「角館のシダレザクラ」の版間の差分

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一方、角館のシダレザクラそのもの自体について、確実な記録の残る最古のものは、それから約100年後の[[1770年]]代([[明和]]から[[安永 (元号)|安永]]年間)のもので、[[久保田藩]](秋田藩)[[藩士]]で[[国学者]]でもあった「益戸滄洲(ますどそうしゅう)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E7%9B%8A%E6%88%B8%E6%BB%84%E6%B4%B2-1109779 益戸滄洲] コトバンク、2022年4月25日閲覧。</ref>」が、 角館在住の[[国学]]の[[門徒]]「梅津定石工門」の屋敷を度々訪れ目にした、梅津家の庭園にあるシダレザクラの[[巨樹]]について記した文書がそれで、その美しさに感嘆した滄洲は梅津家のシダレザクラを次のように形容している{{Sfn|本間|2008|p=222}}。
{{Quotation|{{ruby|千百|せんひゃく}}{{ruby||いと}}{{ruby||た}}れている{{ruby||さくら}} その{{ruby||なが}}きこと{{ruby|百尺|ひゃくじゃく}}{{ruby||きり}}{{ruby||お}}{{ruby||くも}}{{ruby|縫|ぬ}}って{{ruby||した}}にむかう、{{ruby[[:wikt:恰|恰|ひろい}}]]{{ruby|万片|まんぺん}}{{ruby||ゆき}}{{ruby||かる}}{{ruby|綿|わた}}{{ruby||よう}}{{ruby|風前|ふうぜん}}{{ruby||ま}}い、{{ruby|又千尋|またせんじん}}{{ruby|飛瀑|ひばく}}{{ruby|大空|おおぞら}}にひるがえって{{ruby|半天|はんてん}}にかかる。|『益戸滄洲』[[1770年]]代([[明和]]・[[安永 (元号)| 安永]]年間)原文は[[漢文]]仙北市ホームページ<ref>[https://www.city.semboku.akita.jp/sightseeing/spot/07_shidaresakura.html 武家屋敷通りの枝垂桜] 仙北市ホームページ、2022年4月25日閲覧。</ref>より引用。原文は漢文。}}
形容された「百尺」は誇張されたものだとしても、梅津家の庭園に生育するシダレザクラはかなりの巨樹であったと考えられ、仮にこの時点での[[樹齢]]が100年以上の老樹であったと想定すると、植栽された時期は1670年代となり、佐竹北家初代義隣が角館を治めていた時代、すなわち前述した2つの伝承の時代に相当することになる{{Sfn|本間|2008|p=222}}。この梅津家の所在地は武家屋敷町の一角、東勝楽丁西側、今日の仙北市市役所角館庁舎の北側にあたる{{Sfn|本間|2008|p=222}}。
 
その後は、この梅津家のシダレザクラを親木として、武家屋敷の各屋敷の庭園に植えられていったといわれ、角館の[[寺子屋]]で『烏帽子於也』という教科書として使用された文書中には「両側並ふ糸桜・火除の土手の糸柳」との記述が見られ{{Sfn|仙北市教育委員会|2008|p=4}}、江戸時代末期から大正期に活動した角館出身の[[日本画家]]、西宮禮和(にしのみやれいわ)による『角館の四季 春 勝楽町観桜之図』で「江戸期のシダレザクラ」として描かれるなど、18世紀末頃からは角館のシダレザクラに関する様々な記録が残されている<ref>{{CRD|1000099982|角館出身の画家 西宮礼和(にしのみや れいわ)の作品『角館の四季 春 勝楽町観桜之図』の大きな写真が見たい。|[[秋田県立図書館]]}}。</ref>。