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{{出典の明記|date=2012年2月|ソートキー=らてんていこく___世界史}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 =
|日本語国名 = ロマニアラテン帝国
|公式国名 = Imperium'''Latin RomaniaeEmpire'''
|建国時期 = [[1204年]]
|亡国時期 = [[1261年]]<ref group="注">東ローマ帝国は1261年に[[ミカエル8世パレオロゴス]]の下でコンスタンティノープルを取り戻した。[[1579年]]に[[オスマン帝国]]が[[ナクソス公国]]を併合するまでラテン人の財産はギリシアに残り、[[1383年]]に[[ジャック・デ・ボー]]が死去するまで、様々な生き残ったラテン人諸公国はラテン皇帝の血筋を認め続けた。</ref>
|亡国時期 = [[1261年]]
|先代1 = アンゲーマ帝国ス王朝
|先旗1 =
|21 = パレオロゴス王朝
|先旗2 =
|次代1 = ニカイア帝国
|次旗1 = Lascaris-Arms.svg
|国旗画像次代2 =アカイア公国
|次旗2 = Coa Greece Country History Principality of Achaea.svg
|次代3 =アテネ公国
|次旗3 = Coat of Arms of the Duchy of Athens (de la Roche family).svg
|次代4 =ナクソス公国
|次旗4 = Coat of Arms of the House of Sanudo.svg
|国旗画像 = Flagge Lateinisches Kaiserreich.png
|国旗リンク = <!--「"略名"の国旗」以外を指定-->
|国旗説明 =
|国旗幅 = <!--初期値125px-->
|国旗縁 = <!--no と入力すると画像に縁が付かない-->
|国章画像 = Arms of Courtenay-Constantinople.svg
|国章リンク =
|国章説明 =国章{{#tag:ref|(コンスタンティノープルは1261年に東ローマ帝国に復帰していたが、)[[1273年]]から[[1283年]]までラテン皇帝の称号を有した、[[フィリップ1世・ド・クルトネー]]により使われた国章。このデザインは時として、[[近世]]の紋章学において「コンスタンティノープルの皇帝の紋章」として示された<ref>Hubert de Vries, [http://www.hubert-herald.nl/ByzantiumArms.htm Byzantium: Arms and Emblems (hubert-herald.nl)] (2011).</ref>。|group="注"}}
|国章説明 =
|国章幅 = <!--初期値85px-->
|標語 =
|国歌名 =
|国歌追記 =
|位置画像 = LatinEmpireByzantium1204.png
|位置画像説明 = 赤の領域がラテン帝国。緑は[[エピロス専制侯国]]、青は[[ニカイア帝国]]、紫は[[トレビゾンド帝国]]<br>※国境は明確ではない。
|位置画像説明 = ラテン帝国(黄色)
|公用語 = [[ラテン語]]<br>[[古フランス語]]<br>[[中世ギリシア語]]
|首都 = [[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]
|宗教 = {{仮リンク|ラテン教会|en|Latin Church}}<br>[[ギリシャ正教]]
|元首等肩書 = 皇帝
|元首等肩書 = [[ラテン皇帝一覧|皇帝]]
|元首等年代始1 = 1204年
|元首等年代終1 = 1205年
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|元首等年代終5 = 1261年
|元首等氏名5 = [[ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン2世]]
|面積測定時期1 =1204年<ref name="IK Gutenberg">{{cite book |last1=Matanov|first1=Hristo|title=В търсене на средновековното време. Неравният път на българите (VII - XV в.)(in Bulgarian)|date=2014 |publisher=IK Gutenberg|isbn=9786191760183}}</ref>
|面積測定時期1 =
|面積値1 = 179,000
|面積測定時期2 =1209年<ref name="IK Gutenberg" />
|面積値2 = 206,000
|面積測定時期3 =1228年<ref name="IK Gutenberg" />
|面積値3 = 47,000
|面積測定時期4 =1260年<ref name="IK Gutenberg" />
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|変遷1=[[コンスタンティノープル包囲戦 (1204年)|建国]]
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|変遷1 = [[コンスタンティノープル包囲戦 (1204年)|建国]]
|変遷年月日1 = [[1204年]]
|変遷2 = [[アドリアノープルの戦い (1205年)|アドリアノープルの戦い]]
|変遷2 =
|変遷年月日2 = [[1205年]]
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|変遷年月日3 =[[1214年]]
|変遷4 = {{仮リンク|ポイマネノンの戦い|en|Battle of Poimanenon}}
|変遷年月日4 = [[1225年]]
|変遷5 = [[ニカイア帝国コンスタンティノープル包囲戦 (1235年)]]により滅ぼされる
|変遷年月日5 = [[12611235年]]
|変遷6 = [[コンスタンティノープルの回復 (1261年)]]により滅亡
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|変遷年月日6 = [[1261年]]
|通貨 =
|注記 =
|現在 ={{TUR}}<br>{{GRC}}<br>{{BGR}}
}}
'''ラテン帝国'''(ラテンていこく、[[1204年英語]]:Latin -Empire [[1261年]])/ Latin Empire of Constantinople)とは、[[第4回十字軍東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)から奪った[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]を攻めて[[東ローマ帝国第4回十字軍]]をひとの指導者らが建国しび滅亡させた後、[[コンスタンティノポリス封建制]]に立てられた[[カトリック教会|カトリック十字軍国家]]国家である。[[正教会]]のローマ皇帝に代ゆるって[[十字軍国家カトリック]]の一つ。皇帝を即位させるとともに、ラテン帝国という国名は東ローマ帝国側からの呼称に代わって東方あり、正式名は'''ロマニア帝西洋諸'''({{lang-la|Imperium Romaniae}})という。ロマニアとは「が認める[[ローマ帝国]]の地」の意味で東ローマ帝国の後継国家を目指す意味を持っになろうとしていた。
 
第4回十字軍は当初、[[ムスリム]]が支配する都市[[エルサレム]]を取り返すために召集されたが、十字軍による東ローマの帝都コンスタンティノープル略奪において、一連の経済的そして政治的事件は頂点に達した。本来、計画は[[アレクシオス3世アンゲロス]]によって帝位を簒奪され退位させられた、東ローマ皇帝[[イサキオス2世アンゲロス]]を復位させるためのものであった。十字軍はイサキオスの息子[[アレクシオス4世アンゲロス]]によって財政的・軍事的援助を約束されており、その支援によりエルサレムに進み続けることを計画していた。十字軍がコンスタンティノープルに到達すると状況は直ぐに危険なものへ一変し、イサキオスとアレクシオスが短期間統治したが、十字軍が望んだような支払いを受け取ることはなかった。[[1204年]]4月、彼らはコンスタンティノープルの莫大な富を占拠し略奪した。
1261年、東ローマ帝国の亡命政権のひとつである[[ニカイア帝国]]に滅ぼされた。
 
十字軍は[[フランドル伯]][[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン1世]]を初代皇帝に選出し、総大司教にはヴェネツィア出身のトマーゾ・モロシーニを任じて、ラテン帝国を樹立した{{sfn|へリン|2010|p=349}}。旧東ローマ領を封土として付与された十字軍諸侯らは、[[ラテン皇帝一覧|ラテン皇帝]]に忠誠を誓った{{sfn|井上|2005|p=194}}。ラテン帝国の支配権は、[[ニカイア]]の{{仮リンク|ラスカリス家|en|Laskaris}}や[[トラブゾン]]の[[コムネノス家]]に率いられた{{仮リンク|残存国家|en|Rump state}}により直ちに楯突かれた。[[1224年]]から[[1242年]]には、[[テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス]]が[[テッサロニキ]]からラテン帝国に異を唱えた。ラテン帝国は第4回十字軍の後、旧東ローマ領に成立した他のラテン勢力、特に[[ヴェネツィア共和国]]に対して政治的・経済的優位性を得ることに失敗し、短い初期の軍事的成功の後は北方の[[第二次ブルガリア帝国]]や東ローマの継承権を主張する様々な国と絶えず戦争状態にあったため、着実に衰退していった。最終的には、[[1261年]]に[[ミカエル8世パレオロゴス]]の[[ニカイア帝国]]がコンスタンティノープルを奪回して東ローマ帝国を復活させた。最後のラテン皇帝[[ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン2世]]は収監されたが、複数の詐称者とともに皇位は[[14世紀]]まで存続した。
== 略史 ==
[[File:Baudouin de Constantinople.JPG|thumb|250px|建国者ボードゥアン1世像]]
新東ローマ皇帝[[アレクシオス5世ドゥーカス|アレクシオス5世]]が報奨支払いを拒否したため、[[ヴェネツィア共和国]][[ドージェ]](元首)[[エンリコ・ダンドロ]]は十字軍と協力してコンスタンティノープルを再度攻略してアレクシオス5世を殺し、東ローマ帝国を滅ぼしてラテン帝国を成立させた<!--<ref name="Urok" />-->。初代皇帝にダンドロを推す声もあったが、彼は帝位を拒否して[[フランドル伯]]兼[[エノー伯]][[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン9世]](6世)を推挙、ボードゥアン9世がラテン帝国の[[ラテン皇帝一覧|皇帝]](ボードゥアン1世)となった<ref>Madden. Venice. p. 147. </ref>。
 
「東ローマ帝国」や「ラテン帝国」といった用語は、当時の帝国そのもの、またはその他の世界によって使われた当時の言葉ではなかった。東ローマ帝国は[[フランコクラティア]](ギリシア語:Φραγκοκρατία、"フランク人の支配")、あるいはラテノクラティア(Λατινοκρατία、"ラテン人の支配")としてラテン帝国に言及し、ラテン皇帝自身は一般的に、imperium Constantinopolitanum(Empire of Constantinople、コンスタンティノープル帝国)やimperium Romaniae(Empire of Romania、ロマニア帝国)、imperium Romanorum(Empire of the Romans、ローマ人の帝国)といった様々な名前によって帝国について触れた。ロマニア(ローマ人の土地)という用語は数世紀にわたり、自国のために東ローマ帝国臣民によって非公式に使われた。
ダンドロ自身は、東ローマ帝国旧領のうちコンスタンティノポリスの約半分、[[イオニア海]]沿岸、[[クレタ島]]などをヴェネツィア領に加え、ヴェネツィア共和国の国際的立場をさらに高めると共に、東[[地中海]]の制海権を掌握することに成功した。1204年、コンスタンティノポリス陥落後の選挙の結果、ボードゥアン9世が初代皇帝に選出された。これは前東ローマ皇妃[[マルギト (東ローマ皇后)|マルギト]]([[ハンガリー王国|ハンガリー]]王女)と結婚して、[[ギリシャ]]、ハンガリーの支持を得た[[モンフェッラート侯国|モンフェッラート侯]][[ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)|ボニファーチョ1世]]が強力になるのを恐れたヴェネツィア側が、より弱体なフランドル伯を支持したためであり、ボニファーチョ1世はこれを不満とし、最初から不協和音が流れていた。
 
==歴史==
ボードゥアン9世は[[5月16日]]に初代皇帝ボードゥアン1世として即位し、旧東ローマ帝国領の全土の征服を目指した。当初は順調に征服が進むかに見えたが、東ローマ帝国の[[ギリシャ人]]貴族層を冷遇し、[[東方正教会]]の聖職者達には[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]の典礼を強制したため、ギリシャ人の不満は高まりだした。
===起源と成立===
{{See also|フランコクラティア|{{仮リンク|ニカイア・ラテン戦争|en|Nicaean–Latin wars}}}}
[[File:PriseDeConstantinople1204PalmaLeJeune.JPG|thumb|1204年の第4回十字軍におけるコンスタンティノープル包囲]]
[[File:Baudouin de Constantinople.JPG|thumb|建国者ボードゥアン9世(1世)像]]
[[コンスタンティノープル包囲戦 (1204年)|コンスタンティノープル包囲戦]]の後、十字軍は東ローマ帝国の分割について合意した{{sfn|へリン|2010|p=367}}。1204年10月に署名された{{仮リンク|東ローマ帝国領分割条約|en|Partitio terrarum imperii Romaniae}}では、[[クレタ島]]などの島嶼部を含む帝国領の8分の3が[[ヴェネツィア共和国]]のものとなった{{sfn|井上|栗生沢|1998|p=184}}。ラテン帝国は以下の残留領土を主張して権力を行使した。
*[[封臣]]地に分割されたギリシア地域
**[[テッサロニキ王国]]
**[[アカイア公国]]
**[[アテネ公国]]
**[[ナクソス公国]]
*北トラキアにあった{{仮リンク|フィリッポポリス公国|en|Duchy of Philippopolis}}
 
さらなる[[公国]]は[[ニカイア]]、[[ニコメディア]]、[[アラシェヒル]]、{{仮リンク|ネオカストラ|en|Neokastra}}といった[[小アジア]]で計画されたが、そこにて[[ニカイア帝国]]が誕生したため、これらの公国は仮想のままであった{{sfn|Hendrickx|2015|pp=308–310}}。ニカイアそのものは占領されることなく、その地を受領するはずだった[[ルイ1世 (ブロワ伯)|ブロワ伯ルイ1世]]は[[アドリアノープルの戦い (1205年)|アドリアノープルの戦い]]にて死亡し{{sfn|Hendrickx|2015|p=308}}、初代皇帝ボードゥアン1世もブルガリアと[[クマン人]]の連合軍に敗れて捕虜となった{{sfn|森安|今井|1981|p=123}}。ニカイア帝国による一時的な再征服の後、ニコメディアはラテン帝国の支配下に戻ったが、ニコメディア公領は帝国領の一部のままであった{{sfn|Hendrickx|2015|pp=308–309}}。第2代ラテン皇帝[[アンリ1世 (ラテン皇帝)|アンリ1世]]は、1205年の{{仮リンク|アドラミュティオンの戦い|en|Battle of Adramyttion (1205)|label=アドラミュティオンの戦い}}にて地方有力者であった{{仮リンク|テオドロス・マンガファス|en|Theodore Mangaphas}}を破った後にネオカストラの領有権を主張したが、そこがラテン帝国の実効支配下に入ることはなかった{{sfn|Hendrickx|2015|p=309}}。一方でネオカストラは単一の所有者に与えられることはなく、[[聖ヨハネ騎士団]](4分の1)とその他の封建家臣の間で分割された。ここでの「公国(duchy)」という用語は、旧東ローマが通常[[ドゥクス]]によって管理された[[テマ制]]という語を、属州を指定するために使われていたことを反映する{{sfn|Hendrickx|2015|pp=305–306, 309}}。
貴族達は東ローマ帝国の皇族達が各地に建てた[[亡命政権]]へ参加したり、[[第二次ブルガリア帝国|ブルガリア帝国]](ワラキア=ブルガリア)と協力するなどしてラテン帝国へ抵抗し、聖職者達は協力を拒否した。
 
{{Main|{{仮リンク|ブルガリア・ラテン戦争|en|Bulgarian–Latin wars}}}}
一方、ラテン帝国の領土は十字軍の騎士達に封土として分割されたため、存立基盤が弱く、指導者の1人だったボニファーチョ1世は皇帝ボードゥアン1世と対立し、ギリシャに[[テッサロニキ王国]]を築いて半独立の構えを示した。ヴェネツィアの関心は群島領土と海港の保持と制海権のみで、帝国の内陸部には興味を示さなかった。
一方、ラテン帝国の成立を受けた第二次ブルガリア帝国は、当初ラテン帝国と友好関係を築こうと試みていたが、ラテン側はそれを拒絶するどころか教皇も認めていたブルガリア領の支配権を主張した。ブルガリアの[[カロヤン・アセン]]は東ローマ貴族とトラキアで同盟を組み、東ローマ側はカロヤンを皇帝として迎え入れることを約束した{{sfn|Andreev|Lalkov|1996|p=167}}{{sfn|Kazhdan|1991|p=1095}}。1205年4月、ラテン帝国と第二次ブルガリア帝国の間で勃発した上述のアドリアノープルの戦いは、新たに樹立されたラテン帝国への打撃でもあり、同国は混沌とした状態に陥った{{sfn|Andreev|Lalkov|1996|pp=168–171}}{{sfn|Fine|1987|pp=81–82}}。予期せぬブルガリア側の勝利は東ローマ貴族にカロヤンに対する謀略を抱かせ、彼らはラテン帝国と同盟を結んだ{{sfn|Andreev|Lalkov|1996|pp=171–172}}。
 
[[1206年]]の{{仮リンク|ルシオンの戦い|en|Battle of Rusion}}などでも敗戦が続いたラテン帝国は、[[東トラキア]]の多くの街をブルガリアに占拠されたが、{{仮リンク|フィリッポポリスの戦い|en|Battle of Philippopolis (1208)}}のみはアンリ1世率いるラテン軍が勝利した。
この情勢を見た亡命政権の一つ[[ニカイア帝国]]の[[テオドロス1世ラスカリス]]は、ブルガリア王[[カロヤン・アセン|カロヤン=ヨハニッツァ]]と結んで、ラテン帝国と対峙した。
 
その後、{{仮リンク|リュンダクス川の戦い (1211年)|en|Battle of the Rhyndacus (1211)|label=リュンダクス川の戦い}}でもニカイア軍に勝利を収めたラテン帝国は、[[ニンファエウム条約 (1214年)|ニンファエウム条約]]にてニカイア帝国との国境を画定し{{sfn|井上|栗生沢|1998|p=180}}、同じころにブルガリアとも講和条約を締結した{{sfn|森安|今井|1981|p=123}}。
1205年、侵攻してきたカロヤン=ヨハニッツァのブルガリア軍と対戦したラテン帝国軍は大敗し、指導者の1人だった[[ブロワ伯]][[ルイ1世 (ブロワ伯)|ルイ1世]]は戦死、皇帝ボードゥアン1世は捕虜となった([[アドリアノープルの戦い (1205年)|アドリアノープルの戦い]])。勢いづいたブルガリア軍は各地を蹂躙し、ラテン帝国側は首都コンスタンティノポリスの他にはいくつかの主要都市を維持するだけであり、同年には頼みのダンドロも病死し、早くも滅亡寸前となった。
=== 衰退と崩壊 ===
[[1217年]]、ローマ教皇による戴冠を受け、陸路でコンスタンティノープルに向かっていた[[ピエール2世・ド・クルトネー]]は、エピロス専制侯国のテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスに捕縛され{{sfn|井上|2005|p=198}}、2年後に獄中で死亡した。[[1218年]]にはブルガリア皇帝に即位した[[イヴァン・アセン2世]]がラテン帝国との同盟を結び、[[1221年]]にラテン側がフィリッポポリスをブルガリアに割譲した{{sfn|森安|今井|1981|p=124}}。
 
[[1222年]]、ニカイア帝国にて[[ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス]]が即位しようとしていたが、これに反対した前ニカイア皇帝[[テオドロス1世ラスカリス]]の弟はそれを妨げようと試みた{{sfn|杉村|1988|p=80}}。しかし、失敗した彼はラテン皇帝[[ロベール1世 (ラテン皇帝)|ロベール1世]]に対して派兵を依頼し、[[1225年]]に{{仮リンク|ポイマネノンの戦い|en|Battle of Poimanenon}}が勃発したが、これに敗戦したラテン帝国は小アジア地域における全領土を喪失した{{sfn|杉村|1988|p=81}}。[[1223年]]にはエピロス専制侯国に[[サロニカ]]を奪われた{{sfn|森安|今井|1981|p=124}}。
しかし、ブルガリアのあまりに激しい略奪のため、ギリシャ人は再びラテン帝国を頼るようになった。摂政に立ったボードゥアン1世の弟の[[アンリ1世 (ラテン皇帝)|アンリ1世]]は、ギリシャ人に融和的な政策をとって彼等の支持を受ける一方で周囲を制圧し、東ローマ亡命政権の[[エピロス専制侯国]]やニカイア帝国とも有利な条件で講和を結ぶことに成功する。また、テッサロニキ王国のボニファーチョ1世とも、彼の娘と結婚することで和解した。
 
[[1228年]]までにはラテン帝国の情勢は絶望的となり、ブルガリア側との交渉に入って当時未成年の皇帝[[ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン2世]]と[[イヴァン・アセン2世]]の娘ヘレナの婚姻を約束した。この結婚はブルガリア皇帝をコンスタンティノープルにおける摂政にさせるはずだったが、その一方でラテン側はフランス人貴族[[ジャン・ド・ブリエンヌ]]に摂政期を提供し{{sfn|Andreev|Lalkov|1996|pp=185}}、彼の娘がボードゥアンと結婚した。
しかし、1216年にアンリ1世が死去すると帝国は再び衰退しはじめ、1229年に[[エルサレム王国|エルサレム]][[エルサレム国王一覧|王]]だった[[ジャン・ド・ブリエンヌ]]を迎えて建て直しを計ったが大勢は変わらず、最後の皇帝[[ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン2世]]の治世は西欧からの援助を請う事だけに費された。1242年の夏頃にはブルガリア方面から南下してきた[[モンゴルのラテン帝国侵攻|モンゴル軍の侵攻]]を受け、ボードゥアン2世は敗北を喫した。[[コンスタンティノープル包囲戦 (1260年)|1260年の戦い]]ではニカイア帝国軍による奪回を阻止したものの、1261年7月にラテン帝国軍が出払っている隙に、ニカイア帝国軍に[[コンスタンティノープルの回復 (1261年)|コンスタンティノポリスを占領され]]、滅亡した。
 
ニカイア帝国と同盟を結んだブルガリア帝国は、[[1235年]]に[[コンスタンティノープル包囲戦 (1235年)]]を仕掛けるも失敗し、[[1237年]]にジャン・ド・ブリエンヌが死亡すると、ボードゥアン2世の摂政に就けるようになったイヴァン・アセン2世はニカイアとの協力関係を破棄した{{sfn|Andreev|Lalkov|1996|pp=190–191}}。
 
[[1241年]]ごろには[[モンゴル帝国]]による侵攻を受け、一時捕虜となったボードゥアン2世は家臣としてハーンへの貢納を約束させられた後に釈放されたと見られている(詳細は[[モンゴルのラテン帝国侵攻]]を参照)。
 
その後、ニカイア帝国が国力を増強してラテン帝国侵攻を準備すると、1261年7月、ヴェネツィア海軍の留守中にニカイア軍がコンスタンティノープルに攻め入ったことで、ラテン帝国は崩壊した([[コンスタンティノープルの回復 (1261年)]]){{sfn|井上|2005|p=200}}。ボードゥアン2世や一部の市民らは、遅れて到着したヴェネツィア軍により救出され帝都を脱した{{sfn|根津|2011|p=92}}。ボードゥアンはその後[[ローマ]]に赴き、教皇[[ウルバヌス4世 (ローマ教皇)|ウルバヌス4世]]が将来彼を皇位に就けることを約束したが{{sfn|へリン|2010|p=396}}、ウルバヌスは間もなく死亡し彼も復位することはなかった。
 
== 年表 ==
*[[1204年]] - [[フランドル伯]]ボードゥアン9世が、[[5月16日]]に初代[[ラテン皇帝一覧|皇帝]][[ボードゥアン1世 (ラテン皇帝)|ボードゥアン1世]]として即位。
*[[1205年]] - ラテン帝国軍、ブルガリア軍に敗北。ボードゥアン1世が捕虜となる。
*[[1206年]] - ボードゥアン1世の弟の[[アンリ1世 (ラテン皇帝)|アンリ1世]]が皇帝に即位。
*[[1216年]] - アンリ1世が死去。ラテン帝国は以後衰退の一途をたどる。
*[[1217年]] - アンリ1世の後を継いだフランス人の[[ピエール2世・ド・クルトネー]]がローマからコンスタンティノポリスへ向う途中のアルバニア山中で[[エピロス専制侯国]]に捕らえられる。
*[[1225年]] - [[ニカイア帝国]]軍に大敗。[[アナトリア半島|小アジア]]の領土の大半を失う。
*[[1242年]] - [[モンゴル帝国]]軍に大敗([[モンゴルのラテン帝国侵攻]])。後にモンゴル帝国の首都[[カラコルム]]に使者を派遣する。
*[[1261年]] - ラテン帝国軍がヴェネツィア海軍と共に黒海西岸へ遠征に出ている隙をつかれて、[[7月25日]]の夜中にニカイア帝国軍にコンスタンティノポリスを占領され、最後の皇帝[[ボードゥアン2世 (ラテン皇帝)|ボ・ド・クルトネドゥアン2世]]は逃亡。ここにラテン帝国は滅び、57年ぶりに[[東ローマ帝国]]が復活した。
 
==脚注==
===注釈===
{{Reflist|group=注}}
===出典===
{{Reflist|2}}
 
== 関連項目 参考文献==
* {{cite book | ref={{harvid|Andreev|Lalkov|1996}}| title = Българските ханове и царе (The Bulgarian Khans and Tsars)| last1 = Андреев (Andreev)| first1 = Йордан (Jordan)| first2= Милчо (Milcho) |last2= Лалков (Lalkov)| year = 1996| language = bg| publisher = Абагар (Abagar)| location = Велико Търново (Veliko Tarnovo)| isbn = 954-427-216-X }}
*[[ラテン皇帝一覧]]
* {{cite book| title = The Late Medieval Balkans, A Critical Survey from the Late Twelfth Century to the Ottoman Conquest | last = Fine| first = J.| year = 1987| publisher = University of Michigan Press| isbn = 0-472-10079-3| url = https://archive.org/details/latemedievalbalk00fine}}
* {{cite journal | last=Hendrickx |first=Benjamin | title=Les duchés de l'Empire latin de Constantinople après 1204: origine, structures et statuts | trans-title = The Duchies of the Latin Empire of Constantinople after 1204. Origin, Structures and Statutes | journal=Revue belge de philologie et d'histoire | language = fr | volume= 93 | issue =2 | year=2015 | pages= 303–328 | url = https://www.persee.fr/doc/rbph_0035-0818_2015_num_93_2_8837 | doi = 10.3406/rbph.2015.8837}}
* {{cite book| title = The Oxford Dictionary of Byzantium| last = Kazhdan| first = A.| year = 1991| publisher = Oxford University Press| location = [[New York]], Oxford| isbn = 0-19-504652-8 }}
*{{Cite book|和書 |last1=井上 |first1=浩一|last2= 栗生沢|first2= 猛夫|title= 世界の歴史 11|chapter=ビザンツ 千年帝国のあゆみ|publisher=中央公論社|year=1998 |ref= }}
*{{Cite book|和書 |last1=井上|first1=浩一|title= ギリシア史|chapter=ビザンツ時代 |others= 桜井万里子(編著)|publisher=山川出版社|year=2005 |ref= }}
*{{Cite journal |和書 |author = 杉村貞臣|title = ラスカリス王朝 (ニカイア帝国) の皇帝交替問題|journal = オリエント|volume = 31 |issue = 2 |publisher = 日本オリエント学会|date = 1988|pages = 75-91|ref =}}
*{{Cite book|和書 |last1=ヘリン |first1=ジュディス|title= ビザンツ 驚くべき中世帝国|chapter=ビザンツの多様性 |translator= 高田良太|others= 井上浩一(監訳)|publisher=白水社|year=2010 |ref= }}
*{{Cite book|和書 |last1=森安 |first1=達也|last2=今井 |first2=淳子|title= ブルガリア 風土と歴史 |publisher=恒文社|year=1981 |ref= }}
 
== 脚注 関連項目==
* [[ラテン皇帝一覧]]
{{Reflist}}
* {{仮リンク|ローマ帝国の継承|en|Succession of the Roman Empire}}
* [[テッサロニキ帝国]]
 
{{Byzantine Empire topics}}
{{History-stub}}
{{DEFAULTSORT:らてんていこく}}
[[Category:ラテン帝国|*]]