「ジダーノフ批判」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
2行目:
[[File:Andrei Zhdanov (cropped).jpg|thumb|200px|アンドレイ・ジダーノフ]]
[[ファイル:Prokofiev shostakovich khachaturian.jpg|サムネイル|批判の対象となったプロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ハチャトゥリアン(左から) (1945年)]]
'''ジダーノフ批判'''(ジダーノフひはん)は、[[1948年]][[2月10日]]に公にされた、[[ソビエト連邦共産党中央委員会]]による[[前衛文化、芸術]]に対するあら捜しと、それに伴う芸術様式イデオロギーの統制である<ref>Green,{{Cite Jonathan,Kotobank|word=ジダーノフ批判|author=世界大百科事典 and Nicholas J. Karolides. 2005. The Encyclopedia of Censorship, rev. ed. New York: Facts On File. ISBN 978第2版|accessdate=2022-0816044641. p.6684}}</ref>である。[[1948年]][[2月10日]]に公にされた。この批判を推し進めた人物、中央委員会書記[[アンドレイ・ジダーノフ]]にちなむ。[[1958年]][[5月28日]]に宣言が解除されるまでの10年間について、旧ソ連では俗に「ジダーノフシナ(''Zhdanovshchna'', ジダーノフ時代<ref>{{Cite web |url =http://journals.tsu.ru/uploads/import/1222/files/Rusin2-2011-70-86.pdf |title =«ЖДАНОВЩИНА» НА ЗАКАРПАТТІ |publisher =journals.tsu.ru |date = |accessdate =2018-12-17 }}</ref>)」として知られている。[[ヨシフ・スターリン]]の死まで有効とされた<ref>Taruskin, Richard, 2010. Music in the Late Twentieth Century. Oxford: Oxford University Press. ISBN 978-0-19-538485-7. p.12</ref>。
 
== 音楽 ==
形式上は、[[ヴァノ・ムラデリ]]の[[オペラ]]『偉大なる友情』への非難を目的としたものであった。しかしこのオペラは「前衛的[[形式主義 (音楽)#ソビエト連邦での形式主義|形式主義]]」であったどころか、むしろ聴衆の間では大人気であった。そもそも非難の発端は、このオペラが[[カフカス]]地方を舞台として戦争を描いており、その描写に[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]が激怒したことにあったとされる。ジダーノフがこの機に乗じて、[[社会主義リアリズム]]路線に反すると見なしうる、より抽象的で晦渋な作風の作曲家をまとめて糾弾するために、ことさらムラデリへの非難を仕掛けたというのが、ジダーノフ批判の実態であった。
 
後に、[[セルゲイ・プロコフィエフ|プロコフィエフ]]、[[ニコライ・ミャスコフスキー|ミャスコフスキー]]、[[アラム・ハチャトゥリアン|ハチャトゥリアン]]、[[ドミトリー・カバレフスキー|カバレフスキー]]ら、ソ連国内の多くの作曲家が批判の対象となった。中でも真の攻撃対象は[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ|ショスタコーヴィチ]]で、その他は目くらましのために言及されたという可能性も指摘されている。この宣言は翌年4月に、[[ソビエト連邦作曲家同盟|ソ連作曲家連盟]]の特別会議において追認され、攻撃された側の多くは、[[自己批判]]を公にすることを余儀なくされた。