「伊東氏」の版間の差分

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== 日向伊東氏 ==
日向の伊東氏と[[日向国]]の関係は、「[[曾我兄弟の仇討ち]]」で知られる工藤祐経の子[[伊東祐時]]が、[[鎌倉幕府]]から日向の地頭職を与えられて[[庶家]]を下向させたことが始まりである。これらはやがて田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏として土着し、[[土持氏]]など在地[[豪族]]との関係を深めながら日向に[[東国]][[武士]]の勢力を扶植していった。
 
日向を支配するようになったのは、[[建武 (日本)|建武]]2年([[1335年]])、[[足利尊氏]]から命じられて日向に下向した伊東祐持(すけもち)からである。祐持は[[足利尊氏]]の妻・[[赤橋登子]]の所領であった穆佐院を守る為、日向[[都於郡城|都於郡]]300町を賜ったと言われている。祐持は国大将として下向した[[畠山直顕]]に属して日向国内の南朝方と戦った。征西府の拡大、[[観応の擾乱]]など情勢が変わるたびに国内は混乱したが、日向伊東氏は基本的に[[北朝 (日本)|北朝]]方(及び[[観応の擾乱]]時における尊氏派)の立場を守り、[[室町幕府|幕府]]に忠節を尽くした。息子の祐重(すけしげ)も[[征夷大将軍|将軍]]・尊氏から偏諱を受けて伊東氏祐(うじすけ)と改名した。
 
[[室町時代|室町]]〜[[戦国時代 (日本)|戦国期]]を通じて、日向伊東氏は[[守護]]の[[島津氏]]と抗争を繰り返しながら次第に版図を広げていった。[[長禄]]4年/[[寛正]]元年〜2年([[1461年]])には6代当主[[伊東祐堯]]が将軍・[[足利義政]]から内紛激しい[[島津氏]]に代わり守護の職務を代行せよという[[御教書]]([[偽書|偽文書]]説もある)が下され、続いて[[御相伴衆]]に任じられている。その後8代当主[[伊東尹祐]]、11代当主[[伊東義祐]]の父子に[[足利将軍家]](将軍[[足利義尹]]・[[足利義晴]])より偏諱を受けている。後者の義祐は、兄・[[伊東祐充|祐充]]や弟・[[伊東祐吉|祐吉]]の死去により家督を相続し、[[日南市|飫肥]]の[[豊州家|島津豊州家]]と抗争、これを圧倒し、更に[[真幸院]]を領する[[北原氏]]の後継人事に強引に介入してその領地を横奪すると、[[佐土原城]]を本拠に四十八の支城([[伊東四十八城]])を国内に擁し、[[位階]]は歴代最高位たる[[従三位]]に昇るなど最盛期を築き上げた。しかし、義祐は晩年から、奢侈と中央から取り入れた京風文化に溺れて次第に政務に関心を示さなくなり、[[元亀]]3年([[1572年]])、[[木崎原の戦い]]で[[島津義弘]]に退けられたことを契機に、日向伊東氏は衰退し始めた。
 
[[天正]]5年([[1577年]])、[[島津氏]]の侵攻に耐えられなくなった義祐は日向を追われて、その後は瀬戸内などを流浪した末に堺にて死去したという。こうして日向伊東氏は一時的に没落したが、家臣の[[山田宗昌]]は大友氏に客将として入り、栂牟礼城などで何度も島津軍を破るなど多くの戦功を立て、義祐の三男・[[伊東祐兵]]は中央に逃れて[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の家臣となり、天正15年([[1587年]])の[[九州平定]]で先導役を務め上げた功績を認められ、日向に[[大名]]として復帰を成し遂げた。
 
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では、祐兵は病の身であったため、家臣を代理として東軍に送っている。その功績により所領を[[安堵]]され、以後、日向伊東氏は[[江戸時代]]を通じて一貫して[[廃藩置県]]まで[[飫肥藩]]として存続することとなった。後に藩主は[[華族]]となった。