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{{by|2000年}}3月31日の[[中日ドラゴンズ]]戦([[ナゴヤドーム]])で、3年連続の開幕投手を務め、[[関川浩一]]・[[立浪和義]]・[[福留孝介]]・[[レオ・ゴメス]]・[[デーブ・ニルソン]]・[[山崎武司]]から6者連続奪三振を記録して勝利投手となる。9月8日の巨人戦から10月5日の阪神戦まで34回1/3連続無失点を記録<ref>2001 ベースボール・レコード・ブック 113頁 2000年度主要記録集「ストップした連続無失点」より。</ref>するなど、勝ち負けは10勝9敗だったがセ・リーグの[[最優秀防御率 (日本プロ野球)|最優秀防御率]]と最多奪三振の二冠に輝いた。なお、同シーズンの開幕直前に、[[フジテレビジョン|フジテレビ]][[アナウンサー]]の木佐彩子との結婚を発表した。
 
{{by|2001年}}、4年連続の開幕投手を務め、7回8奪三振で3年連続開幕勝利。前年の先発陣が移籍・退団・故障離脱により一新されたことで先発陣の柱としてチームを牽引、年間ローテーションを守り12勝を挙げて優勝に貢献する。[[2001年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも初戦に先発し、8回を1安打12奪三振の好投で勝利する。日本シリーズ優秀選手賞を受賞した。
 
オフには「今まで具体的な夢を持ったことはなかったけど初めて描いた夢がメジャーだった」と[[日本人選手のメジャーリーグ挑戦|メジャー挑戦]]を表明し<ref name="spd">『週刊プロ野球データファイル』52号、ベースボール・マガジン社、雑誌27204-4/25、12頁。</ref>、[[ジョー・アーボン]]と代理人契約をする。前年から球団に訴えていた[[ポスティングシステム]]でのメジャーリーグ移籍を目指したが、9月11日に発生した[[アメリカ同時多発テロ事件]]の影響を受け、一時はヤクルトと再契約を結んでメジャー移籍を断念する。同年12月には長男(第一子)が誕生した。
 
=== ドジャース時代 ===
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{{by|2003年}}は前半戦最後の登板でNPB・MLB合算100勝を達成し、8勝3敗、防御率2.94の好成績で前半戦を終える。7月29日の[[フィラデルフィア・フィリーズ]]戦で、ヤクルト時代からの古傷だった左膝の痛みが悪化し、早期降板も検討されたが、6回を3安打2失点に抑えた。その後「野球をしてきた蓄積で、投げようと思えば投げられないこともないが、メジャーは万全の調子でなければ簡単に成績を残せるところではないし、休む勇気もプロには必要」とコメントして故障者リスト入りし、靱帯損傷と診断された。故障者リスト入り中もチームには帯同し、8月30日のロッキーズ戦で復帰し、6四球を与えるも5回を3安打無失点に抑えた。9月10日の[[アリゾナ・ダイヤモンドバックス]]戦では6回を内野安打1本に抑え、打者としてもシーズン唯一となる安打を、日米通算でも初だった右中間への三塁打で記録する活躍を見せた。
 
{{by|2004年}}からは投球に[[カット・ファスト・ボール|カットボール]]や[[チェンジアップ]]を交えるようになり例年に続き開幕3連勝の好スタートを切り、前半で10勝を記録。2002年からの3年間での前半戦勝利数29はメジャー全体でトップとなったが<ref>日本人メジャーリーガー・ウォッチング RISING SUN 『月刊スラッガー』2004年10月号、60頁。雑誌15509-10。</ref>、後半は調子を崩して中継ぎ降格を告げられポストシーズンのロースターからも外れた。オフには[[ニューヨーク・ヤンキース]]、ロサンゼルス・ドジャース、アリゾナ・ダイヤモンドバックス間の三角トレードにより[[ランディ・ジョンソン]]と共にヤンキースへ移籍する予定であったが、ドジャース側の[[撤退]]により破談に終わっている。
 
===メッツ時代===
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{{by|2006年}}、1月20日に[[古田敦也]]が選手兼任監督に就任したヤクルトに年俸2億4000万円プラス出来高6000万円(推定)の2年契約で復帰<ref>2006年1月21日 日刊スポーツ関西版 11版 5面</ref>。背番号は自身が過去につけていた'''16'''。シーズン通して外れることなく先発ローテーションを守り、11勝を挙げた。
 
{{by|2007年}}5月17日の中日戦(ナゴヤドーム)で史上48人目となるNPB通算1500奪三振を達成。1413投球回での達成は、[[江夏豊]]の1423投球回を抜く日本プロ野球最速となった<ref name="K20110517000817780">{{Cite news |url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1105/kiji/K20110517000817780.html |title=【5月17日】2007年(平19) 35年ぶり更新 石井一久 江夏豊を超える最速1500奪三振 |newspaper=Sponichi Annex |date=2011-05-17 |accessdate=2021-12-25 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110526103937/https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/pro_calendar/1105/kiji/K20110517000817780.html |archivedate=2011-05-26}}</ref>。2007年9月23日の阪神戦で、2564日ぶりの完封勝利を挙げる(通算7回目)。しかし、シーズン通しては安定感を欠き9勝10敗、防御率4.16に終わった。11月12日に前年途中に取得していた[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]権を行使する。ヤクルトから慰留を受けるが、新たな環境を求めて移籍を決意。理由としては「新しい友達を作りたかったから」だと「[[開運!なんでも鑑定団]]」の中で話していたこともある
 
{{by|2007年}}は安定感を欠き、9勝10敗、防御率4.16に終わった。11月12日に前年途中に取得していた[[フリーエージェント (日本プロ野球)|FA]]権を行使する。ヤクルトから慰留を受けるが、新たな環境を求めて移籍を決意。理由としては「新しい友達を作りたかったから」だと「[[開運!なんでも鑑定団]]」の中で話していたこともある。
 
=== 西武時代 ===
2007年11月22日に[[埼玉西武ライオンズ]]への移籍が発表された。ヤクルト時代の背番号16は[[涌井秀章]]が着けていたため、16を反転した'''61'''を本人が選択。
 
{{by|2008年}}、3月29日の[[福岡ソフトバンクホークス]]戦でNPB通算100勝を達成。同シーズンでは序盤は最多勝争いに名を連ねるなど好調だったが徐々に調子を落とした。最終的に11勝を挙げたもののそのうちの10勝は本拠地[[西武ドーム]で挙げたもので球場によって好不調が激しく負け数は10敗を喫し、防御率4点台に終わり規定投球回にも到達できなかった。[[2008年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|日本ハムとのクライマックスシリーズ第2ステージ]]第4戦に先発し、6回まで無失点に抑え7回に3点取られるも7回3失点13奪三振の好投で勝利投手になった。[[2008年の日本シリーズ|巨人との日本シリーズ]]では第3戦に先発するも6回5失点で敗戦投手になるが、第7戦に3回からリリーフで登板すると2回をパーフェクトに抑え、第3戦のリベンジを果たすと結果的にチームは日本一となり、ヤクルト時代の2001年以来7年ぶりの日本一に貢献した。
 
{{by|2009年}}、涌井が背番号を18へ変更したため背番号を16に変更。前年に比べて被打率が下がる代わりに四球が増え、9勝止まりで規定投球回も達しなかったが、投球回数を上回る奪三振数を記録。
 
{{by|2010年}}5月19日のヤクルト戦([[西武ドーム]])で9回完投勝利(サヨナラ勝ち)を挙げ、12球団勝利を達成した<ref>サンケイスポーツ 2010年5月19日</ref>(レギュラーシーズンで近鉄との対戦はなかったが、[[2001年の日本シリーズ]]で近鉄に勝利している)。{{by|2010年}}、ヒーローインタビューにてファンへの一言を求められた際に犬のペロを飼い始めたことを明かし、以来ヒーローインタビューではペットの近況を報告するようになる。この年も9勝止まりだった。
 
[[File:Ishii kazuhisa.jpg|right|thumb|西武時代(2011年8月30日、[[秋田県立野球場|こまちスタジアム]]にて)]]
{{by|2011年}}、8月7日のソフトバンク戦で通算2000奪三振を達成(プロ野球20人目)。記録達成に要した投球回数は1967回2/3であり、これまでの最速記録保持者であった[[江夏豊]]を超えるプロ野球最速記録となった。しかし、シーズンでは6勝、防御率4.31と先発ではあまり結果を残すことができず、シーズン終盤にはリリーフに回った。リリーフでは安定感を見せ、特に[[クライマックスシリーズ]]ファーストステージ第2戦では、8回無死一・三塁から[[西口文也]]をリリーフして、[[糸井嘉男]]、[[小谷野栄一]]、[[稲葉篤紀]]を完璧に抑え、ポストシーズンで勝ち星のなかった西口のポストシーズン初勝利とチームのクライマックスシリーズファイナルステージ進出に貢献した。
 
{{by|2012年}}、5月25日のヤクルト戦で自身5年ぶりとなる完封勝利、6月13日の阪神戦では自身初となる無四球完封を記録した。また、シーズンで複数回完封勝利を記録したのは1997年のシーズン以来。4年ぶりの2桁勝利を達成したが怪我で二軍に落ち、10勝目を挙げて以降は勝ち星がなかった。
 
{{by|2013年}}は左肩の不調で出遅れ全て中継ぎの7試合の登板に終わった。全て中継ぎ登板だった。9月24日、現役を引退することを発表した<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/24/kiji/K20130924006678800.html 西武・石井が引退表明「長かった…時期的にそろそろかな」] スポーツニッポン 2013年9月24日閲覧</ref>。10月8日の引退セレモニー内のセレモニアルピッチでは夫人が見守るなか、長男(当時14歳)のストライク投球を受けた。また、声援にこたえるためのグラウンド1周を電動立ち乗り2輪車[[セグウェイ]]で行うなど石井らしいユーモラスな演出もあった<ref>{{Cite web |title=【西武】石井一引退式で涙「妻のおかげ」 - プロ野球ニュース |url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20131008-1201617.html |website=日刊スポーツ |date=2013-10-08 |accessdate=2020-12-28 |language=ja}}</ref>。
 
=== 現役引退後 ===
引退の記者会見では、現役時代に芸能活動のマネジメントを委託していた[[吉本興業]]に2014年4月に[[契約社員]]として入社する意向を表明。あくまで同社の高卒採用枠での入社で、給料も「一般の高卒社員と同じ」という<ref>[http://www.j-cast.com/tv/2013/09/25184551.html 引退・石井一久投手「吉本興業」入社!高卒一般社員として希望配属先は広報部] - J-CASTニュース・2013年9月25日</ref>。同社では一般の社員としての勤務のほか、並行して[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[ニッポン放送]]の野球解説者、[[スポーツニッポン]]の野球評論家としても活動した。現役スポーツ選手のマネージメント並びに引退後のスポーツ選手のマネージメントを仕事にし、広くスポーツ界に貢献するのが志望動機だとした。
 
{{by|2015年4}}月29日、[[ドジャー・スタジアム]]での[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]戦では始球式を務めた<ref>{{Cite web |title=石井一久氏、懐かしドジャースタジアムで始球式 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/1469475.html |website=日刊スポーツ |date=2015-04-30 |accessdate=2020-12-28 |language=ja}}</ref>。
 
{{by|2018年}}8月20日、1月に急逝した[[星野仙一]](在任当時取締役副会長)の後任として、[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]の編成部門を統括する取締役ゼネラルマネージャーに9月1日付で就任することが球団から発表された<ref>{{Cite news |url=http://www.rakuteneagles.jp/news/detail/00001450.html |title=石井一久氏のゼネラルマネージャー就任に関して |publisher=東北楽天ゴールデンイーグルス |date=2018-08-20 |accessdate=2018-08-20}}</ref>。