生まれた{{Sfn|中川|2012|pp=49, 51}}{{Sfn|大場|2012|pp=15-16}}。兄姉は上から順に、長兄の音治郎、長女のトキ、次女のいろは、次男の寅松、三女のとくはである{{Sfn|中川|2012|pp=49, 51}}{{Refnest|group="注"|長女のトキは早世し、金太郎が生まれた時にはこの世にいなかった{{Sfn|中川|2012|pp=49, 51}}。そのため雪洲は自伝で「5人兄姉の三男坊でしかも末子だった」と述べている{{Sfn|早川|1959|p=22}}。また、金太郎が3歳から10歳の時まで、早川家には養兄の熊次郎がおり、彼を含めると7人兄姉となった{{Sfn|中川|2012|pp=49, 51}}。}}。早川家は[[江戸時代]]に[[庄屋]]を務めた裕福な家で{{Sfn|鳥海|2013|p=50}}、[[明治時代]]には[[テングサ]]などの海藻を扱う海産物商、鮮魚出荷や回漕業、雑貨や酒の小売商などを営む[[網元]]となり、地元では「千田の与一」と呼ばれた{{Sfn|大場|2012|p=19}}。與一郎は地域の顔のような人物であり、七浦村の初代村長も務めた{{Sfn|中川|2012|pp=49, 51}}。早川家は千田村から4里ほど離れた和田村(現在の南房総市[[和田町 (千葉県)|和田町]]和田)に住む「和田の鉄砲」と呼ばれた網元の根本家と、漁場をめぐる争いを長い間続けていて、根本家からの襲撃に備えて、宿子と呼ばれる若い漁師を20人以上も寝泊まりさせ、家の周りには高さ約4.5メートルもの石塀を張りめぐらしていた{{Sfnm|1a1=野上|1y=1986|1p=35|2a1=大場|2y=2012|2pp=19, 21-23}}。
早川雪洲こと早川金太郎(以下雪洲)は[[千葉県]][[安房郡]][[千倉町]](現・[[南房総市]])千田の出身。1886年(明治19年)6月10日、裕福な網元であった早川家に父與一郎(よいちろう)、母か祢(かね)の間に六人兄弟の三男として生まれる。
 
厳格な人物だった與一郎は、槍の名手で[[武道]]を好んだことから、宿子や子供たちに[[剣道]]を奨励した一方で、自宅に私塾を設けて宿子たちに勉強をさせた{{Sfn|中川|2012|pp=53, 55}}{{Sfn|野上|1986|pp=36-37}}。金太郎も父の命で[[剣道]]を習い、宿子たちと[[修身]]や[[四書五経]]などを学んだ{{Sfn|野上|1986|pp=36-37}}。[[1892年]]に金太郎は七浦小学校尋常科に入学したが{{Sfn|中川|2012|pp=63-64}}、当時は宿子たちから「ぼんぼん」などと甘やかされており、その姿を見た與一郎は息子を甘やかしてはならぬと考え、金太郎を厳しくしつけた{{Sfn|野上|1986|pp=36-37}}{{Sfn|中川|2012|p=56}}。父のしつけの中で金太郎を最も悩ませたのは、毎朝20個もの[[ランプ (照明器具)|ランプ]]の掃除をひとりでさせられたことである{{Sfn|野上|1986|pp=36-37}}。金太郎はこの苦役をなるべく避けるため、毎日のように仲間たちと遊んでいた戦争ごっこで負けた組の子たちに、罰としてランプ掃除をさせ、その報酬として[[黒砂糖]]を一匙ずつ与えた{{Sfn|野上|1986|pp=36-37}}{{Sfn|早川|1959|p=17}}。金太郎はその土地の子供たちの餓鬼大将となり、両親からも「喧嘩には負けるな」と言われ続けていたが、小学校1年生ぐらいの時には、朱鞘の刀を抜いて父に凄んでいた不審な男を追い払ったことがあり、これには與一郎も度肝を抜かれたという{{Sfn|野上|1986|pp=36-37}}{{Sfn|中川|2012|pp=58-59}}{{Sfn|早川|1959|pp=23-24}}。
七浦小学校尋常科から七浦高等小学校に進み、1901年に当時[[海軍]][[軍人]]を目指す少年たちが集まっていた海城学校(現・[[海城中学校・高等学校|海城高校]]、雪洲の編入の前年に海軍予備校から改称していた)に編入した。<ref>大場俊雄、『早川雪洲 房総が生んだ国際俳優』、pp21-27</ref>小さいころから習っていた[[剣道]]の稽古に加えて、[[英語]]の勉強や[[華道]]もならうなど忙しい学生生活であった。このころ、雪洲は[[徳富蘆花]]の小説『[[不如帰 (小説)|不如帰]]』に大いに感銘を受け、芝居まで見に行っている<ref>中川織江、『セッシュウ!』、p67</ref>。
 
金太郎は七浦高等小学校に進学したが{{Sfn|中川|2012|pp=63-64}}、父の命で[[大日本帝国海軍|海軍]]大将になるのを将来の目標に定め{{Sfn|野上|1986|pp=38-39}}、小学校卒業後の[[1901年]]、当時海軍軍人を目指す少年たちが集まっていた[[東京府|東京]]の海城学校(現在の[[海城中学校・高等学校]]、金太郎の編入の前年に海軍予備校から改称していた)に編入した{{Sfn|中川|2012|pp=63-64}}{{Sfn|大場|2012|pp=27-28}}{{Refnest|group="注"|金太郎が小学校を卒業したのは[[1899年]]であり、海城学校に編入するまで2年間の空白がある。中川織江は、與一郎と並ぶ千田村の名士だった小谷仲治郎の証言から、その空白期間に金太郎が東京の錦城中学校(現在の[[錦城学園高等学校]])に入学するも、素行不良で退校させられた可能性があると述べている{{Sfn|中川|2012|pp=63-64}}。}}。金太郎は[[東京市]][[神田区]]東龍閑町に下宿し、そこから海城学校に通い、放課後には剣道を習った{{Sfn|大場|2012|pp=27-28}}{{Sfn|中川|2012|p=65}}。夜は正則英語学校(現在の[[正則学園高等学校]])に通い、英語は当時最も成績のよい教科となった{{Sfn|野上|1986|pp=38-39}}。他校の生徒とは殴り合いの喧嘩を頻繁に行い、それを見かねた叔父に「殺伐な男になっちゃいかん」と言われ、いとこと一緒に[[華道]]と[[茶道]]を渋々習わされたこともあった{{Sfn|中川|2012|p=65}}。この頃、金太郎は[[徳冨蘆花]]の小説『[[不如帰 (小説)|不如帰]]』を読んで感涙し、これが舞台化されると学校をさぼって観に行った{{Sfn|野上|1986|pp=38-39}}。
海城学校卒業後、1904年に予定通り[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]を受験。一次試験は合格したが、二次試験の前に[[スキンダイビング|素潜り]]で鼓膜が破れ、化膿して顔の半分が腫れた。そのため二次試験に不合格となって、失意のうちに帰郷。絶望のあまりで蔵の二階で割腹自殺をはかったが死にきれなかった。困り果てた父は息子を寺に預けた。<ref>中川、p72</ref>
 
=== 受験失敗と渡米決意 ===
[[1904年]]、海城学校を卒業した金太郎は[[江田島]]の[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]を受験し、1次試験の学科試験は合格した{{Sfn|野上|1986|pp=38-39}}{{Sfn|中川|2012|p=68}}。しかし、2次試験の体力テストを控えた夏の帰省中、海で[[スキンダイビング|素潜り]]をした時に[[鼓膜]]が破れ、化膿して顔の半分が腫れ上がった{{Sfn|中川|2012|p=68}}。耳の炎症はなかなか治らず、頭半分を包帯でぐるぐる巻きにした状態で体力テストの会場に行き、「耳に疾患があるのに軍人が務まるわけがない」として不合格となった{{Sfn|中川|2012|p=68}}{{Sfn|野上|1986|pp=40-42}}。海軍大将の夢を完全に閉ざされ、父親を失望させてしまったと感じた金太郎は、ある夜、実家の蔵の2階に閉じこもり、[[東郷平八郎]]の肖像の前で[[短刀]]で腹を切った{{Sfn|野上|1986|pp=40-42}}{{Sfn|中川|2012|p=72}}。野上英之によると、金太郎の切腹未遂は、今日考えると子供っぽい直截的な行為と発想だが、幼い頃から喧嘩に負けると父に「腹切って死んでしまえ」などと怒鳴られていた背景があったため、この成り行きは十分理解できるものであるという{{Sfn|野上|1986|pp=40-42}}。切腹行為は吠えだした飼い犬に気付いた家人に発見され、金太郎は一命をとりとめたが、傷が回復するまでに5週間もかかった{{Sfn|野上|1986|pp=40-42}}{{Sfn|中川|2012|p=72}}。困り果てた與一郎は、金太郎を高塚山の禅寺にしばらく預けた{{Sfn|野上|1986|pp=40-42}}。
1907年(明治40年)3月3日、アメリカの汽船『ダコタ』号が[[安房郡]]白浜村沖で座礁するという事件が起こる。雪洲の村でも総出で救難が行われ、英語を学んでいた雪洲も通訳の手伝いのようなことをして走り回った。この出来事が生きる道を見失っていた雪洲にアメリカに行きたいという新たな目標を与えるきっかけとなった(のちに雪洲はこの事件の情景を絵に描きのこしている。)<ref>大場、p33</ref>。
 
[[File:SS DAKOTA one hour after going on the reef.png|thumb|right|250px|千葉県沖で座礁したダコタ号(1907年)。]]
[[カリフォルニア州]][[サンフランシスコ]]で出稼ぎをしていた兄の助けもあって両親を説得し、事件からわずか4か月後の7月10日に[[日本郵船]]の[[安芸丸]]の客となった雪洲は横浜から一人アメリカへと旅立った。父は「まずは[[シカゴ大学]]を卒業せよ。10年たっても成功しなければ日本の土は踏むな」と雪洲に申し渡して送り出した。<ref>中川、p82</ref>
[[1907年]]3月3日、[[房総半島]]の白浜村(現在の南房総市[[白浜町 (千葉県)|白浜町]])の沖合で、[[横浜港]]に向かっていたアメリカの大型汽船{{仮リンク|ダコタ (船)|label=ダコタ号|en|SS Dakota}}が座礁する事件が起きた{{Sfn|鳥海|2013|pp=52-54}}{{Sfn|大場|2012|p=31}}。金太郎の住む七浦村の村人たちも総出で救助をしたが{{Sfn|中川|2012|p=75}}、英語を学んでいた金太郎も通訳のようなことをして手伝い、外国人の乗船者たちが収容されている寺や学校を自転車で駆けまわって、彼らの苦情や注文に対応した{{Sfn|早川|1959|p=22}}{{Sfn|野上|1986|pp=40-42}}。自伝によると、外国人がチキンを食べたいと注文してきたため、村人に「鶏を煮て出せ」と指図して食べさせ、おかげで村中の鶏がいなくなってしまったという{{Sfn|早川|1959|p=22}}。300人以上の乗客や乗組員は全員救助され、[[病院船]]の[[博愛丸]]で横浜へ送られたが、金太郎も通訳としてこれに同行した{{Sfn|野上|1986|pp=40-42}}。
 
この出来事は、海軍入りの夢が破れて悲観していた金太郎に刺激を与え、アメリカへ渡るという新たな目標を与えるきっかけとなった{{Sfn|野上|1986|pp=40-42}}。渡米を決めた理由について、自伝では「遊学」のためと述べているが{{Sfn|早川|1959|p=22}}、複数の史料では「ダコタ号の船長から、アメリカ行きを勧められたため」と記されており、地元では「ダコタ号の乗客だった若いブロンドの女性を追っかけようとしたため」という言い伝えもある{{Sfn|鳥海|2013|pp=52-54}}{{Sfn|大場|2012|pp=38-40}}。また、アワビ漁業に従事するため[[カリフォルニア州]]へ出稼ぎの経験がある長兄の音治郎が{{Sfn|鳥海|2013|pp=52-54}}、あまりにも無軌道な金太郎をもてあまし、その将来を案じて、アメリカ帰りの地元の名士の小谷仲治郎に相談を持ちかけ、その勧告と世話でアメリカ行きが決まったという証言もある{{Sfn|大場|2012|pp=38-40}}。
1907年7月25日、雪洲は[[ワシントン州]][[シアトル]]に到着。アメリカ生活の第一歩を記した。アメリカ到着後の雪洲は他の日本人と同じように農作業や労役などの単純労働に従事した。1908年、父との約束にしたがって[[イリノイ州]]に向かいシカゴ大学に入学するが、雪洲が入学したのは「家庭勉学部」、現代でいう通信教育課程である。
 
與一郎は金太郎の渡米計画に強く反対し、ふてくされた金太郎は毎晩酒を飲んで暴れた{{Sfn|早川|1959|pp=23-24}}{{Sfn|中川|2012|pp=76-78}}。か祢はそんな金太郎を見かねて、2、3週間(2、3日という説もある)かけて父を説き伏せた{{Sfn|中川|2012|pp=76-78}}。ようやく納得した與一郎は、金太郎にアメリカへ行くなら「法制経済をやれ、そして政治家になれ」と命じた{{Sfn|早川|1959|pp=23-24}}。別れが近づいた日、金太郎は與一郎に「一寸悪いことをされたら一尺にして返し、反対に一寸良いことをしてもらったら、一丈にして返せ」「とにかく10年間辛棒せい。10年間がんばっても成功しなかったら、再び日本の土を踏むな」と忠告された{{Sfn|早川|1959|pp=23-24}}。そして與一郎から「男の魂と思って持っていけ」と、昔に與一郎に凄んだ男を追い払った時に使った大小の朱鞘の刀を授けられた{{Sfn|早川|1959|pp=23-24}}{{Sfn|中川|2012|pp=76-78}}。ダコタ号座礁からわずか4か月後の7月10日、金太郎は[[日本郵船]]の[[安芸丸]]に乗り、横浜港からアメリカへ向けて出航した。宿子たちは高塚山に登って狼煙をあげ、家族は海岸で木を燃やして、金太郎の船出を励ました{{Sfn|中川|2012|p=82}}。
裕福な親の仕送りはあったものの、しかし働いて日々の糧を稼ぎながらの勉強は実際には難しく、雪洲は同大学に一年籍を置いただけであった。だが、雪洲は以後、自分は「シカゴ大学を卒業した」といい続けた。<ref>中川、p88</ref>また、大学在籍中には「アメリカンフットボールの選手として試合に参加した」と公言していたが、大学側にそのような記録は残っていない。<ref>{{Cite web|url=https://mag.uchicago.edu/arts-humanities/art-and-artifice|title=Art and artifice|accessdate=2020年12月16日|publisher=The University of Chicago Magazine}}</ref><ref>鳥海、p56</ref>同年父が死去すると、雪洲は[[ロサンゼルス]]に向かい、様々な職種で働きながら先の見えない苦しい日々を送った。
 
=== 演劇の世界へシカゴ大学在籍 ===
1907年7月25日、金太郎は[[ワシントン州]][[シアトル]]に到着し、アメリカへの第一歩を踏み出した{{Sfn|中川|2012|p=84}}。金太郎はアメリカにいる知人を頼ろうと思い、シアトルから連絡船に乗って[[サンフランシスコ]]へ向かった{{Sfn|早川|1959|pp=9-14}}{{Sfn|野上|1986|pp=44-46}}。自伝によると、サンフランシスコに到着したのは夜12時半で、船長に波止場は危険だから一夜を明かしてから下船するようにと言われたが、金太郎はそれを無視し、船内で意気投合した自称柔道4段の日本人と勝手に下船したところ、すぐにピストル強盗に出くわし、自称柔道4段が警官を呼びに行っている間に、金太郎がひとりで2人の強盗を投げ飛ばしたという{{Sfn|早川|1959|pp=9-14}}。サンフランシスコに到着した金太郎は、他の日本人と同じように皿洗いや農場の作男などといった下働きの仕事に就いた{{Sfn|中川|2012|pp=87-88}}。
ロサンゼルスの日系人社会の演劇好きが集まり、『羅府文芸協会』が設立されると雪洲も発起人に名前をつらねた。日中の苦しい労働のことが、夜演技の稽古をしたり、脚本を書いている間は忘れられた。
 
[[1908年]]11月9日、金太郎は與一郎との約束にしたがって勉強をするため、[[シカゴ大学]]の家庭勉学学部(ホーム・スタディ・デパートメント)に入学した{{Sfn|中川|2012|pp=87-88}}{{Sfn|大場|2012|pp=49-56}}。與一郎は入学の8日前に71歳で亡くなったが、金太郎が日本からの便りでそれを知ったのは翌[[1909年]]夏のことだった{{Sfn|中川|2012|pp=89-90}}。金太郎が入学した家庭勉学学部は、在学で働くことを許可され、大学構内に来られない学生が、大学から渡される教材を用いて自宅で勉学する学部であり、現代の[[通信教育]]にあたる{{Sfn|中川|2012|pp=87-88}}{{Sfn|大場|2012|pp=49-56}}。入学当時の金太郎は、[[サザン・パシフィック鉄道]]の停車場構内にあるレストランで[[給仕]]として働いており、後に雪洲の弟子となる[[青山雪雄]]はその姿を見かけたという{{Sfn|中川|2012|pp=87-88}}{{Sfn|大場|2012|pp=57-59}}。
雪洲は日系人向けの芝居を打つ素人劇団の一員として主役を張っていたが、それに飽き足らず当時はやっていた『タイフーン』をうってアメリカ人たちに見せようと考えた。『タイフーン』は[[レンジェル・メニヘールト]]が[[1909年]]に発表した戯曲で、パリで暗躍する日本人スパイ、ニイトベ・トラケモが良心の呵責で破滅するまでの物語であった。『タイフーン』は折からの[[黄禍論]]とあいまってヨーロッパで大ヒットし、アメリカにも上陸していた。雪洲はこの日本人役を本物の日本人が演じることで他との差別化をはかろうとした。1913年に興行した舞台『タイフーン』は大入りとなった。彼はこのときはじめて「早川雪洲」を名乗っている。自伝によれば初め西郷隆盛(南洲)にちなんだ「北洲」にしたが、すでに同名の人がいたため「雪洲」としたという。公演三日目にこの舞台を映画監督の[[トーマス・H・インス]]が見たことが雪洲の運命を変える。<ref>中川、p99</ref>
 
金太郎は入学当日から政治経済学原論第一専攻科目と、政治経済学原論第二専攻科目を受講し、1909年12月23日に履修を終えた{{Sfn|大場|2012|pp=49-56}}。金太郎の学籍記録には、政治経済学原論以外の科目を履修した記録が全くなく、また学士号や博士号を取得したという記録もなかったことから、金太郎がシカゴ大学に在籍したのがわずか1年1か月余りに過ぎず、卒業はしていないと考えられている{{Sfn|大場|2012|pp=49-56}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=55-56}}。しかし、後年に雪洲は「シカゴ大学を卒業した」と言い続けている{{Sfn|中川|2012|pp=89-90}}。また、自伝では、大学在籍中に[[アメリカンフットボール]]のチームに所属していたと主張しているが、大学側にそのような記録は残っていない{{Sfn|鳥海|2013|pp=55-56}}<ref>{{Cite web|last=Monaghan |first=Amy |year=2018 |url=https://mag.uchicago.edu/arts-humanities/art-and-artifice |title=Art and artifice |accessdate=2020年12月16日 |publisher=The University of Chicago Magazine}}</ref>。その後、金太郎はアイスクリーム製造業に手を付けたり、[[メキシコ]]の物件を扱う不動産会社に就職したりするも満足はせず、3、4年間も先の見えない苦しい生活を送り、兄宛ての手紙には「口には出せないほどの辛酸をなめた」と述べている{{Sfnm|1a1=大場|1y=2012|1pp=63-64, 68|2a1=中川|2y=2012|2pp=92-93}}。
インスはハリウッド草創期の映画監督である。もともと映画技術に関する特許は[[ニューヨーク]]に本拠を構える発明王[[トーマス・エジソン]]がとっており、エジソンは特許を使って映画産業を独占しようとしていた。これを嫌った人々はエジソンの目の届かない西海岸に移って自由に映画作りを始めた。これが映画の聖地ハリウッドの起こりである。当時の映画界はまだ海のものとも山のものともつかない新進産業で少数民族や移民労働者たちの楽しむ安価な娯楽であった。そのため西海岸に多い日系人向けにも多くの映画がつくられていた。インスもやはり日本人向けの映画をつくっており、自らの映画製作会社オリエンタル・プロダクションには日本人女優青木鶴子を擁していた。
 
== キャリア ==
青木鶴子は[[川上音二郎]]の妹タカの子で、音二郎と妻[[川上貞奴]]のアメリカ巡業に連れて行かれ、同地で興行主に金を持ち逃げされて音二郎たちが追い込まれたときに、同地に捨てるようにおいて行かれた女性である。鶴子の幸運は、すでにアメリカで画家として成功していた[[青木年雄]](瓢斎)に引き取られたことであった。青木は養女である鶴子をわが子のように愛し、大切に育てた。<ref>大場、p86</ref>
=== アメリカ時代:1911年 - 1922年 ===
==== 演劇の世界へ ====
[[File:Hototogisu first edition cover cropped.jpg|thumb|right|150px|早川雪洲が愛読した[[徳冨蘆花]]の小説『[[不如帰 (小説)|不如帰]]』初版本の表紙。]]
自伝によると、金太郎が俳優になったのは、[[ロサンゼルス]]の日本人街[[リトル・トーキョー]]にある日本劇場で芝居を見たのがきっかけだという{{Sfn|早川|1959|pp=34-39}}。その芝居は藤田東洋が座長の日本人劇団の公演だったが、金太郎は内容があまりにも古臭いと感じたため、藤田に会って文句をつけ、もっと新しい芝居を自分にやらせてほしいと申し込んだ。そこで金太郎が提案したのは、台詞を暗誦できるほど愛読した『不如帰』の舞台化であり、それまで芝居の経験がないにもかかわらず、自身が主人公の川島武男を演じると意気込んだ。金太郎がその場で台詞を暗誦してみせると、藤田は感心して話に乗り、金太郎がロサンゼルスで手に入れた原作を脚色し、自身の主演で上演することになった。この公演は評判を呼び、自信をつけた金太郎は俳優になる決心がついた{{Sfn|早川|1959|pp=34-39}}{{Sfn|野上|1986|pp=51-54}}。
 
その後、金太郎は藤田の素人劇団の一員となり、日本で見た芝居を思い出しながら脚本を書いては主役を演じ、ロサンゼルスやサンフランシスコ、シアトルなどの[[アメリカ合衆国西海岸|アメリカ西海岸]]の都市にある日本人街を公演して回った{{Sfn|野上|1986|pp=51-54}}{{Sfn|大場|2012|pp=70-71}}{{Sfn|中川|2012|pp=91, 98}}。[[1911年]]には羅府文芸協会の設立者に名を連ね、文芸劇のために[[ヘンリック・イプセン|イプセン]]や[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]の作品を日本語に翻訳した{{Sfn|中川|2012|p=95}}。しかし、芝居だけで十分に生活することはできず、氷運びなどの仕事をして生活費を稼ぎ、寝る間を惜しんで芝居の稽古や脚本の勉強をした{{Sfn|野上|1986|pp=51-54}}{{Sfn|中川|2012|p=95}}。自伝で「この時は舞台にたっても早川という名前ではなくて、ほかの名前を使ってやっていた」と述べているが、中川織江によると、金太郎は素人劇団で'''在原狂夫'''(ありはらたけお)という芸名を名乗っていたという{{Sfn|早川|1959|pp=34-39}}{{Sfn|中川|2012|pp=110, 394}}。この芸名は[[在原業平]]から「在原」をとり、『不如帰』の主人公の武男に音をそろえて「狂夫」にしたと考えられている{{Sfn|中川|2012|pp=110, 394}}。
大恩人である青木の死後、鶴子は映画界入りしてインスの目にとまり、[[1913年]]の『つるの恋』(The oath of Tsuru)で銀幕にデビューした。青木鶴子はまさにハリウッド最初期の女優の一人であり、日本人国際女優第一号であった。その鶴子はすでに雪洲と既知の仲であり、雪洲の『タイフーン』をインスに勧めたのも鶴子であったという。<ref>中川、p100</ref>
 
やがて金太郎は日系人向けに芝居を打っているだけでは飽き足らず、アメリカ人相手に芝居をやろうと考え、[[レンジェル・メニヘールト|メルヒオール・レンジェル]]の戯曲『タイフーン』の上演を企画した{{Sfn|鳥海|2013|pp=58-59}}{{Sfn|野上|1986|pp=55-57}}。この作品はパリで暗躍する日本人スパイのニトベ・トコラモが良心の呵責で破滅するまでを描く悲劇で、ヨーロッパやアメリカで上演されて高い成功を収めていたが、それらの舞台では白人が日本人を演じていたため、金太郎は本物の日本人が演じることで他との差別化を図ろうとした{{Sfn|中川|2012|pp=91, 98}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=58-59}}。金太郎は自らプロデューサーとなり、資金集めやキャスティングも自分で行い、[[1913年]]に開幕すると大きな成功を収めた{{Sfn|野上|1986|pp=55-57}}。中川によると、金太郎が'''早川雪洲'''という芸名を名乗るようになったのは、『タイフーン』の公演からだったという{{Sfn|中川|2012|pp=99-100}}。自伝によると、金太郎は西郷南洲([[西郷隆盛]])を尊敬していたことから、はじめはそれに因んで「北洲」という芸名を名乗っていたが、そのうち同名の人物がほかにいることが分かったため、北には雪が積もっていることから「雪洲」を名乗ったといい、[[室町時代]]の禅僧の[[雪舟]]とは関係はないとしている{{Sfn|早川|1959|pp=34-39}}。
=== スターへの道 ===
[[File:The Death Mask (1914) - Ad 1.jpg|thumb|right|220px|『デスマスク』(1914年)]]
[[File:Hayakawa and Ward in The Cheat.jpg|thumb|right|220px|『チート』(1915年)]]
[[File:The_Temple_of_Dusk_(1918)_-_2.jpg|thumb|right|220px|『テンプル・オブ・ダスク』(ハワース・ピクチャーズ/1918年)]]
[[File:Babe Ruth & Sessue Hayakawa - Aug 1921 EH.jpg |thumb|right|220px|[[ベーブ・ルース]]とともに(1921年)]]
『タイフーン』の映画化を企画していたインスは雪洲と契約したが、雪洲には映画俳優としての経験がなかったので1914年、青木鶴子主演の映画『おミミさん』(O Mimi san)への出演を皮切りに13本の短編映画に出演して経験を積み、『タイフーン』(The tyhoon)で映画初主演を果たした。(なお、製作順でいえば初主演は『セレクト・シン』(The select sin)の方が古い。)<ref>中川、p105 </ref>同年、27歳の雪洲は24歳の青木鶴子と結婚。仲人は長谷川信一郎夫妻がつとめた。
 
==== 映画デビュー ====
[[1914年]]には夫婦で共演した『神々の怒り』(The Wrath of the Gods)がヒットし、フェイマス・プレイヤーズ(現パラマウント)と契約した雪洲は1915年12月に公開された[[セシル・B・デミル]]監督の『[[チート (映画)|チート]]』(The Cheat)で日本人美術商ヒシュル・トリを演じた。当時の人気女優[[ファニー・ウォード]]を借金のかたにとり、自らの所有物である証としてその肌に焼きごてを押し付け、最後には白人の制裁を受ける役柄で雪洲人気が沸騰したが、在米邦人からは「売国奴、国辱」とののしられ、12月29日には『羅府新報』上に謝罪記事を掲載させられることになった。
[[File:Thomas H. Ince.jpg|thumb|left|170px|アメリカの映画製作者[[トーマス・H・インス]]は、雪洲を映画界へ引き入れた。]]
雪洲が舞台で活動していた頃、[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]はロサンゼルスの[[ハリウッド]]が新しい映画製作地となり、多くの映画関係者がそれまでの映画産業の中心地だった[[ニューヨーク]]からハリウッドへ移ってきた{{Sfn|大場|2012|pp=73-74}}。そんなハリウッド草創期に活躍した{{仮リンク|ニューヨーク・モーション・ピクチャー・カンパニー|en|New York Motion Picture Company}}(NYMPC)の映画製作者の[[トーマス・H・インス]]は、雪洲を映画界にスカウトした人物とされている{{Sfn|フィルムセンター|1993|pp=14, 33}}。自伝によると、『タイフーン』の公演3日目にインスが観客として見に来ていて、芝居が終わったあとに楽屋を訪ね、「『タイフーン』を映画化しないか」と誘ってきて、映画出演の契約を結んだという{{Sfn|早川|1959|pp=44-45}}。しかし、[[1914年]]に雪洲が兄に宛てた手紙によると、1913年10月にNYMPCの社長に認められて、俳優としてではなく、脚本家として月給300ドルで雇われたという{{Sfn|大場|2012|pp=69-70}}。その後、雪洲は俳優としてインスと契約を結んだと考えられている{{Sfn|中川|2012|p=103}}。
 
[[サンタモニカ]]近くにインスヴィルと呼ばれる広大な撮影所を構えていたインスは、当時のアメリカ白人社会で日本や日本人が神秘的でエキゾチックな対象として関心を持たれていたことに注目し、日本を題材とした映画を作るため、インスヴィルの敷地内に日本人村のオープンセットを作り、日本人の俳優を集めていた{{Sfnm|1a1=宮尾|1y=1996|1pp=230, 234|2a1=Miyao|2y=2007|2p=51}}<ref >{{Cite book|last=Taves |first=Brian |date=2012 |title=Thomas Ince: Hollywood's Independent Pioneer |publisher=University Press of Kentucky |page=76 |isbn=978-0813134222}}</ref>。インスのもとに集まった日本人俳優には[[青木鶴子]]、[[トーマス・栗原]]、[[ヘンリー・小谷]]、木野五郎などがおり、雪洲もこの中に加わった{{Sfnm|1a1=垣井|1y=1992|1pp=61|2a1=中川|2y=2012|2p=104}}。雪洲はインスの日本物映画の1本目で、鶴子主演の[[短編映画]]『{{仮リンク|おミミさん|en|O Mimi San}}』(1914年)の相手役で映画デビューした{{Sfn|Miyao|2007|pp=51, 54}}。それからもエキゾチックな日本文化を見せることに主眼が置かれたインスの日本物映画に欠かせない人材として、10本以上の短編映画に出演した{{Sfnm|1a1=宮尾|1y=2009|1p=303|2a1=中川|2y=2012|2pp=368-388|3a1=鳥海|3y=2013|3p=67}}{{Refnest|group="注"|この時期の雪洲の短編映画を製作したのは、{{仮リンク|ケー・ビー・ピクチャーズ|en|Kay-Bee Pictures}}、ドミノ・フィルム・カンパニー、ブロンコ・フィルム・カンパニーなどの会社であるが、この3社はニューヨーク・モーション・ピクチャー・カンパニーの傘下にあり、同社のカリフォルニア側の映画製作の総監督であるインスが取り仕切っていた<ref>{{Cite book|和書 |author=ジョルジュ・サドゥール |translator=村山匡一郎、出口丈人、小松弘 |date=1995-6 |title=世界映画全史5 無声映画芸術への道 フランス映画の行方1909-1914 |publisher=国書刊行会 |isbn=978-4336034458 |page=181}}</ref>{{Sfn|中川|2012|pp=368-388}}。}}。これらの映画で共演が続いた鶴子とは、1914年5月に結婚した{{Sfn|大場|2012|p=81}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=70-74}}。
西海岸では在米邦人による「雪洲撲殺団」すら結成された<ref>大場、p96</ref>が、そんな雪洲をそばにいて支え続けたのは妻の鶴子であった。在米邦人たちの冷たい視線と裏腹に『チート』は全米で300万ドルの興行収入をたたき出し、全世界で公開された。(ただし日本と、当時同盟国だったイギリスおよびオーストラリアで公開されず。)当時のハリウッドで、雪洲はイタリア出身の[[ルドルフ・ヴァレンティノ]]と並ぶ「異国のスター」となった。
 
雪洲の最初の[[長編映画]]出演作は、[[桜島の大正大噴火]]を題材にした『[[神々の怒り]]』(1914年)である{{Sfnm|1a1=Miyao|1y=2007|1p=61|2a1=鳥海|2y=2013|2p=68}}。この作品では鶴子演じるヒロインの父親を演じ、当時のアジア人俳優の中で最も高額の週500ドルのギャラが支払われた{{Sfn|フィルムセンター|1993|pp=45-46}}<ref>{{cite web |last=Wollstein |first=Hans J. |title=The Wrath of the Gods |url=https://www.nytimes.com/movies/movie/117772/The-Wrath-of-the-Gods/overview|archivedate=2014-5-14 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140514203555/http://www.nytimes.com/movies/movie/117772/The-Wrath-of-the-Gods/overview|department=Movies & TV Dept. |work=[[The New York Times]] |publisher=Baseline & All Movie Guide |date=2014-5-14 |accessdate=2022-3-4}}</ref>。インスが映画化を提案した『{{仮リンク|タイフーン (映画)|label=タイフーン|en|The Typhoon}}』(1914年)は、雪洲の2本目の長編映画として作られ、かつ雪洲の映画初主演作となった{{Sfn|鳥海|2013|pp=70-74}}{{Sfn|中川|2012|p=105}}。中川によると、製作順では『セレクト・シン』(1914年)が実質的な雪洲の主演第1作であるが、興行的に成功するかどうか不安だったため、『タイフーン』のあとに公開されたという{{Sfn|中川|2012|p=105}}。『タイフーン』は興行的成功を収め、トコラモを演じた雪洲も観客の間で大評判となり、『ミルウォーキー・ニューズ』の記事では初めて「スター」と呼ばれた{{Sfn|宮尾|1996|p=230}}{{Sfn|鳥海|2013|p=70}}。インスも高まる雪洲の人気に注目し、彼を売り出そうと主演作品を立て続けに公開した{{Sfn|野上|1986|pp=65-66}}。当時の雪洲は日本人だけを演じたわけではなく、『{{仮リンク|ラスト・オブ・ザ・ライン|en|The Last of the Line}}』(1914年)で[[スー族]]の酋長の息子を演じるなど、何本かの作品で[[アメリカ先住民|インディアン]]役で出演している{{Sfn|中川|2012|pp=123-124}}{{Sfn|フィルムセンター|1993|p=39}}<ref name="indian">{{Cite book|last1=Friar |first1=Ralph E. |last2=Friar |first2=Natasha A. |date=1972 |title=The Only Good Indian: The Hollywood Gospel |publisher=Drama Book Specialists |page=129}}</ref>。
なお、『チート』は現在ではサイレント映画の傑作という評価が固まっており、1993年にアメリカでアメリカ国立フィルム登録簿の「[[アメリカ国立フィルム登録簿|永久に保存すべき映画]]」に指定されている<ref>中川、p124 </ref>。
 
==== スタ『チト』での人気と批判 ====
[[File:The Cheat 1915.jpg|thumb|right|『[[チート (映画)|チート]]』(1915年)でヒシュル・トリを演じた雪洲と、彼に焼印を当てられる女性を演じた{{仮リンク|ファニー・ウォード|en|Fannie Ward}}。]]
[[File:Sessue Hayakawa & Tsuru Aoki - Jan 1922 Photoplay.jpg|thumb|right|220px|鶴子と(1922年)]]
[[1915年]]3月、雪洲はインスとの契約が切れるとともに彼のもとを去り、配給会社の[[パラマウント・ピクチャーズ|パラマウント]]と提携して長編映画を製作していたジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー(以下、ラスキー社と表記)と4年の専属契約を結んだ{{Sfn|野上|1986|pp=65-66}}{{Sfn|垣井|1992|pp=73-74}}。週給は1000ドルで、半年ごとに500ドルがプラスされたが{{Sfn|野上|1986|pp=65-66}}、これは[[エッサネイ・スタジオ|エッサネイ社]]と契約した[[チャールズ・チャップリン]]の週給1250ドルや、[[フェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニー]]と契約した[[メアリー・ピックフォード]]の週給1000ドルとほぼ同額であり、当時の名前で観客を呼べる映画俳優の週給が200ドルから300ドルだったことを考えると破格なものだった{{Sfn|宮尾|1996|pp=227-228}}。
草創期のハリウッドのスターとして「悲劇のハヤカワ、喜劇のチャップリン、西部劇のハート(ウィリアム・ハート)」<ref>中川、p128 </ref>と並び称されるほどの人気になった雪洲は、ハリウッドに4階建て32室のスコットランド風の大豪邸を構え、「グレンギャリ城」と呼んだ。
 
同社で4本目の出演作となる[[セシル・B・デミル]]監督の『[[チート (映画)|チート]]』(1915年)で、雪洲は国際的なトップランクのスターとなった{{Sfn|垣井|1992|pp=75-77}}{{Sfn|野上|1986|pp=68-69}}。雪洲が演じたのは、プレイボーイでお金持ちの日本人美術商のヒシュル・トリで、有閑夫人を借金のカタにとり、自分の所有物である証として彼女の肌に焼きごてを押し付け、最後には白人の制裁を受けるという非道な悪役だった{{Sfn|鳥海|2013|pp=80-83}}{{Sfn|中川|2012|pp=115-116}}。雪洲は有閑夫人を演じたスターの{{仮リンク|ファニー・ウォード|en|Fannie Ward}}の相手役であり、助演としての出演ではあったものの{{Sfn|宮尾|2009|pp=304-305}}、作品はラスキー社史上最高の12万ドルの興行収入を稼ぐ大ヒットとなり、雪洲の人気は一気に高まった{{Sfn|宮尾|1996|pp=232-233}}。とくにアメリカの白人の女性観客には、雪洲のエキゾチックな容貌や色気、残忍なキャラクターが、それまでに味わったことのない魅力となり、雪洲はたちまち女性観客から熱狂的に支持される{{仮リンク|マチネー・アイドル|en|Matinée idol}}となった{{Sfn|野上|1986|pp=68-69}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=80-83}}{{Sfn|中川|2012|pp=115-116}}。雪洲の演技力も高く評価され、『[[ニューヨーク・タイムズ]]』は「ウォードは偉大な女優となるためには、悪役を演じた日本人男優(雪洲)をよく観察すべきだ」と述べた{{Sfn|宮尾|1996|p=236}}。
ここではチャップリンやバレンティノらの大スターが気軽に立ち寄り、日本領事館が迎賓館がわりにつかうことで雪洲の狙い通り民間レベルでの日米親善の場となった。雪洲は日本から公演にやってくる文化人なども大いに支援した。『チート』を巡って雪洲を激しく非難した日系人たちも、ここにいたって「日本人ここにあり」を雪洲が示してくれると胸を張った。<ref>中川、p132 </ref>
 
しかし、『チート』は[[日系アメリカ人]]社会で大きな物議を呼び、残忍な日本人として描かれる雪洲の役柄が不正確であると非難された{{Sfn|宮尾|1996|p=237}}。当時のアメリカでは[[黄禍論]]が浸透し、アメリカ人にとって日本は曖昧な不安や脅威の対象と思われていた{{Sfn|宮尾|1996|pp=233-235}}。とくに西海岸では[[排日|排日運動]]が高まりつつあり、[[1913年]]にはカリフォルニア州で日本人の土地所有を禁じる[[カリフォルニア州外国人土地法|外国人土地法]]が制定された{{Sfnm|1a1=佐藤|1y=1985|1p=265|2a1=垣井|2y=1992|2pp=73-74}}。そんな背景があり、排日ムードにさらされている日系人は、『チート』を白人たちの反日感情を助長する「排日映画」と見なし{{Refnest|group="注"|『チート』の前に公開された『タイフーン』も、日系人の間で排日映画として問題になっている{{Sfnm|1a1=佐藤|1y=1985|1p=265|2a1=垣井|2y=1992|2pp=73-74}}。}}、以前よりも差別排斥が酷くなることを懸念した{{Sfn|垣井|1992|pp=75-77}}{{Sfn|中川|2012|pp=118-121}}。『[[羅府新報]]』は12月24日付けの記事で、雪洲を「排日俳優」「[[売国奴]]」と呼び、26日付けの記事では「在米同胞が常に米国社会に親和しようと努力しているのに、早川は臆面もなくこれを破壊した」と批判した{{Sfn|大場|2012|pp=89-90}}。雪洲は27日にロサンゼルスの日本人会に出頭して聴取を受け、29日付けの『羅府新報』に次のような謝罪広告を発表した{{Sfn|中川|2012|pp=118-121}}。
1914年に[[第一次世界大戦]]が起きたが、日本はアメリカと同じく[[1917年]]に連合国として参戦したことから、戦争はむしろ雪洲の人気を後押しすることとなった。アメリカの戦時[[公債]]発売委員に推薦され、6万ドルもの[[公債]]を買ってアメリカ人を驚かせた。さらに友人知人にも盛んに公債の購入を勧め、[[1918年]]には『バンザイ』(Banzai)という公債販売促進のための映画まで撮っている。
 
{{Quote|過般当市ブロードウェー、タレー座において興行せし芸題『チート』の映画ははからずとも在留同胞諸君の感情を害したるは小生の衷心遺憾とするところに有之候。今後はじゅうぶん注意をはらい、ふたたび累を同胞社会におよぼすなからんことを期すべく候{{Sfn|中川|2012|pp=118-121}}。}}
=== ハワース・ピクチャーズ ===
この年、雪洲はキャナリーという友人の父親から100万ドルの融資を受けてついに自身の映画会社[[ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション]](Haworth Pictures Corporation)を設立した。社名は早川の「Ha」と一緒に会社をつくった映画監督[[ウィリアム・ワーシントン]](William Worthinguton)の「Worth」からとった。300名の従業員を抱えた自らのプロダクションで雪洲は企画から出演まで大車輪の活躍をし、4年で22作品をとっている。
 
それでも波紋は収まらず、白人不良青年団や悪童による日本人迫害や、白人雇い主による日本人の解雇などが続き、アメリカ各地では日本人会を中心とする上映中止運動が広がった{{Sfn|中川|2012|pp=118-121}}。[[1916年]]には「早川撲殺期成同盟会」なる組織が作られたが、ハリウッドで活躍した俳優の[[関操]]によると、当時の全米では約30団体もの「雪洲撲殺団」が作られたという{{Sfn|大場|2012|pp=96-97}}。雪洲は覚悟を決めて遺書をしたため、ロサンゼルスの自宅から撮影所までの道を、標的にならないように自動車ではなく歩いて通った{{Sfn|中川|2012|pp=118-121}}{{Sfn|大場|2012|pp=96-97}}。日本本国でも政府が[[在アメリカ合衆国日本国大使館|在米日本大使館]]を通じてデミルに正式に抗議し、[[右翼]]団体が雪洲を「日本人の残忍さを誇張して世界に恥をさらした売国奴」と呼ぶなどの騒ぎとなり、『チート』は国辱映画とされて国内で上映禁止となった{{Sfn|野上|1986|pp=68-69}}{{Sfn|宮尾|1996|p=237}}{{Sfn|佐藤|1985|p=266}}。それ以後、雪洲は「国賊」というレッテルを貼られ続けることになり、日本からは毎日、雪洲本人に見せられないほどの罵倒や屈辱に満ちた内容の手紙が大量に届いたが、それらは鶴子が雪洲の知るところとなる前に処分していた{{Sfn|中川|2012|pp=118-121}}。
1921年、雪洲のプロダクションは順調で社名を「セッシュー・ハヤカワ・フィーチャー・プレイ・カンパニー」と改めたが、[[人種差別]]が公然と行われていた上に、当時カリフォルニアを中心に[[黄禍論]]が広がっていたアメリカにおいて、有色人種である雪洲の成功が面白くない人々も少なからずいた。
 
==== 暗殺計画スターダム ====
[[File:The Honor of His House poster.jpg|thumb|left|180px|ラスキー社時代の主演作『{{仮リンク|家門の誉|en|The Honor of His House}}』(1917年)のポスター。]]
同プロダクション20作目の映画『[[スワンプ]]』(The Swamp)の撮影中、雪洲の盲腸が破裂して入院したときには雪洲の保険金を横取りすべく吸収合併が企図されたとか、鶴子が自殺をはかったという誤報道がなされるなど、この頃雪洲の身辺は不穏になっていく<ref>中川、p161 </ref>。
雪洲はラスキー社({{仮リンク|フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー|en|Famous Players-Lasky}}){{Refnest|group="注"|ラスキー社は、1916年に[[フェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニー]]と合併してフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーとなり{{Sfn|フィルムセンター|1993|p=37}}、配給部門としてパラマウントを取得した。それからしばらくの間、フェイマス・プレイヤーズ=ラスキーはラスキー社を含むいくつかの子会社の持株会社として機能していたが、1917年12月29日にすべての子会社を自社に吸収した<ref>{{Cite book|last=Dick |first=Bernard F. |date=2021 |title=Engulfed: The Death of Paramount Pictures and the Birth of Corporate Hollywood |url=https://books.google.co.jp/books?id=J9JJEAAAQBAJ&pg=PA11 |publisher=University Press of Kentucky |page=11}}</ref>。この会社が後にパラマウント・ピクチャーズと名を変えて、ハリウッドの[[メジャー映画スタジオ]]のひとつに発展した{{Sfn|フィルムセンター|1993|p=37}}。}}との契約のもとで、[[1916年]]に4本、 [[1917年]]に7本、[[1918年]]に5本の映画に主演し、そのうち数本で鶴子と共演した{{Sfn|中川|2012|pp=368-388}}{{Sfn|野上|1986|pp=92, 98}}。どの作品も興行成績が良く、雪洲は[[ダグラス・フェアバンクス]]、[[ジョン・バリモア]]、[[ロスコー・アーバックル]]などと並ぶ同社の[[ドル箱スター]]となり、[[1917年]]には週給が7500ドルになった{{Sfn|野上|1986|pp=92, 98}}。雪洲は『チート』で築かれたイメージ、すなわち表向きには魅力的であるが、裏では白人女性を誘惑して脅威を与える悪役の日本人という役柄を、『{{仮リンク|クラさんの心|en|The Soul of Kura San}}』(1916年)や『{{仮リンク|極東の招き|en|The Call of the East}}』(1917年)などの作品で演じ続けた{{Sfn|宮尾|1996|pp=232-233}}。その一方で、『{{仮リンク|黒人の意気|en|Each to His Kind}}』(1916年)のインドの王子、『{{仮リンク|ジャガーの爪|en|The Jaguar's Claws}}』(1917年)のメキシコの山賊など、日本人以外のさまざまな非白人も演じた{{Sfn|中川|2012|pp=368-388}}{{Sfn|宮尾|1996|pp=237-238}}。
 
しかし、雪洲を含むハリウッドの日本人俳優は、しばしば排日映画と見なされる作品に出演して日系人の非難の的となった{{Sfn|垣井|1992|pp=86-88}}。1917年9月18日には「白人俳優に伍して劣らざる地位を保ち、排日映画を防止する事」という趣旨のもとで「日本人活動写真俳優組合」を設立し、雪洲が理事長に就任した{{Sfn|垣井|1992|pp=86-88}}{{Sfn|中川|2012|pp=134-135}}。この団体は、1914年12月に雪洲が声をかけて結成した「日本人活動俳優倶楽部」を改組したもので、50人以上の組合員が在籍する有力団体となった{{Sfn|中川|2012|pp=134-135}}{{Refnest|group="注"|日本人活動写真俳優組合の主なメンバーには、青木鶴子、青山雪雄、トーマス・栗原、ヘンリー・小谷、関操、木野五郎、徳永文六、藤田東洋、[[阿部豊]]、[[山本冬郷]]、{{仮リンク|ジョージ・桑|en|George Kuwa}}などがいる{{Sfn|垣井|1992|pp=86-88}}。}}。理事長の雪洲は、日本人俳優の生活の安定を支えるために惜しみなく支援した。当時のエキストラの日当は平均2、3ドルで、アメリカ人のエキストラでさえもそれで満足していたが、雪洲は「日本人エキストラは全員日給を5ドルにせよ」と賃上げ運動を呼びかけ、交渉を成立させたこともあった{{Sfn|中川|2012|pp=134-135}}。
アメリカ、特にカリフォルニア州で人種差別をもとにした日本人に対する憎悪が酷くなる中、ついに1922年3月11日、『[[朱色の画筆]]』(The Vermillion pencil)の撮影中、「地震の場面でのセット崩壊のどさくさにまぎれて雪洲を殺害する計画が行われた」ことを契機として、雪洲は会社をたたんでハリウッドを去ることを決意した。
 
1917年、アメリカは[[第一次世界大戦]]に参戦し、政府は増大する軍事費を賄うために戦時[[公債]]の{{仮リンク|自由公債|en|Liberty Bond}}を発行した。雪洲はアメリカ戦時公債発売委員に推薦され、日本人最高記録となる6万ドルもの公債を購入し、さらに友人知人にも盛んに公債の購入を勧めた{{Sfn|中川|2012|pp=134-135}}。雪洲はフェアバンクスやチャップリンなどのハリウッドのスターと同じように公債購入キャンペーンに熱を入れたが、スターたちの公債売上高が公表されたこともあり、雪洲たちは競うようにして公債を売り、ハリウッドの中で2番目の売上げを記録した時があったという{{Sfn|中川|2012|p=136}}。1918年には公債の購入を促進する[[プロパガンダ映画]]『{{仮リンク|バンザイ (映画)|label=バンザイ|en|Banzai (1918 film)}}』(1918年)を製作した{{Sfn|中川|2012|p=137}}。
=== ブロードウェイ進出 ===
その後、日本訪問の途についた雪洲夫妻は[[1922年]][[6月29日]]、[[天洋丸]]で横浜に到着。雪洲は渡米後初めての帰国となった。夫妻は2か月間日本に滞在したが、歓迎と反対の大騒ぎや怒号に疲れ果てて再びアメリカに戻った。
 
==== 自身の映画会社の立ち上げ ====
休む間もなく、人種差別がカリフォルニア州ほど酷くない[[ニューヨーク州]]のブロードウェイでの舞台『[[タイガー・リリー]]』(Tiger Lily)を成功させた雪洲は、ブロードウェイで主役を演じた最初の日本人となり、終わり次第鶴子とともにフランスに渡る。映画『[[ラ・バタイユ (1923年の映画)|ラ・バタイユ]]』(La Battaille 1923年)製作のためであった。
[[File:Sessue Hayakawa 1918.jpg|thumb|right|180px|1918年の雪洲。]]
1917年の冬頃、雪洲はシカゴ大学時代からの友人のキャナリーに誘われて、彼の父親や実業家のドーバンたちとディナーを共にし、その翌日にキャナリーから「父が100万ドルを出すから、自分の映画会社を立ち上げてみないか」と提案された。キャナリーの父親は石炭鉱山を経営する富豪で、スターとして活躍していた雪洲に目を付けていた。ディナーはキャナリーたちが雪洲の人間性を確かめるために設けたものであり、人を見る目がよいドーバンが「雪洲は人をごまかすようなこともないし、大丈夫、仕事を忠実にやるだろう」と太鼓判を押したという{{Sfn|早川|1959|pp=75-76}}{{Sfn|中川|2012|pp=139-140}}。雪洲は友人から意見を聞いたり、採算や将来性などの点で調査をしてみたりしたが、ちょうどその頃に新しくできた映画配給会社{{仮リンク|フィルム・ブッキング・オフィス・オブ・アメリカ|label=ロバートソン・コール社|en|Film Booking Offices of America}}が作品配給の全面協力を申し出てくれたこともあり、自身の映画会社設立への決意を固めた{{Sfn|早川|1959|pp=75-76}}{{Sfn|中川|2012|pp=139-140}}{{Sfn|野上|1986|pp=99-100}}。
 
1918年4月に雪洲とフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーの契約が切れ、4月中旬に自身の映画会社「{{仮リンク|ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション|en|Haworth Pictures Corporation}}」を設立した{{Sfn|中川|2012|pp=139-140}}{{Refnest|group="注"|社名の「ハワース」は、早川の「Ha」と同社で仕事を共にした映画監督[[ウィリアム・ウォーシントン|ウィリアム・ワーシントン]]の「Worth」からとった{{Sfn|中川|2012|pp=139-140}}。}}。スタジオは旧[[トライアングル・フィルム・コーポレーション|トライアングル社]]の[[D・W・グリフィス]]の撮影所を買い取って改築し、300人以上の従業員を抱えた{{Sfn|中川|2012|pp=139-140}}。雪洲は主演とプロデューサーを務め、場合によっては脚本や編集も兼ね、睡眠時間を削ってまで死に物狂いで働いた{{Sfn|野上|1986|pp=99-100}}{{Sfn|中川|2012|pp=144-145, 149}}。ハワース・ピクチャーズで製作兼主演した作品は計22本で、1本あたりの予算は15万ドルだった{{Sfn|中川|2012|pp=144-145, 149}}。作品の半数以上は[[ウィリアム・ウォーシントン|ウィリアム・ワーシントン]]や[[コリン・キャンベル (映画監督)|コリン・キャンベル]]が監督したが、雪洲は彼らに注文を付けたりして監督業にまで関与した{{Sfn|野上|1986|pp=99-100}}{{Sfn|中川|2012|pp=144-145, 149}}。
=== ヨーロッパ進出 ===
[[File:Sessue Hayakawa 1923.jpg|thumb|right|220px|[[パリロンシャン競馬場|ロンシャン競馬場]]にて(1923年)]]
『ラ・バタイユ』はフランス人作家[[クロード・ファレール]]の小説で[[日露戦争]]を舞台にした物語である。1923年7月にパリ入りした雪洲と鶴子を群集は熱狂的に迎えた。フランス海軍の協力によって本物の軍艦まで撮影に使った『ラ・バタイユ』は大ヒットしたが、日本では冷ややかに受け止められた。主人公の海軍将校ヨリサカ侯爵の妻ミツコがヨリサカの親友であるイギリス武官フェアガンと親しくなる展開や、日本海海戦のさなかに絶命するヨリサカがフェアガンに艦の指揮を託す場面が国辱であるとして、日本では原型をとどめぬほどに編集されたものが公開された。<ref>中川、p192 </ref>
 
[[file:Sessue Hayakawa 1919.jpg|thumb|left|『ムービング・ピクチャー・ワールド』誌に掲載された『{{仮リンク|恩に感じて|en|His Debt}}』(1919年)の広告。この作品は[[国定忠治]]の日本版で、雪洲は日本人ギャンブラーの森山ゴローを演じた{{Sfn|中川|2012|pp=368-388}}。]]
[[ヨーロッパ]]での雪洲人気はとどまるところを知らず、[[イギリス]]国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]が王室主催の「コマンド・パフォーマンス」に雪洲を招聘。ロンドンの[[コロシアム劇場]]で御前公演『神の御前に』(Knee of the God)を行い、引き続き行われた一般公演も超満員であった。
映画研究者の宮尾大輔によると、雪洲が自身の映画会社を設立した本質的な理由は、それまで映画スターの地位を保つためとはいえ誤った日本人のイメージを与えられ続け、日本人から非難を受けることに不満があったからだったという{{Sfn|宮尾|1996|p=237}}。実際に雪洲は、1916年に『{{仮リンク|フォトプレイ|en|Photoplay}}』誌のインタビューで、「(『タイフーン』や『チート』での役柄は)我々日本人の性格に忠実ではない。それらは人々に日本人について誤ったイメージを与えている。私は本当の我々を明らかにする映画をつくりたい」と発言している{{Sfn|宮尾|1996|p=237}}<ref>{{Cite journal|last=Kingsley |first=Grace |title=That Splash of Saffron: Sessue Hayakawa, a Cosmopolitan Actor, Who for Reasons of Nativity, Happens to Peer from Our White Screens with Tilted Eyes |journal=Photoplay |volume=9.4 |date=March 1916 |pages=139}}</ref>。宮尾は、「スターの地位を維持することと愛国的感情との間で苦悩した早川は、自社を設立することでその解決を図る第一歩を踏み出した」と述べている{{Sfn|宮尾|1996|p=237}}。
 
雪洲がハワース・ピクチャーズ時代の作品で演じた役柄は、ラスキー社時代のような魅力的な悪役ではなく、良心的で人情のある献身的な善人というものであり、最初の数本ではすべて日本人役しか演じず、役名も従来の「トコラモ」「ヒシュル・トリ」などの不自然な名前ではなく、「アキラ」「ユキオ」などの正確な名前にした{{Sfn|宮尾|1996|pp=237-238}}。宮尾によると、これらは雪洲がスターの地位を作り上げるために与えられてきた従来のイメージを捨て、正確な日本人の性格を表現しようと努めたことを示しているという{{Sfn|宮尾|1996|p=238}}。同社での代表作『{{仮リンク|蛟龍を描く人|en|The Dragon Painter}}』(1919年)は、鳥海美朗曰く「本当の日本をアメリカに示したい」という雪洲の意気込みが凝縮された作品である{{Sfn|鳥海|2013|pp=103-105}}。この作品は[[アーネスト・フェノロサ]]夫人の{{仮リンク|メアリー・M・フェノロサ|en|Sidney McCall}}の長編小説が原作で、雪洲は[[狩野派]]絵師の後を継ぐ天才画家を演じた{{Sfn|中川|2012|pp=368-388}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=103-105}}。映画史研究者の板倉史明は、雪洲がこの作品で「日本や日本文化に対する奇想天外な誤解や偏見を軽減できると期待した」と考え、「自己犠牲的な行為」や「儒教的な人物造形」で日系人観客を満足させつつ、「アメリカ人観客の異国趣味を満足させる」ような商品価値を兼ね備えていたと分析している{{Sfn|鳥海|2013|pp=103-105}}。
さらにウィリアム・アーチャーが雪洲のために書いた戯曲『サムライ』を主演し、国王の天覧を二度続けて受けるという異例の栄誉を受けた。
 
こうした雪洲の試みは実を結び、献身的な日本人を演じた『{{仮リンク|薄暗の寺|en|The Temple of Dusk}}』(1918年)は『[[キネマ旬報]]』で「我々同胞から失はれた雪洲氏の名誉と信用を挽回する為には絶好な映画」と評されるなど、日本本国や日系人社会から好意的な反応を受けた{{Sfn|宮尾|1996|p=238}}。しかし、アメリカ人には受け入れられず、『{{仮リンク|ムービング・ピクチャー・ワールド|en|The Moving Picture World }}』誌の『薄暗の寺』評では、より寡黙で神秘的で冷酷無情な雪洲の方が好きだと言われた{{Sfn|宮尾|1996|p=238}}。やがて雪洲は会社を経営する以上、興行収入を上げなればならないこともあり、役柄がラスキー社時代のそれに戻っていき、日本人以外の非白人を演じる機会も再び増えた{{Sfn|宮尾|1996|pp=238-239}}。宮尾は、雪洲主演映画による利益を見込むロバートソン・コール社の要求、自分たちが抱くイメージに忠実な役柄を望むアメリカ人観客の欲望、アメリカ社会に浸透していた日本人に対する固定観念、スターの地位を維持したい雪洲自身の野心により、雪洲の「愛国的な思いは犠牲にされ、映画スター早川雪洲の一定のイメージ作りが再開された」と述べている{{Sfn|宮尾|1996|p=239}}。
=== ニューヨークに ===
このヨーロッパ巡業で大成功した雪洲は[[関東大震災]]を機会として、活動拠点を([[客船]]の出発地で欧州との行き来に便利な)アメリカ東海岸のニューヨークに移すことを決意、ハリウッドのグレンギャリ城を売却した。(グレンギャリ城はその後取り壊されたため現存しない。今もあるシカモーア通りの和風建築「山城」がよく雪洲の邸宅と勘違いされることがあるが、それは間違いである。)<ref>中川、p201 </ref>
 
1918年、雪洲は鶴子とともに当時流行していた[[スペインかぜ]]に感染し、数日間寝込んだが、この時に母親のか祢もスペインかぜに感染し、11月17日に73歳で亡くなった{{Sfn|中川|2012|p=146}}。この頃からハリウッドの日本人俳優が相次いで日本へ帰国するようになり、雪洲は日本人活動写真俳優組合の理事長として、組合主催で壮行会を開くなどして彼らを見送った{{Sfn|中川|2012|p=151}}。[[1920年]]には日本で新たに設立された[[松竹キネマ]]の関係者がハリウッド視察に訪れ、雪洲に「松竹で輸出映画を作ってくれないか」とオファーしたが、多忙な日々を送る雪洲は断った{{Sfn|野上|1986|pp=101-103, 108-109}}。1920年もハワース・ピクチャーズは好調に回転し、雪洲は足かけ3年も不眠不休で働いたおかげで、キャナリーに会社設立時の出資金100万ドルに利息100万ドルを足して、2倍の200万ドルにして返済することができ、それを機に社名を「ハヤカワ・フィーチャー・プレイ・カンパニー」に改名した{{Sfn|野上|1986|pp=99-100}}{{Sfn|中川|2012|p=158}}。同年9月には日米親善や在米日本人のアメリカ化などに尽くすために「一百会」を設立し、自ら会長に就いた{{Sfn|中川|2012|p=158}}。
1924年、雪洲と鶴子はヨーロッパに渡り、フランスやイギリスで映画を撮影した。その冬、2人は温暖な[[モナコ]]の[[モンテカルロ]]に赴いた。もともと賭け事が好きだった雪洲はモンテカルロのカジノで大勝負をするが500万ドルもの大金をすってしまった。このときは「カジノで大敗した雪洲が投身自殺」という誤報すら流れた。<ref>中川、p208 </ref>
 
==== ハリウッドとの決別 ====
1926年、雪洲は舞台『ラブ・シティー』の上演でアメリカに戻った。この公演を成功させた雪洲は、その後に自ら小説『バンディット・プリンス』(The Bandit Prince,1926)を書き上げた。雪洲自らがこの小説を戯曲化した作品『馬賊の王子』のヒロインとして連れてこられたのがイギリス出身の新進女優[[ルース・ノーブル]]であった。このころ、映画界にトーキーがあらわれて一大革命となる。1929年には雪洲も初のトーキー映画『大和魂』(The man who laughs last)を公開するが、雪洲がルースと愛人関係になり、男子(後の雪夫)を産ませたことがスキャンダラスに報道され、雪洲人気は急降下、雪洲はアメリカ映画界を追われるかたちとなった。
[[File:Sessue Hayakawa 1920.jpg|thumb|right|180px|『{{仮リンク|奮起の王国|en|The Beggar Prince}}』(1920年)の雪洲。]]
1920年代に入ると、アメリカでは第一次世界大戦後の[[ナショナリズム]]の高揚の中、反日ムードがますます濃くなっていた{{Sfn|宮尾|1996|pp=240-241}}{{Sfn|野上|1986|pp=101-103, 108-109}}。ロサンゼルスの街でも排日を呼びかける宣伝カーが走り、それは雪洲の自宅の前にもやってきた{{Sfn|野上|1986|pp=101-103, 108-109}}。そんなアメリカで雪洲の人気は徐々に低下し、スターの地位を維持することが困難となっていった{{Sfn|宮尾|2009|p=309}}。さらに雪洲の成功を面白くないと思う白人も少なからずおり、雪洲の身辺は次第に不穏なものになり、そんな雰囲気は撮影現場でも漂っていた{{Sfn|野上|1986|pp=101-103, 108-109}}{{Sfn|中川|2012|pp=159-161}}。そのような背景の中で、雪洲は最も脂の乗りきっている時期を過ごしていたにもかかわらず、ハリウッドに対する不信や不安、そして身の危険を感じるようになった{{Sfn|野上|1986|pp=101-103, 108}}。
 
そんな雪洲が直面したのは、自社の作品を配給していたロバートソン・コール社との関係悪化だった{{Sfn|野上|1986|pp=101-103, 108}}。[[1921年]]3月、ロバートソン・コール社は映画製作に乗り出し、雪洲の会社と合併することを持ちかけ、『{{仮リンク|スワンプ|en|The Swamp (1921 film)}}』(1921年)を撮影していた雪洲はこの話に応じた{{Sfn|中川|2012|pp=159-161}}。雪洲には100万ドルもの死亡保険がかけられており、もし雪洲が死んだ場合、保険金は雪洲の会社に入る仕組みとなっていたが、ロバートソン・コール社は合併により保険金は自動的に自分たちに譲られると解釈し、受取人の名義を自分たちに変えるよう要求した{{Sfn|中川|2012|pp=159-161}}{{Sfn|早川|1959|pp=79-80}}。雪洲は強くこれに反発したが、それで揉めている最中に[[虫垂炎]]をこじらせた{{Sfn|中川|2012|pp=159-161}}。症状がかなり悪化していたにもかかわらず、ロバートソン・コール社は雪洲の保険金目当てで手術を先延ばしにしたため、あとでその事実を知った雪洲は憤慨した{{Sfn|早川|1959|pp=79-80}}。何日経っても手術が行われず、4月8日に検査をすると一刻を争う危険な状況であることが判明し、緊急手術をしたが、腸壁が丈夫で腹膜まで膿が回らなかったため一命をとりとめた{{Sfn|中川|2012|pp=159-161}}。
=== 日本凱旋と流転 ===
[[File:Kuni o mamoru mono Nichiren 1935.jpg|thumb|right|220px|『日蓮』のポスター(1935年)]]
[[File:Thedaughterofthesamurai-japaneseposter1937.jpg|thumb|right|220px|『新しき土』のポスター(1937年)]]
1930年(昭和5年)、雪洲は単身帰国、日本での活動の可能性を探るための帰国であった。雪洲は自らのためにアメリカ人作家が書いた戯曲『[[あっぱれウォング]]』を携えており、松竹と組んで公演を行った。同公演は9月1日の[[帝国劇場]]を皮切りに京都[[南座]]、神戸松竹劇場など全国で巡業し、1933年まで公演が続く大ヒットとなった。
 
[[File:Babe Ruth & Sessue Hayakawa - Aug 1921 EH.jpg|thumb|left|180px|[[ベーブ・ルース]]と握手を交わす雪洲(1921年)。]]
11月には鶴子も雪洲の後を追って来日するが、1931年にはかつての愛人ルースが雪洲を訴える。雪洲はルースに慰謝料を払い、子供の雪夫を引き取って夫妻で育てることになった。
5月12日に雪洲は退院し、6月から転地療養と称してアメリカ東部を旅行した。6月25日には[[ニューヨーク・ヤンキース]]対[[ミネソタ・ツインズ|ワシントン・セネタース]]の野球試合で始球式を務め、[[ベーブ・ルース]]と握手を交わし、その2日後には[[ホワイトハウス]]で[[ウォレン・ハーディング]]大統領と面会した{{Sfn|大場|2012|pp=121-123}}。雪洲が長兄に宛てた書簡によると、この東部旅行は「新しい境地を自分の活動天地に求めよう」という目的があったという{{Sfn|大場|2012|p=125}}。大場俊雄は、東部旅行がやがてハリウッドを離れることになる雪洲の転機の前兆であり、映画俳優から舞台俳優へ活躍の場を広げることを意図した下見旅行だったと指摘している{{Sfn|大場|2012|pp=126, 133-134}}。
 
1922年、雪洲は合併後の新生ロバートソン・コール社のもとで、中国が舞台の新作『{{仮リンク|朱色の画筆|en|The Vermilion Pencil}}』(1922年)の撮影に入った{{Sfn|中川|2012|pp=163-164}}。すでに保険金の受取人の名義はロバートソン・コール社に移されていたが、この作品では大地震で町が壊滅する大がかりなシーンがあり、同社は撮影中に事故が起きる可能性もあるとして、雪洲の死亡保険にさらに100万ドルを追加した{{Sfn|中川|2012|pp=163-164}}{{Sfn|早川|1959|pp=81-82}}。大地震のシーンは、3月11日のクランクアップ当日に撮影されたが{{Sfn|中川|2012|pp=163-164}}、自伝によると、雪洲は撮影現場の見物人が異常に多く、その中に白衣を着た人も何人かいたため、いつもと様子がおかしいことに気付いたという{{Sfn|早川|1959|pp=81-82}}。撮影するシーンは、雪洲と中国人が[[パゴダ]]の前で格闘し、その最中に発射されるピストルの音とともに、地震でパゴタが向こう側へ倒壊するというものだった。ところが、雪洲は撮影開始直前、知人の美術監督に「パゴダのセットは向こう側にではなく、雪洲の方に倒れる」と忠告された。雪洲は恐怖心を抑えながら撮影に臨んだが、合図となるピストルの音がした途端、パゴダのセットは本当に雪洲の方へと倒れ始めた。雪洲はすぐに「走れ!」と声を張り上げ、他の俳優たちと大急ぎで逃げ出し、そのおかげで怪我人は出なかったという{{Sfn|早川|1959|pp=83-85}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=125-127}}。
1932年には初の日本映画『[[太陽は東より]]』に出演する。このころ出会った17歳のシズなる女性とも親しくなり、彼女は後に雪洲の子を二人(令子、富士子)産むことになる。さらに裁判が決着したはずのルースが子どもと面会できないといってたびたび雪洲の前に現れ、雪洲を困惑させる<ref>[http://rakusai.nichibun.ac.jp/hoji/contents/Nichibei/PDF/1932/07/19320714nba10.pdf Ruth is in Nippon for Love Child]The Japanese American News, 1932.7.14</ref>。
 
雪洲は自伝で、このセットの倒壊事故は、雪洲の多額の保険金を手にするためにロバートソン・コール社の社長が仕組んだものであると主張し、「あのときは日本人排斥が盛んなときで、実に迫害を受けた。そのどさくさまぎれに日本人の私など撮影中の事故死ということで、殺したって平気だろう、殺して200万ドルとる、という謀略をめぐらしていたのが事実だ」と述べている{{Sfn|早川|1959|pp=83-85}}。中川も、この事件が「会社ぐるみの確信犯的な公開殺人計画」だったと述べている{{Sfn|中川|2012|pp=163-164}}。この事件で雪洲はハリウッドと決別することを決意し、事件から1週間後の3月17日に行われたロバートソン・コール社社長主催のパーティーの席上で、その決意を発表した{{Sfn|早川|1959|pp=83-85}}{{Sfn|野上|1986|pp=110-111}}。
1937年には、前年に[[防共協定]]を締結するなど緊密な関係となった[[ドイツ]]との合作映画『[[新しき土]]』が公開される。この映画で大抜擢されてスターとなったのが17歳の[[原節子]]であった。雪洲は原節子の父親役を演じた。
 
{{Quote|先日、一般人民投票によって、日本人を排斥すべきかどうか、土地法、移民法を通過さすべきかどうか、イエス、ノーの投票があった。あのとき、「イエスと投票しろ」と宣伝カーを繰り出した、そのなかに僕のいる映画会社からも車が出ていたのを、僕はよく知っているし、現に見た。そして僕の住んでいるこのハリウッドがイエスの投票をしたために、あるいはロスアンゼルス全部がイエスの投票をしたために、日本人にとってもっとも致命的な土地法案は通過してしまった。(中略)道を歩く日本人はトマトをぶつけられたりで悲しいめに会った。それのみならず、撮影中に僕を殺そうとした事件が起きた。こういう空気の中で、僕はこれ以上一日も過ごすことはできない。きょう限りハリウッドに訣別する。(中略)いろいろお世話になったが、今日をかぎりお別れする{{Sfn|早川|1959|p=86}}。}}
=== 再渡仏 ===
1937年、雪洲は鶴子と雪夫を日本に残したままフランスに渡った。同地で [[田中路子]]との共演で製作された 『{{仮リンク|ヨシワラ|en|Yoshiwara (1937 film)}}』(Yoshiwara、当時は国辱映画として日本では公開されず戦後の1946年に日本で公開された最初のフランス映画となる)および『{{仮リンク|フォルフェテュール|en|The Cheat (1937 film)}}』(Farfaiture、『チート』のセルフリメイク)は続けて大ヒットし、フランスでの雪洲人気の健在ぶりを印象付けた。
 
この言葉通りに雪洲は自身の映画会社を解散し、ハリウッドを後にした{{Sfn|野上|1986|pp=110-111}}。それから約2か月後の6月29日には、妻と渡米後初めて日本へ一時帰国した{{Sfn|中川|2012|pp=172-175, 177-179}}{{Sfn|大場|2012|pp=128-129}}。この頃の日本では、雪洲はハリウッドで成功したスターとして大きな注目を集め、映画ファンだけでなく一般大衆からも英雄視された{{Sfn|野上|1986|pp=113-116}}。雪洲は至るところで熱狂的な歓迎を受け、[[東京駅]]では雪洲夫妻をひと目見ようと大群衆が押し寄せたという{{Sfn|鳥海|2013|pp=134-136}}。その一方で「国賊」「売国奴」のレッテルが拭い去られたわけではなく、歓迎と同じくらいに不歓迎の声も多く、雪洲夫妻は不歓迎団体や抹殺社を称する団体に付きまとわれ、常に不安と恐怖がついて回った{{Sfn|中川|2012|pp=172-175, 177-179}}{{Sfn|野上|1986|pp=113-116}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=134-136}}。[[横浜港]]に到着した時には歓迎の嵐と反対の怒号が入り混じる騒ぎとなり、帰国直後の歓迎会の最中には撲殺団のメンバーが「雪洲国賊!」と叫びながら乱入する出来事も起きた{{Sfn|中川|2012|pp=172-175, 177-179}}。雪洲は郷里の七浦村にも戻り、地元の人々から大歓迎を受けたが、日本を離れる間際の8月16日に兄の音治郎が亡くなり、滞在期間を延ばして葬儀に参列したあと、8月28日に喪服姿のままアメリカへ戻った{{Sfn|中川|2012|pp=172-175, 177-179}}{{Sfn|大場|2012|pp=128-129}}。
女性問題をたびたび起こしてきた雪洲だったが、ここでも『ヨシワラ』で共演した[[田中路子]]と同棲するようになる。しかし、シズからの手紙で妻がいながら愛人と子どもがいることを知った路子が雪洲を見切り、ルースがパリまで追いかけてきたことが決定打となって2人は別れた。
 
=== 国際的な活躍:1922年 - 1944年 ===
そのころ、都内で雪夫と暮らす鶴子のもとに雪洲の愛人シズがあらわれ、2人の娘を残して去って行った。[[日中戦争]]下の上に、ヨーロッパでも緊迫が増してゆく日々を鶴子は実子でない3人の子供たちと生きていかなければならなかった。フランスに行った雪洲との連絡はとだえた。
==== ブロードウェイとヨーロッパへの進出 ====
[[File:Sessue Hayakawa 1923.jpg|thumb|right|180px|[[パリロンシャン競馬場]]での雪洲(1923年)。]]
ハリウッドと決別した雪洲は、ニューヨークへ出て舞台俳優に活路を見出し、{{仮リンク|フレッド・ド・グレザック|en|Fred de Gresac}}作の『タイガー・リリー』という芝居を上演することにした{{Sfn|鳥海|2013|p=145}}。雪洲は[[ブロードウェイ (ニューヨーク)|ブロードウェイ]]での舞台経験がなく、演技力も未知数だったため、まずは[[1923年]]1月から[[デラウェア (オハイオ州)|デラウェア]]、[[ピッツバーグ]]、[[アトランティックシティ]]などの東海岸の都市で公演を重ねた{{Sfn|鳥海|2013|p=145}}{{Sfn|中川|2012|pp=182-183}}。ところが、公演は好成績を収めるには至らず、1月26日付けの『羅府新報』はアトランティックシティでの上演が「観衆は期待を裏切られたほどの出来」だったと報じた{{Sfn|大場|2012|pp=126, 133-134}}。その結果、『タイガー・リリー』は3週間の都市公演で事実上打ち切られ、ニューヨークで日の目を見ることは叶わず、雪洲はブロードウェイの劇場に出演することが生易しいことではないことを痛感した{{Sfn|大場|2012|pp=126, 133-134}}{{Sfn|鳥海|2013|p=145}}。
 
それでも雪洲は諦めず、ニューヨークで新しい芝居の題材を探していたところ、フランスの映画会社の{{仮リンク|フィルム・ダール|fr|Le Film d'art}}から、[[クロード・ファレール]]の小説が原作で[[日露戦争]]を舞台にした国際的大作『[[ラ・バタイユ (1923年の映画)|ラ・バタイユ]]』(1923年)で主役の日本海軍将校を演じるオファーを受けた。契約を結んだ雪洲は「アメリカでは人気が落ちたが、ヨーロッパではまだまだいける」と自信を深め、1923年7月に将校の妻役で共演が決まった鶴子とフランスへ渡り、パリで熱狂的な歓迎を受けた{{Sfn|鳥海|2013|pp=147-149}}{{Sfn|中川|2012|pp=185-187}}。『ラ・バタイユ』は雪洲の力が働いたおかげで、[[フランス海軍]]の協力により本物の軍艦を動員して撮影された{{Sfn|中川|2012|pp=185-187}}{{Refnest|group="注"|自伝によると、雪洲は当初の張りぼてのセットで撮ることに不満を示し、ダンス会で出会った女性に愚痴をこぼしたところ、その女性は海軍大臣の娘で、父親に直談判して軍艦使用の許可を取り付けてくれたという{{Sfn|早川|1959|pp=120-125}}。}}。作品はパリで2年間も上映が続くほどの大きな成功を収めたが、日本では国辱的な描写があるとして、原形をとどめぬほどに編集されたものが公開された{{Sfn|中川|2012|pp=191-192}}。
=== 第二次世界大戦 ===
[[1939年]]9月の[[第二次世界大戦]]の開戦の翌年に、日本の友好国である[[ドイツ軍]]がフランスに侵攻し、その後[[1940年]]にドイツ軍によりフランス全土が占領された。日本の[[大使館]]は在仏日本人の撤収を勧めたものの、雪洲はドイツ軍占領と南部に[[ヴィシー政権]]が設立された後もパリに住み、同じころにパリで暮らしていた資産家の[[薩摩治郎八]]とも親交を持った。
 
その後、雪洲はパリの劇場{{仮リンク|カジノ・ド・パリ|fr|Casino de Paris}}で1幕の短い芝居『神の御前に』(1923年)に出演し、連日大入り満員のヒットとなった{{Sfn|鳥海|2013|pp=159-161}}。雪洲はヨーロッパでもすっかり人気者となり、[[イギリス]]国王[[ジョージ5世 (イギリス王)|ジョージ5世]]からは王室主催の{{仮リンク|ロイヤル・コマンド・パフォーマンス|label=コマンド・パフォーマンス|en|Royal Command Performance}}での芝居の指名を受けた{{Sfn|鳥海|2013|pp=159-161}}{{Refnest|group="注"|コマンド・パフォーマンスは御前演劇のことで、国王が自ら指名した俳優の芝居を上演するのが習わしだった{{Sfn|鳥海|2013|pp=159-161}}。}}。1923年11月にロンドン入りすると数万人の群衆に出迎えられ、チャップリンが凱旋帰国した時よりも熱狂的な歓迎ぶりだったと報じられた{{Sfn|野上|1986|p=123}}。雪洲が上演したのは[[ウィリアム・アーチャー]]の戯曲『サムライ』で、12月13日に{{仮リンク|ロンドン・コロシアム|en|London Coliseum}}で国王の天覧を受けた{{Sfn|中川|2012|pp=193-194}}{{Refnest|group="注"|その前の11月中にも、雪洲はロンドン・コロシアムで『神の御前』を国王の前で上演しており、引き続き行われた一般公演は満員御礼の成功を収めた{{Sfn|中川|2012|pp=193-194}}。}}。舞台は高い評判を呼び、約7か月にわたりイギリス各地で巡演し、その間には2本のイギリス映画にも出演した{{Sfn|鳥海|2013|p=167}}。
治郎八は戦前より日仏交流のために尽力し、フランス人のみならず、150人ほど残った在住邦人たちにも頼られていた。さらに2人ともに政治に興味はなく、対独協力に積極的でないために、[[1944年]]の連合軍によるパリ解放後も[[自由フランス]]や連合国軍による逮捕や追放を逃れた。なお早川は日本人であったがアメリカの[[パスポート]]も所持していたこともあり、抑留を逃れた。パリ解放後は治郎八と雪洲は力をあわせて数少ない在留日本人の保護にあたった<ref>中川、p270 </ref>。
 
1924年末に雪洲は再びパリへ戻り、しばらく遊びほうけていたところ、パリのナイトクラブで知り合ったニューヨークの大劇場主{{仮リンク|リー・シューバート|en|Lee Shubert}}から『ラブ・シティ』という舞台で主役の中国人を演じる話を受けた{{Sfn|鳥海|2013|pp=170-172}}{{Sfn|野上|1986|pp=129-132}}。単なるスターから演技力で評価される俳優へと転身したいと思っていた雪洲は、一度は失敗したブロードウェイで自分の力量を再び試すため、約2年を過ごしたヨーロッパを離れ、[[1925年]]夏にニューヨークへ戻った{{Sfn|鳥海|2013|pp=170-172}}。『ラブ・シティ』はこれまでにない長台詞が多く、完璧な演技が求められたため、雪洲は稽古中にプレッシャーで胃炎を患い、ひどく痩せてしまったという{{Sfn|野上|1986|pp=129-132}}。舞台は翌[[1926年]]1月からブロードウェイの{{仮リンク|ヘレン・ヘイズ・シアター|label=リトル・シアター|en|Hayes Theater}}で上演されると成功を収め、雪洲の舞台での演技も正当に評価された{{Sfn|鳥海|2013|pp=170-172}}{{Sfn|野上|1986|pp=129-132}}。
=== 再渡米と帰国 ===
[[File:Hayakawa Harcourt 1946.jpg|thumb|right|220px|雪洲のポートレート(1946年)]]
[[File:Hayakawa Sessue - eiga no tomo 1952-11.jpg|thumb|right|220px|「[[映画の友]]」取材時(1952年)]]
[[1945年]]8月の第二次世界大戦終結後に日本が連合国に占領された後も、雪洲はフランスに住むことを許され、映画に出演したり絵を描いたりと細々と暮らしていた。そのような雪洲を再びアメリカに連れ戻し、表舞台に引き出したのは若手のハリウッドスター、[[ハンフリー・ボガート]]であった。
 
『ラブ・シティ』の成功で、雪洲はニューヨークに腰を落ち着け、そのあとに自身初の小説『バンディット・プリンス』(1926年)を出版した{{Sfn|鳥海|2013|pp=170-172}}{{Sfn|中川|2012|pp=211-217}}。この小説は[[ハーバード大学]]で学ぶ中国の王子が主人公の恋物語で、雪洲はその一部を脚色する形で次の舞台『馬賊の王子』を自作し、1926年6月にニューヨークで上演した{{Sfn|中川|2012|pp=211-217}}。舞台は評判を呼び、雪洲はすぐに日米の俳優10数人を集めて一座を組み、[[1927年]]までニューヨーク、[[フィラデルフィア]]、[[シカゴ]]、ロサンゼルス、サンフランシスコなど全米各地で『馬賊の王子』を巡業した{{Sfn|中川|2012|pp=211-217}}{{Sfn|大場|2012|pp=140-144}}。[[1928年]]には自ら脚本と演出を兼ねた新作舞台『笑へる男』の全米巡業を行ったが{{Sfn|大場|2012|pp=140-144}}、この舞台の評判も上々で、映画化の話も持ち上がり、翌[[1929年]]に自身初の[[トーキー]]となる『{{仮リンク|大和魂 (映画)|label=大和魂|en|The Man Who Laughed Last}}』として公開された{{Sfn|中川|2012|pp=211-217}}。すでに映画界は[[サイレント映画|サイレント]]からトーキーへ移行し、多くのサイレント映画のスターがトーキーに適応できずに銀幕から消えていったが、雪洲はヨーロッパ時代から舞台俳優として台詞の経験を積んでいたおかげで、トーキーに適応して映画出演を続けることができた{{Sfn|鳥海|2013|pp=170-172}}{{Sfn|野上|1986|pp=127-128}}。
ボガートは新作『[[東京ジョー (映画)|東京ジョー]]』に、若いころからあこがれた早川雪洲を出演させたいと望み、コロンビアを経由して雪洲を探した。こうして雪洲はボガートの意をうけて[[1949年]]にパリからアメリカに飛んだ。
 
==== 日本へ帰国 ====
日本が連合国の占領下にあり、また[[日本国との平和条約|講和条約]]締結前で、日本人は自由に国外に移動することができない時代、アメリカのパスポートも所持していたが日本人でもあった雪洲が、特別許可を受けて渡米できたのは異例ずくめのことだった<ref>中川、p281 </ref>。ハリウッドは16年ぶりに戻ってきたかつての大スターを熱狂的に迎えた。『東京ジョー』を撮り終えた雪洲は続けて『[[三人帰る]]』(Three came home、アグネス・キース原作の『三人は帰った』 の映画化)などのハリウッド映画に立て続けに出演する。
[[File:Kuni o mamoru mono Nichiren 1935.jpg|thumb|left|180px|雪洲主演の日本映画『国を護る者日蓮』(1935年)のポスター。]]
[[1930年]]4月、雪洲は2度目の日本帰国を果たした{{Sfn|野上|1986|pp=136-137}}。帰国後の最初の仕事は、自らのためにアメリカの劇作家[[デーヴィッド・ベラスコ]]と{{仮リンク|アクメッド・アブダラー|en|Achmed Abdullah}}が書いた中国人が主人公の戯曲『天晴れウオング』の舞台化で、9月1日の[[帝国劇場]]を皮切りに[[神戸市|神戸]]や[[京都市|京都]]など全国で巡業し、[[1933年]]まで公演が続く大ヒット作となった{{Sfn|野上|1986|pp=139, 141-144}}{{Sfn|中川|2012|pp=229-230, 232}}。翌[[1931年]]も帝国劇場で複数の舞台に出演したが、古巣のパラマウント・ピクチャーズから映画『{{仮リンク|龍の娘|en|Daughter of the Dragon}}』(1932年)の出演依頼を受け、再びアメリカへ渡った。この作品ではイギリスで活動する日本人探偵を演じ、アジア系女優で当時最も人気のあった[[アンナ・メイ・ウォン]]と共演した{{Sfn|野上|1986|pp=139, 141-144}}。
 
[[1932年]]、雪洲は3度目の帰国をした{{Sfn|野上|1986|pp=139, 141-144}}。当時の日本において雪洲は最大級の大物として扱われたため、雪洲にとって日本は排日の空気があるアメリカよりも居心地がよかった{{Sfn|野上|1986|pp=139, 141-144}}。雪洲は[[松竹キネマ]]で自身初の日本映画となる『太陽は東より』(1932年)を監督兼主演し、相手役には人気女優の[[田中絹代]]を抜擢した{{Sfn|野上|1986|pp=139, 141-144}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=184-186}}。この作品を撮り終えたあとは活動の主力を舞台に移し、東京や大阪の劇場を行き来しながら、[[岡田嘉子]]が相手役の『続篇・天晴れウオング』(1932年)、[[水谷八重子 (初代)|水谷八重子]]が相手役の『女人哀詞・唐人お吉物語』(1933年)、[[伏見直江]]が相手役の『バッド・マン』(1933年)、青年歌舞伎公演『シラノ・ド・ベルジュラック』(1934年)などに出演した{{Sfn|野上|1986|pp=145-147}}。[[1934年]]には早川雪洲劇団(早川雪洲新進座)を旗揚げし、[[渋谷区|渋谷]]の自宅の離れを稽古場にして数人の劇団員を住まわせたが、そのひとりには[[堺駿二]]がいた{{Sfn|中川|2012|pp=368-388}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=184-186}}。
さらにそのころハリウッドにやってきた大映社長の[[永田雅一]]が自ら雪洲に帰国を勧めたため、雪洲は10月に13年ぶりに日本の土を踏むことになった。[[パンアメリカン航空]]機で[[羽田国際空港]]に戻った雪洲を妻の鶴子と3人の子供たちが出迎え、初めて家族5人が一堂に会した。
 
この頃の雪洲は[[仏教]]に関心を寄せるようになり、[[1935年]]には自らが盟主となって「日本仏教劇協会」を結成し、その第1回公演として自作の[[釈迦]]の一代記『大釈尊劇 四海の光』を[[日本劇場]]で初演した{{Sfn|中川|2012|pp=368-388}}{{Sfn|野上|1986|pp=145-147}}<ref>{{Cite book|和書 |editor=国立劇場近代歌舞伎年表編纂室 |date=2004-3 |title=近代歌舞伎年表 京都篇 第10巻 |publisher=八木書店 |pages=21-22}}</ref>。舞台は好評を博し、大阪や[[名古屋市|名古屋]]、[[九州]]、[[四国]]など日本各地を回り、さらには[[朝鮮]]や[[台湾]]、[[中国]]まで巡演した{{Sfn|中川|2012|pp=368-388}}{{Sfn|野上|1986|pp=145-147}}。しかし、雪洲のマネージメントをしていた人物が公演の収益を持ち逃げして行方をくらましてしまったため、舞台が連日大入り満員だったにもかかわらず、興行的には大赤字になったという{{Sfn|野上|1986|pp=145-147}}。
===戦場にかける橋 ===
[[File:Sessue Hayakawa in Hell to Eternity trailer.jpg|thumb|right|220px|『戦場にかける橋』の予告編(1957年)]]
日本帰国後、[[1950年]]に大映で『[[レ・ミゼラブル]]』を撮り、次女の富士子と共演。雪洲は日本に腰を据えて、[[1950年代]]にかけて映画や当時普及し始めた[[テレビ]]、[[雑誌]]にと大活躍した<ref>中川、p289 </ref>。
 
舞台活動と並行して映画出演も続けており、[[楠木正成]]を演じた[[J.O.スタジオ]]作品『楠公父子』(1933年)、水谷八重子と共演した[[新興キネマ]]作品『[[唐人お吉 (川村花菱)#映画|唐人お吉]]』(1935年)、[[日蓮]]を演じた『国を護る者日蓮』(1935年)などの出演作がある{{Sfn|野上|1986|pp=145-147}}。日独合作映画の『[[新しき土]]』(1937年)では、主演の[[原節子]]の父親役を演じた{{Sfn|中川|2012|pp=251-252}}。しかし、映画出演の本数は少なく、脇役を演じることも多かった{{Sfn|野上|1986|pp=145-147}}{{Sfn|中川|2012|pp=246-249}}。野上はその理由について、当時の雪洲が相変わらず大物扱いされたものの、日本映画で集客力の見込めるような魅力的なスターではなく、その点では[[大河内傅次郎]]や[[長谷川一夫]]などの新しいスターにかなわなくなっていたことを指摘している。その代わり雪洲は舞台で一座を組むことにおいては魅力的なスターであり続け、舞台の面白さは映画とは比較にならなかったこともあり、映画よりも舞台の方に熱を入れていた{{Sfn|野上|1986|pp=145-147}}。
1956年、雪洲はハリウッド映画の『[[戦場にかける橋]]』への出演依頼を受ける。「戦場の[[日本軍]]の[[捕虜]][[収容所]]の所長」という内容を聞いて逡巡する雪洲の背中を「重要な役柄」と鶴子が押し、雪洲は出演を決断する。[[スリランカ]]での長期ロケは困難を極めたが、完成した作品は世界各国で大ヒットし、批評家からも絶賛された。
 
==== 再渡仏と第二次世界大戦 ====
1958年[[アカデミー賞]]で作品賞、主演男優賞([[アレック・ギネス]])、監督賞([[デビッド・リーン]])、脚色賞、撮影賞、作曲賞を獲得。雪洲も助演男優賞にノミネートされたものの受賞には至らなかったが、本作は他にも[[英国アカデミー賞]]、[[ゴールデングローブ賞]]、[[ニューヨーク映画批評家協会賞]]などを総なめし、出演した雪洲の名声は不動のものとなった。
[[1936年]]、雪洲はフランスの映画会社から{{仮リンク|モーリス・デコブラ|en|Maurice Dekobra}}原作、[[マックス・オフュルス]]監督の『{{仮リンク|ヨシワラ|fr|Yoshiwara (film)}}』に出演する話を受け、大晦日に家族を残して日本を離れ、ニューヨーク経由でフランスへ渡った{{Sfn|野上|1986|pp=158-165}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=197-198}}。『ヨシワラ』は[[吉原遊郭|吉原]]に身を売った娘と某国海軍士官との悲恋物語で、雪洲は娘に密かな思いを寄せ、なんとかして吉原から救い出そうとする人力車夫を演じ、娘役の[[田中路子]]と共演した{{Sfn|鳥海|2013|pp=197-198}}。この作品を撮り終えると、雪洲は『チート』のフランス版リメイクの『{{仮リンク|フォルフェテュール|fr|Forfaiture (film, 1937)}}』(1937年)、再び田中路子と共演した『{{仮リンク|アジアの嵐 (1938年の映画)|label=アジアの嵐|fr|Tempête sur l'Asie (film, 1938)}}』(1938年)に主演した{{Sfn|中川|2012|pp=260-263}}。
 
[[1938年]]にはフランスで独立プロダクションを旗揚げしようと考え、3本のフランス映画出演で得た収入などから資金を集め、翌[[1939年]]にパリの[[シャンゼリゼ通り]]に「デモフィルム」という会社を設立した{{Sfn|中川|2012|pp=260-263}}。その第1作は[[マカオ]]の賭博場を舞台にした悲劇ドラマ『{{仮リンク|マカオ 賭場地獄|fr|Macao, l'enfer du jeu}}』だったが、撮影中の同年9月に[[第二次世界大戦]]が開戦し、翌[[1940年]]には[[ナチス・ドイツ]]がフランスに侵攻し、『マカオ』が完成した頃にはフランス全土が占領されていた。[[在フランス日本国大使館]]は在仏日本人の退避勧告を出したが、映画製作に懸命だった雪洲はパリにとどまる決断をした{{Sfn|中川|2012|pp=264-265}}。『マカオ』はナチスの映画[[検閲]]を受け、反ナチスの俳優[[エリッヒ・フォン・シュトロハイム]]が出演していたために上映許可が下りず、何としても映画を公開させたかった雪洲は、シュトロハイムの出演部分をフランスの俳優に代えて撮り直した{{Sfn|野上|1986|pp=170-171}}。[[1942年]]にようやく『マカオ』修正版が完成し、検閲を通過したが、それまでにかかった約3年間の雪洲は無収入で、資金が続かず、デモフィルムはたった1本作っただけで閉鎖された{{Sfn|中川|2012|p=266}}。
=== 最後の栄光と晩年 ===
その後も、日米を往復しながら映画やテレビドラマなど多くの作品に出演、1959年には自伝『武者修行世界を行く』を出版、その記念パーティーには日本を代表する多くの文化人や著名人が参加した。
 
1942年、雪洲はナチス占領下のパリに在住していた124人の日本人のひとりだった。戦時下で思うような映画作りができず、日本人が映画に出演するチャンスはなおさらない中、雪洲は必ず映画に出れる時が来ると信じて待ち続けた{{Sfn|中川|2012|pp=268-271}}。雪洲は日本人であるため[[ドイツ軍]]には同盟国の人間として扱われ、また国際的有名人であるがゆえに、芸術家たちを[[プロパガンダ]]に利用するナチスに目を付けられたが、雪洲はナチス嫌いで、対独協力にも積極的ではなく、ドイツ軍と一緒にいる写真を撮られそうになるとトイレに隠れるなどして警戒した{{Sfn|中川|2012|pp=268-271}}{{Sfn|鳥海|2013|p=223}}。[[1944年]]にパリは[[連合国 (第二次世界大戦)|連合軍]]によって解放されたが、フランスが米英両国とともに宣戦布告した日本との戦争はまだ続いていたため、日本人は連合国側からまだ敵国人と見なされていた{{Sfn|鳥海|2013|p=223}}。雪洲は同じくパリに滞在していた資産家の[[薩摩治郎八]]とともに、対独協力の疑いで投獄された在留日本人の救出に奔走し、そのために[[アメリカ軍]]の[[ジープ]]を運転した{{Sfn|中川|2012|pp=268-271}}。同年にはドイツ軍に検閲された『マカオ』をオリジナル版に戻すため、シュトロハイムの出演部分をつなぎ直して再上映した{{Sfn|鳥海|2013|p=223}}。
1960年には英語の著作『ゼン・ショード・ミー・ザ・ウェイ』(Zen showed me the way)を出版し、ハリウッド映画『戦場よ永遠に』(Hell to eternity)に出演。この作品ではかつての人気女優だった妻鶴子にも声がかかり、夫婦での共演となった。しかし、長年の苦労が鶴子の体を蝕んでおり、[[1961年]](昭和36年)[[10月18日]]没した、享年73。鶴子を失った雪洲は大きな喪失感に襲われるが、なんとか俳優業を続け、[[1964年]](昭和39年)に38歳年下の[[吾妻秀穂]]と再婚する。
 
=== 第二次世界大戦後:1945年 - 1967年 ===
1965年(昭和40年)にはNHKの大河ドラマ『太閤記』に武田信玄役で出演。80歳を過ぎても[[トヨタ・カローラ]]のCMに出るなど大きな仕事を続けた雪洲だったが、[[1968年]](昭和43年)の日本映画『[[神々の深き欲望]]』の降板を最後に俳優業を引退した。引退後は[[東京都]]で暮らした。
==== ハリウッドに復帰 ====
[[File:Hayakawa Harcourt 1946.jpg|thumb|right|180px|1946年の雪洲。]]
[[1945年]]に第二次世界大戦が終結し、雪洲は何本かのフランス映画に出演する機会を得たが、それだけでは生活することができず、紙や絹のハンカチに描いた絵を売って食いつないでいた{{Sfn|中川|2012|pp=268-271}}。日本へ帰国しようにも、毎日のように警察に出頭して、釈放された日本人の証言をしなければならなかったため、当局からの許可は下りず、そのうえ日本が敵国であるため手紙を出すこともできなかったという{{Sfn|早川|1959|pp=182-184}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=225-226}}。雪洲の家族を含む日本やハリウッドの人たちは誰も雪洲の消息を知らず{{Sfn|野上|1986|p=175}}、鶴子は夫の行方を探すために努力し、アメリカ軍機関紙『[[星条旗新聞]]』の記者に頼んで「パリのセッシュウの行方を捜している」という記事を掲載してもらった{{Sfn|鳥海|2013|pp=225-226}}。
 
[[1948年]]、雪洲はアメリカの人気スターの[[ハンフリー・ボガート]]から「映画で共演してほしい」というオファーを電報で受けた{{Sfn|鳥海|2013|pp=225-226}}。ボガートは自らのプロダクションで製作する新作『{{仮リンク|東京ジョー (映画)|label=東京ジョー|en|Tokyo Joe (film)}}』(1949年)に、若い頃から憧れた雪洲を出演させたいと望んだが、肝心の雪洲の居所が分からず、配給元の[[コロンビア ピクチャーズ]]が日本に連絡しても消息はつかめなかったため、「雪洲を見つけたら賞金を出す」という新聞広告を出したところ、パリから雪洲の絵の個展が開かれていたという情報が入ってきたという{{Sfn|中川|2012|pp=280-281}}。『東京ジョー』で雪洲が演じる役柄は、サイレント時代から演じ続けてきた悪役の日本人だったが、雪洲にとってはハリウッドに復帰できるチャンスであったため、このオファーを引き受けた{{Sfn|鳥海|2013|pp=227-231}}。
=== 逝去 ===
[[1973年]][[11月23日]]に入院先の[[杏雲堂病院]]で[[急性肺炎]]のため逝去した。<ref>中川、p348 </ref>享年88(満87歳没)。日本のマスコミは『国際派俳優早川雪洲死去』とその死を悼み、ハリウッドでは[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]にその名前「Sessue Hayakawa」を刻んで永遠の記念とした。
 
連合国の占領下にある当時の日本は、まだ[[平和条約|講和条約]]が締結されておらず、公式には依然として連合国の交戦国となっていたため、政府要人でもない日本人が自由に国を移動することはできず、当然フランス在住の日本人にアメリカ行きの[[査証]]は下りなかった。そんな時代にもかかわらず、1948年末に雪洲はパリのアメリカ大使館から特別査証を発給され、特例的に渡米することができた{{Sfn|中川|2012|pp=280-281}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=227-231}}。自伝によると、雪洲はアメリカ大使館へ査証を貰いに行ったところ、担当者に「日本とアメリカは交戦国だから、雪洲の持っている旅券は認められない」と言われたが、大使館はフランス滞在中の雪洲の行動などを綿密に調査していて、その結果何ら悪いところがなかったため、その後アメリカ行きの査証を出してくれたという{{Sfn|早川|1959|pp=182-184}}。鳥海は、雪洲のアメリカ行きが認められた理由として、占領下のパリでドイツ軍に協力しなかったことと、雪洲がハリウッドで築き上げた実績が認められたことを挙げている{{Sfn|鳥海|2013|pp=227-231}}。
== 主な出演映画 ==
邦題表記に揺れのあるものは併記。
[[File:Sessue Hayakawa The Tongman 2 Film Daily 1919.png|thumb|right|1919年の映画『トング・マン』(The Tongman)のポスター]]
[[file:Sessue Hayakawa 1919.jpg|thumb|『恩に感じて』(His debt)の広告 (1919)]]
[[File:Walk of fame, sessue hayakawa.JPG|thumb|right|ウォーク・オブ・フェームにある早川雪洲のプレート]]
*[[おミミさん]](O mimi san 1914年)・・・監督[[チャールズ・ミラー]](Charles Miller)、雪洲の映画デビュー作。
*[[タイフーン]](The tyhoon 1914年 日本公開1922年)・・・・・・監督[[レジナルド・パーカー]](Reginald Barker)、雪洲初主演作。
*[[神々の怒り]](神の怒り、火の海 The wrath of the Gods 1914年 日本公開1918年)・・・監督レジナルド・パーカー、桜島の噴火がテーマ。
*[[チート (映画)|チート]](The Cheat 1915年)・・監督[[セシル・B・デミル]]監督。[[阿部豊]]、[[ジョージ桑]]共演。国辱映画として日本では公開されず。
*[[異郷の人]](異邦の霊 Alien souls 1916年 日本公開1918年)・・・監督[[フランク・レイチェル]](Frank Reicher)。
*[[ヴィクトリア勲章]] (The Victoria cross 1916年 日本公開1920年)・・・監督[[エドワード・ルセイント]](Edward LeSaint)。
*[[黒人の意気]](Each to his kind 1917年 日本公開1919年)・・・監督エドワード・ルセイント。
*[[ジャガーの爪]](The Jaguar’s claws 1917年 日本公開1919年)・・・監督[[マーシャル・ニーラン]](Marshall Neilan)。
*[[徳利の鬼]](The bottle imp 1917年 日本公開1919年)・・・監督マーシャル・ニーラン。
*[[男子の意気]](禁断の道 Forbidden paths 1917年 日本公開1920年)・・・監督[[ロバート・ソーンビー]](Robert Thornby)。
*[[隠されたる真珠]](隠された真珠 Hidden pearls 1918年 日本公開1920年)・・・監督[[ジョージ・メルフォード]](George Melford)。
*[[彼の家督権]](異郷の親、長子相続権 His birthright 1918年 日本公開1920年)・・・独立プロダクションである[[ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション]]での第一作。監督[[ウィリアム・ワーシントン]]
*[[薄暗の寺]](黄昏の寺院、黄泉の国、陰府の寺 The Temple of dusks 1918年 日本公開1920年)・・・独立プロダクション第2作。監督[[ジェームズ・ヤング_(映画監督)|ジェームズ・ヤング]]
*[[明暗の人]](心の抵当、人質の心、把はれし心 A heart in pawn1919年 日本公開1922年)・・・独立プロダクション第3作。監督ウィリアム・ワーシントン。
*[[蛟竜を描く人]](龍の絵師 The Dragon’s painter1919年 日本公開1922年)・・・独立プロダクション第4作。監督ウィリアム・ワーシントン。
*[[恩に感じて]](男を感じて、彼の負債 His debt 1919年 日本公開1921年)・・・・・・独立プロダクション第5作。監督ウィリアム・ワーシントン。[[国定忠治]]の翻案。
*[[男の血]](The man beneath 1919年 日本公開1921年)・・・独立プロダクション第6作。監督ウィリアム・ワーシントン。
*[[勇気ある臆病者]](勇敢なる臆病者 The Courageous Coward 1919年 日本公開1922年)・・・独立プロダクション第7作。監督ウィリアム・ワーシントン。
*[[灰色の地平線]](血の力 The gray horizon 1919年 日本公開1920年)・・・独立プロダクション第8作。監督ウィリアム・ワーシントン。
*[[桜の光]](Bonds of Honor 1919年 日本公開1920年)・・・独立プロダクション第9作。監督ウィリアム・ワーシントン。
*[[輝く公爵]](Illustrious Prince 1919年 日本公開1921年)・・・独立プロダクション第10作。監督ウィリアム・ワーシントン。
*[[トング・マン]](死線の勇者 1919年 日本公開1922年)・・・独立プロダクション第11作。監督ウィリアム・ワーシントン。
*[[阿修羅の如く_(1920年の映画)|阿修羅の如く]](The Brand of Lopez 1920年 日本公開1922年)・・・独立プロダクション第12作。監督[[ヨゼフ・ド・グラッセ]](Joseph De Grasse)。
*[[悪魔の要求]](The Devil’s Claim 1920年 日本公開1921年)・・・独立プロダクション第13作。監督[[チャールズ・スウィッカート]](
Charles Swickard)。
*[[伝説の祭壇]](The Traditions alter 1920年 日本公開1921年)・・・独立プロダクション第14作。監督チャールズ・スウィッカート。
*[[アラビアの闘士]](An Arabian Knight 1920年 日本公開1921年)・・・独立プロダクション第15作。監督チャールズ・スウィッカート。
*[[奮起の王国]](乞食王子 The Beggar prince 1920年 日本公開1922年)・・・独立プロダクション第16作。監督ウィリアム・ワーシントン。
*[[怒髪天を衝いて]](The first born 1921年 日本公開1921年)・・・独立プロダクション第17作。監督[[コリン・キャンベル (映画監督)|コリン・キャンベル]](Colin Campbell)。
*[[黒薔薇]](黒いバラ Black roses 1921年 日本公開1921年)・・・独立プロダクション第18作。監督コリン・キャンベル。
*[[男一匹の意地]](Where lights are low1920 年 日本公開1921年)・・・独立プロダクション第19作。監督コリン・キャンベル。
*[[スワンプ]](沼、The swamp 1920年 日本公開1921年)・・・独立プロダクション第20作。監督コリン・キャンベル。
*[[かげろふの命]](陽炎の生命、5日間の生命 Five days to live 1922年 日本公開1922年)・・・独立プロダクション第21作。監督[[ノーマン・ドーン]](Norman Dawn)
*[[朱色の画筆]](赤い鉛筆、赤鉛筆 The vermillionpencil 1922年 日本公開1925年)・・・独立プロダクション第22作。監督ノーマン・ドーン(Norman Dawn)
*[[ラ・バタイユ (1923年の映画)|ラ・バタイユ]](La battaille 1923年 日本公開1924 年 仏映画)・・・フランスが初めて国際市場を意図して国家的に作った映画。
*[[愛国の軍使]](光輝ある王子 The great prince 1924年 日本公開1925年 英映画)・・・監督[[A・E・コールビー]](A.E. Coleby)
*犠牲(J’ai tue! Fidelite,C’est moi qui ai tue 1924年 日本公開1925年 仏映画)
*大和魂(早川雪洲の最後に笑う男 Sessue Hayakawa in “The man who laughs last” 1929年 日本公開1930年)・・・ハリウッドに復帰して撮った雪洲初のトーキー映画。
*[[ダグラスの世界一周]](Around the world in eighty minutes with Douglas Fairbanks 1931年 日本公開1932年)
*[[龍の娘]](Daughter of the dragon 1931年 日本公開1931年)
*[[太陽は東より]](1932年 日本映画)・・松竹映画、監督は早川雪洲。日本で「雪洲本邦第一回作品」と喧伝された。[[サウンド版]]。
*[[楠公父子]](1933年 日本映画)・・[[J.O.スタジオ]]、監督[[池田富保]]、サイレント。
*[[爆撃飛行隊]](1934年 日本映画)・・J.O.スタジオ、監督[[三枝源次郎]]と[[根津新]]。
*[[荒木又右衛門・天下の伊賀越え]](1934年 日本映画)・・J.O.スタジオ、監督[[勝見庸太郎]]。
*[[唐人お吉 (川村花菱)|唐人お吉]](1935年 日本映画)・・・[[新興キネマ]]、監督[[冬島泰三]]
*[[国を護る者日蓮]](国難を呼ぶ日蓮 1935年 日本映画)・・・新興キネマ、監督[[曽根千晴]]。
*[[新しき土]](サムライの娘 Die tochter des Samurai 1937年 日独合作映画)・・・監督[[伊丹万作]]、[[アーノルド・ファンク]]、原節子が出演。
*{{仮リンク|ヨシワラ|en|Yoshiwara (1937 film)}}(Yoshiwara 1937年 日本公開1946年 仏映画)・・・監督[[マックス・オフュルス]]、戦後初めて日本公開されたフランス映画。
*{{仮リンク|フォルフェテュール|en|The Cheat (1937 film)}}(Forfaiture 1937年 仏映画)・・・監督[[マルセル・L・レルビエ]]、「チート」のフランスリメーク。
*[[東京ジョー (映画)|東京ジョー]](Tokyo Joe 1949年 日本公開1949年 米映画)・・・コロンビア、監督[[スチュアート・ハイスラー]]、雪洲のハリウッド復帰作。
*[[三人帰る]](三人の帰宅 Three came home 1949年 米映画)・・・二十世紀フォックス、監督[[ジーン・ネグレスコ]]。
*[[遥かなり母の国]](1950年 日本映画)・・・大映、監督[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]、雪洲13年ぶりの日本映画。
*レ・ミゼラブル(1950年 日本映画)・・・東横、監督伊藤大輔、マキノ雅弘、文芸大作の舞台を西南戦争に置き換えた作品。次女の富士子と共演。
*[[女間者秘聞 赤穂浪士]](1953年 日本映画)・・・[[東映]]、監督[[佐々木康]]。
*[[悲劇の将軍 山下奉文]](1953年 日本映画)・・・東映、監督[[佐伯清]]。
*[[鞍馬天狗と勝海舟]](1953年 日本映画)・・・新東宝、監督[[池田富保]]。
*[[日本敗れず]](1954年 日本映画)・・・新東宝、監督[[阿部豊]]。
*[[東京暗黒街・竹の家]](House of Bamboo 1955年 日本公開1955年 米映画)・・・監督[[サミュエル・フラー]]
*[[野郎ども表へ出ろ]](1956年 日本映画)・・・東映、監督[[小林恒夫_(映画監督)|小林恒夫]]
*[[怒れ!力道山]](1956年 日本映画)・・・東映、監督[[小沢茂弘]]
*[[戦場にかける橋]](The bridge on the river Kwai 1957年 米英合作映画)・・・監督[[デヴィッド・リーン]]、第30回アカデミー賞作品賞受賞。
*[[緑の館 (映画)|緑の館]](Green mansions 1958年 日本公開1959年 米映画)・・・監督[[メル・フェラー]]。
*[[底抜け慰問屋行ったり来たり]](The Geisha boy 1958年 日本公開1959年 米映画)・・・監督[[フランク・タシュリン]]。
*[[スイスファミリーロビンソン|南海漂流]](Swiss family Robinson 1960年、日本公開1961年、米映画)・・・監督[[ケン・アナキン]]。
*[[戦場よ永遠に]](任務を超えて Hell to eternity 1960年 米映画)・・・監督[[フィル・カールソン]]、鶴子最後の出演作。
*[[大津波]](The big wave 1961年 日本公開1962年 日米合映画)・・・監督[[カーク・ダニエルスキー]]。
*[[熱い血の男]](1966年 日本映画)・・松竹、監督[[梅津明治郎]]
*[[ボスは俺の拳銃で]](1966年 日本映画)・・・東映、監督[[村山新治]]
*[[純情二重奏]](1967年 日本映画)・・・松竹、監督[[梅津明治郎]]、作曲界の大御所田島役、雪洲最後の出演映画。
 
1948年12月31日、雪洲はパリを発ち、年明けの[[1949年]]元日にニューヨークに到着した{{Sfn|中川|2012|pp=280-281}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=227-231}}。16年ぶりにアメリカの地を踏んだ雪洲は、日本が3年前までアメリカの交戦国だった事情で、反日感情や人種差別から石でもぶつけられることを覚悟していたが、多くのアメリカ人や映画関係者からは歓迎を受け、『ニューヨーク・タイムズ』も雪洲のハリウッド復帰を大々的に報じた{{Sfn|鳥海|2013|pp=227-231}}{{Sfn|早川|1959|p=186}}{{Sfn|垣井|1992|p=155}}。『東京ジョー』の撮影中、ボガートは常に雪洲のために気を遣い、演技には決してケチをつけず、雪洲のブランクを忘れさせるように元気づけた{{Sfn|野上|1986|pp=184-185}}。雪洲は自伝で「大へん愉快に仕事をすることができた」と述べている{{Sfn|早川|1959|p=186}}。雪洲は続いて、[[20世紀フォックス]]作品『{{仮リンク|三人帰る|en|Three Came Home}}』(1949年)で[[クローデット・コルベール]]と共演し、日本軍の[[捕虜収容所]]所長の陸軍大佐を演じた{{Sfn|鳥海|2013|pp=227-231}}。この演技は高い評価を受け、戦後の代表作『[[戦場にかける橋]]』の収容所長役へとつながる役柄となった{{Sfn|鳥海|2013|pp=227-231}}{{Sfn|垣井|1992|p=156}}。
== 参考文献 ==
 
*中川織江 『セッシュウ!世界を魅了した日本人スター・早川雪洲』 [[講談社]]、2012年、ISBN 406-2179156
==== 再び日本で活動 ====
*大場俊雄 『早川雪洲 房総が生んだ国際俳優』 崙書房〔ふるさと文庫201〕、2012年 ISBN 978-4845502011
[[File:Hayakawa Sessue - eiga no tomo 1952-11.jpg|thumb|left|180px|1952年の雪洲(『[[映画の友]]』取材時)。]]
*野上英之 『聖林(ハリウッド)の王 早川雪洲』 [[社会思想社]]、1986年 ISBN 978-4390602921
1949年、『三人帰る』の撮影を終えた雪洲は、ちょうどアメリカを訪問していた[[大映]]社長の[[永田雅一]]に帰国を勧められ、10月に約13年ぶりに日本の土を踏んだ{{Sfn|鳥海|2013|pp=236-240}}。雪洲は大映と出演契約を結び、[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]監督の『遥かなり母の国』(1950年)に出演した{{Sfn|野上|1986|pp=193, 201}}。日本映画の水準を高めることに意欲を燃やす永田は、雪洲主演で[[広島市への原子爆弾投下]]を題材にした日米合作映画『ヒロシマ』を企画していたが、自らの独立プロダクションで作ろうと考えていた雪洲と思惑がすれ違い、実現しなかった{{Sfn|中川|2012|pp=302-304}}。続いて雪洲は、[[ヴィクトル・ユゴー]]の代表作を明治時代の日本を舞台に置き換えて映画化した『[[レ・ミゼラブル#映画|レ・ミゼラブル あゝ無情]]』(1950年)で、ジャン・バルジャンに相当する主人公を演じた{{Sfn|中川|2012|pp=302-304}}。
*『早川雪洲 〜武者修行世界を行く〜』 [[日本図書センター]]〈人間の記録〉、1999年、ISBN 482-0543334 - 実業之日本社、1959年刊の改版復刻
 
*鳥海美朗『鶴子と雪洲 ハリウッドに生きた日本人』 海竜社、2013年、ISBN 978-4759313383
日本に腰を落ち着けた雪洲は、映画以外の分野にも進出した。[[1952年]]には「めでたや食品株式会社」の副社長となり、[[徳川夢声]]や[[高峰三枝子]]などの芸能人を集めて「芸能人のそば屋」を立ち上げた。雪洲は銀座に「早川雪洲の店」、日本橋に「高峰三枝子の店」というように芸能人が1軒店を持つチェーン展開を考えていたが、これが実現することはなかった{{Sfn|中川|2012|pp=306-308}}。[[1953年]]の[[文化の日]]には、[[吉川英治]]、[[丹羽文雄]]、[[久保田万太郎]]、[[和田英作]]、[[喜多村緑郎]]、[[志村喬]]などの文化人たちとの出資で、日本初の文化人の相互補助機関となる「文化信用組合」を設立し、雪洲が初代会長に就任したが、私生活の女性問題などによりわずか1年で辞めてしまい、組合自体も3年で業務停止となった{{Sfn|中川|2012|pp=306-308}}。
 
その後も雪洲は日本で映画出演を続け、『悲劇の将軍 山下奉文』(1953年)や『[[日本敗れず]]』(1954年)といった[[戦争映画]]で本領を発揮した{{Sfn|野上|1986|pp=203-204}}。前者では[[山下奉文]]を演じ、その風格ある演技が高く評価された{{Sfn|中川|2012|pp=306-308}}。後者はアメリカ時代の雪洲の弟子だった[[阿部豊]]が監督した作品で、雪洲は[[阿南惟幾]]がモデルの陸軍軍人を演じ、その演技も高く評価された{{Sfn|野上|1986|pp=203-204}}{{Sfn|中川|2012|pp=306-308}}。雪洲はこれらの作品で、中年の威厳のある容貌を活かした悲劇の軍人役がはまり役となり、その後も貫禄のある役柄を演じることが増えた{{Sfn|中川|2012|pp=306-308}}。[[1955年]]には東京ロケが行われた[[サミュエル・フラー]]監督のアメリカ映画『[[東京暗黒街・竹の家]]』の警部役で再び国際的な舞台に立ったが、この作品も不正確な日本の描写で批判され、雪洲は『チート』以来付きまとっていた国辱映画俳優の烙印を再び押された{{Sfn|野上|1986|pp=203-204}}。
 
==== 『戦場にかける橋』 ====
[[File:The Bridge On The River Kwai (1957) - Trailer.webm|thumb|right|thumbtime=2:15|300px|『[[戦場にかける橋]]』(1957年)の予告編。]]
[[1956年]]、雪洲は[[帝国ホテル]]に滞在していたイギリスの映画プロデューサーの[[サム・スピーゲル]]から、ハリウッドの大作映画『[[戦場にかける橋]]』の出演依頼を受けた{{Sfn|中川|2012|pp=309-310}}。雪洲が演じるのは日本軍捕虜収容所所長の斉藤大佐という重要な役であり、監督の[[デヴィッド・リーン]]は『悲劇の将軍 山下奉文』を観て雪洲の演技を気に入り、斉藤大佐役は雪洲以外に考えられないと思ったという{{Sfn|鳥海|2013|p=244}}{{Sfn|野上|1986|pp=205-206}}。スピーゲルから渡された脚本を読んだ雪洲は、ジャングルが舞台で、女優が登場せず、日本人とイギリス人の軍人の男2人が鉄道橋建設をめぐり対立する物語に魅力を感じず、いったんは出演を断ろうとしたが、鶴子に「きっといい映画になる」と言われ、それから何度も脚本を読んで見ると雪洲もだんだんそんな気がしてきて、出演を決心したという{{Sfn|中川|2012|pp=309-310}}{{Sfn|野上|1986|pp=205-206}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=247-248}}。ギャラは最初の10週間で2万ドルだった{{Sfn|中川|2012|pp=309-310}}。
 
雪洲は[[スリランカ]]の山奥での長期ロケに参加したが、それは困難を極め、娯楽もなく、女もいない男だけの殺伐とした環境と、夜も気温が下がらないほどの蒸し暑さには辟易した{{Sfn|野上|1986|pp=208-212}}。完成した作品は[[1957年]]に公開されると好評を博し、興行的にも高い成功を収め、雪洲の演技も「武士道を貫く日本軍人をよく演じた」と批評家に高く評価された{{Sfn|鳥海|2013|pp=247-248}}{{Sfn|野上|1986|pp=208-212}}。作品は[[第30回アカデミー賞]]で[[アカデミー作品賞|作品賞]]など7部門を受賞し、雪洲も[[アカデミー助演男優賞|助演男優賞]]にノミネートされたものの、受賞には至らなかった{{Sfn|野上|1986|pp=208-212}}。また、雪洲は[[第15回ゴールデングローブ賞]]の[[ゴールデングローブ賞 助演男優賞|助演男優賞]]にもノミネートされ<ref>{{Cite web |url=https://www.goldenglobes.com/person/sessue-hayakawa |title=Sessue Hayakawa |website=Golden Globes |publisher=HFPA |accessdate=2022-3-17}}</ref>、[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]では[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 助演男優賞|助演男優賞]]を受賞した<ref>{{Cite web |url=https://nationalboardofreview.org/award-years/1957/ |title=1957 Award Winners |website=National Board of Review |accessdate=2022-3-17}}</ref>。雪洲にとって『戦場にかける橋』は人生最大の評価を受けた作品となり{{Sfn|野上|1986|pp=205-206}}、鳥海が「日本の中高年世代なら、雪洲といえば『戦場にかける橋』を思い出す人が少なくないだろう」と述べているように、多くの人が雪洲のイメージとしてまず頭に思い浮かべるような代表作となった{{Sfnm|1a1=野上|1y=1986|1p=16|2a1=鳥海|2y=2013|2p=11}}。
 
==== キャリア末期 ====
[[File:Sessue Hayakawa in Hell to Eternity trailer.jpg|thumb|left|200px|『{{仮リンク|戦場よ永遠に|en|Hell to Eternity}}』の予告編のスクリーンショット(1960年)。]]
『戦場にかける橋』で再び脚光を浴びた雪洲は70歳を超えていたものの、再び国際スターとして活躍し、日本とアメリカを行き来しながら映画やテレビ、舞台に出演した{{Sfn|野上|1986|pp=213-216}}{{Sfn|中川|2012|pp=318, 321-324, 336}}。[[1958年]]2月から9月までのアメリカの長期間滞在中には、[[ジェリー・ルイス]]主演の[[底抜けシリーズ]]の1本『[[底抜け慰問屋行ったり来たり]]』(1958年)に出演し、その次には[[オードリー・ヘプバーン]]主演の『[[緑の館 (映画)|緑の館]]』(1959年)で先住民の酋長役を演じた{{Sfn|野上|1986|pp=213-216}}。映画以上にテレビへの出演依頼が相次ぎ、そのうち[[テレビ番組|テレビシリーズ]]『{{仮リンク|クラフト・テレビジョン・シアター|en|Kraft Television Theatre}}』のエピソード「灼熱の孤島」(1958年)では、アメリカ兵と無人島にたった2人で睨み合う日本兵を演じて高い評価を受けた{{Sfn|野上|1986|pp=208-212}}{{Sfn|Miyao|2007|p=279}}。また、この滞在中に雪洲はアメリカでテレビの製作プロダクションを作ることを計画したが、実現はしなかった{{Sfn|野上|1986|pp=213-216}}{{Sfn|中川|2012|pp=318, 324}}。
 
[[1959年]]には日本で自伝『武者修行世界を行く』を出版し、その記念パーティーには300人を超す著名人が参加した{{Sfn|中川|2012|pp=322-324}}{{Refnest|group="注"|出版記念パーティーの発起人に名を連ねている主な人物には、[[吉田茂]]、[[東久邇宮稔彦王]]、[[三木武夫]]、[[藤山愛一郎]]、[[正力松太郎]]、[[石橋正二郎]]、[[榎本健一]]、[[徳川夢声]]、[[岡本太郎]]、[[東郷青児]]、[[近衛秀麿]]、[[服部良一]]、[[山田耕筰]]、[[藤原義江]]、[[三島由紀夫]]、[[江戸川乱歩]]、[[大佛次郎]]、[[尾崎士郎]]、[[吉屋信子]]、[[八田一朗]]、[[浪越徳治郎]]がいる{{Sfn|中川|2012|pp=322-324}}。}}。翌[[1960年]]には自身をスターにした恩人であるインスとデミルに捧げた英文自伝『ゼン・ショード・ミー・ザ・ウェイ』を出版した{{Sfn|中川|2012|pp=206, 403}}。この年にはハリウッド映画『{{仮リンク|戦場よ永遠に|en|Hell to Eternity}}』に日本軍司令官役で出演し、妻の鶴子も出演した{{Sfn|野上|1986|pp=213-216}}。この年以降、雪洲はよほど経済的に困りでもしない限り、めったに仕事をしなくなり、出演本数は次第に減少した{{Sfn|野上|1986|pp=217-219}}。当時の雪洲は[[太平洋テレビジョン]]に所属し、[[1964年]]には独立プロダクションを経営していた経験を買われて同社の芸能局長に就任し、国際市場への進出を念頭に置く会社の方針に沿って、テレビ制作やタレントの養成を担当した{{Sfn|鳥海|2013|pp=264-269}}。[[1965年]]には[[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]の『[[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]』に[[武田信玄]]役で出演した{{Sfn|鳥海|2013|pp=270-272}}。80歳を過ぎた[[1967年]]の『純情二重奏』が最後の映画出演{{Sfn|野上|1986|pp=217-219}}、翌[[1968年]]の『[[日本剣客伝]]』が最後のテレビ出演となった{{Sfn|中川|2012|pp=342-344}}。
 
== 私生活 ==
=== 青木鶴子との結婚 ===
[[File:Sessue Hayakawa & Tsuru Aoki - Jan 1922 Photoplay.jpg|thumb|right|180px|雪洲と鶴子(1922年)。]]
雪洲が[[青木鶴子]]と出会った経緯については、さまざまな説がある{{Sfn|中川|2012|pp=37-38}}。鳥海によると、1913年に雪洲が舞台『タイフーン』の上演を企画し、英語が話せる日本人俳優を探そうとロサンゼルスの演劇学校を訪れた時に鶴子と知り合い、それからお互いに惹かれ、親しい間柄となったという{{Sfn|鳥海|2013|pp=65-67}}。中川と野上によると、2人が『タイフーン』以前から在米日本人同士またはロサンゼルスの演劇仲間たちとの親睦会を通して知り合いになっていたという説があるという{{Sfn|中川|2012|pp=37-38}}{{Sfn|野上|1986|pp=58-59}}。鶴子は『[[婦人公論]]』1931年1月号で、21歳頃に養父で画家の{{仮リンク|青木年雄|en|Toshio Aoki}}の絵を見るために何度も出入りしていた雪洲と親しくなったと述べている{{Sfn|中川|2012|pp=37-38}}。インスに『タイフーン』の舞台を観るように勧め、雪洲の映画界入りのきっかけを作ったのも鶴子だった{{Sfn|中川|2012|pp=99-100}}。その後、2人は映画での共演が続いたこともあり、急速に距離が縮まり、1914年4月14日にロサンゼルス郡役所に婚姻届を提出し、5月1日に結婚式を挙げた{{Sfn|大場|2012|p=81}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=70-74}}。2人が正式に日本へ婚姻を届け出たのは1920年のことである{{Sfn|大場|2012|p=81}}。
 
雪洲と鶴子は、[[1961年]]に鶴子が亡くなるまで夫婦であり続けた{{Sfn|野上|1986|pp=60, 62, 107}}。結婚後も雪洲と鶴子は映画で共演したが、鶴子はスターとして多忙を極める夫を家庭で支えるため、1920年代に実質的に女優を引退した{{Sfn|鳥海|2013|pp=75, 100, 120}}。鶴子は常に家庭を守り、雪洲の仕事をあらゆるところから支え、雪洲がどれほど女遊びをしようと、大金を使おうと、結局はそれを許してくれるような人物だった{{Sfn|野上|1986|pp=217-219}}。雪洲の方もそんな鶴子にはあらゆる点で頭が上がらず、誰よりも鶴子を信頼し、尊敬し、女遊びをしても鶴子が死ぬまでは一度も離婚を考えなかった{{Sfn|野上|1986|pp=60, 62, 107}}。[[森岩雄]]によると、黙り屋の雪洲とおしゃべりで明るい性格の鶴子は、「正反対な性格ゆえ補い合って素晴らしいカップル」だという{{Sfn|中川|2012|p=149}}。結婚記念日には、2人が一緒にいない時は必ず電報で祝い、鶴子の誕生日には毎年のように指輪やネックレスをプレゼントした{{Sfn|中川|2012|p=227}}。2人の間に子供は生まれなかったが、雪洲は愛人との間に3人の子供を産ませており、3人とも鶴子の手で育てられている{{Sfn|中川|2012|pp=46, 114}}。
 
=== グレンギャリ城での生活 ===
ハリウッドのスターとして絶頂期にいた雪洲夫妻は、結婚以来[[バンガロー]]で暮らしていたが、1917年にはハリウッドのアーガイル通りと{{仮リンク|フランクリン通り|en|Franklin Avenue (Los Angeles)}}の交差点の一角に、「グレンギャリ城(またはアーガイル城)」と呼ばれる大きな邸宅を購入した{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=7-10, 88-90}}。もともと雪洲は自分で豪邸を建設するつもりだったが、日本人の土地所有を禁じる[[カリフォルニア州外国人土地法|外国人土地法]]に阻まれ、やむを得ず売りに出されていたこの邸宅を購入したという{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}。グレンギャリ城は[[スコットランド]]風の城のような4階建ての石造りの建物で、32室もの部屋があった{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=7-10, 88-90}}。正面玄関は道路から前庭の10段ほどの階段を登ったところにあり、左右には大理石の雌雄のライオン像があった{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=7-10, 88-90}}。内装は古い時代の宮殿風で、東洋の壺や[[ペルシア絨毯]]、イタリアのアンティーク家具など、世界中の調度品や古美術品が置かれた{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}。グレンギャリ城の豪壮さは、当時のハリウッドのスターの豪邸がかすんでしまうほどで、観光バスがわざわざ邸宅の前で停車するほどの名所になったという{{Sfn|野上|1986|pp=93-94}}。
 
雪洲夫妻は7人の召使いを雇い、[[ピアース・アロー]]や[[キャデラック]]など4台の車を所有した。運転手は後に写真家して知られる[[宮武東洋]]が務めた。また、雪洲の内弟子だった[[阿部豊]]や[[牛山清人]]、{{仮リンク|ジョージ・桑|en|George Kuwa}}らがグレンギャリ城に住み込んだ{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}。雪洲はロサンゼルス市長などの名士をグレンギャリ城に招き、数百人が入れる大広間で、少なくとも週に1度は盛大なパーティーを開いた{{Sfn|野上|1986|pp=93-94}}。アメリカ巡業に来ていたオペラ歌手の[[三浦環]]を紹介するために、600人以上の招待客を集めてカクテル・パーティーを開いたこともあり、あまりの賑やかさに近くのコンサート会場と勘違いした団体客がやって来たという逸話もある{{Sfn|野上|1986|pp=93-94}}{{Sfn|中川|2012|pp=131-133}}。雪洲夫妻の豪奢な暮らしぶりは、当時のハリウッドのスターの中でも群を抜いており、アメリカの白人の間でも評判になるほどだった{{Sfnm|1a1=野上|1y=1986|1p=95|2a1=フィルムセンター|2y=1993|2pp=15-16}}。夫妻の私生活はたびたび映画雑誌などで報じられ、まさに一挙手一投足が注目を浴びるようなスター夫婦となった{{Sfn|鳥海|2013|pp=7-10, 88-90}}<ref>{{Cite book|editor=Jennifer M. Bean |date=2011 |title=Flickers of Desire: Movie Stars of the 1910s |publisher=Rutgers University Press |page=107}}</ref>。
 
雪洲がグレンギャリ城を購入し、豪華なパーティーを開いたのは、当時のアメリカ社会における日本人の立場を反映したものだった{{Sfn|鳥海|2013|pp=91-95}}。排日ムードが高まっていたアメリカでは、日本人が野蛮で生活程度が低く、社交性も欠けている民族だと認識されていた{{Sfn|鳥海|2013|pp=91-95}}{{Sfn|野上|1986|pp=15, 96-97}}。こうした背景があり、雪洲は「まわりにいるアメリカ人たちに、日本人もアメリカ人と同じ水準の贅沢な生活をするんだぞ、と見せてやりたかった」ため、豪華な生活をしたと主張している{{Sfn|鳥海|2013|pp=91-95}}。実際にグレンギャリ城はアメリカに住む日本人の誇りになり、それまでいわれのない差別を受けて肩身の狭い思いをしていた日系人たちは、雪洲の豪華な生活ぶりをねたむより、むしろグレンギャリ城を見て大いに勇気づけられ、雪洲の心意気をわがものとして、道の真ん中を歩くことができるようになったと伝えられている{{Sfn|中川|2012|pp=131-133}}{{Sfn|野上|1986|pp=15, 96-97}}。
 
グレンギャリ城には、[[チャールズ・チャップリン]]や[[ルドルフ・ヴァレンティノ]]といったスターもよく訪れていた{{Sfn|中川|2012|pp=131-133}}。チャップリンは朝、撮影所へ向かう途中にグレンギャリ城に気軽に立ち寄り、コーヒーを飲みにきたという{{Sfn|鳥海|2013|pp=7-10, 88-90}}{{Sfn|中川|2012|pp=131-133}}。チャップリンと雪洲は近所の友人であり、生年が近く、天ぷらが大好物だという共通点があった{{Sfn|鳥海|2013|pp=7-10, 88-90}}{{Sfn|中川|2012|p=283}}。1949年に『東京ジョー』の撮影で渡米した時には、チャップリンと16年ぶりの対面を果たし、旧交を温めている{{Sfn|中川|2012|p=283}}。一方、ヴァレンティノはグレンギャリ城に遊びに来て、雪洲にダンス、鶴子にイタリア料理を教えたという{{Sfn|中川|2012|pp=131-133}}。ほかにも多くの映画関係者や各種分野の著名人たちが出入りし、日本領事館もグレンギャリ城の応接間を迎賓館がわりに使っていた{{Sfn|中川|2012|pp=131-133}}。
 
雪洲夫妻はハリウッドを離れる1922年頃までグレンギャリ城で暮らし、ヨーロッパに活動拠点を移したあとの1923年11月に邸宅を売却した{{Sfn|大場|2012|pp=136-137}}。その3年後にグレンギャリ城はユダヤ人に買い取られ、[[ユダヤ教]]の寺院の教育本部になったが{{Sfn|中川|2012|pp=199-201}}、のちに{{仮リンク|ハリウッド・フリーウェイ|en|Hollywood Freeway}}が敷地の上を通ることになったため、その建設に伴い取り壊された{{Sfn|野上|1986|pp=15, 96-97}}{{Sfn|大場|2012|pp=171-172}}。その後、ハリウッドの丘の上にある日本料理店「{{仮リンク|山城歴史地区|label=山城|en|Yamashiro Historic District}}」が雪洲の邸宅と混同されることがあったが、これはドイツ人絹商人のバーンハイマーが別荘として建設した東洋風建築の建物であり、西洋風建築のグレンギャリ城とは全く関係はない{{Sfn|野上|1986|pp=15, 96-97}}{{Sfn|中川|2012|pp=199-201}}。
 
=== 家族・女性関係 ===
[[File:Hayakawa in New York c. 1960.jpg|thumb|left|180px|ニューヨークで客室乗務員の女性とともに(1960年)。]]
雪洲は[[プレイボーイ]]として知られ、妻がいながらも幾度となく女性関係を取り沙汰された{{Sfn|中川|2012|pp=46, 114}}{{Sfn|野上|1986|p=106}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=190-195}}。雪洲の息子の早川雪夫によると、鶴子との間に子供ができなかったのは、「ほかの女と遊ぶのに忙しくて、鶴子を愛する時間がなかった」からだという{{Sfn|中川|2012|pp=46, 114}}。雪洲のプレイボーイぶりは、1910年代にハリウッドで活躍していた時分からで、若い女優たちとの火遊びが噂に上り{{Sfn|野上|1986|p=106}}、三浦環ともロマンスを噂されたこともあった{{Sfn|野上|1986|pp=93-95}}。雪洲と共演経験のある女優の[[ベッシー・ラヴ]]も、雪洲のことを「女たらし」と呼んでいる{{Sfn|宮尾|2009|p=298}}。
 
アメリカの女優ルース・ノーブルとの関係は、単なる女遊びでは済まされない問題となった{{Sfn|鳥海|2013|pp=173-175, 181}}。ルースは1926年に雪洲が舞台『馬賊の王子』を全米巡業した時に、雪洲の相手役として鶴子が見つけてきた10代のイギリス国籍の新人女優だった{{Sfn|中川|2012|pp=211-217}}。雪洲はルースと関係をもち、1929年1月にルースは雪洲との間にできた男児を出産した{{Sfn|鳥海|2013|pp=173-175, 181}}{{Sfn|中川|2012|p=222}}。その子は雪洲の名を一字とって、雪夫と名付けられたが{{Sfn|鳥海|2013|pp=173-175, 181}}、ルースは排日感情が激しいアメリカで日本名を付けることは不都合だと考え、出生証明書にはアレキサンダー・ヘイズという名前で記載された{{Sfn|大場|2012|pp=151-155}}。雪洲は愛人との間に子供ができたことをすぐに鶴子に知らせることができず、後にこれを知った鶴子は離婚も考えたが、雪洲の「雪夫をルースにあずけておくことはできない」という一言で離婚を取りやめ、雪夫を引き取ることにした{{Sfn|鳥海|2013|pp=173-175, 181}}{{Sfn|中川|2012|p=222}}。雪洲の心もすぐにルースから離れた{{Sfn|鳥海|2013|pp=173-175, 181}}。
 
1931年、雪洲が『龍の娘』の撮影でアメリカに滞在した時、ルースは雪夫を雪洲の養子とすることに承認していたが、わが子への愛情を断ち切ることができなかったこともあり、養子取り戻し訴訟を起こした{{Sfn|大場|2012|pp=151-155}}{{Sfn|中川|2012|pp=243-245}}。約6か月にわたる裁判の末、雪夫の親権は雪洲夫妻にわたり、雪洲がルースに慰謝料を払うことで解決した{{Sfn|中川|2012|pp=243-245}}。翌1932年に雪洲は日本で仕事をするため帰国し、鶴子は雪夫を育てるためアメリカに残ったが、きちんと話をつけたにもかかわらず、ルースから「雪夫を返せ」と執拗に迫られたため、雪夫を連れて帰国した{{Sfn|鳥海|2013|pp=184-186}}。しかし、その間にも雪洲は[[新橋 (東京都港区)|新橋]]の芸者だった17歳のシズという女性と愛人関係になり、[[大森 (大田区)|大森]]に家を借りて同棲していた{{Sfn|中川|2012|pp=246-249}}。鶴子と雪夫の帰国後、雪洲は家族3人で[[渋谷区|渋谷]]の大きな家で暮らしたが、それからも雪洲は大森の家に通い、自宅と愛人宅を行き来する生活を続けた{{Sfn|中川|2012|pp=246-249}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=190-195}}。また、1932年と1934年には子供を追いかけるようにしてルースが来日し、雪夫との面会を求めた{{Sfn|鳥海|2013|pp=190-195}}。シズとの間には、1934年(1933年説もある)に長女の令子(よしこ)、1935年に次女の冨士子が生まれた{{Sfnm|1a1=大場|1y=2012|1pp=157-158|2a1=中川|2y=2012|2pp=249-250|3a1=鳥海|3y=2013|3p=197}}。1936年に雪洲が渡仏したあと、鶴子はシズに頼まれて令子と冨士子を引き取ることになり、戦後に雪洲が帰国するまで女手一つで3人の子供を育てた{{Sfn|鳥海|2013|pp=202-203, 209}}。
 
フランス滞在中の雪洲は、『ヨシワラ』で共演した女優の[[田中路子]]と恋愛関係になった{{Sfn|中川|2012|pp=260-263}}。路子も[[プレイガール]]として知られ、雪洲と出会った時はドイツ人の富豪{{仮リンク|ユリウス・マインル2世|de|Julius Meinl II.}}の妻でありながら、劇作家の[[カール・ツックマイヤー]]らと浮名を流していた{{Sfn|野上|1986|pp=158-165}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=199-201}}。雪洲はそんな路子を見て「外国でこれほど自由奔放に生きる日本人女性はいない」と思い、路子の方も外国でも物怖じしない雪洲に強く惹かれた{{Sfn|鳥海|2013|pp=199-201}}。雪洲は「妻とは別居中」と路子をごまかし、[[16区 (パリ)|パリ16区]]で同棲生活を始めた{{Sfn|中川|2012|pp=260-263}}。2人の恋愛はヨーロッパで有名になり、日本でも世紀の不倫として伝えられた{{Sfn|野上|1986|pp=158-165}}。しかし、恋愛観や男女関係の理想についてお互いが正反対の考えを持っていたことや、雪洲と愛人との間に子供がいることを路子が知ったことで、2人の関係は破綻に向かった{{Sfn|中川|2012|pp=260-263}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=199-201}}。さらにルースがパリまで雪洲を追いかけて来て、雪洲を挟んで愛人同士が鉢合わせしたことが決定打となり、路子は雪洲と見切りをつけた{{Sfn|中川|2012|pp=260-263}}。
 
1949年10月、雪洲がアメリカを経て日本へ帰国し、鶴子、雪夫、令子、冨士子の家族全員と初めて顔を合わせた{{Sfn|中川|2012|p=289}}。その後、一家は[[千葉県]][[市川市]]の大きな借家で暮らし{{Sfn|鳥海|2013|pp=236-240}}、1953年頃には鶴子に迷惑をかけたお詫びとして、渋谷の[[初台]]にある元軍人の邸宅を購入して移住したが、その間にも雪洲と新しい女性との関係が取り沙汰された{{Sfn|中川|2012|p=305}}。[[1961年]]にはルースが再び50万ドルを請求する父権認知訴訟を起こしたが、1931年に雪洲夫妻がルースと話をつけた際の書類を鶴子がきちんと保管していたおかげで、雪洲は訴訟を切り抜けることができた{{Sfn|野上|1986|pp=217-219}}{{Sfn|鳥海|2013|p=262}}。同年10月、鶴子は急性腹膜炎のため71歳で亡くなり、雪洲は大きな喪失感に襲われた{{Sfnm|1a1=中川|1y=2012|1pp=331-332|2a1=鳥海|2y=2013|2p=263}}。
 
鶴子の没後も、雪洲の女性に対する興味は旺盛なままだった{{Sfn|鳥海|2013|pp=270-272}}。鶴子の三回忌が済んだ1964年12月、78歳の雪洲は38歳年下の渡辺黙子(しずこ)と再婚した{{Sfn|鳥海|2013|pp=270-272}}{{Sfn|中川|2012|pp=337-339}}。黙子は雪洲の友人である日本舞踊家の[[吾妻徳穂]]の高弟で、吾妻秀穂を名乗っていた{{Sfn|中川|2012|pp=337-339}}。2人は鶴子の生前から関係があり{{Sfn|鳥海|2013|pp=270-272}}、1959年にはニューヨークの舞台で共演していた{{Sfn|中川|2012|pp=368-388}}。結婚して最初の2年間は渡辺家の事情で別居し、冨士子の家で暮らす雪洲は両親と住む黙子の家とを行き来していたが、それでも黙子の目を盗んで、若い娘とデートを重ねていたという{{Sfn|中川|2012|pp=337-339}}{{Sfn|野上|1986|p=222}}。
 
息子の雪夫は[[放送作家]]となり、雪洲と同じ太平洋テレビジョンに所属し、雪洲が[[米内光政]]役で主演した『激浪』などのテレビドラマで脚本を書いた{{Sfn|鳥海|2013|pp=264-269}}。1980年代に雪夫は渡米し、ロサンゼルスで『[[羅府新報]]』などの仕事に関わったあと、[[1997年]]からロサンゼルスの日系文芸同人誌『新植林』に雪洲の伝記「ハリウッド・スター伝説 セッシュウ・ハヤカワ〈天国と地獄〉」を連載し、[[2001年]]に死去した{{Sfn|中川|2012|pp=361-362}}{{Sfn|鳥海|2013|pp=276-280}}。長女の令子は女優の道へ進み、大映の[[ニューフェイス]]などを経て[[文学座]]の研究生となり、1958年には[[三島由紀夫]]夫妻の仲人で文学座座員の[[有馬昌彦]]と結婚したが、その後離婚を経て[[ニュージーランド]]に移住した{{Sfn|野上|1986|pp=32, 195}}{{Sfn|中川|2012|p=318}}。次女の冨士子は子役として『レ・ミゼラブル あゝ無情』で雪洲と共演し、周囲から女優としての将来を期待されたが、その後は女優をやめて[[バレリーナ]]の道へ進み{{Sfn|野上|1986|pp=32, 195}}、1963年に結婚した{{Sfn|野上|1986|p=220}}。
 
== 晩年と死 ==
1967年、雪洲は[[今村昌平]]監督の映画『[[神々の深き欲望]]』の出演オファーを受けた。これは太平洋テレビジョンに所属していた息子の雪夫のもとに、同じ会社に所属する[[三國連太郎]]が主演する映画に雪洲が出演してはどうかと持ち込まれたものだった{{Sfn|鳥海|2013|pp=270-272}}{{Sfn|野上|1986|pp=231-233}}。雪洲が演じる役は、近親相姦で村人から忌み嫌われている南海の孤島の一家の老家長であり{{Sfn|鳥海|2013|pp=270-272}}、雪夫は脚本を読むと、私生活で何度も女性問題を起こした雪洲には適役だと考え、雪洲の出演を強く薦めた。撮影は[[石垣島]]での厳しい長期ロケとなるため、後妻の黙子は80歳を過ぎた雪洲の体力を心配して反対したが、雪洲は息子の要求に応えようと出演を引き受けた{{Sfn|中川|2012|pp=342-344}}。雪洲は黙子に付き添われて撮影に加わったが、体力的にかなり困難なものとなった。風呂もない民宿での滞在にも耐えきれず、黙子はスタッフやキャストの前で雪洲が恥をかかぬよう、懸命にカムフラージュに努めた{{Sfn|野上|1986|pp=231-233}}。撮影は台風でセットが全壊したことで中断され、いったん全員が東京へ戻ることになったが、その後撮影が再開されても、雪洲にだけその知らせが届くことはなく、事実上の降板となった。雪洲の代役は[[嵐寛寿郎]]が演じた{{Sfn|中川|2012|pp=342-344}}。
 
これ以降、雪洲は俳優業をすることはなく、黙子と同居生活を送っていたが、だんだんと体力は衰えていき、黙子が懸命に雪洲を介護した{{Sfn|中川|2012|pp=346-347}}。晩年の6年ほどは脳軟化症を患い{{Sfn|野上|1986|pp=30-31}}、1968年には痴呆を宣告され、何度も病院に入院するようになった{{Sfn|中川|2012|pp=346-347}}{{Sfn|野上|1986|pp=234-237}}。[[1972年]]までに体力は極度に落ち、手足も思うように動かせなくなった{{Sfn|野上|1986|pp=234-237}}。同年6月には廊下でつまずいて左大腿骨を打ち、内出血と高熱のため、7月10日に[[神田駿河台]]にある杏雲堂病院に入院した{{Sfn|中川|2012|pp=346-347}}。それからも入退院を繰り返し、黙子は雪洲の介護をし続けた{{Sfn|野上|1986|pp=234-237}}。翌[[1973年]]11月5日に杏雲堂病院に再入院し、11月23日午後10時30分に急性肺炎のため87歳で亡くなった{{Sfn|野上|1986|pp=30-31}}{{Sfn|中川|2012|pp=348-349}}。葬儀は25日に近親者のみで行われ、[[東久邇宮稔彦王]]から生花を贈られた{{Sfn|中川|2012|pp=334, 352}}。戒名は顕優院釈雪舟大居士{{Sfn|野上|1986|pp=234-237}}。鶴子の一周忌の際に[[松陰神社]]境内の霊園に建立した墓に、雪洲は鶴子とともに眠っている{{Sfn|中川|2012|pp=334, 352}}。
 
== 人物 ==
=== 容姿・体格 ===
[[File:Sessue HayaKawa by Witzel.jpg|thumb|right|180px|1918年の雪洲。]]
雪洲は当時の日本人男性としては大男の部類に入る方だったと伝えられている{{Sfn|野上|1986|p=77}}。雪洲自身は身長を172センチメートルまたは173センチメートルを自称しており{{Sfn|中川|2012|pp=134-135}}{{Sfn|野上|1986|p=77}}、1917年の『米国映画名優写真集』では身長170センチメートルと記載されている{{Sfn|中川|2012|p=396}}。しかし、1907年に雪洲が渡米した時に乗船した船の乗客名簿には、雪洲の身長が5フィート6インチ(約168センチメートル)と記載されており、同船した日本人男性24人の中で6番目に背が高かった。大場はそのことから、雪洲が大男とは言い難いと指摘している{{Sfn|大場|2012|p=48}}。一方で中川は、当時の日本人男性の標準からすると、身長168センチは決して低くはないと述べている{{Sfn|中川|2012|p=85}}。日本の映画業界では、箱馬などの踏み台に乗って背を高くすることを「[[セッシュ]]」と呼ぶが、これはハリウッドのスターに比べて身長が低かった雪洲が{{Refnest|group="注"|野上は、『東京ジョー』で雪洲がハンフリー・ボガートと並んで写っているスチル写真を見て、177センチのボガートよりかなり小さいと述べている{{Sfn|野上|1986|p=77}}。}}、踏み台に乗って演技をしたことが由来とされている{{Sfn|中川|2012|p=85}}<ref>{{Cite book|和書 |author= |date=2012-5 |title=現代映画用語事典 |publisher=キネマ旬報社 |isbn=978-4873763675 |page=84}}</ref>。
 
雪洲は少年時代から端正な顔立ちをしていた{{Sfn|中川|2012|p=65}}。顔が大きいことでも知られ、脚本家の[[舟橋和郎]]は雪洲に会った印象について「大きく立派な顔だった」と述べている。中川は、兄の音治郎の葬式の時の集合写真を見て、雪洲の顔が他の人たちと比べて飛びぬけて大きいと指摘している{{Sfn|中川|2012|p=97}}。額に[[ほくろ]]があることも特徴的で、1922年に雪洲が初帰国した時の『[[読売新聞]]』の記事の見出しには「お馴染みのほくろを見せて雪洲氏」と書かれていたが、大場が調べたところによると、雪洲の[[ブロマイド]]でほくろが写っているものは多くないという{{Sfn|大場|2012|p=48}}。
 
雪洲は剣道で日々鍛錬を重ねていたこともあって身体が鍛えられており、そのおかげで70歳を過ぎても肉体的に若々しかった{{Sfn|鳥海|2013|pp=270-272}}{{Sfn|野上|1986|pp=30-31}}{{Sfn|中川|2012|pp=147, 203, 209, 310}}。『悲劇の将軍 山下奉文』を見て雪洲を『戦場にかける橋』に起用した[[デヴィッド・リーン]]は、雪洲が[[山下奉文]]を演じた際、貫禄のある山下の姿に似せるべく、軍服の下に肉(または湯たんぽ)を入れて演技をしていたことを知らず、戦地の軍人を演じる俳優が腹の出た中年太りでは困るとして、『戦場にかける橋』に出演する時は10キロほど体重を落とすように命じたが、実際の雪洲は日々鍛えていたおかげで腹が出ていなかったという{{Sfn|中川|2012|pp=309-310}}{{Sfn|野上|1986|pp=205-206}}。また、雪洲は1926年頃にニューヨークで出会った[[野口英世]]から、「あなたは血が非常に清潔過ぎる」と診断され、それ以来「私の血は清すぎる」とあちこちで言っていたという{{Sfn|中川|2012|p=80}}。
 
=== 人柄 ===
雪洲は明治男の心意気や、当時の日本男児のイメージを代表するような人物であり{{Sfn|垣井|1992|p=94}}、終生自分のキャラクターを武人に近づけようと努力していた{{Sfn|野上|1986|pp=36-37}}。後妻の黙子によると、雪洲はとても優しい人で、自分を騙した人を怒ることさえしないような根っからの善人だったという{{Sfn|野上|1986|pp=33-34}}。雪洲と接した人物の多くは、雪洲の印象を「威張っているような人」のようだと思っていたが、黙子によると、雪洲は長いアメリカ生活のせいもあり、お愛想を言うなどの日本的な社交ができず{{Sfn|野上|1986|pp=30-31}}、白黒はっきりとものを言うような人物であり、例えば、映画に友情出演する話が来ても、普通の日本人俳優なら引き受けるところを、雪洲は「ランクが下がる」と言ってきっぱりと拒否したという{{Sfn|野上|1986|pp=217-219}}。
 
雪洲は図太い神経の持ち主で{{Sfn|野上|1986|pp=129-132}}、何事にも物怖じしなかった{{Sfn|野上|1986|p=47}}。欧米で活動していても、外国人相手に臆することがなく、周囲の日本人が驚くほど堂々としていた{{Sfn|野上|1986|pp=40-42}}。また、負けず嫌いな性格でもあった{{Sfn|鳥海|2013|pp=91-95}}。[[関操]]が「雪洲は学校のように時間割りを決めてそのとおりに行動する」と述べているように、怠けることを嫌い、規則的な生活を送ることを良しとする人物でもあり{{Sfn|中川|2012|p=146}}、ハワース・ピクチャーズ時代は「水曜日は演技研究をする」「木曜日はファンレターを読む」「日曜日は鶴子と過ごす」というように、曜日ごとに過ごし方を決めていた{{Sfn|中川|2012|pp=147-148}}。その一方で、雪洲にはずぼらで、世間知らずなところがあり{{Sfn|野上|1986|pp=33-34}}、雪夫も「経済観念がないっていわれているけど、それはけっこうあったと思う」と述べている{{Sfn|野上|1986|pp=217-219}}。
 
雪洲は自分のやりたいことにはとても熱心だったが、そのかわり嫌いなことは何一つしなかった。仕事にはとても熱心で、黙子は「仕事以外のところは大きな子供」のようだったと述べている{{Sfn|野上|1986|pp=33-34}}。野上は「いったん仕事に入った雪洲は、楽しく面白い男ではなかった」と述べているが、雪洲は人一倍稽古にうるさく{{Sfn|野上|1986|pp=139, 141-144}}、演技でも妥協はせず、納得するまで何回もやり直して完璧を求めた{{Sfn|中川|2012|pp=302-304}}。しかし、そのようなやり方は日本の撮影現場の勝手とは異なるため、『レ・ミゼラブル あゝ無情』の撮影では現場が混乱し、「口やかましくてかなわない、早くアメリカに帰ってくれ」と陰口を囁かれ、監督の[[マキノ雅弘]]は雪洲の名前をもじって「早ようから殺生」と言っていたという{{Sfn|中川|2012|pp=302-304}}。
 
=== 趣味嗜好・特技 ===
[[File:Sessue Hayakawa - Jan 1921 EH.jpg|thumb|left|140px|ゴルフをする雪洲(1921年)。]]
雪洲は運動神経がよく、[[剣道]]や[[ダンス]]を得意とするスポーツ万能な人物であり、アメリカ時代は自家用の[[セスナ]]も操縦した{{Sfn|中川|2012|pp=147-148}}。1917年の『米国映画名優写真集』では趣味が[[水泳]]、[[乗馬]]、[[柔道]]と記されている{{Sfn|中川|2012|p=396}}。剣道は4段の腕前で{{Sfn|野上|1986|p=148}}、1921年にはハリウッドの学校で師範役を務め、1930年にはニューヨーク剣道倶楽部の発会式で模範試合をした{{Sfn|大場|2012|p=174}}。ダンスに関しては、1925年頃のフランス滞在中に[[アルゼンチン・タンゴ]]に熱中した。この時に雪洲は愛用したアルゼンチン・タンゴのレコードをダンス仲間の[[目賀田綱美]]にあげ、目賀田はそれを携えて日本に帰国したが、これが日本に初めて持ち込まれたタンゴのレコードとなった{{Sfn|中川|2012|p=209}}。1930年代に日本で活動した時は[[野球]]に熱中し、『国を護る者日蓮』の撮影の合間には、日蓮の衣装を着たまま野球に興じていた{{Sfn|中川|2012|pp=246-249}}。[[ゴルフ]]もアメリカ時代から晩年まで続けるほど熱心で、70歳を過ぎてもシングルの腕前だった{{Sfn|鳥海|2013|pp=91-95}}。
 
雪洲は絵を描くのも得意とした。子供の頃はスケッチブックを持って通りがかりの人たちの姿を早描きしていた。小学校の得意科目はもちろん図画で、卒業時の絵はお手本として長い間講堂に飾られていた{{Sfn|中川|2012|p=60}}。1907年にダコタ号が座礁した時には、その様子を[[水彩|水彩画]]で描いており、それは地元民の描く難破船の記録絵画として貴重な作品となっている{{Sfn|中川|2012|p=75}}。雪洲はこの作品の署名として「金涛」という[[雅号]]を記しており、それは渡米後の1918年頃まで使用した{{Sfn|大場|2012|pp=32-33}}。第二次世界大戦後のパリで絵を描いて生活していた時は、デリケートな線画で松竹梅や花鳥風月を描き、中川はその絵を「達者ながら情緒的」と評している{{Sfn|中川|2012|pp=268-271}}。1949年にはロサンゼルスで絵画展を開いている{{Sfn|中川|2012|p=283}}。水彩画以外にも墨絵や書の揮毫をよくし、自分で詠んだ[[俳句]]を短冊に書いたりもした{{Sfn|大場|2012|p=174}}。
 
遊びが大好きだった雪洲は{{Sfn|野上|1986|pp=93-95}}、とくに賭け事を好んだが{{Sfn|中川|2012|pp=206-208}}、博打自体には大した才能がなかった{{Sfn|野上|1986|pp=158-165}}。1920年代にニューヨークに滞在した時には、いかさま博打で一晩のうちに3万ドルを損したことがあった{{Sfn|野上|1986|pp=113-116}}。1925年3月には[[モンテカルロ]]のカジノでバカラ賭博をして、500万フランもの大金をすってしまった。その翌日には別の日本人の投身自殺者と間違われて、新聞に「雪洲、賭博に負け、モンテカルロで自殺」という誤報が流れてしまい、身投げ現場と報じられた断崖は観光のバスガイドが「雪洲の身を投げたところ」と説明するほどの名所になってしまったという。雪洲は1925年3月15日付けの『羅府新報』で「賭博に負けたのは事実であるが自殺など思いも寄らんことだ。賭博は大打撃でその話をするさえ辛い」と述べているが、それで決して懲りたわけではなく、その後も賭け事を続け、競馬場に頻繁に通った{{Sfn|中川|2012|pp=206-208}}。
 
雪洲の英語は決してうまいわけではなく、鶴子のように完璧な英語を話すことは生涯できなかったといわれている{{Sfn|野上|1986|pp=127-128}}。映画研究者のスティーブン・ゴンは、鶴子は英語でほぼ完璧に自分の意思を伝達することができたのに対して、雪洲が話す英語からはかなり強い日本訛りが抜けなかったと指摘している{{Sfn|鳥海|2013|pp=116-117}}。雪夫も、雪洲の英語をジャパニーズ・イングリッシュと呼んでいるが、『戦場にかける橋』ではそのおかげで日本人の斉藤大佐役の英語のセリフにリアリティがあると指摘し、「もし、斉藤大佐が流暢な英語を使ったとしたら、映画が嘘っぽくなる」と述べている{{Sfn|鳥海|2013|p=250}}。一方、長いアメリカ生活のせいもあって、日本語も英語訛りなところがあり{{Sfn|中川|2012|pp=249, 350}}、『映画時代』1930年11月号における舞台『天晴れウオング』の批評では「日本人として日本人らしい台詞のできないのは困る」と批判されている{{Sfn|中川|2012|pp=229-230, 232}}。
 
== 評価 ==
=== 人気 ===
[[File:Sessue Hayakawa - Sep 1919 EH.jpg|thumb|right|180px|アメリカの映画業界紙『''[[:en:Motion Picture Herald|Exhibitors Herald]]''』に掲載された雪洲の宣伝広告(1919年)。]]
雪洲は日本初の国際的な映画スターと見なされている{{Sfn|中川|2012|p=7}}。雪洲はキャリアの最初の10年間で、アメリカとヨーロッパの映画で主演男優としてスターの地位を確立した最初の[[アジア系民族|アジア系]]俳優となり<ref name="obit"/><ref name="Lee 2011"/><ref name="screenworld"/>、中川は1920年代まで「西洋の映画で名を知られている東洋人は雪洲ひとり」だったと指摘している{{Sfn|中川|2012|p=203}}。日本映画専門家のジャスパー・シャープは、アジア系どころか[[有色人種|非白人]]全体においても、雪洲が最初に国際的なスターの座を獲得した俳優であり、それゆえに「歴史的に非常に重要な俳優」であると述べている<ref>{{Cite book|last=Sharp |first=Jasper |date=2011 |title=Historical Dictionary of Japanese Cinema |publisher=Scarecrow Press |page=78 |isbn=978-0810857957}}</ref>。映画研究者の岡島尚志は、雪洲が「世界の映画史上最大の日本人スターであるといっても過言ではない。また、逆説的だが、アメリカ映画の最初のスターの1人は日本人だったという言い方もできる」と述べている{{Sfn|フィルムセンター|1993|p=31}}。
 
1910年代のアメリカでは、[[チャールズ・チャップリン]]、[[ダグラス・フェアバンクス]]、{{仮リンク|ウィリアム・S・ハート|en|William S. Hart}}と匹敵する知名度と大きな人気を獲得していた{{Sfn|宮尾|1996|pp=227-228}}{{Sfn|野上|1986|pp=93-95}}{{Sfn|垣井|1992|p=66}}。当時の映画ファンの間では「悲劇のハヤカワ、喜劇のチャップリン、西部劇のハート」が合言葉となり{{Sfn|中川|2012|pp=128-130}}、1917年の『{{仮リンク|デトロイト・ジャーナル|en|Detroit Journal}}』紙の上映広告では、雪洲の主演作がチャップリンやハートの作品と並べて「マンモス級三本立て」と宣伝された{{Sfn|宮尾|1996|pp=227-228}}{{Sfn|宮尾|2009|p=298}}。1916年の『[[シカゴ・トリビューン]]』紙では「早川雪洲が先週の人気投票で第1位となった」と報じられ、1918年の映画ファン雑誌『{{仮リンク|モーション・ピクチャー・マガジン|label=モーション・ピクチャー・ストーリー・マガジン|en|Motion Picture Magazine}}』の人気投票では男女優合わせて総合44位に選ばれた{{Sfn|宮尾|1996|pp=227-228}}。また、いくつものアメリカの映画雑誌では表紙を飾った{{Sfn|宮尾|1996|pp=227-228}}。ヨーロッパでも高い人気を獲得しており、例えば、1922年にスイスの映画評論誌が発表したスターの人気投票では「悲劇男優部門」のトップに選ばれ{{Sfn|垣井|1992|p=90}}、1925年にフランスの『カンデット』紙が発表した「世界の映画俳優」の人気投票では12位に選ばれた{{Sfn|中川|2012|p=203}}。
 
雪洲の人気は日本よりも海外での方が高かった{{Sfn|中川|2012|p=203}}。日本人からは、『チート』などの作品が冷酷無情な日本人という悪いイメージを与えたとして評判が悪かったため、雪洲は日本国内で長年にわたり「国辱俳優」と見なされ続け、高い人気を得ることができなかった{{Sfn|野上|1986|pp=22-25}}<ref>{{Cite book|和書 |author=和田博文 |date=2004-2 |title=パリ・日本人の心象地図 1867-1945 |publisher=藤原書店 |isbn=978-4894343740 |page=61}}</ref>。雪洲の主演映画は1918年から日本で輸入公開されたが、いくつかの作品は上映禁止となっている{{Sfn|野上|1986|pp=113-116}}。雪洲が自身の映画会社を興して成功を収めたあと、雪洲を国民的および人種的な恥と見なすマスコミの否定的な論調は少なくなり、その代わりに雪洲の映画での業績を強調し始め、「国民の誇り」と見なすようになった{{Sfn|宮尾|2009|p=311}}<ref>{{Cite book|editor=Jennifer M. Bean |date=2011-8 |title=Flickers of Desire: Movie Stars of the 1910s |publisher=Rutgers University Press |pages=111-112 |isbn=978-0813550152}}</ref>。それでも後期の出演映画も、ナショナリズムの時代に「アメリカ化され過ぎていた」と見なされたため、日本での人気は高まらなかった<ref name="japantimes">{{cite news|last=Richie |first=Donald |date=2007-08-12 |url=https://www.japantimes.co.jp/culture/2007/08/12/books/lauded-in-the-west-ignored-in-the-east/ |title=Lauded in the West, ignored in the East |work=The Japan Times |accessdate=2013-4-1}}</ref>。
 
宮尾大輔は、雪洲がサイレント映画時代にハリウッドで大スターの地位を獲得していたという事実にもかかわらず、現代において雪洲の名前は「多くの日本人にとってかなり馴染みの薄いもの」であり、雪洲の名前を聞いたことがある人にとっても、そのイメージは『戦場にかける橋』の日本軍の老司令官役にほとんど限られていると述べている{{Sfn|宮尾|2009|p=298}}。野上英之は、雪洲が大スターであってもよい作品には恵まれておらず、サイレントからトーキーにかけて長い俳優生活を送りながらも、『戦場にかける橋』以外に映画史に残るような名作はほとんどなかったと述べている{{Sfn|野上|1986|pp=22-25}}。岡島尚志も、戦後生まれの世代の人たちは、『戦場にかける橋』を例外にすれば、ほとんど雪洲の映画を知らないと述べている{{Sfn|フィルムセンター|1993|p=31}}。
 
=== マチネー・アイドルとして ===
[[File:Bonds of Honor (1919) - Ad 1.jpg|thumb|left|180px|ハワース・ピクチャーズ作品『{{仮リンク|桜の光|en|Bonds of Honor}}』(1919年)のポスター。]]
雪洲は[[二枚目]]といわれ、野上は若い時の雪洲の容貌について「どこか[[エルヴィス・プレスリー]]に似ている。プレスリーをもっと白面の紳士にしたような雰囲気で、たしかに女性が好む顔立ちである」「知性と甘さと男らしさがほどよくミックスされた、完璧に近い美男子である」と評している{{Sfn|野上|1986|pp=74-75}}。そんな雪洲はアメリカ時代の1910年代に、白人女性の間で{{仮リンク|マチネー・アイドル|en|Matinée idol}}として熱狂的に支持された{{Sfn|鳥海|2013|pp=80-83}}{{Sfn|野上|1986|pp=74-75}}。マチネー・アイドルとは、女性向けの性的魅力を持つ男性エンターテイナーのことで、女性たちが夫や恋人と夜を過ごす代わりに、昼間(マチネーは昼間興行を指す)にスクリーン上で愛を分かち合う相手を意味している{{Sfn|宮尾|1996|pp=227-228}}{{Sfn|野上|1986|pp=74-75}}。雪洲の運転手をしていた[[宮武東洋]]は、当時の雪洲の女性ファンからの人気ぶりについて次のように証言している。
 
{{Quote|早川雪洲。今世紀最大の映画スターです。彼の登場は嬉しかったな。日本人の男なんか相手にされない時代にね、さっそうと現れたんですよ。…白人の女性がね、日本人の男に、あなた、身を投げ出すのです。…車が劇場に着くでしょう、プレミアショーかなんかのね、彼が下りたところが運悪く水溜まりでしてね、それで雪洲がちょっと困った顔をしたんですね。するとね、十重二重と取りかこんでいた女性たちがね、みんなわれ先にと着ている毛皮のコートを雪洲の足元に敷くのですよ、彼の足を汚してはいけないとね{{Sfn|野上|1986|p=14}}。}}
 
マチネー・アイドルとしての雪洲は、端正な顔立ちに加えて、東洋の神秘性や[[エキゾチシズム]]を体現する魅力的な存在であり、『チート』の白人女性を誘惑する残忍な日本人のように、悪や脅威の対象となる役柄で[[タイプキャスト]]された{{Sfnm|1a1=垣井|1y=1992|1p=78|2a1=フィルムセンター|2y=1993|2p=14|3a1=宮尾|3y=1996|3pp=230-236|4a1=鳥海|4y=2013|4pp=82-83}}。宮尾は、雪洲には洗練され理知的で、神秘的にうつる魅力的な人物のイメージと、[[タブー]]とされたアメリカ白人の[[雑婚]](異人種間結婚)に対する恐怖を体現する性的脅威のイメージという「二重性」のイメージが与えられ、それによりマチネー・アイドルになることを可能にしたと指摘している{{Sfn|宮尾|1996|pp=230-236}}。その背景としては、1910年代のアメリカ人の日本や日本人に対するイメージとして、黄禍論や排日運動に裏打ちされる悪や経済的脅威としてのイメージと、物質的な豊かさと洗練された文化を持つイメージの2つが同時に存在していたことが挙げられており、映画史家の{{仮リンク|ロバート・スクラー|en|Robert Sklar}}も雪洲がスターになれたのは「日本人に対する二面的なイメージを表現できたからである」と述べている{{Sfn|宮尾|1996|pp=233-235}}。また、宮尾は、雪洲に性的魅力や性的脅威を与えた背景に関して、当時のアメリカ映画で白人女性が非白人の男性に性的に誘惑されたり脅威にされたりする題材がしばしば登場したことを指摘している{{Sfn|宮尾|1996|pp=235-236}}{{Refnest|group="注"|例えば、『[[國民の創生]]』(1915年)では、奴隷解放後の黒人が好色な人物として、白人女性を性的脅威にさらす姿が描かれている{{Sfn|宮尾|1996|pp=235-236}}。}}。
 
アメリカの白人女性にとって、こうした二重性のイメージを持つ雪洲はこれまでに見たことのないタイプの男性であり、彼に不思議な魅力を感じた{{Sfn|鳥海|2013|pp=80-83}}{{Sfn|中川|2012|pp=115-116}}。『チート』の公開当時の批評では、「ハヤカワがアメリカ人女性にもたらした影響には、美しく、野性的な異人種の男性とのセックスを体験したいという隠れた衝動、マゾヒズムが伴っていた」と述べられている{{Sfn|鳥海|2013|pp=80-83}}。スティーブン・ゴンは、雪洲の作品の多くは最後にヒロインを諦める設定であり、アメリカ女性たちがこのような物語を通じて「違う人種の男性との恋愛という禁断の木の実の味を味わった」と述べている{{Sfn|フィルムセンター|1993|p=15}}。また、ゴンは雪洲のこのような役柄から「何事にも秀でた東洋人が白人のヒロインと恋に落ち、結末で彼女らのために自らを犠牲にする」というハリウッドの新しい[[ステレオタイプ]]が作り出されたと指摘している。宮尾も同様に、雪洲が中国人王子を演じた『{{仮リンク|伝説の祭壇|en|Li Ting Lang}}』(1920年)以降は、「認められぬ異人種間恋愛のため自己を犠牲にするアジア人男性」というイメージでタイプキャストされたと指摘している{{Sfn|宮尾|1996|pp=238-239}}。
 
中川織江によると、雪洲がスターになったことで、ハリウッドでは白人スター路線を方向転換して、エキゾチックでセクシーな男優を発掘し始めるようになったという{{Sfn|中川|2012|pp=123-124}}。そこで登場したのがイタリア人男優の[[ルドルフ・ヴァレンティノ]]であり、彼も情熱的で性的魅力があり、時には邪悪ですらあるような役柄を演じた{{Sfn|中川|2012|pp=123-124}}{{Sfn|宮尾|1996|pp=240-241}}。中川は、雪洲とヴァレンティノがサイレント映画時代のセクシーな「異国の男」のシンボルであったと述べている{{Sfn|中川|2012|pp=123-124}}。ヴァレンティノはその時代を代表する男性アイドル俳優として名前がよくあがり、セックスシンボルの草分けといわれることもあるが{{Sfn|鳥海|2013|pp=79-80}}、雪洲はヴァレンティノの先輩にあたる{{Sfn|野上|1986|pp=74-75}}。そのため映画史家のマーク・ワナメーカーは、雪洲が最初のハリウッドの男性の[[セックスシンボル]]であり、ヴァレンティノはその2番目であると指摘している{{Sfn|鳥海|2013|pp=79-80}}。
 
=== 人種の障壁 ===
[[File:The Man Beneath (1919) - 2.jpg|thumb|right|180px|ハワース・ピクチャーズ作品『{{仮リンク|男の血|en|The Man Beneath}}』(1919年)の広告。雪洲はこの作品でインド人の博士を演じた{{Sfn|中川|2012|pp=368-388}}。]]
中川は、排日感情が高まっていた1910年代のアメリカにおいて、雪洲は「白人と互角に主役を張って、アメリカ社会に根を下ろしたただひとりの日本人俳優」だったと評している{{Sfn|中川|2012|pp=134-135}}。垣井は、雪洲が鶴子とともに「良くも悪くもアメリカ人の日本人に対するイメージの原型を創った」と述べている{{Sfn|垣井|1992|pp=79-80}}。1918年の『ムービング・ピクチャー・ワールド』誌には「早川の役柄は彼の人種の代表で、彼の民族を(米国人が)理解するのに貢献している」と書かれており、宮尾もアメリカで「俳優個人としての早川に与えられたイメージが日本人の象徴と見なされた」と指摘している{{Sfn|宮尾|1996|p=237}}。しかし、それゆえに雪洲の作品は、ステレオタイプ的な描写で日本人の誤ったイメージを与えているとして、日本人から強く批判された{{Sfn|宮尾|1996|p=237}}{{Sfn|フィルムセンター|1993|p=14}}。1922年に『[[キネマ旬報]]』は、雪洲の主演映画全般を「白色人種特に米人等に了解できぬ為か彼の取扱ふ東洋精神は常に浅薄なものである」と批判した{{Sfn|宮尾|1996|p=237}}。
 
白人社会のハリウッドにおいて、[[モンゴロイド|黄色人種]]のアジア人俳優は悪役や白人俳優を引き立てる脇役を演じることしかできず、白人スターと同じような役柄で扱われることがほとんどなかった{{Sfn|宮尾|1996|pp=227-228}}{{Sfn|垣井|1992|pp=78-79}}<ref name="saltz">{{cite news|first=Rachel |last=Saltz |url=https://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9907E3DC143BF934A3575AC0A9619C8B63 |title=Sessue Hayakawa: East And West, When The Twain Met |date=2007-09-07 |publisher=NYTimes.com |work=[[The New York Times]] |accessdate=2022-4-1}}</ref>。雪洲は[[上山草人]]や[[アンナ・メイ・ウォン]]をはじめとする[[戦間期]]の非白人の人気俳優の中で、マチネー・アイドルとして主役を張れたただひとりの俳優ではあったものの、あくまでも正義のヒーローではなくて悪役でスターになった{{Sfn|宮尾|1996|pp=227-228}}{{Sfn|垣井|1992|pp=78-79}}。中川は、排日ムードが濃くなる時代では、黄色人種は悲劇的に描かれなければならなかったと指摘している{{Sfn|中川|2012|pp=115-116}}。また、当時のアメリカ人から見て、日本人は中国人などの他の非白人と同じように扱われたため、雪洲も他の日本人俳優と同様に、日本人以外の非白人を何度も演じた{{Sfn|中川|2012|pp=123-124}}{{Sfn|宮尾|1996|pp=238-239}}。さらに、1922年に作られ始めた映画製作者の自主倫理規定[[ヘイズ・コード]]によって、映画で異人種間結婚を描くことが禁じられたため、それ以後は雪洲のステレオタイプな役柄を与えること自体が制度的に不可能となった{{Sfn|宮尾|1996|pp=240-241}}。
 
=== 演技 ===
[[File:The Cheat (1915) - 1.jpg|thumb|left|『チート』(1915年)での雪洲の抑制された演技は批評家から賞賛され、フランスでも映画俳優の原型と高く評価された{{Sfn|中川|2012|pp=123-124}}{{Sfn|宮尾|1996|p=236}}。]]
1910年代のサイレント映画時代の雪洲は、[[クローズアップ]]の映画技法が多用し始められた当時に求められつつあった、動きを抑制した自然な演技という新しい映画の演技スタイルを確立した俳優のひとりとして評価されている{{Sfn|宮尾|1996|p=236}}{{Sfn|野上|1986|p=73}}。初期の映画では、大げさな身振りや表情で演技をするのが当たり前だったが、雪洲は動きを抑え、表情も「凍てついた顔」と呼ばれるほど抑えて、内面的な演技を見せた{{Sfn|宮尾|1996|p=236}}{{Sfn|佐藤|1985|p=266}}{{Sfn|野上|1986|p=73}}。宮尾は、この演技スタイルを「自制と抑制」と呼び、雪洲がその先駆かつ模範であると述べている{{Sfn|宮尾|1996|p=236}}。フランスの社会学者[[エドガール・モラン]]も、1910年代後半に抑制された演技を見出した俳優として、[[アドルフ・マンジュー]]、[[エーヴ・フランシス]]、[[リリアン・ギッシュ]]、[[ノーマ・タルマッジ]]らとともに雪洲の名前を挙げている{{Sfn|佐藤|1985|p=266}}。
 
雪洲は自身の抑制された演技を[[歌舞伎]]の[[腹芸]]と称し{{Refnest|group="注"|腹芸は心理表現のさいに、台詞や動作などで表面に出さず、内面的に抑えて静的な演技をすることをいう{{Sfn|中川|2012|pp=141-142}}<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E8%82%9A%E8%8A%B8%28%E8%85%B9%E8%8A%B8%29-1196750 |title=肚芸(腹芸) |website=コトバンク |work=世界大百科事典 第2版 |accessdate=2022-3-31}}</ref>。}}、[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]の芸を手本にしていることを明言した{{Sfn|野上|1986|p=73}}{{Sfn|中川|2012|pp=141-142}}。腹芸になぞらえた雪洲の演技は新鮮なものとして受け止められ、批評家たちもその演技を支持し、雪洲は性格俳優としての評価を得た{{Sfn|垣井|1992|pp=78-79}}{{Sfn|野上|1986|p=73}}{{Sfn|中川|2012|pp=141-142}}。とくに『チート』での演技は、[[ルイ・ドゥリュック]]などのフランスの映画批評家から絶賛され<ref>{{Cite book|和書 |author= |date=2010-8 |title=映画史を読み直す |publisher=岩波書店 |series=日本映画は生きている |page=111 |isbn=978-4000283922}}</ref>、[[佐藤忠男]]曰く「表情を抑えた『凍てついた顔』のクローズ・アップこそが演劇では得られない映画的表現なのだ、という啓次」を彼らに与えた{{Sfn|佐藤|1985|p=266}}。モランも、映画の演技は「『チート』の雪洲の凍てついた顔で始まった」と述べている{{Sfn|佐藤|1985|p=266}}。1920年代には雪洲の抑制された自然な演技も目新しいものではなくなり、1922年の『朱色の画筆』の演技も「自然で正統的ではあるがわざとらしい」と批判された{{Sfn|宮尾|1996|pp=240-241}}。一方、映画史研究者の佐崎順昭は、雪洲が『戦場にかける橋』で「抑制された演技によって日本武士道のイメージを定着させた」と評している<ref name="世界映画大事典"/>。
 
日本でも、1910年代後半に映画雑誌『キネマ・レコード』の若い執筆者たちは、歌舞伎などの演劇の模倣に過ぎなかった当時の日本映画を、外国映画のスタイルや製作技術を真似して近代化することを主張していたこともあり、雪洲を当時の日本人俳優よりも映画的な演技をする俳優と高く評価した{{Sfn|宮尾|2009|p=311}}。野上によると、日本では多くの場合、演技者としての雪洲の評価はかなり低く、世界的な大スターであることは認めても、優れた演技をする名優と考える映画関係者はほとんどいなかったという{{Sfn|野上|1986|pp=22-25}}。しかし、日本で名優と呼ばれた俳優たちは、雪洲の貫禄と演技に圧倒されたという{{Sfn|野上|1986|pp=139, 141-144}}。演劇界の名優と呼ばれた[[井上正夫]]も、舞台『天晴れウオング』で共演した時に、つかみどころのない雪洲の演技に恐れ感心し、その底力に脱帽したことを明かしている{{Sfn|野上|1986|pp=22-25}}。フランスの名優と謳われた[[ルイ・ジューヴェ]]も同じようことを語っており、『フォルフェテュール』で共演した時に、雪洲の能面のような表情の演技に圧倒され、雪洲の前では自分の演技がひどく卑小に思えてしまい、通常の演技ができなくなってしまったという{{Sfn|野上|1986|pp=22-25}}{{Sfn|早川|1959|pp=193-195}}。
 
=== 称賛とレガシー ===
[[File:Walk of fame, sessue hayakawa.JPG|thumb|right|[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]の雪洲の星。]]
雪洲は生前にさまざまな栄誉を受けた。1923年5月には『ラ・バタイユ』の出演の功績をたたえて、フランス政府から芸術勲章オフィシアル・ド・アカデミーを贈られた{{Sfn|中川|2012|pp=191-192}}。1958年には[[ニューヨーク|ニューヨーク市]]から[[名誉市民]]の鍵を贈られた{{Sfn|中川|2012|pp=311-312}}。1960年には[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]で映画産業への貢献に対して星を獲得し、ハリウッドのバイン通り1645番地に雪洲の名前と映画カメラの型が刻まれた星型のプレートが敷き込まれている<ref name="walk"/>{{Sfn|大場|2012|pp=168-170}}。日本では、1952年に日本映画功労賞を受賞し、1960年に[[紫綬褒章]]、1966年に[[勲四等]][[旭日小綬章]]を授けられた{{Sfn|中川|2012|pp=402-403}}。
 
1925年に[[モーリス・ラヴェル]]が発表した[[オペラ]]『[[子供と魔法]]』の第1部で登場人物のひとりの中国茶碗が歌う「ティータイムのフォックストロット」では、雪洲の名前が歌詞に使われている<ref>{{Cite web |author=近藤秀樹 |date=2018-7-14 |url=http://www.lib.wakayama-c.ed.jp/nanki/event/minilec/pdf/2018_07_14minilecNo29.pdf |title=ラヴェルと日本とフォックストロット |format=PDF |website=[[和歌山県立図書館]] |accessdate=2022-3-30}}</ref>。[[1988年]]には日本で雪洲の生涯を題材にした[[ミュージカル]]『SESSUE 雪洲』が上演され、[[中村雅俊]]が雪洲を演じた<ref>{{Cite web |author=鈴木貞夫 |url=https://fv1.jp/suzukisadao/200908.html |title=『サンチェーンミュージカル・中村雅俊「雪洲」』公演 |website=Food Voice |accessdate=2022-4-1}}</ref>。1990年代に映画監督の[[大島渚]]は、雪洲の生涯を題材にした伝記映画『ハリウッド・ゼン』の製作を計画し、雪洲役には[[坂本龍一]]を起用することを検討していたが、製作費を調達することができず頓挫した<ref>{{Cite journal|和書 |author=[[大島渚]] |date=2009-3 |title=『ハリウッド・ゼン』はなぜ実現できなかったか |journal=大島渚著作集 第4巻 敵たちよ、同志たちよ |publisher=[[現代思潮新社]] |isbn=978-4329004628 |pages=178-195}}</ref>。
 
[[1997年]]、ロサンゼルスで雪洲の回顧展が開催され、雪洲の公私にわたる写真や撮影に使用した小道具などが展示された{{Sfn|中川|2012|pp=361-362}}。[[2007年]]9月にも[[ニューヨーク近代美術館]]で回顧展「''Sessue Hayakawa: East and West, When the Twain Met''」が開催され、16本のサイレント映画と2本のトーキーが上映された<ref name="saltz"/>。[[2020年]]にはアメリカのアジア系アメリカ人の歴史に焦点を当てた[[公共放送サービス]](PBS)のドキュメンタリー・シリーズ『''[[:en:Asian Americans (documentary series)|Asian Americans]]''』で雪洲の生涯が取り上げられた<ref>{{Cite web |last=Lopez |first=Kristen |date=2020-5-12 |url=https://www.indiewire.com/2020/05/pbs-asian-americans-documentary-1202230675/ |title=‘Asian Americans’: PBS Documentary Compels Viewers to Honor and Remember |website=IndieWire |accessdate=2022-4-1}}</ref>。雪洲の出演作品のうち『チート』『蛟龍を描く人』『戦場にかける橋』の3本は、[[アメリカ議会図書館]]によって[[アメリカ国立フィルム登録簿]]に「文化的・歴史的・芸術的に重要な映画」として保存されている<ref>{{Cite web |url=https://www.loc.gov/programs/national-film-preservation-board/film-registry/complete-national-film-registry-listing/ |title=Complete National Film Registry Listing |website=Library of Congress |accessdate=2022-4-1}}</ref>。
 
雪洲の永続的なレガシーは、とくに[[アジア系アメリカ人]]コミュニティにとって大きなものである<ref>{{Cite book|editor1=Gina Masequesmay |editor2=Sean Metzger |date=2010 |title=Embodying Asian/American Sexualities |publisher=Lexington Books |page=67 |isbn=978-0739129043}}</ref><ref>{{Cite book|author=Rachael Miyung Joo |date=2012 |title=Transnational Sport: Gender, Media, and Global Korea |publisher=Duke University Press |page=284 |isbn=978-0822348566}}</ref>。しかし、アメリカ映画史研究において、雪洲はほとんど無視されてきた{{Sfn|宮尾|1996|p=229}}。2010年にメディア専門家のカーラ・レイ・フラーは、「アジア系アメリカ人として先例となる早川のハリウッドでのキャリアで注目すべきことは、彼が映画史やスターの研究で事実上無視されているということです。…さらに、早川が自身の映画会社を設立して経営したという稀なレベルの成功に達した事実は、ハリウッドの歴史の物語における早川に関する記述の省略をさらにひどいものにした」と主張している<ref>{{Cite book|author=Karla Rae Fuller |date=2010 |title=Hollywood Goes Oriental: CaucAsian Performance in American Film |publisher=Wayne State University Press |page=22 |isbn=978-0814334676}}</ref>。宮尾も1996年に、数多いアメリカ映画史研究書に雪洲の名前はほとんど登場せず、雪洲だけに焦点を当てた研究書や論文は存在しないと指摘している{{Sfn|宮尾|1996|p=229}}。宮尾は[[2007年]]に雪洲の映画のキャリアに関する最初の主要な研究書『''[[:en:Sessue Hayakawa: Silent Cinema and Transnational Stardom|Sessue Hayakawa: Silent Cinema and Transnational Stardom]]''』を刊行した<ref>{{cite journal|last=Freiberg |first=Freda |date=15 November 2008 |title=Sessue Hayakawa: Silent Cinema and Transnational Stardom by Daisuke Miyao |journal=Asian Studies Review |volume=32 |issue=4 |pages=542–543 |doi=10.1080/10357820802492594}}</ref>。
 
== 出演作品一覧 ==
=== 映画 ===
特記がない限り、以下の一覧と情報は『セッシュウ! 世界を魅了した日本人スター・早川雪洲』の「雪洲が出演した映画、舞台、テレビ」{{Sfn|中川|2012|pp=368-388}}、『聖林の王 早川雪洲』の「早川雪洲作品一覧」{{Sfn|野上|1986|pp=248-253}}、『''Sessue Hayakawa: Silent Cinema and Transnational Stardom''』の「''Filmography''」{{Sfn|Miyao|2007|pp=333-336}}に基づく。
{| class="wikitable plainrowheaders sortable" style="font-size:90%; margin-right:0; width:95%"
|-
! scope="col"|年
! scope="col"|{{ublist|邦題|原題}}
! scope="col"|国
! scope="col"|製作会社
! scope="col"|役名
! scope="col" class="unsortable"|備考
|-
|rowspan="18"|1914年||{{ublist|[[おミミさん]]|''[[:en:O Mimi San|O Mimi San]]''}}||アメリカ||ドミノ・フィルム・カンパニー||ヨロトモ{{Sfn|Miyao|2007|pp=51, 54}}||実質的な雪洲の映画デビュー作、短編映画
|-
|{{ublist|[[コートシップ・オブ・オーさん]]|''[[:en:The Courtship of O San|The Courtship of O San]]''}}||アメリカ||ドミノ・フィルム・カンパニー||||短編映画
|-
|{{ublist|[[ゲイシャ (1914年の映画)|ゲイシャ]]|''[[:en:The Geisha (1914 film)|The Geisha]]''}}||アメリカ||ケー・ビー・ピクチャーズ||タクラ<ref>{{cite book|title=Griffithiana|year=1992|publisher=Cineteca D.W. Griffith|page=47|issue=44–46}}</ref>||短編映画
|-
|{{ublist| [[アンバサダーズ・エンボイ]]|''The Ambassador's Envoy''}}||アメリカ||ドミノ・フィルム・カンパニー||||短編映画
|-
|{{ublist|[[トラジディ・オブ・ザ・オリエント]]|''[[:en:A Tragedy of the Orient|A Tragedy of the Orient]]''}}||アメリカ||ブロンコ・フィルム・カンパニー||||短編映画
|-
|{{ublist|[[リリック・オブ・オールド・ジャパン]]|''[[:en:A Relic of Old Japan|A Relic of Old Japan]]''}}||アメリカ||ドミノ・フィルム・カンパニー||コト<ref>{{Cite journal|date=1914 |title=Motion Picture |volume=8|publisher= |page=161}}</ref>||短編映画
|-
|{{ublist|[[神々の怒り]]|''[[:en:The Wrath of the Gods (1914 film)|The Wrath of the Gods]]''}}||アメリカ||ドミノ・フィルム・カンパニー{{Sfn|フィルムセンター|1993|pp=45-46}}||ヤマキ男爵{{Sfn|フィルムセンター|1993|pp=45-46}}||別邦題表記は『神の怒り』『火の海』
|-
|{{ublist|[[スター・オブ・ザ・ノース]]|''[[:en:Star of the North|Star of the North]]''}}||アメリカ||ドミノ・フィルム・カンパニー||インディアン<ref name="indian"/>||短編映画
|-
|{{ublist|[[カース・オブ・ザ・カースト]]|''[[:en:The Curse of Caste|The Curse of Caste]]''}}||アメリカ||ドミノ・フィルム・カンパニー||||短編映画
|-
|{{ublist|[[ビレッジ・ニース・ザ・シー]]|''[[:en:The Village 'Neath the Sea|The Village 'Neath the Sea]]''}}||アメリカ||ドミノ・フィルム・カンパニー||インディアン<ref name="indian"/>||短編映画
|-
|{{ublist|[[デス・マスク]]|''[[:en:The Death Mask|The Death Mask]]''}}||アメリカ||ケー・ビー・ピクチャーズ||ランニング・ウルフ{{Sfn|Miyao|2007|p=79}}||短編映画
|-
|{{ublist|[[タイフーン (映画)|タイフーン]]|''[[:en:The Typhoon|The Typhoon]]''}}||アメリカ||ドミノ・フィルム・カンパニー{{Sfn|フィルムセンター|1993|p=33}}||ニトベ・トコラモ{{Sfn|Miyao|2007|p=69}}||別邦題表記は『颱風』
|-
|{{ublist|[[セレクト・シン]]|''The Select Sin''}}||アメリカ||ニューヨーク・モーション・ピクチャー・カンパニー||||別邦題表記は『黒人の恨み』
|-
|{{ublist|[[ヘイトフル・ゴッド]]|''The Hateful God''}}||アメリカ||ケー・ビー・ピクチャーズ||||短編映画
|-
|{{ublist|[[ニップド]]|''[[:en:Nipped (film)|Nipped]]''}}||アメリカ||ドミノ・フィルム・カンパニー||||短編映画
|-
|{{ublist|[[ヴィジル]]|''[[:en:The Vigil (1914 film)|The Vigil]]''}}||アメリカ||ドミノ・フィルム・カンパニー||||短編映画
|-
|{{ublist|[[マザー・オブ・ザ・シャドーズ]]|''[[:en:Mother of the Shadows|Mother of the Shadows]]''}}||アメリカ||ケー・ビー・ピクチャーズ||||短編映画
|-
|{{ublist|[[ラスト・オブ・ザ・ライン]]|''[[:en:The Last of the Line|The Last of the Line]]''}}||アメリカ||ドミノ・フィルム・カンパニー||スー族酋長の息子ティアー{{Sfn|フィルムセンター|1993|p=39}}||短編映画<br/>別邦題表記は『末裔』{{Sfn|フィルムセンター|1993|p=39}}
|-
|rowspan="7"|1915年||{{ublist|[[アフター・ファイブ]]|''[[:en:After Five|After Five]]''}}||アメリカ||ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー||召使オキ||
|-
|{{ublist|[[ファミン]]|''[[:en:The Famine (film)|The Famine]]''}}||アメリカ||ケー・ビー・ピクチャーズ||ホリショ||短編映画
|-
|{{ublist|[[チャイナタウン・ミステリー]]|''[[:en:The Chinatown Mystery|The Chinatown Mystery]]''}}||アメリカ||ブロンコ・フィルム・カンパニー||ヨ・ホン||短編映画
|-
|{{ublist|[[クルー (映画)|クルー]]|''[[:en:The Clue|The Clue]]''}}||アメリカ||ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー||日本人スパイ||
|-
|{{ublist|[[シークレット・シン]]|''[[:en:The Secret Sin|The Secret Sin]]''}}||アメリカ||ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー||中国の薬商人リン・ホー||
|-
|{{ublist|[[チート (映画)|チート]]|''The Cheat''}}||アメリカ||ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー||ヒシュル・トリ||
|-
|{{ublist|[[テンプテーション (映画)|テンプテーション]]|''[[:en:Temptation (1915 film)|Temptation]]''}}||アメリカ||ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー||オペラ愛好家||
|-
|rowspan="4"|1916年||{{ublist|[[異郷の人]]|''[[:en:Alien Souls|Alien Souls]]''}}||アメリカ||ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー||古美術商サカタ||別邦題表記は『異邦の霊』
|-
|{{ublist|[[オナラブル・フレンド]]|''[[:en:The Honorable Friend|The Honorable Friend]]''}}||アメリカ||ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー||日本人庭師マキノ||
|-
|{{ublist|[[クラさんの心]]|''[[:en:The Soul of Kura San|The Soul of Kura San]]''}}||アメリカ||ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー||トーヨー||
|-
|{{ublist|[[ヴィクトリア勲章]]|''[[:en:The Victoria cross (film)|The Victoria cross]]''}}||アメリカ||ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー||インド人アリムーラ||
|-
|rowspan="7"|1917年||{{ublist|[[黒人の意気]]|''[[:en:Each to His Kind|Each to His Kind]]''}}||アメリカ||ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー||インドの王子ラーンダ||
|-
|{{ublist|[[徳利の鬼]]|''[[:en: The Bottle Imp (1917 film)|The Bottle Imp]]''}}||アメリカ||ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー||ロパカ||
|-
|{{ublist|[[ジャガーの爪]]|''[[:en:The Jaguar's Claws|The Jaguar's Claws]]''}}||アメリカ||ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー||パンチョ・ピラー(ジャガー)||
|-
|{{ublist|[[男子の意気]]|''[[:en:Forbidden Paths|Forbidden Paths]]''}}||アメリカ||ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー||サトウ||別邦題表記は『禁断の道』
|-
|{{ublist|[[ハシムラ東郷]]|''[[:en:Hashimura Togo|Hashimura Togo]]''}}||アメリカ||ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー||ハシムラ東郷||
|-
|{{ublist|[[極東の招き]]|''[[:en:The Call of the East|The Call of the East]]''}}||アメリカ||ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー||高田男爵||
|-
|{{ublist|[[シークレット・ゲーム]]|''[[:en:The Secret Game|The Secret Game]]''}}||アメリカ||ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー||日本人ナラ=ナラ{{Sfn|Miyao|2007|p=128}}||
|-
|rowspan="8"|1918年||{{ublist|[[隠されたる真珠]]|''[[:en:The Hidden Pearls|The Hidden Pearls]]''}}||アメリカ||フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー||トム||別邦題表記は『隠された真珠』
|-
|{{ublist|[[家門の誉]]|''[[:en:The Honor of His House|The Honor of His House]]''}}||アメリカ||フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー||伊藤オナト伯爵||
|-
|{{ublist|[[許すべからざる犯罪]]|''[[:en:The White Man's Law|The White Man's Law]]''}}||アメリカ||フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー||ジョン・ジェンギス||
|-
|{{ublist|[[田村の望み]]|''[[:en:The Bravest Way|The Bravest Way]]''}}||アメリカ||フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー||田村カラ||
|-
|{{ublist|[[朧ろなる町]]|''[[:en:The City of Dim Faces|The City of Dim Faces]]''}}||アメリカ||フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー||ジャン・ルン||別邦題表記は『小黒い人の住める都』『薄暗い都』
|-
|{{ublist|[[彼の家督権]]|''[[:en:His Birthright|His Birthright]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||ユキオ||兼プロデューサー<br/>別邦題表記は『異郷の親』『長子相続権』
|-
|{{ublist|[[バンザイ (映画)|バンザイ]]|''[[:en:Banzai (1918 film)|Banzai]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||アメリカの司令官||兼プロデューサー<br/>短編映画
|-
|{{ublist|[[薄暗の寺]]|''[[:en:The Temple of Dusk|The Temple of Dusk]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||詩人アキラ||兼プロデューサー<br/>別邦題表記は『黄昏の寺院』『黄泉の国』『陰府の寺』
|-
|rowspan="9"|1919年||{{ublist|[[桜の光]]|''[[:en:Bonds of Honor|Bonds of Honor]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||軍人ヤマシロウ、遊び人サダオ(2役)||兼プロデューサー
|-
|{{ublist|[[明暗の人]]|''[[:en:A Heart in Pawn|A Heart in Pawn]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||トオヤマ||兼プロデューサー<br/>別邦題表記は『心の抵当』『人質の心』『把はれし心』
|-
|{{ublist|[[勇気ある卑怯者]]|''[[:en:The Courageous Coward|The Courageous Coward]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||日本人スキ・イオタ||兼プロデューサー<br/>別邦題表記は『勇敢なる臆病者』
|-
|{{ublist|[[恩に感じて]]|''[[:en:His Debt|His Debt]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||森山ゴロー||兼プロデューサー<br/>別邦題表記は『男を感じて』『彼の負債』
|-
|{{ublist|[[男の血]]|''[[:en:The Man Beneath|The Man Beneath]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||インド人アシュトール博士||兼プロデューサー<br/>別邦題表記は『マン・ベニース』
|-
|{{ublist|[[灰色の地平線]]|''[[:en:The Gray Horizon|The Gray Horizon]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||画家ヤノ・マサタ||兼プロデューサー<br/>別邦題表記は『血の力』
|-
|{{ublist|[[蛟龍を描く人]]|''[[:en:The Dragon Painter|The Dragon Painter]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||天才画家タツ||兼プロデューサー<br/>別邦題表記は『龍の絵師』
|-
|{{ublist|[[輝く公爵]]|''[[:en:The Illustrious Prince|The Illustrious Prince]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||マイヨ公爵||兼プロデューサー
|-
|{{ublist|[[トング・マン]]|''[[:en:The Tong Man|The Tong Man]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||中国人マフィアのルク・チェン||兼プロデューサー<br/>別邦題表記は『死線の勇者』
|-
|rowspan="5"|1920年||{{ublist|[[奮起の王国]]|''[[:en:The Beggar Prince|The Beggar Prince]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||王子、漁師ニッキ(2役)||兼プロデューサー<br/>別邦題表記は『乞食王子』『王子と乞食』
|-
|{{ublist|[[阿修羅の如く (1920年の映画)|阿修羅の如く]]|''[[:en:The Brand of Lopez|The Brand of Lopez]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||バスコ・ロペス||兼プロデューサー
|-
|{{ublist|[[悪魔の要求]]|''[[:en:The Devil's Claim|The Devil's Claim]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||アクバル・カーン、ハッサン(2役)||兼プロデューサー
|-
|{{ublist|[[伝説の祭壇]]|''[[:en:Li Ting Lang|Li Ting Lang]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||中国の王子リー・チン・ラン||兼プロデューサー<br/>別邦題表記は『リー・チン・ラン』
|-
|{{ublist|[[アラビアの闘士]]|''[[:en:An Arabian Knight|An Arabian Knight]]''}}||アメリカ||ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション||アーメッド||兼プロデューサー
|-
|rowspan="4"|1921年||{{ublist|[[怒髪天を衝いて]]|''[[:en:The First Born (1921 film)|The First Born]]''}}||アメリカ||ハヤカワ・フィーチャー・プレイ・カンパニー||チャン・ワン||兼プロデューサー
|-
|{{ublist|[[黒薔薇 (映画)|黒薔薇]]|''[[:en:Black Roses (1921 film)|Black Roses]]''}}||アメリカ||ハヤカワ・フィーチャー・プレイ・カンパニー||園芸家ヨダ||兼プロデューサー<br/>別邦題表記は『黒いバラ』
|-
|{{ublist|[[男一匹の意地]]|''[[:en:Where Lights Are Low|Where Lights Are Low]]''}}||アメリカ||ハヤカワ・フィーチャー・プレイ・カンパニー||中国の王子ツー・シー||兼プロデューサー
|-
|{{ublist|[[スワンプ]]|''[[:en:The Swamp (1921 film)|The Swamp]]''}}||アメリカ||ハヤカワ・フィーチャー・プレイ・カンパニー||ワン||兼原作、プロデューサー<br/>別邦題表記は『沼』
|-
|rowspan="3"|1922年||{{ublist|[[かげろふの命]]|''[[:en:Five Days to Live|Five Days to Live]]''}}||アメリカ||ロバートソン・コール・ピクチャーズ||中国人彫刻家タイ・レング||別邦題表記は『陽炎の生命』『5日間の生命』
|-
|{{ublist|[[朱色の画筆]]|''[[:en:The Vermilion Pencil|The Vermilion Pencil]]''}}||アメリカ||ロバートソン・コール・ピクチャーズ||リー・チャ、強欲な男(2役)||
|-
|{{ublist|[[ナイト・ライフ・イン・ハリウッド]]|''[[:en:Night Life in Hollywood|Night Life in Hollywood]]''}}||アメリカ||マエスチャー・プロダクション||本人||
|-
|1923年||{{ublist|[[ラ・バタイユ (1923年の映画)|ラ・バタイユ]]|''La Bataille''}}||フランス||フィルム・ダール社||ヨリサカ侯爵||兼監督([[エドゥアール=エミール・ヴィオレ]]と共同監督)
|-
|rowspan="3"|1924年||{{ublist|[[愛国の軍師]]|''[[:en:The Great Prince Shan|The Great Prince Shan]]''}}||イギリス||ストール・ピクチャー・プロダクション||シャン王子||別邦題表記は『光輝ある王子』
|-
|{{ublist|[[セン・ヤンズ・ディヴォーション]]|''[[:en:Sen Yan's Devotion|Sen Yan's Devotion]]''}}||イギリス||ストール・ピクチャー・プロダクション||中国人セン・ヤン||
|-
|{{ublist|[[犠牲 (1924年の映画)|犠牲]]|''J'ai Tue!''}}||フランス||フィルムズ・タイラ||古美術収集家ヒデオ||兼監督({{仮リンク|ロジェ・リオン|fr|Roger Lion}}と共同監督)
|-
|1929年||{{ublist|[[大和魂 (映画)|大和魂]]|''[[:en:The Man Who Laughed Last|The Man Who Laughed Last]]''}}||アメリカ||[[ワーナー・ブラザース]]||日本青年オトヤ||兼原作<br/>雪洲の最初の[[トーキー]]、短編映画
|-
|rowspan="2"|1931年||{{ublist|[[ダグラスの世界一周]]|''[[:en:Around the World in 80 Minutes with Douglas Fairbanks|Around the World in 80 Minutes with Douglas Fairbanks]]''}}||アメリカ||[[ユナイテッド・アーティスツ]]||本人||
|-
|{{ublist|[[龍の娘]]|''[[:en:Daughter of the Dragon|Daughter of the Dragon]]''}}||アメリカ||[[パラマウント・ピクチャーズ]]||探偵アー・キー||
|-
|1932年||[[太陽は東より]]||日本||[[松竹]]||船のボーイ長の健二||兼監督<br/>雪洲の最初の日本映画、[[サウンド版]]
|-
|1933年||[[楠公父子]]||日本||[[J.O.スタジオ]]||[[楠木正成|楠正成]]||
|-
|rowspan="2"|1934年||[[爆撃飛行隊]]||日本||J.O.スタジオ||田村海軍中尉||
|-
|[[荒木又右衛門 天下の伊賀越]]||日本||J.O.スタジオ||[[荒木又右衛門]]||
|-
|rowspan="2"|1935年||[[唐人お吉 (川村花菱)#映画|唐人お吉]]||日本||[[新興キネマ]]||[[タウンゼント・ハリス]]||
|-
|[[国を護る者日蓮]]||日本||新興キネマ||[[日蓮]]||別題は『国難を呼ぶ日蓮』
|-
|rowspan="3"|1937年||{{ublist|[[新しき土]]|''Die Tochter des Samurai''}}||日本、ドイツ||J.O.スタジオ、アーノルド・ファンク・フィルム||大和巌||
|-
|{{ublist|[[ヨシワラ]]|''[[:fr:Yoshiwara (film)|Yoshiwara]]''}}||フランス||レ・フィルム・エクセシオール、ミロフィルム||クリ・イサム||
|-
|{{ublist|[[フォルフェテュール]]|''[[:fr:Forfaiture (film, 1937)|Forfaiture]]''}}||フランス||ソシエテ・デュ・シネマ・デュ・パルテオン||中国の王子フ・ロン||『チート』のフランス版リメイク
|-
|1938年||{{ublist|[[アジアの嵐 (1938年の映画)|アジアの嵐]]|''[[:fr:Tempête sur l'Asie (film, 1938)|Tempête sur l'Asie]]''}}||フランス||リオフィルム||リン王子||
|-
|rowspan="2"|1942年||{{ublist|[[マカオ 賭場地獄]]|''[[:fr:Macao, l'enfer du jeu|Macao, l'enfer du jeu]]''}}||フランス||デモフィルム||イエン・チャイ||
|-
|{{ublist|[[パトロール・ブランシェ]]|''[[:fr:Patrouille blanche|Patrouille blanche]]''}}||フランス||ユニオン・フランセーズ・デ・プロダクシオン・シネマトグラフィック||ハロウェイ||
|-
|rowspan="2"|1943年||{{ublist|[[ル・ソレイユ・デュ・ミニッツ]]|''[[:fr:Le Soleil de minuit (film, 1943)|Le Soleil de minuit]]''}}||フランス||ソシエテ・ウニベルセル・デ・フィルム||マツイ||
|-
|{{ublist|[[雑種の女マーリア]]|''[[:fr:Malaria (film, 1943)|Malaria]]''}}||フランス||ユニオン・フランセーズ・デ・プロダクシオン・シネマトグラフィック||サイーディ||
|-
|1946年||{{ublist|[[ル・キャバレ・デュ・グラン・ラルジュ]]|''[[:fr:Le Cabaret du grand large|Le Cabaret du grand large]]''}}||フランス||コド・シネマ||ワン教授||
|-
|1947年||{{ublist|[[カルティエ・シノワ]]|''[[:fr:Quartier chinois (film, 1947)|Quartier chinois]]''}}||フランス||コド・シネマ||チャン||
|-
|rowspan="2"|1949年||{{ublist|[[東京ジョー (映画)|東京ジョー]]|''[[:en:Tokyo Joe (film)|Tokyo Joe]]''}}||アメリカ||[[コロンビア ピクチャーズ]]||キムラ男爵||
|-
|{{ublist|[[三人帰る]]|''[[:en:Three Came Home|Three Came Home]]''}}||アメリカ||[[20世紀フォックス]]||スガ・ミチオ大佐||
|-
|rowspan="2"|1950年||[[遥かなり母の国]]||日本||[[大映]]||速水ジョー||
|-
|[[レ・ミゼラブル あゝ無情]]||日本||[[東横映画]]||岩吉||次女の冨士子と共演
|-
|rowspan="3"|1953年||[[女間者秘聞 赤穂浪士]]||日本||[[東映]]||立花左近||
|-
|[[悲劇の将軍 山下奉文]]||日本||東映||[[山下奉文]]||
|-
|[[鞍馬天狗と勝海舟]]||日本||[[新東宝]]||[[勝海舟]]||
|-
|1954年||[[日本敗れず]]||日本||新東宝||川浪陸軍大臣||
|-
|1955年||{{ublist|[[東京暗黒街・竹の家]]|''House of Bamboo''}}||アメリカ||20世紀フォックス||キタ警部||
|-
|rowspan="2"|1956年||[[野郎ども表へ出ろ]]||日本||東映||高見||
|-
|[[怒れ!力道山]]||日本||東映||大橋||
|-
|1957年||{{ublist|[[戦場にかける橋]]|''The Bridge on the River Kwai''}}||アメリカ||コロンビア ピクチャーズ、サム・スピーゲル・プロダクション||斉藤大佐||
|-
|1958年||{{ublist|[[底抜け慰問屋行ったり来たり]]|''The Geisha Boy''}}||アメリカ||パラマウント・ピクチャーズ||シキタ||
|-
|1959年||{{ublist|[[緑の館 (映画)|緑の館]]|''Green Mansions''}}||アメリカ||[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]||ルーニ||
|-
|rowspan="2"|1960年||{{ublist|[[スイスファミリーロビンソン]]|''Swiss Family Robinson''}}||アメリカ||[[ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ|ウォルト・ディズニー・プロダクション]]||海賊の親分クアラ||別邦題表記は『南海漂流』『大漂流記』
|-
|{{ublist|[[戦場よ永遠に]]|''[[:en:Hell to Eternity|Hell to Eternity]]''}}||アメリカ||[[アライド・アーティスツ・ピクチャーズ・コーポレーション]]||松井大将||
|-
|1961年||{{ublist|[[大津波 (1961年の映画)|大津波]]|''The Big Wave''}}||日本、アメリカ||[[東宝]]、ストラットン・プロダクション||老人||
|-
|rowspan="2"|1966年||{{ublist|[[夢みる国のクリスくん]]|''[[:en:The Daydreamer (film)|The Daydreamer]]''}}||アメリカ||エンバシー・ピクチャーズ||モグラ<ref>{{Cite book|last=Beck |first=Jerry |date=2005 |title=The Animated Movie Guide |publisher=Chicago Review Press |page=62 |isbn=978-1556525919}}</ref>||声の出演
|-
|[[ボスは俺の拳銃で]]||日本||東映||堂本大蔵||
|-
|1967年||[[純情二重奏 (1967年の映画)|純情二重奏]]||日本||松竹||田島||
|}
 
=== テレビドラマ ===
特記がない限り、以下の一覧と情報は『セッシュウ! 世界を魅了した日本人スター・早川雪洲』の「雪洲が出演した映画、舞台、テレビ」に基づく{{Sfn|中川|2012|pp=368-388}}。
{| class="wikitable plainrowheaders sortable" style="font-size:small; margin-right:0; width:95%"
|-
! scope="col"|放送年
! scope="col"|{{ublist|邦題|原題}}
! scope="col"|国
! scope="col"|系列局
! scope="col"|役名
! scope="col" class="unsortable"|備考
|-
|rowspan="2"|1954年||真昼の人魚||日本||[[日本テレビ|NTV]]||||次女の冨士子と共演
|-
|鬼の九右衛門||日本||NTV||九右衛門||
|-
|1955年||ああ無情||日本||NTV||||
|-
|1956年||[[次郎物語#1956年|次郎物語]]||日本||NTV||||
|-
|rowspan="5"|1958年||{{ublist|スタジオ・ワン|''[[:en:Studio One (American TV series)|Studio One]]''}}||アメリカ||[[CBS]]||サトウ||エピソード: 「倉敷の出来事(''Kurashiki Incident'')」
|-
|{{ublist|クラフト・テレビジョン・シアター|''[[:en:Kraft Television Theatre|Kraft Television Theatre]]''}}||アメリカ||[[NBC]]||日本兵木村{{Sfn|Miyao|2007|p=279}}||エピソード: 「灼熱の孤島(''The Sea is Boiling Hot'')」
|-
|{{ublist|レッド・スケルトン・ショー|''[[:en:The Red Skelton Show|The Red Skelton Show]]''}}||アメリカ||CBS||||エピソード: 「ボリバー・アンド・アンド・ザ・ロスト・パトロール(''Bolivar and the Lost Patrol'')」
|-
|{{ublist|ワゴン・トレイン|''[[:en:Wagon Train|Wagon Train]]''}}||アメリカ||NBC||イトウ・サカエ||シーズン2 第9話「イトウ・サカエ物語(''The Sakae Ito Story'')」
|-
|ジーキル博士とハイド氏||日本||NTV||||脚本は早川雪夫
|-
|rowspan="2"|1959年||平賀源内||日本||NTV||||
|-
|あの波の果てまで||日本||[[テレビ朝日|NET]]||||脚本は早川雪夫
|-
|rowspan="3"|1961年||激浪||日本||[[TBSテレビ|TBS]]||[[米内光政]]||原作・脚本は早川雪夫
|-
|根獅子のきりしたん||日本||TBS||||原作・脚本は早川雪夫
|-
|[[大菩薩峠 (小説)#テレビドラマ|大菩薩峠]]||日本||TBS||||
|-
|1963年||{{ublist|[[ルート66 (テレビドラマ)|ルート66]]|''Route 66''}}||アメリカ||CBS||零戦の元パイロット高塚||シーズン4 第1話「華麗なる訣別(''Two Strangers and an Old Enemy'')」
|-
|1964年||アイ・ラブ・ユー||日本||[[日本放送協会|NHK]]||||
|-
|1965年||[[大河ドラマ]] / [[太閤記 (NHK大河ドラマ)|太閤記]]||日本||NHK||[[武田信玄]]||
|-
|1967年||新婚さん・発車オーライ||日本||TBS||||
|-
|1968年||[[日本剣客伝]] / 宮本武蔵||日本||NET||||
|}
 
=== 舞台 ===
特記がない限り、以下の一覧と情報は『セッシュウ! 世界を魅了した日本人スター・早川雪洲』の「雪洲が出演した映画、舞台、テレビ」に基づく{{Sfn|中川|2012|pp=368-388}}。
{| class="wikitable plainrowheaders sortable" style="font-size:90%; margin-right:0; width:95%"
|-
! scope="col"|年
! scope="col"|{{ublist|邦題|原題}}
! scope="col"|国
! scope="col"|劇場
! scope="col"|役名
! scope="col" class="unsortable"|備考
|-
|1913年||{{ublist|タイフーン|''The Tyhoon''}}||アメリカ||エルクス・ホール{{Sfn|野上|1986|pp=55-57}}||ニトベ・トコラモ{{Sfn|鳥海|2013|pp=58-59}}||
|-
|rowspan="3"|1923年||{{ublist|タイガー・リリー|''Tiger Lily''}}||アメリカ||[[アメリカ合衆国東海岸|東海岸]]の都市を巡業||||
|-
|{{ublist|神の御前に|''Knee of the God''}}||フランス||カジノ・ド・パリ{{Sfn|鳥海|2013|pp=159-161}}||||
|-
|{{ublist|サムライ|''Samurai''}}||イギリス||ロンドン・コロシアム||外交官上谷||
|-
|rowspan="2"|1926年||{{ublist|ラブ・シティ|''Love City''}}||アメリカ||リトル・シアター{{Sfn|鳥海|2013|pp=170-172}}||チャン・ロー{{Sfn|Miyao|2007|p=262}}||別邦題表記は『恋の都』『恋の街』『花柳界』
|-
|{{ublist|馬賊の王子|''The Bandit Prince''}}||アメリカ||全米を巡業||馬賊のチャン||別邦題表記は『バクダッドの王子』『バンディット・プリンス』
|-
|1928年||{{ublist|笑へる男|''The Man Who Laughs''}}||アメリカ||全米を巡業||日本青年トオヤマ||兼原作
|-
|1930年||{{ublist|天晴れウオング|''The Honourable Mr. Wong''}}||日本||[[帝国劇場]]||ウオング||1933年の大阪浪花座の終演まで続く
|-
|rowspan="3"|1931年||牡丹燈記||日本||帝国劇場||喬生||
|-
|第七天国||日本||帝国劇場||道路掃除人シコオ||1935年に[[新歌舞伎座 (東京)|新宿歌舞伎座]]で「早川雪洲一座公演」として再演
|-
|ブラザーズ||日本||帝国劇場||双生児のボブ・ノートン、エディ・コーノリー(2役)||兼改訳演出
|-
|rowspan="3"|1932年||裸一貫の男||日本||[[明治座]]||洋服職人ジョン・バート||
|-
|続篇・天晴れウオング||日本||明治座||ウオング||
|-
|空閑少佐||日本||明治座||下村中佐||
|-
|rowspan="7"|1933年||女人哀詞・唐人お吉物語||日本||明治座||タウンゼント・ハリス||
|-
|バッド・マン||日本||浪花座||メキシコ馬賊の首領パンチョ・ローペツ||
|-
|ジキル博士とハイド氏||日本||[[金龍館]]||ヘンリー・ジキル、ハイド(2役)||兼演出・脚本
|-
|楠公父子 父子訣別||日本||浪花座||楠正成||
|-
|シカゴ暗黒街ギャング奇譚 兄弟||日本||浪花座||双子のボブとエディ(2役)||兼改訳演出
|-
|亜米利加の使||日本||明治座||タウンゼント・ハリス||
|-
|[[ハムレット]]||日本||明治座||クローディアス||
|-
|rowspan="5"|1934年||[[シラノ・ド・ベルジュラック (戯曲)|シラノ・ド・ベルジュラック]]||日本||[[新歌舞伎座 (大阪)|新歌舞伎座]]||シラノ・ド・ベルジュラック||兼演出
|-
|剣||日本||浅草公園劇場||||「早川雪洲新進座」旗揚げ公演
|-
|鈴ヶ森||日本||新宿歌舞伎座||長兵衛||「早川雪洲新進座」公演
|-
|良人を殺すまで||日本||新宿歌舞伎座||田川刑事||「早川雪洲新進座」公演
|-
|馬賊ローペツ||日本||新宿歌舞伎座||ローペツ||「早川雪洲新進座」公演
|-
|rowspan="3"|1935年||大菩薩峠 甲源一刀流乃巻||日本||浅草松竹座||机龍之介||
|-
|大釈尊劇 四海の光||日本||[[日本劇場]]||シッタルタ||「日本仏教劇協会」公演
|-
|お夏狂乱||日本||日本劇場||清十郎||
|-
|rowspan="2"|1959年||{{ublist|カタキ|''Kataki''}}||アメリカ||アンバサダー劇場||日本人将校||
|-
|{{ublist|珍しい楽しみの夕 あいびき|''Evening of Rare Pleasures''}}||アメリカ||セブン・アーツ・センター||||吾妻秀穂との2人舞台
|-
|1960年||魔術の女王||日本||[[梅田芸術劇場|梅田コマ劇場]]||[[松旭斎天一]]||
|}
 
== 著書 ==
* 小説『バンディット・プリンス』''The Bandit Prince''(1926年、マコーレー社)
* 自伝『武者修行世界を行く』(1959年、[[実業之日本社]])
** 再版『早川雪洲 武者修行世界を行く』(1999年、[[日本図書センター]])
* 自伝『ゼン・ショード・ミー・ザ・ウェイ』''Zen Showed Me the Way''(1960年、Bobbs-Merrill)
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{NotelistNotelist2|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|220em}}
 
== 関連項目参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author=大場俊雄 |date=2012-5 |title=早川雪洲 房総が生んだ国際俳優 |publisher=[[崙書房]] |series=ふるさと文庫 |isbn=978-4845502011 |ref={{Harvid|大場|2012}}}}
* [[セッシュ]] - 短躯の俳優の撮影時、背の低さを補うために台に乗せて撮影すること。
* {{Cite journal|和書 |editor=岡島尚志 |date=1993-3 |title=知られざるアメリカ映画 |journal=FC |issue=92 |publisher=[[東京国立近代美術館フィルムセンター]] |ref={{Harvid|フィルムセンター|1993}}}}
* [[子供と魔法]]([[モーリス・ラヴェル]]のオペラ。1925年初演。第1部で登場人物のひとり「中国風の茶碗」の歌の歌詞に、"harakiri, Sessue Hayakawa !"とある。台本は[[シドニー=ガブリエル・コレット]])
* {{Cite book|和書 |author=垣井道弘 |date=1992-2 |title=ハリウッドの日本人 「映画」に現れた日米文化摩擦 |publisher=[[文藝春秋]] |isbn=978-4163461403 |ref={{Harvid|垣井|1992}}}}
* [[堺駿二]] - 1930年の凱旋帰国の際に弟子として一座に加えた。芸名は早川が命名した。
* {{Cite journal|和書 |author=[[佐藤忠男]] |date=1985-10 |title=ハリウッドの日本人たち |journal=講座日本映画1 日本映画の誕生 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4000102513 |ref={{Harvid|佐藤|1985}}}}
* {{Cite book|和書 |author=鳥海美朗 |date=2013-11 |title=鶴子と雪洲 ハリウッドに生きた日本人 |publisher=海竜社 |isbn=978-4759313383 |ref={{Harvid|鳥海|2013}}}}
* {{Cite book|和書 |author=中川織江 |date=2012-12 |title=セッシュウ! 世界を魅了した日本人スター・早川雪洲 |publisher=[[講談社]] |isbn=978-4062179157 |ref={{Harvid|中川|2012}}}}
* {{Cite book|和書 |author=野上英之 |date=1986-10 |title=聖林の王 早川雪洲 |publisher=[[社会思想社]] |isbn=978-4390602921 |ref={{Harvid|野上|1986}}}}
* {{Cite book|和書 |author=早川雪洲 |date=1959-4 |title=武者修行世界を行く |publisher=[[実業之日本社]] |isbn= |ref={{Harvid|早川|1959}}}}
* {{Cite journal|和書 |author=宮尾大輔 |date=1996-3 |title=映画スター早川雪洲 草創期ハリウッドと日本人 |journal=アメリカ研究 |issue=30 |pages=227-246 |publisher=[[アメリカ学会]] |doi=10.11380/americanreview1967.1996.227 |ref={{Harvid|宮尾|1996}}}}
* {{Cite journal|和書 |author=宮尾大輔 |date=2009-3 |title=『ハリウッド・ゼン』解説 |journal=大島渚著作集 第4巻 敵たちよ、同志たちよ |publisher=[[現代思潮新社]] |isbn=978-4329004628 |pages=297-319 |ref={{Harvid|宮尾|2009}}}}
* {{cite book |last=Miyao |first=Daisuke |year=2007 |title=[[:en:Sessue Hayakawa: Silent Cinema and Transnational Stardom|Sessue Hayakawa: Silent Cinema and Transnational Stardom]] |location=United States |publisher=Duke University Press |isbn=978-0822339694 |ref={{Harvid|Miyao|2007}}}}
 
=== 関連文献 ===
* {{Cite book |和書 |author=霞浦人|yeardate=1922-6|title=早川雪洲 : 傑作集|publisher=春江堂|id={{NDLJP|913500}}|quote= }}
* {{Cite book |和書 |author=[[森岩雄]]|date=1922-6|title=早川雪洲|publisher=東洋出版社|id={{NDLJP|911664}}}}
* {{Cite book|和書 |author=甲田穂波 |date=1922 |title=雪洲 |publisher=新時代社 |id={{NDLJP|529752}}}}
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Sessue Hayakawa}}
{{Portal 映画}}
*{{allcinema name|36467|早川雪洲}}
* {{KinejunIMDb name|146030370564|早川雪洲Sessue Hayakawa}}
* {{AllRovi person|31162|Sessue Hayakawa}}
*{{jmdb name|0241790|早川雪州}}
* {{IMDbIBDB name|037056444581|Sessue Hayakawa}}
* {{TCMDb name|83170%7C139459|Sessue Hayakawa}}
* {{allcinema name|36467|早川雪洲}}
* {{Kinejun name|14603|早川雪洲}}
* {{jmdb name|0241790|早川雪州}}
* {{Kotobank|早川雪洲}}
 
{{Normdaten}}
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