「ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル」の版間の差分
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{{Portal クラシック音楽}}
'''ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル'''({{Lang
[[ウムラウト]]がない[[英語]]読みでは、'''ジョージ・フレデリック・ハンドル'''({{lang|en|George Frideric (Frederick) Handel}} {{IPA-en|ˈhændᵊl|}}<ref>[[コリンズ英語辞典]] [http://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/handel "Handel"]。[[ハンドル]]と発音は同じである。[https://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/handle "handle"]</ref>{{sfn|ホイマン|2003|pp=3-5}}。)。ただし、イギリスで活動していた当時はドイツ語読みに合わせてヘンデルと一般にも発音されており、これに合わせて「Hendel」と表記されることもあった{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}。
== 生涯 ==
=== ハレ・ハンブルク時代 ===
<gallery widths="250">
ファイル:Halle Händelhaus 2012.jpg|生誕地
ファイル:George Frideric Handel baptismal register.jpg|ヘンデルの洗礼簿
</gallery>
1685年、[[ブランデンブルク=プロイセン]]領(現[[ザクセン=アンハルト州]])[[ザーレ川|ザーレ]]河畔の[[ハレ (ザーレ)|ハレ]]に生まれた<ref group="注釈">ヘンデルが生まれた時、母は34歳で、父は63歳の高齢だった。</ref>{{sfn|ホイマン|2003|pp=3-5}}<ref name=":0">{{Cite Kotobank |word=ヘンデル |author=日本大百科全書 |accessdate=2022-11-26}}</ref>{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}。ハレはもと[[マクデブルク]][[大司教]]領の中心都市で、[[ザクセン選帝侯領|ザクセン選帝侯]][[ヨハン・ゲオルク1世 (ザクセン選帝侯)|ヨハン・ゲオルク1世]]の子のザクセン=ヴァイセンフェルス公爵アウグストによって支配されていたが、1680年のアウグストの没後はブランデンブルク=プロイセンの領土になった。ヘンデルの父のゲオルクははじめアウグストの外科医(床屋を兼ねる)かつ従僕だったが、アウグストの死後はその子の{{仮リンク|ザクセン・ヴァイセンフェルス公国|label=ヴァイセンフェルス|de|Sachsen-Weißenfels}}公爵ヨハン・アドルフ1世に仕えた<ref name=":0" />{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|p=22}}</ref>{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|山田|2009|pp=18-24}}。[[File:George Frideric Handel Signature.svg|署名|フレーム]]
[[ファイル:Margaret_Isabel_Dicksee_The_Child_Handel_1893.jpg|サムネイル|隠れて練習しているところを両親に見つかる幼少期のヘンデル(19世紀の想像図)]]
ヘンデルは幼少時から非凡な音楽の才能を示していたが、父は息子を法律家にしようと考えており、息子が音楽の道へ進むことには反対していた。しかし、ヘンデルは父の目を盗んで[[クラヴィコード]]を入手し、夜な夜な屋根裏部屋で密かに練習を重ねて飛躍的な進歩を遂げた。幸いなことにヴァイセンフェルス公爵がヘンデルの[[オルガン]]演奏の才能を気に入り、ヘンデルは公爵の援助のおかげで音楽の勉強を続けることができたという{{sfn|ホイマン|2003|pp=3-5}}<ref name=":0" />{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=26-28}}</ref>。ヘンデルはハレの{{仮リンク|聖母教会 (ハレ)|label=聖母マリア教会|en|Marktkirche Unser Lieben Frauen}}のオルガニストであった{{仮リンク|フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハウ|en|Friedrich Wilhelm Zachow}}に作曲とオルガン、[[チェンバロ]]、[[ヴァイオリン]]の演奏を学んだが、じきに師をしのぐほどになった{{sfn|ホイマン|2003|pp=3-5}}<ref name=":0" />{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}<ref name=":7">{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=28-34}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|p=16}}</ref>。
1697年2月11日、父ゲオルグが没した。これによりヘンデルの周囲で音楽に反対する者はいなくなったが、同時に収入と支えの両方を失った{{sfn|ホイマン|2003|pp=3-5}}{{sfn|山田|2009|pp=18-24}}<ref name=":7" />。危機意識に駆られたヘンデルは音楽と勉学に励み、1702年に[[マルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルク|ハレ大学]]に入学。学部は定かではないが、法学部に所属したと推察される。同年にハレ大聖堂{{Efn|ハレ大聖堂は[[カルヴァン主義|カルヴァン派]]の教会であったが、ヘンデル自身は[[ルーテル教会|ルター派]]であった{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}{{sfn|サディー|1975|pp=1-6}}。}}のオルガニストとして1年間の仮採用契約を結ぶ<ref name=":0" />{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}{{sfn|山田|2009|pp=18-24}}<ref name=":7" /><ref>{{harvnb|渡部|1966|p=21}}</ref>。また、オペラに関心を持ち始めたヘンデルは[[ベルリン王宮]]を訪ね、後に初代[[プロイセンの王]]となる[[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ3世]]から宮廷への就職とイタリアでの勉強を提案されたものの、固辞してハレに戻ったとされる{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}<ref name=":7" />。この頃に始まった作曲家[[ゲオルク・フィリップ・テレマン|テレマン]]との交友は終生続いた<ref name=":0" />{{sfn|三澤|2007|pp=6-13}}{{sfn|山田|2009|pp=18-24}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=36-37}}</ref>。
同年2月25日には次のオペラ『ネロ』が上演されているが、これは評価が芳しくなかった{{sfn|三澤|2007|pp=14-17}}。翌1706年にも2つのオペラ『幸福なフロリンド』『変容のダフネ』を作曲しているが(1708年上演)、この3曲は一部の舞曲と断片を除いて消失している{{sfn|三澤|2007|pp=14-17}}{{sfn|三澤|2007|pp=194-198}}。
ハンブルクではまた音楽理論家として知られることとなる[[ヨハン・マッテゾン]]と親友関係となり、ヘンデルがゲンゼマルクト劇場で職を得たのも彼の計らいによるものであったが、マッテゾンのオペラ『クレオパトラ』(1704年)の上演中に2人は喧嘩を始めた挙句、[[決闘]]で刺殺されそうになったことがある。後に両者は和解し、マッテゾンは『アルミーラ』のテノールの主役を演じている{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|三澤|2007|pp=14-17}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=38-43}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=25-29}}</ref><ref>{{harvnb|皆川|1972|p=233}}</ref>。1703年にヘンデルはマッテゾンとともに[[ディートリヒ・ブクステフーデ|ブクステフーデ]]の後任オルガニストになるために[[リューベック]]に旅行しているが、ブクステフーデの娘との結婚が条件とされていると聞いて逃げ出している。なお、2年後に[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]も同じ経験をしている{{sfn|三澤|2007|pp=14-17}}{{sfn|サディー|1975|pp=1-6}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=39-40}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=26-27}}</ref>。
=== イタリア時代 ===
[[ファイル:Handel_quando_jovem.jpg|サムネイル|肖像画(1710年頃)]]
[[トスカーナ大公国|トスカーナ]]大公子[[フェルディナンド・デ・メディチ (大公子)|フェルディナント]]([[メディチ家]])からの熱心な誘いを受け、ヘンデルはイタリア行きを決意した{{sfn|三澤|2007|pp=18-29}}。旅費を独力で工面したヘンデルは、1706年から1710年まで[[イタリア]]の各地を巡った。ヘンデルの正確な足取りは明らかでないが、[[フィレンツェ]]、[[ローマ]]、[[ヴェネツィア]]、[[ナポリ]]を訪れたらしい{{sfn|ホイマン|2003|pp=3-5}}{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|三澤|2007|pp=18-29}}{{sfn|サディー|1975|pp=7-12}}<ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=32}}</ref>。
当時ローマでは[[ローマ教皇庁]]の命令によりオペラの上演が禁止されていたため、ここでヘンデルは最初のオラトリオ『[[時と悟りの勝利]]』を作曲している{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=60-62}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=34-36}}</ref>。ローマではまた[[アルカンジェロ・コレッリ|コレッリ]]に会ってその影響を受け<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|p=59}}</ref>、また[[ドメニコ・スカルラッティ]]と鍵盤楽器の競演を行っている。チェンバロの腕前については評価が分かれ、スカルラッティの方が優れているとする者もあったが、オルガン演奏についてはヘンデルが圧倒し、スカルラッティ自身がヘンデルの強い影響を受けたという<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|p=60}}</ref><ref name="名前なし-1">{{harvnb|渡部|1966|pp=38}}</ref>。再びフィレンツェのココメロ劇場で、ヘンデル最初のイタリア・オペラ『ロドリーゴ』が上演された<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=65-68}}</ref>。1708年にはオラトリオ『[[復活 (ヘンデル)|復活]]』が上演されている<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=68-73}}</ref><ref name="名前なし-1" />。1709年にヴェネツィアで上演されたオペラ『[[アグリッピナ (ヘンデル)|アグリッピーナ]]』は大成功を収め、連続27回も上演された。イタリア・オペラの中心地のひとつであるヴェネツィアで外国人の作品がこれほど成功するのは異例であった<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=82-83}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|p=42}}</ref>。
現地で「イル・サッソーネ」({{Lang-it|il Sassone}}、ザクセン人の意)と呼ばれ親しまれたヘンデルは[[パトロン]]達の歓迎を受け、[[カンタータ]]なども発表していたが、周辺国の侵攻や経済的没落により斜陽を迎えているイタリアに声楽と器楽の様式を十分に吸収したヘンデルが留まり続ける理由はなかった{{sfn|ホイマン|2003|pp=3-5}}{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|山田|2009|pp=24-28}}。
=== ロンドンへ ===
[[1710年]]6月16日、25歳のヘンデルは[[アゴスティーノ・ステッファーニ|ステッファーニ]]の後任として[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]]の[[宮廷楽長]]となったが、
=== 王室音楽アカデミーへの参加 ===
[[File:William Hogarth - The Bad Taste of the Town.png|thumb|[[ウィリアム・ホガース]]による[[カリカチュア]](1724年)。左がヘイマーケット国王劇場でヘンデルのオペラとハイデッガーの仮面舞踏会(ほかにアイザック・フォークスの奇術ショーの看板も見える)、右がリンカーンズ・イン・フィールズ劇場で[[ジョン・リッチ (プロデューサー)|ジョン・リッチ]]一座の[[アルレッキーノ|ハーレクイン]]劇『フォースタス博士』に行列ができている。手前では[[ジョン・ドライデン|ドライデン]]や[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]の本が紙屑として売られている。]][[南海泡沫事件|投機熱の高まり]]の中、貴族たちによってオペラ運営会社「{{仮リンク|王室音楽アカデミー|en|Royal Academy of Music (company)}}」が1719年に設立され、ヘンデルはその芸術部門の中心人物となった{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|三澤|2007|pp=54-556}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=131-135}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=64-65}}</ref>。翌年の開幕に向けて、ヘンデルは歌手と契約を結ぶべくヨーロッパ大陸へ渡っている{{Efn|バッハはこの時ヘンデルとの面会を試みてハレへ向かったが、結局すれ違いとなったと伝えられている{{sfn|三澤|2007|pp=56-58}}<ref name=":8">{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=135-137}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=66-67}}</ref>。}}{{sfn|三澤|2007|pp=56-58}}<ref name=":8" />。またアカデミーのための音楽の大部分はヘンデルが作曲し、『ラダミスト』『[[エジプトのジュリアス・シーザー|ジューリオ・チェーザレ]]』『[[タメルラーノ (ヘンデル)|タメルラーノ]]』『[[ロデリンダ]]』をはじめとするオペラが上演された。アカデミーにおけるヘンデルのライバルは、イタリア人作曲家[[ジョヴァンニ・バッティスタ・ボノンチーニ|ボノンチーニ]]であった{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}<ref name=":2" /><ref name=":3">{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=131-132,158-159}}</ref>。
1723年に王室礼拝堂作曲家に任じられていたヘンデルはジョージ1世の死の直前の[[1727年]]2月20日にイギリス国籍を取得し、[[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の戴冠式のために大規模な『[[ジョージ2世の戴冠式アンセム|戴冠式アンセム]]』を上演した<ref name=":0" />{{sfn|サディー|1975|pp=20-25}}。
しかしアカデミーの経営はずさんであり、[[カストラート]]の[[セネジーノ]]、[[ソプラノ]]の[[フランチェスカ・クッツォーニ]]、[[メゾ・ソプラノ]]の[[ファウスティーナ・ボルドーニ]]という3人のスター歌手に対する高額の報酬、およびクッツォーニとファウスティーナの争いもあって、ロンドンのイタリア・オペラは再び衰退していった。さらに1728年に上演された[[ジョン・ゲイ]]の『[[ベガーズ・オペラ|乞食オペラ]]』は、すでに没落していたアカデミーに最後のとどめをさし、
[[File:Retrato de Handel.jpg|thumb|肖像画(1730年頃)]]
=== 貴族オペラとの争い ===
資産運用により一定の財を蓄えていたヘンデルは{{Efn|ヘンデルは[[南海会社]]に投資していた{{sfn|三澤|2007|pp=75-79}}。}}、スイス人投機家[[ジョン・ジェームズ・ハイデッガー]]とともにアカデミーを建て直し、イタリアを訪れて歌手と契約を結んでドイツ経由でロンドンに戻った{{efn|その帰路にハレで暮らす母を訊ねている<ref name=":0" />。これが母との最後の面会となった{{sfn|三澤|2007|pp=75-79}}{{sfn|サディー|1975|pp=28-37}}。}}{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|三澤|2007|pp=75-79}}{{sfn|サディー|1975|pp=28-37}}。再建されたアカデミーでヘンデルはオペラ『インド王ポーロ』(1731年)などで成功を収めたが、1733年にはヘンデルを庇護するジョージ2世に敵愾心を燃やす[[プリンス・オブ・ウェールズ|王太子]][[フレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)|フレデリック・ルイス]]によってアカデミーのライバルとなる貴族オペラが設立される。貴族オペラの作曲家は[[ニコラ・ポルポラ]]であった<ref name=":0" />{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|サディー|1975|pp=28-37}}{{sfn|サディー|1975|pp=38-49}}<ref name=":9">{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=189-242}}</ref>。さらにハイデッガーも1734年の契約満了をもってヘンデルと決別し、それまでアカデミーのオペラを上演していた[[ハー・マジェスティーズ劇場|ヘイマーケット国王劇場]]を貴族オペラに引き渡してしまう{{sfn|サディー|1975|pp=38-49}}<ref name=":9" /><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=101-102}}</ref>。
ヘンデルは[[ロイヤル・オペラ・ハウス|コヴェント・ガーデン劇場]]に移るが、貴族オペラ側はアカデミーから歌手を引き抜いた上、有名な[[カストラート]]の[[ファリネッリ]]を迎え、アカデミー側は苦戦をしいられた{{sfn|サディー|1975|pp=38-49}}<ref name=":9" /><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=103-106}}</ref>。作品の人気としてはヘンデル側の方が優勢であったものの、2つのオペラハウスを賄うだけの需要は無く、第2期アカデミーは1734年をもって閉幕(これは当初の予定通り)。その後もヘンデルと貴族オペラの闘いは続いたが、貴族オペラは多額の赤字を出して1737年に倒産。破産こそ免れたものの、ヘンデル自身も経済と心身の両面で疲弊した{{sfn|サディー|1975|pp=38-49}}<ref name=":9" />{{sfn|三澤|2007|pp=95-96}}{{sfn|三澤|2007|pp=112-117}}。
ヘンデルは同年4月に卒中に襲われ半身不随となり、[[温泉療法|温泉治療]]のため[[アーヘン]]で夏を過ごした。奇跡的に回復した後は、再びハイデッガーと組んでオペラ『ファラモンド』や『[[セルセ (ヘンデル)|セルセ]]』(クセルクセス)などの公演を続けるが、もはやロンドンでオペラが成功することはなかった<ref name=":0" />{{sfn|サディー|1975|pp=38-49}}<ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=116-117}}</ref>{{sfn|三澤|2007|pp=112-117}}。この頃からヘンデルの曲には他の作曲家からの「借用」(今でいうところの[[盗作]])が目立つようになるが、当時は問題視されなかった{{sfn|サディー|1975|pp=38-49}}。
=== オラトリオと晩年 ===
現在も知られているヘンデルの曲の多くは、1739年以降に作曲されている{{sfn|サディー|1975|pp=50-57}}。
ヘンデルは1732年の『[[エステル (ヘンデル)|エステル]]』以来<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=177-179}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=94-96}}</ref>、英語のオラトリオをいくつか上演していたものの、1734年から1738年まではオラトリオの新作を発表していなかった。ヘンデルは1739年はじめにオラトリオのシーズンを開き、『[[サウル (ヘンデル)|サウル]]』と『[[エジプトのイスラエル人]]』を上演<ref name=":0" />{{sfn|サディー|1975|pp=38-49}}。同年秋には、『[[聖セシリアの日のための頌歌 (ヘンデル)|聖セシリアの日のための頌歌]]』を10日で仕上げた{{sfn|サディー|1975|pp=50-57}}。続けて合奏協奏曲集の制作に取り掛かり、12曲を5週間ほどで書き上げた。この『[[合奏協奏曲集 作品6 (ヘンデル)|作品6]]』は翌年に出版され、現在でも特に評価が高いバロックの弦楽合奏作品である{{sfn|サディー|1975|pp=50-57}}<ref name=":5">{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=282-284}}</ref>{{sfn|三澤|2007|pp=127-129}}。しかし、この2年間の音楽会シーズンは[[ジェンキンスの耳の戦争|スペインとの戦争]]の勃発やロンドンを襲った大寒波により散々なものとなった{{sfn|サディー|1975|pp=50-57}}{{sfn|三澤|2007|pp=131-135}}。1740年から翌年にかけてオペラへの復帰を試みたが、『イメネオ』も『ダイダミア』も不振に終わった{{sfn|サディー|1975|pp=50-57}}{{sfn|三澤|2007|pp=131-135}}。
1741年、失意の中にあったヘンデルは、[[アイルランド総督 (ロード・レフテナント)|アイルランド総督]][[ウィリアム・キャヴェンディッシュ (第3代デヴォンシャー公爵)|ウィリアム・キャヴェンディッシュ]]から翌年にかけて[[ダブリン]]で開催される慈善演奏会への招待を受けた。これを承諾して[[アイリッシュ海]]を渡ったヘンデルが携えてきたオラトリオに、高い水準の音楽に親しんでいなかったダブリン市民たちは驚嘆し、次いで1742年4月13日に初演された『[[メサイア (ヘンデル)|メサイア]]』は大好評であった。わずか24日で書き上げたこの作品は、ヘンデルにとって起死回生の一作となる{{Efn|一方、メサイアの台本を書いた[[チャールズ・ジェネンズ]]は、ヘンデルによる短期間の作曲を粗雑に仕事をされたと受け止め、自身が聴きに行くことができないダブリンで初演されたことに立腹していた{{sfn|三澤|2007|pp=145-148}}。}}<ref name=":0" />{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|サディー|1975|pp=50-57}}{{sfn|三澤|2007|pp=136-145}}。
同年秋にロンドンに戻ったヘンデルは、オペラの作成依頼を断り、ダブリンへ旅立つ前に作ったオラトリオを書き直した。この『[[サムソン (ヘンデル)|サムソン]]』はロンドン市民らからも好評であったが、次いで『メサイア』も上演したところ、オラトリオの主な担い手であったピューリタリズムを精神的支柱とする中産階級からは受け入れられず、ダブリンでの反応とは対照的にこの時は不調であった{{sfn|三澤|2007|pp=145-148}}。1743年4月に2度目の卒中を起こすが、まもなく創作活動を再開し、オラトリオに軸足を移して『[[ヘラクレス (ヘンデル)|ヘラクレス]]』などの傑作を送り出しつつ試行錯誤を重ねた{{sfn|三澤|2007|pp=149-161}}。
1749年には、[[オーストリア継承戦争]]の終結を祝う祝典で打ち上げられる花火のために、『[[王宮の花火の音楽]]』を作曲する<ref name=":0" /><ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=378-383}}</ref><ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=145-146}}</ref>{{sfn|サディー|1975|pp=67-76}}。1750年5月、オラトリオシーズン終了後に孤児養育院礼拝堂で慈善演奏会として『メサイア』を上演。収益は全額寄付した。この慈善活動はヘンデルが死ぬまでの間の恒例行事となった{{sfn|三澤|2007|pp=176-177}}{{sfn|ホグウッド|1991|pp=390-391}}。
[[ファイル:Joseph_Goupy,_1754_-_GFHandel.jpg|サムネイル|『愛すべき野獣』(1754年)<br/>ヘンデルを風刺したジョーゼフ・グーピーの[[カリカチュア]]{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}{{sfn|サディー|1975|pp=38-49}}。<br/>ヘンデルは大食漢で、音楽に関してはしばしば激しい感情をあらわにした。一方でユーモアもあり、寄付を積極的に行い、多くの社会層に友人を持っていた{{sfn|サディー|1975|pp=67-76}}。]]
同年夏、ドイツ訪問の道中で[[馬車]]が転覆し負傷する{{sfn|サディー|1975|pp=67-76}}{{sfn|ホグウッド|1991|pp=392-401}}。その後ロンドンに戻るが、『[[イェフタ (ヘンデル)|イェフタ]]』を作曲中であった翌1751年2月に左眼の視力の衰えが顕著となり{{Efn|視力の低下により作曲の一時中断を余儀無くされたのは、「ああ主よ、御身の御意志はなんと計り知れぬことか({{lang-en|How dark, O Lord, are thy decree}})」というコーラスを書いている時であった{{sfn|サディー|1975|pp=67-76}}{{sfn|ホグウッド|1991|pp=392-401}}。}}、夏には片目失明者となる。間もなく右眼の視力も悪化する。そのような中で『イェフタ』はなんとか完成させるが、1752年頃には完全に失明したため作曲活動はできなくなった。その後も演奏活動だけは続けていた。1758年の夏にタンブリッジ・ウェルズで眼科医の[[ジョン・テイラー (眼科医)|ジョン・テイラー]]による手術を受けたが、結局は成功しなかった{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|サディー|1975|pp=67-76}}{{sfn|ホグウッド|1991|pp=392-401}}{{sfn|ホグウッド|1991|pp=407-408}}。
翌1759年4月14日、体調の悪化により死去。74歳であった。ヘンデルは[[ウェストミンスター寺院]]に葬られることとなるが、ひっそりと埋葬されることを望んだ本人の願いにも関わらず3000人もの民衆が別れを惜しむために押し寄せ、無数の追悼文が新聞や雑誌を賑わせた{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}{{sfn|サディー|1975|pp=67-76}}<ref>{{harvnb|渡部|1966|p=154}}</ref>。
{{Quote|
'''H'''e's gone, the Soul of Harmony is fled!
(和声の主、君は逝き)
'''A'''nd warbling Angels hover round him dead.
(悲しみの天使は舞う、なきがらの上)
'''N'''ever, no, never since the Tide of Time,
(汝こそは天地の開けし時ゆ)
'''D'''id music know a Genius so sublime!
(比類なき楽の天才)
'''E'''ach mighty harmonist that's gone before,
(君が調べ、奏づるに)
'''L'''essen'd to Mites when we his Works explore.
(なべての楽士、色失いぬ)
|3=4月17日付『パブリック・アドヴァタイザー』
|4={{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}}}
ヘンデルが没した翌年に{{仮リンク|ジョン・マナリング|en|John Mainwaring}}によるヘンデルの伝記が出版された。音楽家の伝記が出版されることは当時としては異例であった<ref>{{harvnb|渡部|1966|p=14}}</ref>。1784年にはヘンデルの生誕百周年を祝って大編成の管弦楽団によるヘンデル記念祭が挙行され、その後も記念祭は続けられた{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=423-432,436-438}}</ref>。[[サミュエル・アーノルド (作曲家)|サミュエル・アーノルド]]によるヘンデル全集は1787年から1797年までかけて刊行された{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=438-440}}</ref>。
== 影響 ==
[[File:Fotothek df roe-neg 0001686 001 Händeldenkmal auf dem Marktplatz.jpg|thumb|ハレのヘンデル像]]
ヘンデルは生前から高く評価され、没後すぐに神格化された。当時としては初めての試みである作品集が死後出版され多くの合唱団にヘンデルの音楽が受け継がれたこともあり、ヘンデルは名声が没後も衰えなかった最初の作曲家となった{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}<ref name="名前なし-2" />。
とくにオラトリオはイギリスに止まらず、1772年には[[ハンブルク]]で『メサイア』が上演されたほか、1773年には[[カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ]]がドイツ語版の『メサイア』を上演している<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=442-443}}</ref>。オラトリオは当時発達した市民レベルの合唱団に好まれた。エマヌエル・バッハは『メサイア』を何度も指揮し、これに刺激されて自らオラトリオを作曲するようになった<ref>{{Cite book|和書|author=大崎滋生|title=音楽演奏の社会史|publisher=[[東京書籍]]|year=1993|isbn=4487791049|pages=72,94}}</ref>。
1780年代には[[ウィーン]]の[[ゴットフリート・ファン・スヴィーテン|ヴァン・スヴィーテン男爵]]がその私的な日曜コンサートでヘンデル作品を広く紹介し、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]がこのコンサートのためにいくつかの曲を編曲している<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=443-444}}</ref>。また、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン|ハイドン]]はロンドン訪問から帰るときに[[ヨハン・ペーター・ザーロモン|ザーロモン]]からオラトリオ『[[天地創造 (ハイドン)|天地創造]]』の台本を贈られたが、この台本は本来ヘンデルによる作曲を想定して書かれたものだったという。台本はヴァン・スヴィーテン男爵によってドイツ語に翻訳され、それにつけられた音楽はハイドンの代表作のひとつとなった<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=446-447}}</ref>。
[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]はとくにヘンデルを高く評価し、『[[調子の良い鍛冶屋]]』にもとづく2声のフーガや、『[[ユダス・マカベウス]]』の「見よ勇者は帰る」にもとづくチェロとピアノのための変奏曲を作曲した。1824年、[[ヨハン・アンドレアス・シュトゥンプフ]]との筆談において、ヘンデルがもっとも優れた作曲家だとベートーヴェンは答えたが、ヘンデル全集をベートーヴェンが持っていないことを知ったシュトゥンプフは後にアーノルド版全集を贈っている<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=448-449}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=大築邦雄|authorlink=大築邦雄|title=ベートーヴェン|series=大作曲家 人と作品 4|publisher=[[音楽之友社]]|year=1962|pages=115,120}}</ref>。
== 現代に継承された作品 ==
{{Listen|type=music
|filename=Handel - messiah - 44 hallelujah.ogg|title=『メサイヤ』より「ハレルヤ・コーラス」(1741年)
|filename2=Handel - Arrival of the Queen of Sheba.ogg|title2=『ソロモン』より「シバの女王の到着」(1748年)
|filename3=Enrico Caruso, George Frideric Handel, Ombra mai fu (Serse).ogg|title3=『セルセ』より「オンブラ・マイ・フ」(1738年)
|filename4=George Frideric Handel - Music for the Royal Fireworks 1 (Overture) The sound quality is better music.ogg|title4=『王宮の花火の音楽』より「序曲」(1717年)
}}
ヘンデルは多数の作品を作曲したが、広く知られている作品はそのごく一部分にすぎない<ref name="名前なし-2">{{harvnb|ホグウッド|1991| p=485}}</ref>。オラトリオ、中でも「ハレルヤ・コーラス」を始めとする『[[メサイア (ヘンデル)|メサイア]]』が突出して有名になったため、他の曲に日が当たらない結果になっている{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}<ref name=":6">{{Cite book|和書|title=サイード音楽評論1|publisher=[[みすず書房]]|date=2012-11-22|isbn=978-4-622-07724-4|oclc=959768333|year=2012|author-link=エドワード・サイード|author=エドワード・W・サイード|translator=[[二木麻里]]|pages=136-146|chapter=ヘンデルのオペラ『ジュリオ・チェーザレ』}}</ref><ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|p=3}}</ref>。オラトリオ以外に生き残った作品はわずかであり、18世紀末に編纂された最初のヘンデル全集にはオペラは5曲しか含まれていなかった<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=439-442}}</ref>。
20世紀に入り、オラトリオ以外のヘンデルの作品を復活させる試みがドイツやイギリスなどを中心になされてきた。しかし、優れた美声と技巧を持つカストラートが歌い手となり聞き手もイタリア風の文化に慣れ親しんでいた18世紀当時とは条件が異なるため、ヘンデルのオペラを現代において完全再現することは事実上不可能であり、またその高い芸術性にも関わらず評価をされ難いのが実情である{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}{{sfn|三澤|2007|pp=194-198}}<ref name=":6" /><ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|pp=473-481}}</ref>。
『メサイア』以外のオラトリオとしては、『[[ユダス・マカベウス]](マカベウスのユダ)』中の合唱曲「見よ、勇者は帰る」は[[ジョン・ウィリアム・フェントン]]によって[[日本]]に紹介され、大会の優勝者を称える曲・表彰状授与のBGM(得賞歌)として定着しており、耳にする機会が非常に多い<ref>{{Cite web |title=あきらめない!勝者の一曲(2014年10月11日放送) |url=http://www.nhk.or.jp/lalala/archive.html |website=ららら♪クラシック - NHK |access-date=2022-11-26 |publisher=日本放送協会}}</ref><ref>{{Cite web |title=【今こそ知りたい幕末明治】 52 吹奏楽発祥の地、鹿児島 |url=https://www.sankei.com/article/20180316-6EWJOSASJJPDXDUH77SHKPKNLA/ |website=産経ニュース |date=2018-03-16 |access-date=2022-12-02 |first=泉 |last=原口 |authorlink=原口泉}}</ref>。
オペラの中でも、ロンドン進出の足掛かりとなった『[[リナルド (オペラ)|リナルド]]』で歌われるアリア「[[私を泣かせてください]]」は特に有名で{{sfn|三澤|2007|pp=198-199}}、日本のテレビドラマの挿入歌などにも使われている<ref>{{Cite web |title=定番クラシック特集[日本クラシックソムリエ協会 監修 まずは聴いておきたいクラシック SELECTION] |url=https://mora.jp/special/classic |website=mora ~WALKMAN®公式ミュージックストア~ |access-date=2022-12-03 |quote=NHK連続テレビ小説『ちゅらさん』や、ドロドロの昼ドラで注目された『牡丹と薔薇』使用曲としても知られている。}}</ref>。『[[セルセ (ヘンデル)|セルセ]]』は興行としては失敗したものの、その中のアリア「[[オンブラ・マイ・フ]](懐かしい木陰よ)」は今も人気が高い{{sfn|三澤|2007|p=200}}。
オペラ、オラトリオや世俗カンタータの他、管弦楽曲としては、[[管弦楽組曲]]『[[水上の音楽]]』『[[王宮の花火の音楽]]』が有名。また、[[合奏協奏曲]]、室内楽、オルガンやチェンバロのための作品がある。コレッリの影響が強く、[[アントニオ・ヴィヴァルディ|ヴィヴァルディ]]の影響は見られない<ref>{{harvnb|渡部|1966|p=197}}</ref><ref>{{harvnb|皆川|1972|p=240}}</ref>。オルガン協奏曲はオラトリオの幕間にヘンデル本人が演奏するために書かれたもので、オラトリオ以上に人気があったという。教会のオルガンではなく、劇場の中の演奏会のためにペダルのない小型のオルガンを使用した<ref>{{harvnb|渡部|1966|pp=198-199}}</ref>。
イギリスではしばしば重要な行事でヘンデルの音楽が採用される。たとえば1981年の[[チャールズ3世 (イギリス王)|チャールズ3世]](当時皇太子)と[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ妃]]との結婚式では『[[サムソン (ヘンデル)|サムソン]]』から「輝かしい天使よ」が[[キリ・テ・カナワ]]によって歌われ<ref name=":6" />、2018年の[[ヘンリー (サセックス公)|ヘンリー王子]]と[[メーガン (サセックス公爵夫人)|メーガン妃]]の結婚式では『[[アン女王の誕生日のための頌歌]]』の第1曲「神々しい光の永遠の源よ」がエリン・マナハン・トーマスによって歌われた<ref>{{Cite web |title=The Sweet Secret Behind Prince Harry’s and Meghan Markle’s Wedding Song |url=https://www.rd.com/article/secret-behind-prince-harry-meghan-markle-wedding-song/ |website=Reader's Digest |date=2018-11-02 |access-date=2022-12-03 |language=en-US |first=Lauren |last=Cahn}}</ref>。『[[ソロモン (ヘンデル)|ソロモン]]』の「シバの女王の到着」もよく使われる曲で、[[2012年ロンドンオリンピック]]の開会式でも使われた<ref>{{Cite web |url=https://olympics.com/ja/video/james-bond-meets-the-queen |title=ジェームズ・ボンドが女王陛下に謁見 {{!}} ロンドン 2012ハイライト |access-date=2022-12-04 |publisher=国際オリンピック委員会}}</ref>。『[[ジョージ2世の戴冠式アンセム]]』中の「司祭ザドク」は伝統的に戴冠式で使われる{{sfn|サディー|1975|pp=20-25}}<ref name=":6" />。[[サッカー]]・[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の入場曲「[[UEFAチャンピオンズリーグ・アンセム]]」も「司祭ザドク」を原曲とする<ref>{{Cite web |title=UEFAチャンピオンズリーグ決勝戦での「アンセム」演奏映像公開 |url=https://www.sonymusic.co.jp/artist/2cellos/info/496504 |website=2CELLOS |access-date=2022-12-03 |publisher=Sony Music |date=2018-07-02}}</ref>。
== 主な作品 ==
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ヘンデルは、楽曲を演奏するたびに大きく編成を変えることがあり、同じ曲でもさまざまな異稿が存在する。
ヘンデルの生前、楽譜はジョン・ウォルシュ親子{{enlink|John Walsh (printer)}}によって出版されていた。ヘンデルの全集は、はやく18世紀のうちにサミュエル・アーノルドによるものが刊行されたが(アーノルド版、全180巻)、イタリア・オペラは5曲しか収録されていなかった<ref>{{harvnb|ホグウッド
=== オペラ ===
108 ⟶ 158行目:
* [[タメルラーノ (ヘンデル)|タメルラーノ]] HWV 18 初演1724.10
* [[ロデリンダ|ロンバルディア王妃ロデリンダ]] HWV 19 初演1725.2
* アドメート HWV 22 初演1727.1
* [[オルランド (ヘンデル)|オルランド]] HWV 31 初演1733.1
* [[アリオダンテ]] HWV 33 初演1735.1
138 ⟶ 189行目:
* [[ジョージ2世の戴冠式アンセム]] - 「司祭ザドク」 HWV 258 1727年(英語、以下同じ)
* [[アレクサンダーの饗宴]] HWV 75 1736年(頌歌)
* [[聖セシリアの日のための頌歌 (ヘンデル)|聖セシリアの日のための
* [[快活の人、沈思の人、温和の人]] HWV 55 1740年(頌歌、オラトリオとも)
* [[デッティンゲン・テ・デウム]] HWV 283 1743年
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** ニ短調 HWV 437([[サラバンド]]が有名)
== その他 ==
=== ヘンデルを題材とする作品等 === [[ファイル:Europa_1985_Deutsche_Bundespost_01.jpg|サムネイル|ヘンデルを肖像に用いた西ドイツの切手(1985年)|149x149px]]
1942年のイギリス映画『偉大なるヘンデル氏』([[:en:The Great Mr. Handel|The Great Mr. Handel]])は、ヘンデルを題材にしている<ref>{{citation|url=https://www.imdb.com/title/tt0034813/|title=The Great Mr. Handel|publisher=[[インターネット・ムービー・データベース]]}}</ref>。ヘンデルをウィルフリッド・ローソン([[:en:Wilfrid Lawson (actor)|en]])、ヒロインの歌手シバ夫人([[スザンナ・マリア・シバー]]、[[トーマス・アーン]]の妹)を[[エリザベス・アラン]]が演じた。
[[ファリネッリ]]の生涯を描いた1994年の映画『[[カストラート (映画)|カストラート]]』は、1730年代のヘンデルと貴族オペラの対立を背景とする。ヘンデルの役は、[[ジェローン・クラッベ]]が
{{Clear}}
=== 住居 ===
[[File:London 003 Hendrix and Handel houses.jpg|thumb|右の黒い建物がヘンデルの住んだブルック街25番地の家。左の白い建物に[[ジミ・ヘンドリックス]]が住んだ。]]
ヘンデルは1723年8月に[[メイフェア]]のブルック街25番地に居を構えた{{sfn|三澤|2007|pp=67-68}}<ref>{{harvnb|ホグウッド|1991|loc=図版32(p.193の前)}}</ref>。日本でも「ジミヘン」の愛称で親しまれるギタリスト[[ジミ・ヘンドリックス]]は、1968年以降隣の23番地に住んでいた<ref>{{citation|title=Hendrix Flat|url=https://handelhendrix.org/plan-your-visit/whats-here/hendrix-flat/|publisher=Handel & Hendrix in London}}</ref><ref>{{citation|和書|title=ジミヘンがヘンデル好きだったわけ ロンドンの不思議な隣人関係|date=2010-07-27|url=https://www.nikkei.com/article/DGXBZO11424910R20C10A7000000/|journal=[[日本経済新聞]]}}</ref>。現在この建物は「{{仮リンク|ヘンデル・アンド・ヘンドリックス・イン・ロンドン|en|Handel & Hendrix in London}}」という博物館になっている。
=== バッハとの関係 ===
ヘンデルは[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ]]とはその生涯を通じて会うことはなかったものの、音楽史に衝撃を与えた両者は同じ1685年生まれ{{Efn|[[ドメニコ・スカルラッティ]]も同年生まれ{{sfn|サディー|1975|pp=1-6}}。}}で出生地もほど近く、しばしば対比をされる{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}{{sfn|サディー|1975|pp=1-6}}<ref name=":6" />。
バッハは、1719年と1729年の2度にわたりヘンデルに面会を求めたが、最初はすれ違いになり、2度目はヘンデルが何らかの事情で面会を断ったために、同時代に活躍しながらも生涯出会うことはなかった。日本では俗に、バッハを「音楽の父」、ヘンデルを「音楽の母」とそれぞれ呼ぶことがあるが、これはヘンデルをバッハと対等の存在として位置付ける意味で20世紀に入ってから考案された呼び名である<ref>{{Cite book|和書|author=野村胡堂|authorlink=野村胡堂|title=楽聖物語|origyear=1941|year=1987|quote=バッハが「西洋音楽の父」であるならば、ヘンデルは「西洋音楽の母」でなければならない。|url=https://www.aozora.gr.jp/cards/001670/files/55088_55377.html}}([[青空文庫]])</ref><ref name=":4">{{Cite web |title=【ヘンデル解説】バロック時代の国際的なエンターテイナー |url=https://edyclassic.com/14491/ |website=edyclassic.com |date=2022-06-17 |access-date=2022-11-29 |publisher=株式会社パブット |author=林和香}}</ref>{{sfn|三ケ尻|2018|p=175-176}}。
世俗的で宮廷風の特徴を持つヘンデルの音楽は現代においてバッハよりも低く評価されがちであるが、史実としては、ヘンデルが上述の通り生前より名声と富を勝ち取っていたのに対し、バッハの評価はむしろその死後、特に19世紀以降において高まったものである{{Efn|1782年に発行されたドイツの新聞では「ヘンデルの清い無垢さや感情表現の深さをバッハが持っていたなら、ヘンデル以上に偉大な音楽家となっていただろう。しかし実際には、バッハはただヘンデルより入念で、技術的に巧みなだけだった」と両者を比較し、ヘンデルをバッハよりも格上に位置付けられている。ヘンデルは生前の願い通りウェストミンスター寺院に埋葬され巨大な記念碑も建立されたが、バッハは共同墓地に埋葬されて遺留品も散逸した{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}。}}{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}<ref name=":6" />。各国を渡り歩いたヘンデルが[[オペラ]]や[[オラトリオ]]などの劇場用の音楽で本領を発揮したのに対し、常時宮廷や教会機関の定職を得てドイツから離れなかったバッハは教会の礼拝で用いる音楽(教会音楽)を中心に活躍した{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}<ref name=":4" />{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=11-41}}。そして、[[オペラ・セリア]]の衰退とともにヘンデルの作品群がやがて忘れられていったのに対して、バッハの作品はドイツ音楽界で熱狂的に支持されるようになり、「3B」(バッハ、ベートーヴェン、ブラームス)を提唱した[[ハンス・フォン・ビューロー]]によって神格化されるという経緯を辿った{{sfn|ビューロー|1996|pp=38-42}}。
バッハが音楽家一族として有名な[[バッハ家]]の生まれであったのに対し、ヘンデルの家族は音楽とは無関係だった{{sfn|サディー|1975|pp=1-6}}<ref>「決定版 はじめての音楽史 古代ギリシアの音楽から日本の現代音楽まで」p67 音楽之友社 2017年9月30日第1刷</ref>。またヘンデルは生涯独身で子供はいなかったのに対し、バッハは2度の結婚で合計20人もの子供に恵まれていたなど、両者は作曲家としての活動だけでなく私生活においても全く対照的な人生を歩んでいた{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=45-69}}{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|ショーンバーグ|1984|pp=11-41}}<ref>{{Cite web |title=リナルド 作曲家ヘンデル 生誕335年 |url=https://www.japanarts.co.jp/news/p5425/ |website=クラシック音楽事務所ジャパン・アーツ |access-date=2022-11-26 |author=加藤浩子 |date=2020-09-11}}</ref>。
なお、ヘンデルに目の手術をしたジョン・テイラーはバッハにも手術を施しており、その後バッハも視力を失っている{{sfn|カッロッツォ|チマガッリ|2010|pp=257-274}}{{sfn|サディー|1975|pp=67-76}}{{sfn|ホグウッド|1991|pp=407-408}}。
== 脚注 ==
182 ⟶ 252行目:
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|
== 参考文献 ==
* {{
* {{
* {{Citation|和書|ref={{harvid|サディー|1975}}|title=ヘンデル|author=スタンレー・サディー|author-link=スタンリー・セイディ|date=1975-06-10|year=1975|translator=村原京子|publisher=[[全音楽譜出版社]]}}
* {{Citation|和書|title=大作曲家の生涯 上|publisher=共同通信社|series=FM選書 34|date=1984-07-30|isbn=4-7641-0152-1|oclc=674351197|year=1984|edition=新装版|author=ハロルド・C・ショーンバーグ|author-link=ハロルド・C・ショーンバーグ|ref={{harvid|ショーンバーグ|1984}}|translator-last=亀井|translator-first=旭|translator2-last=玉木|translator2-first=裕}}
* {{Citation|和書|author=クリストファー・ホグウッド|authorlink=クリストファー・ホグウッド|translator=三澤寿喜|title=ヘンデル|publisher=[[東京書籍]]|date=1991-10-07|year=1991|isbn=4487760798|ref={{harvid|ホグウッド|1991}}}}
* {{Citation|和書|ref={{harvid|ビューロー|1996}}|title=爛熟した貴族社会とオペラ-{{small|後期バロックI}}|author=ジョージ・J.ビューロー|publisher=[[音楽之友社]]|date=1996-05-10|year=1996|translator=関根敏子|isbn=4-276-11234-6|oclc=675253833}}
* {{Citation|和書|author=ハンス=ギュンター・ホイマン|title=ヘンデル|publisher=[[リットーミュージック]]|series=作曲家と出会う|date=2003-07-17|year=2003|isbn=4-8456-0955-X|oclc=676622342|ref={{harvid|ホイマン|2003}}}}
* {{Citation|和書|title=ヘンデル|publisher=音楽之友社|date=2007-01-10|isbn=4-276-22171-4|oclc=675375605|year=2007|author=三澤|first=寿喜}}
* {{Citation|和書|title=原初バブルと≪メサイア≫伝説―{{small|ヘンデルと幻の黄金時代}}|publisher=[[世界思想社教学社|世界思想社]]|date=2009-07-20|year=2009|isbn=978-4-7907-1422-4|oclc=713849861|first=由美子|last=山田}}
* {{Citation|和書|ref={{harvid|カッロッツォ|チマガッリ|2010}}|title=西洋音楽の歴史|author=M.カッロッツォ|author2=C.チマガッリ|publisher=シーライトパブリッシング|volume=2|date=2010-03-31|year=2010|translator=川西麻理|isbn=978-4-903439-08-2|oclc=836309915}}
* {{Citation|和書|title=ヘンデルが駆け抜けた時代: {{small|政治・外交・音楽ビジネス}}|last=三ケ尻|first=正|publisher=[[春秋社]]|date=2018-06-25|year=2018|isbn=978-4-393-93212-4|oclc=1050217800}}
== 関連項目 ==
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