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江戸時代になると、[[朱子学]]や[[国学]]によって仏教は批判を受ける。そうした中で、太子は「清らかな日本に外国の野蛮な教えである仏教を導入した」人物と位置付けられ、[[林羅山]]や[[平田篤胤]]などの知識人によって批判の対象となり、さらに太子伝について実証的な検討と批判が行われた。平田は『出定笑語』に「仏を贔屓する一部の人が、人を惑わす事を承知で偽りの太子伝を創作した」と指摘している{{sfn|榊原史子|2021|p=10-25}}{{sfn|石井公成|2016|p=15-33}}。
 
一方で庶民の間では、変わらず太子への信仰が続いた{{sfn|榊原史子|2021|p=10-25}}。江戸時代の太子関連の著述は100余りに上り、特に『伝暦』を継承したした『聖徳太子伝』(寛文刊本・1666年)は、近世後期に至るまで後印本が繰り返し出版され多くの人に読まれた{{sfn|榊原小葉子|2010|p=171-173}}。また、太子は[[近松門左衛門]]の『聖徳太子絵伝記』など[[浄瑠璃]]や[[黄表紙]]などの庶民文化の題材となった。こうした太子信仰を背景に、太子との関係を説く神社もこの頃に現れ、法隆寺は浄財を集めるために出開帳を行った{{sfn|榊原史子|2021|p=243-244}}{{sfn|出雲路英淳|2004|p=234-236}}{{sfn|出雲路英淳|2004|p=242-244}}。
 
[[File:Series Otsu 100 Yen Bank of Japan note - obverse.jpg|thumb|300px|[[百円紙幣#乙百圓券|日本銀行兌換券乙百円]]。太子を描いた最初の紙幣である。]]
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:『四天王寺縁起』は今日に至るまで数多くの写本が製作されてきたが、中でも1335年に書写された『四天王寺縁起』(後醍醐天皇宸翰本)は、[[後醍醐天皇]]が王法の興隆を太子に祈願して製作したと考えられる{{sfn|榊原史子|2021|p=77-85}}。後醍醐天皇は自身の書写に手印を捺して、権者の聖蹟(根本本)を秘すように命じたとされている{{sfn|新川登亀男|2007|p=53-54}}。
 
:室町時代以降は、[[応仁の乱]]や[[織田信長]]の[[石山本願寺]]攻め、[[徳川家康]]の[[大坂の陣|大坂冬の陣攻め]]などで戦禍に見舞われ、そのたびに再建されてきた。江戸時代には[[江戸幕府|幕府]]の庇護のもと庶民信仰の場として賑わいを見せた。昭和には[[室戸台風]]や[[大阪大空襲]]で被害を受けるが、戦後に復興して現在に至っている{{sfn|榊原史子|2021|p=91-93}}。
 
;中宮寺
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;摂政像
:太子が成人になり摂政となった姿で、両手で[[笏]]を持ち袍を着て巾子冠を被る像。摂政太子とも呼ばれる。一般には22歳以降の姿とされ、史料に「霊像」と記されるものはこのタイプと推測されている。古例とされるのは、法隆寺聖霊院本尊の太子像や唐本御影で、これを祖型として鎌倉時代以降に定型化されたと考えられる。絵画の遺品が多く、四天王寺楊枝御影などが代表例。彫刻は少ないがでは達磨寺の太子像が著名である{{sfn|榊原史子|2021|p=211-214}}{{sfn|藤井由紀子|2011|p=145-149}}{{sfn|石川知彦|2020a|p=100-105}}{{sfn|浅井和春|1997|p=129}}{{sfn|石川知彦|1992|p=27-31}}。
 
;勝鬘経講讃像
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== 日本文化と太子信仰 ==
[[#太子講|太子講]]で職人との関わりを記述したように、太子信仰は庶民への広がりをみせると同時に様々な文化の発祥に関連する伝承を生み出し、祖神・守護神として祀られた。
 
[[華道]]は、室町時代に[[頂法寺|六角堂]]の僧侶が創設したとされ、最も古い流派とされる[[池坊]]の家元は代々六角堂の住職が務めている。近世に成立した伝承では、太子の命で出家した[[小野妹子]]が六角堂に入り、仏前に花を供えたことが華道の発祥としている{{sfn|榊原史子|2021|p=231-232}}。
 
[[和紙]]や[[墨]]の製作者の所在にも太子信仰が見られる。『書紀』推古天皇18年条は高句麗僧[[曇微]]が[[紙|製紙]]技術や墨の製法を伝えたと記すが、この記述が太子の事績とされるようになり「[[和紙]]作りの祖」などと祀られるようになった{{sfn|榊原史子|2021|p=232-233}}{{sfn|田中嗣人|1991|p=299-303}}{{Refnest|group=注釈|ただし『書紀』の記述以前から製紙が行われていたとみられ、紙の生産が増えるのは奈良時代になってからである{{sfn|榊原史子|2021|p=232-233}}。}}。
 
[[香]]との関わりでは『書紀』推古天皇3年条に香木が漂着した旨の記述がある。これには「発見した島民が朝廷に献上した」とだけ記されているが、『伝暦』ではさらに「太子が献上された香木を沈香と見抜き、香木から観音像を刻した」と付け加えられている。また太子像には柄香炉をもつ像が多く、太子信仰と共に香を薫く仏教儀礼が全国に広まったと考えられている{{sfn|榊原史子|2021|p=234-235}}。
 
芸能の発祥も太子の事績とされ、芸能の神として祀られる。『書紀』推古天皇20年条には、「百済から渡来した[[味摩之]]を[[桜井市|桜井]](土舞台)に住まわせて日本の少年に[[伎楽]]を学ばせた記されているが、やがてこれが太子の功績とされるようになった。[[室町時代]]成立の『[[花伝書]]』は[[猿楽]]の発祥を「太子が秦河勝に命じて66曲を作成させ「申楽」と名付けた」と記している。伎楽は奈良時代まで盛んに行われるが、[[雅楽]]などの新しい芸能により廃れた{{sfn|榊原史子|2021|p=101-236}}{{sfn|中村秀樹|2020|p=54}}{{sfn|中村秀樹|2020b|p=111-113}}。一方で江戸時代には太子が登場する演目が数多く作られた{{sfn|榊原史子|2021|p=62-63}}。
 
武士の中には、太子を勝軍神として祀るものもた。中世の太子伝の中には、太子を「兵法を伝授された達人で、丁未の乱で秘術を尽くして戦った」「蝦夷を異能の力で服属させた」などと記すものが現れる。戦国末期には、望月相模守定朝が古伝を継いだと称して[[聖徳太子流|太子流]]軍法剣術を創始し、そのなかの[[薙刀術]]は静流として[[会津藩]]に継承された{{sfn|石井公成|2016|p=15-33}}{{sfn|永田一|2011|p=198-199}}{{sfn|コトバンク: 静流}}。
 
また、太子信仰の根幹となり広く普及した『伝暦』は、日本文学にも影響を与えたと考えられる。杉浦一雄は『伝暦』を最古の一代記{{Refnest|group=注釈|ある人物の誕生から死までを網羅する物語{{sfn|杉浦一雄|2008|p=102-88}}。}}とした上で、『[[源氏物語]]』の構成や物語論は『伝暦』を踏襲したものであり、[[光源氏]]のモデルの1人は太子であるとしている。なお『伝暦』の著者と推測されている人物には、[[紫式部]]の曾祖父[[藤原兼輔]]がいる{{sfn|榊原史子|2021|p=202-205}}{{sfn|杉浦一雄|2008|p=102-88}}{{Refnest|group=注釈|ただしこの説は阿部隆一や[[飯田瑞穂]]らにより疑問を投げかけられている{{sfn|杉浦一雄|2008|p=102-88}}。}}。また、湯浅佳子は[[曲亭馬琴]]の蔵書に『伝暦』がある事を指摘し、『[[南総里見八犬伝]]』の物語構成に太子伝の影響があるとしている{{sfn|湯浅佳子|2000|p=47-48}}。