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| 車名=ホンダ・1300
| 車名補=H1300型
| 1枚目画像の説明=7799 S
| 1枚目画像名=H1300c1300 7s99s.JPGjpg
| 2枚目画像の説明=99クーペ7 S
| 2枚目画像名=1300 99sh1300c_7s.jpgJPG
| 3枚目画像の説明=クーペ7 S
| 3枚目画像名=h1300c_7s.JPG
| 製造国={{JPN}}
| 販売期間=[[1969年]]-[[1972年]]
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| 後継=[[ホンダ・145]]
}}
'''ホンダ・1300'''(ホンダ・せんさんびゃく)は、[[本田技研工業]]が[[1969年]](昭和44年)から[[1972年]](昭和47年)まで生産、販売していた4ドア[[セダン]]および2ドア[[クーペ]]の小型[[乗用車]]である。
 
== 概要 ==
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本田宗一郎は藤沢武夫と共に、翌1973年(昭和48年)に引退したが、この空冷水冷の一件が決定打であったとされている<ref group="注">後日談として、本田宗一郎は社長職から引退するまでの間、当車種を通勤用の車として使用し続けたという。</ref>。
 
== 評価 ==
日本では『[[カーグラフィック]]』誌が1969年8月号から70年3月号に掛けて、1300・77デラックスの長期ロードテストを行っており、H1300Eエンジンに対しては「パワフルで8000回転までスムーズに吹け上がる。静粛性は高回転域でも高く、他社の1600cc級GT車に比肩する」との評価を与えているが、一方で燃費は平均で約7.5km/リットル程度、[[カーヒーター]]と[[デフォッガー]]の性能は十分とは言えないと評価している。操縦性については、61.7対38.3という極度にノーズヘビーの重量配分<ref group="注">77デラックスの場合車重が885kgの為、前軸荷重は約546kg、後軸荷重が約334kgという事になるが、この前軸荷重のうち約200kgがエンジンである。</ref>の為、直進安定性は優れているが、過度のアンダーステアでありサスペンションは柔らかすぎるという否定的な評価を下しており、このような重いエンジンを開発してまで1300ccに空冷を採用する意義についての疑念まで呈していた。但し、標準装着タイヤである6.2S-13-4PR<ref>[https://meisha.co.jp/?p=11730/2&page=2 ホンダ1300・77] - 名車文化研究所</ref>を、99S標準の6.2H-13-4PR<ref>[https://web.motormagazine.co.jp/_ct/17286109 【昭和の名車 24】ホンダ 1300 99S(昭和44年:1969年)] - Webモーターマガジン</ref>に換装したところ、それだけで操縦性が5割方向上したとも附記していた<ref>[https://www.webcg.net/articles/-/11516 第34回:『偉大なる失敗作』ホンダ1300(1969〜1972)(その3) 【これっきりですカー】] - webCG</ref>。
 
カーグラフィックは1970年4月号にて1300・クーペ9Sもレビューしているが、セダンに劣らない居住性、無類のパワーの4キャブレターエンジンの評価と同時に、固く引き締められたサスペンションにより足回りの性能が漸くエンジンに追い付き、操縦性も77デラックスと比較にならない程向上したという評価を下しており、シングルキャブよりも燃費が良い結果も相まって、77デラックスとは全く別の車に仕上がっているとの結論を下している<ref>[https://www.webcg.net/articles/-/11515 第35回:『偉大なる失敗作』ホンダ1300(1969〜1972)(その4) 【これっきりですカー】] - webCG</ref>。
 
1300の輸出が行われた[[オーストラリア]]でも、『{{仮リンク|ホイールズ (雑誌)|en|Wheels (magazine)}}』誌などが1300の各グレードのロードテストを実施し、概ねカーグラフィック誌と類似した評価を残しているが、ブロアファンが標準では搭載されていない為、[[ベンチレーター]]と[[三角窓]]だけでは車内が蒸れやすく、エンジンの冷却風を直接利用するデフロスターは強力であるが夏場は不快な事。トランクルームの広さに対して開口部が小さすぎる事などを欠点として指摘する一方で、ホンダが独自に採用していたダッシュボードから直接着脱可能な「クリップイン・ヒューズボックス」に対しては一種の[[イモビライザー|盗難防止装置]]として活用できる事を好意的に評価していた<ref>[https://www.honda-1300-coupe.com/tests.htm Road Tests] - Honda 1300 Coupe Register</ref>。
 
また、日本国内では直線では無類の速さを見せるがコーナーではアンダーステアで曲がらない1300の特性を、より俗な表現として「直線番長」と呼んでいた<ref>[https://www.webcg.net/articles/gallery/29582 「第8回クラシックカーフェスティバル in 桐生」の会場から ビジュアル30枚 【画像・写真】] - webCG</ref>。
 
== モータースポーツ活動 ==
ホンダ1300発売当初、RSC(レーシング・サービス・センター、現在の[[ホンダ・レーシング]]の前身の一つ)によって同車のエンジンを流用した'''R1300と呼ばれるレーシングマシンが開発されていた。[[ブラバム]]・ホンダのフォーミュラ・シャーシを一部改良しFRPボディを被せたものに、初期型99用のエンジンに軽度のチューンを施し'''<ref group="注">エンジンとトランスミッションJAF位置関係、ドライサンプ[https://motorsports.jaf.or.jp/results/search/1969/race/1969-9999-86 JAF採用などレース仕様への転用に適していた。カムプロフィー公式リザの変更、[[クランクシャフト]]の軽量化及びバラでは「ホス取り、高[[圧縮比]]化、純正CVキャブレターを用ダ1300R」とされてた軽微なチューンにより130 PSる。</7,500 rpmを得た(CRキャブレターの装着で140 PS/8,500 rpmも可能であったref>呼ばれる)。トランスミッレーは標準の[[グマシンクロメッシュ]]4速に代わって、[[ノンシンクロトランスミッション|コンスタントメッシュ]]5速製作開発された。</ref>[[ミッドシップ]]に搭載していた。
 
RSCは1969年4月の[[鈴鹿500km]]自動車レースに[[ブラバム]]・ホンダのフォーミュラ・シャーシ<ref group="注">資料によっては「ブラバムのF3シャーシ」と記述される事が多く、一般的には{{仮リンク|ブラバム・BT16A|en|List_of_Brabham_race_cars}}とされているが、R1300の[https://motorsports.jaf.or.jp/results/search/1969/race/1969-9999-86 JAFの公式リザルト]では「BT18改」とされている事から、[https://www.honda.co.jp/sou50/Hworld/Hall/4rrace/345.html ブラバム・ホンダ BT18]または、ホンダがレーシングスクール用として特注させた{{仮リンク|ブラバム・BT18B|en|List_of_Brabham_race_cars}}がベースともいわれている。</ref>を一部改良しFRPボディを被せたボディに、[[ホンダ・S800]]のAS800Eエンジンと[[ヒューランド]]製ギアボックスを組み合わせて製作した独自のレーシングカー、'''ホンダ・R800'''で出場し、大排気量の[[トヨタ・7]]に次ぐ総合2位という好成績を収めていた。
 
この吉報を耳にした[[藤澤武夫]]副社長は、RSCを直接訪問してR800を視察し、この車体にホンダ1300のH1300Eエンジンを搭載して同年6月の[[鈴鹿1000km]]へ出場する計画をRSC側に打診した。このような経緯により開発がスタートしたR1300は、R800のエンジンを換装する形で改修されたものと、新規にシャーシ・ボディを製造したものの2台が製作される事になり、初期型99用のエンジンに軽度のチューンを施し<ref group="注">エンジンとトランスミッションの位置関係、ドライサンプの採用などレース仕様への転用に適していた。カムプロフィールの変更、[[クランクシャフト]]の軽量化及びバランス取り、高[[圧縮比]]化、純正CVキャブレターを用いた軽微なチューンにより130 PS/7,500 rpmを得た(CRキャブレターの装着で140 PS/8,500 rpmも可能であったとされる)。トランスミッションは標準の[[シンクロメッシュ]]4速に代わって、[[ノンシンクロトランスミッション|コンスタントメッシュ]]5速が製作された。</ref>、[[ミッドシップ]]に搭載する型式が採られた。
 
H1300Eエンジンは、BT16AやBT18が本来想定していた[[コヴェントリー・クライマックス]]・FPFエンジンや[[フォード・コスワース・FVA]]エンジンと比較しても50kg以上も重たかったが<ref>[https://grandprixengines.co.uk/Note_79.pdf] - Grand Prix Engine Development 1906-2000</ref>、最終的にはシャーシの改良によりR1300の車重はBT16<ref>[https://www.shannons.com.au/club/enthusiasts/penriteoil/garage/1965-brabham-bt16/ 1965 Brabham BT16 - PENRITEOIL] - Shannons Club</ref>とほぼ同等の490kgに抑えられた<ref>[https://www.gtplanet.net/forum/threads/honda-r1300-1969.309136/ Honda R1300 1969] - GTPlanet</ref>。
 
1969年(昭和44年)5月31日、[[鈴鹿1000km]]耐久レースに[[松永喬]]/[[永松邦臣]]の11号車と[[高武富久美]]/[[木倉義文]]の12号車の2台のR1300が初参戦。予選ではR1300より遥かに排気量の大きいローラT40、[[ポルシェ・906|ポルシェ・カレラ6]]に次いで3位と4位のタイムを記録する。決勝では2台共にポルシェ・カレラ6とトップ争いを繰り広げたが、59ラップ目に12号車が、続いて113ラップ目に11号車がそれぞれプライマリーチェーン切れによりリタイヤした。
 
藤澤は鈴鹿1000kmでの健闘を見て、次戦の鈴鹿12時間の成績次第ではル・マン24時間に参戦する計画も検討していたという。
 
続く8月10日、鈴鹿12時間耐久レースに[[高武富久美]]/[[木倉義文]]の6号車と[[松永喬]]/[[田中弘]]の7号車の2台のR1300が参戦した。6号車はトップを快走しながらも118ラップ目、[[ガス欠]]によりリタイヤしてしまう。7号車は抜きつ抜かれつの展開を繰り広げながらも一位を守ったが、レース開始から11時間が経過した225ラップ目スプーンコーナーでスピン、現場に差し掛かった周回遅れの後続車が追突し二台とも炎上した。7号車に乗っていた松永喬は全身に大[[火傷]]を負い、事故から25日後の同年9月4日に死亡した。
 
この事故は、前述の同じく「空冷」F1の[[ホンダ・RA302|RA302]]が、約一年前にフランス [[ルーアン・レゼサール]]で起こした事故に似た結末とも言え、空冷エンジン車に対するイメージダウンを恐れたためか、R1300は高いポテンシャルを有しながらも僅か二度の参戦をもって開発が打ち切られた。残された6号車も現在の行方は不明とされている
 
=== 余波 ===
H1300Eエンジンのポテンシャルは同時期の幾つかのレーシングガレージでも着目されており、RSCのR1300と同時期、鈴鹿近郊を活動拠点としていたワールドモーター(現・[[TSR (オートバイ)]])により、R1300と殆ど同じレイアウト<ref group="注">ホンダからR1300を払い下げられたとも言われている</ref>のレーシングカーである'''ワールド・AC7'''<ref>[https://blog.goo.ne.jp/rinyujin/e/b4898feec5c6e5a3db482c850bbb5872 ワールドAC7] - 輪遊人-BEAT</ref>が製作されている。ワールド・AC7は1970年3月の全日本鈴鹿自動車レース選手権優勝などの好成績を記録<ref>[https://motorsports.jaf.or.jp/results/search/1970/race/1970-9999-3 全日本鈴鹿自動車レース 選手権大会 全日本-I (R) リザルト] - JAFモータースポーツ]</ref>し、[[高原敬武]]もキャリアの初期に搭乗していた<ref>[https://motorsports.jaf.or.jp/results/search/1970/race/1970-9999-107 全日本富士1000kmレース 1000km (R1) リザルト] - JAFモータースポーツ]</ref>事績で知られる。
 
その後、ワールド・AC7は日本トランペット商事(現・ [[日本電音|ユニペックス]])のスポンサードで'''ニットラ・AC7'''<ref>[https://blog.goo.ne.jp/rinyujin/e/8b201f485105e53e263e0b7efcab3012 ニットラ(ワールド) AC7] - 輪遊人-BEAT</ref>に改名、[[田中弘 (モータースポーツ)]]の搭乗で国内各地の[[耐久レース]]に参戦した<ref>[https://motorsports.jaf.or.jp/results/search/1970/race/1970-9999-107 全日本富士1000kmレース 1000km (R1) リザルト] - JAFモータースポーツ</ref><ref>[https://motorsports.jaf.or.jp/results/search/1971/race/1971-9999-24 日本グランプリレース大会 レーシングジュニア リザルト] - JAFモータースポーツ</ref>。
 
1971年頃には日本レーシングマネージメント(JRM)の[[菅原義正]]もAC7を購入しており、国内レースの他<ref>[https://motorsports.jaf.or.jp/results/search/1971/race/1971-9999-61 全日本鈴鹿自動車レース大会 全日本選手権II (G) リザルト] - JAFモータースポーツ]</ref>、[[見崎清志]]の搭乗で1971年の[[マカオグランプリ]]・{{仮リンク|フォーミュラ・リブレ|en|Formula Libre}}に出走<ref>[https://www.driverdb.com/championships/standings/macau-grand-prix/1971/ XVIII Macau Grand Prix 1971 standings] - Driver Database</ref>、総合3位の結果を収めている<ref>[https://medium.com/@powerplayhk/%E8%B2%A8%E8%BB%8A%E8%B5%B0%E5%A4%A9%E6%B6%AF-hino%E9%81%94%E5%8D%A1%E7%8E%8B-%E8%8F%85%E5%8E%9F%E7%BE%A9%E6%AD%A3%E6%88%B0%E5%88%B0%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%B8%83-c109f62f2143 【貨車走天涯】HINO達卡王──菅原義正戰到七十七. Text: John Chan | by PowerPlay HK] - Medium</ref>。このレースで見崎が搭乗したAC7の映像は、1972年の映画『ヘアピン・サーカス』にて使用されている<ref>[http://www.mmjp.or.jp/60srace/HairpinCircusMisaki1.html HairpinCircusMisaki]</ref>。
 
ワールド・モーターの他には、富士ドライブショップ(現・[[オートバックスセブン]])が[[1969年日本グランプリ (4輪)]]に参戦する目的で、[[ハヤシレーシング]]に製作を委託した'''カーマン・アパッチ'''<ref>[https://www.autobacs.co.jp/ja/company/history.html 沿革 | 会社情報] - 株式会社オートバックスセブン</ref>も、R1300やAC7に類似したミッドシップのレイアウトでH1300Eエンジンを採用していた。カーマン・アパッチの活動期間は1969年中のみと短かったが、この時にハヤシレーシングがアパッチの為に製造した[[アルミホイール]]が、後年の同社のロングセラー商品であるハヤシ・ストリートと同じデザインであった<ref>[https://www.hayashiracing.com/hist/ ハヤシレーシング ヒストリー] - ハヤシレーシング</ref>。カーマン・アパッチ自体はオートバックスが所有を継続しており、2022年現在は同社の創業地である[[大阪市]]内のオートバックス出入橋ビル内に展示されている<ref>[https://www.gtplanet.net/forum/threads/hayashi-carman-apache-1969.332054/ Hayashi Carman Apache 1969] - GTPlanet</ref>。
 
1969年日本グランプリには他にも、[[大久保力]]率いるリキ・レーシング・ディベロップメントが、[[三村建治]]がエヴァ・カーズで設計したエヴァ・カンナム2AにH1300Eエンジンを搭載した'''エヴァ・カンナム2B'''を製作して出走しているが、燃料系統のトラブルによりリタイヤしている。大久保の述懐によると、「空冷だから軽いに違いない」と1300の新車を買ってきて早速エンジンを降ろしたところ、余りにもエンジンが重たかった為に頭を抱える事になり、それを見かねたRSCがワークス仕様のエンジンとミッションを供給してくれたという<ref>[http://motorpress.jugem.jp/?eid=1197 EVA Can-Am 2B] - Motor Press]</ref>。
 
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
* [[本田技研工業]]
* [[ホンダ・145]] - 後継車種