「ルイ16世 (フランス王)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
61行目:
[[1792年]]6月、[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]などによる対仏戦争の最中、[[シャルル・フランソワ・デュムーリエ|デュムーリエ]]は国防大臣を辞任する際、宣誓忌避僧に対する法案に[[拒否権]]を行使し続けるルイに対し、「僧たちは虐殺されるでしょう。そしてあなたも…」と語ったが、これに対してルイ16世は「私は死を待っているのだ。さようなら。幸せでいるように」と述べたという。6月20日、群集がテュイルリー宮殿に押し寄せた際、そのリーダーが王に誠意ある態度を求め、幾人かが槍を王に向け振り回した。喧騒の中、彼は「余は憲法と法令が、余に命じていることをしているにすぎない」と冷静に述べ、威厳を示した。その後[[8月10日事件]]で[[王権]]が停止され、国王一家はテュイルリー宮から[[タンプル塔]]に幽閉された。
 
=== 罪に問われることのない“元”国王裁判 ===
[[ファイル:ExaminationLouistheLast.jpg|thumb|right|220px|最後の証言に立つルイ16世]]
[[ファイル:Louis XVI - Execution.jpg|thumb|right|180px|[[ギロチン]]で処刑される直前のルイ16世。左は知己である死刑執行人、[[シャルル=アンリ・サンソン]]。(1798年の画)]]
幽閉されたルイ16世は家族との面会も叶わず、名前も「ルイ・[[カペー家|カペー]]」と呼ばれ、不自由な生活を強いられることになる。その間(1792年後半)、国王の処遇を巡って、国王を断固として擁護する王党派と[[フイヤン派]]、処刑を求める[[ジャコバン派]]、裁判に慎重な[[ジロンド派]]が三竦みの状態になり<ref>{{Harvnb|桑原|1961|loc=''p.221''}}</ref>、長々と議論が続けられていた。膠着状態の中、[[11月13日]]、25歳の青年[[ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト|サン=ジュスト]]が、<blockquote>''“人民が元々有していた[[主権]]を独占した国王は主権簒奪者であり、共和国においては国王というその存在自体が罪として、個人を裁くのではなく、王政そのものが処罰されるべきである”''</blockquote>と演説 <ref group="注釈">これは新人議員であった彼の公会での最初の演説であったため「サン=ジュストの処女演説」とも呼ばれる。訳文は{{Harvnb|桑原|1961|loc=''pp.304-309''}}</ref>した。しかし革命が起こった後も[[1791年憲法|憲法]]では国王は神聖不可侵であり,国王はいかなる罪も責任も負わないとされ,また王政廃止後ルイはこれといった犯罪を犯しておらず発見された[[テュイルリー宮殿]]の秘密の戸棚も国王時代のもので上記の通り罪に問われることではない,そのためルイは法律上処刑されることはないのである。が革命政府は王政を根本から破壊したい一心でルイの
 
「罪に問われることのない“元”国王の裁判」
“人民が元々有していた[[主権]]を独占した国王は主権簒奪者であり、共和国においては国王というその存在自体が罪として、個人を裁くのではなく、王政そのものが処罰されるべきである”
 
と演説 <ref group="注釈">これは新人議員であっを始め彼の公会での最初の演説であったため「サン=ジュストの処女演説」とも呼ばれる訳文は{{Harvnb|桑原|1961|loc=''pp.304-309''}}</ref>し、共和政を求めるものの国王の処遇は穏便に収めることを希望したジロンド派を窮地に陥れた<ref>{{Harvnb|桑原|1961|loc=''pp.221-223''}}</ref>。12月11日、ルイ16世の国務大臣を二度務めた[[クレティアン=ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブ|マルゼルブ]]が[[国民公会]]議長に宛てて手紙を送り、ルイ16世の弁護人を引き受けた<ref>『マルゼルブ フランス一八世紀の一貴族の肖像』木崎喜代治著、岩波書店、1986年、pp.334-337</ref>。
 
[[1793年]][[1月15日]]〜[[1月19日]]、国民公会はルイ16世の処遇を決定するために四回の投票を行った。
[[1793年]][[1月15日]]〜[[1月19日]]、国民公会はルイ16世の処遇を決定するために四回の投票を行った。投票方法は、指名点呼という方法で行われることが事前に取り決めされており、各議員は登壇して意見を自ら表明する必要があった <ref group="注釈">これは傍聴人が怒声を浴びせるなかであり、議場の外には武装したサン=キュロットが待ち構えている。下手な発言をした議員は生命の危険もあって、穏便に収めたいと考える派閥には不利な投票方法だった。それまで国王処刑に反対していた議員が、突然態度を翻して、賛成票を入れて国王弑逆者になったのは、こういう背景がある。反対票を入れるのは必死の覚悟がいった。ゆえに王政復古後には、反対票を入れた少数の忠義者は英雄視されることになる</ref>。第一回投票では、まず「国王は有罪であるか否か」が問われて、各議員(定数は749)は賛成693対反対28(欠席23・棄権5)で有罪を認定した<ref name="sekainorekishi225">{{Harvnb|桑原|1961|loc=''p.225''}}, 定数および欠席に関しては後述の別資料より</ref>。ジロンド派が公会の判決は人民投票で可否を問われなければならないと主張していたため、第二回投票では、「ルイに対する判決は人民投票によって批准されるべきか否か」が問われ、これは賛成292対反対423(欠席29、棄権5)<ref>{{Harvnb|桑原|1961|loc=''pp.224-225''}}</ref>で、ジロンド派の予想に反して否決された <ref group="注釈">ジロンド派やフイヤン派などは、この第二回投票が可決されることを予想して、第一回投票で賛成に回っていた。意外な大差での否決は彼らの戦略を混乱させた</ref>。
 
[[1793年]][[1月15日]]〜[[1月19日]]、国民公会はルイ16世の処遇を決定するために四回の投票を行った。投票方法は、指名点呼という方法で行われることが事前に取り決めされており、各議員は登壇して意見を自ら表明する必要があった <ref group="注釈">これは傍聴人が怒声を浴びせるなかであり、議場の外には武装したサン=キュロットが待ち構えている。下手な発言をした議員は生命の危険もあって、穏便に収めたいと考える派閥には不利な投票方法だった。それまで国王処刑に反対していた議員が、突然態度を翻して、賛成票を入れて国王弑逆者になったのは、こういう背景がある。反対票を入れるのは必死の覚悟がいった。ゆえに王政復古後には、反対票を入れた少数の忠義者は英雄視されることになる</ref>。第一回投票では、まず「国王は有罪であるか否か」が問われて、各議員(定数は749)は賛成693対反対28(欠席23・棄権5)で有罪を認定した<ref name="sekainorekishi225">{{Harvnb|桑原|1961|loc=''p.225''}}, 定数および欠席に関しては後述の別資料より</ref>。ジロンド派が公会の判決は人民投票で可否を問われなければならないと主張していたため、第二回投票では、「ルイに対する判決は人民投票によって批准されるべきか否か」が問われ、これは賛成292対反対423(欠席29、棄権5)<ref>{{Harvnb|桑原|1961|loc=''pp.224-225''}}</ref>で、ジロンド派の予想に反して否決された <ref group="注釈">ジロンド派やフイヤン派などは、この第二回投票が可決されることを予想して、第一回投票で賛成に回っていた。意外な大差での否決は彼らの戦略を混乱させた</ref>。
 
そして、第三回投票では、「ルイは如何なる刑を科されるべきか」という刑罰を決める投票が行われ、初めて賛否では決まらない意見表明の投票となった。集計したところ、「無条件の死刑」が387票で最多となり、ただしこのなかにはマイユ条項つき死刑というものが26票含まれていた <ref group="注釈">「マイユ条項」というものは第三回投票で最初に壇上に登った議員マイユが主張したもので、彼は無条件の死刑に賛成としながらも、付加条件をつけ、もし死刑賛成が最多数を占めた場合には死刑を延期すべきかを国民公会で改めて討議するとした。これは執行猶予付きの死刑と同じに誤解されやすいが、延期は無条件死刑の確定という主文を前提とするものであり、延期の提案と判決とは“切り離されたもの”とされ、判決の内容に執行猶予が盛り込まれる執行猶予付き死刑とは異なる。また次に明記されているように、執行猶予付き死刑の46票はその他の刑として計算されている</ref>。次いで「その他の刑」が334名で、内訳は鉄鎖刑2名、禁錮刑かつ追放刑 <ref group="注釈">革命戦争終結まで捕虜として禁錮刑とし、終戦後に追放するというもの</ref>286名、執行猶予付き死刑46名であった<ref name="ss">{{Citation |last =専修大学人文科学研究所 | first=(編) |title = 「フランス革命とナポレオン」 | date=1998年 |publisher = 未来社 |isbn = 4-624-11169-9}}。河野(編)「資料フランス革命」との数字の違いは、一次資料の当時の集計そのものの誤り(重複・似た人名の取り違えなど)とのこと。「資料フランス革命」は一次資料の翻訳がそのまま掲載されている</ref>。387対334(欠席23・棄権5)で死刑と決まった<ref name="sekainorekishi225" />。第四回投票では、死刑延期の賛否が投票されたが、賛成310対反対380(欠席46・殺害1・棄権12<ref name="result">{{Harvnb|河野|1989|loc=''pp.319-322''}}</ref>)で、これも70票差で否決され、即時の死刑執行が決まったわけである。マイユ条項支持者のなかで第四回投票で延期に賛成した議員は1人もいなかった。そればかりか第四回投票では(執行猶予付き死刑以外の)その他の刑を支持していた者の中からも22名は延期反対の方に寝返った<ref name="ss" />。[[王政復古]]では、この裏切りを含めた'''455名の国民公会議員'''が'''[[王殺し|大逆罪]]'''と認識され、まだ生存して国内にいたものは追放された。