「レクイエム (ヴェルディ)」の版間の差分

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[[ジュゼッペ・ヴェルディ]]の作曲した'''[[レクイエム]]'''(原題:'''Messa da Requiem''' per l'anniversario della morte di Manzoni 「マンゾーニの命日を記念するためのレクイエム」)は、[[カトリック教会|カトリック]]の[[ミサ曲]]のひとつである。[[イタリア]]の文豪[[アレッサンドロ・マンゾーニ]]を追悼する目的で作曲され、マンゾーニの一周忌にあたる[[1874年]][[5月22日]]、[[ミラノ]]、サン・マルコ教会で初演された{{Sfn|井上|1998|p=73}}。しばしば[[レクイエム (モーツァルト)|モーツァルト]]、[[レクイエム (フォーレ)|フォーレ]]の作品とともに「[[世界三大一覧#文化・芸術|三大レクイエム]]」の一つに数えられると共に、[[#評価|後述]]のとおり理由から(好悪両面において)「最も華麗なレクイエム」と評される。
 
== 作曲の経緯 ==
=== 前史:「ロッシーニのためのレクイエム ===
ヴェルディが宗教曲を手がけるのは、この「レクイエム」が最初ではなかった。オペラ作曲家として身を起こす以前の1830年代前半、故郷[[ブッセート]]の教会のためにいくつかの作曲を行っていることが知られている。ただしその殆どは散逸し、演奏されることはない。
 
またヴェルディは[[1868年]]に死去した大オペラ作曲家[[ジョアキーノ・ロッシーニ]]を記念する「ロッシーニのためのレクイエム」を協同で作曲することを他のイタリア人作曲家(ヴェルディを除いて12人)に提案している{{Sfn|井上|1998|p=73}}。専門委員会が組織され、演奏日時はその一周忌にあたる1869年11月13日に、会場はロッシーニの育った[[ボローニャ]]のサン・ペトロニオ教会に、と決定した。ヴェルディ自身は(彼自身が半ば強引に決定した)自分の担当部分「リベラ・メ」をいち早く作曲したが、他作曲家が遅れがちであったこと、ボローニャの[[歌劇場支配人]]が無給の奉仕公演に難色を示し、通常のオペラ公演を優先する態度をとったことなどが原因となって計画は難航した{{Sfn|井上|1998|p=73}}。その後場所を改めて[[ミラノ]]で演奏する、あるいは日時を繰り延べてボローニャで演奏する、などの打開策が検討されたが、最終的にはこの「ロッシーニ・レクイエム」計画は放棄された{{Sfn|井上|1998|p=73}}
 
=== マンゾーニのためのレクイエム ===
[[Image:Francesco Hayez - Ritratto di Alessandro Manzoni.jpg|thumb|right|200px|アレッサンドロ・マンゾーニ]]
小説「[[いいなづけ (マンゾーニの小説)|いいなずけ]]」(''I promessi sposi'' )で今日でも有名な知られるイタリアの文豪、[[アレッサンドロ・マンゾーニ]]は、ヴェルディが青年時代より通じて最も敬愛していた小説家であった。マンゾーニが[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]の死を悼んで詠んだ詩「五月五日」(''Il cinque maggio'' )に対して、1830年頃、まだ10代のヴェルディは曲を付けている(後年ヴェルディ自身によって楽譜は破棄されたらしく、現存しない)。ヴェルディがオペラ作曲家として名を成して以降も、あまりに尊崇の念が強かったため、知遇を得る機会はいくらでもあったにもかかわらず会いに行けず、1868年になってようやくミラノで面会し言葉を交わす、といったほどであったという。
 
そのマンゾーニの死([[1873年]]5月22日)はヴェルディに深い悲しみをもたらした。ヴェルディはその個人的なショックが深かったことと、自らが参列することで厳粛な空気が乱されることを恐れて、葬儀には列席しなかったが、同年6月3日個人的にマンゾーニの墓地を訪れて追悼を行った。そしてこの時点までに、新たな「マンゾーニ追悼のレクイエム」の構想を固めたらしい。ヴェルディは楽譜出版社[[リコルディ]]社の総帥、[[リコルディ#ジューリオの時代|ジューリオ・リコルディ]]を通じて[[ミラノ]]市長にレクイエムの提案を行っている。ヴェルディからの条件は、初演の演奏に要する費用を市側が負担してくれれば、楽譜印刷の費用はヴェルディが支出しよう、というものであり、市長もそれを了承した。前回の「ロッシーニ」に懲りてか、ヴェルディはすべて単独で作業を進める心積もりだったようである。
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== 評価 ==
このレクイエムには常に留保的評価、あるいはさらに進んで批判がつきまとっている。うち典型的なのは「あまりにイタリア・オペラ的」「ドラマ性が強すぎる」「劇場的であり教会に相応しくない」とする評価であろうなどが挙げられる
 
なおこうした評価は初演時からそうした評価はみられた。たまたま初演日である1874年5月22日にミラノに滞在していた[[ドイツ]]人指揮者(であり熱烈なワグネリアン)[[ハンス・フォン・ビューロー]]は翌日の新聞にわざわざ声明を出して「私、ハンス・フォン・ビューローは昨晩サン・マルコ教会で演じられたスペクタクルに参加していなかった。フォン・ビューローはヴェルディの宗教曲を聴くべく参集した外国人の一員に数えられるべきではない」と宣言し、後にはこのレクイエムを「聖職者の衣服をまとった、ヴェルディの最新のオペラ」(僧衣を纏ったオペラ)と皮肉ったという。もっとも[[ヨハネス・ブラームス]]はこうしたフォン・ビューローの評を聞き、更には自らヴェルディの楽譜を検討した結果「奴は馬鹿なことを言ったものだ。これは天才の作品だ」と言ったとも伝えられる。({{Efn|ビューローは後にいくつかの演奏を聞いてから、「どんな下手な楽団員の手で演奏されても、涙が出るほど感動させられた」と評価を改めている。また、ブラームスの発言は、[[エドゥアルト・ハンスリック]]の同様の非難に対して向けられたものだとも言われている。}}。
 
ロンドン初演時も「[[レクイエム (モーツァルト)|モーツァルトのレクイエム]]以来の傑作」とする新聞評もある一方で、「絶叫するばかりのコーラス」「怒号の連続」「正常な神経の持主がこの詩句と同時に受け入れることのできるメロディーはどこにも聴かれなかった」などと酷評するものもあった。
 
これらの批評のうちには妥当なものもあるだろう。オペラで培ってきた劇的表現はこのレクイエムにも随所にみられるし、ヴェルディ自身が第2回公演以降は演奏場所をスカラ座に移したことからみても、彼自身このレクイエムを「教会の音楽」というより「劇場、あるいはコンサートで演奏すべきもの」と考えていた可能性が高い。もっともヴェルディは<blockquote>「このミサ曲をオペラと同じように歌ってはいけません。オペラでは効果のあるかも知れない音声装飾(''coloriti'')はここでは私の趣味ではないのです」(1874年4月26日、ジューリオ・リコルディ宛書簡)</blockquote>とも述べており、彼がオペラとこのレクイエムを完全には同一視していなかったのもまた事実である。
:「このミサ曲をオペラと同じように歌ってはいけません。オペラでは効果のあるかも知れない音声装飾(''coloriti'')はここでは私の趣味ではないのです」(1874年4月26日、ジューリオ・リコルディ宛書簡)
とも述べており、彼がオペラとこのレクイエムを完全には同一視していなかったのもまた事実である。
 
また演奏場所の点では、今日では「[[レクイエム (モーツァルト)|モーツァルトのレクイエム]]」、「[[レクイエム (フォーレ)|フォーレのレクイエム]]」なども含めてその殆どはコンサート・ピース化しており、ヴェルディのこのレクイエムだけをことさら批判するのは不公平というものだろう。
 
:ヴェルディのもっともよき理解者であった妻ジュゼッピーナは、夫のレクイエムに寄せられた多くの賛否の評論に辟易して次のような書簡を友人に送っている。<blockquote>「人々は宗教的精神がモーツァルトの、[[ケルビーニ]]の、あるいは他の作曲家のレクイエムに比べて多いの少ないの、などと論じています。私に言わせれば、ヴェルディのような人はヴェルディのように書くべきなのです。つまり、彼がどう詩句を感じ、解釈したのかに従って書くということです。仮に宗教にはその始まり、発展そして変化というものが時代と場所に応じてあるのだ、ということを認めるならば、宗教的精神とその表現方法も、時代と作者の個性に応じて変化しなければならないでしょう。私自身はヴェルディのレクイエムがA氏の、B氏のあるいはC氏の影響を受けなければならないのだとしたら、そんなものは懲り懲りです。」</blockquote>
ヴェルディのもっともよき理解者であった妻ジュゼッピーナは、夫のレクイエムに寄せられた多くの賛否の評論に辟易して次のような書簡を友人に送っている。
:「人々は宗教的精神がモーツァルトの、[[ケルビーニ]]の、あるいは他の作曲家のレクイエムに比べて多いの少ないの、などと論じています。私に言わせれば、ヴェルディのような人はヴェルディのように書くべきなのです。つまり、彼がどう詩句を感じ、解釈したのかに従って書くということです。仮に宗教にはその始まり、発展そして変化というものが時代と場所に応じてあるのだ、ということを認めるならば、宗教的精神とその表現方法も、時代と作者の個性に応じて変化しなければならないでしょう。私自身はヴェルディのレクイエムがA氏の、B氏のあるいはC氏の影響を受けなければならないのだとしたら、そんなものは懲り懲りです。」
 
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== 脚注 ==
 
=== 出典 ===
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=== 注釈 ===
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== 参考文献 ==
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*Charles Osbone, "The Complete Operas of Verdi", Indigo, (ISBN 0-575-40118-4)
*Giuseppe Verdi, "Messa da requiem", critical edition by Marco Uvietta, Bärenreiter Verlag, Kassel, 2014
*{{Cite book|和書|title=改訂版 クラシック音楽作品名辞典|year=1998|publisher=[[三省堂]]|author=井上和男|ref={{SfnRef|井上|1998}}}}
 
== 外部リンク ==