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第二次世界大戦末期の[[1944年]](昭和19年)、召集令状により二等兵として入営した{{Sfn|辺見|1992|pp=138-141}}。ロシア語に長けることから[[1945年]](昭和20年)に[[特務機関#ハルビン特務機関|ハルビン特務機関]]に配属された{{Sfn|辺見|1992|pp=138-141}}<ref name="昭和の遺書198708_p451">{{Harvnb|辺見編|1987|pp=451-452}}</ref>。
 
第二次世界大戦での[[日本の降伏]]後にソ連に抑留され、[[エカテリンブルク|スヴェルドロフスク]]収容所へ入れられた。満鉄調査部での北方調査やハルビン特務機関で山本はソ連の新聞や雑誌の翻訳を行っていたが、これらの活動がソ連に対するスパイ罪と見なされ、[[戦犯]]としてソ連の[[法 (法学)#国際法と国内法|国内法]]により重労働2520年の刑を下された<ref name="文藝春秋19871001_p348">{{Harvnb|辺見|1987|pp=348-349}}</ref><ref name="潮20090901_p143">{{Harvnb|辺見|2009|pp=143-147}}</ref>。山本は軍人としては一兵卒であったが、この刑期は軍の司令官や大将にも匹敵する{{Sfn|鈴木編|1991|p=157}}。これほどの重い刑となったのは、ソ連のスパイとなることを強要された山本がそれを断ったため<ref name="語り継がれる戦争の記憶199802_p245">{{Harvnb|三枝|1998|pp=245-247}}</ref>、または戦争の影響で正式な裁判が行われなかったため{{Sfn|黒田|1990|pp=236-237}}、との説もある。以後、冬には零下数十度となる厳しい気候、粗末な食事をはじめとする劣悪な環境のもと、長年にわたって重労働を強いられることとなった{{Sfn|三枝|1998|pp151-153}}。
 
=== 収容所での文化活動 ===