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[[ファイル:Kano Eitoku 002.jpg|thumb|300px|right|[[狩野永徳]]筆『唐獅子図』[[宮内庁]][[三の丸尚蔵館]]]]
{{参照方法|date=2012年12月}}
[[ファイルFile:KanoBirds Eitokuand 002flowers of the four seasons.jpg|thumb|300px|right|狩野永徳筆 唐獅子『花鳥 宮内庁三の丸尚蔵館襖』[[聚光院]]]]
'''狩野派'''(かのうは)は、[[日本]]絵画史上最大の画派であり、[[室町時代]]中期([[15世紀]])から[[江戸時代]]末期([[19世紀]])まで約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門[[画家]]集団である。
[[File:Birds and flowers of the four seasons.jpg|thumb|300px|right|狩野永徳筆 花鳥図襖 聚光院]]
 
'''狩野派'''(かのうは)は、日本絵画史上最大の画派であり、[[室町時代]]中期([[15世紀]])から[[江戸時代]]末期([[19世紀]])まで、約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門[[画家]]集団である。[[室町幕府]]の[[御用絵師]]となった[[狩野正信]]([[狩野氏]]の祖・[[藤原南家]][[工藤茂光]]の子の[[狩野宗茂]]の子孫)を始祖とし、その子孫は、室町幕府崩壊後は[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]、[[徳川将軍]]などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に[[画壇]](がたん)の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆる分野の絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。
[[室町幕府]]の[[御用絵師]]となった[[狩野正信]]([[狩野氏]]の祖・[[藤原南家]][[工藤茂光]]の子の[[狩野宗茂]]の子孫)を始祖とし、その子孫は室町幕府崩壊後は[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]、[[徳川宗家|徳川将軍家]]などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆる分野の絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。
 
== 概要 ==
[[File:Maple viewers.jpg|thumb|300px|right|[[狩野秀頼]] 高雄観楓図 』[[東京国立博物館]]]]
狩野派は、親・兄弟などの血族関係を主軸とした画家集団で、約4世紀間の長期にわたって一国の画壇に君臨したという点で、世界的にも他にほとんど例を見ないものである{{要出典sfn|date松木寛|1994|p=5-6}}{{sfn|山下裕二|2004|p=2022年1月付録}}。
 
狩野派の代表的な絵師としては、室町幕府8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]に仕えた初代狩野正信とその嫡男・[[狩野元信]]、元信の孫で[[安土城]]や[[大坂城]]の障壁画を制作した[[狩野永徳]]、永徳の孫で[[京都]]から[[江戸]]に本拠を移し、[[江戸城]]、[[二条城]]などの障壁画制作を指揮した[[狩野探幽]]、京都にとどまって「[[京狩野]]」と称された一派を代表する[[狩野山楽]]などが挙げられる。
 
[[江戸幕府]]の体制が安定して以後の狩野派([[江戸狩野]])は、幕府の御用絵師として内裏、城郭などの障壁画の大量注文をこなす必要に迫られた。膨大な量の障壁画の注文に応えるため、狩野家の当主は一門の絵師たちを率いて集団で制作にあたる必要があった。そのため、狩野派の絵師には、絵師個人の個性の表出ではなく、先祖伝来の粉本(絵手本)や筆法を忠実に学ぶことが求められた。こうした時代背景から、狩野探幽以降の狩野派は伝統の維持と御用絵師としての勢力保持にもっぱら努め、芸術的創造性を失っていったという見方もある。ただ、こうした学習方法は流派形成に必要な手法であり、[[葛飾北斎]]や写生を重んじることで知られる[[円山四条派]]や[[琳派]]など他の流派でもみられ、江戸時代では一般的な学習方法だったことは留意しておく必要があろう{{sfn|安村敏信|2006|p=2-3}}
 
芸術家の個性の表現や内面の表出を尊重する現代において、狩野派の絵画への評価は必ずしも高いとは言えない{{sfn|門脇むつみ|2014|p=6}}。しかしながら、狩野派が約4世紀にわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていったことも事実であり、良きにつけ悪しきにつけ、狩野派を抜きにして[[日本美術史|日本の絵画史]]を語ることはできない。近世以降の日本の画家の多くが狩野派の影響を受け、狩野派の影響から出発したことも事実であり、琳派の[[尾形光琳]]や[[渡辺始興]]・[[酒井抱一]]、写生派の[[円山応挙]]なども初期には狩野派に学んでいる{{sfn|武田恒夫|1995|p=221-225,296}}
 
なお、[[岩佐又兵衛]]も狩野派に学び[[狩野内膳]]の弟子になったとされるが詳細は不明{{sfn|辻惟雄|2008|p=58}}。また、江戸狩野の一派で表絵師・深川水場町家の[[狩野一信 (梅笑)|狩野一信]](梅笑)は[[増上寺]]の『五百羅漢図』で知られる[[狩野一信]]とは別人である{{sfn|松嶋雅人|2010|p=20}}。
== 室町時代 ==
[[ファイル:Zhou Maoshu Appreciating Lotuses.jpg|thumb|200px|right|狩野正信筆 周茂叔愛蓮図 九州国立博物館 国宝]]
[[ファイル:Kano White-robed Kannon, Bodhisattva of Compassion.jpg|thumb|200px|right|狩野元信筆 白衣観音図 ボストン美術館]]
 
=== 狩野正信歴史 ===
=== 室町時代 ===
狩野派の祖は室町幕府の御用絵師として活動した[[狩野正信]](1434年? - 1530年)である。正信は当時の日本人としては長寿を保ち(通説では97歳で没)、15世紀半ばから16世紀前半まで活動した。正信の出自は[[上総国|上総]]伊北荘大野(現[[千葉県]][[いすみ市]]大野)であり、[[狩野宗茂]]([[狩野氏]]の祖・[[工藤茂光]]の子)の子孫とみられる。[[江戸時代]]作成の家譜・画伝類では[[駿河国|駿河]][[今川氏]]の家臣・狩野出羽二郎景信という人物を正信の父としている<ref>{{Cite book|和書|title=狩野派の巨匠たち|year=1989|publisher=開館三周年記念展|page=39}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=家系|year=1993|publisher=東京堂出版|page=293|author=豊田 武}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=日本の美術 第13~18号|year=1967|publisher=至文堂|page=95}}</ref>。20世紀後半以降の研究の進展により、狩野家は[[下野国]]足利([[栃木県]][[足利市]])の[[長尾氏|足利長尾氏]]と何らかの関係があったものと推定されており、足利市の長林寺に残る墨画の『観瀑図』は正信の比較的初期の作品と考えられている。正信の画業として記録に残る最初の事例は、[[応仁の乱]](1467年 - 1477年)の直前の[[寛正]]4年([[1463年]])、30歳の時に京都の雲頂院([[相国寺]]塔頭)に観音と羅漢図の壁画を制作したというもので(『蔭涼軒日録』所載)、この時点で正信がすでに京都において画家として活動していたことがわかる。正信が壁画を描いた雲頂院の本寺である[[相国寺]]は室町幕府3代将軍[[足利義満]]創建の禅寺で、[[如拙]]、[[周文]]、[[雪舟]]らの画僧を輩出した室町画壇の中心的存在であり、この当時は周文の弟子にあたる画僧・[[宗湛]](小栗宗湛、1413年 - 1481年)が御用絵師として活動していた。狩野正信がいつ上京し、誰に師事し、いつ幕府の御用絵師となったか、正確なところは不明であるが、8代将軍[[足利義政]]に重用されていたことは諸記録から明らかである。応仁の乱終結の数年後の[[文明 (日本)|文明]]13年([[1481年]])、御用絵師であった宗湛が死去しており、正信は宗湛の跡を継いで御用絵師に任命されたものと思われる。これ以後は、宮廷の絵所預(えどころあずかり)の職にあった大和絵系の[[土佐光信]]と、漢画系の狩野正信の両者が画壇の二大勢力となった。
[[ファイル:Zhou Maoshu Appreciating Lotuses.jpg|thumb|200px|right|[[狩野正信]]筆『周茂叔愛蓮図』<br />[[九州国立博物館]]・[[国宝]]]]
[[ファイル:Kano White-robed Kannon, Bodhisattva of Compassion.jpg|thumb|200px|right|[[狩野元信]]筆『白衣観音図』<br />[[ボストン美術館]]]]
 
狩野派の祖は室町幕府の御用絵師として活動した[[狩野正信]](1434年? - 1530年)である。正信は当時の日本人としては長寿を保ち(通説では97歳で没)、15世紀半ばから16世紀前半まで活動した。
文明14年([[1482年]])、大御所(前将軍)足利義政は、東山殿([[銀閣寺]]の前身)の造営を始め、正信がその障壁画を担当することとなった。[[延徳]]2年([[1490年]])の義政の没後、正信は当時政治の実権を握っていた[[細川氏|細川家]]に仕えるようになる。正信はこのように、時の権力者との結び付きを深めつつ画壇での地位を固め、後の狩野派隆盛の基礎を築いた。記録によれば、正信は障壁画、仏画を含め、多様な形式・題材の作品を手掛けたことが知られるが、障壁画はことごとく失われ、現存する確実な作品は掛軸などの小画面に限られている。その画風は、同時代人の土佐光信の伝統的な大和絵風とは対照的に、水墨を基調とし、中国宋・元の画法を元にした「漢画」であった。正信は97歳の長寿を保ったが、晩年の約30年間の事績は明らかでなく、嫡男の元信に画業を継がせて引退生活を送っていた模様である。
 
正信の出自は[[上総国|上総]]伊北荘大野(現[[千葉県]][[いすみ市]]大野)であり、[[狩野宗茂]]([[狩野氏]]の祖・[[工藤茂光]]の子)の子孫とみられる。江戸時代作成の家譜・画伝類では[[駿河国|駿河]][[今川氏]]の家臣・狩野出羽二郎景信という人物を正信の父としている<ref>{{Cite book|和書|title=狩野派の巨匠たち|year=1989|publisher=開館三周年記念展|page=39}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=家系|year=1993|publisher=東京堂出版|page=293|author=豊田 武}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=日本の美術 第13~18号|year=1967|publisher=至文堂|page=95}}</ref>。20世紀後半以降の研究の進展により、狩野家は[[下野国|下野]]足利([[栃木県]][[足利市]])の[[長尾氏|足利長尾氏]]と何らかの関係があったものと推定されており、足利市の[[長林寺 (足利市西宮町)|長林寺]]に残る墨画の『観瀑図』は正信の比較的初期の作品と考えられている{{sfn|武田恒夫|1995|p=6-7}}。
=== 狩野元信 ===
狩野派隆盛の基盤を築いた2代目・[[狩野元信]](1476年 - 1559年)は正信の嫡男で、文明8年([[1476年]])に生まれた。現存する代表作は[[大徳寺]]大仙院方丈の障壁画(方丈は[[永正]]10年([[1513年]])に完成)、[[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])の[[妙心寺]]霊雲院障壁画などである(大仙院障壁画については、方丈竣工時の作品ではなく、やや後の年代の作とする見方が有力である)。大仙院方丈障壁画は[[相阿弥]]、元信と弟・[[狩野之信|之信]]が部屋ごとに制作を分担しており、元信が担当したのは「檀那の間」の『四季花鳥図』と、「衣鉢の間」の『禅宗祖師図』などであった。このうち、『禅宗祖師図』は典型的な水墨画であるが、『四季花鳥図』は水墨を基調としつつ、草花や鳥の部分にのみ濃彩を用いて新しい感覚を示している。元信は時の権力者であった足利将軍や細川家との結び付きを強め、多くの門弟を抱えて、画家集団としての狩野派の基盤を確かなものにした。武家だけでなく、公家、寺社などからの注文にも応え、寺社関係では、大坂にあった[[石山本願寺]]の障壁画を元信が手掛けたことが記録から分かっているが、これは現存しない。
 
正信の画業として記録に残る最初の事例は、[[応仁の乱]](1467年 - 1477年)の直前の[[寛正]]4年([[1463年]])、30歳の時に京都の雲頂院([[相国寺]][[塔頭]])に観音と羅漢図の壁画を制作したというもので(『蔭涼軒日録』所載)、この時点で正信がすでに京都において画家として活動していたことがわかる。正信が壁画を描いた雲頂院の本寺である[[相国寺]]は室町幕府3代将軍[[足利義満]]創建の禅寺で、[[如拙]]、[[周文]]、[[雪舟]]らの画僧を輩出した室町画壇の中心的存在であり、この当時は周文の弟子にあたる画僧・[[宗湛]](小栗宗湛、1413年 - 1481年)が御用絵師として活動していた。正信がいつ上京し、誰に師事し、いつ幕府の御用絵師となったか、正確なところは不明であるが、8代将軍[[足利義政]]に重用されていたことは諸記録から明らかである。応仁の乱終結の数年後の[[文明 (日本)|文明]]13年([[1481年]])、御用絵師であった宗湛が死去しており、正信は宗湛の跡を継いで御用絵師に任命されたものと思われる。これ以後は、宮廷の<ruby>絵所預<rt>えどころあずかり</rt></ruby>の職にあった大和絵系の[[土佐光信]]と、漢画系の狩野正信の両者が画壇の二大勢力となった{{sfn|松木寛|1994|p=10-12,24-25}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=2-8}}。
元信は晩年には「越前守」を名乗り、また法眼の僧位を与えられたことから、後世には「古法眼」「越前法眼」などと称されている。作品のレパートリーは幅広く、障壁画のほか、寺社の縁起絵巻、絵馬、大和絵風の金屏風、肖像画なども手掛けている。元信は父正信の得意とした漢画、[[水墨画]]に[[大和絵]]の画法を取り入れ、襖、屏風などの装飾的な大画面を得意とし、狩野派様式の基礎を築いた。また、書道の楷書、行書、草書にならって、絵画における「真体、行体、草体」という画体の概念を確立し、近世障壁画の祖とも言われている。
 
文明14年([[1482年]])、大御所(前将軍)義政は東山殿([[銀閣寺]]の前身)の造営を始め、正信がその障壁画を担当することとなった。[[延徳]]2年([[1490年]])の義政の没後、正信は当時政治の実権を握っていた[[細川氏]]に仕えるようになる。正信はこのように、時の権力者との結び付きを深めつつ画壇での地位を固め、後の狩野派隆盛の基礎を築いた。記録によれば、正信は障壁画、仏画を含め、多様な形式・題材の作品を手掛けたことが知られるが、障壁画はことごとく失われ、現存する確実な作品は掛軸などの小画面に限られている。その画風は、同時代人の土佐光信の伝統的な大和絵風とは対照的に、水墨を基調とし、中国宋・元の画法を元にした「漢画」であった。正信は97歳の長寿を保ったが、晩年の約30年間の事績は明らかでなく、嫡男の[[狩野元信]](1476年? - 1559年)に画業を継がせて引退生活を送っていた模様である{{sfn|松木寛|1994|p=12-16,29-33,38}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=9-23}}。
== 安土桃山時代 ==
[[ファイル:NanbanCarrack.jpg|thumb|300px|right|狩野内膳 南蛮屏風 神戸市立博物館]]
[[ファイル:Kano Eitoku - Cypress Trees.jpg|thumb|300px|right|伝狩野永徳筆 檜図 東京国立博物館 国宝]]
[[ファイル:Aronia Blossoms Screen 2.jpg|thumb|300px|right|狩野長信筆 花下遊楽図(一双のうち) 東京国立博物館 国宝]]
元信には宗信、秀頼、直信の3人の男子があったが、長男の宗信は早世したため、宗家を継いだのは三男の直信(1519年 - 1592年)であった。なぜ二男の秀頼でなく三男の直信に家督を継がせたのかは定かでない。直信は、道名の[[狩野松栄]]の名で広く知られ、室町から桃山に至る時代に活動した。代表作としては、大徳寺に残る巨大な『涅槃図』(縦約6m)がある。また、父・元信とともに石山本願寺障壁画制作に参加しており、[[大徳寺]][[聚光院]]障壁画制作には息子の永徳とともに参加しているが、父・元信と息子・永徳がそれぞれに高名であるために、やや地味な存在となっている。
 
狩野派隆盛の基盤を築いた2代目・狩野元信は正信の嫡男で、文明8年([[1476年]])に生まれた。現存する代表作は[[大徳寺]]大仙院方丈の障壁画(方丈は[[永正]]10年([[1513年]])に完成)、[[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])の[[妙心寺]]霊雲院障壁画などである(大仙院障壁画については、方丈竣工時の作品ではなく、やや後の年代の作とする見方が有力である)。大仙院方丈障壁画は[[相阿弥]]、元信と弟・[[狩野雅楽助|狩野之信]]が部屋ごとに制作を分担しており、元信が担当したのは「檀那の間」の『四季花鳥図』と、「衣鉢の間」の『禅宗祖師図』などであった。このうち、『禅宗祖師図』は典型的な水墨画であるが、『四季花鳥図』は水墨を基調としつつ、草花や鳥の部分にのみ濃彩を用いて新しい感覚を示している。元信は時の権力者であった[[足利将軍家]]や細川氏との結び付きを強め、多くの門弟を抱えて、画家集団としての狩野派の基盤を確かなものにした。武家だけでなく、公家、寺社などからの注文にも応え、寺社関係では、大坂にあった[[石山本願寺]]の障壁画を元信が手掛けたことが記録から分かっているが、これは現存しない{{sfn|松木寛|1994|p=36-47,52-57,65,77-78}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=23-33}}。
松栄の嫡男・[[狩野永徳]](1543年 - 1590年)は州信(くにのぶ)とも称し、桃山時代の日本画壇を代表する人物である。[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]といった乱世を生き抜いた権力者の意向に敏感に応え、多くの障壁画を描いたが、これら障壁画は建物とともに消滅し、現存する永徳の作品は比較的少ない。
 
元信は晩年には「越前守」を名乗り、法眼の[[僧位]]を与えられたことから、後世には「古法眼」「越前法眼」などと称されている。作品のレパートリーは幅広く、障壁画のほか、寺社の縁起絵巻、絵馬、大和絵風の金屏風、肖像画なども手掛けている。元信は父の得意とした漢画、[[水墨画]]に[[大和絵]]の画法を取り入れ、襖、屏風などの装飾的な大画面を得意とし、狩野派様式の基礎を築いた。また、書道の楷書、行書、草書にならって、絵画における「真体、行体、草体」という画体の概念を確立し、近世障壁画の祖とも言われている{{sfn|松木寛|1994|p=53-54,65}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=36-37,40,44-45}}{{sfn|山下裕二|2004|p=28-37}}。
現存する代表作の一つである大徳寺聚光院方丈障壁画は永徳と父・松栄の分担制作であるが、父・松栄は方丈南側正面の主要な部屋の襖絵を息子の永徳にまかせ、自分は脇役に回っている。封建社会の当時にあっては、家門の長が主要な部屋の襖絵を描くのが常識であり、この障壁画制作時には松栄は才能豊かな永徳に家督を譲って、自身はすでに隠居の身であったと考証されている。聚光院方丈障壁画のうち、室中(しっちゅう、方丈正面中央の部屋)を飾る『花鳥図』は特に評価が高い。
 
=== 安土桃山時代 ===
その後、永徳は[[天正]]4年から7年(1576年 - 1579年)、織田信長が建立した[[安土城]]天守の障壁画制作に携わった。信長亡き後は豊臣秀吉の[[大坂城]]や[[聚楽第]]の障壁画を制作し、晩年には内裏の障壁画制作にも携わった。これらの作品群は、当時の日記や記録類にその斬新さを高く評価されており、現存していれば永徳の代表作となったであろうが、建物とともに障壁画も消滅した。現存する永徳の代表作としては、前述の聚光院方丈障壁画のほか、旧[[御物]]の『[[唐獅子図屏風]]』、[[上杉氏|上杉家]]伝来の『[[洛中洛外図]]屏風』が名高く、[[東京国立博物館]]の『[[檜図屏風]]』も古来永徳筆と伝えるものである。永徳は細画(さいが)と大画(たいが)のいずれをも得意としたが、大量の障壁画の注文をこなすために、大画様式で描かざるをえなかったという。細画とは細部まで細かく描き込んだ絵、大画は豪放な作風の絵と解釈されている。
[[ファイル:NanbanCarrack.jpg|thumb|300px|right|[[狩野内膳]]『南蛮屏風』[[神戸市立博物館]]]]
[[ファイル:Kano Eitoku - Cypress Trees.jpg|thumb|300px|right|伝狩野永徳筆『[[檜図屏風]]』<br />東京国立博物館・国宝]]
[[ファイル:Aronia Blossoms Screen 2.jpg|thumb|300px|right|[[狩野長信]]筆『花下遊楽図(一双のうち)』<br />東京国立博物館・国宝]]
元信には宗信(? - 1545年)、[[狩野秀頼|秀頼]](生没年不詳)、直信([[狩野松栄|松栄]]、1519年 - 1692年)の3人の男子があったが、長男の宗信は[[天文 (元号)|天文]]14年([[1545年]])に早世したため、宗家を継いだのは三男の直信であった。なぜ次男の秀頼でなく三男の直信に家督を継がせたのかは定かでない。直信は道名の狩野松栄の名で広く知られ、室町時代から[[安土桃山時代|桃山時代]]に至る時代に活動した。代表作としては、大徳寺に残る巨大な『涅槃図』(縦約6m)がある。また、父とともに石山本願寺障壁画制作に参加しており、大徳寺[[聚光院]]障壁画制作には息子の[[狩野永徳]](1543年 - 1590年)とともに参加しているが、父と息子がそれぞれに高名であるために、やや地味な存在となっている{{sfn|松木寛|1994|p=63-65}}{{sfn|松木寛|1994|p=82-86}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=52-58}}{{sfn|山下裕二|2004|p=42-43}}。
 
松栄の嫡男・狩野永徳は<ruby>州信<rt>くにのぶ</rt></ruby>とも称し、桃山時代の日本画壇を代表する人物である。[[織田信長]]、[[豊臣秀吉]]といった乱世を生き抜いた権力者の意向に敏感に応え、多くの障壁画を描いたが、これら障壁画は建物とともに消滅し、現存する永徳の作品は比較的少ない{{sfn|山下裕二|2004|p=46-47,54}}。
近世初期の狩野派には他にも重要な画家が多い。国宝の『高雄観楓図』には「秀頼」の印があり、古来、狩野元信の次男・[[狩野秀頼]](生没年未詳)の作とされているが、『高雄観楓図』の筆者の「秀頼」は別人で、元信の孫にあたる真笑秀頼という絵師だとも言われている。[[狩野宗秀]](そうしゅう、1551年 - 1601年)は元秀(もとひで)とも称し永徳の弟で、安土城障壁画制作などで永徳の助手として働いた。屏風、肖像画などの現存作がある。やはり永徳の弟である[[狩野長信]](1577年 - 1654年)は『花下遊楽図』(国宝)の筆者として名高い。狩野家直系以外の絵師としては、川越・[[喜多院]]の『職人尽図屏風』の筆者である[[狩野吉信]](1552年 - 1640年)、京都・[[豊国神社 (京都市)|豊国神社]]の『豊国祭図屏風』の筆者である[[狩野内膳]](1570年 - 1616年)らが知られる。また、関東では元信の弟子筋に当たる'''小田原狩野派'''といわれる絵師たちがおり、[[前島宗祐]]や玉楽、官南などの名が伝えられている。
 
現存する代表作の一つである大徳寺聚光院方丈障壁画は永徳と父・松栄の分担制作であるが、松栄は方丈南側正面の主要な部屋の襖絵を永徳にまかせ、自分は脇役に回っている。封建社会の当時にあっては、家門の長が主要な部屋の襖絵を描くのが常識であり、この障壁画制作時には松栄は才能豊かな永徳に家督を譲って、自身はすでに隠居の身であったと考証されている。聚光院方丈障壁画のうち、<ruby>室中<rt>しっちゅう</rt></ruby>(方丈正面中央の部屋)を飾る『花鳥図』は特に評価が高い{{sfn|松木寛|1994|p=82-86}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=63-67}}。
== 江戸時代前期 ==
[[ファイル:'Birds and Flowers, pair of six-panel screens by Kano Koi, 17th centory Japan, Honolulu Academy of Arts.jpg|thumb|280px|right|狩野興以筆 花鳥図 ホノルル美術館]]
狩野永徳は父の松栄(直信)に先立って48歳で没した。その跡を継いだのは永徳の長男・[[狩野光信]](1565年? - 1608年)と次男・[[狩野孝信]](1571年 - 1618年)である。光信は、[[園城寺]]勧学院客殿障壁画などを残し、永徳とは対照的な、[[大和絵]]風の繊細な画風を特色とした。こうした画風が制作当時の一般的な好みに合致しなかったためか、『本朝画史』などの近世の画論は一様に光信を低く評価している。
 
その後、永徳は[[天正]]4年から7年([[1576年]] - [[1579年]])、織田信長が建立した[[安土城]]天守の障壁画制作に携わった。信長亡き後は豊臣秀吉の[[大坂城]]や[[聚楽第]]の障壁画を制作し、晩年には内裏の障壁画制作にも携わった。これらの作品群は、当時の日記や記録類にその斬新さを高く評価されており、現存していれば永徳の代表作となったであろうが、建物とともに障壁画も消滅した。現存する永徳の代表作としては、前述の聚光院方丈障壁画のほか、旧[[御物]]の『唐獅子図屏風』、[[上杉氏]]伝来の[[国宝]]『[[洛中洛外図]]屏風』が名高く、[[東京国立博物館]]の『[[檜図屏風]]』も古来永徳筆と伝えるものである{{sfn|松木寛|1994|p=91-95,98-101}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=77-84}}。永徳は<ruby>細画<rt>さいが</rt></ruby>と<ruby>大画<rt>たいが</rt></ruby>のいずれをも得意としたが、大量の障壁画の注文をこなすために、大画様式で描かざるをえなかったという。細画とは細部まで細かく描き込んだ絵、大画は豪放な作風の絵と解釈されている{{sfn|武田恒夫|1995|p=70-74}}。
狩野家の頭領である光信が死去した時、その子の[[狩野貞信]](1597年 - 1623年)はまだ12歳の若年であったので、光信の弟である孝信が狩野派を率いることとなった。封建制度の下では、光信の長男である貞信の家系が宗家となるはずであったが、貞信が27歳で早世し跡継ぎがなかったため、以後、幕末に至る狩野家の正系は孝信の子孫となっている。孝信には守信(探幽、1602年 - 1674年)、[[狩野尚信|尚信]](1607年 - 1650年)、[[狩野安信|安信]](1613年 - 1685年)の3人の男子があり、この3人はそれぞれ鍛冶橋狩野家、木挽町(こびきちょう)狩野家、中橋狩野家(宗家)の祖となった。末弟の安信は前述の貞信の養子という扱いで狩野の宗家を継ぐことになったが、絵師として最も名高いのは探幽こと守信である。
 
近世初期の狩野派には他にも重要な画家が多い。国宝の『高雄観楓図』には「秀頼」の印があり、古来、狩野秀頼の作とされているが、『高雄観楓図』の筆者の「秀頼」は別人で、元信の孫にあたる真笑秀頼という絵師だとも言われている{{sfn|武田恒夫|1995|p=119-120}}。永徳の弟[[狩野宗秀]](1551年 - 1601年)は元秀とも称し、安土城障壁画制作などで永徳の助手として働いた。屏風、肖像画などの現存作がある。やはり永徳の弟である[[狩野長信]](1577年 - 1654年)は『花下遊楽図』(国宝)の筆者として名高い{{sfn|武田恒夫|1995|p=122}}{{sfn|山下裕二|2004|p=64-65}}。狩野家直系以外の絵師としては、川越・[[喜多院]]の『職人尽図屏風』の筆者である[[狩野吉信]](1552年 - 1640年)、京都・[[豊国神社 (京都市)|豊国神社]]の『[[豊国祭礼図屏風]]』の筆者である[[狩野内膳]](1570年 - 1616年)らが知られる{{sfn|武田恒夫|1995|p=129,131}}{{sfn|山下裕二|2004|p=62-63}}。また、関東では元信の弟子筋に当たる'''小田原狩野派'''といわれる絵師たちがおり、[[前島宗祐]]や玉楽、官南などの名が伝えられている{{sfn|武田恒夫|1995|p=46,49}}。
守信は、後に出家して探幽斎と称し、画家としては[[狩野探幽]]の名で知られる。後に江戸に本拠を移し、江戸幕府の御用絵師として、画壇における狩野派の地位をますます不動のものとした。
 
=== 江戸時代前期 ===
探幽は幼少時より画才を発揮し、[[慶長]]17年([[1612年]])、11歳の時に[[駿府]]で[[徳川家康]]に対面、[[元和 (日本)|元和]]7年([[1621年]])には江戸鍛冶橋門外に屋敷を得て、以後江戸を拠点に活動し、城郭や大寺院などの障壁画を精力的に制作した。
[[ファイル:'Birds and Flowers, pair of six-panel screens by Kano Koi, 17th centory Japan, Honolulu Academy of Arts.jpg|thumb|280px|right|[[狩野興以]]筆『花鳥図』[[ホノルル美術館]]]]
天正18年([[1590年]])、永徳は父に先立って48歳で没した。その跡を継いだのは永徳の長男・[[狩野光信]](1565年? - 1608年)と次男・[[狩野孝信]](1571年 - 1618年)である。光信は[[園城寺]]勧学院客殿障壁画などを残し、永徳とは対照的な大和絵風の繊細な画風を特色とした。こうした画風が制作当時の一般的な好みに合致しなかったためか、『[[本朝画史]]』などの近世の画論は一様に光信を低く評価している。叔父狩野宗秀の後見を受ける中で秀吉存命中は[[長谷川等伯]]ら長谷川派の台頭に脅かされるが、秀吉の死後は息子の[[豊臣秀頼]]ら[[豊臣氏]]からの注文が増え、園城寺勧学院客殿障壁画と[[都久夫須麻神社]]障壁画、相国寺法堂天井画『蟠龍図』などを制作する一方で[[徳川家康]]にも接近、慶長6年に死亡した宗秀の遺児で従弟の[[狩野甚之丞]](1583年? - 1628年?)の面倒を見たり、秀頼の大坂と家康の[[伏見区|伏見]]の双方へ行き来する多忙な生活を送った。かたやもう1人の叔父で宗秀の弟・狩野長信は家康の子の[[徳川秀忠]]に仕えて[[江戸]]へ移り、御用絵師を務めることになったが、後に他の狩野一族も長信に呼び寄せられ、[[江戸狩野]]を形成して[[江戸幕府]]に仕えることになる{{sfn|松木寛|1994|p=110-123}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=85-98}}。
 
[[慶長]]13年([[1608年]])に狩野家の頭領である光信が死去した時、その子の[[狩野貞信]](1597年 - 1623年)はまだ12歳の若年であったので、叔父で光信の弟である孝信が狩野派を率いることとなった。孝信は[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])に亡くなるまで内裏の御用を務め[[紫宸殿]]の[[賢聖障子]]絵を描いた一方、家康の側近[[以心崇伝|金地院崇伝]]と書状を交わし[[徳川氏]]との結びつきを強めた。豊臣氏との繋がりも保ち、狩野内膳らが豊臣氏の御用絵師になっている{{sfn|松木寛|1994|p=123-130}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=98-106}}。
探幽の作品のうち、江戸城と大坂城の障壁画は建物とともに消滅したが、[[名古屋城]]上洛殿の障壁画(水墨)は第二次大戦時には建物から取り外して疎開させてあったため、空襲をまぬがれて現存しており、他に二条城二の丸御殿や大徳寺方丈の障壁画が現存する代表作である。これら大画面のほかにも、掛軸、絵巻、屏風などあらゆるジャンルの作品を残している。二条城二の丸御殿障壁画は25歳の若描きで、永徳風の豪壮な画風を示すが、後年の大徳寺の障壁画は水墨を主体とし、余白をたっぷりと取った穏やかな画風のものである。絵巻や屏風には大和絵風の作品もある。
 
封建制度の下では光信の長男である貞信の家系が宗家となるはずであったが、元和9年([[1623年]])に貞信が27歳で早世し跡継ぎがなかったため、以後、[[幕末]]に至る狩野家の正系は孝信の子孫となっている。孝信には守信([[狩野探幽|探幽]]、1602年 - 1674年)、[[狩野尚信|尚信]](1607年 - 1650年)、[[狩野安信|安信]](1613年 - 1685年)の3人の男子があり、この3人はそれぞれ鍛冶橋狩野家、<ruby>木挽町<rt>こびきちょう</rt></ruby>狩野家、中橋狩野家(宗家)の祖となった。末子の安信は従兄の貞信の養子という扱いで狩野宗家を継ぐことになったが、絵師として最も名高いのは探幽こと守信である{{#tag:ref|狩野派宗家継承は貞信の従弟に当たる守信3兄弟のうち末子の安信が継ぐというやや変則的な継承になっているが、これは孝信の意向で守信が元和3年([[1617年]])に秀忠の命で御用絵師に取り立てられ、別家を立てて孝信の家から独立、孝信の死後代わりに彼の家督を尚信が継承、残った安信が宗家の当主に選ばれたからである。また、狩野派の長老格であった狩野長信・狩野吉信が話し合った末に安信の宗家継承に合意、貞信を説得したことで継承が決まり、狩野一族の主だった絵師達は安信を守り立てることを書いた誓約書に署名した。署名者は長信・守信・甚之丞・尚信・狩野新右衛門・[[狩野元俊]]・[[狩野興以]]の7人で、守信が長信に次ぐ序列2位として狩野派内部で急成長していることが誓約書からうかがえる{{sfn|松木寛|1994|p=130-141}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=159-162}}。|group=*}}{{sfn|松木寛|1994|p=134-135,152-153}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=158-159}}。
探幽は写生(スケッチ)や古画の模写を重視し、写生図集や模写画集を多数残している。「探幽縮図」と称される探幽筆の古画模写は多数現存しており、各地の美術館や収集家が所蔵しているが、これらには今日では原画が失われてしまった古画の模写も多数含まれており、日本絵画史研究上、貴重な資料となっている。
 
守信は[[寛永]]12年([[1635年]])に出家して探幽斎と称し、画家としては狩野探幽の名で知られる。江戸に本拠を移し、江戸幕府の御用絵師として、画壇における狩野派の地位をますます不動のものとした。探幽は幼少時より画才を発揮し、慶長17年([[1612年]])、11歳の時に[[駿府]]で家康に対面、元和3年([[1617年]])に江戸に召されて御用絵師となり、元和7年([[1621年]])には江戸鍛冶橋門外に屋敷を得て、以後江戸を拠点に活動し、城郭や大寺院などの障壁画を精力的に制作した{{sfn|安村敏信|2006|p=18-19}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=14-17,20}}。
== 江戸時代中期以降 ==
江戸時代の狩野派は、狩野家の宗家を中心とした血族集団と、全国にいる多数の門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型の組織を形成していた。「'''奥絵師'''」と呼ばれる、もっとも格式の高い4家を筆頭に、それに次いで格式の高い「'''表絵師'''」が約15家あり、その下には公儀や寺社の画事ではなく、一般町人の需要に応える「'''町狩野'''」が位置するというように、明確に格付けがされ、その影響力は日本全国に及んでいた。この時代の権力者は封建社会の安定継続を望み、江戸城のような公の場に描かれる絵画は、新奇なものより伝統的な粉本に則って描かれたものが良しとされた。また、大量の障壁画制作をこなすには、弟子一門を率いて集団で制作する必要があり、集団制作を容易にするためにも絵師個人の個性よりも粉本(絵手本)を学習することが重視された。こうした点から、狩野派の絵画は、個性や新味に乏しいものになっていったことは否めない。
 
探幽の作品のうち、元和9年([[1623年]])に描いた大坂城の障壁画は[[慶応]]4年([[明治]]元年・[[1868年]])に火災に遭い建物とともに消滅した。内裏の障壁画は4度(1623年・[[1642年]]・[[1655年]]・[[1662年]])、江戸城の障壁画も4度描いたが([[1622年]]・[[1640年]]または[[1647年]]・[[1650年]]・[[1659年]])、この2ヶ所の障壁画も火災で焼失してしまい現存していない{{sfn|門脇むつみ|2014|p=22,28-29,37-38}}。寛永11年([[1634年]])制作の[[名古屋城]]上洛殿の障壁画(水墨)は[[第二次世界大戦]]時には建物から取り外して疎開させてあったため、空襲をまぬがれて現存しており、他に寛永3年([[1626年]])制作の[[二条城]]二の丸御殿や寛永18年([[1641年]])制作の大徳寺方丈の障壁画が現存する代表作である{{sfn|山下裕二|2004|p=70,76-77}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=23,30}}。二条城二の丸御殿障壁画は寛永3年の25歳の頃の若描きで、永徳風の豪壮な画風を示すが、寛永18年の40歳の頃に描いた大徳寺の障壁画は水墨を主体とし、余白をたっぷりと取った穏やかな画風のものである{{sfn|安村敏信|2006|p=18,20-21,27}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=157-162}}。
奥絵師は旗本と同格で、将軍への[[御目見]]と帯刀が許されたというから、その格式の高さがうかがえる。奥絵師の4家とは探幽(狩野孝信の長男)の系統の'''鍛冶橋家'''、尚信(孝信の次男)の系統の'''木挽町家'''(当初は「竹川町家」)、安信(孝信の三男)の系統の'''中橋家'''、それに[[狩野岑信]](みねのぶ、1662年 - 1708年)の系統の'''浜町家'''である(岑信は、狩野尚信の長男である[[狩野常信]]の次男)。探幽には初め実子がなかったため、刀剣金工家の後藤立乗の息子の洞雲([[狩野益信]]、1625年 - 1694年)を養子とした。後に探幽が50歳を過ぎて生まれた実子である[[狩野探信 (守政)|狩野探信守政]](1653年 - 1718年)が跡を継ぐが、この系統からは同名の7代目[[狩野探信 (守道)|狩野探信守道]](1785年 - 1836年)以外に、見るべき画人は出なかった。探幽には多くの弟子がいたが、中では『夕顔棚納涼図』を残した[[久隅守景]](くすみもりかげ、生没年未詳)が著名である。守景は何らかの事情で狩野派を破門になり、後には金沢方面で制作したが、経歴について不明な点が多い。
 
これら大画面のほかにも、掛軸、絵巻、屏風などあらゆるジャンルの作品を残している。絵巻や屏風には大和絵風の作品もあり、前者は寛永13年([[1636年]])から寛永17年([[1640年]])まで4年をかけて弟子達を集めた工房を動員して制作した『東照宮縁起絵巻』、後者は[[明暦]]3年([[1657年]])作の『桐鳳凰図屏風』、『四季松図屏風』などがある{{sfn|山下裕二|2004|p=68-73}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=26,58-59,67-69,224-229}}。掛軸は肖像画・富士山図がそれぞれ50点近く残っているが、山水図・花鳥図・人物図なども合わせると数倍に上るという{{sfn|門脇むつみ|2014|p=204}}。
表絵師は狩野洞雲益信の系統の'''駿河台家'''が筆頭で、当家のみ20人扶持である。'''山下家'''は10人扶持で[[狩野元俊]]の系統、その他は全て5人扶持で、'''深川水場町家'''は山下家分家、狩野梅栄知信の系統、'''稲荷橋家'''は山下家門人、狩野春湖元珍の系統、'''御徒士町家'''は[[狩野長信]]の系統、'''麻布一本松家'''は長信三男、狩野休円清信の系統、'''本所緑町家'''は長信門人、狩野作大夫長盛の系統、'''勝田家'''は[[勝田竹翁]]の系統、'''神田松永町家'''は狩野宗也種信子孫の系統、'''芝愛宕下家'''は松永町家分家、狩野即誉種信の系統、'''浅草猿屋町代地家'''は永徳門人、狩野祖西秀信の系統、'''猿屋町代地家分家'''は猿屋町分家、狩野洞元邦信の系統、'''根岸御行之松家'''は松栄門人、[[狩野内膳]]の系統、'''築地小田原町家'''は松栄門人、狩野宗心種永の系統、'''金杉片町家'''は小田原町分家、狩野梅雲為信の系統であった<ref>『ブリタニカ国際大百科事典 小項目版』[[鎌田純一]]、ブリタニカ・ジャパン、2008年</ref><ref>『日本の美術 No.262 江戸の狩野派』細野正信他、至文堂、1988年</ref>。
 
探幽は写生(スケッチ)や古画の模写を重視し、写生図集や模写画集を多数残している。「探幽縮図」と称される探幽筆の古画模写は多数現存しており、各地の美術館や収集家が所蔵しているが、これらには今日では原画が失われてしまった古画の模写も多数含まれており、日本絵画史研究上、貴重な資料となっている{{sfn|安村敏信|2006|p=40}}{{sfn|門脇むつみ|2014|p=124-132}}。
前述のとおり、狩野家の宗家は、探幽の弟・安信の中橋家が継ぐことになった。安信の子の[[狩野時信]](1642年 - 1678年)は30代で没し、その子の[[狩野主信]](もりのぶ、号は<ruby>主信<rt>しゅしん</rt></ruby>、1675年 - 1724年)が家督を継ぐが、この系統からもその後目立った画人は出ていない。都会的な画風で人気を博した[[英一蝶]](はなぶさいっちょう、1652年 - 1724年)は安信の弟子であった。奥絵師4家の中で、幕末まで比較的高名な画人を輩出したのは、尚信の系統の木挽町家である。この家系からは尚信の嫡男の[[狩野常信]](1636年 - 1713年)、その子の[[狩野周信]](ちかのぶ、1660年 - 1728年)と[[狩野岑信]](みねのぶ、1662年 - 1708年)らが出ている。岑信は将軍・[[徳川家宣]]の寵愛を受け、後に「浜町家」として独立し、「奥絵師家」の1つに数えられるようになった。このほか、[[狩野興以]](? - 1636年)は狩野家の血族ではないが、探幽ら3兄弟の師匠筋にあたる人物で、その功績によって狩野姓を与えられ、後に[[紀州徳川家]]に仕えている。また、[[狩野内膳]]も他家の出身ではあるが、狩野松栄に絵を学び、子孫は'''表絵師'''の根岸[[御行の松|御行松]]狩野家として幕末まで続いた。
 
=== 江戸時代中期以降 ===
一方、京都に残って活動を続けた「'''[[京狩野]]'''」という一派もあり、狩野永徳の弟子であった[[狩野山楽]](1559年 - 1635年)がその中心人物である。山楽は豊臣秀吉の家臣であった近江の木村家の出で、元の名を木村光頼と言った。京都・[[大覚寺]]宸殿の障壁画『牡丹図』『紅白梅図』が代表作で、金地に色彩豊かで装飾的な画面を展開している。山楽の娘婿で養子の'''[[狩野山雪]]'''(1589/90年 - 1651年)は、妙心寺天球院障壁画のほか、屏風絵などの現存作がある。樹木、岩などの独特の形態、徹底した細部描写など、狩野派の絵師の中では異色の個性的な画風をもつ。山雪の残した画論を、子の[[狩野永納]](1631年 - 1697年)がまとめたものが、日本人による本格的な絵画史としては最初のものとされる『[[本朝画史]]』である。
==== 諸家形成 ====
江戸時代の狩野派は、狩野家の宗家を中心とした血族集団と、全国にいる多数の門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型の組織を形成していた。「'''奥絵師'''」と呼ばれるもっとも格式の高い4家を筆頭に、それに次いで格式の高い「'''表絵師'''」が約15家あり、その下には公儀や寺社の画事ではなく、一般町人の需要に応える「'''町狩野'''」が位置するというように、明確に格付けがされ、その影響力は日本全国に及んでいた{{sfn|安村敏信|2006|p=7}}。この時代の権力者は封建社会の安定継続を望み、江戸城のような公の場に描かれる絵画は、新奇なものより伝統的な粉本(絵手本)に則って描かれたものが良しとされた。また、大量の障壁画制作をこなすには、弟子一門を率いて集団で制作する必要があり、集団制作を容易にするためにも絵師個人の個性よりも粉本を学習することが重視された。こうした点から、狩野派の絵画は、個性や新味に乏しいものになっていったことは否めない{{sfn|武田恒夫|1995|p=4-6,200,229-230,236-239}}。
 
奥絵師は旗本と同格で、将軍への[[御目見]]と帯刀が許されたというから、その格式の高さがうかがえる。奥絵師の4家とは探幽の系統の'''鍛冶橋家'''、尚信の系統の'''木挽町家'''(当初は「竹川町家」)、安信の系統の'''中橋家'''、それに尚信の孫の[[狩野岑信]](1662年 - 1708年)の系統の'''浜町家'''である(岑信は尚信の長男[[狩野常信]](1636年 - 1713年)の次男。母は安信の娘であるため安信の外孫でもある){{sfn|細野正信|1988|p=18,54}}{{sfn|安村敏信|2006|p=43}}。また奥絵師代表として狩野派の棟梁同然の立場に[[触頭]](頭取とも呼ばれる。[[寺社奉行]]の下にある同名の役割とは別)があり、内裏や江戸城の造営で狩野派を統率、各部屋の絵様案と筆者を決める権限があった。初め探幽・安信が触頭になったが、後に木挽町家が触頭を担当していった{{sfn|松木寛|1994|p=199-201}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=254-255,258-259}}。
木挽町家からは、江戸時代後期に[[狩野典信|栄川院典信]](えいせんいんみちのぶ、1730年 - 1790年)、[[狩野惟信|養川院惟信]](ようせんいんこれのぶ、1753年 - 1808年)、[[狩野栄信|伊川院栄信]](いせんいんながのぶ、1775年 - 1828年)、'''[[狩野養信|晴川院養信]]'''(せいせんいんおさのぶ、1786年 - 1846年)などが出ている。晴川院養信は、[[天保]]9年([[1838年]])と同15年([[1844年]])に相次いで焼失した江戸城の西の丸および本丸御殿の再建に際し、膨大な障壁画の制作を狩野派の棟梁として指揮した。障壁画そのものは現存しないが、膨大な下絵が東京国立博物館に所蔵されている。晴川院は古画の模写や収集にも尽力した。一般に、江戸時代後期の狩野派絵師に対する評価はあまり高くないが、20世紀後半以降の研究の進展により、晴川院は古典絵画から幕末の新しい絵画の動きまで熱心に研究した、高い技術をもった絵師であったことが認識されるようになり、再評価の動きがある。
 
表絵師は探幽の養子[[狩野益信]](1625年 - 1694年)の系統の'''駿河台家'''が筆頭で、当家のみ20人扶持である。'''山下家'''は10人扶持で[[狩野元俊]]の系統、その他は全て5人扶持で、'''深川水場町家'''は山下家分家、狩野梅栄知信の系統、'''稲荷橋家'''は山下家門人、狩野春湖元珍の系統、'''御徒士町家'''は狩野長信の系統、'''麻布一本松家'''は長信三男、狩野休円清信の系統、'''本所緑町家'''は長信門人、狩野作大夫長盛の系統、'''勝田家'''は[[勝田竹翁]]の系統、'''神田松永町家'''は狩野宗也種信子孫の系統、'''芝愛宕下家'''は松永町家分家、狩野即誉種信の系統、'''浅草猿屋町代地家'''は永徳門人、狩野祖西秀信の系統、'''猿屋町代地家分家'''は猿屋町分家、狩野洞元邦信の系統、'''根岸御行之松家'''は松栄門人、狩野内膳の系統、'''築地小田原町家'''は松栄門人、狩野宗心種永の系統、'''金杉片町家'''は小田原町分家、狩野梅雲為信の系統であった<ref>『ブリタニカ国際大百科事典 小項目版』[[鎌田純一]]、ブリタニカ・ジャパン、2008年</ref>{{sfn|細野正信|1988|p=70}}{{sfn|安村敏信|2006|p=63}}。
晴川院の次代の[[狩野雅信|勝川院雅信]](しょうせんいんただのぶ、1823年 - 1880年)の門下には、明治初期の日本画壇の重鎮となった[[狩野芳崖]](下関出身、1828年 - 1888年)と[[橋本雅邦]](川越出身、1835年 - 1908年)がいた。芳崖と雅邦はともに地方の狩野派系絵師の家の出身であった。職業絵師集団としての狩野派は、パトロンであった江戸幕府の終焉とともにその歴史的役目を終えた。
 
このほか、[[狩野興以]](? - 1636年)は狩野家の血族ではないが、探幽ら3兄弟の師匠筋にあたる人物で、その功績によって狩野姓を与えられ、後に[[紀州徳川家]]に仕えている{{sfn|細野正信|1988|p=74-75}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=267-268}}。
 
一方、京都に残って活動を続けた「'''[[京狩野]]'''」という一派もあり、永徳の弟子であった[[狩野山楽]](1559年 - 1635年)がその中心人物である。山楽は豊臣秀吉の家臣であった近江の木村家の出で、元の名を木村光頼と言った。京都・[[大覚寺]]宸殿の障壁画『牡丹図』『紅白梅図』が代表作で、金地に色彩豊かで装飾的な画面を展開している。山楽の娘婿で養子の[[狩野山雪]](1590年 - 1651年)は、妙心寺天球院障壁画のほか、屏風絵などの現存作がある。樹木、岩などの独特の形態、徹底した細部描写など、狩野派の絵師の中では異色の個性的な画風をもつ。山雪の残した画論を子の[[狩野永納]](1631年 - 1697年)がまとめたものが、日本人による本格的な絵画史としては最初のものとされる『本朝画史』である{{sfn|武田恒夫|1995|p=274-292}}{{sfn|山下裕二|2004|p=95-115}}。
 
==== 鍛冶橋家 ====
探幽には初め実子がなかったため、刀剣金工家の後藤立乗の息子の洞雲(狩野益信)を養子としたが、後に探幽が50歳を過ぎて実子[[狩野探信 (守政)|狩野探信]](守政、1653年 - 1718年)が生まれると益信は別家という形で駿河台家を興し、守政が2代目当主として跡を継いだ{{sfn|細野正信|1988|p=70}}{{sfn|松木寛|1994|p=177-178,185}}。ところが、知行200石のうち半分の100石を相続した弟の[[狩野探雪]](1655年 - 1714年)および甥の[[狩野探牛]](1696年 - 1714年)が早世したため100石は幕府に没収、守政の能力が探幽に及ばないこともあって、知行が半減した鍛冶橋家は家運を衰退させていった。それでも守政の長男の3代目当主[[狩野探船]](1686年 - 1728年)、弟の4代目当主[[狩野探常]](1696年 - 1756年)、探常の息子の5代目当主[[狩野探林]](1732年 - 1777年)は[[朝鮮通信使]]へ贈る屏風を描いたことが確認され、探林の孫で2代目と同名の7代目当主[[狩野探信 (守道)|狩野探信]](守道、1785年 - 1835年)は大和絵に傾倒して探幽の作品や風俗画の模写などを手掛け中興の祖と称えられたが、家格は江戸時代中期に台頭した木挽町家の下風に置かれ、守道以外に見るべき画人は出なかった{{sfn|細野正信|1988|p=61-62}}{{sfn|松木寛|1994|p=197-201}}{{sfn|安村敏信|2006|p=78-81}}。
 
探幽には多くの弟子がいたが、中では『夕顔棚納涼図』を残した[[久隅守景]]が著名である。守景は何らかの事情で狩野派を破門になり、後には金沢方面で制作したが、経歴について不明な点が多い。探幽の姪に当たる国を娶り1男1女を儲けたが、息子彦十郎は悪所通いが原因で狩野家から破門された上[[佐渡島|佐渡]]へ配流、娘の[[清原雪信]]は女性画家となったが後に駆け落ちしたことが伝えられている{{sfn|安村敏信|2006|p=50-53}}。守景の破門も2人の子供達の不祥事によるとされるが、真相は分かっていない{{sfn|武田恒夫|1995|p=303-304}}。守道にも著名な弟子がおり、[[沖一峨]]と[[狩野了承]](表絵師の深川水場町家4代目当主)が挙げられる{{sfn|安村敏信|2006|p84-87}}{{sfn|山下裕二|2004|p=137}}。
 
鍛冶橋家は最後の当主[[狩野探道]](1890年 - 1948年)が[[明治]]に[[東京美術学校 (旧制)|東京美術学校]](現在の[[東京芸術大学]])で学び画家・鑑定家として生きたことが確認されているが、死後は娘の節が遺品を守り現在に至っている{{sfn|安村敏信|2006|p=29}}。
 
==== 中橋家 ====
前述のとおり、狩野家の宗家は安信の中橋家が継ぐことになった。2人の兄探幽・尚信に比べて安信は画才が無かったとされるが、彼等亡き後は触頭として狩野派の頂点に立ち、画論『画道要訣』を著した{{sfn|松木寛|1994|p=180-184}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=229,254}}{{sfn|安村敏信|2006|p=48-49}}。安信の子の[[狩野時信]](1642年 - 1678年)は父に先立って37歳で没し、その子で安信の孫の[[狩野主信]](ゆきのぶ、号は<ruby>永叔<rt>えいしゅく</rt></ruby>、1675年 - 1724年)が家督を継ぐが、この系統からもその後目立った画人は出ていない{{sfn|門脇むつみ|2014|p=108-110}}。都会的な画風で人気を博した[[英一蝶]](1652年 - 1724年)と中橋家の後見役を務めた[[狩野昌運]](1637年 - 1702年)は安信の弟子であった{{sfn|武田恒夫|1995|p=270,304}}{{sfn|安村敏信|2006|p=54-55}}。
 
==== 木挽町家 ====
奥絵師4家の中で、幕末まで比較的高名な画人を輩出したのは、尚信の系統の竹川町家(木挽町家)である。この家系からは尚信の嫡男の狩野常信、その嫡男の[[狩野周信]](1660年 - 1728年)と次男の狩野岑信兄弟らが出ている。常信は安信の存命中は不遇だったが、彼亡き後は法眼、法印と僧位が上がり狩野派での地位を向上させた。岑信は6代将軍[[徳川家宣]]の寵愛を受け、後に浜町家として独立し、奥絵師家の1つに数えられるようになった。周信も8代将軍[[徳川吉宗]]に寵愛されただけでなく、孫の[[狩野典信]](<ruby>栄川院<rt>えいせんいん</rt></ruby>、1730年 - 1790年)も吉宗と孫の10代将軍[[徳川家治]]に寵愛されたことで出世、奥医師並の待遇と新たな土地を授かり屋敷を移転、以後家名は竹川町家から木挽町家に変わった{{sfn|安村敏信|2006|p=43}}{{sfn|細野正信|1988|p=62-66}}{{sfn|松木寛|1994|p=191-197}}{{sfn|安村敏信|2006|p=58-59}}。
 
木挽町家からは、江戸時代後期に典信と息子[[狩野惟信]](<ruby>養川院<rt>ようせんいん</rt></ruby>、1753年 - 1808年)、孫[[狩野栄信]](<ruby>伊川院<rt>いせんいん</rt></ruby>、1775年 - 1828年)、曾孫[[狩野養信]](<ruby>晴川院<rt>せいせんいん</rt></ruby>、1796年 - 1846年)などが出ている。この4人はいずれも優秀で代々触頭を務め、最高の僧位である法印に任じられただけでなく、漢画と大和絵を取り入れながらも新画風に挑戦して秀作を残し、養信は[[天保]]9年([[1838年]])と同15年([[1844年]])に相次いで焼失した江戸城の西の丸および本丸御殿の再建に際し、膨大な障壁画の制作を狩野派の棟梁として鍛冶橋家・中橋家・浜町家など狩野一族を指揮した。障壁画そのものは現存しないが、膨大な下絵が東京国立博物館に所蔵されている。養信は古画の模写や収集にも尽力した{{sfn|松木寛|1994|p=199-201}}{{sfn|細野正信|1988|p=66-67}}{{sfn|山下裕二|2004|p=124-127,132}}。一般に江戸時代後期の狩野派絵師に対する評価はあまり高くないが、20世紀後半以降の研究の進展により、養信は古典絵画から幕末の新しい絵画の動きまで熱心に研究した、高い技術をもった絵師であったことが認識されるようになり、再評価の動きがある{{sfn|武田恒夫|1995|p=384-386}}{{sfn|山下裕二|2004|p=130-135}}。
 
養信の子[[狩野雅信]](<ruby>勝川院<rt>しょうせんいん</rt></ruby>、1823年 - 1880年)の門下には、明治初期の日本画壇の重鎮となった[[狩野芳崖]](下関出身、1828年 - 1888年)と[[橋本雅邦]](川越出身、1835年 - 1908年)がいた。芳崖と雅邦はともに地方の狩野派系絵師の家の出身であった。雅信は祖先と同じく触頭と法印を歴任、[[嘉永]]5年([[1852年]])の江戸城西の丸障壁画の制作も狩野一族を率いてこなしたが、本人の画力は乏しかったらしく、芳崖から「師匠は絵を知り給わず」と非難された逸話が伝えられている{{sfn|細野正信|1988|p=67-69}}{{sfn|松木寛|1994|p=201,214-218}}。職業絵師集団としての狩野派は、パトロンであった江戸幕府の終焉とともにその歴史的役目を終えた。明治時代の雅信は[[榎本武揚]]からの江戸脱走の勧誘を断り、明治3年([[1870年]])に平民となり、博覧会事務局に雇われたことが確認されている{{sfn|武田恒夫|1995|p=390-392}}。
 
狩野派の子孫は幕府崩壊後は行方不明の家系が多く、子孫がはっきりしているのは奥絵師・表絵師共に僅かしかいない{{sfn|安村敏信|2006|p=29}}。
 
== 御用絵師の仕事 ==
狩野養信の公用日記や狩野派の資料・談話をまとめた『東洋美術大観』に御用絵師の仕事の詳細な内容が書かれており、江戸城出仕(御定日)は月に12日と少ないが、年中行事参加と合わせると20日に増え、自宅で描く作業まで加わる実態は激務だった。しかも江戸城障壁画・内裏障壁画・[[李氏朝鮮|朝鮮]]国王へ贈る屏風制作、将軍子女の婚礼道具の屏風制作、将軍の家臣や奥女中などの贈り物を描く仕事、将軍子女の絵画教師、絵の鑑定もあるため、御用絵師の仕事は多大な収入を見込める反面多忙を極めた{{sfn|松木寛|1994|p=202}}{{sfn|安村敏信|2006|p=60-61}}。
 
また、仕事で現代における多彩な各分野の才能を求められ、[[安村敏信]]は江戸城障壁画制作をインテリアデザイナー、調度・衣装などのデザインを工芸デザイナー、[[揮毫]](席画)をパフォーマー、古画の鑑定を鑑定家に例えている{{sfn|安村敏信|2006|p=61}}。
 
== 狩野派の教育 ==
橋本雅邦は明治22年([[1889年]])の『[[国華]]』3号で、彼が入門した木挽町家の画塾での教育を回顧して書き綴った。それによると、授業時間は午前7時から夜10時まで、昼は模写で夜は稽古描きと分けられた。入学は原則として武士の子かつ狩野派の弟子続きの子弟が14歳から15歳で入門。画家の子弟の場合は7歳から8歳で茄子などの簡単な形を描き、惟信が初等教育のために描いた花鳥・山水・人物の手本36枚を収めた「三巻物」を模写、ここまでは初級レベルであり、手慣らしと用筆の練習を学習する(入門者はこれ以上の力を持つ)。画塾入門後も中級レベルである粉本模写から始まり、基本形態の用筆の鍛錬を学ぶ。常信が描いた山水・人物図60枚を収めた巻物5巻「御貸画本」を1年半で模写、続いて常信が描いた花鳥図12枚を半年で模写した後は、雪舟・元信・永徳・[[李龍眠]]・[[顔輝]]・[[夏珪]]・[[馬遠]]など和漢の大家の名画「一枚物」を模写、最終段階である探幽の賢聖障子の模写で上級レベルとなるが、一枚物の修了は能力で個人差があり、10年で終える者があれば20年でも終わらない者がいたという{{sfn|細野正信|1988|p=72}}{{sfn|松木寛|1994|p=207-209}}{{sfn|安村敏信|2006|p=74-75}}。
 
上級レベルは彩色ほか画の全体構成を学び、一枚物を始めて3年で師匠の彩色の手伝いを命ぜられ着色に進み、7年から8年で師家の画号から一字拝領、それから2年後(9年から10年)に師匠の名から一字拝領して卒業となる。順調に進めば入門から卒業まで11年から12年かかる計算になる{{sfn|細野正信|1988|p=72}}{{sfn|安村敏信|2006|p=74-75}}{{sfn|松木寛|1994|p=209}}。雅邦が教育を通じて強調している点は、「臨写を以て始め臨写を以て終わる」とまとめた教育は線描中心の技巧の訓練になり、用筆の熟達のためにはこの方法が得難い効用を上げると書いている。一方、粉本にこだわる余り模倣に終始して創造性に欠けたとの批判もしている{{sfn|細野正信|1988|p=72}}{{sfn|松木寛|1994|p=211-212}}{{sfn|安村敏信|2006|p=75}}。
 
木挽町家以外に鍛冶橋家では守道が自由な教育がしていたとされ、弟子の沖一峨と狩野了承は狩野派以外の画風を学び取り、琳派風や[[沈南蘋|南蘋派]]風の絵を作り上げた。一方、他家の教育については明らかになっていない{{sfn|安村敏信|2006|p=75,78,84-87}}。
 
== 狩野派の画論 ==
狩野派の画論を説いた書に狩野永納の『本朝画史』・狩野安信の『画道要訣』がある。前者は405人の画家小伝上・中・下巻に日本絵画の山水画・人物画・花鳥画の技法・画家を紹介した巻四の「狩野家累世所用画法」があり、彼等に連なるとした狩野派の正統性を主張した書だが、画論とは少し異なる{{sfn|細野正信|1988|p=47-53}}{{sfn|山下裕二|2004|p=79}}。後者は優れた絵画には天才が才能にまかせて描く「質画」と、古典の学習を重ねた末に得る「学画」の二種類があり、どんなに素晴らしい絵でも一代限りの成果で終わってしまう「質画」よりも、古典を通じて後の絵師たちに伝達可能な「学画」の方が勝るとする一方、質画の良さまで否定したわけではなく、「心性の眼を筆の先に徹する」「心画」とも言うべき姿勢をもっとも重視している。ただし、『画道要訣』は出版されておらず、写本で広まった形跡もなく、江戸時代の画論書でも引用されることは殆ど無い事から、中橋狩野家に秘蔵されたと見られ、他の狩野家にすら影響を与えたとは考えづらいことは注意を要する。なお、『画道要訣』の原本は現在不明だが、[[昭和]]4年([[1929年]])に[[狩野忠信]]が筆写した写本が現存する{{sfn|山下裕二|2004|p=79}}{{sfn|細野正信|1988|p=27-32}}{{sfn|安村敏信|2006|p=49}}。
 
== 歴代当主(奥絵師4家) ==
『江戸の狩野派』の系図と『狩野派絵画史』の系図、『別冊太陽 狩野派決定版』の特別付録『決定版狩野派系図』を参照{{#tag:ref|中橋家当主の代数が本によって違いがあり、『江戸の狩野派』では元信の長男宗信を3代目に数え弟の松栄を4代目にしているが、『狩野派絵画史』で宗信は数えられていない。安信の息子狩野時信も扱いに違いが見られ、『江戸の狩野派』では当主に数えられていないが、『狩野派絵画史』では8代目になっている{{sfn|山下裕二|2004|p=付録}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=430}}。|group=*}}{{sfn|山下裕二|2004|p=付録}}{{sfn|武田恒夫|1995|p=429-431}}。
=== 宗家(中橋家) ===
# [[狩野正信]](1434年? - 1530年) - 狩野派の祖
# [[狩野元信]](1476年? - 1559年) - 正信の子
# [[狩野松栄]](1519年 - 1592年) - 元信の三男
# [[狩野永徳]](1543年 - 1590年) - 松栄の長男
# [[狩野光信]](1565年 - 1608年) - 永徳の長男
# [[狩野貞信]](1597年 - 1623年) - 光信の長男
# [[狩野安信]](1613年 - 1685年) - 貞信の従弟、[[狩野孝信]]の三男
# [[狩野主信]](1675年 - 1724年) - 安信の孫、[[狩野時信]]の子
# [[狩野憲信]](1692年 - 1731年) - 主信の長男
# [[狩野英信]](1717年 - 1763年) - 憲信の弟、主信の次男
# [[狩野高信]](1740年 - 1794年) - 英信の長男
# [[狩野泰信]](1767年 - 1798年) - 高信の子
# [[狩野邦信]](1786年 - 1840年) - 鍛冶橋家[[狩野探牧]]の次男
# [[狩野永悳|狩野立信]](1814年 - 1891年) - 永悳、木挽町家[[狩野栄信]]の六男
# [[狩野忠信]](1864年 - ?) - 立信の養子
 
=== 鍛冶橋家 ===
# [[狩野探幽]](1602年 - 1674年) - 狩野孝信の長男
# [[狩野探信 (守政)|狩野探信]](1653年 - 1718年) - 守政、探幽の三男
# [[狩野探船]](1686年 - 1728年) - 探信守政の長男
# [[狩野探常]](1696年 - 1756年) - 探船の弟、探信守政の次男
# [[狩野探林]](1732年 - 1777年) - 探常の長男
# [[狩野探牧]](1762年 - 1832年) - 探林の子
# [[狩野探信 (守道)|狩野探信]](1785年 - 1835年) - 守道、探牧の長男
# [[狩野探淵]](1805年 - 1853年) - 探信守道の子
# [[狩野探原]](1829年 - 1866年) - 探淵の長男
# [[狩野探美]](1840年 - 1893年) - 探原の弟、探淵の次男
# [[狩野探岳]](1859年 - 1922年) - 探美の甥、探原の子
# [[狩野探道]](1890年 - 1948年) - 探岳の子
 
=== 木挽町家 ===
# [[狩野尚信]](1607年 - 1650年) - 狩野孝信の次男
# [[狩野常信]](1636年 - 1713年) - 尚信の子
# [[狩野周信]](1660年 - 1728年) - 常信の長男
# [[狩野古信]](1698年 - 1731年) - 周信の子
# [[狩野玄信]](1716年 - 1731年) - 浜町家[[狩野甫信]]の長男
# [[狩野典信]](1730年 - 1790年) - 古信の子
# [[狩野惟信]](1753年 - 1808年) - 典信の長男
# [[狩野栄信]](1775年 - 1828年) - 惟信の長男
# [[狩野養信]](1796年 - 1846年) - 栄信の長男
# [[狩野雅信]](1823年 - 1880年) - 養信の長男
 
=== 浜町家 ===
# [[狩野岑信]](1662年 - 1708年) - 木挽町家狩野常信の次男
# [[狩野甫信]](1696年 - 1745年) - 岑信の弟、木挽町家狩野常信の三男
# [[狩野幸信]](1717年 - 1770年) - 甫信の次男
# [[狩野昆信]](1747年 - 1792年) - 幸信の子
# [[狩野寛信]](1778年 - 1815年) - 昆信の子
# [[狩野昭信]](? - 1816年) - 寛信の長男
# [[狩野助信]](? - 1831年) - 昭信の弟、寛信の次男
# [[狩野中信]](? - 1871年) - 木挽町家狩野栄信の五男
# [[狩野友信]](1843年 - 1912年) - 中信の子
 
== 画系図 ==
147 ⟶ 242行目:
* 点線は養子。
 
== 出典脚注 ==
{{Reflist脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=*}}
=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
 
== 参考文献 ==
 
=== 書籍 ===
* [[細野正信]]編『日本の美術262 江戸の狩野派』 [[至文堂]]〈日本の美術262〉、1988年3月
* [[松木寛 ]]『御用絵師狩野家の血と力』 [[講談社]]〈[[講談社#ノンフィクション・学芸|講談社選書メチエ]]〉、1994年10月ISBN 978-4-0625-8030-4
* [[武田恒夫]] 『狩野派絵画史』 [[吉川弘文館]]、1995年12月ISBN 978-4-6420-7475-9
* [[山下裕二]]監修 、[[安村敏信 ]]・[[山本英男 ]]・[[山下善也]]執筆 『別冊太陽 狩野派決定版』 [[平凡社]]〈別冊太陽〉、2004年9月ISBN 978-4-5829-2131-1
* 安村敏信 『もっと知りたい狩野派  <small>探幽と江戸狩野派</small> [[東京美術]]、2006年12月ISBN 978-4-8087-0815-3
* [[辻惟雄]]『岩佐又兵衛 <small>浮世絵をつくった男の謎</small>』[[文藝春秋]]〈[[文春新書]]〉、2008年。
* [[松嶋雅人]]『日本の美術534 狩野一信』[[ぎょうせい]]、2010年。
* [[門脇むつみ]]『巨匠 狩野探幽の誕生 <small>江戸初期、将軍も天皇も愛した画家の才能と境遇</small>』[[朝日新聞出版]]([[朝日選書]])、2014年。
 
=== 展覧会図録 ===
*『知られざる「御用絵師の世界」展 第1回江戸開府-元禄 徳川将軍家・御三家・諸大名家の美の系譜』 [[朝日新聞社]]編、1992年
*『知られざる「御用絵師の世界」展 第2回元禄―寛政』 朝日新聞社編、1998年
*『狩野派の三百年』 [[東京都江戸東京博物館]]、1998年
 
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Kano school painters}}
* [[狩野正信桃山文化]]
* [[狩野元信寛永文化]]
* [[狩野永徳彦根屏風]]
* [[狩野山楽瀟湘八景]]
* [[狩野探幽風神雷神図]]
* [[英一蝶花鳥画 (日本)]]
 
{{Normdaten}}